彼と奴ら

(朗読)

彼と奴ら

 こんな夢を見た。彼と奴らの夢である。彼はこころの友を望んだ。学校はがらくたの会話に終始した。彼は一人だった。彼にとって学校は、地獄であるように思われた。そこには人生について、政治について、社会体制について、そして学校について、語り合い、議論を戦わせ、時には喧嘩をするほどの、気概を持つものは居なかった。教師ですら、ただ教科書の羅列を、参考書くらいの知識を、オウムみたいに繰り返す、質の悪い再生装置に過ぎなかった。彼は勉強が嫌になった。学校も嫌になった。いつも一人だった。彼は笑わなかった。
「うざったい」
「きしょい」
「だるい」

 教室はがやがやの雄叫びに終始した。動物であること、それが美徳だった。不気味な野獣言語が幅を利かせていた。奴らはそれを、大人になっても保持するらしかった。それが奴らの美徳だった。醜いものがあふれ返って、善良性を食い潰していった。誰もそれを咎めなかった。教師までも、時に荷担した。どの国よりも動物的であること、卑怯であること、考えないこと、そして集団的であることが奨励された。全員が同じ服を着て、五人の黒い奴らが、一人の白い奴を染めていった。そして雄と雌の話しをする時にだけ、奴らは活気づくらしかった。

 文化祭の準備は苦痛だった。運動会の練習は苦痛だった。その度にだらだらと時間を潰す、奴らの感性が分からなかった。それでいて奴らは事あるごとに、彼にちょっかいを出そうと、あれやこれやと画策するのだった。本当に不気味な世界だった。動物園に閉じ込められたようで、彼は死にたくなってきた。

 ある時、修学旅行の予定が立てられた。

「それでは、グループを組みます」

教師が学級委員を前に立たせた。生徒主導がモットーだった。バスやホテルの部屋割りや、それから自由行動のグループ分けが定められた。彼は行きたくなんかなかった。友達もいないので黙っていた。決して卑下はしなかった。けれども、動物の旅行なんて恐ろしかった。いっそ教師と泊まった方がマシだと考えた。

「じゃあ、僕が残った人をまとめちゃおうかな」

さっそく偽善者が現れた。

「僕と一緒になってくれるかな」

なんて言って来たので、彼はその偽善ぶりに吐き気を覚えた。自分を根暗だと囁いているところに、出くわしたことがあったからである。表と裏が違う方が、どれほど根暗だか分からない。そいつはクラスでも人気者だったから、偽善に拍車が掛かっていた。

 こうして彼はグループに組み込まれた。拒否する理由もないから、されるがままにしておいた。ただ、「よろしく」とだけ言って済ましていた。

 陰でまた、生意気だという声が聞こえてきた。奴らは、わざと聞こえるように囁くらしかった。本当の根暗とは、お前たちのことではないか。彼はそう考えた。この汚らしい精神は、どのようにして身につけられたのだろう。今のこの国以上に、精神の穢れた時代はないとまで、彼は思い詰めていた。不登校児童の感性の正当性について、思いを巡らせるほどだった。

 旅行なんか休みたかった。けれども彼の視野は、まだまだ狭かった。大人に成りきれていなかった。当然、彼の世界も狭かった。しょせんは高校生に過ぎなかったから、大勢の中で独立独歩を貫き通せるほどの、魂は養成されていなかったのである。だから両親に対しても、自分が阻害されているなんて、思われるのは耐えられなかった。彼の年齢では当然の、それは悲しい見栄には違いなかった。

 騒音のバスは走り出した。仮病で休もうかと悩んだ彼は、やはりどこかで参加したいという欲求が、胸の隙間に残っていた。友を求めたがる寂しい心がうずいていた。だからあれこれと理由をつけて、とうとう出発してしまった。それが彼の精神の事切れる序奏となった。もちろん彼は知り得ようはずもない。ぼんやりと窓辺から景観を眺めていた。

「あのお高くとまった男を、何とか我々の陣営に落としてみたいものだ」

言語化され得ない感情で、周囲の学生はうずうずしていた。彼が生意気だという意見は、すでに主流を占めていた。ただ笑わないという理由だけで、気さくに答える性格にも関わらず、彼はターゲットにされてしまったのである。どうにかして彼を貶めたいと、クラスじゅうの人間が瞳を凝らしていた。

 底辺まで落ちて来ないものは、奴らにとっては仇だった。一本ずつ足を引きずり下ろして、奴らは底辺を強化していった。それは幼い頃からたゆまず続けられてきた、奴らの儀式らしかった。一人増えるたびに、奴らはより強化された。いっそう容易く、次の足を引っ張った。やがて底辺はスタンダードとなった。底辺のドラマが視聴率を稼いで、底辺のマンガが大量生産された。底辺の娯楽はお笑いだった。それは人をあざ笑うための、絶好の教科書には違いなかった。学校の授業より面白いものだから、奴らはそれをどんどん吸収していった。奴らはそれを糧として、ますます底辺を強化していったのである。奴らにとって、足を引っ張ることは、使命であるかのように思われ始めた。

「なんか、うざくねー」

「かったりーよな」

 奴らは早速行動を開始した。彼を仲間に引き込もうと、ちょくちょく奴らの言語で話しかけて、それを真似させよう試みた。お前も早く一人前になれ。雄叫びを張り上げてみせろ。動物くらいにダイレクトな心地よさが、今こそ全身を駆け巡る。圧倒的快楽。人間の持っているわずかな気品をすら取り上げること、それが奴らの規範だった。メディアが後押しをしてくれたから、奴らの作戦はいつも容易く成功するのだった。ネットやメールは底辺の連絡網として、今や欠かせない存在となったのである。

 けれども、彼はなかなか乗ってこなかった。いつも済ましていた。夜になってから盛り上がる品評会でも、彼は一人で先に眠ってしまった。奴らは焦燥を高まらせた。

 修学旅行の二日目。作戦は変更された。奴らはまず彼を笑わせようとした。それから事あるごとに、手を抜かせようとした。

「おまえ、真面目すぎだって」

「いいから、少しサボっとけって」

奴らが急に猫なで声を出し始めたので、彼は奇妙な気分だった。それからなりふり構わず、奴らはおかしなことを、彼に向かって投げかけてきた。そうして、あらゆる手段を駆使して、とうとう笑わせることに成功したのであった。自分たちに対して笑うということが、底辺認証のための第一歩であるらしかった。

 もちろん、どんな人間だって、喜怒哀楽を持つものである。彼が笑わなかったのは、笑いを知らなかった訳ではない。笑うに堪えられないことばかり、餌にして笑っていた奴らの感性に耐えられなかったからである。たまたま彼にも愉快なことくらい、探せばあるには決まっていた。

 たったひとつの笑いを、奴らは見逃さなかった。ほら見ろ、彼だってしょせんは俺たちの仲間じゃねえか。急に安心が湧いてきた。さっそく大規模な懐柔策が取られた。事あるごとに話しかけて、彼が底辺に降りてこられるように、みんなで手を差し伸べてやったのである。反感や反旗が防波堤の役割を果たしているうちはいい。しかし大概の孤独者(こどくしゃ)は、この手にはころりと打ち負かされるのだった。

 つまり人は、圧倒的に誰かを欲するものである。たしかに偽物と本物が並んでいたならば、彼だって本物を選ぶには違いない。しかし、もし偽物と真空とが並んでいたらどうだろう。人は大抵の場合、偽物のほうを選び取るものなのである。それは動物的な本能であって、むしろ健全な証拠ですらあるのだが、つまりはその本能を利用した、ごく簡単な策略には違いなかった。しかし、奴らは別に、悪徳に身を染めるでもなく、それを正義と信じ切っているに過ぎないのであった。自分たちの領域こそが正当だと思うあまりに、無頓着に足を引っ張り合うのである。こうして奴らは、旅行の間、ひっきりなしに、彼を自分たちの領域へ引き込もうとして、あの手この手を尽くしたのであった。

 要するに結論はこうである。彼は、ほどなく奴らに敗北した。奴らの会話に取り込まれていった。そうして取り込まれるうちに、彼が守ってきたすべてのものは、はかなくも消え去っていったのである。

「なんだ、これこそが自分の望みだったのか」

心の中が穏やかになっていくのが分かった。切羽詰まったような棘がなくなった。へらへら笑ってさえいれば、みんなとしゃべってさえいれば、それだけで幸せだったのである。彼はようやくその事に気がついた。すっかり日和見主義者になった。なんでも雄叫びで済ませていればいいのだと、初めて悟りを開いたのであった。

 つまりは彼は、以前の自分を誤りであると見なし始めた。こうして五人の黒い奴らが、一人の白い彼を染めることに成功した。彼は奴らの一員となったのである。

 おそらくは、他の誰かがターゲットになったとき、彼は先発隊の役割を担うことになるだろう。今までそうやって、奴らは増殖してきたのだった。彼が一人であることを、どこかで恐れている以上、人として誰かとありたいと、常に念じてる以上、たとえ動物的であっても、一緒に笑っていたいと、彼が願ったからといって、誰が糾弾できようか。こうしてこの国には、奴らしか存在しなくなったのである。

2010/3/28

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