吹け、潮風よ 「二日目」

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二日目

離島桟橋

 朝が来た。カーテンから差し込んだ日ざしが眩しくて、目覚めるとホテルのベットに私は眠っていた。しばらくはどこかと思ってきょろきょろしながら、あたりを見渡していたが、ようやく八重山に来たんだと気がついて、嬉しくなって起き上がると、それから勢いよくカーテンと窓を開け放った。早朝のまだ涼しい大気が流れ込んで、鳥の声が響いてくる。空はあいにくの曇りだが、日光のちからが強いのか、南国らしく原色の風景を照らし出した。私はベットの方に戻ると、おいてあったインスタントコーヒーをストックして、ポットから朝のコーヒーを注ぎ込んだ。これを片手に窓辺の席に腰を下ろすと、たいへん優雅な心持ちだ。実は一緒の部屋になるはずだったガイドさんは、ホテルの用意したもっと良い部屋に引っ越したので、私は贅沢なツインルームをただ一人で占領していたのである。

「ああ快適だ」

と伸びをした私は、もう一杯コーヒーでも飲んで、いっそ朝風呂にでも入りたい気がしたが、実はそう落ち着いてもいられないのである。出発の用意をして、それからレストランでバイキング形式の朝食を済ませると、もう出発時間が迫ってくる。今日はトライアスロンが開催され、早朝から主要道路が使えなくなるので、その前に石垣港に向かうのだそうだ。さっそくバスに乗り込んだ。

「トライアスロンとは、『トリ』つまり三つの、『アスレチック』、競技という意味であります」

バスの中でガイドさんが解説を始める。彼のテンションは早朝から揺るぎない。

「二十世紀半ばに開始されたこの競技は、水泳と自転車とランニングを、それぞれの大会の定めた距離で駆け抜ける鉄人レースであります。そんな強者のために、日本でも石垣島と宮古島のトライアスロンは、我が国を代表する大会として知れ渡っています。」

 なるほど鉄人にはそれでよいだろう。正太郎君とロードワークでもしていればよかろうが、私たちはおかげさまで、彼らのスタート前にバスを走らせているのである。やっぱり朝は眠いじゃあないか。なんとなく、頭のなかがもこもこする。そのうちバスは海沿いの駐車場に到着した。石垣の繁華街などすこぶるコンパクトなものだ。プシュとドアが開くと、ひとりひとりがのこのこのこのこ降りてゆく。降りたところで足並み揃わず、バスのまわりだけどやらかしている。子供らだけははきはき騒ぐ。私の記述も朝だけにしごく好い加減である。バスを降りながら空を見あげると、あいかわらずの曇り空で、せっかくの西表島の観光も、太陽が閉ざされると美しさも半減するような気がした。ガイドさんはそんなことは気になさらない。

「さて、石垣島飛行場と並ぶ島の拠点であるはずの石垣港。大型フェリーが行き交い、宮古島や沖縄本島、さらには台湾に向けて旅客船や貨物船が出航するはずの心臓部ではありますが、八重山の離島に向かう高速船は、そんな石垣港のターミナルは使用しません。仰々しい心臓部に毎度出向いていたのでは、住人の頻繁な足の代理を果たせないからであります。」

 私たちはバスを後にして、石垣港とは反対の方角、ちょうど市街地に戻るようにして海岸沿いを歩きだした。コンクリートで固められた海岸線が、ここも港の端くれであることを教えてくれる。ガイドさんは歩きながら話を進めた。

「さて、八重山巡りとは何かと問われれば、それはもちろん船であります。そして観光客用の定期便といったら、それはもう離島桟橋をおいてほかにありません。竹富島も、小浜島も、これから向かう西表島も、八重山の島はことごとく、桟橋と海路で結ばれているからです。いわば桟橋が第二のターミナルとなって、八重山の中心地をサポートしているわけで、このターミナルは石垣港からは徒歩で二十分ほどの距離にあります。そしてこの桟橋、石垣以外の島から島へ渡る際にも使用します。なぜなら島々の直通便はなかったり、数が少ないため、一度ここをふるさとみたいに戻りつつ、新たに他の島に旅立つからであります。そんなハブ機能の桟橋を降りて市街地に向かえば、すぐに『七三〇(ななさんまる)交差点』から石垣島一番の繁華街が広がり、いわば桟橋と市街地を一つのパッケージとして、市民活動の心臓部を担っているのであります。」

 やがてその離島桟橋が見え始め、沢山の船で賑わう小港は、コンクリートで仕切られた海の一番奥の一角から、一本の長い桟橋となって突き出している。ガイドさんは歩きながら「七三〇交差点」について話し始めた。

「あの曲がり角をご覧なさい。建物が途切れて車道へ抜けるのが見えるでしょう。あの先が『七三〇交差点』であります。あそこには沖縄本土復帰に関連して、アメリカ式の交通ルールから日本式の交通ルールに変更した、一九七八年七月三〇日を記念して碑(いしぶみ)が置かれているのです。それで『ナナサンマル』と呼ぶのですが、交差点の周囲は石垣島一番の繁華街になっています。」

 小港への曲がり角に来ると、確かに左手へ道が抜けて、すぐ先に車道が走っている。しかし私たちはそこを右側に折れ、折れればすぐ離島桟橋だ。桟橋付近は急に賑わいを呈し、船待つ人々でひしめいている。観光をするには時間が早すぎるのか、観光客より島人(しまんちゅ)のが多く、朝の通勤時間といった様子であった。桟橋の付き出す道路沿いには、横一列に観光センターなどが並んでいる。隅には土産屋もあるようだ。桟橋に到着すると、昨日知り合ったシャツの男が話しかけてきた。

「おはよう、よく眠れたか」

彼は何だか眠そうである。

「珍しく早起きして嬉しかったからコーヒーを飲んだ」

と答えると、

「そうなんだ。俺なんか、慣れない布団だから、金縛りにあって大変だった。死んだばあちゃんが上に乗っかってるんだから、もうあの世かと思ったよ」

と泣き顔で訴えるので、思わず笑ってしまった。

 見ると彼は今日も緑のシャツを着ている。後で聞いたらこの男は、衣服のどこかにグリーンの色彩がないと落ち着かないそうだが、妙な病気があったものだ。ただし原色の緑ではなく、今日も深緑を灰色絵具で薄め抜いたようなシャツを着ている。それはどんな色だと聞かれても困るが、どうしてもというなら、曇り空に瓶ごと透かしたラムネ色、とでも思ってくれればよい。私は昨日から気になっていたことを彼に聞いてみる。

「そういえば、どうして一人でツアーに参加しているんだ」

すると彼は、

「急に風邪に打ちのめされたと、前日に連れから電話があったのだ。おまけに写真を撮ってこいとの仰せだから、俺はひとり旅を決意した」

と説明した。いろいろ聞いてみると、

「実は子供の頃、親に連れられて遊びに来たことがあるんだ。だからもう一度来たかった」

ということだ。シャツは初めてではないらしい。しばらく二人で話していたが、ふと桟橋から海を覗くと、小魚が水槽のメダカのようにひしめいる。ちょっと驚いたので、緑シャツに

「小魚が沢山泳いでいる」

と言ったら、

「黄色い熱帯魚だ。青いのもいる」

と眺めていたが、近くにいたツアー客の若い娘に向かって、

「魚が泳いでるぞ」

と声を掛けていた。背の高い彼女はまだ高校生ぐらいかもしれない、

「なに魚って。本当、あら、こんな所にまで」

と携帯を前に出して、懸命に写真を取り始めた。シャツはもう一声(ひとこえ)かけようとしたが、そこに突然娘の母親が割り込んできて、恐ろしい目でずばりと睨まれたので、シャツは慌てて逃げ帰ってくる。あの中年女は、昨日吊り橋を渡れなかった聖紫花の人だ。

 時間になったので高速船に乗り込むと、室内は椅子で敷き詰められ、窓は開放出来ないようになっている。しかし、船尾の甲板には屋根を付けただけの、モーター音がじかで響くテラスがあって、騒がしくても景観が見渡せるらしい。景色の見たかった私は、

「ちょっと騒がしい方に行ってくる」

と緑シャツから離れて、一人で後部テラスに腰掛けた。見るからに島人(しまんちゅ)たちが何人か腰を下ろしている。最後列には顔に独特の丸みのある二十代頃の女性が座っているが、どこかのスポーツ選手か歌手で見たような輪郭をしている。ああ、沖縄の顔だな、と思ったが、じろじろと眺めるわけにもいかない。

 やがてモーターが唸りをあげ始めた。武者震いみたいに船が立ち上がる。排気音ばかりが激しくてゆっくり港を離脱するが、下に泳ぎ回っていた熱帯魚は大丈夫なのだろうか。恐ろしい鉄の咆哮(ほうこう)を上げる怪物に、飲み込まれたりはしないのだろうか。手すり越しに見あげれば、曇天は分厚く海を覆い隠し、どす黒き地獄の暗雲と、天上の白い雲が争うみたいに、絶えず勢力を競い合っている。それでいて夕立前のように薄暗い。時々空のせめぎ合いから際どく日が射すことがある。船は速力を高める。

 さっきまでは蒸し暑かったが、走り出すと急に寒くなってきた。風が当たって痛いくらいだ。私は腕組みをする。日焼け止めはホテルで塗っておいたから大丈夫だ。これほどの曇天でも、油断すると焼けただれかねないくらい、八重山の日光は威勢がよいのである。やがて船が少しカーブを描く頃、不意に雲の合間から日ざしが直接差し込んできた。はっと思って振り返ったら、疾走する船尾から高く上がるしぶきが一斉に照り輝き、驚くほど青く輝いた海の向こうに、離島桟橋と石垣島の町並みが、鮮やかに映し出されていた。

 すぐに雲に閉ざされる。喜ばしさも朝の暗がりに沈み込む。いよいよ石垣港の防波堤を抜ける頃、船は次第に揺れ始めた。しかし大きな荒波はこない。むかし小学校の頃、親父に海釣りに連れて行かれたときは、船頭で取り落とした握り飯が船尾まで転がって、散歩に飽きて船頭に戻ってくるくらい船が暴れるので、私はとうとう酔ってダウンしてしまった。親父がそれを笑いの種にして、だらしないやと会話の肴(さかな)にしていたのを、今でも怨めしく覚えている。しかしこの程度の揺れなら、酔ったりすることもなさそうだ。サンゴの淺海では波は弱められ、天然防波堤たるリーフの中に入ってしまえば、それもほとんど無くなってしまう。石垣島と西表島の間にも、石西礁湖(せきせいしょうこ)と呼ばれるサンゴ礁群が広がっているから、比較的穏やかな海が続いてくれるのだ。サンゴ礁と島々の織りなす天然の防波堤は、波の怒りを宥めてくれる。しかし外海に出ると、高波が寄せてくるから注意が必要だ。

 そうはいってもなかなかに揺れる。船はスピードを高めつつ高めつつ、深く緑に落ち込むような海を駆け抜ける。時々、海路の目印か何かが、海の中からニョキン出ている。あっちの方を、石垣に戻る高速船が走ってゆく。私はパンフレットを眺めて、自分がどのあたりにいるのかを見つめ直した。

 やがて走りゆく左手に、平たい島が現われた。波打ち際に抱え込むサンゴの海が水色に色調を変え、まるでサンゴ礁のリーフもろともに、島が海に浮かび上がっている印象だ。パンフレットを覗き込むと、どうやらあれは黒島らしい。この島は、ハート型をしていることからハートアイランドとも呼ばれ、人よりも牛の方が多い島だそうだ。

 その時、ふっと雲の合間から太陽が、黒島を斜めから照らし出した。するとどうだろう。海岸線近くの深緑も、遠浅のホワイトブルーの波打ち際も、白くよこたう砂浜も、すべてがみずから光り輝くみたいに、ぱっと明るくなり、ふてくされたみたいな濁りの海に、つかの間理想郷が浮かび上がったような気配だった。驚いて目を見張ると、瞬く間に雲が差し返して、島はくすんだ色に戻されてしまう。不思議な光景。私はまた大和歌を思い浮かべてみる。

天上の
  片すみひとひら 舞い落ちて
 けだし黒島 神のふるさと

 海原(うなはら)は冴えない顔色をしていた。しかもいじけてどす黒い。不思議な黒島を振り返ったり、到着時間を気にして時計を眺めたり、モーターから上がる水しぶきや、船の作る波の余韻をおかしく思って、風を切りながら走って行くと、やがて前方に大きな島が見え始めた。あれが西表島だ。島はどんどん近づいて、ほとんど大陸かと思われる頃、港を示す赤い鳥居のようなものが現われた。私たちが西表島の南東側にある大原港に着いたのは、石垣島の桟橋から四十五分ぐらいたってからのことだった。

西表島

 船からくだり、赤い鳥居をくぐり、小さな建物を抜ければ、そこはヤマネコの都、西表島だ。この島は、面積約二百八十九平方キロメートルのうち約九割が亜熱帯の原生林に覆われている。そして国の特別天然記念物に指定されているイリオモテヤマネコや、カンムリワシを筆頭に、様々な変わりだね動植物たちの豊庫であり、島半分が西表国立公園に指定されているほどだ。島には比較的周辺部にそびえる古見(こみ)岳、テドウ山、御座(ござ)岳という標高四百メートル台の山々があり、海水上昇期にも完全水没しなかったことが、独自の生態系を生み出したのだという。しかし人間の居住には厳しい。以前はマラリアが蔓延(まんえん)して定住困難だったが、八重山の風土病とまで呼ばれたマラリアは、一九六二年ようやく全島で撲滅(ぼくめつ)され、人を寄せ付ける島となった。島の東側半周は道路が整備され、最近では観光客の増加に伴い、観光業を中心に活性化が図られている。

 そんな人々の生活するエリアは、私たちが辿り着いた大原港を拠点とする東部地域と、島北側の船浦(ふなうら)港・上原港を拠点とする西部地区に分かれている。二つのエリアは島を半周する道路で結ばれてはいるが、三十キロも離れているので、石垣島からはそれぞれの港に高速船が出るのだそうだ。路線バスももちろんあって、大原と白浜の約五十キロを一時間三十分で結んでいるが、その島を周るルートも残る三分の一行程は全く開拓されていないため、一周することは出来ない。

 ついでにもう少し観光パンフレットを片手に紹介を続けると、この島ではカヌー・トレッキング・シュノーケリングなどが楽しめ、見学場所も宿泊施設や土産屋も圧倒的に西部地区に多い。名所としてピナイサーラの滝、星砂の浜などがあり、浦内(うらうち)川を逆上るトレッキングではカンピレーの滝、マリュドゥの滝などが楽しめる。一方私たちの訪れた大原拠点の東部地区では、これから向かう仲間川遊覧船観光や、由布島観光が楽しめるので、さっそく出かけることにしよう。

仲間川遊覧ボート

 乗り込んでひと眠りする間もなく、バスはもう小さな船着き場に到着した。目の前には仲間川(なかまがわ)の河口が広がり、海の方には小さなボートが浮かんでいる。ちょうど川と海の境目に位置するのだろう、海の反対側には仲間大橋が、高々と車道を掲(かか)げている。私たちも仲間川観光が終わったら、あの橋を越えて由布島(ゆぶじま)に向かうはずだ。

 屋根付きの平たい遊覧ボートに乗り込むと、船頭は出発時間になってもまだ来ない。ガイドさんが

「どうしたのでありましょう」

と心配すると、駐車場に滑り込んだ乗用車がバスの隣に横付けして、四十歳ぐらいの男が

「申し訳ない」

と走り込んできた。ガイドさんは皆に向かって話し出す。

「どうか皆さん聞いて下さい、このように沖縄の人々は時間にルーズで、少々の遅れなどものともしないのであります。沖縄県民、すなわちウチナーの時間感覚を表す言葉にウチナータイムというものがありますが、沖縄では何かある度にウチナータイム、ウチナータイムと言って誤魔化して、十分や十五分の遅れは勘定に入れない定めなのであります。なぜといって、沖縄にはテーゲー文化という、非常にゆとりを持った伝統が今に息づき、このテーゲーとはつまり大概とか適当の意味でありますが、なんでもテーゲー、いつでもテーゲー、あなたも私も皆テーゲーと言って、あらゆることを有耶無耶(うやむや)のうちに済ましてしまうのです」

と説明し始めたので、船頭は大いに慌てて、

「馬鹿言っちゃいけないよ。観光業は時間厳守だよ。皆の乗るのが早すぎさあ」

と独特のイントネーションで言い訳をしながら運転席に乗り込んだ、ガイドさんはにやにや笑っている。どうやら二人は懇意であるらしい。

 東京では馬鹿みたいに一分一秒を振り分けて、あらゆるスケジュールを秒単位で刻み込む。すこし遅れると野人のようにヤジを飛ばす。人間が密集しすぎると、社会もゆとりをなくして、ひたすらシステム化されて行くのかもしれない。そして自ら進んで組み込まれた人間は、会話で社会を形成することが出来なくなって、ますます獣に近づいた。ひとことで片づくはずの問題を、無言のうちにこじれさせ、あげくの果てに喚き散らす。自然から離れれば離れるほど、人口が過密になれば過密になるほど、人間は動物に帰っていくのかも知れない。あの男が居酒屋で話していたことを思い出して、ちょっと不機嫌になる。うつらうつらと考えていると、やがてモーターが唸り船は威勢良く岸を離れた。私ははっとして愉快に引き戻される。

 ボートは大体三十人が乗れるぐらい。運転手が案内役を兼ねて、ポイントごとに船を止め、丁寧な解説をしてくれる。運転手はもう沖縄訛りは見せず、標準語のイントネーションで解説を始めた。彼の説明を元に、後から加えた情報を加味すると、大概(てーげー)次のようになる。もちろん運転手はこんな口調では説明はしなかったのだが……。

「マングローブだ。諸君、マングローブを知っているか。ニューグローブでもグローブ座でもない。仲間川はマングローブの川である。マングローブの川は汽水域(きすいいき)の川である。それじゃあ汽水域とは何さと問われれば、すなわち潮満ち来れば海逆上り、潮引きゆけば河口まで淡水が押し寄せる、そんな淡水と海水が葛藤する領域のことを、我々は汽水域というのである。潮が満ちれば、川の水位が上がる、上がれば川岸の低地は水没する。潮が引ければ、水位が下がる、下がれば河口の浅瀬がひょっこり姿を現わす。熱帯・亜熱帯地域では、干潟(ひがた)と水面(みなも)を繰り返し、川の塩分濃度も変化するこの汽水域に、特徴的な木々が茂ることがある。このような木の総称のことをマングローブと呼ぶのである。決してマングローブという名称の木がある訳ではないから、誤解して貰っては困る。
 さて、このマングローブだが、当然塩に対する耐性を持っている。そして、酸素の少ない泥に根を張って生き抜くための、呼吸根(こきゅうこん)と呼ばれる地表にニョキン出た根っこを持っている。代表選手の一つにヒルギ科の植物があり、日本ではオヒルギ・メヒルギ・ヤエヤマヒルギの三種類が生息するが、もちろん仲間川ではオヒルギ・メヒルギと共に、ヤエヤマヒルギの姿を見ることが出来るのだ。」

 付け加えるならば、中でもマングローブ入門の木と呼べるオヒルギは、五月から六月にかけ花を咲かせ、花を覆うガクのところが赤く染まって、まるで赤花のように見えるため、アカバナヒルギと呼んだりもするようだ。ガクを含めても花は小さいものだから、まるで赤い染みが点々として、深緑の中にインクを落とすように咲くのだろう。ただし沖縄で普通「アカバナー」と言ったらハイビスカスを指すのだから、ヒルギと答えてはいけない。最後に運転手は、

「このマングローブ、波当たりを嫌い、あまり波にさらされると根が腐ってしまいます。そして仲間川のマングローブもまた、最近の観光ブームでボートの数が増え、我々の出す波によって被害を被っているのです。観光と自然保護の両立は難しく、片付かない物語の連続です」

と付け加えた。なるほど前方には別の観光ボートが走っているし、もう二度ほど帰りのボートとすれ違った。最近では小さなカヌーで漕ぎ出すツアーも盛んらしく、ところどころにカヌーがぷかぷか浮いている。どうも人間が増えると、観光事業にとっては幸いだが、自然にとっては新しい悩みが加わるだけのようだ。

人知れず
  ささやく夜ふけに 降る雨は
    マングローブの なみだなのかな

 マングローブの話はまだ終わらない。

「マングローブの子供は、まだ果実が枝に付いているうちに、種から根が生えてきます。そしてある程度成長すると、根っこ付きの新芽だけが果実を離れ、ぽとりと落ちて海流に漂って、いつしか泥に漂着して根を下ろすのです」

運転手が説明していると、年のいったじいさんが、

「あそこには別のマングローブが見られるようだが、マングローブといえども、河口に近いものと遠いものとは、植生が違うのではないか」

と言い出した。運転手が帯状分布について説明を始める。あんまり細かいのでじいさん以外は誰も聞いちゃあいなかった。

「もちろんです。一般に、海に近いあたりには、クマツヅラ科のヒルギダマシなどが植生し、すぐに沢山の支柱根(しちゅうこん)を伸ばすヤエヤマヒルギや、六月から七月頃白い花を咲かせるメヒルギに変わります。このメヒルギは、地上に張り出した根っこを板のように広げる、板根(ばんこん)を特徴としていますが、さらに分布はオヒルギへと変わり、ようやく陸の植生に近づく頃、サガリバナ(下がり花)や、サキシマスオウノキが群生しているのです。」

 じいさんはしきりに頷いているが、本当に頭に入っているかどうだか、相当に怪しいものである。そばに坐っていたガイドさんが、名前の出て来たサガリバナについて小声で説明してくれた。

 それによると、サガリバナ科のサガリバナは非常にロマンチックな木であるらしい。またの名を沢藤(さわふじ)といい、沖縄ではキーフジとも呼ぶが、四メートルから十メートルにも達する沢藤が花を開くとき、夏の夕べを待って花火のように咲き誇り、白や薄いピンクの細い筋が束になって、葉の間に美しく垂れ下がる。甘く色づく香りは満ちあふれ、大気さえも染まるかと思われる頃、花は星明かりの下で、ダンスを踊るのかも知れない。夏のみじかきこの夜さ一夜を踊りつくして、やがて空さえ白む頃、サガリバナは霊力を失って、頬伝う涙のように、はらりはらりと落ちていく。落ちゆく先が水面(みなも)なら、どこまでもどこまでも漂って、幾千の花びらが、儚(はかな)くもたゆたうみたいにして、流れる先は海へと帰ってゆくのだろう。そんな様子からサガリバナと呼ばれるようになったそうだ。残念ながら今は四月で、太陽は頭の上にある。青々と茂る木を前に説明されても、花の面影は浮かばなかった。

さがりばな
  宴に咲き来る 白拍子
 恋もいのちも 一夜かぎりを

サキシマスオウノキ

 私たちのボートはさらに仲間川を登り、サキシマスオウノキが群生している地点で、船着き場に到着した。運転手はボートから降りず、ガイドさんに従って板を敷いた歩道を進むと、鬱蒼(うっそう)と茂る森林の奥に、樹齢四百年の巨大サキシマスオウノキが、周囲の木々を圧倒するようにそびえている。高さは十八メートルもあるそうだ。このサキシマスオウノキというのは、奄美より南方に自生する常緑高木だが、巨大な板根を作る特徴があり、地表に現れた根がエラを張るようにして裾を伸ばし、波打つひだを形成する。日本最大とされる太い幹からは、小さな小屋でも建てられそうな板根が張り出していた。ただし非常に波打っているのだから、さぞかしいびつな小屋が出来るかもしれない。周辺の植物も見慣れない亜熱帯の植生で、ここが日本かと思われる不思議な光景に、しばらく我を忘れていた。すると緑シャツが寄って来て、

「板に触ってみろ」

と言う。何だろう。私が板根をぺたぺた叩いていると、そばにいたガイドさんが待っていたように、

「板根に触ると晩婚になるという言い伝えがあります」

と説明した。私はまんまと二人の策略に引っかかってしまったのだ。緑シャツもぺたぺたと触って宣言を下されたそうだが、このやろう、結婚が遅れたらどうするつもりだ。

「この板根はかつて、サバニと呼ばれるカヌーのような船の舵や、建築材として使われていました」

すでに妻も子もあるガイドさんはまったく気にしない。とっとと自分の解説に移ってしまった。結構マイペースである。

「それからこの木から取れる紅色の汁は、ちょうど赤染料として使用するマメ科のスオウ(蘇芳)の代理を務めるものですから、それで『先島のスオウの木』という名称が付けられたのであります。」

 私はついでにガイドさんにシャッターを切って貰い、緑シャツと一緒に大木の記念撮影を済ませた。それからシャツは、交互に撮影していた若い二人組の女性に気付くと、呼ばれもしないのに声を掛けて、

「二人並んで記念撮影したほうがいいぞ」

とシャッターを押してやった。二人は、

「ありがとう」

といってカメラの前で笑っている。ときおり目につく彼女たちは、私と同じぐらいの背丈でほっそりした方がベレー帽を被り、少し背は低いがしっかりしてそうな方が眼鏡を掛けている。そしていつもくっついて歩いている。

 あちらでは、成人の息子と娘を連れた四人家族が、皆で板根を叩き合っている。あの若い二人も、きっと結婚が遅れるに違いない。五人家族の子供三人組にいたっては、板根にしがみついて互いによじ登ろうとして、一人が転げ落ちて泣き出してしまった。まだ若いお父さんは、心配するよりげらげらと笑っている。こうして本来静かなはずの森林は、ひとしきり賑やかになった。

 ボートに戻る途中地面を見ると、泥が灰色粘土になっている。どんな触感だろうと思って地面に手を伸ばすと、突然岩陰から蟹が飛び出したので、私は思わず「あっ」と叫んでしまった。そばにいた眼鏡とベレー帽が

「もう逃げちゃった」

「蟹さん蟹さんどこどこ行くの」

と言った後で、突然二人揃って

「人も流れてどこどこ行くの」

と歌い出して、楽しそうに笑っている。緑シャツは蟹を追い掛けて行ったが、あっという間に蟹は消えてしまった。

 帰りのボートは観光案内も済んだので、マングローブの森を見つめながら、静かに川をくだる。雲は激しく流れて、時々光が射し込む。亜熱帯地方の空は刻々と変化するらしい。観光ボートとすれ違った時に振り向いたら、こちらのボートの澪とあちらのボートの澪が互いにぶつかって、雲の合間から日光が、波の喧嘩をキラキラと際だたせた。波は扇のように広がって、ゆっくりゆっくりマングローブの林に打ち寄せたり、小さな中州に乗り上げたりもする。この美しい波がマングローブを枯らせようとしているとは、なかなか想像できない。その中州では、手こぎボートから下りた中年夫婦が、私たちの方をぼんやり見詰めていた。雄大な自然の中で、すっかり惚けてしまったのだろう。

 ボートの運転手が、あのような河口付近の干潟では、ミナミコメツキガニという一センチメートルほどの蟹が群れを作って、人が近づくと慌てふためきながら砂に潜っていく様子が非常に滑稽だと教えてくれた。緑シャツが、

「なるほどコメツキガニ」

と変な納得の仕方をするので、私は思わず笑ってしまった。こうして再び河口の橋をくぐった一行は、運転手がテーゲーに遅刻したボートの発着所に戻って来たのであるが、時間はまだまだ午前中だ。

デイゴの花

 バスに乗り込む私たちをボートの運転手が見送る。最後に乗るガイドさんと、何か挨拶を交して、走り出す車に手を振ってくれた。さらば運転手、私はテーゲーという言葉を決して忘れないだろう。すこし走ると「もともり工房」という小さなお土産屋さんに立ち寄るそうだ。

「十五分ほどしましたら、バスにお戻りください」

ガイドさんがそう言い終わると、さっきの二人娘が真っ先に扉を駆け下りた。店を覗いてみたら、本物のイリオモテヤマネコの石こう手形と、手形キーホルダーというものが五百円で売られている。二人娘はそれを手にしてはしゃいでいた。「やまねこ、やまねこ」と声がする。あちらではシャツも土産を物色している。しかし私はまだ土産を買う気はないので、時間まで近くを散歩することにした。

 そっと店を出てみると、人も車も通らない車道が狭そうに折れ曲がって、ちょうどこの辺りから大原の居住区が広がっているようだ。この居住地域もしばらく歩けば、深緑に帰るほどの小さな集落で、食堂や民宿などが大原港を拠点に形成されるのだろう。ぶらぶら歩いていると高木(こうぼく)が一本、仰ぎ見れば赤い花を幾つも咲かせている。これはポピュラーソング「島唄」にも歌われるデイゴ(梯梧)の木だ。有名な歌だから知っている人も多いだろう。

「デイゴの花が咲き、
   風を呼び嵐が来た、
  繰り返す悲しみは、
    島渡る波のよう」

と歌われるあの木は、前に沖縄本島を観光したとき見かけたことがある。英語ではエリスリナと呼び、一七〇〇年頃海を渡って沖縄に帰化したらしいこのインド原産の植物は、エンドウやインゲンと同じマメ科に所属する落葉樹で、一つのもとから三枚の葉っぱを付ける味な奴だ。落葉樹とはいってもすべての葉が落ちることはなく、ちょうど今の時季、四月始めから五月にかけて、茂る葉っぱの先に、葉がそのまま赤く変化したような、美しい花が咲き始め、ピーク時にはまさに咲き乱れて、緑葉の色を奪う赤に覆われたみたいに、染まったデイゴの木がよく海岸線の街路樹として植えられていて、この美しい花は、沖縄県の県花にも指定されている。この木を素材にして琉球漆器が作られ、この花がいつもより咲くと、台風が多く来るという言い伝えがあり、「デイゴにはあらしを惑わす赤きべに」と詠まれるくらい、デイゴは嵐を呼ぶ花でもあるようだ。ようやく晴れ間の見える空の下、真っ赤な花は鮮やかに、鳥たちの囀りは軽やかに、人けのない集落はのどかに広がっている。私は小声で島唄を口ずさんでみたが、この歌は

「ウージの森であなたと出会い」

と続き、そういえばウージもまた沖縄を代表するサトウキビの方言であった。そしてサトウキビは成長すると人を遮る茂みとなって、そのウージが風に揺られる様子は、「サトウキビ畑」で歌われるように、

「ざわわざわわ」

と音を立てるのだろう。だいぶ蒸し暑くなってきた。バスに乗り込むと次の目的地は、由布島である。

由布島へ

 ボートより仰いだ橋を渡り、仲間川を越えたバスは、閑散とした海沿いを走る。すれ違う車もないが、右手遠くには打ち寄せる波が、左手にはジャングルが広がっている。バスの中ではガイドさんが、イリオモテヤマネコについて説明するが、隣りの中年夫婦は聞く耳持たず、幸せそうにぐっすり居眠りしている。彼らの人生はどんなものだったのか、ガイドさんは知るよしもない。

「でありますから、鳩ほどの大きさで、焦げた茶色の体格に目元周りと足を黄色く染め、白い斑点まで携えた強者カンムリワシが、例え八重山中に百羽に満たないとしても、やはり同じ特別天然記念物に指定されているイリオモテヤマネコこそ、西表島だけのまぼろし動物といえるわけです。昔から『ヤママヤー』、つまり『山の猫』などと呼ばれ知られていたこのヤマネコ。正式に確認されたのは一九六五年、動物作家の戸川幸夫(とがわゆきお)さんが、骨と毛皮を発見した時だとされ、六七年にはついにヤマネコが生け捕りにされて、学会は騒然となったのであります。『ヤママヤー、ヤママヤー』学者たちは立ち上っては驚愕したのであります。その後の調査で、東南アジアに住んでいるベンガルヤマネコの亜種と考えられ、人間に遜(へりくだ)らない野生の猫としては、ツシマヤマネコと並ぶ貴重な存在だということが分かってきました。まあ、美味しそうにふくれた焦げ茶色の猫と思えば、当らずしも遠からず。先の丸まった耳をお持ちになり、キョトンとしたつぶらな瞳の奥に、素っ頓狂な愛くるしさを宿したそのお姿は、まるで西表猫丸君(ねこまるぎみ)とでも命名したくなるほどです。残念ながら百匹に満たないこの猫丸君は、整備された車道の影響で時々交通事故に遭い、飛び出してお亡くなったり、病院に担ぎ込まれたりして、その度に地元新聞に大きく報じられるのであります。すなわち今日保護のために、ヤマネコ保護センターが機能しており、研究と保護が島ぐるみ、いや沖縄ぐるみで行なわれていると言ってもよいでしょう。しかしながら皆さん、そんなにきょろきょろして、森の奥を見回したからといって、滅多にあえるものではありませんから、おみやげの模型や写真、手形キーホルダーでも購入して、こんな奴もいたと思い出してやって下さい」

すると後ろの席では例の二人娘が、

「猫丸君に逢いたい」

「お土産の足あとだけじゃ嫌」

と言いだし、前の方では還暦を超えたじいさんが、

「わしゃ昔ヤマネコを見たことがある」

と勢いづいている。まさかとは思ったが、ヤマネコと聞くと誰もが心躍るらしかった。バスは制限速度で走るが渋滞がないので、時間の経った記憶もなく由布島が近づいてくる。話もおのずから次の観光に変わって来るはずだ。

「これから参ります由布島は、美原(みはら)という場所で降りまして、まったくの浅瀬を四百メートルほど越えた所にある、ほとんど陸続きみたいな離れ小島であります。そして仲間川遊覧と並ぶ、大原側の観光名所であります。ここでは観光のため水牛に引かせた車で、人の足よりも遅く海を越えるのであります。この水牛は昭和の初め、台湾の開拓移民と共に八重山にもたらされ、由布島の水牛は皆々大五郎と花子という夫婦の子孫たちであり、今日では観光に使用されておりますが、昔の水牛は農耕の必需品として、一家を支える重要な家畜殿でありました。水牛二頭で家が一軒買えるほどであったのです。それでは間もなく美原に着きますから、各自手荷物に注意して、まず水牛と一緒に記念写真を撮り、それからいよいよ由布島に渡って、昼食を取ることにしましょう。」

水牛車

 言い終わる間もなく、バスは駐車場に横付けし、マングローブの林に逢う。岸を抜けて、行くこと数十歩、中(うち)に雑樹なし。芳草鮮美(ほうそうせんび)落英繽紛(らくえいひんぷん)たり。などと陶淵明の「桃源郷」と戯れてしまったが、これは間違いだった。芳草は確かに鮮やかだが、雑樹はあったし、散った花びらなど影も形も見あたらない。駐車場に茂る樹木の途切れから海に抜けると、砂浜には何頭かの水牛と、彼らの引く水牛車がのどかに並んでいた。目的もなく放置されている風情である。ガイドさんの指示に従って、気合いの入らない水牛と写真を撮ると、何だかこっちまで眠くなってくるから不思議だ。三人の子供たちは水牛に興味を示したが、おっかなくてなかなか近づけない。綱を持ったおじさんが背中をさすって見せたので、ようやく水牛をなでることが出来た。周囲を見渡せば、人けのしない自然の中で、ちいちいと小鳥が囀って、サンゴ礁に柔らかくされた波が、湖ほどの穏やかさで寄せている。雲は大分軽くなり、時々光が照らすたび、原色の大地を呼び起こす。潮風は優しく歌うみたいに、私たちの合間を抜けていく。いずこの世界に紛れ込んだかと不可思議な心持ちで、十二、三人くらいが乗れる水牛車に乗り込んだ。

 やがてのっそり動き出した車が、浅瀬の中に入っていく。車輪はぎしりと音を立て、水牛の足音がぴしゃりと鳴る。水牛の足音がぴしゃりと鳴って、車輪がぎしりと音を立てる。ぎしりぴしゃり、ぴしゃりぎしり、言葉に書けばリズムが生まれるが、あまりゆっくりなのでテンポが掴めないほどだった。私は最後列に腰を下ろし、振り返って後続の水牛を見て笑っていた。彼はどんな気合いが入った時でも、きっとぼんやりしている。水牛を操りながら一応ムチを当てるオジィが、地元言葉の混じった説明で由布島について語りだした。オジィにはついに標準語は馴染まなかったらしい。人影のまるでない大自然に、水牛車の中だけ人声が響くのは奇妙だ。長い歳月耳を煩って、人の声さえ忘れた頃に、不意に包帯を外して肉声を聞いたみたいな、あえてはっとする印象を与えるようだった。

 東京では右を見ても左を見ても人の顔が広がっている。声が四方から押し寄せる。私はまた彼の言葉を思い出した。彼は

「他のどんな大都市でもあそこまで人は群がらない。どんな家畜だってあそこまで密集して育てたら、ストレスで死んでしまうはずだ。だから心から楽しそうに闊歩している人がいない。絶えず何かを目指して足を繰り出すから、集団にゆとりがない。小屋の享楽が世界と思えるほどの若者だけが、下品な笑い声を上げている」

そう言って、その下品なげらげら笑いを真似て見せたのだった。しかし、彼は何故都会を離れなかったのだろう。

どこに行っても同じだから?

単一精神国家の末路?

彼をここに連れてきたら、今度は沖縄の悪口をはき続けるのだろうか。

 馬鹿馬鹿しい。頭を振ってから車輪を見下ろすと、砂埃(すなぼこり)すら立てずに澄んだ水のまま、後ろに水底轍(みなそこわだち)が現われる。ツアー客は二台の水牛車に分乗しているのだが、あちらが動き出したかと思えば、こちらは留まって、こちらが前に進めば、あちらは歩みを止めて、とうとうお互申し合わせたように立ち止まり、なかなか目的地には到着しない。場合によっては、留まるだけでは気が済まず、その場に大きな排泄物を置き土産にして、すっきりして足を繰り出すこともしばしばだ。その置き土産は、プランクトンや小動物が分解して、最後には粒子となって海へと帰るのだろう。サンゴ礁の海では、人間の排泄物でさえ、海の中ですぐさま食物として解体されるそうである。

 不意に自動車の響きが聞えてきた。排泄など下品な事を考えたため、俗界に呼び戻されたかと心配したが、左手に電信柱が由布島まで伸びていて、文明のエネルギーを島に伝える辺りを、トラックが海に浸かりながら走り抜けていく。ますます奇妙なことだ。後ろから水しぶきが跳ね輝いて、水牛を軽く追い越して、もう対岸に到着してしまった。美原との間は満潮時でさえ水深が一メートルに満たず、普段は足の膝ほどもない浅瀬が、トラックの通過を許しているらしい。笑い声がしたので反対側を向くと、三人ぐらいの若い男たちが、半ズボンのまま海の中を歩いて渡っている。後から来た彼らも、やがて水牛を追い越していった。私はまたなんとなく、和歌を詠んでみたくなる。

歩みさえ ほんのひと間よ
  水牛の 由布にわたりの
 歌よ響けよ

 そう、気が付けば、いつの間にか案内役のオジィが、三線(さんしん)という三味線みたいな楽器を持ち出して、ポロンポロンと弾(はじ)きながら、誰もが知っていそうな沖縄のポピュラーソングを、沖縄方言で歌い始めたものである。これは、さっきあの二人娘が口ずさんでいた「花」だ。しかし方言がきついので、まるで異国情緒じみている。傘に覆われた水牛車の屋根裏には、沢山の沖縄の唄が書かれた張り紙がしてあった。

 オジィの奏でる三線は、中国の三弦(サンシェン)が十四世紀頃琉球に渡ったもので、三つの弦を持ち、ニシキヘビの皮を張り、爪(チミ)を指に夾んで演奏する楽器として定着したそうだ。面白いことにこれが十六世紀中頃、大阪の境(さかい)に伝わると、ニシキヘビの代わりに猫や犬の皮が張られ、琵琶を弾く時のバチが流用されて、本土の三味線になったのだという。その乾いたような音は、遠い自然の響きに人工的な張りを与え、音楽をいっそう際だたせる。だんだん、不思議の世界に迷い込むようで、唄が最後まで終わる頃、ようやく水牛は由布島に上陸した。

由布島(ゆふじま)

 由布島、それは堆積した砂だけで形成された、海抜一.五メートル、周囲わずか二.一五キロメートルとに過ぎない小島である。海抜に合わせて一.五メートルまでは掘れば真水が、しかしそれ以上は海水が湧き出すそうで、昔居住していた島人たちは、美原に渡り水田を耕しては島に帰ってくる生活を続け、家ごとに水牛を持ち、島に学校があるほどの集落があったが、一九六九年の台風で壊滅状態に陥ってしまい、住民の悉くが島を離れてしまった。そんな中で一軒だけ、西表正治(いりおもてせいじ)さんの夫婦が島に留まって、沢山の木や花を植え、ついには亜熱帯植物園の名所となりましたと、ガイドさんが説明してくれた。現在は観光関係者など一五人が島で生活しているそうだ。

 美原に面する西側にはマングローブが茂り、水牛乗場近くにもマヤプシキの姿を見ることが出来る。このマヤプシキは、自分の回りに筍根(じゅんこん)と呼ばれる沢山の呼吸根を、細い筍(たけのこ)のように従わせるマングローブであり、イチジクのような実を付け、その種子が「猫のへそ」のように見えることから、マヤプシキという名称が生まれたとも、うんにゃそりゃ違うともいわれている。一方島の東側には、砂浜のビーチが広がっていて、すぐ向こうには小浜島が浮かんでいるはずだ。

 水牛から降りて島を歩くとすぐ、土産屋と食堂を兼ねた施設に到着する。昼食を取るための食堂に入ったが、私たちの他に客はいなかった。テーブルには人数分の重箱が並んでいる。お茶は各自入れるように、机にポットが置かれている。私はガイドさんと緑シャツと同じ席に着いて、さっそく蓋を開けてみた。こてこての観光ツアーだから、出てくる料理もこてこての観光客メニュー。沖縄料理の定番が並んでいるので、ついでに写真を取っておこう。

 重箱に入った料理を羅列してみると、古代米である黒紫米(こくしまい)のご飯に、汁物にアーサ汁が付き、おかずには沖縄の県魚になっているグルクン(和名タカサゴ)の唐揚げ、八重山かまぼこ、もずくの天ぷら、ラフテーと呼ばれる豚の三枚肉、ミミガーと呼ばれる豚の耳の皮、さらにダチョウの焼き肉に、ピーナツから作ったジーマミー豆腐までも並べられ、添え物としてパパイヤの漬け物と、これだけでご飯三杯はいけるという油みそ(アンダーミシュ)が付けられていたが、これは要するに沖縄特産の味付け味噌である。他にサラダやフルーツが付いて沖縄を堪能していただくという重箱は、量もちょうど良くなかなか美味しかった。特にラフテーは、焼いた豚の三枚肉を砂糖、しょうゆ、泡盛で茹でた、沖縄版角煮のようなもので、非常に柔らかく肉の旨みが引き出されている。また県魚のグルクンは淡泊な白身魚に感じられたが、これを唐揚げにして骨までかぶりつくのは、沖縄っ子にはたまらない絶品料理らしく、一方では刺身にしても美味しいそうだ。

 隣りにいた緑シャツに

「なんでグルクンなんて変わった名前なんだろう」

と聞いたら、

「それはぐるぐるぐるっと海の中を周りながら、クゥンクゥンと犬のように付き従うからだ」

と断言されてしまった。こんなことなら聞かなきゃ良かった。しかし前に座ったガイドさんが、

「これがグルクンの写真です」

と言って自分のデジカメを操作して、グルクンをディスプレイしてくれた。カメラを借りると、赤い色した熱帯魚風味の魚が表示されている。

「こんな魚なんですか」

と驚くと、緑シャツも

「慣れないと毒々しいな」

とカメラを覗きこんだ。ガイドさんは首を振って、

「いいえ毒どころではありません。グルクンは綺麗な魂の持ち主なのです」

と言い出した。

「ある時サンゴ礁に照りつける夕日があまりにも美しいので、彼は恋い焦がれ近づきすぎて、全身に紅色が移ってしまったのであります。一度赤くなったグルクンは、もう二度と海には戻れませんでした。ですからこの魚は、海の中では青く輝き、地上に出ると赤く染まるのであります。」

 はたして本当の話だろうか。私はグルクンのために「夕紅魚(ゆうべにうお)」というニックネームと、シューマンのピアノ曲「夕べに」をテーマソングとして捧げよう。やがて彼が店頭に並ぶときには、スピーカーから「夕べに」がそっと流れるに違いない。デジカメに表示されたグルクンは、構ってくれるなと困った顔をしているようだった。

戻られぬ
   夕べの恋に 染まりゆく
 夕紅魚よ 果てるときまで

 のんびり食事を楽しんだ後は、一時間くらい自由時間があるので、ガイドさんと話をしている緑シャツを置き去りに、一人で勝手に歩き回ることにした。もっとも島は狭くほとんどツアー客しかいないので、しばしば誰かに顔を合わせながら、亜熱帯植物園の中を闊歩(かっぽ)すると、日の遮られた散策路は少しくヒンヤリとして、見慣れぬ植物ごとにはプレートが付けられている。しばらくふらついていると、小さな崩れかけの小屋が見えてきた。これは多くの村民が暮らしていた頃の学校だ。今はもうただの廃墟と化し、島は植物・動物園の様相を呈して、かつて人々の集住した所とは思えない。小さな学校に別れを告げると、樹木の裂け目から光が差し込み、向こうには原色際だつ海が広がっていた。

 渚に近づくと、サンゴ礁特有のエメラルドグリーンとコバルトブルーが溶け合うかなたに、果てなき水平線が伸びている。紫外線じみた太陽は薄く残る雲を突き抜け、反射する波のひだがキラキラと輝く。島渡る風はくすぐったくて、見あげたその左には、裾の広い島が横たわっていた。あれは……。

 さっそく近くの岩場に腰を下ろし、パンフレットを覗き込んだが、予想通り、あれこそ「ちゅらさん」の生まれた小浜島だった。「NHK、朝の連続テレビ小説」の放映はもう随分昔のことだが、「ちゅらさん」だけは異例の続編が定期的に放映され続け、その印象はちっとも薄れない。「もう大丈夫心配ない」と、私も「Kiroro」の歌うテーマソングを口ずさみたいくらいだったが、あいにく砂浜には三、四人同じグループの観光客が、シャッターを切ったり、貝殻を捜したりしている。私はこんな場所でも人目が気になって、たとえ自分の声が聞えないとしても、照れくさい真似は出来ないのだった。

 しかし彼らのおしゃべりも、鳴り響く鳥の歌も、寄せ波の僅かな響きさえ、自然の寂寞(じゃくまく)のうちに吸収されていくようで、かえって全体の静けさばかりが募るものだから、私は思い出したように手帳を取り出して、浮かんだ言葉を思い付くまま羅列した。

浜辺に揺られる赤花の
 赤い花びらゆら揺れて
  風に誘われ踊るとき
   そよぐ樹木はさらさら触れて
    のどかな蟹どもてくてく行くよ
   サンゴの浜に潮が満ち
  空は青くて澄み渡る
 遠くに聞える三線(さんしん)に
歌って答える鳥の響きよ

 こうしてカメラ代わりに感じたことを、記していこうと始めた手帳は、気構えてなかなかページが進まない。これからはポケットにでも入れて、何でも写し取ろうかとも考えてみたが、ふと気が付いて馬鹿らしくなった。無理に書き留める必要などないのだ。書きたくなったら自然に開くまでさ。そうして、ぼんやり海の方を眺めていると、遠くから

「おおい」

と声がする。シャツの声だ。私が砂浜に出たのとは反対側、樹木が密集している辺りから、

「何をしてる」

と叫んでいる。私も

「おおい」

と手を振り返したら、彼は小浜島を横に従えて歩いて来た。時計を見ながら

「そろそろ時間だ」

と言うから、私も

「そろそろ時間だ」

とオウム返して、他の観光客たちと共に施設に戻ることにしたのである。

ちゅらさん組

 別のルートを散策しながら帰路につくと、大きなガジュマルの木があった。周囲の樹木を従えるように太い幹にシワを携えている。ガジュマルというのは、熱帯地方に分布するクワ科の常緑高木である。茎の部分から、マングローブのように気根を生じる特徴があり、この気根が次第に茎にまとわりつき、複雑に絡み合いながら地表に腰を下ろし、幹全体をシワだらけの仙人に仕立てていく。この仙人じみた様相から、キジムナーという妖怪妖精が住むとされ、力強い防風林として活躍するこのガジュマルは、沖縄では非常に親しい樹木である。

 そんなガジュマルの木だが、朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」でも重要な役割を果たし、沖縄ブームを巻き起こしたNHKのお陰で、この木を知っている人もいるかも知れない。思えばゴーヤーチャンプルーが紹介され、スーパーにチャンプルーの元やゴーヤーが常に置かれるようになったのは、あの番組の恐るべき功績だったに違いない。ゴーヤーマンは本土でも通用するニューヒーローとして、観光客のお土産の定番にさえなってしまった。そしてここでもまた、終了したはずの番組の影響力が、ガジュマルの霊感に作用したせいか、見知らぬ人の出会いを、さりげなく演出して見せたのである。なぜなら私がカメラを取り出し、ガジュマルの構図を決めていると、突然後ろから

「キジムナーはどこかしら」

という笑い声が響いたからだ。

 私が振り向くと、若い女が二人立っている。片方はベレー帽を被って、片方は眼鏡を付けている。二人揃って「キジムナーは」と笑っているのは、例の蟹を見て歌い出した二人組だった。お調子者の緑シャツが木の陰にまわって、

「ここじゃ、ここじゃあ」

と変な顔を出して叫び声を上げる。二人から

「偽物だわ」

と言われ、

「いいや本物だ。しっぽあるし」

と答えて体を捻ると、いつの間に付けたのか、ズボンの後ろにはツタが結わえてある。彼はツタをシッポに見立てて腰を振り始めたのだった。何という奴だ。こいつはほんまもんの馬鹿一匁(ばかいちもんめ)だ。勝っても負けても嬉しいだけの性格だ。仲間にされちゃあたまらない。

 アホなしっぽに不意を打たれた眼鏡が、壺にはまって腹を抱えて笑い出し、それがきっかけで私たちは話しをするようになったのだが、思えば私自身が調子の良い彼のペースに引き込まれて、いつの間にか連れのようにして歩いていたのだった。何でも構えて接する私は、彼のような性格を少しく軽蔑しながらも、同時にこっそり羨ましかったりするわけで……この旅行中はちょっとだけ彼を見習おうと、こっそりガジュマルの木に誓いを立てて、私たちはまた歩き出したのであった。

 二人娘は二十代前半ぐらい、多分大学を卒業したてなのだろう、職場休みの友人旅行を思いつき、連続テレビ小説「ちゅらさん」の影響から、八重山観光を決行したのだという。

「だから明日は小浜島で、ちゅらさん巡りをするの」

と、なかなか気合いが入っている。私たちは歩きながら、動物園も兼ねたルートでイノシシやヤギ、池の中でひときわ寝ぼけた水牛を見て、娘さん二人、きゃあきゃあはしゃいでいるのは屈託がなかった。

 水牛から離れてしばらく行くと、

「があがあががあ」

と鳴き声がしてきた。見ると柵の中にダチョウが飼育されている。

「もしかして、さっきのダチョウの焼き肉は、こいつらの友達かも」

と私が覗き込むと、二人から散々に文句を言われてしまった。

「さっき散々食べてたくせに」

というと、ベレー帽の方が

「世の中には知らない方がお得なこともあるの」

と反論する。眼鏡が

「そうそう」

と同意する。シャツはしばらくダチョウを眺めていたが、

「ががあがあ」

と柵に向かって鳴く真似をしたら、ダチョウは驚いてあっちに行ってしまった。みんなに「下手鳴き」と笑われている。

 戻るとツアー客は大分揃っていて、施設にある土産を買いあさっている最中だ。連れの三人もさっそく土産コーナーに消えたので、私は気になるシークァーサージュースを購入して、試しに飲んでみることにした。土産は最終日で十分だろう。シークァーサーは沖縄に原生するミカン科の植物で、特に若く青いうちは酸味が強く、柚の代わりに使用して来たことから、「シークァーサ(酢を与えるもの)」という名称になったという。その小粒の緑実はやがて黄色に変わり、その頃には適度な甘みも加わって、そのままで美味しいフルーツとなり、別名「ひらみレモン」とも呼ばれるのだ。最近では健康ブームに乗り盛んに宣伝されているが、このジュースがまあ何というか、甘さ加減に濃厚な酸っぱさを含んでめちゃんこ美味しいのだ。実は果汁のジュースを飲んだのはこれが初めてだったが、気温が熱くなれば熱くなるほど、不意に飲みたくなる味がする。実が小さく希少性が高いので、百パーセント果汁は瓶で千円以上もする。しかし普通はそのまま飲むのではなく、十倍ぐらいに薄めて飲み頃になるのだから、ずいぶんな量が楽しめるはずだ。一方で醤油に垂らしたりして、レモンやカボスのような使い方も出来る。さらに焼酎、特に泡盛に溶かし込んだ水割りもまた、すこぶるワンダフルなものである。後日談だが、私は旅行から帰ってから、こればかり作っている。実は今も飲みながら書いているのだが、皆さんに伝えられないのが残念である。

 さて、ジュースを飲みながらに施設広場をふらついていると、ハイビスカスの赤い花が咲き誇る一角に、鍾乳洞でマドロスさんをやっていた四人家族がいた。のどかな家族旅行なのだろう、退職直後ぐらいの父親とその妻に、おそらく社会人であろう青年と娘が連れだって、互いに交替しながらハイビスカスの前で写真を撮っている。先ほどのキジムナーといい、どうも沖縄に来ると皆さん楽しく開放的になるらしい。家族連れの父親も、今度は私だとばかりにハイビスカスの中に潜り込んで、首だけを花から出して少し傾いた中年の親父顔には、端で見ていた私まで大笑いしそうになって、慌てて後ろを向いたくらいだった。緑シャツが見たらきっと真似をするに違いない。まさかとは思うが、私も首出しの一員となる日が来るのではなかろうか、そんな思いすら胸をかすめたのである。

おしゃべりを
  誇れる花には 寄り添えず
 遠く眺める 草もありけり

 ようやく時間が来れば、皆さん一斉に施設からお出になられて、再び水牛車で浅瀬を渡り、バスに乗り換え大原に戻り、一日一便一四時三〇分に直行する八重山観光フェリーを利用して、竹富島に向かうことになった。私はまた後ろのテラスでモーターを聞きながら、離れていく大原港に別れを告げ、しぶき上がる海水の向こうに揺れる西表島を、爽快な気持ちで眺めていた。折り返しの風を受け海水は頬にあたる。しかし今度は私一人ではなかった。緑シャツと、それから例のちゅらさん二人組が、後部座席に陣を張り、あちらこちらと眺めながら、シャッターを押してはしゃいでいる。はしゃいでいるといっても、モーター音がうるさくて声など聞えないのだが、私は明日の観光を、彼らと共に楽しんでも面白いような気がしていた。船は大きく梶を切り、大原に向かう高速艇とすれ違う。互いの波が力強くあたる。激しいしぶきがキラキラ光る。さもしい了見は微塵もない。愉快は全身に溢れ出す。竹富島はもうすぐ先だ。

竹富島

 星砂の浜辺を持ち、沖縄古来の集落を保存し、有名なタナドゥイ祭が行なわれる竹富島。独自の憲章で伝統を保護するこの島は、時に伝統の脅威となる観光によって、過疎化を克服し、活性化をはかるサンゴ礁の島だ。桟橋に船が着くと、まだ新しい綺麗な待合い施設はのどかだった。私たちが全員を確認するうちに、桟橋からは人影が消えてしまい、太陽がコンクリートを焼き付け、湯気が昇るみたいな大気の中で、閑散とした深緑が広がっている。この小さな港だけが、現代建築に整備されて、観光に精を出す八重山全体の活力を感じさせた。それは島の人々にとっても同じかも知れない。いくら伝統を守り続けても、村の灯しが一軒ずつ消されてゆく過疎化の波は止まらない。ついに後継者すら途絶え、小さな集落が大地に帰る頃には、語り継ぐ者さえいないだろう。やはり入島者は必要だ。しかし人口を遙かに超える観光客が年中闊歩したら、集落の快適な生活は脅かされるし、なかなか難しい。

 そんな事を考えながら、ガイドさんの解説もろくに聞かずに歩いていくと、やがて竹富の新名所「ゆがふ館」に到着した。二〇〇四年にオープンしたこの建物は、港から約三分ほどで到着する資料館で、入場料も取らず竹富の歴史や、民族音楽や、各種の映像配信や、展示物を配置した島の紹介施設になっている。

「三十分ほどしましたら、ゆがふ館の裏口からバスが出発しますから、それまでに見学を済ませて、心配の方は御手洗いにも寄って下さい」

ガイドさんはそう注意して、私たちを解散させた。ゆがふの看板を見て、

「ゆがふだわ、ゆがふ」

「フクロウの店長はいるかしら」

とはしゃぎだしたちゅらさん組は、

「確かめなくっちゃ」

と真っ先に飛び込む。連続テレビ小説「ちゅらさん」において、東京に家出した主人公「えりぃ」がアルバイトをする沖縄料理店が「ゆがふ」だったからである。しかしもちろんここは料理屋でもないしNHK資料館でもないから、私たちが中に入ると、二人組は期待がずれてちょっとつまらなそうにしていた。

 入り口には八重山全体のパネルがあって、石垣島と西表島が東西に構えるあいだに、竹富島や小浜島、黒島などがひしめいている。サンゴ礁は明るい水色で表示され、島に寄り添って広く分布しているが、これらのサンゴ礁群を石西礁湖と呼ぶと説明がある。ほの暗い館内を見渡すと、竹富島の地図と歴史年表や、聖地である御嶽(おん)を記したパネルもあり、また民芸品の機織り機や、けっこう大きな映像放映施設まであった。沖縄関連の書籍やCDも販売され、どうせなら喫茶店でも設けて、船の待合代わりにでも使ったらどうかと、余計なことを考えたくなるほど立派な施設である。

 ところで「ゆがふ」とはいったい何だろう。パネルの説明書きを見ると、漢字なら「世果報」と記し、

「天からのご加護により豊穣を賜る」

という意味を持つそうだ。要するに幸せの島とか、憂いなき世界を表わすのだろう。館内を歩き回っていると、巨大スクリーンを持つ放映所が設置されていて、今から竹富島の紹介ビデオを上演するらしい。私たちの到着に合わせて、わざわざ流すのかもしれない。せっかくだから見ていくことにしよう。席に着くと前の方に、ハイビスカスと戯れていた親父が一人で座っている。残りの三人は館内を回っているらしく、その反対側にはヤマネコに出会ったというじいさんもいる。ビデオは十分ほどだったが、後から足しながら紹介しよう。ただし私の説明は丁寧に過ぎるので、好奇心の沸かない人は、どんどん読み飛ばしても差し支えない。小説なんてものは、美味しいとこだけ読めばそれでよいのである。

「石垣島の南西約六キロメートルに位置する竹富島は、サンゴ礁が隆起した島です。周囲が九.二キロメートルほど、中心に広がる集落には約三百四十人ほどが暮らしています。今では人口の三分の一が六十五歳以上の高齢者で占められていますが、戦前には千人ほどが生活していましたし、敗戦直後には二千三百人もの人口を抱え込んだこともあるのです。その後本土の経済成長に合わせるように過疎化が進み、一九九五年には二百六十二人にまで減少し、村の壊滅さえ危ぶまれましたが、近年新しい定住者と島への帰還者を合わせて、着々と人口を回復しています。これには観光客の増加や八重山定住者の増加という後押しがあり、竹富島への年間観光客は平成元年に八万六千人ぐらいだったものが、今日では三十五万人にも達するのです。
 そんな竹富島、周囲をサンゴで囲まれたほとんど平らな島で、中央には島の最高点である『ンブフルの丘』があります。といっても標高わずか二十メートル、丘の展望台に登ってようやく二十四メートル、島で一番高い場所です。ところでンブフルの丘、一風変わった名称はどこから来たのでしょう。逸話によると夜中にとある飼い牛が逃げ出して、大地に角を突き立てて丘を築き、『ンブフル、ンブフル、ンブーフルフル』と鳴き声を上げたという、はなはだ不可解な伝説が残されています。他にも集落には赤山公園という丘があり、丘の上には『なごみの塔』が置かれています。丘と合わせてわずか十メートルですが、集落の中にあり美しい景観が楽しめます。ただ非常に階段が急ですから、自信のない方は控えて下さい。
 それ以外はほとんど平らな竹富島、地面を少し掘ればサンゴの岩が顔を出し、川は生まれず貴重な水源は井戸で確保していました。そのため耕作には適さず、昔はマツフニ(松舟)というくりぬき舟や、サバニと呼ばれるカヌー船で、西表島の東岸に出かけて水田を開拓していたのです。西表島北東にある由布島の住人は、竹富島や黒島からの渡り者であったとされています。
 そんな竹富島ですが、かつては八重山の行政府があったこともあります。これは西塘(にしとう)という島の偉人が、首里王府の元で教育を受け、後で八重山統治を任され、蔵元(くらもと)と呼ばれる役所を設置したからです。しかし行政を仕切るのに不便があったのでしょう、一五四三年には蔵元を石垣島に移してしまいました。短い行政府期間ではありましたが、この西塘さん、村の優れものとして死後奉(まつ)られ、西塘御嶽(にしとうおん・にしとううたき)を守る神となって、今では天上から島を統治しているのです。」

 この蔵元は、後で星砂の浜を見学したときに、私はその跡の存在を確かめることになるのだが、この時はもちろん知るよしもなかった。完全に閉ざすほど暗くはない座席をちょっと見渡すと、ヤマネコのじいさんがしきりにスクリーンに向かって頷いている。ハイビスカスは両手を組んでいる。放映は伝統集落に話を移す。

「またこの島は、古い伝統集落を今日に残す、貴重な証人ともなっています。一七七一年に八重山地方を襲った明和(めいわ)の大津波。これによって八重山の伝統集落の大半が壊滅し、琉球王府による地割制度によって、升目に区分した集落が生まれたのですが、奇跡的に津波を逃れた竹富島では、独特な集落形態が今日にまで残されました。第二次大戦の戦火も免れた集落は、村の土地割りや歩道の整備や、住宅の配置に赤瓦の屋根、さらには琉球石灰岩の石垣にいたるまで、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているのです。ただし沖縄で赤瓦を屋根に葺くようになったのは明治二〇年代以降、庶民の家では昭和に入ってからだと考えられ、それまでは藁ぶきの屋根が一般でしたから、シーサーが乗ることもありませんでした。八重山は台風の通り道なので、風を防ぐように直線を避けた道路配置や、常緑高木の広葉樹であるフクギなどを茂らせ、屋根の寝そべった平屋を築くなど、様々な工夫が見られます。そんな集落ですが、ンブフルの丘の北側にアイノタ(東集落)、インノタ(西集落)、という東西二つの集落があり、丘の南側に仲筋(なかすじ)という集落があります。急ぎ足なら半日で島を巡る距離ですから、時間の許す方は集落巡りも面白いでしょう。
 島には三十ちかい御嶽(うたき・おん)があり、木の覆い茂る場所としてヤマ(山)と呼ばれ、非常に熱心に信仰されています。特にムーヤマ(六山)という六つの重要なヤマは、島の始まりを告げるヤマと考えられ、一七一三年の『琉球国由来記』によると、昔竹富島に六人の首領が争いもなく暮らしていましたが、ある時、神がいないことに気付いて祈りを捧げると、六体の神が島に渡って来たと書かれています。その神々が奉(まつ)られたのがムーヤマなのです。もちろん他のヤマにも様々な信仰がありますから、不用意に中に入らないように気を付けて下さい。またこの島は、景観と伝統保護のために独自の憲章を立て、島民全員が固く守りながら生活しています。キャンプは禁止されていますし、民宿以外の宿泊施設もほとんどありません。観光客の皆さんも、ゴミを捨てない、生物や植物の保護に注意を払う、村落を水着で歩かない、アイスクリームを振り回さないなど、当たり前のマナーを守って、ぜひ素敵な観光を楽しんで下さい。それでは次の放映は、我が島最大の祭りとして、沖縄だけでなく全国的にも有名なタナドゥイの祭についてお伝えします。」

 島に歴史あり。私はすっかり満足して放映所から出ると、ちゅらさん二人組が柱に備えつけられた椅子から手招きをしている。近づくと竹富民謡が聴けるから試してみなさいとヘッドホンを渡された。民謡まで聴けるとは大した施設だ。緑シャツも来てヘッドホンの音楽に合わせて民謡を口ずさんでみたが、あまりにも素っ頓狂な音程で歌うから、観光グループどころか施設の従業員までこっちを見て、にやにやと笑っている。私も

「あんまり下手歌だ」

と大笑いしていたら、

「じゃあお前がやって見ろ」

とヘッドホンを突きつけるから、つい普段の慎重も取り落として、

「よし」

とヘッドホンに合わせて歌い出したら、全然音程が掴めずに、

「やぃやあぁ」

と情けない奇妙なる調べを発してしまい、今度は皆さんに声まで出されて笑われてしまった。これじゃあ台無しだ。あんまり変な声なので自分でも笑い出してしまった。ちゅらさん組も腹を抱えて笑っている。子供たちは自分も真似しようとして、三人一斉に近寄ってきた。何だか少しずつ自分が壊れてゆく気ようなもするが、他人に笑われてもちっとも嫌でないのが嬉しかった。子供らが懇願するのでヘッドホンを貸してやると、三人はさっそく歌い出す。みんな勝手だからたいへん賑やかだ。しかし何だか私よりも上手である。やがて時間が来たので、綺麗なトイレにも足を運んでから、出口で待っているバスに乗り込んだ。クーラーを効かせたバスは、誰も走らない舗装路を軽やかに滑り出した。

たけとみの
  とみはこころの いとなみか
 あまたに眠れる 島の歌かな

集落へ

 バスに乗り込むと、ガイドさんはしばらくお役御免となって、島の運転手が解説を始めた。贅沢に舗装された車道にはデイゴが植えられ、赤い花の咲き誇る中を、比較的若い青年が、ハンドルを握りながら挨拶を済ませた。イントネーションに島の訛りがあるようだ。彼はこの舗装道路について解説をしてくれたが、景観を損なう恐れのある舗装は、集落に向かうこの道と、集落を取り囲む環状道路だけで、その環状道路は、集落内部を自動車から守り、集落の伝統と景観を守るために作られたという。

「あの、手前にあるのが魔よけの木です」

と運転手が告げると、道なかに大きな樹木が立っている。そこを抜けると亜熱帯植物の世界から、人の住まう集落がひょっこり顔を出した。狭い舗装路から横に歩道が延び、家々を紡いでいる。歩道はサンゴを砕いた白砂(しらすな)で、月明かりの晩には集落が浮かび上がるほど色が白い。私たちは誰もが感嘆の吐息をもらした。家々はサンゴの岩石を積み重ねた塀で仕切られ、その奥へと庭は樹木を茂らせ、平屋造りが屋根の傾斜を鈍くして構えている。その屋根は一様に赤レンガを重ねて、上にはシーサーが陣取って、「また来やがったな」と我々を見下ろしている。ここはいずこの国かと訝しがるほどの集落だ。忘れた頃に人影とすれ違う。運転手は解説を続ける。

「さっきの魔よけの木。あれは中国から渡来した風水が、王朝から庶民に伝わって植えられたもので、昔は集落の進入路ごとに設けられ、魔物払いをしてくれる樹木でした。島の言葉でツンマセーと言います。つまんねーじゃありませんよ。はい、左を見て下さい。竹富郵便局、集落で唯一の金融機関で、おかげで大いに助かってます。民営化は仕方ないとしても、これが潰れると大いに困る。皆さんもぜひ立ち寄って利用してって下さい。さあ、続いて今度は右側。

 はい右側に見えてきたのが竹富島で唯一の学校。小学校と中学校が一緒で、今年は五人入学しました。全部合わせて三十二人ですが、先生が十九人もいて、ほとんどマンツーマンの教育です。外からも生徒を募集してますから、ぜひ紹介して下さい、歓迎しますよ」

こんな島に生まれたら、私はどんな大人になっていただろうと思えば、ちょっと不思議な感傷に捕らわれたりもする。

「はい今度は左側に井戸が見えてきます」

私の感傷をなぎ払うみたいに、運転手が話を続ける。

「速度を落としますよ。この井戸は中筋(なかすじ)井戸という名前です。この道のすぐ先が島中心にあるンブフルの丘ですが、残念ながら今日は時間がない、ここで大きく曲がりましょう。」

 あまり無頓着にハンドルを切ったので、小型バスで写真を撮るため席を乗りだしていたちゅらさん組のベレー帽が、よろめいて私の顔のすぐそばにもたれ掛かってきた。

「あら、ごめんなさい」

彼女は屈託なく笑って、もう一度カメラを構えなおす。私はおそらくちょっと顔が熱くなって、それを誤魔化すみたいにして、あの曲がり角はどこだろうとばかりに、パンフレットの地図を覗き込んだ。運転手はますます活気づく。

「集落にはあのような井戸が幾つもありますが、竹富は川のない平坦な島で、昔は貴重な水源を井戸や雨水で確保してきました。今では幸い石垣島から海底を通って送られています。水道は昭和四七年に、電気は昭和五一年に開通しました。それ以前はランプで明かりを取り、井戸で真水を確保していたのです。それではいよいよ集落を抜けてカイジ浜に向かいます。皆さんには星砂の浜、星砂ビーチと呼ぶ方が馴染みかも知れません。沢山の星の砂が取れるビーチですが、この星砂の正体はヒトデの仲間、ユウコウチュウという微生物の亡骸だとされています。」

 バスは亜熱帯植物に覆われた白砂小道に進入する。もう浜に近いのだろう、何となくさらさらして見える。途中、自転車を懸命にこぐ子供たちの一行を追い越した。揺れながらのんびり進むと、両側には真っ赤なハイビスカスや、朝顔の花が咲いている。

「はいこの朝顔、本当は朝顔じゃありません。朝だけでなく夕方まで咲き続け、夕方になるとピンクの花が紫に変わります。とても朝顔とは呼べません。移り花とでも呼んでおきましょうか。左手にはラッパがぶら下がったような花が幾つも見えてるでしょう。これはエンジェルトランペットです。本土では夏から九月頃にかけて咲く花ですが、竹富ではすっかり開いてます。形はピンク色した面長の朝顔といったところ。前のお客さんなどは、オペラ座の怪人を見過ぎてエンジェル・オブ・ミュージックと叫んでいました。まあ形がラッパですから、当らずしも遠からず。はい、そこの駐車場にバスを止めたらもうカイジ浜です。二十分ほど美しい砂浜を楽しんで、星砂を捜して下さい。それから集落に戻りましょう。」

カイジ浜、あるいは星砂の浜

 小さな停車場に着くと、覆われた樹木の合間に浜へ抜ける下り口(くだりくち)があった。先は真っ白な砂浜と青い海だ。私たちは神秘の門をくぐり抜けるみたいに、星砂のビーチに降りていった。ところがその樹木の門には、二匹の猫がのどかに寝そべっていたから、ベレー帽と眼鏡が「わあい、にゃんこ!」と叫んで、砂浜を忘れて写真を撮り始めてしまった。ベレー帽が「西表にゃんこ!」と滅茶苦茶なことを言うので、驚いて何人かが振り向いて、彼らまでカメラを構え出す。その頃シャツは一番乗りで砂浜に飛び出したが、後からバスを降りた私は、ついうっかり猫に気を取られて、ちゅらさん組と一緒にシャッターを切ってしまった。竹富島は猫の多い島だが、この星砂ビーチもよく猫のたむろするスポットだ。訪れた人はついでに探してみると良い。この猫たちこそ朝な夕なに砂浜を闊歩するここの主(あるじ)なのだから。

神さまの
  覚えめでたき 寝そべりも
 猫の治めし 星の浜べよ

 主どのに挨さつを済ませた私たちも、皆の後を追い白く輝く砂に足を繰り出す。砂はだは眩しかった。朝の曇は影も形も消え失せ、真っ青な空の照り映う光が、すべての色彩を活気づけてる。大空遥かに葉緑素など数滴垂らし、透明液で薄めたようなサンゴの海のむこうを、風ばかりが快くしては寄せてくる。白く跳ね返す砂の浜に、覗き見る灰の岩が、硬質の彩色を投影し、景観に与える修飾を施して、後景の樹木は青々と海原(うなばら)を眺望す。それがカイジ浜だ。

 私はしばらく立ち尽くしていたが、一部の観光者たちは早くも星砂探しに夢中になって、「あった」とか「違った」とか叫んでいるようだ。何でも持ち帰らないともったいないお化けの精神で、当地の星砂はどんどん減少しているという。思い出は心に焼き付け、記録は写真に残せば十分だ。まさかと思うかも知れないが、持ち帰った翌年には、もう星砂が何であったか、島の名前も浜の名前も浮かばない愚か者が沢山いる。何のための持ち帰えりだか分からない。彼らはバーゲンの度にもったいないお化けにそそのかされて群がり、無料サービスの時にもお化けが出たと騒ぎながら押し寄せてくる。本当にお化けが出たのか、それとも自分がお化けと一体なのか分からないが、せっかくこれだけの景観を前にしながら、自然が作り出した星砂の欠片に触れながら、その美しさについて何も学べないのは愚かだ。これは私の意見ではない。砂浜を覗いていた猫丸君が、私たちの方を見て笑ったように見えたので、彼の意見を推し量ってみたのである。

 そこに何も知らない緑シャツが、

「こんなに見つけたぞ」

と両手を広げて、私に星砂を見せたので、私は思わず吹き出してしまった。覗き見ると確かに綺麗な星の形をしている。後で調べたところ、これらは目に見える大型単細胞生物で、殻を作って生活するアメーバーの仲間、一般的に「有孔虫(ゆうこうちゅう)」と呼ばれる微生物が死んだ残り殻なのだそうだ。綺麗な星形をした「星砂」の他にも、円いボールから小さな手が幾つも突き出たような「太陽の砂」もあり、アメーバ自身も「星砂(ほしずな)」とか「太陽の砂」と呼ばれるが、正式名称はそれぞれ「バキュロジプシナ」「カルカリナ」であり、慣れた人が捜せば浅瀬の海藻に見付けられる。手のない円形だけの奴もいて、これは「ゼニイシ」と呼ばれるそうだ。確かに浜辺の岩肌には、小さな海藻が黄緑色にへばり付いているが、その時は何の知識もなかったので、調べようともしなかった。果たして懸命に捜したら有孔虫が見つかっただろうか。

 もちろん全員が一丸となって星砂探しに熱中しているわけではない。例の四人家族は星砂ではなく交互に写真を撮るのに熱中している。子供たちは砂探しよりも、わざわざサンダルを持参して海に入って遊んでいる。ガイドさんは毎度のことで木陰に座り休んでいる。例の二人組は海水をじゃぶじゃぶ掻き回していた。まさか有孔虫を捜している訳じゃあないだろう。私は目の前の真っ白な砂と、蟹歩きじみた岩肌、穏やかに広がれる海さきを眺めつつ、前にしるしてあった詩などまとめようと、少しく離れて腰など下ろす。手帳を取出し、下書きに一ページいろいろ並べていたが、これでいいだろうと思って、次のページに「いつまでも」と記した。

   「いつまでも」
赤い花びらまぶしく揺れて
  風に誘われ小さく踊ろう
    そよぐ緑に合わせて歌う
      小さな蟹がさわさわ行くよ
  白くかがやく砂道抜けて
    瞳こらして潮風受ければ
      さざ波光ってさんごの浜に
        空は青くて澄みわたる
    遠く聞こえる三線(さんしん)に
      どこかで応える鳥の歌
        ここにいつまでいたけりゃさ
          ここにいつまでいたけりゃさ

 出来たと思って顔を上げると、砂探しにも飽きた緑シャツが

「何をしてる」

と寄ってきたから、共に砂浜沿いに奥まで歩いて、時間近くに戻ってきたら、まだ誰もバスに帰る気配がない。私はひとりで先に駐車場に行って、カイジ浜の看板を読んでいた。看板には漢字で「皆治浜」と書かれ、星砂のことが説明されている。星砂の美しい珍しさは島の民話に残され、

「海の大蛇に食べられた星の子の骨が流れ着いた」

という、はかな悲しい伝承があるそうだ。天上を飾る満天の星になりかけた子供たちが、幼くして砕けた姿というのは詩的だが、海から生まれる星の子供たちというのは、一年に一度一斉に産卵を行ない、その大量の卵で海を赤くするという、サンゴ誕生の奇跡ではなかったか。「サンゴ礁星を生みなすただ一夜」というが、成長してあるものはサンゴになって、またあるものは天上に昇って星となる、その途中の姿ではなかったかと、一人で空想を膨らませていた。

 すると向こうにも看板が立っている。ちょっと歩いて読んでみると、こちらは蔵元跡(くらもとあと)と紹介されている。始めて八重山地方統治を任された西塘(にしとう)が、十六世紀前半に蔵元を置いたのがこの場所で、当時のカイジ浜は港として機能していたそうだ。しかしどうにも難儀(なんぎー)なので石垣島に役所を移してからは、時々竹富島のことを思い出して「シキタ盆」など作って歌っていたら、今では竹富島の大切な唄になりましたと書いてある。

 島に歴史あり。私は感慨を込めてその説明書きを眺めていると、不意にバスのクラクションが鳴り響いた。気が付けば全員がバスに乗り込んで、最後の私を待っているではないか。しまった、とんだ迂闊者(うかつもの)だ。皆さんの白い目を浴びながらバスに乗り込むと、例の猫君(ねこぎみ)がこっちを覗いていた。どうも笑っている気がしてならない。猫君よ、サイチェン、また会おう。私は僅かに会釈をする。隣のシャツが不思議な顔で覗き込む。やがてバスは走り出し、運転手は気にせず話を再開した。

「はいすぐ付きます。こんどは星砂ビーチの隣にあるコンドイビーチです。よくコンドイとは何ですかと聞かれますが、これはただの地名です。一説によると西表島古見(コミ、当地風発音クミ)に向かうときに停泊することがあったため、古見泊という名称が付けられ、いつしかコンドイと発音するようになったとか。ただし別の意見もあります。大阪はなにゆえ大阪なのかと問われても、そこに大阪があるからさ、と答えるしかありません。学者ならいざ知らず、追求せずにコンドイだからコンドイでいいのです。

 そんなコンドイ、実は竹富島で唯一、シャワーと更衣室がある正式の海水浴場なのですが、その白い砂浜と遠浅の海はコマーシャルの撮影などにも使用されています。ただしこのビーチ、一キロ先まで大人の腰ぐらいまでしかない遠浅の海で、潮が引くと海も遙かに干上がり、とても泳げるどころではありません。泳ぐ人は潮の満ちている時を選んで下さい。海水の中を楽しむシュノーケリングをするのにも便利ですが、それほど豊かなサンゴ礁は見られません。それでもゆっくりしてみたいコンドイではありますが、残念ながら今日は時間がない。ごめんなさいね、バスの窓越しに眺めて下さい。はい到着です。」

 砂浜に乗り出すやいなや、「ちょっと待った」の声も虚しく、バスはUターンを開始。懸命に写真を撮るのが精一杯で、早くもビーチを離れてしまった。私には観光のノルマ達成のために立ち寄ったとしか思えないが、不満を言うわけにもいかない。八重山の気温なら泳ぐことが可能だとはいえ、こんな四月の頭から、何人もの客が海に入っているのが印象的だった。

コンドイに
  こんどいいひと 連れてきて
    ほほえみ逢いたい
  恋はまだかな

竹富の水牛

 集落に戻ったバスは、水牛車の待合広場に私たちを置いて帰っていった。まさか一日二回水牛に乗るとは思わなかったが、ガイドさんは

「今日は水牛のハシゴですから」

といって皆を笑わせている。私は新田観光の水牛搭乗ツアーの手続きを待ちながら、白砂と生け垣に囲まれた家々が、樹木の間から赤瓦の屋根を覗かせるのを眺めていた。水牛の鳴き声や私たちのおしゃべりだけが聞こえる島の静寂に、果たしてここは二十一世紀の日本なのかと不思議な心持ちさえしてくる。水牛ツアーの新田観光は自転車の貸し出しも行なっていて、一日千五百円で自転車を借りることが出来るし、竹富島に滞在したい人のためには民宿新田荘も経営している。さらに手続き所の隣に「あかばなー」というお土産屋さんがあり、思い出の品物を購入できるから非常に便利だ。待合い広場の前には一軒の藁葺き屋根が建っている。赤瓦に変わる前はあんな家が並んでいたのだろうか。

 ガイドさんが戻って水牛車に乗り込めと言うから、私たちは一番後ろに席を取った。左側には緑シャツと私が、右側には眼鏡とベレー帽が、向かい合って腰を下ろすと、水牛が動き出し、ガイドさんは例の四人家族と共に後ろの水牛車に乗車した。子供たちも二台目から「やほーい」と叫んでいる。車の屋根裏を見ると、由布島の時とは違って、「安里屋ユンタ」と書かれた歌詞だけが沢山並んでいる。ははあ、これを歌うのだなと思った。

 さあ出発だと期待していると、水牛は歩道に出る前に立ち止まって、道ばたで用を足し始めた。水牛の習性はもう知っているから気にもしないが、自分のルートを完全に理解しているぐらいだから、トイレの場所も矯正出来るかも知れない。まさか排泄まで観光料金に含まれているかと不埒なことを考えていると、待合い広場では空の水牛車を係のオジィがぐいぐい引っ張っている。聞き分けない水牛も負けじとオジィを引っ張り返して、その奥では、水牛が走るように所定位置に戻っていった。

「あれ、水牛なのに早い」

と緑シャツが叫ぶと、水牛を操る四十代頃のおじさんが

「水牛もゆっくり歩くように訓練されてるけど、いざとなったらもっと速度を出せるんです」

と答え、

「その通りだ」

と頷くみたいに私たちの水牛も歩き出した。

 ようやく観光が始まり、水牛遣いのおじさんが挨拶を済ませると、一番前に座った還暦を遙か過ぎたじいさんが、

「家のあるべきところに空き地が広がっているが、草木だけが生えているのは、あれは過疎化の影響じゃないか」

と質問した。このじいさんは言うまでもない、ヤマネコにあったと宣言した強者である。このじいさんが原因で、私たちの水牛観光は台本から外れて、半ば二人の会話に任せて進んでいった。水牛運転手は気さくに答える。

「戦後の一時期は非常に人口が膨らんだことがあるけど、特に沖縄の本土復帰に近づく頃から過疎化が進行しました。今日は三百四十人ぐらいで、しかもその三分の一以上が六十五歳以上のお年寄りで占められてるんです」

「毎年減るばかりじゃ、観光業も覚束ないではないか」

「いえ、最近の観光業の本格化によって、島を離れた若者が戻ったり、他にも島ぐるみで知恵を絞ってるんです。お陰でわずかながら、もう十年以上も人口が増加してます」

するとじいさん、

「余所者でも土地を買って住むことは出来るのかね」

と聞くから、

「村には独自の憲章があって、自分の土地を勝手に売買してはいけません。憲章は法律ではないですが、村の住人は自ら守り伝統保全に努めています。だから我々も、憲章を守り祭りや行事へ参加する人間なら大歓迎ですが、土地を売ってくれるとは限りませんね。まあ、まず余所者気分でなく本気で島の一員になれないとね。」

 のっそり進む水牛は狭いT字路を器用に曲がる。竹富島にも、道を走り回る魔物たちを粉砕するという「石敢当(いしがんとう)」が、ところどころに置かれているが、水牛の早さなら粉砕される心配はない。この石敢当、三叉路やT字路の突き当たる壁に設置される魔除けで、スピードを出しすぎた魔物たちが、交通事故のように家の中に突っ込んでくるのを防ぎ、これに当たった妖怪たちは粉々に砕け散るのだという。「魍魎(もうりょう)の砕ける野分や石敢当」とはよく言ったもので、マングースのように忙しなく走る妖怪というのも面白いが、実はこの魔物は台風などによる強風を指し、壁を守る意味があるともいわれている。右手には空き地が整備中らしく工事車両が放置され、石垣で使用するサンゴの岩石が集められて山になっていた。

「ああやって石垣の岩を再利用するのですが、岩はもともと遠くから運んできたものではありません。竹富島では村落の中でもすこし掘れば、サンゴの岩が採取できるぐらい。工事中の庭はちょっと情けないですが、石垣の向こうから顔を覗かせる黄色い花や、フクギの蒼さはすばらしいでしょう。あっちにはブーゲンビリアが咲いています。皆さんブーゲンビリアと聞くと、紫めかした赤い花だと答えますが、それは大間違い。赤いのは花を取り巻く包葉(ほうよう)という部分で、本当は白い小さな花が咲くのです。また赤紫だけがブーゲンビリアだと思うのも間違いで、包葉の色もオレンジや白がありバラエティに富んでいます。そんなブーゲンビリアですが、前の竹富俳句大会では『夕月やブーゲンビリアの歌合わせ』という句が入選を果たしたりしています。」

 そんな大会があるものかと思っていると、隣のシャツが、

「おっ、俺も一句浮かんだぜ」

と言い出した。どうせろくな事にはならないに決まっている。一応聞いてみると、

「静けさやサンゴに染みこむ牛の悲鳴」

というしょうもない句を詠んでいる。眼鏡が笑いながら、

「ぱくりじゃないの」

と笑っている。そこへ小声で言ったはずだったのに、ちゃんと聞いていた水牛遣いのおじさんが、

「それじゃあ季語がない」

と言いだした。シャツはへこたれずにちょっと考えてから、

「あらし来たサンゴ砕けた牛鳴いた」

と無茶苦茶な句を詠んで見せる。確かに季節は入っているようだが、あんまり荒唐無稽なので、お客さんみんな笑い出してしまった。まったくアホな奴である。笑い終えた水牛遣いが解説を再開する。

「さて、発句はこれくらいにして、続いては屋根にご注目。今日は天気に恵まれ、赤い屋根の色も冴えますが、ご覧なさい、シーサーが日の光を受けながら、凛々しく立っています。」

 なるほど褐色の屋根にシーサーが構えている。するとじいさんが突然

「あのシーサーの由来はやはり大陸かね」

と質問モードに入る。

「そう、中国の唐獅子が十三世紀から十五世紀頃に流入したそうです。初めは王族だけの習慣が、風水と共に庶民に伝わり、村を守るシーサーとして広まりました。朝鮮からの影響を受けた本土の狛犬とは親類関係で、元を辿ればオリエント時代のライオン崇拝が、シルクロードを渡って世界中に伝播したとか。大した話です」

「口を開いているのと、閉じているのが、左右や前後に陣取るのは、あれはやはり阿吽(あうん)じゃないかね」

「仏教の影響もあって、災いを入れないのと、福を呼び込むシーサーがペアになったと聞きました」

「阿吽は、仏教の真言(しんごん)で、口を開き最初に出る言葉『阿』と、閉じる最後の言葉『吽』が、万物の開始と終焉をつかさどるんだね」

運転手はなるほどと頷いている。どっちがガイド役だか分からなくなってきた。後ろの席では眼鏡とベレー帽がシーサーも買って帰ろうと固く決意し、私とシャツは共にデジカメを構えきょろきょろして、ちっとも話を聞いてはいない。水牛遣いは気を取り直して、

「この静かな集落の姿に心打たれ、何度も訪れる竹富病の人も沢山います。皆さんも少しだけ病気に掛かって、ぜひまた観光に来て下さい。いよいよ安里屋クヤマの家が見えてきました。ちょっと水牛に留(と)まって貰おう。」

安里屋ユンタ

 従順なる水牛は顔色変えずに車輪を止める。石垣にはハイビスカスが咲き誇り、入り口には「安里屋(美女クヤマ)生誕の家」とある。クヤマは偉業のために名を残す英雄ではない。イッソスの戦いに勝利したわけでもない。人並み外れた美貌ゆえに民謡に歌われ、今日に名前を残す幸せ者だ。だから彼女の細かい生涯など分からないのだが、唄の中では余所者役人の求婚を断ったヒロインとして、現在に歌い継がれているのである。ただし学者たちの執拗な捜索によって、一七二二年生まれで七十歳まで生き、子供はなかった事まで分かっているという。

 通りかかった小学生たちの一人が、

「クーヤマだけが特別。クーヤマだけが、クーヤマだけが、役人の求婚を拒むことが出来たのさあ」

と訳の分からないことを叫び、残りの三人が、

「出来たのさあ」

とオウム返しに水牛の横を通り過ぎていった。学校で由来でも教わったか、小学生の考えることはさっぱり分からないが、ひょっとしたら観光客をからかっただけなのかもしれない。水牛遣いのおじさんは、

「そうです、クーヤマだけが特別なんです」

と後を繋ぎ、皆は等しく笑い声を上げた。

「安里屋ユンタには幾つかバリエーションがあります」

彼は三線を取り出す。

「まず元々竹富島で歌われていた元祖安里屋ユンタがあります。ユンタというのは、協同で労働するユイマールの中で『サーユイユイ』などの掛け声と共に歌われた労働歌で、ユイは一説では『結い物』の結いとされます。織物共同体からユイマールという言葉が生まれ、その際歌われる『結い唄』がユンタになったという。皆さんは労働の唄がそのままユンタだと思っていいでしょう。したがって元祖安里屋は三線(さんしん)は使わない。皆で一斉に歌う仕事唄で、簡単なメロディーに乗せてなんと二十三番まであります。ちょっとだけ歌ってみましょう。」

 三線を持った水牛遣いは唱い手に変じて、楽器は使わず方言によるユンタを歌い出す。それに合わせて、水牛は闊歩(かっぽ)を再開し、私たちは揺られながらに安里屋を堪能した。

サァあさどやぬくやまによ
   サァユイユイ
 あんちゅらさぁうんまりばしよ
    マタハーリヌ
       チンダラ カヌシャマヨ

 歌が終われば皆は拍手をするが、水牛だけは毎度のことで眠そうに顔を落とした。

「歌詞の二十三番までの粗筋は、クヤマに妾(めかけ)の求婚を断わられた役人が、別の集落でイスケマという女性に求婚。今度は成功してめでたく結ばれ、引き続き役人として島を治め、お酌の上手なイスケマと子作りに励む。生まれた子供は、男の子なら村の指導者に、女の子なら家庭を守りましょう。といった内容で、クヤマはまあ脇役だったんですね。さらにこのユンタを元にした、三線で唱う節唄(ふしうた)もあり、安里屋節(あさどやぶし)として歌詞はそのままに、異なるメロディーで唱われます。

 ところが第二次世界大戦後のアメリカ統治時代に、星克(ほしかつ)という人がクヤマに狙いを定めて歌詞を作り、石垣島の宮良長包(みやらちょうほう)が曲を書いたからさあ大変、この新安里屋ユンタが流行して本土にまで広がった結果、誰もが知っているのは、新安里屋ユンタになってしまいました。今では観光客のために三線で歌うのが仕事になってるんで、さっそく手拍子お願いします。」

 そう言うと、三線を構えた歌い手は空気の中にパンと跳ね渡るような三線の音に乗せて歌い始めた。

サァ君は野中の茨の花か
   サァユイユイ
  暮れて帰ればやれほんに引き止める
     マタハーリヌ
    チンダラ カヌシャマヨ

 手拍子に乗せて一番が終わると、二番では歌好きのちゅらさん組が黙っていられない。さっそく掛け声の所を一緒に歌い始めた。しかし歌が四番まで続くうちに、一人二人と参加者が増えて、最後には水牛の観光客全員が掛け声を斉唱して、竹富よいととこ一度はおいで、はあこりゃこりゃのような五番まで付け加え、ついに大円団かと思われたところ、歌い手は調子がみなぎって、

「はいもう一度一番を歌いましょう」

と三線を爪弾きながら始めに戻ると、ついに全員歌詞を見ながら一番を熱唱し、武道館ライブ状態に陥ってしまったのである。こんな現象は私の生涯でも空前絶後だ。竹富島は、人の心をスポンジにしてしまうのかもしれない。そういう私も、結局緑シャツと後ろから声を張り上げ、サーユイユイと叫んでしまったのである。全員拍手の後で水牛遣いは、

「こんなノリに乗ったお客さんは、初めてさあ」

と驚いていたが、振り向くと後ろの水牛車から、何事かと心配して覗くガイドさんの姿が見えた。手を振ってみたら、ガイドさんではなく、四人家族の親父と娘が手を振り返したので、ちょっと困ってしまった。

ほんとうの
   いのちの意味は ひとになく
 ふるさと伝(つた)いの 歌にこもるよ

タナドゥイ祭

「三線で歌う安里屋節の方にも、竹富以外で歌われる別の歌詞があり、『貧しくても島の男と結婚したいとわ』と求婚を断るクヤマは、気概ある島の女に変貌を遂げています。私もまだ調査の途中だけど、安里屋ユンタはなかなか奥が深い。」

 水牛遣いが三線を片付けていると、歌ばかりでは納得しない質問じいさんがさっそく口を挟む。

「ところで、ユンタに関係するユイマールだが、島ではまだ生きてるんかね」

水牛遣いも合いの手を貰って話が弾むようだ。

「今は金ですべてを行うから、本来の意味では残ってないけど、助け合いの精神としてなら残ってるかもしれませんね」

するとじいさん、

「そうかねえ。金がすべてじゃ、寂しいねえ」

と答えながら、水牛は竹富民芸館と書かれた建物を通り過ぎる。消滅の危機に瀕した島の伝統織物に対して力強い復興運動が起こり、織物の保存育成をするために作られたのがこの民芸館だ。ミンサー織や芭蕉布などに興味がある人はぜひ訪れたい。織物に興味のない私も見学したいくらいだが、ツアー旅行の悲しさよ、水牛に引かれて通過させられるとは思わなかった。ちゅらさん組も「お土産が遠ざかる」と彼女たちらしい感慨を漏らしていた。

 さて、すぐ先の十字を左に曲がると、右手に開けた公園が広がっている。奥には鳥居のようなものが立っているではないか。ここはまさに「ゆがふ館」のパネルでも説明されていた、竹富島名物「タナドゥイ祭」が行なわれる会場に違いない。さっそく始まった水牛遣いの説明だったが、いささか簡単過ぎるので、後から「牛でも分かるタナドゥイ入門」のガイドブックを見て、祭の説明を書き記しておこう。

「諸君、毎年秋遅く開催する竹富島のタナドゥイ(種子取)祭を知っているか。祭事諸島沖縄でも特に有名な祭で、一九七七年には重要無形民族文化財に指定されたほどのあの祭を。その重要な舞台こそ、ユームチ(世持)の御嶽(うたき)と、その前に広がるあの広場なのである。諸君は尋ねるだろう。それじゃタナドゥイとは何なのさと。問われれば答えよう、この祭は琉球王朝の影響で八重山に伝わった、種まきが刈り取りに成就することを祈る豊作祭である。現に沖縄本島でもタントゥイ(種子取)祭があるのだから間違いない。粟(あわ)や稲の種を蒔く前に、保存された種を取り出しながら神に祈り奉(たてまつ)るのだ。
 竹富島にも古来からの祭はあった。あったが八重山が琉球王朝の勢力に下った一五〇〇年前後に、王朝のタントゥイが取り入れられて、今日に続くタナドゥイの祭が整備されたのだ。十日間も続く盛大な祝祭は、数々の芸能を奉納する七日目と八日目にクライマックスを迎え、ユームチ(世持)の御嶽で様々な芸能さ競い合っては奉納し、奉納しては競い合って、島は祭色に染められていくのだ。奉納される祭は、大きく男たちの行なうキョンギョン(狂言)と、女たちの行なうブドゥイ(踊り)に分けられ、二日間で七十ほどの出し物が立ち替わる。
 まず祭の七日目の朝、御嶽から弥勒(みるく)様のお面を取り出す『みるくおこし』が行なわれ、この白い笑顔の平和と豊潤の神は、奉納の芸能が行なわれていく最中にも、子供たちを引き連れて姿を表わすという儀式に繋がっていくのだ。そんな弥勒さまだが、海の彼方から五穀豊穣(ごこくほうじょう)をもたらす神と讃えられ、他の島の祭にも登場なさる有名な神様だ。しかし奉納にはもう一つ隠された意味がある。奉納と同時に集落対抗の芸能競演を兼ているのである。まず七日目には玻座間(はざま)集落がそれぞれの芸能を奉納し、翌八日目には玻座間集落の北側にある中筋(なかすじ)集落が芸能を奉納し、優れた技を競い合うのだ。そしてその奉納が行なわれる場所こそ、見たまえ、あのユームチ(世持)の御嶽(おん)なのである。」

 付け加えておくと、ユームチ(世持)の御嶽(うたき)があるこの集落全体を玻座間(はざま)集落と言う。この集落はさらに東集落(あいのた)と西集落(いんのた)とに分けられるが、まとめると玻座間(はざま)なのである。奉納儀式の行なわれる二日間に挟まれた七日目の夜には、さらにユークイという行事があり、これは「世乞い」という言葉から来ていて、豊穣を祈願しつつ果てしなく唄い踊る儀式である。一般の観光客でも夜まで残ってさえいれば、参加して歌い踊ることが許され、このユークイは夜を徹して踊り明かし、二日目の奉納祭に突入していくのだ。そしてユークイの晩に交わしあった恋人たちの口づけは、神に認められて末永く成就するという、そんな伝説も…………もしかしたら残されているのかもしれない。そうであれば二人はきっと、星明かりの浜辺に逃れて、そっと口づけをかわすのだろう。たださんごの海に見守られながら。

ユークイの
  ひららめく手に つのる恋
 のがれて星砂の キスをしましょう

 私が妄想にかまけているうちに、再び水牛は発着所に辿り着き、私たちは気さくな水牛遣いに別れを告げた。後から降りてきたガイドさんが「三十分したら再びここに集合して下さい」と伝え、しばらく自由行動となったのである。

 目の前にはお土産屋さん「あかばなー」があり、ハガキやミンサー織の民芸品やら、竹富島で特に有名な香辛料ピィヤーシ(ピパーチ、フィハツ)、さらには星砂までお土産として売られているから、さっそくベレー帽と眼鏡は「あかばなー」に消えてしまった。ちなみに店の名称は漢字で書けば赤花となり、沖縄ではハイビスカスのことを「あかばなー」と呼ぶのである。ハイビスカスは沖縄を代表する日常的な花であり、同時に後生花(ぐしょーぬはな)と呼ばれ、「後生花母やたむけの一周忌」などと詠まれ、墓に捧げられる仏花でもある。一方ではこれを乾燥させた薬茶も健康飲料として、最近では本土でも売られているのだし、例の四人家族がたわむれていた花でもあるわけだ。

喜宝院蒐集館(きほういんしゅうしゅうかん)

 緑シャツも女の後を追って「あかばなー」に消えてしまったので、私はガイドさんの勧めにしたがって、「あかばなー」の隣りにある資料館に入った。ここは一九四九年に開かれた日本最南端のお寺、浄土宗本願寺喜宝院(きほういん)であり、その先代住職が集めた民俗資料を陳列する蒐集館(しゅうしゅうかん)が一緒になっているので、竹富島を知るためにはぜひ訪れたい施設だ。運がよければ館長の上勢頭芳徳(うえしぇどよしのり)さんに会って、民俗や蒐集物について詳しい話を聞けるかもしれない。

 あいにく私が戸口をくぐり抜けると、先にいわゆる家族四人組がもぐり込んでいて、館長は彼らの相手で精一杯だ。ちょうど藁を紐状に編み結んだ展示物の前で、藁算(わらさん)の説明をしている最中だった。藁算というのは、読み書きの出来ない島人たちが台帳を作ったり、物の数量を記述するのに利用したものである。例えばある形で藁が結われている場合に商品Aを表すなら、別の形で編まれた藁は商品Bを表わす。続いて短い藁の結びでその数を表わすとか、いろいろな遣り方で数と品物を表現するような原理らしい。

 館長は息子に向かって台帳の説明をしている。息子の顔は沖縄に不釣り合いなほど色が白い。学生時代には引き籠もりだったに違いない。

「ですからこの藁のまとまりごとに集落の一つの道から、隣の道までが区分けされているのです」

館長は壁に掛けられた藁を指さす。

「この場合その間にある、あの小さな藁の数からですね、幾つの家があって、家族が何人かまで分かります。ほら、数えてみましょう。まずここが三人で、隣りの家がさんしい四人、さらにこちらは五人になりますから、さて区画全体の住人は、合わせると何人になりますかね。」

 すっかり聞き耳モードに入っていた息子は、急に質問を掛けられて頭が混乱したか、

「きゅっ、九人です」

と馬鹿なことを叫んでしまった。館長が笑って

「暑いですからねえ」

と言うので、私は思わず吹き出してしまったが、白い奴は運良く私には気が付かず、慌てて

「すっかり馬鹿になってしまいました。十二人です」

と訂正した。後ろで娘が

「しっかりしろ兄い」

と笑っている。ハイビスカスから顔を出していた父親は、まじめな顔をして館長に

「こっちの藁はどういう意味なのだろうか」

と質問を加え、館長はさらに熱心に藁を指し示している。邪魔をしては悪いから、私は会釈だけして奥に踏み込んだ。

 刀や装飾品を飾っている展示棚の隣りには、平台ケースのようなガラス陳列棚に、紙幣や貨幣が沢山並べられている。貨幣の変遷が網羅されているのだろう。戦後アメリカ統治時代に使用された、紙幣の代わりであるB型軍票(通称B円)やドル紙幣などが飾ってある。一九七二年に日本に復帰するまで、沖縄はアメリカ軍の直接統治下にあり、本土とは異なる歴史を歩んできた、その証拠の品々が、小さな資料館にも残されているのだ。それだけじゃない、大戦末期には本土決戦が現実となった悲しい舞台として、沖縄では多くの島人が命を落としたのである。

 紙幣ケースの横の部屋に行くと、昔の衣類などが展示される一角に、陳列物に紛れ込んだような仏壇が置かれている。つまりこれが喜宝院らしかった。お寺に蒐集館が付随するのではなく、まるで蒐集館の中にお寺が展示されているおもむきだ。宗教心などなくてもお寺ではとりあえず手を合わせる私も、この時だけは調子が出ないので通り越してしまった。

 入り口の部屋に戻ると、今度は紙幣ケースの奥にある部屋を見学する。死者を運ぶための籠や、西表島に六時間も掛けて漕ぎ出したサバニなどが展示されている。これで終わりかと思ったら、部屋の奥隅に小さな出入口があって、くぐり抜けると、ミンサー織などを展示販売する小店が控えていた。女性の従業員がいたが、ずっとおしゃべり電話をしているので、一周見渡して部屋を出た。蒐集館には人頭税に関する資料や拷問の道具まであり、民俗に興味のある人には頼もしい資料館だが、私はいい加減に眺めて館長にお辞儀をして外に出ると、私を捜していた緑シャツとガイドさんが、

「なごみの塔に行きますが一緒にどうです」

と寄ってきた。集落の高台にある物見塔だが、歩いてほんの二,三分ぐらいだという。せっかくだから土産屋で物色しているちゅらさん組も誘い出して、五人で登ることにした。

なごみの塔

 「水牛観光」と「あかばなー」と「喜宝院」が仲良く並ぶ道を、水牛待合い広場に向かって戻ると、先ほどの質問じいさんが、水牛観光の人を捕まえて「あの藁葺きは」と屋根を指して説明を求めている。もう古稀(こき)祝いの七十を超える頃だろうに、この男の好奇心はこれっぽっちも枯渇しないらしい。刻々と照り変わる光線とこだまする小鳥らはのどかに、滑稽なくらい木漏れ日を拵(こさ)えた高木(こうぼく)が、こつこつと積まれた石垣から、ことごとくに抜きん出る。ざっざと音を立てる爪先が愉快で、わざと威勢良く歩いていくうちに、もう丘に辿り着いてしまった。

 見上げれば、丘と命名するには躊躇(ちゅうちょ)するような、ほんのり隆起した高台の上に、人工的にコンクリートの遠見台が設置され、これはまあ可愛らしい名所である。ちょうど降りてくる娘とお母さんの連れが頭を下げたので、ガイドさんが軽く挨拶をする。離島桟橋でシャツを睨んだお母さんだ。シャツは締まりが悪そうに私の影に隠れてしまった。だらしのない奴だ。二人が去った後で背中をつついて遣ったら、彼は知らぬ振りして階段を駆け登る。丘の途中でガイドさんが説明を始めた。

「この赤山公園は本当に小さな公園でありまして、その小さな赤山の丘がそのまま整備された見晴らし台にいたるのです。この赤山という名称は、昔、壇ノ浦で破れた平家の部将が、落ち延びて赤山王として住み込んだという、平家伝説に関わっているから驚きです。昔は高見台からメガホンで連絡を知らせたこともあり、高さはわずか十メートルほどですが、集落における最高地点なのです。

――はい、ここまでは広いですが、コンクリートの遠見台へ登る階段は、尋常ならざる急勾配になっていますから、一人ひとり順番に登っていって、景観を楽しんだら降りてきて下さい。降りる時には、後ろ向きにならないと危ないですよ。常に両手で手すりのところを掴んでいて下さい。」

 なるほどこれは急だ。緑シャツがまず先陣を切って頂上に立ち、塔から見渡すときに歓声を上げたから、私も交替して階段をよじ上る。島を眺望すると、白い道筋から赤瓦の屋根どもが深緑の間に美しく並び、水牛観光が小さな姿で歩いている。遙か先は島が尽き海へ至り、遮ることなき海風が、遠見台を吹き抜けつつ小鳥たちの囀りを運ぶ。海のかなたには石垣島の繁華街まで見えた。空や海は青を基調とし、木々や植物は緑を基調とし、流れる雲と石垣・歩道は白く浮き立っている。朱色の屋根瓦は、ハイビスカスや豊かな色彩の花々だけでは足りなくて、色彩に調和を保つために、無意識に赤く染められたのかも知れない。家々を繋ぐ電線は、木造りの電信柱で橋渡され、まるで昭和初期かと疑うくらい、時代錯誤なたたずまいを見せている。そういえば子供の頃、母方の田舎で、あんな電信柱から足掛けを引き出しては上まで登って遊んでいたが、そんな危険な行為さえ、私の情緒感の形成に一役買っているならば、田舎もなくあらゆる危険から遠ざけられて、小さな冒険を無くした子供たちは、視覚媒体の箱の中に閉ざされて、檻の中の動物たちのような悲惨の境遇にあるのかも知れない。ふるさとの肌や手足の面影も、失せて僕らは誰となるだろう……。

 しかしそんな考えは一瞬で去り、私は心地よく空気を吸い込んで、カメラを構えたり眺望していたが、ようやく順番があるのを思い出して、ちゅらさん組と交替した。

 次は眼鏡が登る。彼女は非常に溌剌(はつらつ)として、私より勢いよく階段を登りきると、空へと語りかけるみたいに「わあい」と伸び上がってみせた。もちろんカメラも取り出して、パノラマのように一周撮って、驚くことに前を向いたままで、平気で階段を下りてきた。緑シャツが驚いて、

「おとこ女だ」

と口を滑らせると、

「何か言いました」

と眼鏡が詰め寄せる。シャツが慌てて首を振る間に、ベレー帽はおっかなびっくり階段を踏み出した。こっちは見ている方が心配になるくらい、危機恐々たるありさまだ。

 ベレー帽はえらく時間を掛けて展望台に立つと、しかし不意に我を忘れたように、島の景観に吸込まれてしまったらしい。風が強いので、右手で帽子を支えながら、遠くを見詰める姿はとても美しかった。練色(ねりいろ)の穏やかな上着と、紺のベレー帽からはみ出した黒髪が、白くほっそりとした顔の輪郭と、さりげなく調和していた。もし私が画家ならば、私は一枚のスケッチを思い出に残すかも知れない。そしてそれを「遠見台の女」として発表するに違いない。画廊に掲げられた巨大なキャンパスは、見あげるたんびにこの島の面影を私に伝えるだろう。そしてその時彼女は、あるいは彼女の未来の夫にその手を引かれて、この絵を批評にでも来るのだろうか……

見はらしに
  風吹くおとめの シルエット
    見つめるかなたの 恋はまだかも

 もっとも降りてくる時は、一人で大騒ぎして、眼鏡が五秒ほどで駆け降りた階段を、一分以上掛かって帰ってきた。彼女は皆に笑われて、仕方ないじゃないとふくれている。ガイドさんは前に何度も登ったのだろう、「さあそろそろ時間です」というと、私たちは反対側の歩道に降りていった。

 小さな公園にはガジュマルの木もあり、綺麗な花が整理されて植えられている。フルートみたいな鳥の歌に誘われて、帰り際に振り返ったら、例の引き籠もりの青年が見晴らしからカメラを構えていた。彼は知らないだろう、私は旅の記念にシャッターを押してやった。時間を待ってバスが戻り来れば、たちまち島の港に運ばれ、私たちは石垣に向かう船を待つ。暇をつぶして港を散策すれば、海へ降る階段には二匹の蟹が寄り添って、コンクリートの壁面には貝殻が幾つもへばり付いていた。

帰りの高速船で

 帰りの高速船では、さすがに後部座席に向かう気力はなく、私は緑シャツやちゅらさん組と船内に座り込んだ。緑シャツがさっそく明日の予定を聞いてくる。

「明日はフリーだけと、みんなどうするつもりだ。俺は一緒に来るはずの友が病に倒れ、譫言のように八重山八重山と繰り返すので、せっかくの旅行が一人旅になってしまった。俺のためにも皆で一緒に観光しないか。写真を一杯撮ってやる」

さすが緑シャツだけに単刀直入だ。

「それは構わないが、石垣島巡りをするつもりなんだけど」

と私が答えると、ちゅらさん組は小浜島でちゅらさん詣でをする予定だったが、どうせなら石垣島も観光したいと欲張りなことを言い出す。前の席に座っていたガイドさんが振り向くと、

「それでは私が計画を練って小浜島観光をしてから石垣島を周遊するルートを考えてあげましょうか」

と合いの手を入れるので、皆は大喜び、意志も荷もなく賛成した。

「お暇でしたらどうです、奮発して一緒に出かけませんか」

と私が言うと、

「では私が運転手をして差し上げましょうか」

とその気になってくれたので、よろしくありがとうと頭を下げると、彼は気さくに了解した。

「それでは朝のうち小浜島観光に参加して、午後は石垣島を巡ることにしましょう。私は昼まで観光事務所に用があります。桟橋まで送りますからあなた方で小浜を楽しんで、午後から一緒に石垣島をドライブしましょう。自動車は私が準備しておきますが、誰かレンタカーを借りた人はいますか」

と聞くから、

「実は明日取りに行く予定です」

と手を上げると、

「会社を教えて下さい。阿漕(あこぎ)なドタキャンをして差し上げます」

とまじめに言うから思わず笑ってしまった。他の三人は迂闊(うかつ)にも手配も計画もないようなので、私だけドタキャンお願いして、万事ガイドさんに任せることにする。

 石垣島の離島桟橋に着くと、私たちツアー客はバスに乗り込んで、二日目のホテルに向かった。誰もが疲れたようで、バスの中は静かなものだ。質問じいさんはすべき質問をまっとうしたのだろう、ぐっすり眠っている。子供たちの話し声もしない。途中石垣島の中心線付近を南に流れる宮良川(みやらがわ)の河口で、しばらくバスを止めてマングローブを眺めることになった。質問じいさんはバスで眠ったままだが、娘連れの中年女性も、運転手と一緒にバスに留まって、背の高い娘だけが降りてきた。娘さんはなかなかに整った顔つきであるから、緑シャツは少し気になっているようで、今日も朝から流し目に彼女の姿を眺めたりしていたのを、私はちゃんと知っている。

「あの母親さえいなけりゃ、誘ってやるのに」

シャツが残念そうな顔で呟いたが、私は笑って取り合わなかった。

 この宮良川のマングローブは、面積としては国内最大のヒルギ群地帯とされ、長さ一.五キロメートルに渡って国の天然記念物に指定されているそうだ。海近くや流れの速い場所ではヤエヤマヒルギが育ち、流れの安定した場所にはオヒルギが成長すると、ガイドさんが説明している。河口付近は地元ではカーチビ(川尻)と呼ばれ、干潮時にはその干潟で、砂を返され捕獲されるドジなシオマネキなど、様々な生物が顔を覗かせるため、すこぶる潮干狩(しおひが)りも楽しめるという。また河口付近にある観光ツアーのお世話になると、川をカヌーで逆上ったり、シュノーケルをしながらの自然観察が楽しめ、カヌーは初心者でも簡単に出来るらしい。

 しかし残念ながらツアーのスケジュールにはないので、海へ向かう穏やかな宮良川と、マングローブの揺れる深緑を眺めてバスに戻った。まだ一八時前なので、頑張って白保の海まで出張しようという欲張りな計画である。聞いた話ではこれでもゆったりした方で、東北や北海道から観光客が押し寄せる冬場には、想像を絶する時間との格闘によって、名所を駆け抜ける恐怖ツアーもあるそうだ。

白保(しらほ)

 白保もまた古い赤瓦の村落が良く残された集落である。サンゴ礁の岩を積み上げた石垣も残され、ちょっと集落を歩いてみたい気がしたが、バスは集落の中にある小学校や、白保の豊年祭が行なわれる嘉手苅御嶽(かでがるおん)を紹介がてらに通過しながら、ガイドさんが

「この御嶽は男性は入ってはいけないのですよ」

などと説明して、やがて海に出た。

 夕方の六時を過ぎているが、日の入りが一時間遅いので、彩度は落ちてもなかなか暮れはこない。「八重山明澄録(めいちょうろく)」の夏の段に、「白保には人魚ひそむや夏嵐」と詠まれる白保の海は、ぶっきらぼうに静かだった。私たち以外浜辺には誰もなく、サンゴ礁の岩肌と、サンゴの砕けたじゃりじゃりした砂地が、そのまま寄せる波へと連なっている。波は白波の立つリーフのあたりで、深みを増した群青へと変わり、遙かなる太平洋へと、遮るものなく伸びていく。島のかけらもない水平線は、隆起した半島やひょっこり瓢箪島(ひょうたんじま)じみた景観には乏しい。しかし、日ざしを斜(はす)に受けた群青の海は、かなたから寄せ来る途中に白波を立てつつ、その白波に濁らされた水色を込めて、私たちの浜辺まで寄せ返すのであった。浜辺の向こうには、岩で並べられてひと囲いした船着き場があり、ガラスの底からサンゴ礁を見学するグラスボートなども、ここを港代わりにして出発するのだそうだ。港には二艘の船が停まっていて、オレンジ色した陽射しが、操縦席のガラスに反射していた。

 肌寒い冷気が風に混じると、私は何となく淋しさを感じたが、緑シャツはさっそく貝殻を探し始め、四人家族は海を背景に写真を撮り出すし、子供らはまたサンダルを履いて渚へと駆けだした。感傷に耽っているのは私だけのようだった。白保の説明はバスの中で済ませたが、例の質問じいさんがガイドさんに、

「空港が白保を埋め立てる騒ぎの頃だったかな。昔訪れたことがあるんだよ」

と言い出したので、

「そうでありますか。空港問題はサンゴ礁保全運動を巻き起こし、世界有数のサンゴ礁の崩壊をすんでのところで阻止したのでありました」

「しかし新空港建設が国に許可されたんだろう。前にニュースで報道されていたのではないかね」

「ええ、何度も棚上げと変遷を繰り返した後、白保より北方にあるカラ岳を平らにして新空港を建造する案が、国の許可を取り付け、実現に踏み出しているのです。ところがこのカラ岳も豊かな自然の宝庫であり、工事の過程で赤土が流出しない保証も覚束なく、白保のサンゴ礁に影響を与えるのではないかと、難しい問題を抱えているのであります。」

「空港があれば便利だろうし、経済も潤うから推進したい。しかし観光の元種が崩壊して、誰がこの島に足を踏み入れるものかと、双方に言い分があるからのう」

二人はしばらく海を眺めていたが、

「今思い出したんだが、潮が引いた後になると、あの白波が立っている辺りまで、たしか歩いて渡った記憶があるんだが。今でも渡れるものかな」

と聞くじいさんに、

「この先にあるワタンジという自然の橋が、干潮時には顔を出し、サンゴ礁を縁取るリーフのところまで、相も変わらず達しています」

と遠くを指さした。

 二人の話すように、ここは世界有数のサンゴ礁を抱えるすばらしい海で、その美しさは潜って始めて知りうるものだ。近くにはサンゴ礁保護研究センター「しらほサンゴ村」もあり、白保のサンゴ礁についていろいろ学べるから、慌ただしい駆け込みツアーでなければ、ぜひ訪れたいものである。そこで知識を得た後は、地元の観光業で行なわれているシュノーケリングやダイビングコースに参加して、この白保の海に乗り出すのが、白保観光の醍醐味である。したがって私たちの観光は、ほんのお裾分けに過ぎないぐらいだ。他にもボートの底から海を眺める簡単コースでも、豊かなサンゴ礁の片鱗に触れることが出来る。

 ところでダイビングはともかく、シュノーケリングというのは何物か、無知な私は興味もないジャンルなので、何も知らなかった。なんでも三十センチぐらいの呼吸ホースをシュノーケルといい、これを口にくわえて、水中眼鏡を付けた顔を浸したまんま、シュノーケルの先だけを海面に突き出して、呼吸をしながら足にフィンをつけて泳ぐ海中散策のことを、シュノーケリングと呼ぶそうだ。つまり酸素ボンベを担ぎ海中に進出する一歩手前の、初心者でも簡単にサンゴ礁を楽しめる、お薦めの観光手段というわけだ。今度来たときには、ぜひ海中世界も知りたいものだと私は密かに決意した。すっかり再訪する気になっていたのである。

 突然緑シャツが、

「でかいのを見付けた」

と叫びながら駆け寄って来た。手には薄い赤線の入った大きな貝殻を握っている。きざきざめいた灰皿のような形だ。ガイドさんに尋ねると、サンゴ礁内生物であるシャコ貝の破片だそうだ。シャツはこれをカバンの中に入れたので、ガイドさんが

「一晩薄めた漂白剤に付けておくと綺麗になります」

と教えてくれた。シャツは

「納得シャコ貝」

という訳の分からん返事をする。遠くのちゅらさん組は貝殻探しを止しにして、船着き場の海を覗いたり、写真を撮ったりし始めた。

 大分さっきより光が陰ってきた。そろそろ浜も夕暮れの仕度を始めるのだろう。私は近くの岩に腰掛けると、何となく手帳を取り出して、落書きを記してみる。

海の彼方に花が咲き
   笑い声した島がある
 愁いや災いなくしたような
    陰りの来ない島がある
  この海漕いで風を受け
     誰かが待っているような
   想いが寄せる砂浜に
      貝殻だけが打ち寄せる

 昔、島人たちは、海を見ながらそんな想いに誘われて、舟を漕ぎ出しはしなかったろうか。遙か南のどこかの島に陰ることなきパラダイスがあるという、沖縄のニライカナイの伝説も、果てなく寄せる波の誘惑が、ふっと戯れに蜃気楼を見せただけなのかも知れない。私は最後に落書きの上に「にらいかない」と題名を付けて手帳を閉じた。また風が吹き、停泊中の船がゆらりと揺れる。停泊中の船がゆらりと揺れて、またひとしきり風が吹き来る。やがてガイドさんが「戻ります」と合図をすると、私たちはバスに乗り込んで、静かな浜辺を離れた。海の見える際(きわ)を少しく北上して景観を楽しみつつ、ゆっくり回り道さしてホテルに辿り着いたのは、もう一九時を大分回ってからの事であった。

そしてホテルへ

 白保から宮良川に戻る半ばに、ようやく色を失い始めた夕まぐれ、そのホテルは牛たちが飼育されるような、暢気の丘に建っていた。周りには牛の鳴き声以外、住宅とてもあまりないようだ。ホールに入ると右手には小さな土産屋があり、左手にはフロントの綺麗なカウンターが、そして正面奥はレストランが構えている。さっそくホテルの従業員が「オーリトーリ」と言って、私たちを迎えてくれた。ガイドさんが夕食について説明し始めた。それから順番に部屋の鍵が配られたのだが、さすがに皆さま疲れた様子で、会話も少なくエレベーターの方に歩いていった。夕食までの間、部屋でリラックスしてお茶でも飲むつもりかもしれない。土産屋のおばさんは、客が来ないのでちょっと残念そうにこちらを窺っている。ちゅらさん組もさすがに土産屋には目もくれず、

「後で遊びに行くね」

と言って自分らの部屋へ向かった。

「俺たちも早く部屋に入ろうぜ」

緑シャツは栄養ドリンクが逃げ出すくらいに元気だ。実はガイドさんが部屋を交換してくれたので、私とシャツとが一緒の部屋となった。もともとホテル側でガイドさんのために用意した部屋らしかったが、ありがとうと鍵を貰ってさっそくエレベーターに乗り込んだ。ドアを開けるとたいした部屋で、さっそくシャツが騒ぎ出す。部屋ごとに見て回りながら、

「ベットルームが別にある」とか、

「風呂がもう一つ外にある」とか、

「執事付きでもへっちゃらだ」とか、

「マッサージ器だ、快適ライフ」などと、訳の分からないことを叫んでいる。まったく疲れ知らずな奴だ。それにしてもテレビもリビングルームとベットルームにそれぞれあるし、風呂が二つもあるのは贅沢だ。ガイドさんに感謝しつつコーヒーを入れていたら、ちゅらさん組がさっそく遊びに来て、部屋に入るなり

「外に風呂がある」とか

「二人だけずるい」と言って騒ぎ出した。

 すこし話をしてから、夕食のため一階に降りて、レストランの四人席に着席すると、メニューが配られた。今日のディナーはチケットを使用して、好きな時間にレストランで楽しめるので、席には大分ゆとりがある。宿泊客自体、私たちのツアーを除いて、団体はいないように見える。さっそくメニューを開くと、ステーキのコースなどが並んでいる。並んではいるが、明日はガイドさんが石垣牛を紹介してくれるそうだ。だから今日は肉は控えようとちゅらさん組が提案して、私もいろいろ試してみたいので、魚料理を捜して

「じゃあこれにするよ」

と指さした。ちゅらさん組も散々悩んだあげく、私と同じ料理にしたので、ステーキにしようか迷っていたシャツも同意して、結局四人揃ってミーバイという魚のコースを頼むことになったのである。ウェイターが来たのでミーバイについて尋ねたら、当地の言葉でハタ類を総称して呼ぶのだそうだ。ハタと言っても、実際はマハタにアカハタ、クロハタと六十以上もの属と、四百五十もの種に分けられるはずだが、名前を聞いてもどうせ分からないのだから止めておこう。私たちはミーバイのコース四つと、おしゃれ気取りの赤ワインを注文した。

 ミーバイを待つ間、緑シャツが突然、

「イングリッシュミーバイ」

と言い出した。続けて、

「アイ、マイ、ミー」

と嘘くさいイントネーションで発音するから変な奴だと思って見ていると、ゆっくり言葉を強調しながら、

「アイバーイ、マイバーイ、ミーバイ」

と変な表情で唱えてから、おかしな抑揚を付けて

「そしてオッレバーイ」

と締め括ったので、一人壷にはまった眼鏡が静かなレストランで吹き出して、お陰で私たち全員が白い目で見られてしまったではないか、この愚か者めが。睨んだ眼鏡に緑シャツが、

「許して欲しいバイ」

と言うから、眼鏡が

「許さんたい」

と突っ込むと、ベレー帽が

「鯛じゃないわ、ハタよハタ」

とまじめとも冗談とも分からないことを言って、静かに笑っている。それを斜(はす)に見た私は、えくぼが可愛いではないか、と思わずどきりとしてしまい、慌てて頭を振った。いけない、いけない。紳士諸君のための紀行文が、気さくな恋愛小説に陥ってしまうところだった。どうも南の島に来ると、精神までとろけて柔らかくなってしまうようだ。ウェイターが迫ってきたので、私は「お静かに願います」と注意されるのかと思って慌てたが、彼は「ワインです」と言ってデカンタとグラスを席に並べると、音もなく立ち去っていった。

 ワイングラスをかち合わせてから喉を潤すと、順番に料理が届けられ、アオサの込められたスープ、島で取れたての野菜、メインのミーバイソテーとライスを楽しんだ。フォークを口に運ぶとミーバイ料理は、はかない淡泊さをソースで支えてしかも殺さずといった所で、それはどんな味か問われても困るが、なかなかに美味しかった。ミーバイをナイフで分けていると、後ろから声がする。はてな。密かに振り向いてみたら、どうも驚く、ハイビスカスの四人家族が一席空けて腰を下ろし、食事も終わったらしく、コーヒーを飲みながら会話を楽しんでいるではないか。話の前後は分からないが、なんでも少子化問題から進んで、親父が

「子供を作ってからの方が学ぶことも多く、本当の人生だ」

と言いだして、転じて白い息子に結婚を迫っているようだ。

 面白いので耳を傾けていると、白い息子が突然、

「社会的に見て、比較的子供を産み育てることに専念する世代と、子孫よりも自分たちの人生を謳歌(おうか)したいと考える世代は、経済発展の状況やその国の政治社会の状況と成熟によって、経済成長率や景気のインフレとデフレの交替のように意識が移り変わる。そしてそのようなパラダイム変換は、古代ローマ時代からずっと続いている」

と言いだしたので、親父の方も、

「そうだ。大なる視点で見ると、そのような考え方や価値観の変遷が、その国の、その社会の、あるいは世界の人口バランスを自動調整する意味を持っているのかも知れない。経済的に遅れ貧しい国では沢山の子供が生まれるが、同時に沢山の子供が亡くなり、それが発展途上で経済成長している状況になると、死亡率も減り増加する子供たちが経済発展の人的材料となっていく。一方成長がなだらかな先進国では、豊かになった人々は余剰資本を享楽に投資し、自らの生活を楽しみ子供の数は減少し、その比較的横ばいの成長を維持するような出生率になる。だからこそ発展途上国が先進国に追い付くことも出来るわけになるが、追い付くと今度は出生率が下がってくる。現在の日本の出生率の低下も、大きく見ると経済成長後の必然として起こり、危機的状況に陥れば、再び子育て支援の政策が打ち出され、子作りのスローガンが掲げれられ、それまでよりわずかに上向きに回復される。出生率の急増と急減を越えた日本では、これからあるラインを維持する時代に入ったのかも知れない」

と、ハイビスカスに紛れ顔だけ出していた中年親父とは思えないようなことを言いだした。白い息子が、

「日本は馬鹿だからジェットコースター並みに減少する一方かも知れない」

といって笑っている。

 沖縄では経済所得は全国平均を下回り、にも関わらず出生率は非常に高いそうである。あるいは話が沖縄事情に移るかと期待したが、すかさず母親が、

「でもひとりひとりが子供を産むかどうかは、その人の意識の問題よ」

と言うので、親父もそうだそうだと賛成して、せっかく話を反らし掛けた白い息子は、またしても結婚して子供さ作られと迫られている。困って妹に

「そうだぞ、分かったか」

と振ったところ、

「年上のあにいを差し置いて結婚は出来ないし」

と切り替えされ、簡単に打ち負かされて苦いコーヒーを飲み干した。

 ちょうどそこでベレー帽が連続テレビ小説「ちゅらさん」の話を始めて、こちらもコーヒーを飲みながらのおしゃべりタイムに入ってしまったので、彼らの会話は分からなくなってしまった。

「この無頓着極まりない高齢化の奈落の底に」とか、

「中国の経済力が」どうのこうのという言葉が少し聞こえてきたので、しばらくは喋っていたようだ。思い出してそっと振り向くと、彼らはいつの間にかいなくなっていた。

 私たちの席では、全員が「ちゅらさん」を見ていたことが発覚して、ファミリーレストランなみの盛り上がりを見せ始めた。しかも後から作成されたスペシャルドラマの「ちゅらさん2」と「ちゅらさん3」まで、録画して何度も繰り返したというから驚きだ。実は私も、今頃になってゴーヤーマンを購入しようと決意している隠れファンである。当然話も膨らんでコーヒーが冷めるほどだったが、緑シャツが主人公の兄の物まねをしますと宣言して、静かなレストランを震撼(しんかん)させる勢いだったので、私は慌てて続きは部屋で聞こうと立ち上がり、物まねだけは回避しておいた。これ以上騒いだら、このホテルからつまみ出されるに違いない。

「それよりまずガイドさんの部屋に行って、明日のスケジュールの打ち合わせをしないと」

そう言ってロビーに出ると、左奥の土産屋では四人家族が、商品を手に取ったり帽子を被ったりしている。私たちも明日あの店に寄ってみよう。その後、階段を登ってガイドさんに確認を取って、部屋で緑シャツの物まねに大笑いして、ホテルの大浴場で疲れを取ると、さすがに長い一日の疲れからぐっすり寝込んで、気が付けば翌朝の七時三〇分になっていた。

2015/10/29 掲載

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