preludeⅠ

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preludeⅠ (時乃志憐)

プレリュード

自由だなんて嘘ばかり
 生まれた刹那の社会から
  束縛されてしまうのです

自由だなんてほざいている
 愚鈍の鴉(からす)を憎みます
  群がる芦(あし)の騒ぎです

否応(いやおう)なくも束縛の
 連鎖の果ての人の世に
  誰もが保たれるくらいです

それゆえ、言葉を話すのです
 それゆえ、慣習に染まるのです
  それゆえ、となりの誰のことやら

真似してお化粧してみたり
 ののしり合っては凭(もた)れたり
  それはそれ、仕方のないこととして……

ひとりぼっちの羽ばたきなんて
 けれどもおかしい
  いつわりじみたポンチです
 乏しいおつむの誤謬(ごびゅう)です

 それならなおさらわたしはひとり
  羽ばたく姿を願います
   だって毎日が、逃れられないような束縛に

  どっぷり染まって暮れてゆく
   レディーメイドのお人形
  律するものさえもなにもない

 ペンキの色のみ違えては
  ポリシーさえも空っぽの
   同一規格のお人形

  まことを求める代わりには
   お互いの顔色をうかがって
    お互いの足を引っ張って

   地べたに並んだお人形
    同質的表現こそ慣習的束縛の
     くびきみたいではないですか

    わたしは逃れは致しません
   かつては恐れもしましたが
  今こそ逃れは致しません

   それなくびきと知りつつも
  羽ばたく自由を願うのです
 ただ一念に願うのです

  信じるすがたと歩むのです
 みずからの足を懸命に
繰り出しながら歩むのです

  枯れ野に揺れる芦の間を
 嘆く鳥さえ消え去った
冷たくすさぶ風のなか

  夕暮れせまる芦の間を
 虫の音ばかり響いては
人影さえも消え失せた

  それな寒さと歩むのです
 わたしの祈りは唄となり
聞く人さえもいないけど

  ようやく自由になるのです
 エゴを逃れた自由です
風と語らう自由です

舗装道路を逃れては
 聞く人さえもいないけど
  ようやく初めてこの唄は

 羽ばたくことを知るのです
  くびきみたいな営みを
   逃れきれるではないけれど

  眺める景色は連ね合う
   皆さまからは隔てられ
    わずかばかりの違った風が

   吹き抜けるように思うのです
    ほんのわずかな束縛を
     逃れるくらいの自由です

      誰もがそれを笑います
     あるいは路傍の石ころを
    投げつけながら去ってゆく

   けれどもそれもつかの間のこと
  人影もなくただざわざわと
 寂しさこらえて風が吹く

まもなくわたしは枯芦の
 親しい友ともなりましょう
  遊び仲間となりましょう

   虐げられた思いあふれて
  認められたくて疼(うず)くもの
 くすぶり続けるたましいを

  それはそれ、それとしておきながら
   信任せずに祈ります
    神さまはきっと胸のうち

   だけれどもそれは皆さまの
  すがりの神さまではありません。
   それから……

    悟りの神さまでもありません
      まして、偶像崇拝めかした……

     オブジェの神さまでもきっとありません
    つまりは神さまの名を借りただけの
     もと抽象的なもの……

      わたしのうちに籠もるもの
       そのそのものの姿です
      それゆえわたしは祈るのです

     あなたはきっと笑いましょう
    笑えばそれだけ幸せを
   感じるようなこころには

    舗装道路がお似合いです
   手を取り合ってはしゃいだり
  はやしていれば幸せです。

  (そうして同じ歩幅して
    仕草をまねててくてくと
   どこまで歩いてゆくのでしょう)

    舗装道路の自由など
   嘘のやんぱちではないですか
  おなじ質感の彩りの……

   塗りたくっては主張する
  うわさ話はどれほどの
 娯楽と他人の事ばかり

  ドラムとビートよどこまでも
 マンネリズムの歌詞ばかり
エフェクトまみれにくすんでた

  ぬかるみもない気楽さと
 横並びした安心と
右と左を挟まれて

  語らうほどの自由です
 お遊戯みたいなつばさして
羽ばたく仕草と笑います

  お手々つないでにこにこと
 恋の話やお化粧や
娯楽ばかりと吟味して

  うわさ話ともたれ合い
 肩を並べて唄うのです
僕らは自由と唄うのです

 不思議な色した黄昏(たそがれ)です
  わたしは遠くで眺めます
   ひとりぼっちの気配です

  けれどもあちらには……
   沢山の人がとぼとぼと……

    仮装行列の個性して
     声を張り上げた総体が
      同一的傾向に邁進する

     軍隊みたいな歩みです
      誰もが同じ歌詞をして
       誰もが同じ靴音で

      同じリズムを奏でます
       服の色やら修飾を
        個性と誇ってにこにこと

     けれども華やぐおしゃべりは
      相手のことでいっぱいです
       自分が無くて不安です

    AがいなければAの話
     BがいなければBの話
      よくよく話が合うのです

   レディーメイドのたましいは
    うわさ話でもちきりです
     舗装道路の右と左の

  ささいな違いを主張して
   個性時代とはしゃぐのです
    団体主義したシルエット

     芦の枯れ間からわたくしは
    目を丸くして覗くのです

   みずから逃れたあの道を
  不気味なお化けと思うのです

 けれどもしょせんわたくしも
束縛された穢れして……

 歩み疲れた夕暮を
  今さらどれほど逃れても
   まっすぐい道のほど近く……

  遠吠えするような負け犬の
   彼らのそばに寄り添って
    唸(うな)るくらいが関の山

それでもなお信じます。
 一歩一歩のよろよろと
  あの道小道を逃れたら……

泥にまみれた草木(そうもく)の
 ぬかるみくらいの真実が
  いつしか宿ると願うなら……

束縛にさえたましいの
 羽ばたく気配がするのです
  芦間にきざす鳥どもの

さずりさえも浮かぶのです
 なおさら泥にまみれては
  春を夢見てゆきましょう

精一杯の自由です
 舗装された大道の
  横道さえも舗装され

右に曲がれば自由だと
 左に折れれば自由だと
  いつわりだらけの束縛に

どっぷりはまった人形の
 蟻の並びと歩みます。けれども……
  それとは違う本当の、

精一杯の自由です
 たったひとつの愉快です
  夕暮れさえも軽やかに

口笛吹いてゆくのです
 ひとりぼっちの哀しみと
  浸食されないここちして

一歩一歩のよろよろと
 精一杯の自由です
  そうして本当の愉快です

  P.S.
   ぬかるみをゆくわたくしは
    愉快のうちに果てるでしょう
     やがては風がすこやかに
    空へと帰してくれるでしょう

プロローグ

 月見の宵は過ぎゆく台風のなか、街角はともしびさえも揺らめいた。人かげさえも乏しくて、ときおり激しい雨がふる。押しとどめるような信号さえ、危機色に染まるのだった。ドラックストアーは閑古鳥。となりの和菓子屋には、山づみされた月見団子と、あきらめかけた店主がひとり、シャッターを下ろす頃合いを計っている。知って知らずか、傘を折られながら、ずぶ濡れに吹き飛ばされた青年がひとり、しかめ面して過ぎてゆくのだった。ざあっとうなれば雨が降る。

 つかの間の信号が変われば、どこかへ逃れるみたいなヘッドライトが、慌てたように走り去るのを、ひときわドラムのような雨粒が、追いかけるよう思われた。悲しくうなる野良犬が一匹、狂ったように駆けだせば、もう青年の影は見えない。ざあっとうなれば雨が降る。

 こびりついたような穢れさえ、吹き払われるような錯覚に、ひと気の失せた喫茶店から、しなり狂った街路樹やら、電線のうなり声さえ、ものゝけのように騒ぎたてる。目の前のカフェは冷たくて、わたしは帰るすべをなくして、鬼神(きじん)の過ぎるのを待っている。激しい雷(いかずち)は轟(とどろ)いた。

 月見の宵は過ぎゆく台風のなか。翻弄された夢さえも、なくして惚けたこころさえ、おのゝくような暗がりに、味気もなくてコーヒーを、ぐっと飲み干してはひと筆書の、想いひとつを残しては、いのちの証を立てようとして……

、馬鹿みたいだねナプキンに、こうしてペンを走らせた。追いかけるみたいに、雨が降ります。

  十円を弾けば雨のカフェテラス

    夜あらしに口ずさみます星の唄

   枝ごと窓に
    ぶち当たります 夜あらしを
     もてあそんでは からのコーヒー

雨上がりの帰宅路

ひと気もなくて雨あがり
 樹木を揺らす風ばかり
  吹き飛ばされた看板と
   木の葉みたいな街灯に
  ぶち当たってはへし折れた

 目を丸くして歩きだす
  誰あれもいない夜更けです
   過ぎゆくライトも見えなくて
  木の葉ばかりが駆けてゆく

  背なかを押される楽しさと
   うなりの響く恐れとは
    仰ぎ見すればどすぐろい
   うごめく雲の早さです

   わたしのいのちのむなしさを
    うずまくような流転(るてん)です
     放り出された怯えさえ
    ときおり兆してくるけれど

     おそるおそるの靴音と
      押される背中の脅しとは
       怯えに潜む愉快さと
      おもねるようなこゝろです

      精一杯に生きようと
       なんだかやけに思います
      うごめく雲は恐ろしくて
     過ぎゆく風は快活で

     押される背中は愉快です
      わたしのステップは軽やかです
     電線さえもうなりをあげて
    脅かすような気配だけれど……

    わたしのステップは軽やかです
     暗がりの底の愉快です
      もてあそばれて生きてゆく
     それでも明日は快晴です

   まもなくきっとつかの間の
    あらしの雲さえ消えましょう
   闇夜を照らす月さえも
  ほのぼの明(あか)る夜更けには

  いつしかきっと時は流れて……
   わたしはそっと消えましょう
  わたしのいのちは尽きるでしょう
 そうして新たなともし火が
どしどし宿ることでしょう

P.S.
  夜あらしの過ぎゆく街を月あかり
    ふとさえぎれば風のいたずら
   遮断機のひびきもなくてこの道を
     つめたく走るなんの影ぼうし

夜半の月

 部屋に戻るとすでにベランダは、不思議なくらいの銀世界が広がっていた。それは穢れを払った雨粒が、沢山の屋根を磨き上げて、乱反射する鏡みたいに、家並(いえなみ)を作り変えてくれたから。

 悪役のどす黒い雲どもは
  いつの間にやら遠ざかり
   穢れも知らない星たちの
    口笛さえも軽やかに……
   ただきら/\と、きら/\と
  不思議なくらいの銀世界
   ベランダの先に広がって……

 風さえいつしか穏やかに、だあれもいない街角の、ぽつりと揺れた街灯が、さみしく路面を照らしてる、静まりかえった夜半を過ぎ……

 はやくも昇るつづみ星。名残を惜しめばさら/\と、頬を過ぎゆく風さえも、屋根の合間をわたる頃、ぽっかり浮かんだ明月を、こころ楽しく眺めては、くよ/\していた夕べさえ、忘れ浮かれるわたくしの、幼なごころの思い出と、つかの間の希望を混ぜたなら、なんだか不意にうれしくて、また指先のばしては、月をつかまえてみたけれど……

 おかしいね おかしいね
  とうていつかめるものでなし
   さながら嘆くこともなし
  おかしいねったら おかしいね

   月を浴びますよろこびと
  軽やかな胸の鼓動とは
   だあれも知らない悲しみと
    憂いもなくてほゝえみと

     かさゝぎどもの天の川
    夏と冬との橋わたし
   今ごろ銀河鉄道は
    どこを走っているのやら

     月の明かりはりんどうの
      花のなかへとこぼれ落ち
     ほたるめかしてともし火の
    たましいみたいなものかしら

   屋根はきらめくはしゃぎして
  顔をすくめた星たちの
 あきれ顔すら知らずして
  ひかりを返してみせるなら

   明日は明日の風が吹く
  荒れ狂ってた雲たちが
 晴れ渡るならおかしいね
  ああおかしいね おかしいね
   月あかりったら おかしいね

  ああゆかいだな ゆかいだな
   闇鳥さえも にこ/\と
  ツクヨミさえも にこ/\と
 ほゝえみまする 時のなか

   短歌
つくよみの 海原みたいな 羽ばたいて
  さえずりながら 消えてゆこうか

   P.S.
     おやすみなさいもう寝ます
      明日は健康診断です
       大雨一途の予定さえ
      狂ってなおさら月あかり
     うれしいものに思われます
    ただそれだけの、いのちです。

酔いどれの宣誓

言葉は沢山ではないですか
  情緒も沢山ではないですか
 それらを駆使するのがせめてもの
   詩情くらいではないですか

詩形にこだわるものどもの
  ピエロみたいではないですか
 マンネリズムの厚化粧
   デフォルメされたジェスチャーと

おかしな口調はいかがです
  昔のことばをあの頃の
 まま使うことすら出来もせず
   教科書がてらのこしらえて

昆虫の作家もお花の画家も
  あまりにも矮小ではないですか
 わたしは信任しないのです
   ふんころがしの懸命です

スケールのちっぽけな職人です
  マッチ細工の人形です
 創造的ないとなみは
  もっと大きなものなのに

言葉を探求するのがアートです
  模索するのが芸術です
 その探求を放棄して
   詩型にこもるのが矮小です

人をながめればほゝえましく
  自然をながめればもの悲しく
 夢の世界はきらきらと
   描いてみせるのが画家なのです

恋を唄えばうれしくて
  弦の響きは憂いがてらに
 管楽器には威厳を込めて
   奏でてみせるのが作曲です

愛を讃えれば高揚し
  花をながめてはさみしくて
 時雨(しぐれ)にさえもよろこびを
   見いだすものが詩人です

うれしいときは冗長に
  悲しいときは寡黙(かもく)になって
 あらゆる言葉を駆使しては
   あらゆる詩型を駆使しては

情緒をリズムに奏でては
  表現するのが詩人です
 たったひとつの詩人です
   砂粒くらいのさゝやきです

小さいほどにたやすくて
  質素なものほど体裁を
 保てるばかりの落書に
   群がる蟻の気配です

あまり大した矮小(わいしょう)です
  クロスワードの言の葉を
 文芸だなんてあんまりです
   ちっちゃなおつむの細工して

ただ体裁を友として
  情緒に乏しい枯れ芦(あし)の
 ざわつくような贈りもの
   干からびきってしわくちゃです

本当を探しに向かいましょう
  あるいは夕べの君を捨て
 もっともらしいものでなく
   本当を探しに出かけましょう

幾千万の嘲笑が
  あなたを待っているとして
 ほんのちっぽけな真実へ
   邁進(まいしん)しなければなりません

だってただそのことだけが
  本当の言葉を奏でることの
 まことの詩人には……
   違いないのですから。

   駄目です駄目です
 規格品を生みなすのが関の山です
  どれほど姿を違えても
花瓶職人どもは花瓶です

   けれどもあるいはうつわ職人なら
 さまざまなうつわを作ります
  花差しだけではないのです
けれどもやはりうつわです

   あるいは磁器職人なら
 さまざまなかたちを生みなします
  うつわばかりではないのです
けれども畢竟(ひっきょう)磁器なのです

   人の営みには限られた
  砂の時計が奏でます
 すべてをこなすことは出来ません

  それゆえせこせこ生きるのです
 小さな殻にこもるのです
米粒の金字塔にすがります

  職人を逃れたものだけが
 創造的であり根源的な
ものへのただ憧れだけが

  ひたむきをこそ願うのです
 せこせこしたくはないのです
枠を掛けたら終わりです

  もとより程度の問題です
 けれどもあまりにも情けない
これっぽっちの五七五

  もとめる世界が矮小です
 マンネリズムの堆積平野
やせ我慢した四畳半

  七七だって詩型です
 それのみ求めて何ほどの
小さな枠には過ぎません

  それより外(ほか)の世界さえ
 あると思えば不安です
水槽のなかのメダカです

  ガラスに守られた枠のうち
 すやすやこもっているだけの
はだか自慢の王様は

  魚を描く専門家
 桜を描く専門家
ただの矮小な職人です

  糾弾されては赤くなり
 池の深さをこそ讃えます
こしらえた先例を並べます

  大した防衛本能です
 海の広さに勝てますか
空の広さに勝てますか

  勝とうとすればつらいのです
 けれどもつらいそれこそが
たったひとつの模索です

  それで言葉が生きるのです
 表現すべきことがある
次に詩型が生まれます

  ただそれこそが本当の
 詩人の姿ではないですか
五七五の職人よ

  ぼんくらどもには生涯
 分からない世界がある
わたしたちは踏み出して

  生きてゆかなければなりません
 どれほどさみしい荒野にも
芦間(あしま)に潜む悲しみにも

  負けずに歩いていきましょう
 ただ本当の言の葉を
求めるがゆえにゆくのです

  道のためではありません
 それは歩むための鋪装です
目的などではありません

  目的へ向かうためにこそ
 道は生まれて来るのです
道なき道さえゆくのです

  生き方と歩き方をはき違え
 勝手な花道をこしらえて
引きこもるような芋虫です

 五七五がいのちだと
  ほざく愚物がありますか
 何とか道とつぶやけば

  納得できるほどの情緒なら
   なにをしたって同じです
  乏しいほどの詩型です

 だって、わずかに考えたらもう
  五七五では収まりきらないではないですか
 想いを伝えることを考えたらもう……

だって、わずかに考えたらもう
 七七を加えたくらいでは
済まされようがないではないですか

 本当を、本当の詩を考えたらもう……
  おなじ詩型をこね回したくらいでは
 表現しきれないではないですか

五万のにせものがあなたの
 本当を奪おうとしています

  それは文化的な社会主義
   安いところへと群がって

    言葉をとんちにするのです
     クロスワードの娯楽です

     芸術のふりした知恵の輪と
    偽りにみちたポンチです

   おさないくらいの誇りです
  小さなジャンルに引きこもり

 歌人やら俳人やら名のるのです
ましてや羞恥心の欠けらさえ

なくして教鞭をたれるのです
 過去さえもよく知らないままに……

  ハチャメチャなくらい出鱈目です
   糾弾する人がいないから……

    五万のにせものが今あなたの
     本当を奪おうとはしゃぎます

      子供のようにはしゃぐのです
       スルメのようなしぶとさで

       正当性を主張して
      ひたむきな感性を奪います。

     すべては言葉のなかにある
    語りかけるべき言葉のなかに……

  詩型に宿るのではありません
 想いを伝える言葉のなかに……

ただそれだけのことなのです
 わたしの歩むべき道のりです

  ひとりぼっちのとぼとぼと
   秋暮(しゅうぼ)の風の冷たさです
    けれども空には雲がたなびいて……

   真っ赤なとんぼとたわむれて
  不思議ばかりの三日月と
 わくわくするようなあの頃の……

みずみずしいようなたましいを
 忘れずになおかかげては
  わたくしは、
   道なき道を歩むのです。

 失敗しても、どうかあなた

  笑わないで、くれたなら……

  なぜならそれだけが真実の

 詩人の魂には他ならないのですから。

朝の歌

 夕べには夕べのトーンが、朝(あした)には朝(あした)のリズムがある。けれどもわたしは忘れない、夕べのつたない落書を。それはアルコールを友として、くどくどしくも繰り返された、しどろもどろの落書ではあるけれども……けれども……そのすべてが、出鱈目という訳ではないんだ。

 だから試みに書きしるしたくなる。ほんのひと筆書には過ぎなくても、あらゆる言の葉を織りなして、ひたむきな情緒を拠り所として……けれども……

 今さらわたしの言の葉は、この慣習をのがれない。ほかの言語を模索するほどの、情熱はすでにひなびている。今はただ枯れかけの、銀杏(いちょう)をそっと眺めるみたいに、私の語りうる落ち穂をつむいで、ひと筆書にしてみたい。

 幼稚園児の文芸は、わずかな言葉を一枚の紙に、着想のままに書きしるすこと。そのくらい脳天気であればこそ、屁理屈めかした駄文をさえ、利潤のためにむさぼって、あるいは震災さえもダシにして、悲壮な顔してなみだを流し、もったいらしく生存者に、同情を見せつけてしおらしい、表情で同調をもとめては、猫なで声でささやいて、おのれの名声の糧とする。

 けれども純な姿さえ、腐り尽くした芋虫が、蝶にもならずに這いずり回り、枯れかけの醜態をさらすとき、秋の大気さえいやらしい、匂いにまみれはしませんか。

 老いたるピエロの道化さえ、拍手にまみれた観衆の、イデアを知らない俗物の、底辺ほどの大地から、立ち上るものは腐乱死体、キョンシーみたいなはしゃぎです。

 ただ染まらない情熱と、わずかな指を触れ合って、わたしたちさえ本当の、安堵に暮れた蟻どもの、讃え合うようなポンチから、抜け出したいと願うなら……

 わたしたちはそこから逃れて、本当を求めようとはしませんか。だってただそれだけが、最低限度のアイデンティティー、わたしたちがひとりひとりであるところの、ひたむきな個性ではありませんか。掲げるべき価値観ではありませんか。せめてもわたしはその延長線上にこそ、ひとりの詩人でありたいと願います。どこかのあなたに語るのです。群がる蟻どもを憎みながら……

誓いは重く、
 現実ははかない。
  わたしはしょせん、
 宣誓には叶わない。

けれどもまた、
 一粒の欠けらくらい、
  わたしには守るべき、
 熱情は残されていて……

誓いは重く、
 現実には叶わない。
  それでもわたしは、
 試みなければなりません。

つたない言の葉を、
 即興のまま記しては
  夕べとはまた、
 違ったトーンで宣誓の……

  片鱗くらいは、
   お見せしたいと思うのです。
    そうして、かならずしも……
   実行へと、移してみせるのです。

  P.S.
    即興は主観のたまものですから、
     いまのわたしのポケットには、
      ふさわしいような手帳です。
     落書きするようなボールペンです。
      アコースティックな道具です。。。

旅立ち

 夕べの台風(あらし)が夏を呼び戻した。真っ青な空には入道雲を切り裂いたような、真綿の切れ端があちらこちら、愉快に浮かんでいるばかり。日差しが強いから、気温がどんどん上がるのだ。今日は十月一日、月曜日。のどかな街の営みと、吹き飛ばされた枝葉や看板の残骸が、散らばるような乱雑を、かえって愉快に眺めては、靴音ばかりと歩き出すのだった。

 今日は健康診断に、向かおうとするだけのこと。かねて思っていたことがある。どれほどささいな出立(しゅったつ)も、こころ次第で旅ともなるし、抒情詩人にさえなれるのだ。あたりきしゃりきの往来に、こんぺいとうみたいな愉快が、ところどころに転がって、ふとしゃがんでは触れてみたり、立ち止まっては眺めれば、あるいはそこには小さな蟻たちが、車道の排気にまみれながら、行き交う人のざわめきに怯えて、のどかな風と戯れながら、せっせと運び合うような仕草さえ、見つけたときにはうれしくて、ほゝえみのままふと見上げれば、あの入道雲の子分たちが、ぷかぷか笑って浮かんでいやがる。空は抜けるように真っ青だ。雲の泳ぎ回る水槽のよう。さっそく、靴音は高くなる。そんな愉快が転がっている。

 わたしはどしどし駅へと向かう。サラリーマンはもういない。彼らは今頃ノートブックの、ファイルに追われているだろう。彼らが言の葉を道具にするほど、僕らの生存は脅かされる。けれども今はそれもまた、お昼をわずかに過ぎたから、レストランさえ閑散と、し始める頃の町並みは、のんびり歩く人影と、子供の声やら老人の、しわがれ声に満たされて……それは時折はあの、群がる哀蛾(あわれが)の姿をさえ、ちらつかせるような気さえするのだけれども……

 ふと気がつけば足もとを、眺めてはまたとぼとぼと、歩いていましたわたくしの、それな仕草はだらしなく、こんな陽気には似合わない。日だまり満たして眺めれば、枝を切ります公園の、仕事の人がいるばかり。幹ごと裂けた根もとから、夕べの爪痕を除こうと、マシンの音がうなるとき、大きなけやきは男どち、紐に引かれて横たわる。倒されたならどこへゆくのか、それは誰にも分からない。分からないでも困らない。新しい樹を植えましょか。

 銀のネットの向こう側、列車はゆるく走り去る。がたりごとりの響きさえ、のどかと揺れる歩道には、何鳥だかがさゝやいて、街並みへ消えてゆくばかり。そろそろ駅が近いから、高層マンションさえちらほらと、斜めに日差しを返してる。街を見おろす仕草には、真夏の海の砂浜の、サングラスしたのっぽにも、似ているような気配さえ、漂うように思われた。

 さあ、折れ曲がってドラックストアーを抜ければ、人々の喧噪は急に広まって、がやがやとした駅前だ。日差しは駅ビルに遮られ、とたんにすこし肌寒い、風がつかの間頬を吹き抜けた。すぐまた暑さへとかえすような、午後の陽気にほだされながら、わたしは改札へと向かうのだった。

   赤い羽根の
    裏手を抜けて 改札を
     くぐればのどかな
    アナウンスは響くよ

      この和歌を 閉ざしたいなら
       終結をただ 「各駅アナウンス」
        とでもすれば いいくらいのもの……

  きらきらと
   町なみ秋の 急行に
    眺めつつゆく こころからだよ

 ポケットの中には、不要になった手帳が一冊。それからボールペンが一本。ひらいてみれば二重線に、消された発句(ほっく)の落書が、横に連なっていたっけな。列車はかたこと揺れている。

 思いはじめたことだから、さっそくしようと取出して、みどり色したボールペン、キャップを外してみたものの……

 二月の欄を眺めれば、赤く書かれた落書ひとつ。打ち消されずして残された。

今日をはて明日をはてよと旅がらす

 はてな?
  これはいかなる思いつきか。
 いぶかしくて、首をかしげてはみたものの、出来合のまじないみたいに、旅の初めに書き留めた。それからあの倒された、けやきの末路を思い浮かべ、その下に記してみるには、

秋の木を幹ごと斬つて落しけり

  あるいは入れ替えて……

    秋の木を斬つて幹ごと落しけり

 無意識に古調が沸いて来た。
  それはそれ、今はそれとしておきながら……
 これでは、正岡子規からお叱りを受けそうなくらいの月並(つきなみ)だ。
あきれながら窓を眺めれば、遠ざかる町並みのかなたには、田んぼや野原が広がって、雲はぷかぷか笑ってる。入道雲が笑うなら、きっと子規だって笑ってくれるに違いない。まあいいや、のどか日和の天気だから、言葉だってすっかりだらけるのだ。しばらくは、古調のままにたわむれた。

秋空に真夏の雲を残しけり

 そのまま過ぎて、興ざめするようなものだ。けれども正直が、一番よいことだってある。かといってこれを、

野分去つてなほ雲陰を残しけり

とでもしたならば、句調は整うかもしれないが、真夏の雲の浮かんでいるこの車窓の光景、その情緒性からは、すっかり遠ざかってしまうには違いないのだ。もっとも、それを言うなら、「けり」なんてひと言すら、かえってマイナスのような気さえする。現代文に紛れ込んだような中途半端な古文は、しばしばわたしたちの興を削ぐものらしい。そうは言っても……

十月のあらしを過ぎて暑さかな

くらいの「かな」は、現代文にも溶け込むような気もするのだけれども……それさえわたしの感性が、いくぶんか古語に寄り添っているだけなのだろうか。列車がとりとめもなく進むから、わたしの思いさえ、宛てなくさ迷うのだった。そろそろまたアナウンスが、チープな変調から聞こえてくる。

ひと駅をやり過ごしては秋の声

 まただらけてしまった。これでは漠然として「秋の声」がなんなのか分からない。まったく駄目だ駄目だ。それからちょっと空想に逃れて、

過ぎ抜ける駅花を持つ少女かな

なんて記してみる。わたしが秋の花を見かけたとしても、読み手には春として伝わる決まりらしい。けれども今の人が、花と聞いて、はたして桜を想像するかどうか、春を連想するかどうか、ずいぶん怪しいものである。つまりは季語なんて、ここには存在しないのではないだろうか。ここでの情緒性は、花を持っている少女と、過ぎゆく列車の対比にあって、季節がいつであっても、情緒性は保たれているという点において、無季の作品ではないだろうか。そうであるならば……

 せこせこした詩型にこだわるだけでは気が済まず、そこに季語を配置すべきだなんて、ずいぶん間の抜けた話ではあるのだけれども……だって、いっそこれを、

すり抜ける駅なにを待つ少女かな

とでもした方が、詩情にまさるのであれば、この発句における詩的表現は、季語をなくした方が勝ると言うことも出来るだろうに……

 かといって季語を込めようとして、最後を「ワンピース」などにしてみたら、それはもう着想品評会みたいな嫌みが、たちまちのうちに充満してしまうには違いないのだ。



 それにしても手帳を彩る、この緑のボールペンは悪趣味だ。第一太くて書きづらい。近頃はキーボードばかりだから、なおさら文字がくねるのだろう。誰にも読めたものでなし。そう思えばちょっとおかしい、自分でもときおり判別不能に陥ってしまう。もし詩人の魂が詞にではなく文字に籠もるものならば、わたしはまっさきに落第だ。もっともわたしは、それを信任しないけれども……それにしても下手くそだ。ひと様に見せられたものでなし。これからは、ノートブックも手書きにしようかしらん。わたしはやせ細った鞄(かばん)から、黒のボールペンを取り出した。これで仕切り直しをするために。気を取り直して車内を見渡せば、人々は居眠り顔して首をかしげるのだった。

 コスモスも
   鉄橋さえも 夢のうち
     首をこくりと あの人この人

    車窓の奥へ消えて行きます彼岸花

これだって、あるいは

     窓の辺(べ)を過ぎ去りにけり彼岸花

とするよりは、現代文に記された、率直な文章にはマッチしているのではないだろうか。そんなことを考えたり、あるいは

   入道雲よこならびして電力塔

なんて遊んでみれば、別に季節が異なるからといって、どれほどのこともないのだ。だって聞き手が感じ取るのは、わたしの感じた思いとは、必ずしも一致しないのだし、その必要性すらないのだし、それならばきっと、

  手作りのパン屋をくぐる無人駅

なんてしたところで、季節感がないからといって、情緒性が損なわれるとも言い切れないのだ。ここにはすでに、「手作りパン屋」と「無人駅」が情緒的な拠りどころとして置かれているから、季節感の助けを必ずしも必要とはしていない。季節感が情緒性の手段に過ぎないことは、発句も和歌も変わらないのだし、そんなの当たり前のことなのに……

 けれどもこんな句は、わざと明解を損なって、余韻を残すようなものだ。無人駅を降りてパン屋の入り口をくぐったのか、パンを買ってから駅へと向かうのか、あるいはユニークな造りで、パン屋が駅の改札へと連なっているのか、もっと味気なくて、駅の手前にパン屋があっただけなのか、どれほど読み直しても判然としない。それで、何度読んでも掴みきれないような、つかの間の余韻が残されて、ある種の情緒を引き出している。これをもっと壮大に、立派な着想にものしたものなら、例えば向井去来(むかいきょらい)の

 みずうみの水まさりけりさつき雨

 読み返すたびに何かもの足りず、かといって不十分でもなく、ただ漠然とした印象が、かえって雄大に思えるようないにしえの名句。着想の品評にあくせくするような、嫌らしい精神がなにひとつ無い。まったく自在な語り口。

 もっとも、こんなところに引用したものだから、わたしの落書きが乏しくなってやりきれない。

 それはそれ、それとしてそれながら……
 わたしのは列車での即興であるのだし
  小ものには小ものの着想があるのだし
   誤魔化しながら生きているくらいだし
  がたごと揺れゝばいつの間にやら
 降りるべき駅は近づくのだった。

西の会館へ

「春がすみ せき屋を出でゝ 河を越え
     西の館へと 向かふべし」

 パンフレットにそうあったのは、わたしの夢やまぼろしであったろうか。改札を逃れて地図板を眺めれば、健康診断の会場は、まっすぐ北へと延びている。日差しを浴びて溶け出しそうなくらいの、小さな文化会館である。地図の大きさでは、まるで大通りの様相を呈しているのに、駅からつづく一本道は、果てしもなくて細道である。つまりは尺度の問題なんだ。蟻んこどもが眺めたら、あれだって巨人の街道には違いない。そうしたら枯れかけの芋虫なんていちころじゃないか。変な日本語ばかり捏造(ねつぞう)しやがって。

 だいぶ暑さが湿気じみてくるものだから、わたしの思考さえ鈍重である。階段を下りてくてく歩く……そうしたらきっと誰かしら、今の言葉を「階段を下り」で区切らずに、「階段を下りて」と読んでから、「くてく歩く?」とつかの間、不審がる人がいるに違いない。そんないたずらばかりを思いつく。午後の日差しは堕落(だらく)への誘(いざな)い。ともかく北へと向かうのだ。



 くすんだような家並みと、しがない鄙(ひな)びた細道と、どこにでもある中途半端な、電柱めかした看板と、わたしはときおり立ち止まっては、思いついたことを書き付ける。ひらめきのままのルーズさと、即興的なひと筆書。すぐまたてくてくと歩き出す。そうなのだ、今度は「すぐまたて」なんかでは誰も区切らない。「てくてく」は十全に生きてくる。ただそれだけのことなのに……

 古びたポスター
  アネモネの花ざかり

  ……また嘘を書いちゃった。
   けれどもスケッチは、
  着想を誘発するための手段である。
 ありのままを提示するのはスナップである。
絵画の目的は証明写真にあるのではなく、詩の目的もまた、実写のためにあるわけではない。そうであるならば……

 ようするに写生なんて、着想を誘導するための、情緒に真実を与えるための、こころの体操みたいなものなんだ。

 たとえばここに、古びたポスターが床屋に掛けられて、けれどもその床屋にはもはや、いにしえの客どもしか来ないような、つまりは営業すら放棄しかけたような、鄙びた様相を呈しているとする。けれども入り口には、手入れの行き届いた植木鉢が、豊かな花を誇らしげに咲かせて、いまだあるじの息づく姿を、立派に教えてくれるのならば……

 それを見たわたしの思いというもの、植木鉢が別の花に変わったからといって、それが秋ではなくなったからといって、いつわりの情緒へと変わるものだろうか。もちろん、春にはいのちのよろこびを、秋には過ぎゆく悲しみを、それぞれ担うものだとしても……

 わたしがつかみ取ろうとしたもっとも大切な真実は、どちらにしても損なわれはしないのだし、詩情にいつわりはないのだし、古びた床屋に咲き誇る花の姿だけが、ただただ本質的な問題であるならば……

 例えば秋風を聞きながら、春の唄を口ずさんだからといって、わたしは嘘など付いていないのだ、だって詩情はそこに息づいて……

 着想と現実は触れ合って、本当の詩興へといたるのだ。
  それゆえにこそ写生の精神は、
 永遠(とわ)にこころと結ぶべきものなのなのだ。

 そう思ったら、不意にどうでもよくなったみたいに、次から次へと落書が、沸いてくるのは不思議なもので、今はもう古語のことすら考えず、すやすやと浮かんだままに記してしまうのだった。

 べんり屋の看板落とす野分かな

  建てかけの釘の響きや赤とんぼ

   立ち枯れてばあさん銀行を訪ねけり

    けれども銀行は、
     説明に過ぎて興を削ぐものならば……

    立ち枯れてばあさん道を訪ねけり

   一方でこれを、
  空想的にニュアンスを変えるなら、

 立ち枯れてばあさん夢を尋ねけり

なんてすることも出来るのだけれど、ちょっと甘ったるい。とりとめもない思いにひたっていたら、横道の奥からは、掃除めかした響きがしてきた。歩きがてらにちょっとのぞき込むと、じいさんが物置であくせくしていやがる。

物置にしまう仕草よ扇風機

なんて情景をかもしだすのだった。その少し先には花屋があって、植木鉢には花が植えられている。わたしはついまた、いつわりの心を起こしてしまう。

里の花屋にりんどうひとつ揺られけり

けれどもあるいはこれを、

里の花屋にそっとりんどうの揺られつつ

と和歌調に記したからといって、どうして閉ざされないことがあるだろう。継続の「つつ」が次の情景を求めるから、断定的な調子は遙かに薄れてしまう。解答のないような余韻に、悩まされつづけるような気配がする。それはそれとして……

 不十分ながらにもその情景を、辛うじて提示していることも事実であって、そよ風くらいにただよう姿も、そこには認められるのであって、里の花屋のわびしささえも、ようやく伝わってくるものならば、これは「つつ」においても詩情はまっとうされているのであり、かえってこれこそが真実を写した姿のようでもあり……それならもっと素直(そっちょく)に、

里の花屋にりんどうひとつ揺られます

としたらどうだろう。断定的な強さは薄れ、散文の口調に近づくけれど、もし現代文の表現のなかに、そっと割り込ませるような詩文なら……

  こちらの方が遙かに結構ではないかと
   そっと思われるくらいの勇気です

 すると向こうには、清涼飲料水のうち並ぶような販売機に、せがみ坊やの後始末をするみたいに、コーラを買ってやる母親の姿さえあるのだった。わたしはまた落書を再開してしまう。

 花のした缶を蹴り合う子供たち

  なめらかなコーラにとまるほたるかも

   空き缶をコスモス畑に拾う子は……

  自動販売機あてどもなくてしるこかな

 なんて記していくうちに、とうとう冬になってしまった。どれもこれも、詠むべき対象を、自動販売機から得たことだけは事実であるけれども、写実が聞いたらあきれるくらいの妄想である。それならそれでいいとして、よくもまあ次から次へとポンポンと……

 歩きながらも生まれ来るのは、ようするに五七五という詩型そのものが、どれほど安逸で即興的な、述懐を述べるくらいのもので、これのみ追い求めるほどの、たぐいまれなる詩型でないことは、十二分に明らかなように思われるのだけれど……

 まだしも和歌の叙し方の、対象を定めつつも抽象化を、推し量ることの難しさ、そのまま叙しては散文と変わらず、冗長な落書へと堕落するものだから、様式化された言葉の結晶として、提出することの難しさと比べただけでも、どれほどお気楽なものであるか、分かったものではないのだけれども……

 それだからこそ無趣味の殿堂ともなって、地べたを群がる蟻どもの、お気楽な詩型ともなっているのだし、それは昔から変わらないものであるのは、品評会の歴史からも明らかではあるけれど……

 そこにまぎれもなく詩情を生みなした
  芭蕉や子規もいるのだから
   簡便(かんべん)であるからといって
    それだけで軽蔑したり
   貶(おとし)めたりする必要もなく
  ゆゆしいところさえ
   あるのだけれども……

   かといって今さらそればかり
  追い求めるほどちっぽけな
   殻に籠もった俗物は
    老いたるマユの蚕(かいこ)です
   だってそれはとりもなおさず
  ただの詩型の一つには
 過ぎないではありませんか。

夕されば
 舞い散ることの葉 すがりして
   もてあそびます 秋のいもむし

  なんのこっちゃか分からない
 すっかりしおれてしまいます
  気を取り直して行きましょう。
   なんだか鳥居が見えますよ。

  いいえ、あれは鳥居でなく
   銀色に立つ鉄柱です
    鉄柱です。

 ひなびた神社があるのです
  けれども会館は見えません
   一本道に決まっているのに
  なんだかとっても不安です。

   慌てて靴を急ぎます
    時計を覗けばさっきから
     ほんの十分も変わりません
    到着なんかしないのです。

 どうも臆病で困ります
  なんだか急におかしくて
   噴き出しそうになるのです。
  大きな建物がどっしりと、

   向こうに控えているばかり
    あれこそ目的の会館です。
     さっそく信号を渡りましょう。
    いつしかトーンも移り変わり……

     しばらくは丁寧語の口調です。
      これもひとつの、
       試みです 試みです。

鳥居

 さて会場へ着きました。わたしにも譲れない良心はあるのです。それはゴミ拾いの事ではありません。そうではなくて、
「同僚の顔さえ見ずに」やら、
「羽子板をつかずに立っている」などと、
散文の説明に数だけ整えたような、興ざめするような不体裁に詩情を誤魔化して、着想や頓智の品評会に身を委ねて、それを和歌やら発句とは呼びません。ましてや現代詩などとは叫びません。

 けれどもこれは、きっと立派なポリシーです。わたしは知っています。それは詩を詠むための、たったひとつのマナーです。数さえ揃えてはしゃいでも、解説はどこまでいっても解説です。散文はどこまでも散文です。説明文はいつまでたっても、しがない理屈に過ぎません。

 それをたったひとつ、言葉数だけをとらえて、発句だとか和歌だとか、叫ぶくらいの蟻んこは、どこまでいっても底辺の、大地に暮らすばかりです。バッタはぴょんと跳ねるのです。小鳥は空を飛ぶのです。良心的な芋虫は、枯れることなく蝶なのです。失敗しても蛾なのです。

 大地を基準に生きたなら、群れるばかりが安心です。となりと寄り添う感性が、すべてを覆うばかりです。孤独な鷹は異端者です。とんぼの影さえ嘲笑です。やみくもに多い仲間に安心して、醜態をきわめてしまうのです。空から見たら息苦しい、働き蟻の姿です。

 かといって、それがどうしたというのだろう。
  わたしは雲のようにぷかぷかと、
 自由に浮かんで参ります。野分の後の忘れ形見、入道雲の子供らの、真綿のような姿して、のどかに浮かんで生きるのです。泥にまみれればこころさえ、ぬばたまみたいに染まるでしょう。似たもの同士の嘲笑に、次第に慣れもするでしょう。互いの尻を舐め合って、たたえ合ったりするでしょう。そんな姿は嫌なのです、わたしはそれにはなりません。さみしくたってあの雲と、漂いながら生きるのです。

 やれやれとんだ脱線です。
  ともかく会場へ入りましょう。
   なぜならちゃんと健康診断の、
  看板くらいはあるのです。

ずいぶん悲惨な検診です
 まるで身体測定です
  用紙と尿とを検査して
 提出するのはまだしもの
  診断じみてはいましたが

  それから先は体重や
   身長視力を計るのです
    聴力などはしないのです
   けれども血圧は測ります

 聴診器はあっという間に
  ひと呼吸して過ぎ去ります
   問診すらもないのです
  用紙のアンケートがすべてです

そうして最後にレントゲン
 パシャリもチーズもありません
  チンとも鳴らずにひと呼吸
 着物を着たなら、はいさようなら

 十分ほどのことでした
  並び待ちさえありません
   見慣れた顔さえありません

  わたしは再び入り口を
   出口とかえす会館に
    なみだも見せず去るのです
     手さえ振らずに去るのです

  

  ちょうどさっきの信号です
   赤から青へと変わります
    道を渡れば診断の
   なすべき事はおしまいです

 さあ、遊びに向かいましょう
  これから先は自由です
   わたしは雲になるのです
  ふわふわそこらを散策です

ほんのわずかな出来事です
 数行ほどの診断です
  たとえばこれを冗長に
 語る仕草はどれほどの

 紙面を増やすまやかしです
  作家と企業が馴れ合って
   利潤をむさぼる気配です
  わたしはそれには乗りません

  それより神社へ向かいましょう
   わたしはそちらへ参りましょう
    ふと立ち寄ってかしわ手と
   賽銭も入れず祈るのです

  けれども扉に張り紙です
   放火の犯人を捕らえよと
    警察署からの知らせです
   わたしは逃げなければなりません

    なぜ、なにゆえに?
     そうやって、びくびくしてるから
      いつだって、職務質問されるのです
     いえいえ、これは妄想です。妄想です。

   筆の走った落書です
    それから境内を散策です
     ボールを投げないでと示された
    のどかな看板さえあるのです

   付属の公園もあるのです
    ベンチに座って一休み
     手帳を開けばおだやかです
    日差しは木々にさえぎられ……

 こうしてベンチから眺めていると、ちらちらとした木漏れ日はみどり葉と、枯れ葉の混じり合うようなしっとりとした大地を、風をリズムとくゆらせるばかりなのだし、わたしのたましいさえ、それに合わせておだやかになるものだから……

 だあれもいないすべり台、三段鉄棒の横ならび、後ろには小さな木造小屋が、神社の横に建てられて、塾の名前など記している。あるいはここの住職が、教師を兼ねているのでしょう。

 けれどもわたしは由来やら、先ほど眺めた石版の、落書などはいたしません。今日の目的ではありません。それよりもっと愉快なことを、わたしは記そうと願うのです。たとえばそれは、先ほど済まなそうに、ひとかたまりの彼岸花がちくちくと揺れていて、その赤い花のあちこちには、蟻どもが歩いておりました。数えるほどのものですが、ほんの数匹というわけでもなく、甘い蜜でもすゝるのか、思いもしなかった出来事です。わたしはそれをこそ記しましょう。それこそ本当の愉快です。こんな寺院の由来より、(いいえ、怒ってはなりません。どんな寺院でもおなじことです)ずっと大切な真実です。うれしくなって次々と、言葉を紡いでみせるのです。

親子蟻のゝぼり降ります彼岸花

 ひがん花蟻の登りて降りけり

折られてもとなりに咲きますひがん花

 わたしは知っています。誰かのしたことはといえば、たとえばきっと、

 折られても折られてもなほひがん花

あるいはもっと奮発して、

  折られても燃ゆるが如きひがん花

みたいな陳腐なデフォルメを、真実の代わりに提示して見せたということを。嫌みな折られてもの繰り返しやら、「燃ゆる」などというおのぼれた着想がきらめいて、情緒性よりも彩色(さいしき)に巧みないつわりの詩境。この嫌みが分からないものはみな、大地に群がる蟻なのです。

 わたしたちは、それらを信任しないのです。安っぽいひとつの時代の終わりです。貫く棒のごときシーズンは、驚くほどのポンチです。そんな時間感覚はたとえばきっと、幼稚園じみたデフォルメです。ピエロみたいなお化粧です。先ほどの蟻の昇り降りにしたところで、たとえばきっと「登りたる蟻の降(くだ)りけり」とすれば、説明的な解説には過ぎません。けれどもそれを、「蟻が登って」それから「降りた」とするならば、いくぶんかは動態の記述にまさります。眺めるものの詩興です。



 そんなことを思いながら、ぼんやり公園を見ていると、不意に風が木漏れ日の合間へ吹き込んで、緑のままの落ち葉さえ、軽やかに舞いあげるものですから、わたしは意味もなく唐突に、なんだかふるさとのことを思い出したりもするのです。そうして手帳にそっと、

ふるさとを彼岸の寺にたずねけり

なんて、うそぶいてみたりしていると、不意にいのちを思い出したみたいに、蝉がいきなり鳴き出して、わたしを驚かせたりするのでした。けれどもそれもほんの数秒のこと、もうどれほど待っても、蝉は二度と声を上げたりはしないのでした。わたしはそれを哀れむようにして、

 十月の蝉にしぐれもなかりけり

なんて手帳に書き付けてもみるのです。それから和歌を願うのでした。

 けれども和歌は、発句よりもすらすらと、口調にのぼりはいたしません。それはつまりは詠嘆よりも、もっと考察的な事柄です。抽象概念へと至らしめる、ある種の詩作が必要です。そうでなければだらだらと、散文をしたためるばかりです。三十一字に合わせても、散文はやはり散文です。それを、手形をさえ絵画と讃えるほどの俗物ばかりが、一緒くたにしてはしゃぐのです。わたしはそれを憎みます。そうしていつもひとりぼっちです。もちろんそれは淋しいことで、わたしだって仲間とみんなして、はしゃぎ合ったりふざけたり、アイデンティティーを放棄して、ポリシーのないぬるま湯のなかで、たわむれていたいと日和りたくもなるけれど……

 けれども妥協はいたしません。悲しくたって行くのです。舗装道路はお気楽です。誰もがおなじ歩みです。横道に逸(そ)れるのは葦原(あしはら)の、ぬかるみに似た行為です。だけどそれこそ本当の、個性くらいではないでしょうか。わたしはそう、信じているのですけれども……

 またくだらないことを懸命に、考えているわたくしの、こころとからだとわびしさと、吹き抜ける風と木漏れ日と、さまざまなものが混じり合って、ジャングルジムを眺めれば、秋の枯れ待つ気配です。

 さあ、そろそろ、気分転換です。和歌でも唄ってみましょうか。

木漏れ日の
 子守歌する 境内(けいだい)に
  みどり葉散らす 風のさやけさ

 駅を降りて
  まっすぐい道を どこまでも
   ひと気もなくて 揺れる秋桜(こすもす)

  ひとりぼっち
   靴に取り付く 蟻ん子の
    さみしく笑う そっとほほえみ

 けれどもそれもやがてまた、時計を見れば三時を過ぎているのだし、そろそろお別れのシーズンです。わたしは手帳を閉ざして、颯爽(さっそう)として立ち上がると、だあれもいない境内に、さらば一つと歩き出す。それから二つのにょきり立つ、鉄柱の真ん中を抜けるのでした。それにしてもこの鉄柱は、古びたやしろに不似合いです。調和の取れない過ちは、この国いたる処に見られるほどの、電柱やら商品看板にまみれた、あるいはどぎつい化粧にまみれた、体裁を知らない姿です。わたしは味気ないものを眺めつつ、まっすぐい道へと帰ります。戻りはさくさく参りましょう。くどくどしいのは嫌いです。きびきび進めるのが愉快です。ほんの詩歌のひと遊び。

舗装道路の暑さには
 夏の息吹も近づいて
  ちょっとけだるいシャツのうち

 わすれうちわの横たわる
  古び屋敷の縁側の
   猫さえ丸く眠ります

  それを横目に銀行の
   看板めざして進みます
    ときおり車道の騒音です

   まぶしいくらいの太陽に
    目を細めつつトカトンと
     木造工事を過ぎゆけば

    古びた床屋や商店の
     ひなびた景色を飛行機が
      知らんぷりして駆け抜けた

   雲さえ付かない青空に
    忘れ形見(がたみ)のトンボです
     どこからともなく風が吹く

  レストーランには青年の
   雑誌をめくるすがたして
    だあれもナイフは動かない

 そうして駅に着くのです
  折れ曲がったら階段です
   町並みは消えてくてく昇る
  そうしたらもう改札です

わたしは街にお別れを
 それから河を越えながら
  小さな駅でふと降りて
 大きな街へと出るのです

トーンは大きく舵を切り、
 丁寧語とはおさらばです。
  せわしないくらいの口調です。
 はじめの語りへと戻りましょう。

喜多院

 傾く西日の光線は、なおさら湿度を高くして、喧噪の街を照らしている。せわしない足並に語調を合わせるみたいに、新たな気持ちで歩道をさ迷うのだ。当初の予定では、車両禁制のアーケードに紛れ込みながら、デパートや書肆(しょし)に寄ろうとしてた筈だけど、駅前の掲示板を眺めれば、上の方に喜多院(きたいん)と書かれている。北にあればこそ喜多院ならば、期待に添って、わたしは北へと向かわなければならない。そんな冗談さえ、不意にわき起こってくるくらいだった。

 もっとも手帳のせいには違いない。診断を旅に見せようとする目論見が、わたしを大胆にした。わたしを活動家にした。普段なら面倒で行わないような様式をさえ、身にまとっては歩き出す。それにしても……

 ますます暑くなってきた。じめじめするような街中を、のこのこ歩くのはちょっと馬鹿げている。けれども一方では、かえってそれが愉快である。

 誰の動きさえ緩慢に、車道のナンバープレートさえ、物憂げにして走り去る。わたしの行く道は、ここでも北をめざしてまっすぐだ。それこそ自分にふさわしい。郵便局さえ見捨てては、金も下ろさずすり抜ける。帰宅途中の学生と、すれ違うさえ心地よい。けれどもなんだか大きな犬が、こっちに来るのはいけてない。北の方から近づいてくるから、これは北方領土の侵略である。次第に大きくなってくる。わたしは急に弱気になった。

 何しろ人ではないしろ物だ。気が変わったら何をするか分からない。わたしの足をハムと間違えて、くわえないとも限らない。さまざまな妄想が浮かぶとき、それを逃れようとしたわたしのこころは、しまった、つい魔が差して、変わりたての信号を、向こう側へと渡りきってしまったのである。

 ああ、なんたる失態。
  なんたる、不始末。
   情けない、情けない。
  情けないったりゃありゃしない。

 けれどもわたしも怠惰の歳月に、すっかりたましいを鈍くされたらしい。今となっては、情けなさゝえ面白がるみたいに、なおさら鼻歌まじりに、我が物顔の犬の顔を、向こうに眺めてやり過ごす。それからまた闊歩を逞(たくま)しうして、どしどし歩んで行くばかり。けれども……

 道は急に狭くなる。
  それから家の壁面には、
   道幅なんちゃらと抗議したメモが、
  スプレー書きで示されている。

   つまりはここは道路拡張を、
    かたくな拒んだ小路(こじ)には違いなく、
     側(かたわら)を見えばあちらこちらと、
    空き家の姿も目立つくらい。

     けれどもかなたを眺めれば、
      ひときわ重なる深緑が、
       街を逃れる合図みたい、
      ざわつくでもなく控えてる。

    わたしはそれを目標と、
     定めてどし/\歩くとき、
      また靴音は高くなる、
     大手を振って見せようか。

 院は近づいた。
  入り口はまだ見えない。
 ふと左折の小道を眺めれば、堀のような深い窪地をガードレールでとどめて、その向こうには大木が、舗装道路のこちらには家並が続いてる奥に、樹木へといざなうような小さな橋が控えている。正門(せいもん)なんかは知らないが、あそこから潜り込んでも、喜多院には出るのだろう。そう思ったから、颯爽として左へ折れ曲がると、堀の樹木は太い幹を讃えて、街並みよりも古い営みを、ここだけ主張するみたいに連なっている。不意に自然の領域へと、立ち返るような嬉しさに、てく/\がてらに橋へと向かうのだった。けれども……

 そこにはただ、
  「どろぼうばし」
 と書かれたプレートが、掲(かか)げられてはいるばかり。泥棒が渡った橋なのか、泥棒修行の橋なのか、あるいは穢れたたましいを、橋から蹴落とす仕組みなのか、皆目検討もつきゃしない。

 ……もっとも、つきゃしなくっても困らない。
  わたしのこころは泥棒などより、
 もっとひなびた処にあるから、
なにが起こってもへっちゃらである。

 もとよりこんな小さな橋では、刀狩りに出くわす心配さえないのだし、わたしは刀さえ振るえないのだし、なにより弁慶などが来たところで、やっこさん自分の体重でこの橋と、心中してしまうに決まっている。下には水さえないけれど、逃れるための時間は稼げるには違いない。わたしはようやく踏み出した。ところが、顔をあげると、向こうから来た悪ガキどもが、三人そろって笑っていやがる。

 しまった。
  わたしは臆病を見抜かれた。
   こころをどろぼうされちゃった。
  腹さえ切らねばなるまい。

 そう思ったところでうつむいて、真っ赤になって過ぎていく。なにも恥ずかしくなったんじゃない。あまりのおさない発想に、吹き出しそうになったからである。そうしたらようやく深緑に紛れ込んだような静けさと、冷やゝかな大気が帰ってきた。ああ、いい気分だ。

横から入った喜多の院
 向こうに見えるは本堂か、
  鄙(ひな)びたあたりを散策すれば、
 歴代の墓なんかあるのです。

 けれどもわたしは紹介しない。ここは天台宗の寺であり、天海和尚が入寺して以来、幕府に保護されて復興を、なおさら遂げたとあるけれど、今日のわたしは観光の、目的に来たわけではないからである。そうしたことは一切記さず、寺院の正面へと回り込む。歴代の墓なんか知ったことか。右手には地蔵菩薩やら、しっかり葉を湛(たた)えた菩提樹やら、山の上には天海和尚の、ゆかりのなにやらまであったけど、境内の正面は閑散とした、広場が控えているばかり。名所じみた垢抜けなど、探しても見あたらないのだった。

 わたしはふら/\と手水場(ちょうずば)に、出向いてとく/\水をくむ。竜の口から流れ来る、冷たい水のさわやかを、指に感じてみるばかり。ふと寄る蜂を眺めては……

手水場に蜜蜂ついて呑みにけり

なんてまた、「けり」めいた発句をしてしまうのだった。それからまた、

    菩提の葉さえ暮れあいの寺

なんて二の句を継いでみる。まだ夕暮れてなどいないのだから、これもちょっとしたねつ造である。さらに続けて、

   自転車にまたがる親子かご揺れて

と、たまたま通りかかった自転車に、三の句をゆだねてみたりする。どうやらここは、自転車は通り抜けできるらしい。ポチのお散歩は禁止とあるから、どうやら自転車の方が格上のようだ。だからといってオートバイは下車である。歩行者はもっと堂々としていなくっちゃいけない。犬に怯えて信号を渡るなんて、あまりだらしない失態だ。なんて考えがてらに、すこし油断したら、手水場には鳩さえも訪れた。今日は暑いから鳥も喉が渇くのだ。わたしはちょっと考える。

手水ばのみづ冷たさよ鳩のこゑ

とした方がよいのか、それとも

手水場の水つめたくて鳩の声

とした方が、まだしも詩に叶うのか、相変わらずよく分からないような不始末だ。二三度首をとく/\したら、鳩はすばやく飛び立った。わたしは手帳を取り出して、どちらもそっと書きしるす。それからもう気にしない。思うがままに記すことが、ひと筆書きにはふさわしい。じめ/\思いわずらうな。さっそく本堂の右側へ、回り込んでみるのだった。

   Ⅰ
ちぇつと有料か
 書院づくりが
  なんとやら

  ちぇつと閉館か
   徳川の再建が
    なんとやら

ちぇつと二重か
 五重塔なんて
  夢のまた夢

 (そうしたら僕なんか
  本堂へさえ向かうぞ)

   ちぇつと賽銭か
    ご縁の五円が
     なんとやら

 (そうしたら奥にさえ
  賽銭箱が控えてたぞ)

ちぇつと賽銭か
 一度やったら
  知らないぞ

   Ⅱ
逃れてぼんやり
  眺める欄干には

  軽やかな仕草の娘さん
    穏やかに見守るお母さん

 はるかな下界の手水鉢
   なめらかにひたしておりました

二人の歩幅の違いには
  流れる歳月を思うとき

 あるいは不意に時告げの
   音楽なども響くのです

  お寺の鐘ではありません
    かえってそれがあたりきの

 日常めかした幸福のように
   聞こえてさえ来るのですが

空にはちょっと不穏な色した
  雲なども浮かんでいたりして

 それはそれ、それぞれの夕暮れへ
   近づいていくような気配です。

  さっそうとした鳥がまた急に
    飛ぶ方向を違えては……

   Ⅲ
 とんぼ食う
  むじゃきな鳥よ
   喜多の院

 さあ、そろそろ間延びした、本堂の香立て階段を斜めに下りて、のらくらと散策を続けよう。赤い二重の塔の方には、お土産屋さんが閑散と控えて、五百羅漢(ごひゃくらかん)の入り口を、導く仕組みになっているのだし、わたしはそれを外から眺めては、羅漢の姿に探りを入れて、祈りもせずに立ち去った。向こうのだんご屋へと向かうのだった。

 けれども店員は見あたらず、カードを広げた子供らと、ベンチで一緒に休んでいるらしい。早くも迫る店じまい、待ちわびるようにさえ思えれば……

 なにするでもなく過ぎるとき、老人どもの寄り合いは、あてどもなくてぺちゃくちゃと、しわを刻んでいるばかり。忍び寄ります枯れすすき。

 けれども、いちょうは気づかない。緑を気取って揺れている。色づく葉さえ隠しして、そしらぬ顔の風が吹く。

 左手には、鐘楼(しょうろう)の門さえ控えている。かつては、天海様の山上に、立ち寄るための朱門さえ、今ではただの文化財。

 それを横目に見過ごして、茂りの奥へと向かうのだ。はらりと降った緑葉が、いちょうのままに舞い落ちる。ふと砂利道を眺めながら、わたしは手帳を取り出した。

 はらりひらり銀杏(いちょう)の葉さえときおりは……

なんて、俳人どもが見たら、大騒ぎしそうな落書をさえ記してしまうのだった。けれども詩型が柔軟さを見失ったら、それはクロスワードと同じなんだ。智恵と頓智(とんち)のランデブー。わたしの知ったことでなし。さっそく仙波山(せんばやま)へと向かうのだった。そこには狸(たぬき)もおるかしらん。

水をたたえた窪地には
 きつね社がぽっかりと
  橋を渡れば朱に染まる

   鳥居ともなく控えます
    眺めおろせば子供らの
     網をむさぼりかき回す

      白いザリがいたなどと
       ひと際はしゃぐ姿です
      蛍のひかりの池などと

     紹介されてる池なのに
    かき漁ってよいものか
   不思議に思う遊びです

  無邪気な声を聞く耳は
 鳥居にひそむ白ぎつね
あるいはそれは神様の

 申し子なのかもしれません
  水草さえも揺れ合うくらい
   おだやかな夕暮れの散歩池

 どうやらここは、厳島のまねごとの様相(ようそう)。池の真ん中に島が見立ててあるのはそのためらしい。こうしてどしどし移植して、日本全国厳島。それはそれ、誠に結構ではあるが、夕日なんかは見えやしないのだった。堀池の反対側には、空になった堀端の延長か、土草じみた底道が延びているばかり。わたしはそこにしゃがみこんで、日ごろの疲れを癒すのだった。

羽虫が沸いてたかっているな
 木漏れ日が斜めから揺らしているな
  ちらちらと不思議な金の糸が
 きらめいたりもしているな

  くも糸のきらゝめきつゝ静けさは
    あてどもなくて風のいたずら

 それにしても、西日がスポットライトみたいに、あのあたりを照らしている。こころを取り戻すみたいに、湿ったような風が来るのに任せて、ぼんやりとしゃがんでいた。すると、どうしたことだろう、どうも驚く、入境(にゅうきょう)禁止を無視した犬っころが、老人を引き連れて、ぐんぐん迫り来るではないか。しまった、こころの平穏は損なわれた。あれはポチには違いないのだ。

 何しろ人の感性を持たない奴らだから、何をするか分からない。惰弱な精神に活を入れようとして、首輪をちぎって襲ってこないとも限らない。わたしの叙情性もはや尽きた。ここはポチの所領であり、わたしは一介(いっかい)のやっかいものに過ぎないのだ。ポチのお散歩の邪魔をするな。

 慌てて立ち上がると、そそくさとして逃れゆくのだった。虚弱の精神には、逃避の秋こそよく似合う。はたしてこれは、太宰治のことわざであったろうか……

東照宮

 仙波東照宮(せんばとうしょうぐう)は、日本三大東照宮のひとつだそうだ。もちろん後から知ったことで、その時はなんだか知らないから、おおかた徳川家康が祭られているんだろうと思って眺めていた。けれどもはやくも寺社仕舞(じしゃじま)い。閉門時間となりました。

 階下に控えるだんご屋も、カーテンを引いて閑散と、椅子を並べているばかり。仙波山とは詠んだものの、山の定義はそれぞれの、階段ざっと十メートル。そんな高台のいただきに、今こそ正門(せいもん)を封鎖した、よれよれ服の婆さんが、懸命に階段を下りてくる。そばの広場にはゲートボールの、残骸が一つ転がって、ベンチにはけれども誰もいない、もうその先は街のなか。

 しかたがないので反対の、娑婆(しゃば)への門へと散策すると、紅白を違えたひがん花が、折られながらも咲いている。わたしはまた手帳を開くと、さらさらと落書をしてみるのだった。

赤と白と分かれ咲きますひがん花

 あるいはこれも明治なら、

  赤と白と分かち合ひけり曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

とでもするのだろうか。初めの落書きと、いったいなにが違うというのだろう。対象への情緒性は、どちらも同じなんだ。けれども、もし嫌みたっぷりに、

   赤と白と馴れ初めにけり曼珠沙華

なんて卓上の推敲を重ねるくらいなら、

  赤と白と寄り添うようなひがん花

[覚書にて打消すべし
 「赤と白と寄り添う親子ひがん花」など陳腐な嫌みをこそ厭ふべし]

と、ただ思いのままを口にしたような現代語のため息の方が、どれほど詩情にいつわりのない、本当の唄だか分かりはしないのだ。それにしても……

 体がかゆいと思って眺めると、すでにぷっくらと腫れた左腕のとなりに、また別の蚊が止まっているのだった。しまったと思って慌てて叩いたら、腕が痛いばかりで逃げてった。わたしは、どこまでいっても鈍重である。ポチに馬鹿にされるのももっともだ。急に体じゅうかゆくなって、リリシズムも東照宮もなくなってしまった。

憐れ蚊にふくれつらして帰宅道

けれどもし、これを改変して、

  憐蚊にふくれ面して祝ひけり

とすれば、先ほどとは違って、言葉つきだけでなく情景も、そこからもたらされる情緒さえ違ってくる。にわかに人々の集う祝いの場となって、ふくれ面した読み手の、複雑な思いも生きてくるというものだ。さらに前書きでもつければ、面白さにも箔(はく)が付く。だからといって、その前書きが典型的な現代文であるならば、あえて、

 憐れ蚊にふくれつらして祝います

としたからといって、言い切りの強度は弱められるものの、統一的な詩情には体裁がよく、損なわれるものなど、何もないようにも思われてくる。ただそれくらいのものなのに……



 そろそろ戻ろうと仕掛けたとき、子供らの池近くから伸びている、東照宮へのもう一つの階段があるのを思い出した。上は柵が閉ざしているから、さっきは昇ろうともしなかったのだけれど……

 かゆがる腕をなだめながらただなんとなく、ふらふらと昇ってみるのだった。それから赤い柵に、首を挟んで眺めれば、東照宮の正面が、ぶっきらぼうに控えている。ここは「あんたがたどこさ」の童謡が、生まれたという異説もあるくらい、伝説めいたところではあるけれど、今はそれさえ、どうでもいいような気がするのだった。

 ただわたしは、そこから柵の周りへと伸びる、道なき土の細道を、高台がてらに回り込んでは、きらきらとした町なみの方へと、吸い込まれるように歩んでみた。

 そうして空洞になった幹を鉄鎖(てっさ)で支える、巨大な樹木の斜めにそそり立つあたりから顔を覗かせて、日差しの方を眺めてみたのである。

 するとどうだろう、そこには西日に照らされた川越の街が、この自然界とはまるで対照的に、人々の営みを讃えているばかり。わたしのすぐ向かいには蜘蛛の巣が、日差しにゆすられどす黒い、あるじを控えている姿さえ、不思議に思われるくらいその彼方には、鋪装された道路やら、行き交う人々や自転車の、去りゆく姿も眺められて……

 わたしはこの頃すっかりふてくされていた心に、ほんのわずかな清涼剤を得た気がした。例えばそれは夕暮れの、ほんのわずかな持続剤にはすぎないとしても、いまこの瞬間がうれしくて、そうしたらもう、言葉のことなんかどうでもよくなって、ぼんやりとビルの競い合うような姿やら、ひなびた軒を連ね合うような家並やら、あるいはまた斜め向かいの公園には、学校帰りの子供らがはしゃぎ回るような姿やら、ときおり聞こえる自動車の、ブレーキ音やら街の喧噪を、見守るような樹木と一体になって、こうしてあてもなく眺めているばかり。たまたまきざした風にさえ、頬をゆらしてにこにこと、ほほえむようにいつまでも、そこに立ち尽くしているのだった。

  朝な夕な
   移り変わります 街なみを
     眺めつづけて 染まるこの幹

      ……わたしも同じか。

                    [おわり]

2012/12/16
2013/6/10 改訂後、文字修正など完了

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