八重山の思い出その2

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バンナ森林公園

「間もなくバンナ公園南口であります。これより公園中央を走り抜けるバンナスカイラインに侵入します。曲がりますからご注意下さい。」
 ガイドさんの言葉にあわせて、バスはハンドルを右に切り、公園の中に入り込んだ。前方にはバンナ岳の山頂があり、山麓(さんろく)一帯に広がる公園には、亜熱帯地方の植物が覆い茂っている。薄い雲を抜けた日射しが樹木を鮮やかに照らし、日を受けて反射する深緑と、枝葉に遮られた影のコントラストは、どうしても初夏の景色だ。ガイドさんは公園の説明を始めた。
 「標高230メートルのバンナ岳の麓(ふもと)に広がる公園は、正しくはバンナ森林公園と呼ぶのであります。森林地帯は幾つかのゾーンに分けられ、例えばこの南口付近には、『バンナ森』や『いこいの広場』があり、すこし北西に行くと『自然観察広場』も広がっています。各ゾーンは舗装道路で結ばれていますが、中でもバンナスカイラインは中心を抜ける大動脈を担っているのです。」
 うっそうとした森林を登って行くと、やがて広い駐車場の整備された、不自然な彩色の展望台が現われた。あれが「エメラルドの海を見る展望台」だ。「見える」ではなく「見る」としたところに自信を感じさせるが、展望台の方はあまり見られたものではなかった。元々は木造の落ち着いた展望台があった隣に、トイレの整備と駐車場の拡大を兼ねた新築が、2億7700万円を掛けて建造され、自然景観にあえてチャレンジするような、アバンギャルドな姿で立ちはだかっている。奇抜な施設が自己主張を繰り広げ、自然との調和を崩壊させるデリカシーのなさは、ほとんど噴飯ものと言ってもいい。しかし階段を登り切った私達は、つい言葉を失ってしまった。施設はともかく見渡す景色は、「エメラルドの海を見に来なければなりません。今すぐにです!」と呼びかけたくなるほど美しい。視界の開けた南側には空港と石垣島の市街地が広がり、その彼方には宝石のような海が広がっている。まさにエメラルドの海だ。市街地周辺はすぐ田畑や植物の緑に変わり、様々なブルーが混じり合ったサンゴ礁と、美しく調和している。吹き抜ける風が鳥達の鳴き声を運ぶ。
 突然後ろで「キィ、キィ、キィキュルルルルルゥ」という響きが聞えた。鋭い「キィ、キィ」という高音の後に、スライド管楽器で連続的に音程を下げたような、キュルルルともキュロロロとも表現しがたい声が谺(こだま)したので、驚いて振り向くと、覆われた樹木の中から真っ赤な鳥が、突然飛び出して彼方に消えていった。朱色のくちばしから燃え出して、全身が炎に包まれたようなその姿は、まるで火の鳥の雛のようだ。後で聞いたらあれはリュウキュウアカショウビンといって、冬になれば南方に消える渡り鳥なのだそうだ。ショウビンとはカワセミの呼び名で、日本本土でも梅雨の時季になると南国からアカショウビンが渡って来るが、沖縄で見られるのはその亜種だという。
 この鳥は「水恋鳥」という美しい別名を持っている。火事で焼けた娘の魂が鳥になって、水が恋しい水が恋しいと鳴いているのだそうだ。また梅雨に繁殖期を迎え鳴き声を上げることから、姿を見かけると雨が降るとも云われている。そんな雨降鳥だが、晴れた日に鮮やかに映える姿も美しい。炎を抱え大空に羽ばたく姿を浮かべ、私はふと自分の生活を顧(かえり)みた。鳥のように自由な翼で舞い上がらないと、人は小さな枠に捕われて、それが世界になってしまうのかも知れない。顔を上げれば海岸線が島の輪郭を描き出し、市街地から少し西寄りの方に、大きな島が浮いている。ガイドさんがさっそく説明を始めたが、気にせずカメラを構えている夫婦もあり、手すりを乗り出している緑のシャツもあり、若い女性の2人組は、ようやく今頃展望台に辿り着いた。
「この輝かしい景観には、まるで山々が重なり合うように沢山の島が浮かび、私達はこの地方を八重山と呼ぶのであります。あのエメラルドに輝く海は、サンゴ礁を抱えた浅海を日光が照らし、宝石のような色彩を生み出しているのですが、八重山地方一体に広がるサンゴ礁群は、石西礁湖(せきせいしょうこ)と呼ばれています。幸い今日は天気にも恵まれ、自然の圧倒的な景観の前では、人工的に作られた繁華街もまた、美しく輝くことを理解出来ると思います。もしあの市街地が途切れず、森林や畑の代わりにどこまでも広がっていると仮定してご覧なさい。どんないがっかりするか分かりません。」
 なるほど遠く広がる市街地は決して醜くはない。自然の中に我々の生活するコロニーがあるような、人間的な喜びを感じるから不思議だ。自然と人工のバランスや、密集してそびえ立たない都市空間のせいかもしれない。不意に居酒屋で都市景観を呪った彼の言葉が浮かんだが、この風景を見せたら、彼は何と言うだろう。ガイドさんは南西の方を指差した。
「近くに浮かんでいる平らな島は竹富島であります。山も川もない小さなサンゴの島は、古い伝統的集落に約340人ほどが生活しています。その奥にはずっと大きな島が見えるでしょう。あれが西表島です。私達は明日(あした)西表島に出発して、午後に引き返して竹富島観光を行ないます。島には高速船で出発しますが、ほら、石垣の市街地の向こうに船の発着が見えるでしょう、あれが港です。ではしばらく時間を取りますので、お好きなようにカメラを構え、景観を楽しんで下さい。手洗いが気になる方は、下にトイレがあります。」
 観光客はさっそく記念撮影を始めたり、遠くを指差したり、心配性の何人かはトイレに消えていった。私もデジタルカメラを取り出してシャッターを切り、名も知らぬ鳥の声や、風に揺れる森のざわめきに、静かに耳を傾けていた。瞳を閉じて深呼吸をすると、音だけが心に浮かび上がってくる。非常に愉快だ。少し先では家族連れが、中年夫婦にカメラを渡して、横一列に並んでいる。緑のシャツを着た若者はガイドさんと話していたが、やがて下に降りて木造の展望台に向かった。娘と母親の2人連れは缶ジュースを開けて飲んでいる。
 私が市街地を見ていると、ガイドさんが近づいて来た。「どうです、シャッターチャンスはありましたか」と聞くから、ここは夕方も美しいでしょうと尋ねると、「あの西の海をご覧なさい、名蔵湾(なぐらわん)が広がっています。遙かな東シナ海の水平線に夕日が沈むとき、石垣島は真っ赤に染まるのです。そして日が暮れると、市街地の明かりが1つ2つと浮かび上がって、ここは最高の夜景観測所に変わるのです」と教えてくれた。私は美しい夕暮れを想い、1人で手帳を取り出すとペンを走らせ、最後に「夕暮れ残照」と書き足した。

「夕暮れ残照」
夕暮れ残照海を染め
風さえ赤くなりました
麓(ふもと)の畑もゆらゆら燃えて
心もいつか染まります
火灯し頃(ひともしごろ)が近づいて
遙かな私の住む町が
ぽつりぽつりと街灯
飾って色を落とすとき
見上げる空は深い青
瞬く星は誰のもの/星が瞬き始めます

 バスに戻ると、人数確認前に運転手はアクセルを踏んだ。足りなかったら引き返そうという暢気さが心地よい。このスカイラインは私道かと思うぐらい交通量が少なく、私達だけが亜熱帯植物園を走っているようだ。しばらく行くとまた展望台が現われたが、バスはもう止まらなかった。
「このスカイラインにはエメラルドの展望台以外にも、石造りで自然に調和させた『南の島の展望台』や、カンムリワシの卵を形どった『卵の形の展望台』があり、今見えた展望台がまさにそれでありますが、正しくは『渡り鳥観察所』と呼ぶのであります。まるで宮沢賢治の命名したような展望台が続きますが、この観測所では毎年9月後半になると、八重山で有名な渡り鳥、サシバの到来を観察することが出来ます。夏を日本列島で過ごしたサシバが、秋風に誘われるようにフィリピンなどへ旅立つ途中、宮古島や八重山で羽を休めるのです。またこの観測所のずっと北には、優良児の育成と家族団らんを踏まえた『ふれあい子供公園』のゾーンがありますが、今日は西に向かって『森林散策広場』で聖紫花(せいしか)の橋を見学しましょう。」
 ガイドさんの説明が終わる頃、バスは空っぽの駐車場に私達を降ろし、怠(だる)そうな運転手は居眠りの準備をする。この運転手はさっきも展望台でぐうすかと眠っていた。私はちゃんと知っている。駐車場には北口と書いてあるが、地図を見るとほぼ公園東部に位置し、南口からスカイラインに侵入したバスは、公園をほぼ南西から北東に走り抜けた形になる。私達はほとんど誰も居ない公園を歩き出した。散策の遊歩道は綺麗に整備され、新しい植物が顔を出すたびにプレートが付けられている。学習のためにも好奇心のためにも、配慮の行き届いた施設である。先ほどの展望台といい、これほどの公園を市街地近くに持つ石垣島の人は幸せだ。
 遊歩道ではハイビスカスやブーゲンビリアはもちろんのこと、巨大なシダ植物であるヒカゲヘゴや、1月に花を咲かせるヒカンザクラ(緋寒桜・彼岸桜と紛らわしいため最近ではカンヒザクラ《寒緋桜》とも)など様々な草木(そうぼく)に出会える。しばらく歩いていたら、ヤシ園まで現れて、ヤエヤマヤシを筆頭に何種類ものヤシが並んでいた。実を付けているのもある。そう言えば沖縄本島に行った時は、ココヤシの実を割ってストローでココナッツジュースを飲んだっけ。
 そんなことを考えながら、駐車場から大体12、3分ぐらいだろうか、目の前に大きな吊り橋が現われた。「聖紫花(せいしか)の橋」だ。公園の東部には石垣ダムがあって、ダムの水面(すいめん)が見下ろせるように掛けられた橋は、沖縄県唯一の吊り橋とも云われている。聖紫花に合わせて薄ピンクに塗られた骨組みに、板が一面敷き詰めてあるが、底の見える隙間があるから、高所恐怖症の人には辛い橋だ。踏み出すと板はギイギイ音を立てる。風が吹くと吊り橋が揺れる気がして、ふと下を見た時には思わずどきりとした。たった今、大地震でもあったらどうなるだろう。どうも足の下が宙ぶらりんだと、度胸のないことばかり浮かんできて、自分でも情けなくなった。その点、シャツを着た青年は高所大好き症らしく、大喜びでガイドさんの前を歩き出す。高校生ぐらいの娘を連れた母親は渡るのを断念して、娘だけが付いてくる。ガイドさんは橋の真ん中で立ち止り、ダムや公園の説明を始めた。私は心細い場所に立たされて、下が気になってしかたがない。しかし子供達は大喜びで橋から顔を出して景観を眺めていた。しばらくすると「戻りましょう」とガイドさんが言うので、ほっとして足を返すと、すでに橋を渡りきっていたシャツが、待ってくれとばかりに板の上を走り出した。途端に橋が左右に揺れる。危ない、何てことをするんだ。ガイドさんが慌てて「吊り橋で走ってはなりません」と叫んだら、シャツは「すいません」と答えて歩き出したが、今度はツアー客の子供達が橋を揺らせる事実を知って、大はしゃぎして飛び跳ねだした。ガイドさんは「吊り橋で飛び跳ねてもなりません」と慌てて注意をする。これじゃあまるで小学校の修学旅行だ。どたばた劇を繰り広げながら戻って来ると、さっきの母親が聖紫花を見ながら待っていた。ガイドさんはさっそく花の紹介に入る。
「この、白ツツジに紫めいた高級染料を滲(にじ)ませ、あるいは薄いピンクの化粧液を数滴垂らして、淡く染め抜いたような聖紫花(せいしか)は、ツツジの仲間であります。渓流の岸などに咲く沖縄の花で、3月から4月の初めにかけて、清楚なたたずまいでひらく姿は、西表島の浦内川(うらうちがわ)上流などで見ることが出来ます。かつては『まぼろしの花』とまで言われた奥ゆかしい花を、バンナ公園では丁寧に栽培して人目にさらしてしまいました。」
 だからといって、バンナ公園には聖紫花がよく似合う、と宣言した文学者はまだ居ないようだが、確かにこの花は人目を逃れる繊麗(せんれい)の姿を、尚更(なおさら)に見たいと思う旅人の琴線に触れるものがある。優しい花だと思った。さっきの小学生を連れた一家が、携帯電話を使って交互に花を撮影しているのは、なんだかデリカシーに欠ける気がした。悪ガキ3人組みは、すこし前にもジュースの空缶を置き去りにして、ガイドさんに優しく注意されていた。子供は無頓着に残忍なものだから、自分達だけだったら、平気で花をもぎ取るかもしれない。私達は花をしばらく眺めて、再び駐車場に向けて散策を続けた。
「このゾーンにはマダラチョウ科で日本最大の蝶『オオゴマタラ』を育成した蝶園があり、このオオゴマタラは石垣市の蝶に指定されています。またホタルの季節になれば、夜が待ち遠しいホタル街道もあり、八重山の名称を持つヤエヤマヒメボタルは、ゴールデンウィークをピークとしていますから、もう夜になれば淡い光が点滅しているはずです。こんなに見所満載のバンナ公園ですから、3日間を公園ツアーに費やしても飽きることはありません。急いで離れるのは残念でありますが、ツアー観光の悲しさと諦め、さっそくバラビドー観光農園に向かうことにしましょう。」ガイドさんが締め括って駐車場に戻った私達は、寝起き顔の運転手に迎えられて、冷房の効いたバスに乗り込んだ。
 バラビドー観光農園までは、ほとんど掛からなかった。ここは僅(わず)か200円の入場料で楽しめる観光農園で、バンナ森林公園の続きのようなものだ。ヤシ園や蝶園もあるが、私達はここで南国ならではのフルーツをつまみ食いし、マンゴーやパッションフルーツの絞りジュースを飲むことが出来る。私はつい大好きなパイナップルジュースを注文して、旨い旨いとグラスを空にしてから、しまった知らないフルーツにすればよかったと後悔した。若い2人娘のペアは互いのジュースを交替して、2種類の味を楽しんでいる。こういう時は知人が必用らしい。ふとガイドさんの方を見ると、彼はサンピン茶を飲んで済ましている。きっと何度も訪れて、ジュースは飲み尽くしたのだろう。私も沖縄のツアーガイドになりたくなった。ついでにシャツを見たら、強者の彼は1人で2杯飲んでいた。何て奴だ、後で腹でも壊してうなされているがいい。3人の子供達に至っては、ついに飲み物を巡って喧嘩を始めて、最後にはお父さんに叱られてしまった。観光ツアーもなかなか面白いものだ。私達は30分ほど農園に滞在してから、次の目的地に向かったのである。

石垣島鍾乳洞

 本日最後の観光地は石垣島鍾乳洞だ。西に傾く太陽が、薄黒く色を加えた窓ガラスから差し込み、ツアーを仕切るガイドさんは鍾乳洞について解説をする。だんだん調子が出てきたようだ。
 「そもそも、私達の今走っている大地、この石垣島というものは、サンゴ礁が隆起した島でありまして、これから見ていただく鍾乳洞も、地殻変動や地震津波などで裂けた地中が、亜熱帯性気候のふんだんな雨水に浸食され、石灰岩が溶かされて形成されたものであります。つまりは雨水に含まれる二酸化炭素が、非常に長い年月を掛けて、石灰質を溶かし流した結果でありまして、この鍾乳洞の主な形成は、1万年前にヴュルム氷河期が終わるよりずっと前、およそ20万年前から5万年前頃と考えられています。ですから、4万年前に登場する新人類、つまりホモ=サピエンス=サピエンス属の、クロマニヨン人などが登場するよりずっと早く、この鍾乳洞は誕生したといえるでしょう。沖縄は有数のサンゴ地帯ですから、その主成分である石灰が築き上げた鍾乳洞も、すなわち大変多いわけでありまして、大小100を優に越える鍾乳洞が存在します。例えば沖縄本島にある玉泉洞(ぎょくせんどう)は有名な観光地ですが、全長で約5000mにも達し、岩手県安家洞(あっかどう)の日本一の長さ12000mには及ばないものの、山口県にある秋芳洞(あきよしどう)の3700mよりもずっと長いのあります。ただし、観光洞としての長さは秋芳洞が1kmにも達しますから、660mの観光ルートを持つ石垣鍾乳洞より遙かに長いのですが、しかし、しかしです。はたして観光がすべてなのでしょうか。石垣鍾乳洞の持つ幾分味気ない照明、そして観光ルートの短縮は、決して観光客へのアプローチ不足を物語るものではなく、人口の開発を最小限に止め、少しでも自然のままに保存しておきたいという、環境への配慮に他ならないのであります。」
 そんな熱弁を聞きながらバスは停車場に止まり、目の前には竜宮城を形どった建物が控えている。あれが「石垣島鍾乳洞」だ。施設にレストラン竜宮と土産屋がセットになって、「竜宮鍾乳洞」とも呼ばれている。私達が中に入ると、突然「おーりとーり」と書かれた謎の看板が現われた。これは何の呪文だろう。鍾乳洞の扉を開くアリババの暗号かと思ったが、そうじゃあない、実は石垣島では「いらっしゃいませ」の事を「おーりとーり」と言うのだそうだ。沖縄本島では「めんそーれ」だから、島が違えば随分変わるものだ。同じ八重山諸島でも、島が異なると発音が変化し、例えば小浜島では「わーりたぼり」と言うらしいが、離れた宮古島になると、「んみゃーち」という「ん」から始まる言葉で「いらっしゃいませ」を表わすという。沖縄の方言が島ごとに異なると知ったのは、これが最初だった。沖縄方言の中にも中心的方言と、方言の方言があるのは、言語問題の奥深さを感じさせるが、特に沖縄本土と宮古諸島と八重山諸島は、それぞれ独自の地域形成をしてきた歴史があり、3つの方言で互いに話をしても、まったく通じないとも云われている。しかしそんな豊かな言語の奥行きも、恐るべき標準語政策の末路として、今ではすっかり廃れてしまったそうだ。純粋な沖縄方言を話せる人は、もう年配の人だけになってしまった。
 原色豊かな草花を横目に、階段を降(くだ)ると鍾乳洞がポッカリ開いている。照明を受けて肌を晒す鍾乳石が、色彩の乏しい黄泉の国の到来を告げる。目が慣れるにしたがって、歪み曲がった石柱(せきちゅう)だの、ツララのような岩が浮かび上がり、狭いルートが奈落に向かって折れ下がる。私も秋芳洞だの、沖縄本土の玉泉洞などを見学したことがあるが、確かにここの照明は幾分質素なもので、洞窟自体も飾り気の少ない、偶然通りかかった人に普段着の姿を晒(さら)しているようだ。鍾乳石との距離が近いので、安いアトラクションに陥らない臨場感があるのかもしれない。そんな好印象で地下を巡っていたら、後でディズニーランドのようなイルミネーションコーナーが登場したので、私は面食らってしまった。これが良いか悪いかは皆さんの判断にお任せしよう。
 しばらく円柱やツララを眺めながら奥に向かうと、成人過ぎの息子と娘を持つ4人家族が、カメラを構えてルートを遮っている。仕方がないので、撮影が済むまで待っていた。すると娘は石灰のタケノコに足をかけて、マドロスさんのポーズを取っているじゃないか。鍾乳石を踏みつけるとはいい度胸だ。今度は交替して息子を撮影するつもりらしいから、私は慌てて彼らの間をすり抜けた。やれやれと思って振り向くと、もう誰も居ない。急に孤独になった気がする。僅(わず)かな曲がり角によって、人が消える錯覚に陥るほど、静かにしずくを垂らす闇の世界は、入り組んでいて視野が狭い。
 観光のルートは工事中の部分があったり、味気ない白色蛍光灯の部分もあったが、天井から釣り下がる「ツララ石」や「石柱」などと共に、地面から生えたような「石筍(せきじゅん)」が美しい白肌を覗かせている。この石筍は至る所にニョキン出ているので、刈り取って調理したいぐらいだ。ガイドさんに聞いたら石垣島鍾乳洞は、日本一「石筍」が多い鍾乳洞なのだそうだ。後ろから来た若い2人連れの女性が、「この白いタケノコおいしそう」「栽培したら何年でこの大きさになるかな」と囁(ささや)いていたが、ガイドさんが「10年で1ミリぐらいは成長します」と教えると、「10年で1ミリなの」「食べる前に死んじゃう」と非常に驚いている。3人を置いて先に進むと、今度は吊り橋を揺らしたシャツが現れた。彼は途方に暮れた様子で手すりを見下ろしている。すっかり気の軽くなった私は、ためらいもなく「どうした」と声をかけると、下の鍾乳石ゾーンに手荷物を落としてしまったらしい。私はちょっと辺りを見回して、さっと手すりを乗り越えて拾ってやった。別段重要そうな鍾乳石も無いので、例外的に行動したのだから、読んだ皆さんは真似をしてはいけない。シャツは「ありがとう」と感謝しながら、いきなり10年来の友達のように話し始めるので、私はちょっと驚いてしまった。普段ならあまり図々しいのは苦手なのだが、その時はなんだか非常に嬉しくて、彼と話しながら地底探索を続けることにした。せっかくだから時々設置されている説明書を元に、鍾乳洞についてまとめておこう。もちろん鍾乳洞で書き写したのではない。カメラで撮影してホテルに帰って記したものだ。シャツは何故そんなものを撮るのか不思議がっていた。

 全長3200mのこの鍾乳洞が始めて本格調査されたのは、昭和48年から50年にかけて。観光用に開かれたのは平成6年になってからだ。ここの鍾乳石は100年間に6mmから10mmも大きくなり、日本一成長が早い鍾乳洞とも呼ばれている。成長が早いとはどういう意味だろうか。そもそも鍾乳洞というのは、例えば石灰岩の地層に様々な条件で亀裂が走り、そこから二酸化炭素を含んだ雨水が、石灰岩を浸食しつつ空洞化し、同時に解かされた石灰岩は、溶けながら一部が鍾乳石に戻って、沢山の岩の芸術が形成されるのだが、その石灰水による鍾乳石の形成が、非常に早いのである。石灰石灰と何度も繰り返すので、余計なお節介を焼いておくと、そもそも石灰岩とは、石灰つまり炭酸カルシウム(CaCO3)の殻を持つサンゴや有孔虫の死骸などが、積もり積もって大地の圧力で岩となったもので、それ以外の堆積方法もあるとはいえ、この石垣島鍾乳洞はまさにサンゴなどのなれの果てから出来ている。
 鍾乳洞といえばコウモリや、目が退化し色素が抜け落ちた白子化(アルビノ)小動物などが住んでいるものだが、石垣島鍾乳洞には「石垣カグラコウモリ」「八重山キクガシラコウモリ」などの他には、ほとんど生息していないようだ。また、石垣島を含む八重山地方では神の聖域をウタキ(御嶽)、またはオンといって崇めているが、そうしたオンの近くには大抵鍾乳洞があって、人々が洞穴を神聖神秘の秘境と考えていたことがよく分かる。一方で、沖縄本島では洞窟つまりガマは、太平洋戦争の犠牲のシンボルにもなっているが、この石垣島では幸いそのような洞窟悲劇は免れたようだ。

 鍾乳洞を出ると、地上は夕方の支度を始めたところだった。亜熱帯植物の小さな庭園が、ようやく1日の暑さから開放され、東京より1時間も遅れて色彩を落とし始めた。振り返ると、私達は竜宮城の建物から地上界に放り出されたようだ。鍾乳洞が竜宮城の内側という主旨なのだろう。2人で施設に戻る小道を歩いていると、サボテンのような平たい葉をした植物に、赤いものが幾つも咲いている。花かと思って近づいてみると、どうやら違うようだ。赤い葉っぱが何かを包み込んで丸く固まったような姿をしている。「これは実かな」と私が聞くと、シャツも「どこかに名称が書いてあるんじゃまいか」とプレートを捜し始めた。
 後ろから「どうしました」と声がする。誰かと思って振り向くと、鍾乳洞から戻ったガイドさんだった。さっそく「この赤いのはなんですか」と尋ねてみる。
「これはサボテンの仲間、ドラゴンフルーツであります。花の時期はとうに過ぎて、今は出荷を待つ年頃でありますが、花の頃は非常にメルヘンチックなのであります。なぜならある満月の夜に一斉に開花して、月神アルテミスと美しさを競い合い、翌朝には力尽きて萎(しお)れてしまうという伝承があるからです。そして実際、満月か新月に合わせるように、大きな原色の白い花が咲き、朝のうちに萎んでしまうのです。萎んだ後からこの赤い実が成長し、やがて果物コーナーに並ぶのですが、それでもきっぱりと割れば、中は白いから不思議です。少しキュウイのような甘くさっぱりした味がしますから、ぜひ一度試してみてください。」
 後で確認したら、ドラゴンフルーツにはピンク色の果肉もあるそうだが、味は変わらないそうだ。私達3人が施設に戻ると、レストラン竜宮には料理が重箱風に並べられている。私はガイドさんとシャツと一緒の席に座り、全員が揃うまでお茶を飲みながら話していた。やがてガイドさんは観光客の人数確認を済ませると、明日(あした)の観光を説明し始めた。まず西表島に向かって仲間川観光と由布島観光を行い、その後で竹富島に渡るのだそうだが、出発時間が予定より早くなるという。今日は大分疲れたけど、明日の朝はちゃんと起きられるだろうか。「それでは皆さん食事をお楽しみ下さい。ビールなどを注文される方は、自費ですがご自由にどうぞ」と言うので、私とシャツもそれぞれオリオンビールを注文して、知り合った記念に乾杯しておいた。
 食事が済むとお土産タイムが待っていた。観光客はそれぞれ品物を手にしていたが、気の早い人はもうお土産を購入している。私も魔よけのシーサーを眺めていたが、不意に沖縄音楽を流し続けるスピーカーから、八重山の民謡「月ぬ美(かい)しゃ」が流れてきた。

月ぬ美(かい)しゃ、十日三日(とぅか、みっか)
女童美しゃ(みやらびかいしゃ)、十七つ(とぅななつ)
ホーイチョーガー、ホーイチョーガー

 「月の最も美しいのは満ちる直前の十三夜頃に、乙女の最も美しいのは満ちる直前の十七の頃に」と歌い始めるこの歌は、八重山地方の子守歌であり、泣く子寝る子に歌って聞かせるのだという。不思議なことに私も子供の頃、この子守歌を聴いていた。親が子供のために買ってくれたカセットテープに、この沖縄の子守歌が紛れ込んでいて、この曲だけは生まれ故郷の歌のように、私には響くのだった。歌は「東から登る月の夜」と続いていく。懐かしい気持ちになりながら、皆を追うように店を出ると、もうすっかり色を落とした天空には、月が黄金(こがね)に輝いていた。石垣島は暗い藍(あい)に落ちて個性を失い始め、虫の音かカエルの声が聞えてきそうな初夏の風を感じて、この日はホテルに帰ったのである。

2006/3/24
2006/8/18改訂
2006/9/14再改訂
2006/9/16再々改訂

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