宮古諸島の観光覚書

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宮古列島・宮古諸島

 宮古島(みやこじま)は隆起珊瑚礁による石灰岩による島であり、沖縄本島から南西に300kmぐらいのところに位置する。北すぐに池間大橋で結ばれた池間島(いけまじま)があり、その橋の途中から東を見ると小さな大神島が見える。一方南西の端の向こうには来間島(くりまじま)があり、これも来間大橋で宮古島と結ばれている。その他に西方に少し離れて伊良部島・下地島(いらぶじま・しもじしま)という連続した島があり、宮古島と石垣島の中間付近に多良間島(たらまじま)が控え、多良間島には小さな水納島(みんなじま)が隣接し、これが宮古諸島の主要な島々となる。高温多湿の亜熱帯性気候にして海洋性気候すなわちまとめて亜熱帯海洋性気候に所属して、年間平均気温は23度ほど。

土産物

・みやこ焼・・・鉄分の多い宮古の土を使用した焼物(やちむん)。
・宮古上布・・・上布(じょうふ)とは麻糸を平織りして作るざらつき感のある上等な麻織物の事で、上布の中でもこの宮古上布と新潟の越後上布は、優れもの上布として東西で優劣を争うトップクラスの商品で、今日では共に国の重要無形文化財に指定されている。20あまりある麻の一種である苧麻(ちょま)の糸を使用した織物で、これは八重山上布も同様。

風習・慣習

・オトーリ(御通り)・・・恐怖の泡盛飲み比べとして有名なオトーリは、何も昔琉球政府で酒豪達が集って競い合った行事だった訳ではなく、16世紀頃に中国式の乾杯が取り入れられたのがルーツで、酒宴の来賓にお酒を振る舞う遣り口だった物が、穀物生産量も限られ首里でのみ製造が許可されていた泡盛を、庶民が均等に宴の参加者に飲ませるための智恵として広まり、さらに祭の中に取り入れられ、宮古島だけ残っていた物を、酒造メーカーが泡盛販売のためコマーシャルを施したところ、またブームになってしまったものだという。

食文化

・ぱなぱんびん・・・多良間島の輪っかになったようなおやつで、「花天ぷら」という意味だが、小麦粉を使用したサーターアンダギーの知人のようなお菓子だ。

宮古島(みやこじま)

 島の中心部野原岳(のばるだけ)でようやく標高108.6mほどの平らの土地である宮古島。そのため大きな川は生まれず、幾つかの小さな川以外には海岸断崖から流れ出る湧き水(地下水路の出口)や、掘り井戸などで貴重な水源を確保してきた歴史があり、水瓶を持って断崖を上り下りするしんどい作業があったり、いろいろ大変だったそうだ。

 戦前は黒砂糖だけでなく宮古上布とカツオブシの三大産業が栄えていたが、特に戦後は砂糖生産の比重が大きく高まっている。

 この島にはハブが存在しないが、これは過去に完全水没した事があるためだと言われている。

 毎年4月にトライアスロン宮古島大会が開かれ、長めのレース設定となっておりまする。

平良(ひらら)シティ

・漲水御嶽(はりみずうたき)・・・かつて混沌の海より世界を創造する天帝(あめのてだ)の命により、弥久美神(やぐみかむ)が使わされ、弥久美神は天の岩柱の欠片を海に投げ込めば、これが宮古島となり、男神である古意角(こいつの)と女神である姑衣玉(こいたま)が他の神々を従えて島に降り立ち、神々の降り立ったまさにその地こそ漲水御嶽なのだそうだ。そして2神の子供達である息子の宗達(むにだる)と娘の嘉玉(かだま)が結びつき、島の住人が生まれたともいう。他にも、この御嶽の守り神は蛇が娘と交わり生んだ子供であるという伝説も残るそうだ。また、石垣は1500年に中曽根豊見親が、オヤケアカハチを討ち果たした際に記念築造したとか。宮古と八重山はそれ以来犬猿の仲だ・・・とは言われていない。
・人頭税石(にんとうぜいせき)・・・・またの名を「賦測り(ぶばかり)石」薩摩藩に屈服した後の琉球王朝が、1637から1903(明治36年)まで行なっていた人頭税にまつわる言い伝えの残る石。子供は143cmのこの石の高さに到達すると、大人として税を取られたという。他にも何らかの神を祭ったとか、いろいろな説があるらしい。人頭税はその人間が存在することに掛かる税金で、もとは中曽根豊見親が開始したとされているが、1609年に琉球王朝の政府が薩摩藩に屈服した後、1637年から宮古諸島・八重山諸島に新たに人頭税が課され、男女を年齢別に4段階、土地別に3段階に分けて税金を設定し、男はアワや米、女は上布を税としたうえ、脱税を許さないため村全体の連帯責任などを負わせ、先島諸島の人々はさらに島の役人の中間摂取に虐められる過酷な時代が続いたという。この税金は廃藩置県後も平気ではびこり、1893年に佐倉宗五郎が上京して訴えたりしながら、1902年にようやく撤廃されたという。
・平良市総合博物館・・・宮古島の歴史や民俗などだけでなく自然科学などまで幅広く扱った総合博物館。
・中曽根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)の墓・・・15世紀の終わりに宮古島を統一した中曽根豊見親が、もともと父親のために建設した巨大な墓。国の重要文化財に指定されている。彼は豪族を統一し島を荒らす荒くれである与那覇原(よなはばら)集団を打ち破り、八重山のオヤケアカハチ討伐の先陣を勤め、己の地位を固めたとある。
・カママ嶺(みね)公園・・・市街地南側の小さな丘にある公園だが、宮古島が平坦な島のため、島の景観を眺めるのに最適な高台スポットになっている。

宮古島

・東平安名崎(ひがしへんなざき・あんなざき)・・・宮古島の東の先端にある岬。海に細く突き出た岬が2kmほど奥に行く尽くせば、上に登ることも出来る真っ白な灯台がそびえ立ち、右に太平洋、左に東シナ海を望む。春にはテッポウユリやグラジオラスが咲き乱れ、日の照った時の海の青さには言葉を無くすほど。駐車場にはアイスクリーム屋さんが様々なアイスを売っていた。岬先端近くには大きな岩が幾つもあり、その一つは岩の中にポッカリ空いた空洞に絶世の美女マムヤの墓とされる墓碑がある。
・西平安名崎(にしへんなざき・あんなざき)・・・こちらは島の北西端に位置し、風力発電を全うすべく建てられた5基の大型風車が、海洋性気候の豊富な風を受けてぐるぐる回っている。海を見渡せば、すぐ右手に池間島(いけまじま)に向かって掛けられた大橋と、その先に池間島が大きく見え、左手には少し離れて伊良部島・下地島の姿を見ることが出来る。また宮古島最北方のこの付近は狩俣(かりまた)と呼ばれるが、平家の一部が沖縄島からさらに流れてこの地に辿り着いたという伝説もある。
・砂山ビーチ・・・非常に幅の狭いビーチだが、トイレとシャワーのある駐車場からビーチに向かうと、真っ白な砂の道が海岸へ向けて大きく下り、その眺めは非常に美しい。さらにビーチに到着すると、アーチ型の岩が隅に控え、写真を撮るにも楽しい。
与那覇前浜(よなはまえはま)ビーチ・・・来間島近くにある宮古島で一番知られた海水浴場。その白浜は7kmにも渡って続き、シャワー、トイレだけでなく更衣室、売店と揃っている。
・イムギャーマリンガーデン・・・小さな入り江の海浜(かいひん)公園で、入り江の中は波が非常に穏やかで、プール感覚で海水浴などが楽しめる。トイレとシャワーもあり。
・サニツ浜・・・旧暦3/3に「浜下り(はまうり)」が行なわれるが、昔の海水で身を清める儀式から、今日では潮干狩りの行事に変わってしまったとか。浜沿いはサニツ浜ふれあい広場という公園になっている。
・保良泉(ほらがー)パラダイス・ビーチパーク・・・宮古島海宝館の付近にあるビーチを利用した施設で、プールもあり、シュノーケル、シーカヤックの用具のレンタルなども行なっている。
・七又海岸(ななまたかいがん)・・・島の南の海岸線に20kmに渡って続く断崖で、約30mほどの高さの断層がそびえ立つ。その海岸線沿いを走るのは県道235号線。
・野原岳(のばるだけ)・・・標高108.6mの隆起珊瑚礁の岳であるが、要するに宮古島全体が隆起珊瑚礁の島という訳で、いびつな島の中心付近と云えなくもない位置にある、島で珍しく高い場所だ。(一番高いのはンキャフス嶺・ナカオ嶺の標高115mだそうだ。)昔はウブタキという豪族が城を構えていた事から、大武山(うぶたきさん)と呼ばれていたそうだが、ウブタキ自身は600年前に恐るべき与那覇原(よなはばる)軍団に打ちのめされて滅んでしまったという。昔は頂上付近に人の大きさほどの石灰岩の円柱のような岩があり、野原岳の霊石と言われていたが、アメリカ人によってふもとに下ろされてしまった。沖縄戦の時には第28師団の地下司令部がありふもとに陸軍中飛行場があったが、現在宮古飛行場となっている海軍飛行場と共に、激戦の末崩壊した。
・平良市熱帯植物園・・・1600種類、4万本以上の植物を観賞できる植物園。他にも南国美術館とトライアスロン記念館が一緒になっている。
・仲里(なかざと)熱帯果樹園・・・約50種類のフルーツを栽培していて、無料で見学できる上、果汁ジュースを販売している。
・ユートピアファーム宮古島・・・こちらの熱帯果樹園は常時50種類のブーゲンビリアの花を見られるそうだ。
・ジロー楽園・・・鉄工所経営者が趣味で作ってしまったというテーマパークで、熱帯果樹園だけでなく動物園、薬草園を持ち、奥に「そば処やんばる」がひかえている。
・みやこパラダイス・・・植物の中に蝶が飛び交う日本最大級の蝶園だそうだ。
・宮古島海宝館(かいほうかん)・・・館長が集めに集めた6000種類もの貝などを展示している他、土産屋とレストランがあり、さらに駐車場の高台から見下ろす海岸線に向けて写真を撮りたくなる。
・うえのドイツ文化村・・・何故か宮古島に再現されたドイツのマルクスブルク城に驚くとそこはうえのドイツ文化村だ。1873年に上野村沖で座礁したドイツ商船エル・イ・ロベルトソン号が台風の危険を顧みず島民達によって救出され、感謝したドイツ皇帝が送った博愛記念碑が元になって、上野村とドイツのシュターデ市の交流が開始して、とうとう1996年にうえのドイツ文化村が完成した。ベルリンの壁の一部などの展示されているそうだ。またリゾートホテル、レストランもあり総合的な施設になっている。平良市街地には、ドイツ皇帝が建立(こんりゅう)した博愛記念碑も見学できる。1936年には日独政府の思惑絡んで記念碑建立60周年記念式典が行なわれ、日独同盟の絆が教科書の美談として人々に教え込まれ、大戦への階段の踏み台を飾る羽目になった。宮国海岸にはこの時に首相だった近衛文麿が筆を執ったドイツ商船遭難の地碑も建っている。
・久松五勇士顕彰碑(ひさまつごゆうしけんしょうひ)・・・日露戦争の時にロシアのバルチック艦隊を発見してしまった久松の漁民が、石垣島へサバニを漕ぎ出し知らせに行ったという史実が、記念碑となってサバニの模型を形どって立っている。戦時中美談というやつか。

池間島(いけまじま)

 宮古島と全長1425mの池間大橋(1992年完成)で結ばれた、宮古島北西にある離れ島。総工費99億円の価値はあるのかどうだか、島の人々は車で宮古島と行けるようになって生活の利便は大きく高まった。橋を渡りきったところにお土産屋さんとお食事所が並び、土産物色にも最適。

・八重干瀬(やびじ)・・・池間島の北に向かって10kmぐらいのところにある、広大な珊瑚礁群で、旧暦の3月3日の大潮の時だけ、海が引き地上となる。この時は「八重干瀬まつり」が行なわれ、上陸しての潮干狩りなども行なわれる。水中にあるときは、ツアーでシュノーケルやダイビングで眺めるのが素敵さ。

来間島(くりまじま)

 一方宮古島の南西に位置する来間島は、1995年開通の1690mの来間大橋で結ばれた離れ島だ。この橋は日本一長い農道橋だという。

・竜宮展望台・・・来間島で一番高い丘の上に竜宮城をあしらった展望台を建てて観光の名所としたもの。宮古島側には美しい前浜ビーチと青い海が、島の様子を眺めるとサトウキビの畑が広がっている。

大神島(おおがみじま)

 池間大橋からも眺めることが出来る大神島は、宮古島北部の丁度池間大橋の途中で真東を向くとある小さな島で、20世帯人口40人ぐらいが生活をしているだけだが、どうも驚く大神小中学校を持ち、生徒より先生の方が多いそうだ。旧暦の6-10月に渡って5回行なわれる祖神祭(うやがんさい)は、島人だけが参加する秘密のお祭りだ。女性だけが参加し、断食しつつ神の歌を歌い続けるような祭だそうだ。また大神にある御嶽にも立ち入ること叶わず、キャンプも禁止で宿泊所もないうえ、知らぬよそ者の上陸は好まれない。海賊キッドが宝を隠したという国際的な宝物伝説が残り、昔は宝物荒らしが上陸して荒らし回ったことがあるそうだ。

伊良部島(いらぶじま)・下地島(しもじじま)

<<伊良部島.com>>・・・いらぶ観光協会が発信する宮古諸島の伊良部島・下地島観光に関するページ。

 宮古島の西にちょいと離れて8km先に浮かぶ伊良部島は、河ぐらいの幅の間を挟んで伊良部島西に位置する下地島へ続き、間を5つの橋が結んでいる。

・佐和田(さわだ)の浜・・・日本の渚(なぎさ)百選に選ばれた伊良部島北西にある遠浅の浜で、浅瀬に大小様々な岩礁が風変わりな景観を見せる。波が穏やかなので海水浴にも。昔の魚垣も見られる。
・渡口(とぐち)の浜・・・こちらは伊良部島の南西にある遠浅ビーチ。真っ白な砂浜が広がり、トイレとシャワーだけでなく売店もある。
・牧山(まきやま)展望台・・・島の東南にある標高89mのそそり立つ断崖の上にタカのような形をした展望台が目に付く。これはサシバという渡り鳥でありタカの仲間なのだが日本とフィリピンを行き来する間に、この伊良部島で沢山のサシバが羽を休めるので、何時しか島のシンボルとして認知された。周辺は亜熱帯植物が茂っている。
・西海岸公園・白鳥崎(しらとりざき)・・・島北部の海を見下ろす展望名所に公園がある。先に広がる珊瑚礁は干潮時には海から顔を出してアウトリーフの外海前まで歩くことが出来る。
・下地空港・・・ここは一般の空港ではなく、民間パイロットの訓練飛行場。滑走路を離陸しては着陸し、着陸しては飛び立つタッチアンドゴーの訓練を泣きたくなるほど繰り返しながら、一人前のパイロットが誕生する。飛行機ファンが泣いて喜ぶ青い海と離着陸?昔は那覇と1日1便だけ旅客機も飛んでいたが、利用者が少なすぎて取りやめになったそうだ。もちろん1979年の海港までには地元の反対運動など壮絶な遣り取りがあったが、今日では名所扱いになっている。
・通り池・・・下地島の西の方にある海岸近くのポッカリ大きく開いた2つの穴の中が池となっている。元々石灰石の鍾乳洞が崩れて池となったそうで、2つの池は水深15mのところで1つに繋がりつつ、海側の池の方は水深22mのところで横穴を通って海と繋がっている。そのため池は上が真水で次第に海水に変わるため、独特の色を持ちダイビングファンに知られた名所にもなっている。幾つかの伝説を持つ池で、例えば人魚が村人に捕らえられた際に、母親が津波を送って人魚を救い出し、島は全滅という話もある。
・帯岩(おびいわ)・・・通り池の南に800mほど行くと巨大な岩がごろんとあるが、これは1771年の大地震による85mの津波で運ばれてきたという。
・魚垣(ながき)・・・下地島にある魚垣漁の行なわれる場所は、観光スポットにもなっている。これは浅瀬に石垣をほどよく積むことによって、満潮時に入り込んだ魚が、干潮時に干潟に取り残されるという方法だ。

多良間島(たらまじま)

 宮古島と石垣島の真ん中当りに位置する島で、飛行場があり、旧暦8/8~8/10にかけて「八月踊り」という盛大な豊年祭が開かれ、島の外からも多くの人が集まる。

・水納島(みんなじま)・・・多良間島の北に船で30分はかからない付近に位置する小さな島で、ただ1家族だけが生活する。
・八重山遠見台・・・17世紀中頃建てられた烽火台(ほうかだい・のろしだい)だったが、今日では大層立派なコンクリートの展望台が建てられている。この標高32mの丘が、多良間島で一番高いところで、島はほとんど平らな姿をしている。また遠見台付近一体は自然植物公園になっている。
・ピトゥマタウガン・・・「八月踊り」の行なわれる御嶽。
・ウプメーカー・・・16世紀に島を統一したとされる土原豊見親春源(んたばるとうゆみやしゅんげん)というお方のお墓。
・塩川御嶽(しおかわうたき)・・・この地に巨大な岩が2つばかり到来して地面に腰を下ろしたのに驚いた農民達が周囲に植物を植えて御嶽としたという伝承が残されている。その参道には県の天然記念物に指定されているフクギ並木が続き、不思議な神社に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
・ウカバ・・・塩川御嶽の比較的近くにあるビーチで、1kmに渡り砂浜が続く遠浅の海にも砂が続き安心して泳げる海水浴場だが、シャワーやトイレはございません。ここで「ウカバ波の上、沈まば波の底」と句を詠んでみるのも良い。
・たらまゆがぷうランド・・・一方こちらは島の南側、多良間漁港の近くにある植物園からテニスコートやゴルフ場を持つレジャー施設で、浜で泳ぐためにはトイレやシャワーも用意されている。
・三ツ瀬(みつじ)公園・・・こちらもトイレとシャワーを持つビーチがある公園。
・多良間村ふるさと民俗学習館・・・つまり郷土資料館だな。
・ふるさと海浜公園(かいひんこうえん)・・・島の北側にある集落付近にある公園で、海水浴場でもある。シャワー、トイレもあり公園でのんびりしながら海水に浸ったり平和な一日を満喫できる。前泊海水浴場はここにあるとか、そうじゃないとか、ウカバとの関係はとかよう分からん。
・宮古島観光物産センター・・・宮古島特産品の土産屋とレストラン、レンタカー店を持つ飛行場近くの観光物産センター。みやげ品は島最大の商品数が揃っているそうだ。

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