八重山の思い出その12

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川平から御神崎(おがんざき)へ

 砂浜から高台に登る階段の先に、展望台と公園の歩道があり、写真でよく見る川平湾の絶景が広がっている。屋根付きの展望台から見下ろすと、右手には名産品の真珠養殖場と白い船が浮かび、左手にはグラスボートが停泊するビーチがあり、ポストカードに使用されるような川平湾が広がっている。私達も景観に構図を与えシャッターを切っていると、ガイドさんが記念写真を撮ってくれるという。礼を言って横一列に並ぶと、緑シャツだけが変なポーズを取っている。きっとおかしな写真が出来るに違いない。「ちょっと、真面目にやんなさいよ」と眼鏡が笑いながらパンフレットを丸めるので、緑シャツは「それは止めろ」と言いながら逃げていった。
 記念写真を済ませ公園をゆっくり駐車場に向かう途中、ガイドさんが奥の方を指さした。「この先にあるのが八重山そばの美味しい川平公園茶屋であります。今回は石垣牛を優先させましたが、今度来た時にはここで昼食を楽しむのも、お薦めのコースの一つです。そば以外にも、辛みのある焼きそばなど、安い島料理が楽しめるでしょう。」
 すると緑シャツが、「しゃあないから、今回はそばを断念して、代わりにアイスクリームを食うべし」と言いだして、そばとアイスにどんな因果関係があるか知らないが、ちゅらさん組みもたちまち賛同して、「じゃあアイスで我慢する」と言いだした。こうなったらもう止められない。駐車場に戻ると、アイスクリーム屋さんで紅芋アイスなど好きなのを頼んで、結局全員で食べ歩きになってしまったのである。ガイドさんもシークァーサーを購入して旨そうになめている。
 私はパイナップルを注文したが、頼んでからマンゴーが欲しくなった。「あっちの方がよかったかな」と口を滑らせたら、さっそくちゅらさん組みが「まったく子供なんだからしょうがない」と言い出して、緑シャツからも「駄々っ子野郎」と呼ばれて、すっかり笑いものになってしまった。勝手にするがいい、もう私のことは放っておいてくれ。その後で土産屋を徘徊して、物色の飽きない2人を引っ張り出して、ようやく川平を後にした。
 せっかくだから5分ほどで到着する、底地(すくぢ)ビーチに立ち寄る。ここは県で指定されている唯一のビーチで、舗装した駐車場もあり、シャワーにトイレに更衣室も完備して、安心の海水浴が出来るというふれこみ。石垣の観光ここに極まれりと自信満々のはずだった。ところが蓋を開けてみれば、大量のハブクラゲが気ままに押し寄せて、毎年刺される人が後を絶たない。今では安全ネットを張って、水遊びのように海水浴を楽しむのは、すこし情けないようだ。また海水浴場の指定を受けただけあって、リゾート化したビーチを代表するリゾートホテルがどっかと立っている。しかしホテルを除けば景観は美しい。このビーチは非常な遠浅の砂浜であり、サンゴ礁もあまりないうえ、干潮時には海が退いて泳ぐどころではないらしいが、水平線を眺めてぼんやりするだけでも来る価値は十分にある。それにしても米原でリゾートホテルが建設されたら、あんな風に虚しくホテルがにょきり立つのだろうか。しかし、私達の泊まっているホテルだって、丘の上に無頓着に突っ立っているのだから、建設当時は反対もあったのだろう。でもあそこは周囲に家々も建ち始め、宅地への道は避けられないようだ。私はしばらくのあいだ、ホテルの外装を変えれば自然に溶け込むか、高層にした時点で景観の崩壊は避けられないのかと考えていた。樹木から顔を出さなければ景観が損なわれないなら、風景を守りたい場所では、赤屋根の伝統を踏まえた建築による、平屋か2階建てに留めた方が良いのかも知れない。とにかくビルディングやマンションのような棒立ちの安っぽい建築が、一番不味いようだ。米原のリゾート建設も5階建ての修正案があるようだが、どっちにしろ樹木の上に醜い顔を晒(さら)すなら、同じ事のように思われた。ハワイの高層ホテルは、あれはあんまり非道いじゃないか。感性が鈍すぎるじゃないか。塩分過剰で味覚がおかしいじゃないか。などと考えて、私はこちらに来てから、かえって居酒屋の彼に似てきたのかも知れない。
 詰まらなくなったので、ホテルを視線から外して、風の来る方を見上げたら、海は何も語らず超越して構えている。頼もしいものだ。下らないことは忘れて、砂を踏んで歩き出すと、相変わらずじゃぶじゃぶ小波が寄せる。潮の満ちた透明な海や、遠く突き出た屋良部半島を眺めながら、奥に広がる林の木陰に腰を下ろし、一日空っぽのまま暮らしてみたい。ここは非常に夕焼けが美しい場所でもあるそうだ。小説でも持ってきて、読み飽かして気が付いたら、真っ赤な夕暮れに心奪われ、本の内容すら忘れて、のんびり家路に向かってみたい。私はまた嬉しくなってきたので、皆の方に走っていって、結局大いにはしゃぎまわって、裸足になって足だけ海に浸して遊んでいたが、しばらくして車に戻ると、今度はもう一つの半島、屋良部(やらぶ)半島の先にある御神崎(うがんざき、おがんざき)の灯台に向かった。

御神崎(うがんざき、おがんざき)

 屋良部(やらぶ)半島の北西先端、切り立った断崖にある御神崎は、真っ白な灯台が際だった景勝地である。私達が灯台沿いに車を止めると、階段付近に説明書きがしてあった。灯台は正しくは『石垣御神埼(おがんさき)灯台』という名称で、1983年に設置された光の強さ31万カンデラの灯台である。カンデラなんて光度は始めて聞くが、ある方向にどれだけの強さを出しているかの単位らしく、とどく距離は21海里(約39キロメートル)と説明が加えてある。
「あれ、ここでは『おがんさき』って書いてある」とベレー帽が不思議がった。実は名所パンフレットには「うがんざき」と書いてあって、ガイドさんは「おがんざき」と発音するし、ここに来てまた違った発音が出てきたので、ちょっと気になったらしい。緑シャツがすかさず「元々はおっ母(か)さんと叫ぶ『おかんざき』だったものが、言葉の乱れでそうなったのだ」と言うものだから、眼鏡は笑い出すは、ベレー帽は困り果てるは、私とガイドさんは聞かなかったことにして灯台に足を踏み出すので、名称の話は有耶無耶になってしまった。
 灯台まではごく狭い階段が1人幅で20段といったところ、すぐに灯台の元にある見晴しに到達した。川平湾で日が差していた上空は、今ではすっかり雲が覆い、その上すさまじいばかりの強風だ。快晴で風が落ち着いている夕暮れには、赤く染まる水平線と照り返す灯台が美しいことだろう。ガイドさんの説明によると、御神崎や石垣島北端にある平久保崎(ひらくぼさき)の灯台のように、海に突き出た島の端(はし)では、強風が吹いていることが非常に多いし、夕暮れが快晴で穏やかなのはむしろ希(まれ)だという。
 それでも強風に打たれながら西側を眺望すると、灯台の先にも歩道が続いて、その奥に記念碑のようなものが立っている。「あれは昭和20年に起きた、八重山丸遭難事故の悲しい慰霊碑なのであります。」石碑の辺りには人影があり、更(さら)に奥の突き出た岩で陸は尽き、先には壮大な海が広がっている。あれは東シナ海だ。しばらく果てしない海洋を眺めていたが、「雲の合間が広がってきた」とベレー帽が遠い空を指差した。「本当、雲の上から光が射してきた」と眼鏡が手すりに近づくと、「海にスポットが当るかも知れない」とベレー帽が答えるので、眼鏡は後ろにいた緑シャツに「ちょっと、呪文でも唱えて雲を広げてみなさい」と無法な注文をする。そんなことに怯むシャツじゃない。よしきたと手すりの前に立ち、何か嘘の呪文でも唱えようとしたのだが、横にいたガイドさんが「待ちなさい」と彼を制止した。「私が代わりに唱えてみましょう」と胸に手を当てている。私はガイドさんまで壊れたかと心配したが、彼はまるで沖縄の三線弾きのように、すばらしく抑揚を付けて張りのある声で歌い始めたのである。

仲道(なかどぅー)路(みちぃ)から七(なな)けーら通(かよ)ーんけ
ツィンダサヤー、ツィンダサー
仲筋(なかすぃじ)乙女子(かぬしゃ)どぅ相談(そーだん)ぬならぬ
マクトゥニ、ツィンダサヤー
ンゾーシヌ、カヌシャマヨー

 私達は思わず聞き惚れてしまった。伴奏もなく1節(ひとふし)ゆっくり歌われるフレーズは、後半に向かって次第に高められていき、極まったところで、合いの手が入る。本当は別の人が歌う部分らしいが、ガイドさんは合いの手も一人で歌いきった。あまり心に染み込むメロディーだったので、つい言葉を忘れて押し黙っていると、ガイドさんは笑いながら「せっかくですから紹介がてらに、八重山の有名な民謡であるトゥバラーマをお贈りしました。本当は三線に乗せて歌われるものですが、元々は無伴奏だったそうです」と照れもせずに説明した。私達はようやく我に返って拍手をしたが、このトゥバラーマというのはある定型の節を元にして、歌詞も細かいメロディーも変化させて歌う自由な民謡である。それでも定着した歌詞を幾つも持ち、今日でも石垣島では大会が開かれるという。緑シャツも感動して出番を奪われた不満はないようだ。
 ガイドさんの歌に誘われたか、雲の裂け目からゆっくりと、光のスポットが海を照らし出した。光絵具を垂らしたように広がっていく様子を見ていると、ガイドさんは改めてトゥバラーマを3番まで歌い継ぎ、途中の「トゥバラーマヨ」という言葉だけが、私の耳に深く残っている。やがて歌い終えたガイドさんが「光のスポットに船が見えます」と言ったので、輝く辺りに瞳を凝らせば、大きな貨物船のようなものが、ゆっくりゆっくりスポットの中を抜けていく。風はいよいよ激しくて、びゅうびゅうと吹き抜け、ベレー帽も帽子を外して髪をなびかせたぐらいだが、それを忘れるぐらい黄金に囲まれたシルエットは名画じみていた。私達は船が抜けるまでじっと眺めていたが、気の早い緑シャツが、今度はあの慰霊碑の方に行ってみようと階段を降り始める。私は留まって手帳を開くと、いつものように小さな落書きを記した。ほんの走り書きだから誰も気づかない代わりに、悲しいくらい即興の書留だ。

傾く陽射しが雲を割って
くすみゆく海原(うなばら)に注ぐ時
ふるさとの想い歌に乗せて
光のじゅうたんが揺らめいた
長閑な貨物船のシルエットが
汽笛を溶かして海を渡る

灯台の下で

 灯台の前に伸びる歩道には、まばらにテッポウユリが咲いている。ラッパの先が花開いたような、白く清楚な花が3つ4つ、固まって点々としている。灯台の説明には4月から5月にかけて、テッポウユリが咲いて咲いて咲き乱れと書いてあったが、とても咲き乱れという言葉は使用できない。ぽつりぽつりと咲いているというのが正解だ。今年は花の咲きが悪いのかも知れないが、それよりもテッポウユリの球根が台風で大量に失われてしまったのが原因だとか、バイオ栽培の球根の植え付けが旨く行かなかったと云われている。代わりになんだかブロッコリーがダイエットに成功してすらりと伸びたような草が、そのまましゃべり出しそうな恰好で風にもめげず揺れていた。ガイドさんは、
「今の風の強さからはピンとこないかも知れませんが、この付近の海は比較的危険が少ないために、ダイビングの重要なポイントとなっていて、初心者でも潜れますとか、お年寄りでも安心ですと、勧誘のようなキャッチコピーが付いています。そしてその遙か彼方には黒潮が流れています。八重山地方と台湾を結ぶ海を、フィリピン辺りで大きく梶を切った黒潮が、すさまじい早さで駆け抜けているのであります。」
 黒潮は八重山の、さらには沖縄のサンゴ礁の命の親だ。元々は、風や温度の影響に地球の自転が加わって、太平洋には大きく時計回りの巨大な海の流れが出来る。この流れは、赤道からフィリピンの東を通って台湾と石垣島の間を通過、沖縄本島の西側を通って九州の南から日本列島東部を北上する。そして関東地方の東付近で、寒流の日本海流とぶつかるように日本を離れてアメリカの方に向かっていく。この黒潮は、幅が50kmから100km、深さが1000m以上を越え、速度は時速4-7km、最大では時速12kmを越えるとてつもない海流で、流れに任せた船の上から覗き込むと、栄養が少なくプランクトンがあまり生息しないので、透明度が高く黒ずんで見え、そのために黒潮という名称が付けられた。青の波長を散乱するものが無いために、青い海にはならず、可視光線の波長がみな深海に下る時、海は果てしなく黒く見えるのだ。この栄養の少ない暖流は、日本列島東部を南下する日本海流、つまり親潮の持つ豊富な栄養とは正反対で、親潮が魚達の豊かな海流、親なる潮と呼ばれるようには生物を育まない。しかし黒潮と親潮のぶつかるところでは、寒流の運ぶ豊富な栄養が暖流の下に潜り込むと同時に、暖流による水温上昇で爆発的にプランクトンが増殖し、恰好の漁場を形成するから、自然の営みというものは不思議なものだ。そしてこれこそが、日本を有数の漁場に仕立て上げる原動力になっているわけだ。
 しかもこの黒潮、プランクトンに侵(おか)されない透明度の高さによって、水中に十分な日光を送り届け、高い海水温度によってサンゴ礁の北限を引き上げ、誕生したサンゴ礁地帯では高密度の食物連鎖で、数多くの生命が不条理なまでにひしめき合っているのが、この八重山の海であり、宮古の海であり、沖縄本島の海なのだ。
 さらにサンゴ礁の形成には台風も大きく関わっている、台風は一方ではサンゴ礁を破壊するが、同時に深海中のミネラル分をサンゴ礁のある海に送り込み、また海水温度が上がりすぎないように調整する役割も果たしているからだ。このような自然の営みの複雑な絡み合いから生まれた、奇跡ともいえる日本のサンゴ礁を守るのは、恐らく住んでいる住人の問題ではなく、国民全体の環境問題ではないだろうか。黒潮の話が出たので、話が大きく梶を切ってしまった。そろそろそぞろ歩く私達の姿を追い掛けてみよう。
 慰霊碑の所には観光客が数人おしゃべりをしていたが、私達は元気のよい緑シャツの後を追って、さらにその先に足を繰り出した。女性にはきつい岩肌の下りが続いているから、ゆっくり付いてくるちゅらさん組みは放り出して、私はシャツと先頭を争って踏み降りていった。ガイドさんは、さすがに慰霊碑で待っているようだ。振り返ると灯台は遙か高くにそびえている。風は一層激しく、細い裸道の周囲はすぐに急な岩肌が海面に落ち、砕け散る波が恐ろしげにぶち当たる。気まぐれに風力が増したら、斜めに転げ落ちそうな気がした。ちゅらさん組みはそれでも2人手をつないで懸命に追ってくる。眼鏡がベレー帽を引率している感じだった。振り向いた私達は、立ち止まって2人を待つことにした。巨大な岩石がそびえ立つだけで、もう道は無くなっていたのである。ベレー帽は大した距離じゃないのに、もう息切れしているようだ。
 私が「ほら、軍艦岩だ」と指差すと、灯台の上からも見えた、軍艦が難破して傾いたような岩が、海の中から顔を出している。荒れ狂う波が、軍艦を粉砕しにかかる。「慰霊碑の代わりにこれを拝んで、拝む崎の目的は達成だ」と私が手を合わせると、皆も同じように手を合わせて、それから写真を取って引き上げた。この紀行文を読んだ人は、この岩に向かって手を打って祈りを捧げる伝統を、私は意味もなく提唱しておこう。ただし危ないから慰霊碑の所からにしたほうが良い。(後で調べたら、この岩はフチブイ岩といって、伝承が残されているようだ。)

石垣市街地へ

 暮れかかる曇り空を眺めながら、石垣島西側の街道を通って市街地に向かう。標高321.6mのぶざま岳の近くを過ぎるとき、カーナビを見ていた疲れ知らずの緑シャツが、「貴様はぶさまな奴よのう」と得意がったが、突っ込み役の眼鏡はすでに眠り込んでいた。困った緑シャツが嘆願(たんがん)するように私を見たから、振り返った私は笑いながら、「ノーコメントだ」と言っておいた。この辺りには「石垣観光パイン園」などもあり、右手に海を望んでのドライブは心地よい。快晴だったら、どんな夕暮れが楽しめるのだろう。やがて八重山民族園という看板が出てくる頃、ガイドさんが教えてくれた。
「この右側に広がる海は名蔵湾(なぐらわん)と呼ばれるのであります。初日にエメラルドの展望台から西に広がっていたあの海です。そして今から渡る名蔵大橋の下、名蔵川が海に流れ込む辺りが名蔵アンパルと呼ばれ、2005年に湿地帯を守り抜く『ラムサール条約』に登録されたのであります。ここにもまた沢山のマングローブが茂り、干潟では愉快な生物達が活躍し、渡り鳥の滞在地にもなっているのです。」
 幸せそうに寝ている眼鏡はそのままにして、ほんの少し車を降りて干潟を眺めた私達は、再び街道を南下する。途中「ミンサー織り」や「八重山上布」の製造販売で有名な「みね屋」の看板もあったが、ここは機織りの体験販売も出来るから、ちょっと寄ってみたい気がした。少し先には宮良農園や、関東のレストランに置かれるぐらい有名な、「石垣の塩」を製造する工場もあり、ここでは「塩あめ」とか「塩ようかん」なども売っている。さらにこの工場は、高濃度の海水により体が浮き上がるという小さなプールを持っているそうだが、更衣室もあって入ることが出来るらしい。それにしても、手元のパンフレットも大分見にくくなってきた。雲の合間にぼんやり見える夕日も、すっかり水平線に近づいたようだ。
 「ちょっと夕暮れを眺めることにしましょうか」とガイドさんがハンドルを切ると、海岸沿いに小さな駐車場があり、奥に小さな灯台が建っている。「ここは観音崎(かんのんざき)であります。あの灯台が観音崎灯台で、その下にある小さな展望台が観音崎展望台でありますから、太陽が水平線に消えるのを見届けるのも悪くありません。」
 ベレー帽が「ほら起きて」と眠そうな眼鏡を揺すり起こし、私達はちょっと薄ら寒くなった風を浴びながら、少し歩いて屋根とベンチだけの展望台に腰掛けた。
「この先にはフサキリゾートヴィレッジというホテルがあり、フサキビーチというプライベートビーチを持っていますし、もう少し歩けば唐人墓という名所も見ることが出来ます。残念ながら時間がありませんが、今度来た時にはぜひ観光してみて下さい。ほらあそこに大きく見える島は、竹富島ですよ。」
 海の遠くと近くの境目辺りに、平らな島がシルエットを黒くして浮かんでいる。雲は御神崎の頃より大分薄くなり、濁ったカーテンのようで、輪郭をぼかされた夕日が鈍い血を滴らせるようだ。じゃぶじゃぶと小さな波が打ち寄せる海に、夕暮れの光線が私達までオレンジ色の道を作っている。しばらくは会話も少なく、腰を下ろしたまま、太陽が水平線に消えていくのを眺めていた。するとベレー帽が不意に「夕焼小焼」と囁(ささや)いて、その後で独り言のように詩(うた)を読んだ。

うたいやめ、ふっとだまった私たち。
誰もかえろとはいわないが。
お家(うち)の灯(あかり)がおもわれる、
おかずの匂いもおもわれる。
「かえろがなくからかえろう。」
たれかひとこと言ったから
みんなばらばらかえるのよ、
けれどももっと大声で、
さわいでみたい気もするし、
草山、小山、日のくれは、
なぜかさみしい風がふく。

 彼女の美しい声が、夕日にこだまして波が揺れる。「金子みすず」が好きなのですかと、尋ねる私に頷(うなず)いて、夕日を見詰める顔が赤く染まる。緑シャツや眼鏡も、それぞれ心に何かを感じて、半分消えかかった光が、海に吸い込まれるまで、みんな黙って座っていた。私は金子みすずの詩を、心の中で暗唱してみた。彼女くらい女性の率直性が損なわれることなく芸術化した詩を読んだことがない。率直であればあるほど芸術にはなりにくく、宮沢賢治の詩はちょっと気取ったおしゃれなセンスで書かれている。俊太郎に至っては、着飾ったハイセンスな修飾がないと、気が済まないと見える。普通詩というものは、本人の感情を越えて切磋琢磨した言葉の虚構部分を含んでいるもので、それは詩の技巧上ちっとも悪いことではないが、金子みすずの作品はどんなに飾って聞えても、自分の感情を越えた言葉を決して使用していない。それが直接的に読者に伝わってくるので、私は好きなのだった。日が暮れればなぜかさみしい風が吹く。日の光を奪われた風は急によそよそしくなって、思い出したように冷たく体に当たる。じゃぶじゃぶと聞える波の音が、味気なく聞えてくる。私達はようやく腰を上げて、車に戻ることにした。もうすぐ夕食時だ。ガイドさんが、石垣市街地で沖縄料理を食べさせてくれるというので、車に戻った私達は、先ほどのセンチメンタリズムも吹き飛んで、沖縄料理に話を膨らませながら暮れなずむ街道を行くのだった。

2006/06/23
2006/09/01改訂
2006/09/22最改訂

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