古層の夢

(朗読)

古層の夢

 掘り起こすべき最古層の夢はおぼろげで、幼稚園か小学校に入りたてか、眺めた時期さえ定まらない。そして取るに足らない断片である。

 自分はたしかに子供であった。そうしてその部屋にいた。他にも誰かいた。友人か、いとこか、あるいは大人もいたのか、すべてが霧に包まれている。

 まるで、幼い頃の我が家の二階部屋だった。それでいて、時空を隔てたパラレルのかなたみたいに、我が家とは違っていた。あの頃の一戸建ては、急な階段を折れ曲がった上(のぼ)りに、父親の部屋を背負っただけの建築だったから、窓から屋根にくり出して、遊び回ることさえ容易かった。天井がぶち抜けるから止めなさいと、両親から注意されたこともあった。外壁に見つけた足場から、地上に降りたことだって何度もあるくらいだ。そんな二階には、もちろんベランダだって設置されていた。黒塗りの塗装が所々錆びかけた、非常に狭いベランダである。花火の音が聞こえるたびに、その手すりに飛び乗って、立ち見に眺めるのが愉快であった。

 夢のなかで部屋のベットが幾つあったか、それはよく覚えていない。実際の親父の部屋のように、一つだけ置いてあったような気もする。ツインのホテルみたいに、二つあったような気もする。今となっては分からない。ただ入り口が北にあって、広い窓が南側だったことは覚えているのだが、これだって、当時の我が家に当てはめて、勝手に類推しているだけのことには違いなかった。

 まるで高度成長時代の、マイホームの夢を叶えたような建築だった。私は階下に、当時の我が家を想像していた。一階から上がってきたような気さえするのだが、思い返そうとしても浮かばなかった。

 覚えているのはただ、二階のスナップが一枚きりである。それは夜の情景だった。ちょうど子供の感覚で、宵が深夜へと移りゆく時間帯。つまりは二十時頃であるように思われた。窓はすべてが開かれていたが、残念ながら数までは覚えていない。二つは間違いなくあったが、現実の我が家には窓が三つあった。

 部屋は、暖かい照明に映し出された。あるいはそれは、実際にあったオレンジ傘の照明だったのかもしれない。その暖色が強調されて、天真爛漫の明るさで、部屋のなかを照らしていたのかもしれない。まるで春の日の夕暮れの、沈みきらない太陽の長閑さにも似ていた。窓が放たれているのに、ちっとも寒くなんかなかったのである。

 大気は初夏(しょか)めいていた。決して秋や冬ではなかった。窓の向こうは夜の暗がりが支配して、室内とのコントラストが際立っていた。私は部屋のどこからか、町明かりを見下ろしていたらしい。まるでホテルの三、四階から眺めたような、煌めくような夜景が美しかった。不意に光の筋がスーッと流れたと思ったら、それは夜行列車の走り去るような哀れだったのである。

 南窓のあたりには、室内と色彩を合わせたような、棚だか机だかがあった。しかし、実際の我が家とイメージが競合して、なかなか夢の原景にまで辿り着けない。覚えていることといったら、窓から眺めた夜景の懐かしさと、大気の澄んだような薫りと、屈託のない部屋の明るさくらいのものである。

 あるいは階下には、若い父と母がたわむれながら、息子の将来を思い描いたりしていたのだろうか。

「あいつも、もうすぐ小学生だな」

「築湯町(ちくゆちょう)からだと、学校変更の申請がずっと通るかしら」

「まあ、通らなくなったら転校だ」

私は幼い頃、共働き世帯のうえに、祖父の家が近かったので、そこから別の学校に通う申請をしていたのだった。

「軟弱だから、環境に対応出来ないかもしれないな」

父は多分に傍観主義である。

「あら、大丈夫よ」

母は多分にオプティミストである。

 居間の窓先には庭があり、そこには池やら、おじぎ草やらが植えられており、その横にはマイカーが置かれていた。車体は紫色だったような気がする。後部座席を引き倒すと平べったい物置になって、そこで移動中、遊びほうけていたような記憶がある。そのころ居間では、金魚が買われていたのであろうか……そうしたことも、はかない夢の断片と混じり合って、おぼろ気にしか浮かんでこないのであった。私は存外、記憶力に乏しい自分にがっかりした。それだけのことであった。

2010/3/26

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