ロミオとジュリエット、原作と覚え書き

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シェイクスピアの戯曲の成立経緯

 民話やギリシア神話物語などの影響からまずイタリアで原型が形成されたらしく、ナポリで1476年に出版されたマスチオ・サレルニターノの小説集の中に類似の粗筋が描かれている。その後1530年にルイジ・ダ・ポルトが書いたものでは舞台がヴェローナに、主人公の名称がロメオとジウリエッタとなり、そのエンディングはロミオが死ぬ直前にジウリエッタが目を覚まして言葉を交すという、(普通ならそうしたくなる)設定だった。マッテオ・バンデルロの「小説集」(1554)の中ではパリスや乳母も登場し、ジュリエットは(シェイクスピアがそうしたように)水薬を飲むようだ。このバンデルロのものがフランス語訳され1559年にピエール・ブアトーによって出版される。彼によってジュリエットが目覚める前にロミオが死んでしまう方針が採用され、このブアトーの作品が元になり海を渡ってイギリスで英語版として出版されたのが、アーサー・ブルックの物語詩「ロミウスとジュリエットの悲しい物語」(1562)と、ウィリアム・ペインターの散文による「ロミオとジュリエッタ」(1567)であり、シェイクスピアはこのうちアーサー・ブルックの作品を直接のネタ本にして戯曲を書き上げた。

ブルック版からのシェイクスピアの変更点

・出会いから死まで半年、結婚してから3ヶ月というルーズな設定を考える暇もなく突き進むほどの日数に短縮。
・年齢を16歳、18歳からジュリエットを14歳すこし前に。(当時の法律上の結婚年齢は男性14歳、女性12歳だったそうだ。)
・大地震を言及。大地震が乳離れと結びついているが、女性の重大な変化とクロス。
・冒頭の大乱闘(ブルックではロミオがティボルトを打つだけ。)
・マキューシオの決闘、続いてロミオの復讐と連鎖の情景を生み出す。
・舞踏会に登場するだけだったマキューシオ、最後だけ登場するパリスを重要なキャラクターに変更。パリスとロミオの決闘も導入。さらに婚約者を劇場内で継続的に織り込むことによって、ジュリエットがパリスと結ばれてキャピュレット家の幸福に至るはずの可能性を最後まで継続することに成功している。コインの後ろ側、パラレルワールドとしてのハッピーエンドの可能性が、翻って僅かのすれ違いによるロミオとジュリエットの悲劇を一層引き立てている。

原作のすばらしい点の覚え書き

・あれほど様々なところで死を予言しておき、ロミオ当人も死ぬために墓場に向かいながら、実際の悲劇と喜劇の分岐点が、最後の最後まで保留されている点は驚異的。僅かに時間をずらせば、二人は共に駆け落ちに成功し、見事なハッピーエンドになる点は、ちょっとした悲劇気取りとは格が違う構成力を持っている。
・そのため喜劇的要素、偽婚礼が4幕最後に置かれた挙げ句、ジュリエットが仮に死んだ後にも、道化芝居が入る。(悲劇の確定は、その後になされる。バランス的には、逆に最後の最後にハッピーエンドに逆転可能な場面構成になっている。)
・同時に喜劇的継続性の中に若者が大勢死ぬという残酷な悲劇を織り込むことによって悲劇の印象を非常に深いものにしている。聴衆の感情の方向を絶えず振動させかえって喜劇の反対側の悲劇を増幅させるような効果。純粋に感情を飽きさせない意味もある。日常的リアリティーに勝った遣り方でもある。
・[冒頭乱闘ー舞踏会ー婚礼ー決闘ー初夜ー偽婚礼と偽葬儀(内部に婚礼祝祭→葬儀的悲壮→道化の祝祭的)ー決闘と自害]
・つまり[乱闘→決闘→葬儀→決闘と自害]という悲劇の線と、[舞踏会→婚礼→初夜→(駆け落ち。これが失敗に終わり劇的な悲劇へと陥る。)]という喜劇の線が、2重構造となってアウトラインを形成している。
・さらにキャピュレット家とモンタギュー家の類似性。近ければ近いほど愛情も憎しみも大きくなるという二重性が内包。
・ロミオとジュリエット効果(Romeo and Juliet effect)について。実際は障壁が発生する前に熱烈な愛情が高まっているので、障壁がさらに愛情を高めたという証拠は戯曲中に存在しないような気がしなくもない。
・ロミオとジュリエットという若者二人が、始めて愛を覚えることによって自立し、大きく変容を遂げるという成長物語まで織り込まれているように思える。その途中で断絶してしまうのが若さゆえの愚かさ、未熟さにあるのか、恋愛の大きさにあるのか、現実世界の無常に過ぎぬのか、はたまた神父の考えが到らなかったのか、シェイクスピアの優れているところは、特定の方針に従わずに、様々な方向から見るたびに読み取り方が違ってくることを熟知して、作劇をおこなっていることである。それにしても神父が自らの薬を確かめたいという誘惑に負けて、最後の悲劇を導くあたりのリアリティーと来たら。(死んだら生き返る薬なんて全然リアルじゃないというのは、劇の見方としては間違っている。)
・ティボルトの亡くなった夜の場面。ロミオとジュリエットの再開と初夜が果たされた後の別れの場面によって情景を開始する作劇センス。これによって最高の効果が得られると熟知している彼の才能に感服したくはならないだろうか。
・2人が別れ別れに亡くなることについて。シェイクスピアが戯曲化を行なう場合、新しい登場人物を加えたり、大きなストーリー上の改編も行なう。例えシェイクスピアがアーサー・ブルック版しか知らずに、ブルック版が別れ別れの最後を向かえているからといって、イタリアで出版されたものには2人が最後に目を合わせる演出もあったし、19世紀にはやはりそのような演出がしばしば行なわれていたそうだ。最近作成された映画も同様の手法を織り込んでいる。すなわち2人の恋物語にスポットを当てれば、もっとも台本作者が考えたくなる演出の筆頭に来る方針である。したがってシェイクスピアも当然そのことは考えただろうし、その上で別々に別れるプロットに積極的な意味を見いだし、戯曲に織り込んだ、つまり彼の戯曲の根幹に関わる重要な場面設定なのだと思われる。これは冒頭のロザラインに恋する軽薄ロミオと共に、ある種のリアリズム、現実性を強調したというよりは、シェイクスピアがロミオとジュリエットの物語をロマンチックな恋物語であるよりも、ギリシア古典悲劇のような宿命の悲劇に仕立てようとしたためではないかと思われる。つまり両家の憎しみの連鎖が、次の世代の子供達を悲劇に追いやっていくというより大きな枠組みが、2人の最後を一層悲惨なものに追いやっているというものだ。さらに小さな歯車の狂いの連鎖というこの劇の本質を見る時、最後のすれ違いは必然のようにも思えてくる。恐らく彼の頭の中にはそのような考えがあったのではないだろうか。(と私は勝手に思いこんでいる。)もう一つ付け加えておくと、この別れ別れのクライマックスは、安易な2人の別れの台詞(メロドラマ風)よりも、何度繰り返しても陳腐化しない、それでいてある種の切なさに訴え掛かる、実際は非常にロマンチックなものであることも指摘しておこう。
・以上はもっとも重要な英語劇としての台詞を抜きにしても、日本語に翻訳してリズムもテンポも無茶苦茶になっても、なお骨格として残るこの戯曲の構成的なすばらしさについて考えたものである。本当は、その台詞にスポットを当てた長論文が、この劇のためには必要なのだと思うけれど、わたしは英語駄目駄目ですから。

作成時覚え書き

・原文ではロミオとジュリエットが初めて言葉を交す部分に、ソネット形式という詩形が使用されている。
・サムソンとグレゴリーと乱闘の様相を、最後の場面にパラレルに配置すると同時に、2人を劇の進行上ベンヴォーリオとマキューシオの位置まで引き上げる。冒頭のサムソンとグレゴリーを最後の場面に回帰する。
・不思議なキャラクター、バルサザーを一言も喋らない無言登場人物として最後まで登場させてみる。
・ティボルトは実の息子に変更。
・第4幕始めに、キャピュレットとジュリエットのパリスの元に行くのです騒動は必要か。
・4幕のサムソンとグレゴリーは、町中ではなく、葬儀の最中に抜け出した設定にしておくと、継続性が保たれ、原作から失われたジュリエットの亡くなるシーンの代用になる。
・ティボルトに対してサムソン、グレゴリーは「様」を付けないこと。
・ティボルトの死により事件の拡大が起こるが、両家の不穏と激突のピークがロミオとジュリエットの死まで継続されないと意味がない。
・原作ジュリエットの薬による死の意味→擬似的な死の場面をラストではなく途中に設定し、同時に生が継続され、真の死の場面であるラストまでの引き延ばしが図られる。
・各幕の時間が均等である必然性は全くない。むしろ、起承転結や劇場効果のピークを考慮に入れて編集する。
・英語と日本語が同じ言葉で1.5倍ぐらい速度が違うということは、日本語を使用する人間は、その異なる速度で事象を把握していると云うことなので、英語の時間に合わせて、言葉を切りつめるだけの行為は意味がない。体感時間は物理的時間とは一致しない。言葉を削ることは、身も蓋もない結果を招く場合がある。
・冒頭ナレーションに、2人の出会いの場面を織り込む(言葉による情景投入の効果)2人の出会い場面をナレーションの代わりに置くより、かえってよさそう。情景代理。
・パリスの決闘の意味。モンタギューとキャピュレットの争いの継続の象徴。(これによって冒頭での争いが最後まで現在形で継続されることの意味は大きい。全体構成の柱の一本になっている。)主人公の死の呼び込み。パリスを主人公とするストーリーの完結。(多重ストーリーの継続性もシェイクスピアが名作たる所以で、これをカットした方が近代的などと言う発想は、貧弱すぎて父ちゃん涙が出てくるぜ。)
・ネタ本の意味について。→むしろ、ギリシア劇と同様、有名なもの、知られた作品を戯曲化するという時代場所による欲求が根本にある。従って、逸脱と忠実のバランスが常に考慮される。元のストーリーは改編されるが、大切に扱われている。変えるものと、変えざるもの。ネタの無い作品など書いても客が来るかという根本的な問題があるかもしれない。いずれにせよ芸術的に深い時代を超えるような作品は常に歴史と伝統の上にオリジナリティーを求めることによって、継続される文化や伝統に根ざす国民(あるいは人間)に我々のアイデンティティ(培われた文化や伝統の先端に立っているという)とその作品の斬新性を同時に思い起こさせる、またはこの混淆のすばらしさを思わせるが故に、永続的価値を見いだすのであって、今までない話を必死に追い求め、安っぽい現代性(あるいは現代的精神)だけで勝負する大量の作品は、一見オリジナルなように見えても、実際は同質的であり、非常に薄っぺらなものにすぎない。すなわち登場人物とその性格に場面設定と事件の変化をこねあげているわりに、喋っている内容はほとんど同じといった有様。
・4幕のサムソンとグレゴリーの場面の持つ意味。直線的にしすぎない。速度の弛緩と事象の複雑化を織り交ぜて。
・パリスの決闘と、サムソン、グレゴリーの登場は、どちらを先にすべきか。
・第1幕のジュリエットの独白は、無くなると決定的に構成を破壊する。作劇でなく安いドラマに陥って、ジュリエットの第1幕の心理的な拠り所が薄くなってしまう。
・謎のボツ台詞「叫んでしまった私が悪いのか、叫ばせた貴方が悪いのか」
・[漢字]
→奴、気付く、近付く、達、宜しく、何、可愛い、止める、などは平仮名の方がよいか。

これは後でハムレットに移動する

・ロンドン市の規定で、上演時間は3時間以内だった。「ハムレット」には当時出版されたものに2つの版があり、初版に対して第2版は分量がずっと多いらしいが、第2版が直接オリジナルの戯曲を参照できたもので、初版が台詞を覚えて書かれたものだとしても、実際の上演では時間を削るために再編集されて上演されたのだから、初版の方が実際の上演を反映しているかもしれないという意見がある。第2版では英語で上演しても4時間を超えてしまうとか。

2007/03/18

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