怠惰の三楽章

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たったひとつの落書その三

怠惰の三楽章

第一楽章

 皆さまは「憂うのたましい」という言葉をご存じだろうか。決して「大和魂」へのアンチテーゼとして生まれた訳でもないこの言葉が、いつしか偉大な詩人の心をさえ染め抜いたとき、彼はさわやかな春風の喜びをぽろりと取り落として、夜通しわんわん泣きはらしても、まるで迷子の野良の子猫みたいに、ついにほほ笑みを見つけ出すことがなかったという、かの伝説的な物語。あのはかな悲しい逸話の意味するところをご存じだろうか。

 メドゥーサというのは、働き盛りをペスセウスに首を切られたという話もあるが、それは嘘っぱちである。彼女は長寿をまっとうした。酒もずいぶん飲んだ。蛇に餌を与えもした。ただあまりにもご老体になりすぎたために、皺だらけの自分の姿をペルセウスに眺めさせられた時に、蛇の髪毛を見るまでもなく、ぎょっとして岩になってしまっただけのことである。

 序奏はいつも取り留めもなく、ざっくばらんに素材を提示する。さりとて第一楽章に存在理由があると思ったら、それは大間違いの勘九郎である。

 そうだ、そんなときは、ニジマスのお父さんにだって、ご挨拶をしなくっちゃならないんだ。だって、あんな立派な泳ぎが人間に出来るだろうか。どうかうちの息子もひとつ、ご教授してやっておくんなさいまし。そんな親心というものを、我々は誰もが持っているには違いないのだ。



 さりとて、牧人いわく、

「羊の一匹も迷子になって、オオカミにだって食われてご覧なさい。その日一日は、broken my heartですから」

 ごもっともな話しではある、しかし牧人よ、あなたは知っているのか。キョトンとしたオオカミでさえも、羊の一匹くらい食わなければ、生きてはいかれないということを。

「馬鹿にしてはいけません。そんな命題をものともせずに、一方的に羊の肩を持つのです。なぜなら私は、忠実なる羊飼いなのですから」

 つまり羊飼いは、闇雲に羊の心配をしておればよいのであって、オオカミのことや国家のことはどうだっていいのだ。羊至上主義者。全員が羊の席に立つ。そんな羊飼いの国はいつしか、自国の言語すら廃れて、母国語は世界から消失してしまった。沢山あった筈のおとぎ話だって消えてしまった。なにしろ羊のことだけ案じておればよいのであるから、子供たちにも羊のこと以外話しては聞かせなくなった。羊のためには、立派な景観も、豊かな文芸も不要だったから、彼らの生活はざっくばらんな日常生活に染められていた。つまり文化的継承は、廃れて断絶してしまったのである。

「国際社会ですからなあ。羊飼いは英語だけしゃべれれば十分ですじゃろ」

 それが言語を捨てた理由であった。こうして羊飼いの王国は、かつての羊飼いの王国ではなくなった。王はただ、名目的に存在するのみであった。まるで象徴として飾り立てるみたいに、交渉の時には引き合いに出された。それは外国からは立派なシンボルと見なされた。

 それでいて羊飼いの幸福は健在なのであった。彼らは決して、外国の文化にのみ染まったわけではなかったからである。羊の世話とそれにまつわる日常生活の継続。それこそが彼らにとっての文化的継承の根幹に他ならなかった。それ以外の継承は、言ってみれば副次的な事柄に過ぎなかったのであった。



 ある時、星が流れた。

 かつて羊飼いの王国では、それは吉兆だった。誰もが吉兆だと信じ込んでしまうことによって、吉兆のアクションがいつの間にやら派生してしまい、本当に吉兆になってしまったからである。今はそれほどでもない。しかし星の営みは、羊飼いにとっても無関心ではいられなかったから、彼らはまだその迷信を幾分かは信じているのだった。

 しかし牛飼いの王国では、この国は羊飼いの王国の隣にあったのだが、それは不吉の前触れだった。誰もが不吉と思って恐れるあまりに、不吉なことにしか注意が行き届かなくなってしまい、ついにはあらゆる不吉が成就したように思えたからである。「憂うのたましい」それはあるいは、牛飼いの王国から生まれた言葉であったろうか。

 牛飼いの王国では、まだボーテス語が使用されていた。彼らは頑なに伝統を守り通すがあまり、ネット社会から断絶していた。諸外国との付き合いを、ある都市に限って行っていた。そうして牛を輸出していた。それはいい肉だったから、諸外国もネット社会からの断絶を咎めなかった。ただ国を開いてくれないものだから、貿易以外は行われなかった。

 牛飼いの王国には観光するべきものは沢山あった。すべてが伝統的遺産だった。それでいて牛飼いの王国では、それを守ることにのみ終始しているらしかった。継承の豊かさ。なんの新しい物語も生まれなかった。古い物語の伝承こそが、彼らの生き甲斐だった。諸外国が観光客の受け入れを求めたが、彼らは生活の保護を理由に断った。それでいて彼らは牛の世話をしながら、それなりに幸せに暮らしていた。お祭りは十年も、二十年も、同じように行われるから、家族が移り変わっても、継承され続けるという安堵があった。その安堵が、自分たちの死後も社会は同様に歩み続けてくれるという慰めとなって、老いゆくものにとっては、わずかの救いのように思われた。そこには家族があって、笑いがあって、涙があって、伝統があって、そうして新作の小説はなかった。

 二つの王国に隣接するべき説明的国家が、おなじ流れ星を見ていた。けれども説明的国家では、流れ星は情緒的なものではなかった。彼らは交互に自分から説明することをのみ生き甲斐にしていた。それでいて、聞き手だけは必要だから、交互に妥協を成立させて、相手が説明するときには、それを聞く習わしになっていた。

 みんな一刻も早く、自分が説明する番になりたくてうずうずしていた。その日もさっそく、流星について語るために、人々は集まり始めたのである。そうして交互に、自分の情報をひけらかして、あれは塵の突入だとか、これくらいの粒で、燃え尽きてしまうだとか、やがて巨大なのが地球の存亡に関わってくるとか、罵り合うくらいの剣幕で、説明し合って眠りに就いた。

 翌朝の春風が心地よかった。けれども、説明的言語に、心地よいなるものは存在しなかった。彼らはそれを、移動性高気圧のせいだといって済ませてしまった。外国からサーカス団がやってきても、上肢の運動が87%ほど活用されているといって説明するばかりだった。そこには感動も情緒も見られなかった。説明さえしていれば満足だった。



 さて、そろそろ皆さまは期待し始めるわけだ。

 この三カ国の登場を取りまとめて、説教なり、暗喩なり、広げた風呂敷の後始末を、きっと作者がしてくれるのだろうと。小説とはそのような期待に応えつつも、ちょっとだけはぐらかして物語を進行する、善意の策略に満ちたものではなかったか。それでこそ人々の娯楽としての、本分も生かされるのではなかろうかと。

 甘ったれてはいけない。今ここに、私は活を入れるべく降臨したのだ。私はかの部隊のいわゆる先陣の一人にしか過ぎない。そうして先陣の役割というものは、いつも悲しいものだ。はかないシャボン玉である。それは突撃を試みつつも、みんなに寄ってたかってぼこぼこにされて、背中の哀愁と立ち去る宿命を、はなっから背負った空威張りに過ぎないからである。

 だからこそ破天荒の中には愛が籠もり、大いなる混沌の狭間には、論理的誤謬が息づいている。いつしかカオスは調和と誤認され、ロールシャッハの思惑には、圧倒的な真実味が籠もることを、諸君は知るべきではないだろうか。



 そう、たしかに私はこれを、第一主題、第二主題と形成し、やがては展開部を設けて、コーダに取りまとめようとした。そのためのいわば、序奏から初めてみたに過ぎないのだった。そうであるならばあの瞬間、羊飼いどもは疑いなく、第一主題の開始を告げたはずであったのだ。

 だが、もう飽きた。そんなことをして何になろう。これは文章だ。音楽ではない。ましてや詩文でもない。そんな構成は、文筆を虚しゅうするばかりではないだろうか。いや、もしかしたら、比類ない構成が生み出されるかも知れない。いっちょ奮発して邁進してみようか。けれども……面倒くさい。



 メドゥーサはゴルゴンの仲間である。悪魔でさえも石になっちまうくらいだから、魔除けに使ったら台風だって逃げるだろうと思って、ヴェニスの商人たちはこれをお守りにしていた。航海中は決して見ない約束にして、袋にしまっておいたのである。

 なんて書くともっともらしいが、これはまるで出鱈目である。いや、まったくの出鱈目なんてそう書けるものではない。つまりは所々が出鱈目である。

 ああ、出鱈目を出鱈目として、出鱈目尽くすことこそ難しけれ。

 真実味がちょいっとばかり紛れ込む。その真実の攻め際を持ってして、虚構とばかりに塗り固めたとき、かの小説なるものが誕生したのではなかったか。つまりは虚構と真実のミキシングを讃える呪術的国家において、時に作家と呼ばれる愚弄人が、文豪と錯覚される土壌が形成されてしまう。叱咤すべきものが、あがめ奉られて、調子に乗ってべらべらしゃべり出す。

 彼らはついに、社会にとって有意義なるわたくしを持ってして、「憂うのたましい」を鼓舞し始める。それは確かに牛飼いの国から学んだ言葉であるには違いない。しかし、今となっては彼らのお気に入りの言葉である。そうしてそれが「大和魂」のアンチテーゼであると、しっちゃかめっちゃかな説明をさえ加えてみせる。気をつけろ。導火線だ。もう火が走っている。彼らの「憂うのたましい」はにせ物だ。

 かくて愚弄の集団はいつしか文芸の名をもって、名だたる賞をさえ掲げるほどの栄達を成し遂げるだろう。だが注意しろ。麻薬の題材を持ったいわゆる「憂う」の作品は、本当は社会のためを案じているんじゃない。それならドキュメンタリーにするに決まっている。小説でこそ訴えうるなんて、その言葉がもうまるで出鱈目だ。何の根拠もない。妄想的科学読本。情緒を玩(もてあそ)びたくって、うずうずしていやがる。ただただお前たちの好奇心を煽って、僅かばかりの名声と金銭を得んが為に、よだれを垂れ流す老犬の姿をして、奴らは夕日に向かって吠えまくる。



 そうしてここにこそ、我々はメドゥーサの悲しみをさえ見出すのである。彼女は憂う。彼女もまた「憂うのたましい」を持っているのだろうか。それは分からない。けれども彼女は、己の才覚を見せたくってたまらない。それでいて見せた途端に相手は石である。感想を聞いても石は何も答えてくれない。何しろ意見が聞けないからメドゥーサは誤解する。これは頭の蛇のためじゃあなかろう。あまり自分が美しいので、みんなその場で石になってしまうに違いない。これは幾分希望的観測であって、どこかに偽りが込められている。さらになお、希望の固着作業が必要だ。

 それで、ゴルゴンがゴルゴンながらに勘違いを提唱する。三匹集まって、

「まったくこれじゃあ恋人も出来ないわ」

「美しさって罪なのね」

「あら、また頭の蛇がしゅるしゅるしゅ」

「まあ、す・て・き」

「これって、天然なんですのよ」

 たわいもない会話を繰り広げる。世論の概念が存在しないから、三匹で勝手に美的基準を築きあげてしまった。しかしこころの底に悟れないくらいの、コンプレックスが密かに息づいている。奴らはそれに怯えるみたいに、いっそう自分たちを飾り立てる。やがては眉を剃って、へのへのもへじみたいに、出鱈目の落書きを始めてしまうに違いないのだ。

 ああ、神の名にかけて、申しましょう。人の目には、にせ物と本物の区別はたやすくつくのです。

 今度は蛇にペンキを塗り始めた。ところが表情とかみ合っていないのである。どこの神々が見ても、一目見ただけで偽物なのに、奴らは神々に嫉妬して、劣等感のあまり、神々を真似て色を塗りたくってみせる。そうして劣等感にはまるで気づいていない様子であった。

 ああ、神の名にかけて、申しましょう。人の目には、にせ物と本物の区別はやたすくつくのです。



 念のためにいっておくが、ゴルゴンはゴルゴン同士で蛇を見ても石にはならない。石になるのは、人間とゴルゴンで美的基準が著しく違う場合に限る。だからこそ、人間がぞっとして岩になるのであって、何も鏡を見たからといってメドゥーサが岩になる事なんてあり得ない。

 だとすると、ペルセウスが鏡を見せたのは、メドゥーサが自分の姿に堪えられないくらいのお婆さんになった後に違いない。いくら美的センスが違ったって、昔の姿から想像もつかないくらいに落ちぶれたら、自分自身での価値観のギャップが生まれて、メドゥーサだって岩になるしかなかったのだ。

 そうであるならば、メドゥーサを侮醜(ぶしゅう)に浮かび上がらせて、社会から乖離(かいり)させないためには、全員が一丸となって横並びにメドゥーサの価値観に近づかなければならなかった。それがメドゥーサを盟主とするかの国の民衆が、岩にならない理由でもあったのだ。

 実にかの国の住民は、羊飼いの王国からも、牛飼いの王国からも、説明的国民からも、等しく侮蔑され、恐れられているのであった。それはひと目見て岩になるまでの悪意はないものの、彼らは見るにたえられない、みすぼらしい服を着て、ゴミのような生活を行い、お気に入りの商品看板に守られて、無頓着に息づいていたのである。メドゥーサとその軍隊とに怯えながら。



 そうして私は恐ろしいことを思いつく。

 思いつくやいなや、話しは脱線を極める。私はそれを恐れない。これは怠惰の三楽章である。第一楽章は疾風怒濤を突き進む。形式美なんて知ったことか。それが執筆者の悲しい性であった。

 つまり私は考える。人間の肉体と精神は分離し得ないものだとすれば。二つは常に絡み合うものだとすれば。ある若き芸術家の、芸術家としての生命が、その瑞々しい発想が、いつしかその外見のもたらす作用によって変質し、最後には干からびてしまうことだってあるには違いないのだ。

 それを枯れの芸術だなんて呼ぶのは、干からび標本どもの、いわばメドゥーサ式の慰めに過ぎないのではないか。あらゆる芸術はまた、瑞々しさのシーズンにこそ、もっとも輝き勝るものではないだろうか。かさかさの指で描いた落書きなんて、どこかに嫌らしいものが籠もっていやしないだろうか。メドゥーサの醜態でさえも、若いうちこそおぞましくも崇高でいられたように!

 そうだとすれば、人口分布からかの国の文化衰退を描きだすことすら、我々にはたやすいには違いない。ただそれを指摘されるのが恐ろしいばかりに、衰退の文明は言論弾圧を自助努力のうちに繰り広げはしないだろうか。だとしたら、それは恐ろしい事である。



 気を取り直して、私は水べに思いを馳せる。ニジマスのお父さんにご挨拶をしたからといって、息子は泳ぎの達人にはなれないかもしれない。鯉はのらりくらりとして、メダカはせかせかするに違いない。お池にはまったドングリは、フナなら口に含むかも知れないが、幼子が必死にあっぷあっぷする時の、しがない恐怖は一生こころを離れない。

 かくて息子は恐怖を感じ、ニジマスにはそれが分からない。まるでこれは三つの国の価値観の違いには思えないだろうか。そうしてメドゥーサの民たち……ああ、これはトリックだ。私は何ものをも、この脈絡の中に込めようとなどは思ってなどいないのに。



 それを、かかる国の国語の教師どもは、昼と夜の境を心理と結びつけてだの、たったひと言くらいを引っ張り出してきて、象徴的に主人公の心の変遷が見られるなどと、作家に断りもなく主張し始めるだろう。それでいて原因を探ってみれば、なにも彼ら自身がそう感じた訳ではなく、有閑の文学評論家なるいかがわしい娯楽伝道者が、丸とも三角とも自由に定義されるものを、あえて四角であると言い放って、その大御所ぶりを世間に振りまいて、メディアでさえもそれを鵜呑みにして、

「四角でございます」

なんて垂れ流してみせるし、つい世間を驚愕させたときの名残が、まるでビックバンの残骸みたいに、今頃になって発見されたに過ぎないということを、ある好奇心旺盛な学生は、見出すには違いないのだ。

 だからまず、学生どもよ、己の意見をこそ信じよ。しかし、信じた己の意見は、十中八九間違っておるぞ。だがそれはそれで構わない。間違っていると悟ったら、初めて次の意見を信ぜよ。もっとも信じるためには、沢山の教養が必要だ。それがないと所詮は迷妄だ。だが、今はそれでよし。闇雲に己の意見を信じよ。ぺこぺこ解説書に跪くな。優等生ぶるな。屁理屈を述べる教師どもの発言の87%は、お前たちを隷属化させるための呪文には過ぎないぞ。

 それこそがかのニジマスの、泳ぎに出かけた生徒に語りかけた、たったひとつの誠だったのである。彼はそれで泳げるようになった。そうしていつしか成長して、「憂うのたましい」でもってアテネから依頼された仕事をやっつけた。そうしてペルセウスはメドゥーサを岩に変えて、ついでにクジラを星座にしちまって、アンドロメダと結ばれたのだ。どうだ、恐れ入ったか、これがつじつま合わせって奴なんだ。

 しかしペルセウスの「憂うのたましい」はにせ物だ。結婚して鼻の下を伸ばしたら、たちまち解消されちゃった。だからこそ、彼は英雄でいられたのだ。

第二楽章

 のっぴきならねえ事情が迫りくる猛威を、突き抜けた緩徐楽章というものは嬉しいものである。おおよそ西洋音楽の楽曲の基本は、この嵐のあとの静けさを持って、アダージョと定義しているくらいのものだ。

 「憂うのたましい」は健在だった。それは誠にアダージョに相応しい主題ではないか。私は今日も散歩に出かけ、歩むやいなやびっくりいたす。こころのなかをパカッと開いてみたら、ただ歩いたという記憶があるだけで、何らの望みも、何らの希望も、どこゆく当ても、会いたい者さえ誰もいないのである。ただ殺風景な部屋に籠もることを恐れるがあまり、もっと大きな殺風景の中へ、身を委ねたばかりだった。つまり「憂うのたましい」を持ったものは、家にいても何もない。外へ出ても何もない。ただ春待頃の日だまりのなかを、ああ、なんてポカポカやねん、なんて呟きながら歩いていくばかりなのである。

 もちろん「憂うのたましい」にだって、若い頃はあった。その頃はまさに世を憂う純真さに溢れていた。けれどもその頃はまだ、半人前の「憂うのたましい」だった。そもそも憂うという行為は、憂うことによって、何かが改善されうる期待を残しているからこそ行いうるものだ。だからこそ憂う。しかし憂う度に、なにも変わらない。そんなやり切れない無間地獄をさ迷ううちに、ようやく次の状態が見出されてくる。

 そろそろ彼は、憂うの作業に価値のないことを悟り始める。するとポカンとしたこころが呆けてくる。これが大切だ。ここを見極めなくっちゃ、とてもじゃないが、一人前の「憂う」職人になんかなれっこない。

 このポカンとした表情のところへもって、いろんな絶望を放り込んで、「さしすせそ」と一緒にごった煮にしてやる。それでようやく、ポカンが正常に戻らなくなってくる。こうなったらしめたものだ。彼はもはや、「憂うのたましい」を持って、報われないと知りながら、永遠の批判を繰り広げるしかなくなるからだ。そうして世間からいっそう嫌われる。最後には絶望の果てに、廃人になる……かどうか、それは知らない。あるいはぷかぷか海に消えるだけかもしれない。なかなか白髪になるまで、この「憂うのたましい」という奴は、持ちこたえないらしいのである。



 もちろんそんな魂にだって、ほほ笑みの瞬間は残されていよう。

 つかの間定義されべき「仮のあなた」よ、あなたはだから、そんなにがっかり落ち込む必要なんかないのだ。大概の「憂うのたましい」は擬似的なものである。絶望が春風に吹かれて雪解(ゆきげ)を始めると、ふっともとの表情に戻ってくる。満たされる思い人を発見すると、ふっと消えてしまう。何を発見しても満たされなくなったとき、それこそ本当の「憂うのたましい」である。だからといって、仮のあなたよ、あなたは自分を正統なる「憂うのたましい」の後継者などと、簡単に思い詰めないようにすることだ。私の見るところ、「憂うのたましい」の後継者など、実際はほとんどいないものである。だから、絶望の断崖に辿り着いて自害を果たす人は殊の外少ない。多くの場合、それはその道程さなかの迷宮が恐ろしくなって、怺(こら)えきれずに滅び行くばかりである。そうであるならば、ほとんどの思い詰めた魂には、まだ救済の余地が残されている。その迷宮の壁は、時々、まるで砂の城ででもあったかのように、翌朝になると、ふいと消失してみせることが確かにあるのだから……



 そもそもここはアダージョである。のほほんとお茶を飲んでいれば、あるいは甘ったるいお茶菓子と戯れていれば、誰もが憩いが広場のカラヤンにもなれるという、ゆったりしたアダージョである。街なかにも日だまりの公園を求め、生活空間にこそ緑化計画を求め、そうして環境問題がナチュラルライフを提唱するのであれば、人間ひとりひとりの性格と外見にも、飾らないくらいの控えめのオシャレさを、望みたくなるくらいの第二楽章である。

 こうして「憩いのたましい」が導入されたとき、楽曲形式は破綻するかもしれない。けれどもこれは音楽ではない。擬似的な型式を模倣したからといって、はなっから全然別物には違いないのだ。そうであるならば型式のことなどは憂うなかれ。ここで「憩いのたましい」を導入したからといって、何の問題があるだろうか。



 誰もが思う。就寝ベットの暖かさを基準にして、ひとつ占いが出来ないものかと。しかしそれは誤りだ。それは占いではなく、心理学のテストに他ならない。そうして実に簡単なテストである。つまりはそれを快楽として描ける人物ほど、「憩いのたましい」に満ちている。あなたはアダージョにこそ相応しい。

 けれどもそれをすら侘びしいものとして、思い浮かべる仮のあなたには注意が必要である。あるいはそれは「憂うのたましい」の末期症状であるかもしれず、眠りや食事の風景にさえ侘びしさが付きまとうようになったらもう危ない。すぐに足もとをご覧なさい、すでに底なし沼の一歩手前か、もう足をすくわれた後か、覚悟を持って対処をする必要がある。

 にも関わらず、大抵の人には逃げ道が用意されている。だから自分を「憂うの住人である」などと、なるたけ思い詰めないことだ。今は説明的国家と、メドゥーサの民と、そうしたものが、幅を利かせてはいやしないだろうか。(すなわちこれが、最終楽章を導くための、第一楽章の回想というやつである。)そうして、そのような民の幅を利かせるときには、仮のあなたよ、仮のあなたがごく真っ当な精神を持っていればいるほど、あなたは不気味なある種の集団から、爪弾きにされて、毎日を「憂う」しか道が無くなってしまうには違いない。もし偽物の金髪を振りかざした妖怪の大国があったとしたら、彼らの美的基準こそが、スタンダードになってしまうのと同じように。

 そう、これこそかの偉大な心理学者の、たったひとつの遺言ではなかったか。

 私はアダージョの穏やかに負けそうになったこともある。だがその惰弱の精神に打ち勝つべき、ここに虚構を打ち立ててみせたのだ。その虚構を邁進することだけが、私を小説家につなぎ止める。つまり正直者は小説家にはなれない。そうして小心者は常に一種の宗教家なのである。また嵐の予感が高まってくる。

第三楽章

 ところがこの楽曲はシンフォニーではなかったから、三楽章こそが最終楽章である。それは当然だ。開始の主題提示がこぢんまりとしすぎて、とてもじゃないが、拡大形式には対応がつかない。そろそろごめんなさいをして、すたこら退却するくらいでなければ、読み手への不快感をすら回避し得ないような不始末だ。それは形式美をこよなく愛する、「憂うのたましい」を振りかざす執筆者にとっては、決して望むところにはないのであった。

「ようするに、何を書いたらいいか、分からなくなってきたのだろう」

 私は卑怯にも会話文へと逃避する。

「そうなのです。メドゥーサの話しさえ繋ぎきれないし、こんな時は、会話に逃れてみるに限りますよ」

「お前は賢いよ。あくどいやり方だ。読者を引きつけるための策略だね。こうすると、誰かが会話をしているような錯覚に陥るからね」

「しかも、こう書き加えてみせるのです。この会話のなかにある、……に入れる言葉によって、あたかもロールシャッハテストのような、あなたの心理状態テストを行うことが出来るのですよと」

「するとなんだね。あの血液判断信奉者たちが、なにそれすごいと集まって来るわけだね」

「あとはそれを挟み込む場所が問題になるわけですが」

「だいたい、それは黙秘や沈黙を表現するものだからね」

「そうです。ここで挟んだら、恐らくは九割の確率で、そう受け取られてしまいますから、テストになんかなりっこないですよ」

「じゃあ、ここも駄目かな」

「ええ、微妙ですね。もっとポカンと口が開いたような瞬間に……」

「おいおい、そこに入れたんじゃないだろうな」

「いいえ、これはただ言葉を濁しただけですよ。脅かさないでください」

「どうせなら、このまま最後まで歌い切ってしまおうか」

「歌というよりは、がなり声に近いのではないでしょうか」

「ところで、最初の三つの国の話しがしたいんだが」

「そんなものを、ここに持ち込むつもりなのですか。白々しい」

「だって、型式美を求めるんじゃないのかよ」

「そんな安楽な型式では、文章の構築にはならないのです」

「……」(穏やかに)

「……」(歩くペースで)

「……」(ほのぼのと)

「……」(まどろっこしく)

「……」(やわらかな肉のジューシーさでもって)

「……」(87%の確率で)

「どうですか、考えたでしょう」

「つまりなんだ、どこに入れても、黙秘や空白にしかならないから、まとめて入れて、脚注を付けたのか、まるで小学生の発想だね」

「……」

「おいおい、まだ続けるつもりかよ」

「……『……』……」

「こら、なんだそれは、あまり遊びすぎじゃないのか」

「安易なお遊びにそそのかされて、そろそろ会話文の放棄をします」

「さくっと逃れるね。まあ、それもよかろう」



 ああ、こうして第三楽章の破綻は確定され、メドゥーサの悲しみはもはや過去のものとなった。その頃、羊飼いの王国では、輸出相手国の魔法ものの映画が拍手喝采を集めていた。けれども牛飼いの王国には、なんの変化も見られなかった。

 そうして今我々は、説明的国家からその事を眺めている。「憂うのたましい」を失った民衆が、プラスチックと鉄と大理石と木造の違いすら失って、物質的には同等だと主張し始めた。説明も末期に入ってきたようだ。ボロ服も、奇抜なファッションも、国民性や豊かさとは関わりのない、価値基準なんか存在しない、服という概念に過ぎないと主張しているらしかった。

 公園の豊かな植物でさえも、ペンキでにせ物に塗り固めて、その香りが気にくわないので、化学薬品を振りかけ始めたようである。彼らにはにせ物も本物もない。なぜなら、それは植物には違いなかったからである。そうして香りは香りには違いなかったからである。



なんてねじ曲がった国なんだ
それは羊飼いの意見だった
にせ物を愛するなんて愚かすぎる
それは牛飼いの意見だった



「私の見るところ、あの羊飼いの意見はですなあ」

「牛飼いとはいっても、しょせん教養のない連中ですから」

 説明的国家の学者たちは、もちろん説明だけに終始した。決して「憂うのたましい」は見せなかった。朝焼けの色を波長で説明した。決して美しいとは加えなかった。海のことを塩分濃度で説明した。決して雄大だとは加えなかった。そうして人々の生活のことを、経済で説明した。幸福という概念は思いつかなかった。

 彼らはもはや経済そのものであるらしかった。

 誰もが経済を指標とした。経済だけが会話のピークを形成した。それさえ話していれば、誰もが安心するらしかった。あらゆる価値は金銭に換算された。芸術や文化や材質の向上は、美的基準の問題である。それは我々には不要である。どんな陳腐下等な物語も、高尚な物語も、物語という概念においては一緒である。優劣の余地などありはしない。それが彼らの主張となった。美しいものと醜いものとは区別されなかった。褒めるという概念と、貶すという概念すら区別されなくなった。

 つまりそれらにまつわる投資は、いわば過剰投資とみなされた。それを切り捨てて、コスト削減をさえ目指せれば、ますます経済的にうまく立ち行くのだから、なおさら結構だった。そうして最低限度の安い看板が街じゅうを埋め尽くした。それでいて必要のない明かりばかりは、夜通し灯し続けているのだった。



「ああ、あんなところによく生活が出来るものだなあ」

羊飼いが、遠くの街あかりの方を眺めながらささやいた。宵闇が深くなる頃、その方面だけは空の色が、白々と明るんでいるのだった。

「空を穢しているんじゃないんだ。あれは、自分たちの心を穢しているんだ」

誰かがそれに答えた。



「あんな物欲にまみれて。恐ろしいことだ」

牛飼いの国でも、親子が白んだ空を眺めていた。

「坊や、あれを見てごらん、空が穢れているだろう。あの国ではね、まだ食べられる作物やら、また食べられる料理やらを、一国の食料をまかなうくらい沢山、毎日ゴミ箱に捨てているのだよ。それでいて、環境がどうのこうのなんて、よその国に対して、ほざいているのだよ」

「そうなんだ。僕、そんな卑怯な人間にだけはならないように気をつけよう」

「そうだなあ。お前には明日から、牛飼いのコツを伝授しなくてはなあ」

「だけど、きっとあの国だったら、少年労働の咎で、父さん掴まっちゃうに決まっているよ」

「本当に恐ろしいことだなあ。それにしてもお前、まだ泳げるようにならないのか」

「だって父さん。ニジマスの先生なんかじゃ、どうしたってうまくいかないよ。だってお魚なんだよ。尻尾があるんだから、人間の泳ぎとは違うんだよ」

「そうかもしれないなあ。だがペルセウスはそれで成長して、メドゥーサを退治してみせた。だから私も、お前をニジマスのもとへ習いに行かせてみたのだ。もっともお前は牛飼いになるんだから、泳げなくたって構やあしない」

「やだよう。学校で馬鹿にされるから、絶対に泳げるようになるんだい」

 牛飼いの親子はそういって笑い合った。

 焚き火が暖かくそれを見守っている。今は秋である。炎の当たらない後ろ側が、ちょっと肌寒いくらいである。二人が空を見上げると、ペルセウス座やらアンドロメダ座が、見下ろすようにして浮かんでいるのだった。

「ねえ、どうしてメドゥーサ座は作られなかったの」

子供が質問すると、

「そりゃそうだよ。だってそんなのが空に昇ってきたらどうなる。全員石になってしまうじゃないか」

「ああ、そう言えばそうだったね」



 こうしてうやむやのうちに、三楽章が閉じようとしている。

 果たして皆さまは、どこに形式美やら、落書きの本意があったのかと、不可思議に思っておられるだろうか。あるいは騙されたといきり立って、抗議のハガキを一筆したためておられる所だろうか。

 けれどもすこし待って欲しい。こんな怠惰の落書きにすら、一輪くらいの密かなる真実が、込められていないなどとは、誰に言い切ることが出来るだろう。

 白状しよう。私は留まることなく、怠惰にキーボードを打ち鳴らした。それは霊感が即興に任せて、迷妄を突き進んだり、断絶し掛かるところを、さらに叱咤して、リズムで押し通そうとして、また会話文で逃れてみたり、どうにか押し流した結果に過ぎなかったのである。そこにはなんのプロットもなく、なんの理知もない。ただあるものは、留まる事なき落書きと、辛うじて語りのリズムによって、皆さまの心をつなぎ止めておこうという、執筆者の悲しい性が、込められているくらいには過ぎないのであった。



 だから最後のひと言は、こういうことになるだろう。

私は何も語らないのこころによって怠惰に記しきった。

それは、「憂うのたましい」から生まれたわけでも、

ましてや、「憩いのたましい」から生まれたわけでもなく、

ただ散歩から帰宅後の、あまりの侘びしさに堪えられなくなって、

部屋のぽつんとした侘びしさに堪えられなくなって、

はなっから、何一つ考えるでもなく、

メドゥーサを焦点にするでもなく、

三つの国を綿密に織り込むでもなく、

かといって、ニジマスに関係するでもなく、

87%に象徴を与えるでもなく、

三つの楽章にすら構成を託すでもなく、

怠惰に流しきったに過ぎなかったのである。

そうであるならば、

読んでくださったあなたがたの、

あらゆる感慨は、すべてが正当化され、

あらゆるブーイングもまた正当化され、

あるいは、好意的な皆さまには、

ちょっとした暇つぶしくらいには、

なったかもしれない屁理屈にしたって、

すべてが、各々の中の、各々勝手な正統であって、

私にはそのいずれの意見にしてみたところで、

明確な反論も肯定も見いだせないのだった。

けれどもまた、一つだけ言えることがある。

それはいかなる羅列には過ぎなくっても、

言葉の意味に従って記されたあらゆる文脈には、

それが太古のオートマティスムにしたところで、

一片くらいでは済まされないほどの真実が、

あるいは誰かが真実と見なしうる何ものかが、

無頓着に込められてしまうには違いないのである。



 そうして、ここまで書き記した理由は、

ただ何となく、キーボードを打ち終わった、

あのぼーっと白けきったような瞬間の、

侘びしさにどうしても触れたくないという、

悲しい逃避行には過ぎなかったのではあるが、

それもいつかは、終わりが来るものであるならば、

いまはここでお開きにするのもよいだろう。



それでは、皆さま、

お付き合いくださって、

どうもありがとう。

じゃあね、ばいばーい。

覚書

[作成+朗読]
2010/03/21-03/29

2010/3/30

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