密林の祭壇

(朗読)

密林の祭壇

 南国の密林を舟で移動するような居住空間である。前後関係はまた抜け落ちている。おそらくどこかの町にいた。使命をおびて、誰かを見つけ出すつもりらしい。町外れには船着き場があった。ジャングルが見えて、川と密林が広がっていた。丸太を組み合わせた筏で遡っていった。大河は穏やかな水を湛えて、幅は何百メートルにも渡るように思われた。それはまるで、アマゾンの密林地帯のようだった。所々には島のようなはぐれ樹林さえあって、それを挟み込むみたいに、大河は枝分かれに流れていくのだった。

 やがてコンクリートの建物が現れた。もともと陸地だった大都市が、水没したなれの果てのような頂上を晒(さら)していた。この大河は、かつてのシティを呑み込んで流れているのかもしれなかった。その階段のところに船着き場があった。内部に入ってみると、まるでプラットフォームのような面持ちである。それでいて線路なんか残されていない。人影なんてどこにもしないのである。また筏へと乗り込んだ。

 日射しは穏やかだった。キラキラする水面(みなも)が、樹林の足もとにまで達していた。つまりは汽水域に住まうマングローブの森である。

 さらに遡ると、島のように浮かぶ小さな林が見え始めた。そこには、木造建築が枝を慕って建てられているらしい。あるいは小さな居住地が、そこかしこに点在しているのかもしれなかった。私はそこへ乗り込んで、誰かと会ったような気がするのだが、残念ながらまるで覚えていない。いつもの記憶ながら、皆様には申し訳ないようなものである。私はまた、物語をねつ造しなければならなくなった。



 神々を顧みず、人々が享楽に明け暮れたとき、劫罰(ごうばつ)が下った。寒冷の大地に、灼熱の太陽が降りそそいだ。永久凍土は融解し、氷河はわずか数年で姿を消した。それに合わせて温暖なシティに、洪水が頻発するようになった。シティは川から離れていたが、高度が低すぎた。海からの高波が二回続けて襲ったとき、大部分の市民が死滅した。享楽の都はゴーストタウンとなった。それから、気候が熱帯へと移り変わる頃、シティは大河の河口となって水没した。高台だったところにマングローブの林が生まれた。それから、新種のマングローブが現れた。浮島を作るという特異なタイプだった。海を控えた安心からか、大河はゆったりとしたスピードでのたくるのだった。

 生き残った人々は、ならした山に新しいシティを建設した。何十年かが過ぎた頃、シティは活気を取り戻した。資材は港から運ばれ、高層ビルが乱立した。大潮の高波にもハリケーンの洪水にも対処すべく、高台の周りにさらに防壁が張り巡らされた。

 海に向かっては、巨大な船舶が往来した。しかし、ジャングルに漕ぎ入れる時だけは、粗末な木製の筏が使われた。波がマングローブを痛めつけ、それらが枯れ始めたとき、再び大きな洪水が起こると、神殿の奴らが脅したからである。それは以前の洪水の、最後の神託に他ならなかった。人々はかろうじて、その教えを守っていたのだった。

 シティには銀行があった。カフェもあった。おしゃれなカップルがデートを楽しんだ。夜景が煌びやかだった。人々はまた享楽に明け暮れた。野菜は工場で作られ、収穫祭の祈りは忘れ去られた。ニワトリはベルトコンベアーで運ばれ、機械によって首を切断された。魚は生きたまま腸(はらわた)をえぐられた。キラブラウリは神聖な動物だったが、それすら、はく製にして楽しむ者が後を絶たなかった。その肉を調理するレストランさえ、密かに運営されていたくらいである。神殿はこれらに対して、神々の劫罰を振りかざして、生活を戒めたが、次第に顧みられなくなっていった。

 ラネトはその日、学校に出ていた。いつも通り、ゲームや映画の話に興じていた。飽和した商品に囲まれて、生徒たちは物欲と娯楽と異性にのみ、関心を示すらしかった。おぞましい化粧が流行した。香水の鼻をつく臭いに酔いしれた。安いリズムの音楽が氾濫した。エフェクトが化粧と噛み合っていた。学校では、中途半端が美徳とされた。懸命であることは悪徳と見なされた。だから、ラネトとミルカの関係もしょせんは遊びに過ぎなかった。彼らは本当の愛を知らなかった。それはファッションであり、相手の心に踏み込むことなんて、おぞましいことのように思われたからである。けれども近頃は、ラネトはわだかまりを感じるようになっていた。ミルカとのひと時を楽しまなくなった。

 ラネトの父親は、ある投資企業の代表取締役だった。株価を操って資金を調達すると、船舶会社を傘下に収め、ついにその日、ジャングルの上流に工作船を差し向けたのであった。もちろん鉄製の船である。聖なる山と呼ばれるあたりで、鉱物を採取するのが目的だった。

 人々はこれを咎めなかった。ニュース番組は、こぞってレアメタルの資源獲得に、シティが勝利したことを宣言した。人々は企業の株を買いあさった。議会によって、事業の拡大が後押しされた。神官だけが、必死になって訴えていた。かつての洪水を思い起こせと、路上で叫び声を上げるのだった。

 次第に彼らは、怪しい宗教団体と見なされるようになっていった。ニュース番組が神官の迷妄を非難した。税金の優遇を見直すべきだとの、政治討論さえ行われた。ラネトもメディアの言葉を鵜呑みにした。父を咎めるなんて思いもよらなかった。シティのための英雄とまで、錯覚するほどの不始末だった。

 しかしそれから一月後、季節外れの長雨が降り始めた。三日続いたが、人々はまだ悟らなかった。

「また今日も雨ですって」

そんな囁きが聞こえるばかりだった。人々はやはり、トレンドばかりを追い求めていた。しかし、それから一週間、雨は止まなかったのである。

「今日もまた停滞前線の影響により」

天気予報士がまた前線の状態を指し示した。悲壮感はどこにもなかった。誰もが、やれやれと思うばかりであった。

 雨はひと月、降り止まなかった。ようやく、気味の悪い噂が立ち始めた。陸地のマングローブが水没するのを、番組が特集を組んで放映し始めた。しかし多くのマングローブは、浮島のままに浮かび上がっていった。細い根っこを網の目のように密集させて、抱え込んだ土ごとに島を作っていたからである。密林が維持されていることが、人々の危機感を遠ざけているようにも思われるのだった。

[(覚書)港の水位は大きく上昇し、シティーと港を結ぶ~など加えるか]

 かつてのシティのあたりには、ビルの頭が沢山顔を覗かせていた。しかし一日ごとに、それらは水没して消えていくのだった。鉱物の採取は続けられていた。作業船が一日二往復も、港を行き交うほどだった。もちろんラネトも、彼の父親も、雨が神々の祟りだなんて思いもよらなかったのである。

「このまま雨が降り続いた場合、大潮の晩にシティが水没する恐れがあります」

メディアが水没の言葉を初めて口にしたのは、一ヶ月を過ぎた頃からだった。多くのドキュメンタリーが、旧シティの最後を盛んに取り上げだした。学者どもが、高波と低気圧の相乗効果について討論を開始した。神殿の存在が、ようやくクローズアップされ始めた。ついには議会の決定により、公開神託の日付さえ定められたのであった。

 儀式は厳かに進められた。人々は珍しく行事を見守っていた。ずいぶんな人だかりが、神殿に集まったものである。もちろんテレビや、ネットライブで眺める人の方が多かった。しかし、巫女の神がかりだけは放映されなかった。これは神殿の要望により、スリガラスが設けられたからに他ならない。それにも関わらず、彼女の言葉だけは、はっきりと人々の耳に刻み込まれた。

「民衆の享楽と、船による森林破壊を懲罰すべく、神々はシティを水没させるであろう」

それが神託の内容だった。

[(覚書)もちろんそれを神殿の狂言として~、どこかに加えるか]

 人々はさっそく、投資企業へと詰め寄せた。企業の容赦ない経営実態が、テレビでデフォルメに糾弾された。ラネトは初めて、このシティの住人の生き方を、ものの考え方を、恐ろしいものだと思うようになったのであった。しかしそれは、父の企業がどれほど利益一辺倒の活動を続けたか、倫理一つない経営実態について、知らさせるということも意味していた。ラネトの心のなかに、大きな嵐が吹き荒れ始めた。

 彼はついに、同級生たちからも阻害されるようになった。

「お前の親父のせいだ」

あからさまに非難する奴も現れた。ラネトが、たったひと言反論したために、クラスの奴らが一斉に、

「シティを滅ぼす張本人」

「俺たちの生活を返せ」

「金の亡者のせがれめが」

などと叫びだしたので、教室は騒然となった。ラネトはついに、

「ふざけるな、馬鹿野郎」

と言い捨てて、教室を走り去ってしまったのである。神託に告げられた「享楽の生活」を無視して、誰もが父だけを犯罪者として糾弾する精神が、彼には不気味でたまらなかった。今日も役員の奴らが、自分は代表の言いなりだったなんて、ニュースで嘘っぱちを述べ立てているのである。実態は全然違っていた。このシティにおいて、代表者などはいわば調停役にしか過ぎないことは、民族性から見ても明らかである。しかし誰もそうは言わない。父だけを担ぎ上げる。本当に恐ろしい社会だ。ラネトはもう、翌日から学校になんか行くのを止めてしまった。それからほどなくして、ミルカは他の男に鞍替えしたのである。

 人々は投資企業の糾弾に明け暮れた。自らの享楽は顧みなかった。収穫への祈りも、食卓に捧げる生き物への感謝も、ついに蘇ることはなかった。キラブラウリは、相変わらず密漁され続けた。かつてシティが沈んだ時とよく似ていた。しかし、抗議が殺到した投資企業は、株価が大暴落した。経営破綻を避けるため、鉱物採取はすぐに中止された。それでも雨は止まなかった。株価の下落も止まらなかった。

 取締り会議が、役員を神殿に派遣した。天候回復のプランを伺おうというのである。もちろんニュースで取り上げられた。しかし役員は、神託を誤って信託と記入して、神官たちの怒りを煽った。これが人々の失笑を買う結果となった。それから二時間後、株価は最安値を更新したのであった。

 神託はただちに、シティじゅうに伝えられた。

「役員の息子のひとりを、聖なるマングローブに住まう長老のところへ送れ。彼は二度と帰ってこないかもしれない。しかし彼が使命を果たせば、ほどなく雨は止むだろう」

それがお告げの内容だった。

 役員会議は、代表の息子を要求した。各種報道がすべて、責任ある行動をラネトの父親に求めた。すでに疎開(そかい)を試みた大型船三隻が、湾の外で嵐に呑まれたというニュースが伝わっていたから、人々は狂騒の度合いを強めているらしかった。父親は、せめて一日の猶予を求めた。さすがに、それを却下することは誰にも出来なかった。役員たちにも、良心は残されていたからである。

[(覚書)このあたり、時間軸の設定変更した方が良いか]

 しかし、父親が家に戻ると、ラネトはすでに心を決めていた。石は毎日のように投げ込まれていたし、抗議のハガキも殺到していた。いたずら電話によって、回線はパンクしたままになっていた。すでに母さんには、ノイローゼの症状さえ表れ始めていたのである。ラネトは、人間の醜さをすっかり味わい尽くした。死んだ方がマシだとまで思い詰めていた。だからこそ、長老の元へ向かおうと、密かに覚悟を定めたのであった。もちろん父親は、そこまでは見抜けなかった。ただ、それ以外に道がないことだけは承知していた。だから翌日、ラネトは港に運ばれたのであった。

[(覚書)港の水位は、すでにシティーの水位と~など]

 ラネトは英雄だった。お涙頂戴物のドキュメンタリーを仕立てるために、テレビカメラが何十台も回っていた。ヘリコプターが上空から映しだした。カメラマンがシャッターを争った。

 降り続く雨にも関わらず、数万の群衆が熱狂した歓声を張り上げた。戻ってこれたら結婚してあげる、そんなことを叫ぶ女性もあった。ラネトにはすべてが不気味だった。こんなヒステリックな動物を、今まで知的だと信じてきた自分が情けなかった。こんな享楽社会だから、神々はシティを滅ぼすに違いないのだと、ようやく悟ったような気がした。

「ラネト、俺たちが悪かった」

「お前の肩に掛かっている」

 同級生が向こうから叫んでいた。口先だけに生きること。それが奴らの鉄則だった。けれども、少し前までは自分も変わらなかったのだ。見送りにすら来ないミルカの方が、まだしもマシな気がしてならなかった。

 清めの儀式が行われると、ラネトは筏に乗り込んだ。両親が泣いているのだけは苦しかった。特に母さんには、何一つ咎などないはずである。彼女は食料の入った袋を手渡してくれた。そうしてその場に泣き崩れた。ラネトは黙ってそれを受け取った。二人に別れを告げると、彼は筏を漕ぎ出した。間もなく、彼の姿は人々の前から消え去ったのであった。



 それから数時間すると、ふっと雨が上がった。荒れ狂っていた大河のうねりが、不意に穏やかになった。見送りの群衆は歓喜した。雨が上がったことに感謝して、その日一日は、ラネトの話題で持ちきりだった。けれども、次の日になるともう忘れてしまった。ラネトを追跡してはならないと、神殿から通達が出ていたから、もう映像を楽しめなくなってしまったせいである。人々はまた、買い物に出かけ始めた。ドラマや映画の話に終始した。ミルカはもう新しい男に体を許していた。影響力の無くなったラネトの父親を余所に、役員たちは、ほとぼりが冷めたら、鉱物採取を再開しようと、密かに取り決めを交わすのであった。

 ラネトは精一杯に櫂を漕いだ。シティはすっかり見えなくなった。雨が上がってしばらくすると、雲のあいだから太陽が見えだした。波に揺れる大河が、キラキラと輝くのが神秘的だった。小鳥の群れが一斉に羽ばたいた。喜びにあふれて鳴いていた。筏に止まって休むのもいたから、ラネトは嬉しくなって歌い出した。

赤花はや 川面(かわも)に揺らめく
薫る季節 こころに溶かして
光満ちて 水面(みなも)にきらめく
青き空よ たたえよいのちと

 不意にキラブラウリが水面(みなも)から顔を覗かせた。頭が幾つも浮かび上がった。自分を警戒して、なかなか近寄ってこないようだ。手を振ってみたら、ようやく向こうから水かきを振ってみせた。奴らにはジェスチャーが分かるらしい。また嬉しくなって、櫂を漕ぎ始めた。

 夜になると、マングローブの丈夫そうな幹に括り付けて、筏の上ですやすや眠った。次の日になっても雨は降らなかった。遠くに高層建築の名残が、一つだけ頭を出して横たわっていた。その姿はラネトも、学校で教わったことがあるのだった。かつてのシティの神殿上層部である。神殿とはいっても、鉄筋コンクリートで築かれた、近代建築といった様相であった。わずかに斜めに傾いているが、階段から内部に入れるようになっている。ここが水没することがあれば、新しいシティもまた沈むだろう。そんな予言さえ、神官のあいだでは囁かれているのだった。

 とりわけ神殿の辺りには、マングローブの島々が点在しているらしい。これが浮かんでいるということが、ラネトにはどうしても信じられなかった。どう見ても陸地である。このマングローブの下にも、かつてのシティが広がっているのだろうか。

 筏にはなんの危険すら訪れなかった。あれだけの雨が降ったのに、信じられないくらいの穏やかである。風がさやかに若葉を揺すって、熱帯ながらに初夏らしい息吹をみせている。ただ枝や幹が丸ごと、遠くを流れていくのを眺めると、その時だけは、嵐の恐ろしさが思い起こされるのだった。

 長閑に漕ぎ続けると、巨大なマングローブが見えてきた。周りのマングローブから突き抜けて、際立ってそびえている。それこそ神官たちが神木として讃える、聖なる老木に違いなかった。その枝ぶりに連れ添って、長老の家が設けられている筈である。もちろんこれも浮島だったが、この神木だけは、かつてのシティを見守っていたものである。それが浮島の真ん中に君臨する理由については、あるいは神殿にでも尋ねたら、教えて貰えるのかもしれなかった。

 筏を括り付けると、ラネトは長老のもとへ向かった。それほどの距離はない。木板を踏みつけにして、階段を幾つかのぼった先に、丸太を床並べにした質素な建築が、扉さえなく川を見晴らしているのであった。つまりは床と屋根と、手すりと柱くらいの建造物である。長老はその奥に座っていた。

「なんの用であるか」

長老はゆっくり瞳を開いた。瞑想でもしていたのだろうか。

「神託により、雨を鎮めるために来たのです」

ラネトは答える。長老はしばらくじっと眺めていたが、

「お前のような若者がか」

と、しばし躊躇する様子だった。

「覚悟は出来ています」

ラネトは一連の事件を通じて、人間社会にすっかり絶望していたから、若者のひたむきで、もう死ぬしかないと思い詰めているような様子だった。もちろん長老にだって、そんなことまでは分かるはずがない。ようやく、シワを刻み込むように、話を始めたのである。

「ここへ向かう途中、かつての神殿を見たであろう」

ラネトは黙って頷いた。

「あの神殿は、いまだ命脈を保っておる」

意味ありげな言葉だが、もちろん何のことだか分からない。

「もし、あの神殿に捧げれば、はるか水底(みなそこ)の『大地の祭壇』にまで、お前の願いは伝わるはずだ」

と話を続けた。

「何を捧げればよいのでしょうか」

ラネトは、ちょっと恐ろしくなった。いのちを捧げるような予感がしたからである。

「つまりじゃな」

長老はやはり躊躇している。果たしてそうだった。

「よいか。決めるのは神官でもなければ、わしでもない。お前が自由意志で選んだらよいのだ。今は個人主義の時代だからな」

と前置きをして、

「神殿の最上部には『天空の祭壇』がある。そこにお前の心臓を捧げれば、お前の願いは叶えれられ、シティは救われるだろう。そうでなければ、ほどなくまた雨が降り出すだろう。シティは水の底に沈むに違いない。それだけのことだ」

そう言い捨てにして立ち上がると、答えの見つからないラネトを置き去りにして、奥の部屋へと入っていった。奥の部屋には扉が付けられている。何かを探してから戻ってくる様子だった。

 やがて長老は、目の前に大切そうな木箱を置いた。その蓋が開かれるのを、ラネトは黙って見守っていた。彼の膝のあたりに、二つの品物が並べられたのであった。

「よいか。このナイフを使えば、痛みもなく羊羹でも切るように、心臓をえぐり取ることが出来る。またこの薬を飲めば、心臓を切り離しても、しばらくの間は、体を動かすことが出来る。必要ならば、持っていくがよい」

と差し出した。真っ黒な小瓶と、茶色い鞘(さや)に収められたナイフである。彼はさすがに恐ろしくなった。

「今は受け取れません。明日。必ず出発します」

そう言って、今日だけはここへ滞在することを願い出たのである。

「よかろう」

長老は無理もなかろうと思って、それを許してやった。

 ラネトは眠れなかった。学校のこと、ミルカのこと、人々の態度のこと、シティの享楽のこと。いろんなものが頭の中を駆け巡っていた。なぜ自分が、奴らの生け贄になければならないのか。そう思うと、腹が立って、情けなくて、悲しくって、泣き出しそうになってきた。いっそ逃げ出して、誰にも知られない村で、静かに生活をしようとまで考えた。けれどもまた、両親の顔だって浮かんでくるのだった。自分が逃げたなら、親父は非難されるに違いない。奴らは、自分を送り出した熱狂を、たちまち怒声に切り替えて、親父を糾弾し始めるだろう。けれども、すべてが水没しちまうんだったら、気に病む必要なんかないのだろうか。自分を生け贄に捧げた親父のことなんか、考えてやる必要など無いのだろうか。しかし、母さんになんの罪があるんだ。一方的な被害者じゃないのか。だったらいっそ、二人を連れて逃げ出したらどうだろう。沖へ出た船は、みんな沈没してしまったらしい。だったら、筏で上流に逃れたらどうだろう。マングローブの浮島にでも、長老みたいな家を作って……いろんなことが取り留めもなく、浮かんでは消えていった。手すりの向こうには星が瞬いている。情けない自分を笑っているような気がしてくるのだった。

 そうだ。自分は今まで、いったい何をしてきたというのだ。目的もない人生だったではないか。だらだらと毎日を送るばかりだったではないか。それが、初めていのちの価値を見いだせる瞬間が訪れたのだ。奴らのためにヒーローになるんじゃない。自分自身のために、ヒーローになれるチャンスが訪れたのだ。ここで逃げ出したら、自分は生涯、恥をまとって生きなければならないではないか。そんなのは嫌だ。そうだ、明日は威勢よく、神殿へと向かってみせるんだ……

 煩悶を繰り返すうちに、彼の心は儀式に赴く決心を固めていった。けれども恐ろしかった。まるでうずくまるみたいにして、彼は満天の星に見守られながら、いつしか眠りに落ちていったのである。長老は彼の寝顔を確かめると、静かにランプの火を吹き消した。

 翌朝、彼はナイフと小瓶を受け取った。感謝を捧げて長老のもとを後にしたのであった。増水したとはいえ、波もなく下りゆく筏のそばで、またキラブラウリが頭を覗かせたりしている。櫂も漕がずに流れに任せながら、ラネトはぼんやりと仰向けになって、無限の大空を眺めていた。自分が犠牲にならなくたって、雨なんか降らないような気がする。やはりこのまま逃げ出しちまおうか。また、情けない感情が蘇ってきた。

 心臓に手を当ててみる。恐ろしいことである。これを切り出すなんて、正気の沙汰とは思えない。彼の心はさ迷っていた。強くありたい、ラネトはそう願う。あの太陽のように揺ぎのない、強い男でありたい。今までそんな生き方を、ただの一度もしてこなかった。周りに合わせて群れるばかりを、だらだらと目的もなく生きてきたのだ。せめて一度くらい、自分の命の証を掲げてみたい。それが果たせる唯一のチャンスなんだ。けれどもなぜ、あんな奴らのために……いや、違う、そうじゃない、自分のためなんだ。

 彼はついに神殿へと乗り込んだ。さ迷う心が忌々しくて、筏を思い切り蹴飛ばしてやった。筏は川を下っていく。もうラネトを運ぶものは、何もなくなってしまった。いや、そうとも限らない。向こうのマングローブまで泳ぎきれば……なんて姑息な考えが浮かんでくるので、ラネトは慌てて頭を振った。

 もう決めたのだ。階段は祭壇へと続いているではないか。前を見て歩くのだ。そう思いながらも、ふと振り向いた階下には、水没した水底(みなそこ)に向かって、どこまでも石段が続いていくように思われた。己のたましいも、やがてはそこへ辿り着くのだろうか。えい、考えるな。足を踏み出すんだ。

 ゆっくりと『天空の祭壇』へ向かう。廃墟の真ん中に、床から張り出した石壇(いしだん)があって、人を象(かたど)ったような台が置かれている。そこに、まるで焼きたての美しい壷が、朱色のうわ薬を塗ったばかりと控えている。ラネトはそっと蓋を開けてみた。不思議な薫りが立ち込めてくる。とても言葉にしようもない、喜びと悲しみとを混ぜ合わせたような薫りであった。

 小瓶を取り出すと、自分が犠牲にならなければならないという不快感が、もう一度返してきた。逃げたいくらいに見渡したが、舟の代わりになるようなものは、もうどこにもなかったのである。だらしがない。意気地がなさ過ぎだ。ラネトは自分を叱咤した。今度生まれ変わったら、怠惰の果てに生け贄になるような生涯ではなく、子供のうちから懸命に、あらゆることに打ち込むような生き方がしてみたい。しかし、あるいは、今からならまだ……

 気持ちが右に左に揺らぐので、ラネトは苦しかった。日は大分傾いてくる。そうだ、たとえ生き残ったって、雨が降り出したら、どのみち助からないのだ。いったい、どこに逃れるっていうんだ。シティに帰って水没するばかりじゃないか。思えば詰まらない人生だった。しかし、自分が悪いんだ。どうせ、何一つしてこなかったんじゃないか。ああ、こんな踏ん切りの悪い英雄が、この世にあるだろうか。情けない。せめてこの薬を飲み干して……

 彼はふたを取って、考えの起こる前に瓶から飲み干した。全身の感覚が消えるような気がして、心も軽くなった。あるいは、麻薬の成分でも配合されているのだろうか。今しかないと思った。祭壇の前に立つと、ナイフを握りしめて、胸のあたりに突き刺してやったのである。

 力は必要(いら)なかった。むろん痛みもなかった。体は羊羹みたいに、するりとえぐられたのであった。まるで冗談みたいに、彼は自分の心臓を取り出してしまっていた。血潮ひとつもしたたらない。心臓は手の平で、どきどき震えているばかりである。なにかに取り憑かれたような気持ちがした。

 壷に納めてから蓋を閉めたら、ラネトの胸に、ようやく恐ろしさが沸き起こってきた。自分の体の真ん中が、ぽっかりと空いているのである。こんなことって、あっていいのだろうか。慌てて心臓を取りだそうとしたが、壷はもう蓋が外れなくなっていた。

 薬が切れ始めた。胸が痛み出した。彼は震えながら祭壇を逃れていった。階段をどこまでも、階段をどこまでも、一歩ずつ降っていった。水の中までも降っていった。心臓がないためだろうか、不思議な薬のせいだろうか、彼は水に入ってからも呼吸には困らなかった。沢山の魚たちが心配して彼の周りに集まってきた。まるで先導でもしてくれるように思われた。彼はどこまでも降っていった。

 それからようやく思いついた。あんな享楽のシティは、水没したほうが森のためだったのではなかったか。心臓のあるうちは、家族のこと、捨てられてもつい浮かんでくるミルカのことなどが気に掛かって、その心をシティにつなぎ止めていたのだが、彼が人を離れるにつれて、彼には総体としての人間のわがままが、憎たらしいもののように思われ始めたのである。ああ、こんなに豊かな世界が、シティの周りには広がっていたのだ。自分はもっとシティから離れて、自然のなかで遊べばよかった。

 こんな近くにあったのに、彼は樹木と戯れた経験も、川で泳いだ経験も、素潜りした経験も、丸太を組んだ経験もなかったのである。あるのは眺め続けた画面の姿と、指先だけで遊んだ、感覚の伴わない奇妙な娯楽と、そんなものばかりであった。思い出しても愉快にはなれなかった。なんの情感も伴わない、記憶という名のスナップ写真に過ぎなかったからである。なんだか自分が果てなく乏しい、石ころみたいに思われるばかりだった。

 彼のそばには、ますます魚が群がった。とうとうキラブラウリが一匹、彼の前に現れた。キラブラウリは水かきを使いながら、彼の体をいたわるように階下へといざなった。ラネトはキラブラウリに向かって、

「俺は今からでも、本当の遊びを知ることが出来るだろうか」

と尋ねてみた。キラブラウリは不意に、けれどもはっきりと、

「お前がこころから望みさえすれば、それは叶う」

と答えた。自分は彼らの言葉が分かるようになったのだろうか。けれども……

「もう心臓もなくなってしまった」

ラネトは残念がった。

 するとキラブラウリは、手に握りしめた小さな水晶を、彼に手渡した。彼はその光るような玉を眺めていた。キラブラウリがジェスチャーをするから、彼は黙ってそれに従った。玉を心臓に当てはめると、急に輝きを放つので、彼は眩しくて思わず目を背けた。魚たちが驚いて、ぐるぐると周囲を回っている。それとも奴らは、自分を讃えて踊っているのだろうか……

 気がつくと、彼の体にはうろこが生え始めた。髪は抜け落ちて、ツルツルした額が広がっていった。手には水掻きが生まれた。足はくっついてシッポのようになった。彼はキラブラウリに生まれ変わったことが嬉しくて、目の前の仲間と、さらに祭壇の下へと降りていったのである。

 ついに水底(みなそこ)に辿り着いたとき、かつてのシティは藻に包まれて、キラブラウリたちの住みかになっていた。みんな楽しそうに泳ぎ回っている。シティは再利用されて、様々な水草と戯れていた。使える建物が、そのまま彼らの寝床になっているらしい。危険なガラス片などは、すべて取り除かれていた。彼らはそこに新しい町を築いて、栄えているらしかった。ラネトはこれに『オールドシティ』という名称を与えることにした。

 彼は、本当の遊びをしようと心に誓った。それからシティに神々の裁きがあることを願った。翌日、またシティに雨が降り出して、シティは住人もろとも、津波にのまれて消えていった。

覚書+拡張

・港を高低差対応にしないと、水位上昇と不具合を生じる。
→百メートルの高低差に対応としておけば十分。

・ラネトにはラムカという兄弟がいたらどうだろう。あるいはネリクという名の妹か、姉。

・父の名は、付けるとすれば、もっと長い名前が相応しい。

2010/3/17

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