夜更けのエチュード

(朗読なし)

夜更けのエチュード

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夜更けのエチュード

 真っ暗な風に脅されて、窓際のカーテンを開ききれば、野分ばかりが吹きすさぶ、すさまじい枯れ葉が舞い散った。月の光が照らし出す。電線の唸る音が響く。

 都会の夜空は穢れ果て、まばらな星が二つ三つ、シーイングをしどろもどろと揺れている。誰彼を恐ろしい未来へと運ばせる、時の鐘の音(ね)が鳴り響く。それは耳には聞こえないけれど、自分の心にだけははっきりと、永久機関の鐘の音(おと)が、カチカチと騒ぎ立てるその秒針が、染み渡って刻み込まれるのだった。

 期待と絶望のきわを踊り狂って、怯えたピエロがライフルを握りしめながら、狙われる四方さなかを、ジェスチャーがてらに逃れゆく。そんな幻覚さえ沸き起こるほどの、ベランダ越しの風景が気がかりで、私は慌ててガラス窓を開ききった。

 たちまち、砂ぼこりが額にぶち当たる。野分はびゅうびゅう唸っている。構わずサンダルで踏み出すと、手すりの前には夜嵐のような、悪魔の影さえするのだった。それはどこか遠くへと、人のこころを吹き飛ばす仕草をして、がなり声を上げながら、猛々しくもあざ笑うのだった。

 空には月の女神が、悪魔を見下して冷笑を浴びせかける。私はその光源に、ささやきながらも時空を超越した、セイレーンの歌声をさえ聞いた気がした。

眠ろうとしつつ寝られぬ有明の
碧(あお)の時計を鐘打つは誰

 眠れぬ鐘の音(おと)を幾つ数えたら、時間軸のなかを米粒くらいに転げ回る、我々の喜びや悲しみというものの、価値をつかみ取ることが出来るだろう。

 あるいはそれはまぼろしに過ぎなくて、私たちは路傍の石みたいに置き去りにされた、物質的現象には過ぎなくって、それをこそ観念しつつ、生きていかなければならないのだろうか。

 ならば問いたいことがある。

 されば汝(なれ)、何故(なにゆえ)生きよと脅すか。

 端(はな)から石ころと定義すべきものならば、どこに善を指標とする意義などあるのか。何故(なぜ)いともたやすく、殺し合ってはならないのか。

 科学的定義と社会的定義を取り違えてはならない。ただ人間社会の中にあってのみ、価値あるものとして命(いのち)を宣言して、科学的にはいつわりの定義を下さなければ、何事をも推し量れないということを、第一義として掲げなければならない。さもなくば、人皆は殺し合いの果てに、地上より姿を消したとしても、人以外のいったい何ものが、それを悲しむというのであろうか。

 すなわち我々は、生きることを喜び、死ぬことを悲しむものであり、誰かと交わって子を生みなす社会であればこそ、始めて己(おの)がたましいを実感できる程度のものである。それをたやすく、

「石ころと同じである」

「ひとりで生きていれば幸せである」

などと定義してはならない。

 人間社会の仔細(しさい)は何人(なんびと)たりとも一人では構築し得ないものを、

「ひとりで生きている」

「自分の勝手である」

などとほざく人間を、見つけたら殴りつけ、懲罰し、いや、それがはなはだしくも有害であるならば、善良なる誰かの生活を脅かす恐れさえあるならば、どうしてそれを、抹殺していけないだろう。そのくらいの真摯さをもって、我々は何ものかを守っていかなければ、奴らの天下となるばかりではないか……

 それが死を前にした、彼の最後の願いだったが、そんな虐げられた良心のひだは、どこに記されることさえなくて、ただ涙となって頬を流れ去った。そうして夜更けのうちに、彼は静かに息を引き取ったのである。最後まで生きたいと願いながら。

死にとうない震える声を聞く人の
待てぬ夜明けの脈を見取るよ

 おめおめと生き残った老人のもとに、今日も雪が降り注いだ。おめおめと生き残った老人は、今日も線香を握りしめていた。ただ自分の順番を待ちわびる儀式みたいに、かつては村じゅう賑わった仲間たちの、眠るような墓を巡るのだった。

 そこには愛すべき妻の墓石(ぼせき)もあった。戦後復興の活気の中で、みずから奔走したあの日の靴音が、まだ大地には谺しているような気さえするのだが、まるで穢れを清めるみたいに、白い雪は降り募るばかり。すっかり枯れ野を控えた、自分の肉体も、この精神も、憧れみたいに雪の清らかさをを、なみだすらなく諦観(ていかん)するばかりだった。それでも、あの頃にはまだ見えていた、冬の精霊を追い求めるみたいに、ふっと希望が沸き上がることだってあるのだった。

 粉雪が舞い散る。それが自分のこころにも降り積もって、穢れちまった肉体さえも、生まれ変わらせてくれたなら。それからあの日の仲間たちと、酒を酌み交わし合って、廃れゆくこの村をもう一度、汗水ながらに立て直していけたなら。あるいはふくよかな妻の素肌さえ、面影でなく抱(いだ)きとめることが出来たなら……  ……思いばかりは天高く羽ばたいて、けれども、埋(う)もれる踵を気にしながら、うつむき加減に歩んでいくのだった。

 しんしんしんしん。近頃の自分には、雪の降りつのる音さえも、はっきりと聞こえるような気がする。それは清らかな天上から、自分のことを呼んでいるような気がする。自分も早くそこへと羽ばたいて、もう何もかもが軽やかに、あいつらと再会を果たしたい思いばかりが溢れるのであった。

 今日もまたひとり、朽ちかけのわが家に侘びしい晩餐を取るのだろう。味覚だけは残されている。それがもう喜びに結びつかないことを、おめおめと生き残った老人は、静かに観念するのだった。

 音もなく踏みつける靴跡の向こうに、白く染まりかけた墓が見えてきた。しんしんしんしん。雪の音はまた聞こえてくるのだった。

 老人はそっと、妻の墓を撫でてみる。誰かがそっと囁(ささや)くような気がして、しわくちゃの手で優しく雪を払って、くすみかけた墓石の側面に、静かに耳を澄ませてみたけれど、それから冷たさを確かめながら、御影石に耳を当ててみたけれど、やはりそれは空耳であって、妻の声は決して聞こえてなどこないのだった。

 今でも、こころの中にだけは、妻の声ばかりが、はっきりと残されている。もしそれさえ消えてしまったら、自分はもう何者でもなくなってしまうに違いない。ああ、こんな真っ白な雪に清められながら、瑞々しい姿に生まれ変われるものならば……

 見上げれば、分厚い灰色の雲は、幾重にも幾重にも連なる峰のように、はらはらと雪をふるいに掛けるばかりであった。彼は震える指先にライターで火を灯しながら、線香の煙すらもはや懐かしいような気がして、大切そうにしてそれを、受皿の上へと乗せるのだった。

 昨日の花が雪をかぶって、すこし重そうにうなだれている。

 もう夕暮れも近い。

あの人もこの人さえもすり落ちて
ひとり歩きの墓に降る雪

 消える人もあれば、生まれゆく人もある。千哭(せんこく)の川の両岸には、ほほ笑みに咲き乱れる蓮華畑(れんげばた)が、きっと春の気配を届けてくれることだろう。私はそれを信じている。

 老人は死んでしまった。葬儀に来るものさえもはやいなかった。孫たちは厄介者が亡くなって清々した様子で、葬儀を業者に任せて、日々の生活を続けていた。子供は自分より早く、天上へと帰ってしまっていた。咎める者すらいないんで、坊さんは頃合いに読経(どきょう)を切り上げた。寒さばかりが募って、誰もが早く済ませたい想いで一杯だった。決して悪徳に身を染めた訳ではなかった。

 老人の村はついに無人となった。役場の係員は、書類に廃村と記した。人気(ひとけ)が失せた老人の家は、二日三日の間にさえも、みるみる廃墟と化していくらしかった。やがて村のどこもかしこも、葛の覆い茂る藪のなかへと、しだいに消えてゆくいくのだろう。けれどもそれは、観念すべき事柄である。

 老人の家を飛び去った鴉(からす)は、やがて都会へと降り立った。そろそろ餌が欲しくなってきた。山里をうろつくくらいなら、都会と呼ばれる宝庫から餌を探した方が、はるかに効率的である。冬の寒ささえもそこでは、穏やかに宥められるに違いなかった。

 彼らは老人の与える餌が当てにならないことを悟って、ようやく自たちの生活のために、山を降り立ったには違いなかった。

 だから鴉どもに老人のたましいを見いだすのは、人間の甘ったれた誤謬(ごびゅう)には過ぎなかった。奴らには奴らの生活があって、それは老人の面影にたやすく乗っ取られるほど、生やさしいものではなかったからである。鴉に人のたましいはけっして宿らない。

 いつしか、春の訪れが近づいたことに気がついて、奴らは元気よく雲を追い掛けていった。老人の記憶など、もうみじんもない。しょせんは餌のために住み着いたには過ぎなかったからである。そうして二羽の鴉は、いま新しい家へと降り立った。そこでは、朝から晩まで家にいるらしい奥さんが、雀やら頬白(ほおじろ)にそっと餌などを与えているから、それを奪おうという算段らしかった。

 彼らはやがて、滑空するかなたから眺めるだろう。ある時は、その若い奥さんの腕のなかに、ある時は背中のあたりに、あるいは胸のあたりに、すやすやと眠る小さな子供の姿を見いだすだろう。そうして彼らは思い出すだろう。老人のことをではない、自分たちにも子作りのシーズンが巡り来たことを、春風のなかに思い出すことだろう。

春風(はるかぜ)をあおりて雲のたなびけば
吾子を眺めの二羽のからすよ

 灌仏会(かんぶつえ)などといって、釈迦(しゃか)の誕生を祝うものだかどうだか、自分にはよく分からない。四月八日は花祭り。人混みに誘われるに任せて、つい寺にだって、足を踏み入れたくなるというものだ。もっとも町中にある寺だから、石段なんか登らない。ひと跨(また)ぎに朱染めの門を潜れば、もう境内(けいだい)が続いている。やっぱり年寄りが目立つらしいが、子連れの家族も結構いるらしかった。

 珍しい人だかりに驚いた鳩が、今日ばかりは屋根から様子を窺(うかが)っている。遠くの高木(こうぼく)に止まっている二羽の鴉は、あるいは例の鴉たちだろうか、私には分からなかった。

 日頃は閑古鳥の賑わいも、今日だけは絵馬やらおみくじの売所(うりしょ)にさえ、巫女さんが横並びに応対をしているほどだ。本堂前の人だかりから、線香の煙がもくもく昇っている。そうして、どこもかしこも、屈託なくがやがやしているのだった。

 人だかりの真ん中に、花御堂(はなみどう)が設けられている。フラワーアレンジメントされた即席御堂に、生まれたての釈迦の像が安置されている。参拝客たちは、老いも子供もそれぞれに、杓(しゃく)ですくった甘茶を、像の頭からざぶりと掛けてやるのであった。すると、釈迦は生れるがままに溺れてしまい、それが苦行を乗り越えるべき、悟りへと達するのである……という訳ではまさかないのだが、これをもって誕生を祝福する、もっとも重要な仏事の一つなのだそうである。

 向こうの方では、巫女さんが小さな女の子を引き連れて、はぐれた家族を捜して回っている。女の子は、早くも将来の美貌が危ぶまれるくらいの、つぶれぼた餅じみた泣きっ面で、精一杯の声を張り上げている。まわりの年配者たちが、どしたどしたと寄ってくる。暇人は親切である。もっとも半分は座興である。彼女はますます泣き出した。

 あんな幼子みたいに、喜怒哀楽をぶつけられたなら、あるいは私たちも今よりは、幸せを噛みしめて生きることが出来るのだろうか。そんなくだらないこと、浮かべながらに眺めていると、ようやくお父さんとお母さんに見いだされて、泣きながら駆け寄ったところを、かえって叱られてしまった様子である。

「勝手にほっつき歩ったら駄目だって、いつもいってるだろう」

なんて注意されているに違いのだ。お母さんの方は、巫女さんに頭を下げて、それからほほ笑んだ。みんな屈託もない長閑(のどか)さである。幼いぼた餅の少女は、ほっぺたがますます膨らんでいる。糸が切れたような安心に涙しながらも、叱られるのだけは納得いかないといった、複雑な表情がおかしかった。

 私は釈迦の甘茶などはどうでもよくなって、それを見たことをのみ喜びとして、その寺を後にしたのであった。

叱られて染める頬さえほおずきの
ふくれっつらした迷子なるかな

 幼い頃は弱虫だった。電気を消されただけで、夜が恐ろしかった。見えないところから、腕が伸びてきそうな錯覚に囚われて、布団に潜ってさえ落ち着かなかった。それなのに母さんは、

「豆電球で我慢なさい」

といっては、せっかく付けっぱなしにしていた電灯を、発見するたびに消してしまう。僕は泣きべそながらに丸くなって、夢魔の到来に怯えながら、ようやく寝静まるといった有様だった。

 夜中にトイレに起き出すのだって大変だった。不意に目覚めると、音を忘れたような静寂が、しんしんと襲ってくる。布団から出るのは恐いし、手洗いには行きたいし、散々思い悩んだ挙げ句に、なけなしの勇気をはたいて出張を試みるのであるが、ともかくも電気を点灯させるまでが、一苦労だったことさえ今となっては懐かしい。

 かくれんぼをするうちに、ひとりでに恐くなったこともあった。まだ幼稚園にも上がらない頃の話だから、僕は味噌っかすに過ぎなかったけれども、近所の兄(あん)ちゃんの勧めに従って、小屋の奥に隠れていたら、ちょっと体を揺すった拍子に転げ落ちた、金物か何かの響きの恐ろしさに、びっくりしながら飛び出して、発見されてしまったこともあった。もちろん僕を見つけたからといって、鬼は交替を許されないのであった。

 秋になると近くの草原から、虫の音(ね)が響いてきた。それは不思議な喜びであって、いくら恐がりの僕だって、リリリりと歌いまくるセイレーンの手招きに誘われるみたいに、鳴き声の発しているところを突き止めようとして、もちろん、近くには母さんがいるのを確認してから、暗がりへ入ってみることさえあったのである。

 入ってみると、僕の付近だけ、虫の鳴き声がしなくなる。しばらく息を潜めていると、また鳴き始める。ようやくガサリと草を踏む。またふっと途切れてしまう。それでいて、向こうの方からは、盛んなシンフォニーを奏でている。

 夜風が優しく吹き抜ける。幼い僕には草むらの高さが、森みたいな奥深いものに思われて、すぐに心細さが募ってきた。虫の音が僕のことを、樹海へと誘い込んでいるような気がする。それなのに僕は、まるでなにかに取り憑かれたみたいに、引き返すことすら出来なくなって、音色の盛んな方へ、盛んな方へと、たましいが連れ去られるように踏み出すのであった。

 ドキドキしながら進んでいくと、不意にうしろの足もとに、ぐにゃりとした感触が伝わってきた。僕は背後からのお化けの攻撃に打ちのめされて、「ひゃっ」と変な声を上げてしまい、とうとう堪えきれなくなって、その場にわあわあ泣き出してしまうのだった。

 がさがさと音を立てて、お化けは向こうに逃れ去ってしまう。けれどもう、子供の感情だからコントロールすら効かなくなって、来た道へと引き返す勇気すら無くしてしまい、その場で大声を上げて、泣いているばかりだったのである。

 ようやく気づいた母さんが、怪我でもしたのかと思って駆け寄ってきた。虫の音(ね)が一斉に鳴り止んだ。

「大丈夫」

と聞こえる優しい声に甘えるみたいに、僕は彼女に抱きついて、気が済むまで涙を流していたらしかった。あたたかな手の平で、撫でてくれた頭の感触だけが、今でもわずかにこころに残されているのだった。きっとあの日のお化けは、戯れ慣れした近所の子犬だったに違いない。遠くの方で、犬の泣き声がしたからである。

くつわむし探しさなかにお化け来て
泣きだす僕を母はいだくよ

 小学生に入学する頃には、僕にも勇気が生まれてきた。ジャングルジムから下界を見下ろして、我が物顔に振る舞うのは楽しかった。ドロケイでは警察の所長を勤めて、職権を乱用することさえあった。ついに味方を一人牢屋にぶち込んだときは、さすがにブーイングが沸き起こった。僕は素直に謝った。けれども、プールに潜れない軟弱者を、二人がかりで投げ込んでやったときには、泣きながら溺れているうちに、奴はちゃんと泳げるようになっていた。いいことをしたと思った。あの頃は楽しかった。

 学校が終わると、よく近所の野原へ出て、球を蹴ったり投げたり、高いところへ昇って遊んだりした。ある時には、あんまり美しいものだから、満開の桜のなかへとよじ登って、枝のところに不気味な三色毛虫を見かけた途端に、

「あっ」

と驚いて逆さまに転落したことさえあった。身をひねって背中から大地にぶつかった。呼吸が出来なくって、ヒューヒューと奇妙な息をしながら、声も出せずに嗚咽しているのであった。あの時は仲間がすっ飛んでいって、近所の大人たちは集まって来るし、背負われて帰宅すると母親が大騒ぎするしで、たいへん恥ずかしい思いをしたものである。

 それから、祐平(ゆうへい)と翔太(しょうた)と、いつもの三人組で穴を掘っていた夕暮れのことだ。僕らはちょっとした落とし穴ブームにはまっていて、野原のなかを抜ける土草の一本道に、精魂込めては穴を掘って、小枝でもって渡しをかけて、その上に葉っぱを散らせて、さらに土をかけ、誰かが引っ掛かるのをこっそり観察するのであった。もちろんそれだけでは、すぐばれてしまう。何度目かの失敗の後で、僕らは土の色や、植生を悟られないために、別の土地を薄く剥離させて、それをそっと落とし穴の上に移植することを思いついた。そこに自然を装って、タンポポなりれんげなりを、花ごと咲かせておくと、まるで自然の道にしか見えないのである。きっと、そうやって考えることが、学校の授業なんかよりも何十倍も、僕らを成長させるためには、必要な行程であるには違いなかった。もちろんそんなことは、当時は考えもしなかったけれど、ちょっとした子供の悪戯くらい、許容するような社会でなくっちゃ、きっと人でなしの歯車が、大量生産されちまうに違いないんだ……

 初めの頃は愉快だった。近所の買い物帰りのおばちゃんが、何語だか分からないような奇声を張り上げて、すぽっと足からはまって、斜めになって買い物袋をぶちまけたのが、ことさら傑作だった。僕らは遠くから見て大笑いだった。思えばずいぶん非道いことをしたものである。その時は見つからずに済んだ。

 ある時は、化粧お化けみたいな仕事帰りのOLが、地の顔を無視した髪やら眉毛を落書きしまくって、ずんずん進行してきた。僕らは「げっ」と思った。ドロドロの妖怪エセ金髪だとささやき合った。

「外人の出来損ないめ」

と誰かが呟いた。みんなそれに同意した。

 もちろん妖怪は罠に陥った。倒れた拍子につんのめった時、そのまま顔から化粧だけがパカッと外れるんじゃないかと思った。それから大声で、

「ちきしょう、馬鹿野郎」

なんて妖怪らしい絶叫を上げるので、始めて恐ろしくなった。やっぱりあれは、人間とは別の生き物であるらしかった。

 お馬鹿な犬っころが引っ掛かることもあった。やっこさん元気よく走って来たはずが、急に、

「キャキゥゥンゥン」

と変な叫びを上げたので、とりわけ傑作だった。おまけに奴はしっかりしょげてしまい、しっぽを丸めながらとぼとぼと逃れ去ったのであった。

 けれども僕らの悪事は、近所に筒抜けだったから、日ごとに掛かるものは少なくなってしまった。同時に学校へも連絡が入って、

「まさかそのようないたずらをしている子が、うちのクラスにいるとも思いませんが」

なんて、先生がくどくど述べ立てるので、僕らのいたずらも、終焉を迎えつつあったのである。

 けれどもその日は、落とし穴の下に墨汁と水を混ぜておくという、僕らの壮大な計画を、どうしても思いとどまることが出来なくって、最後の敢行を試みたのであった。

 あまり壮大だったため、僕らは穴を掘っている間に夕暮れになってしまった。あれでよく、誰も咎めなかったことと思う。もとよりそれほど人の通る場所ではなかったから、落とし穴を眺めるうちに日が暮れて、がっかりして家路についたら、翌朝来てみると、引っ掛かった跡が見られるなんてこともあったのだ。三日間、そのままになっていたこともあった。

 僕らは、ようやく穴だけは堀抜いたものの、もはや最後まで仕上げる時間がないことを、夕焼けの紅色に染まりながら、悟らざるを得なかった。

「葉っぱで隠しておこう。明日完成だ」

そういって、慌てて穴を隠していると、不意に祐平が、

「あれはなんだろう」

と向こうのかなたを指さした。顔を上げた翔太が驚いて、

「ほのおが飛んでいる」

と叫ぶ方向には、ゆらゆらと青白い炎がひとつ、確かに野原の向こうを漂っているのだった。

「ひとだまだ」

僕らは嬉しくなってきた。生まれて初めて、実物に出会ったからである。

「捕まえよう」

 僕らは三人そろって馬鹿だったから、祟りのことなんかまるで忘れて、犬か猫をでも捕まえるつもりになって、落とし穴を放置して、一目散(いちもくさん)に駆け出したのであった。

 ヒトダマは自由闊達であった。奴こそフリーダムの固まりなのかもしれなかった。まるで、僕らと戯れたくって仕方ないみたいに、わざわざぎりぎりまで留まっていたかと思ったら、飛びついたとたんに遠くの方へすり抜けて、また僕らを誘い込むみたいに、ぷかぷか浮かんでいやがるのである。

「このぷかぷか野郎め」

 僕らは三方面作戦を敢行した。子供にしては精いっぱいの知略であった。ところが、僕らにはやっぱり、知性の要(かなめ)が欠けていた。奴には上空という、得意の逃げ道が用意されていたからである。三人が抱き合うみたいにヒトダマに飛びかかったら、奴はゆとりを持って、僕らの頭上へと飛び上がってしまった。

 とうとう上空で、ぐるぐる旋回を始めたヒトダマを悔しがって、

「卑怯者、降りてこい」

と僕らは罵った。奴は構わずスーッと逃れゆく。僕らはまた懸命に追いかける。もう暗闇も迫っていたから、僕らはヒトダマの策略に気づかなかったのである。不意に、あっと思った拍子に、目の前に桜の木が現れて、僕はかろうじてそれを避けきったものの、翔太が正面からゴツンとぶつかって、殉職を遂げて泣き出した。どうやら僕らの負けのようであった。

 悔しがって眺めていると、ヒトダマは桜の木の枝のあたりに、フクロウの真似をするみたいに留まって、僕らを見下ろしているのである。それを眺めた翔太が、敗者の烙印をこころに焼き付けられて、ますます号泣した。

 やがて遠くから声が聞こえてきた。僕らの騒動を心配した、近所の奥さんか誰かが、様子を見に来たらしかった。

「どうしたの」

という声に驚いて、

「だって、ヒトダマが」

と呟きながら振り向くと、もうあのヒトダマは消えてなくなっていた。僕らはしばらくのあいだ、落とし穴の報いを受けてヒトダマに祟られた悪ガキと見なされていたらしかった。

ひとだまを追っ掛けまわした夕まぐれ
肝っ玉した僕やいずこへ

 子供というものは、実にしばしば喧嘩をするものである。そうして秘密基地を持ちたがるものである。私はふるさとへ戻る列車のなかで、あの頃のことを考えた。切り倒された森林の丸太のあたりで、仲間同士で喧嘩をした、幼い日々のことを思い出したからである。それは座席の向こう側で、家族連れの男の子と女の子が、兄弟喧嘩を始めたからには違いなかった。

 私は、ポケットの携帯をちょっと握って、それから首をひねる。ああして徹底的に感情をぶつけ合って、全力で人間関係を見いだそうとするうちに、情緒は形成されていくものには違いない。いわば相手に対して憎しみや怒りまかせの言語を吐きかけたい、あるいは吐きかけてしまうような原形質の情動と、それを押さえようとする何ものか。いわば怒りの正当性を推し量ろうとする、血みどろの葛藤を繰り返すうちに、彼らは人間に対する本質的な信頼感と、原形質ではない情念を獲得していくのであって、その獲得に興ざめを引き起こすような道具は、子供には与えない方がよいのではないだろうか。私は列車のなかで、不意にそんなことを思いついたのであった。

 他人への暴言は子供にしたってはなはだしい労力だ。まさに労力であるということ、ハードルが高いということ、一方では感情を抑えられない自分があること。その葛藤が、自己と相手の関係をつかみ取るための、認識のきっかけにすらなっているに違いない。

 ところがメールというものは、手紙と違って感情をぶちまけるには、実にハードルの低い媒体である。面と向かっては言えないことを、惜しげもなく言いがちな媒体である。実態のあるものについては、動物である人間は、実態として把握する本能を持っている。鉛筆を使って紙に書き記す行為は、必ず自己反省を引き起こす。それを改めて提出するのにも労力がかかる。はなはだしいハードルである。だからどこかで、踏みとどまる。その踏みとどまる地点を見いだすことが、心の成長だと言えるのかもしれない。

 それに対してメールは、あまりにもハードルが低い媒体である。文字を書き記すということと、打ち込むということは同等ではない。言葉を打ち込むという行為は、書くという行為ほどに、感情的表現への反省を引き起こさない。しかもそこには、自分の文体すら存在しないから、なおさらに自分の記したものに対する、自分の行為としての反省を、引き起こし難くしてしまう。ちょうど相手にいえないことを、欲求不満にぶちまけるには、紙に書くよりも、そして口に出すよりも、遙かにたやすく、率直になれる媒体なのである。

 だから打ち込まれたメールを、もし相手に送信せずに、どこか異次元の星へでも送信して、それで済ませていられたら、それはあるいは子供たちにとって、一つの感情を抑制するための、素敵な手段にはなるのかも知れなかった。

 けれども直情に打ちつけたメールは、ボタン一つでたやすく送信できてしまう。手紙のような、住所をしたためたり、投函したり、あるいは紙切れにしたって、自分で机の上に置きに行くくらいの手間すら必要ない。それを送りつけたという実感にさえ乏しい。実は、その投函する自分、置きに行くまでの自分、それを開くときの相手の姿の各段階を、何度も心に描きだすことが、反省への大いなる足がかりとなっているというのに。そうして、そのようなイメージのたゆまずの繰り返しだけが、生きた道徳となって、その人を成長させるのであって、決して理屈が人を育てているわけではないのに。

 実感に乏しいということが、まさに子供にとっては不必要なことなのであって、それでいて送られた言葉は、永遠にその日のままの夕べの姿で、残されうるべき言葉の符号となってしまい、それは大量複製も可能であり、こんなものを送ってやったと、仲間に送りつけてやることすら容易い。その手軽な自在性においては、手紙などよりも、はるかにたちが悪いくらいである。すなわちメールというものは、子供たちにとっては、場合によっては手紙や落書きよりも、何十倍も、何百倍も、たやすく露骨な感情をぶちまけて、相手をこらしめてやるための、お手軽な手段となってしまうのに違いない。

 そのような言葉を遣り取りし合った子供たちは、相互に空しい幻滅を味わうだろう。人のこころの味気なさを、乏しさを垣間見ることになるだろう。そうして、ますます相手を怒らせることを、相手を不快にさせることを、交互に怖れるようになるだろう。露骨な言葉を投げ合った経験から、交互に不信感が募るばかりだろう。つまりは、ただでさえ共通精神の持ち主をばかり、大量生産したがるこの国において、ますます没個性的な、無意識に周囲に合わせようとするばかりの、趣味さえ同一的な、ファッションも文化も化粧も消費も、ジェネレーションごとに一辺倒の集団を築き上げることになるだろう。彼らは同じ階層の赤やら黄色やらの違いでもって、個性を主張し始めるだろう。そうして彼らは大人になって、それを人間社会と考えて行動するだろう。そうして子供たちに、それを踏襲させるだろう。あるいはそんなことには、ならないだろうか。

 電車がごとごと揺れるのに任せて、私の考えは、反対命題などお構いなしに突き進む。列車の行動パターンに合わせて、動態にある風景が、私の一本道を煽り立てているのかも知れなかった。それならそれで構わない。暇を持てあまして、とことん考えを進めるまでのことだ。



 たとえ目の前でどんなに罵りあっても、あるいはある時、どんなひどいことをされたとしても、再現能力に限りのある記憶の作用と、本質的に現在と過去とを分かつ本能によって、どんな嫌な過去の想い出にしたって、諍いの時の汚い言葉の遣り取りだって、やがては調停を迎えるには違いない。あれこれと思い悩みつつ、やがては風化を迎える頃になれば、嫌な思い出もまた、精神の形成に役立つ一要素には違いないんだ。その時始めて人は、社会のなかへと身を置くべき大人の階段を、また一歩上るだろう。辛かったことも、憎らしかったことも、楽しかったことも、笑いあったことも、すべてがひとつの情緒となって、一歩づつ精神を築いていくだろう。

 中立的な符号として言葉に記されたものは、必ず過去のある時点の消され得ない記憶となって残るだろう。その文字は過去のつたない文字と悟れるようには、文体が劣化しないだろう。過去と別れを告げるほどには、古びた手紙のようには風化しないだろう。つまり中性的な符号として記された文字は、唯一無二のその場限りの実態としての、実在する具体としては、人は本性的に受け取らないだろう。そしてそれは、決して後の結果だけではなく、それが初めに起こされた瞬間においてさえ、たとえばテレビで見たものと、現実社会で見たものを、極めて無意識的に分けて考えるくらいの、人間の根本的な能力によって、抽象化されたそれらの符号は、人と人とが傷つけ合う程度のものよりも、もっと中性的な何ものかから、得体の知れない何ものかから、断罪されたような効果を、受け取った子供の心へと植え付けるだろう。たとえ消去したとしても、その時の印象は抽象的なある種の不気味となって、その人の心のなかに、永遠(とわ)に消化し得ないあるものとなって残るだろう。

 つまりそれらは、風化しつつも消化され、糧となるべき言葉とはならないだろう。その代わり、得体の知れない屈辱や怒りはまるで結晶化されて、その中立的な言葉に組み込まれて、永遠にがらくたのように残されるだろう。あるいは、写真によって証拠として残されれば、心のイメージは一生涯消化され得ないだろう。そうして、それと同じような感覚を、中性的な符号は容易にもたらしてくれることだろう。

 互いに「死ね」と罵り合ったとしても、数年の後には笑い話へと帰るだろう。それはその場の臨場感が、風化する作用と新しい何ものかで、置き替えられる作用に他ならない。それに対して、交互に「死ね」と残された紙切れは、その場の臨場感をより強く与え続けるだろう。それでもなおかつ、紙切れには書くという行為と、それを送るという行為に、実際の大きなアクションがともなってくる。実際の行為のハードルが、子供にしたって高いものだから、子供たちにしたって、たやすく記すことは出来ないだろう。

 それでいて、渡された実態としての紙切れは、永遠の中立的な符号では無くって、あくまでもその場その時の実在であるに過ぎず、たとえ十年後に残されたとしても、風化した過去の臨場感へと移し替えられてしまうことだろう。つたない文字。古びた紙切れ。

 けれどもメールは、そのハードルを低くして、子供たちに与えるという、危険性を常に持つことになるだろう。そうして抽象化された、中立化された符号は、その臨場感を、永遠に今へと留めるだろう。特定の相手から断罪されたというよりも、何か社会から断罪されたような不愉快となって、その人の心に燻り続けるだろう。つまりそれは、人間の本能で悟るべき所の、実在性、実体性に乏し過ぎるのである。より抽象的な、中立的なもの、具体性のない社会から断罪されたような効果を、生身の動物としての人間に負わせてしまうに違いない。



 ノートに記された罵詈雑言(ばりぞうごん)は、相手に長年の傷を負わせるだろう。けれどもまた、実生活のなかで記すという行為は、動物的である子供においてもなおのこと、仮想と現実の差となって、大きなハードルとなって横たわるだろう。それでいて、それが書かれるにしろ、書かれないにしろ、実はその大きなハードルと接すること自体が、子供の精神の成長には、必要なのだということを知るだろう。

 一人の部屋で、まるで自分の心のままに、恨みつらみを連ねて、送信することへの罪悪やハードルは、それよりずっと低いものになるだろう。いろいろな子供のなかには、悪意の強い子供だっているだろう。彼らはこの媒体を利用して、気にくわない奴を見いだして、実にたやすく、相手を傷つけることが出来るだろう。実生活では保たれていたハードルが、そこにはどこにもないことを知るだろう。

 そのようにして受けた傷跡は、半ば中立的な言葉となって、たやすく人間を乏しいものとみなす方向へ、子供の価値観を決定づけることになるだろう。永久に残されうるものであるという事実が、中立的な符号によって断罪されたという事実が、子供のこころの傷を永遠にその中へと封じ込めるだろう。ましてやこれが写真やら、社会上の誰もが閲覧しうる、ネット上での言葉であればなおさらだろう。それはもはや、個人と個人の諍いではなくなって、社会のなかで自分を劣等な存在であると、断罪されたような効果を、軽々しく持たせることが出来るだろう。その時その子は、その子の一生涯を半分定められたようなものであると、あなた方は思わないだろうか?

 その時その人間は、半分殺されたようなものであると、あなた方は知らなければならないのではないだろうか?

 そのような潜在的な恐怖から逃れようとして、誰もが交互に、相手に嫌われまいとして、ますます他人と同調することを志すだろう。互いに羽を伸ばしゆくべき個性的な人間は、極めて幼い段階で、まだそれとは分からないうちに、自分の方から率先して、ジェネレーションごとの集団へと同化を始めるだろう。本来なら、個性をそれぞれに生きる糧として、成長させるはずの社会は、極めて同化・均質化した、不気味な同類項のひしめく空間へと、静かに変えられてゆくだろう。あるいは、すでににそうなっているのだろうか。

 自分は慌てて列車のなかを見渡した。寝ているサラリーマンがいる。携帯をもてあそんでいる学生がいる。三人がならんで、それぞれに携帯と向かい合っている。それでいて、相手を見向きもしない。あちらでは、雑誌を読んでいるOLがいる。いつもと変わらない列車のなかである。自分は少しこころを落ち着けた。考えはまだ留まらなかった。



 あるいは、そのような悪意のある状況を調停しつつ、子供たちを導くことこそが、将来の情報社会に対応した、教育なのだとほざく奴がいるだろう。つまりは彼らは、お手と言ったときには手を出して、お座りと言ったときには席に着くように、社会の規範の枠にあった社会的動物を生み出すことが、教育なのだと宣言するだろう。

 けれどもそれは飼育である。教育とは、自分で判断して行動すべき、独自の人間をそれぞれに育て上げることである。お手をさせることじゃない。その成長過程のなかで彼らが判断した結果として、私たちは一人一人が社会に適応していけば良いのであって、それを判断することも無く、ただこうすべきである、これはしては駄目だと、条件付けばかりを植え付けることは、それは教育ではなくて飼育に他ならないのだ。

 子供には子供の世界があって、その中で自分たちを形成していくものである。大人同士の基準では正当なはずの論理が、必ずしも子供たちのあいだでは正当であるべきことではない。そのことを知ることこそ、教育の第一歩ではないのか。

 人と人とが、喧嘩もせず、常に仲良くし、節度を持って接しあい、互いに干渉をしあわないこと。メールを出すときには、節度を持って感情的にならないこと。なるほど、実にご立派である。しかし、ご立派であるけれども、それは大人の論理である。子供たちは、今こそ精一杯に、狭い視野のなかで直情と、それを収めるすべを、必死に見いだしている最中(さなか)である。彼らに必要なことは、節度を越えて笑いあい、節度を越えて泣きあい、時には節度を越えた喧嘩もして、その心を調停するということを繰り返し、その中から自己を見いだしていく、また節度という名の、社会的な規範を見いだしていく、という行為そのものなのである。そうやって見つけ出したものだけが、始めて「~と言われているから、それは正しい」ではなく、自らの獲得した結論としての、社会規範を身に付けたことになるのである。またそのような社会的規範を、どれほど理屈で説明したからといって、それは人間にとっての魂の籠もった、それを基準に自らの意見を主張しうるほどの、ありきたりの規範とはならないのである。ただ飼育のままに、条件反射を繰り返すばかりである。

 つまりは、子供たちが自己を形成していく最中に、ご立派ばかりを金科玉条に教え込んではならないのである。時には、相手を傷つけ合うことを前提にして、そのことが人間形成にマイナスになるのではなく、プラスになるような環境を、子供たちのために整えてやることこそが、社会の役割には違いないのに……

 彼らには、精一杯の喧嘩が必要なのである。本気で怒らなければならないのである。全力の喧嘩を押さえつけることは、あるいは、人と人との関わりによってではなく、ただ何らかの娯楽に興じるばかりと、子供を成長させることは、彼らの人格形成にとって、大いなるマイナスとなるだろう。彼らは安っぽい娯楽と見てくれだけを探求するだけの、乏しい大人の階段を登り始めるだろう。あるいは教わったままの社会規範を、無難に正当と信じ切って、疑ってみる価値の再認識さえなし得ない、乏しい会話を繰り広げるばかりだろう。常に全力で考えて、自ら行動して社会を改めていかなければならないという、当たり前のことすら破棄されて、無頓着に大多数の意見に迎合を極めるとき、いつしか少数の良識家は、ついに沈黙を余儀なくされることだろう。

 社会という常に移り変わる柔軟な受け皿を、効率的に変化に対応して運用し続けるためには、どうしても慣習的条件反射ではなく、過去の再検討と否定と新しい時代への対処を、構成要員のひとりひとりが、健全に果たさなければならないのに、逆に慣習的に、あるいは非論理的な感情論によって、それを押さえつける方向へと、何ものかが恐ろしい圧力をかけ始めることになるだろう。

 けれど今はもう、天皇万歳を叫ぶ者はいないだろう。ただその国は、世界から周辺的な事象へと追いやられて、やがて歴史から忘れ去られるだろう。そうしてふたを開いてみれば、その中ではやはり、子供のうちから人間を飼育するような奇妙な社会が、繰り広げられ続けていることだろう。

 子供に安易に情報端末など与えてはならないのである。子供が身の回りの、もっとも便利なものを利用するのは目に見えている。それは人間の本能には違いないのだから。

 それでいて、自分の状況のなかで、懸命に判断して、ありったけの物を利用することは、逆にしなければならない事なのである。すなわち、メールのマナーなどを諭しなさって、はいはいと頷くようなよい子ちゃんには、かえって安易には、育ててはならないのである。それはもっといつか未来に、おのずから身に付けていけば良いことなのである。

 それだからこそ、彼らの世界については、大人たちが取捨選択を加えるべきなのである。それでいて、その中では、安易に干渉をしすぎてはならないのである。それが飼育でない。教育をするということには違いないのだ。

 隣の人間ともろくな関係すら築けないのに、仮想世界でアバターを走らせて、英会話などをさせて最先端を叫んだってしょうがないではないか。ぼそぼそと呟くばかりで、はっきりと意見を言うことすら出来ないのに、端末の使い方に堪能になったって仕方がないではないか。そんな奇妙な人間は、国際社会の方でお断りである。そう言われるのがオチに決まっているではないか。

 国家に必要なのは、職人じゃないんだ、ひとりひとりが自立的に考える健全な人間なんだ。人がより良い生活をするために、ネット社会があるはずなのに、ネット社会のために、人間が乏しくなってしまったら、それで生活が楽になったって、幸せなんか訪れっこないではないか。ああ、お前たちは、まるで愚かさの極みではないのか。

 私の考えはそこまで突き進んで、内省的再考を加えることをついにしなかった。けれどもそれはしかたのないことだ。ここは列車のなかである。情動の流れるがままに、私は思いを走らせたに過ぎなかった。けれどもうプラットフォームが近づいて来た。

 私は立ち上がった。どうしても心がさっぱりしない。ちょっと、悲しい気持ちになって、ようやくふるさとの駅へと降り立った。そういえば、あの頃、みんなと遊んだあの場所は、今頃どうなっているだろう。今でもまだ、当時の姿を残しているのだろうか。

 明日天気が良かったら、あの遊び場へと出かけてみようか……

ああ僕よ丸太とばかりに寝転んだ
あの日あの時友のなみだよ

 あの日の森林はもう消えていた。

 それは、我が家からいくらか歩いたところにあった。

 それは、町なかに残された広大な雑木林であって、文明の発展を阻むみたいに、幼い私には、奥へ奥へと続いて見えたのである。子供の私にとっては、その反対側へと突き抜けることが、大冒険になるくらいの森林には違いなかった。そうしてその中程にはぽっかりと、舟さえ浮かべて漕ぎ出せるくらいの、大きな沼さえ広がっているのだった。

 冬になると厚い氷が張った。危険な真ん中まで行かなければ、その上で遊び回ることが可能だった。けれども渡り鳥たちは健在で、真ん中の氷の張らないあたりで、プカプカ浮かんでいるのだった。石を滑らすと、不思議な音を立てて奴らの方まで走っていった。鳥が驚いて、飛び上がる仕草が愉快だった。

 春にはカエルの卵が、不気味なくらいにとぐろを巻いていた。触るのが嫌なので、中を覗き込むばかりだった。やがてオタマジャクシがうようよと群がる頃には、それをバケツで捕まえて、共食いをさせることすらあったのである。もっとも、共食いが捕獲の目的ではなかった。ただ狭いところに入れておくと、奴らは余計なストレスを感じて、勝手に共食いを始めるのであった。そのくせ、カエルになる頃には、僕らはもうすっかり飽きているのであった。

 梅雨の晴れ間、水かさの増した時分には、近所のリーダー格に連れられて、括り付けられているボートに乗って、漕ぎ出そうとしたこともあった。全員、海賊が舟を乗っ取ったみたいに大はしゃぎしていた。けれども出発する前に、近くの農家の親父に見つかった。

「お前ら、横に並べ!」

と学校名を聞かれて、うな垂れていたことさえあったのだ。今となっては懐かしい想い出である。

 もっとも自分は、卑怯者に拍車をかけて、本当は違う学校であったのに、その名称は決して出さなかった。しかし船の持ち主が、学校へ連絡を入れたとも思えない。けれどもあの頃は、自分のなかでは大事件だった。前科者になってしまったような侘びしさで、七、八人はゾロゾロと、がっかりうつむいて帰途につくのであった。



 この辺りかなと思いつつ、私は沼の名残をさ迷い歩く。今ではもはや一面の宅地であって、さえない安素材の外壁が、景観とは関わらずといった表情で、無頓着に連なっているばかりだった。あの頃の面影なんて、探したくっても見つからない。宅地にするくらいだから、沼の名残なんて、完膚無きまで埋め尽くされて、地盤沈下さえ起こさないようにと、入念に処理が施されているに決まっていた。せめて、僕らがよじ登った樹木くらい、残されていないかと歩き回ったが、近くの公園の並木さえ、新しく植え込まれた、まるで植生の違うものらしかった。

 私は悲しかった。人々の豊かな幸福とは、過去から未来へと流れゆく景観や文化が、次世代へと継続して、たとえ自分が滅んだ後にさえ、引き継がれゆく事に根ざしているのであって、だからこそある段階で、絶えず街々を改造ばかりとこね回すことを止めて、一つのパッケージとして子孫へと継承していくような道へと、転換をはたした西欧の町並みは、あれほど美しいのではなかったか。文化が橋渡されている安心が暖かさとなって、素材と景観の質が人々の生活の質となって、文化の底辺を形成して、市民生活を守っているのではなかったか。それでこそ、豊かな文化活動が、消費と経済一辺倒ではなく、芸術的な社会生活が、まっとうされるのではないだろうか。

 有名な祭りにばかり群がったって、そんなのは文化じゃないんだ。それはいわば娯楽の延長なんだ。そうではなくって、地域それぞれの我が町の祭りが、地域の行事が、それぞれに活気づいて、それがずっと継承されることこそが、本当の文化的活動なんだ。本当の豊かさなんだ。



 私はなんだか、夕べから憤慨ばかりしているらしい。ずいぶん感傷に捕らわれた帰省になってしまった。けれどもそれは、しかたのないことだ。私もずいぶん生き尽くした。そうして、この場所は、幼い頃のわたしが、たしかに森の中を走り回ったり、倒れた木の幹を思う存分利用して、そこに枝葉(えだは)を重ね合わせて、自分たちの基地のようなものを、幾つも拵えたはずの場所だったのである。

 その面影がもう、記憶の中にしか無くなって、かといってその場所は、より美しい何ものかに変わるでもなく、ただ安っぽい服装を着こなした、電信柱の汚らしくも立ち並ぶ、しがない住宅地になってしまったのである。全体のことなんて気にも止めない、住民のポリシーの感じられないような、だらけた景観が広がっているばかりであった。

 巨大な商品看板と、不気味に化粧をしたような、安素材の店並、そうしたものが跳ね返って、人々のたましいを形成していく。それとも、初めからそんな人々しか存在しなかったから、それに見あった町並みが生まれたのに過ぎないのだろうか。ドライブをする度に広がっている、どこもかしこも穢れた町並み……

 せめて、私たちが永遠(とわ)に軽蔑しきれないもの。複雑さと豊かさを持った自然のわずか一部くらいでも、私の幼い頃のまま残されていたならば、私はそれを慰めとして、生まれ故郷を懐かしむことだって出来るはずなのに……



 それにしても、一緒に遊んだあいつらは、今頃何をしているだろうか。みんなもはや仕事にあっぷあっぷで、文化のことなんかで思い悩んでいる暇人は、わたし一人に過ぎないのかもしれない。けれども、世界有数の経済大国になっておいて、それでは、あまりにも情けない結末ではないのか。そう思いながら、私はまた、とぼとぼ歩き出すのだった。

 明日になる前に、久しぶりに誰かに連絡を入れてみようか。

秘密基地丸太の渡しとみきの隙
久しきふるさと宅地ばかりを

 私は学生時代。古典をちっとも楽しまなかった。それを後悔してはいない。あんなひどい教育システムでは、百万回の繰り返しにしたって、古典への興味など植え付けないに決まっている。それほど学校の古典教育は、根底からして間違っていると、今でも無頓着に信じ切っているくらいのものであった。

 好奇心を抹殺するばかりの教育システムのなれの果てに、せっかくの国の伝統を更けゆく宵に眺め、万葉を紐解いたり、それどころか、百人一首を始めて眺めるくらい、私は稚拙を極めていた。しかし、百人一首もようやく最後まで目を通したこの頃は、今さらながらに文法にも手を伸ばし、和歌についてもあれこれの感慨に耽りだすのであった。

 そして私は今日もまた、現代文と古文との、短歌における謎の混淆について、思いを馳せたりしているのであった。



 ある病人が、恋人に看取られながら、病棟の夕日を浴びて最後に呟く。

「ああ、あの空は、あの空の色は、ほら、僕らが始めて一緒に口づけを交わした、あの」

そんな台詞である。当時の和歌は歌であり、語りのリズムが重要な意味を持っていたのみならず、語りにおける情の統一が、真実味を与えるための重要なキーワードになっていた。そしてすべての詩は、今日においても、語られるべきものであり、語りにおける情の統一すら無いものは、ただの駄散文に他ならない。それは字数を整えたとしても、韻を踏んだからといって、何も変わらない。そうして歌詞のように、社会がそれを詩として無頓着に認めているような生きたジャンルでは、そのことが自然に守られているのである。ただ社会から遊離した何ものかだけが、

「ようやく現代にいたり、詩は叙述に取って代わられた」

なんて、一般人が相手にしないのをいいことに、サークル内部で妄想を極め尽くしているらしかった。

 例えば、先ほどのセリフの部分を、

「ああ、かの空や、かの空の色や、ほら、僕らが始めて一緒に口づけを交わしけり、あの」

などとしたらどうだろう。

 現代文と古文調がごっちゃになって、台詞なり歌なりを台なしにしてしまうことは目に見えている。誰が読んでみたって下らないおふざけだ。

「ほら、今またひとつ、流れ星が消えていった」

なんて台詞だって、

「ほら、今またひとつ、流れ星が消えにけり」

 失笑はおろか、その場で本を引きちぎって、読書時間を返せと迫ることは目に見えている。ところが、こんな奇妙なことを懸命に探求して、言語破壊を持ってして、日本の美だと称している、謎の集団が存在する。現代短歌と呼ばれる奇妙なジャンルを築き上げて、その中にはしゃぎまわっている皆さんのことである。



 もちろん、当時の文章だって、和歌は特殊なものではあったけれども、例えば「竹取物語」の阿部左大臣の語りを取り出しても、

「この皮は、唐土(もろこし)にもなかりけるを、からうして求め尋ね得たるなり。何(なに)の疑ひあらむ」

「なかりける」「たるなり」「あらむ」

一冊分読み解くほどに、当時の和歌の語りと同じ言葉が、会話の部分をひしめいていることを見つけることが出来るだろう。つまりこれがもっとも大事なことで、和歌は日常会話的な語りの表現と密接に結びついていながらも、それを超越した抽象性を獲得しているところに、芸術としてのすべてが込められているのである。

 それに対して、現代短歌の恐ろしいところは、語りを蔑ろにした、叙述的散文をして陳述を極め尽くし、そこに加えること擬古文にすらなっていない、奇妙な古語を現代文の構図のままに織り込むところにある。語りごとにしたって平気で、「ついさっき、流れ星が消えにけり」なんて無茶をやらかしまくるのである。

 人は奇妙な言葉に出会ったとき、その文脈の中に身を置くことは出来ない。真っ先に興ざめを引き起こすからである。つまりそれらは、情と言葉遣いを同時に蔑ろにした、稚拙なおふざけ以外の何ものでもないのだが、彼らは「ついさっき、流れ星が」という現代文の構図に、平気で「消えにけり」なんて古語を挟み込んでは欣喜雀躍するらしいのである。それも、もっともお遊びの欲しくないような所で、いたずらを突き詰めるといった有様で、ほとんど手の施しようが無いらしい。



 けれども、それはそれとして、現代においてさえ、古語の割り込み得る日常会話の存在を、私たちは見出すこともまた事実であり、その介在を全面否定することは、逆にありきたりの言語生活を蔑ろにすることにもなりかねない。私はそのことについて、近頃はあれこれと考えを巡らせているのである。

 ただ一つ確かなことは、和歌にしろ俳句にしろ、現代文においてまともな作品を仕立て得ないほどの人間が、「かな」「や」「けり」などを添削されるがままに、また公式化なし得ないはずの「切れが大切」などという言葉を、サークルのお歴々に教えなどを請い、ご教授そのままに鵜呑みになさって、奇妙の果ての捏造言語を生み出しているということである。そうして不気味なブリキ細工の言葉遣いが、雑誌やら新聞やらに平然とお目見えして、羞恥無きハッスルを極め尽くしている。十分に古文に接して、「かな」や「けり」が日常生活でもさらりと着こなせるくらいになるまでは、そんな言葉の使用は、悪弊にしかならないというのに。

 ポピュラーソングの表現の正当性について、わずかに思いを致してみれば十分ではないだろうか。作詞家は歌われることを指標として執筆をおこなう。現代短歌には放棄されてしまった必然的マナーである。つまりは、語られる際の表現スタイルの一貫性を、自然に保っているということ。現代の我々の話し言葉を基調として、口で唱えられる表現としてまとめているということが、ユニークな表現や、英語の混入などがあっても、決して文脈が破綻しないように、その表現が分裂症状を引き起こさないように、絶対的な箍(たが)を掛けているのであって、それが彼らの記した作品に、詩としての正当性を与えているのである。

 詩というジャンルは、危機に瀕しているという人がいる。はたしてそうだろうか。これほど詩というジャンルが好まれて、また個々に作られている時に、詩は危機に瀕しているといえるだろうか。

 誰もが横並びに、語り口調そのままの試作を行っている。なるほど、同じ言葉であるから、取り立てて価値は見いだせず、売買の対象にはならないかもしれない。わざわざ取りあげるべき価値は無いかも知れない。けれども語りを踏襲している以上、それは詩には違いないのだ。それらが大量生産されている時代、それは、必ずしも詩の退廃を意味はしない。ただ誰かがその中から、一歩踏み込んで、抽象的な表現と語り口調の頃合いを見計らって、ユニークな作品を生み出せばよいだけのことではないか。むしろ詩の危機とは、語り口調を無視したような、たんなる叙述に過ぎないような、駄散文をこね回した作文が、高尚な詩であると誤認されている時ではないだろうか。

 はたして、戦後を埋め尽くすガラクタのような、いわゆる芸術的な詩を標榜する作品のいったいどこに、歌詞に対して優位なアイデンティティを持った作品が、見いだせるというのだろうか。歌詞には歌詞の制約がある。それがゆえに、その宿命のもたらすある種の定型が、言葉にフォームを提供してくれる。

 それくらいのルーズなフォームにしたって、それに変わる優位性を主張できる作品が、いったい現代詩のどこに存在するというのだろうか。存在しないからこそ、詩集は売れないのであって、売れないのは当然なんだ。つまりは必要のないがらくたに過ぎないのだから。けれども、彼らはまだしも、現代語によって失態を繰り返している。それなのに、現代文と古文との両方から乖離した、訳の分からない捏造言語生活を営んで、しかも平然としている謎のサークルが二十一世紀にもなって、いまだに君臨している。現代短歌と呼ばれるサークルである。彼らは現代語と古語とを滅茶苦茶にもてあそんではしゃぎまわる。言葉を穢すこと、露骨なる学生の比ではない。そしてまだしも体裁を保っている俳句の世界など、叶うべきところではないくらいの不始末を謳歌しているのである。これはいったい、どうしたことだろう。



 すべての言語は、かならず社会のなかで作られていくものである。そこにはいろいろなものが存在する、

よりよいと思われる言葉、汚らわしいと思われる表現、

スラング、敬語、ect……

 例えば、ここにはエトセトラの略語が含まれている。しかし、記述表現としては破綻しない、それもまた社会的に広く認められているせいである。それ以外の理由など存在はしない。だがもし、

「今日は俺のおごりだ、焼酎、ワイン、ect、何でもいいから注文してくれ」

などと、小説の会話部分に不意に登場すると、ちょっと不自然の様相が高まってくる。語り言葉と、書き言葉との現代感覚の際どいところを切り抜けているからだ。けれども、恐らくほとんどの皆さまには、セーフの領域に留まるのではないだろうか。しかしそれは、百年前もセーフだったわけではなく、百年後にセーフである保証もない。極めて曖昧な、現代的言語感覚に乗っ取っているにすぎないのである。しかし同時に、それに乗っ取っているがゆえに、特徴的な表現としての各時代ごとの文章全体のなかでの、正当性が保証されてもいるのである。そのくらい、社会が言語を正当化する作用というものは、圧倒的かつ反論を許さないものなのである。この文章をもし、

「今日はおごるべし」

なんて言いだしたら、とたんに文章が崩れ去ることは疑いない。

 この文章は、文脈自体が、読み手の心情のピークとは関わらない可部分なので、「ect」くらいであれば、面白みを持った表現として受け取られる可能性が高いのである。それならなぜ「おごるべし」では破綻する可能性が高いかと言えば、極めて単純に、「おごるべし」が違和感を生じるほど日常会話で使用されない、「エトセトラ」という言葉以上に遥かに不自然であるという以外、理由など存在しないのである。

 そのような、表現の嗜好性の総体としてのある時点での言葉が、結局はその瞬間の言語を浄化し、かつ正当化しているのであって、そこには汚い表現も、美しい表現も、あらゆるものが籠もってはいるものの、またそれぞれに使用する人の個性に溢れてはいるものの、なおかつ総体としては時代的な正統性を与えられているのである。つまりは、文章の部分部分の時代感覚が崩れないで済むのである。



 たとえば、学生同士の恋愛物語の「お前が好きだ」という告白のクライマックスが、突然そこだけ外国語に置き換えられて、ルビが振られたり、あるいは元の意味でもト書きにされていたらどうだろう。恐らく誰もが失笑するに違いない。そしてこれは、短歌や俳句の場合でも同じなのである。それがゆえに、全体が古文の構図になっていない叙述的散文を、お勉強文法によって、情を無視してこねくり回すのは、むしろ「言語曲芸師」とか、「言葉の道化師」と呼ばれべき存在に他ならず、何を表現したことにさえならないのである。

 英語圏のなかで生活もせず、ある学者が文法一途に英詩を極めたとしても、さぞかしつまらない、霊感漲らない詩が排出されることだろう。文法とはすなわち、即生きた言語ではないからである。

 ましてや、中途半端の用法くらいしか知りもせず、古文を探究するでもなく、ただよだれを垂れ流して、「なり」やら「けり」やらを掻き集め、「ひまをあらみ」などの表現を継ぎ接ぎしたり、「たまきはる」などの枕詞を頭にぽこりと載せてははしゃいでみたり、部分部分を継ぎ接ぎして、それでもってたとえ文法が間違っていなかったとしても、そんなものに、がらくた以上の何の価値があるというのだろう。散々捏造言語を弄んだあげくに、いつの時代にもあり得ないような、広範の人々の咀嚼から生み出されたものでない、奇妙な言葉遣いを連発するばかりで、それは詩文でも何でもなく、珍文に陥ることは間違いないというのに。



 それにしても、もっと考えることがありそうな気がする。とにかく今は、古歌を頭にたたき込まなければ、私は表現についても、和歌の批判についても、明確な答えを見いだせそうにはなかった。これだけ記しておきながらも、どこか気持ちがすっきりしないのである。そうして、悩むがゆえにまた、つい古語調を持ち出したくもなるのである。きっと古語調にしたって、必然とアイデンティティを持った、優れた表現があるはずなのだ。だからといって、好き放題を極めたら、奴らと同じになってしまう……

 そんな曖昧を佇む、一月の終わりだった。

いざ君よ学び尽くせぬ古歌の
いまに紐解く結びめなるかな

十一

 子供の頃、家には口径十センチくらいの、反射式望遠鏡が置いてあった。時折はそれを庭まで引っ張り出して、星を眺めることもあった。もっとも、頼んで買って貰ったわけではない、祖母の妹にあたる人が、おもしろがって買い与えたものらしかった。自分は受動的な人間であったから、それをきっかけにして銀河への思いを馳せたのである。とはいえ、家には顕微鏡も置いてあったが、ミクロの世界へはちっとも思いを馳せなかった。沼の微生物など眺めても、スケールがちっちゃすぎて、どうにもやりきれなかった。顕微鏡は、それっきり机の下に眠っているばかりだった。やはり子供には、宇宙を駆けまわる海賊のほうが相応しいには違いないのだ。

 その望遠鏡で木星を眺めると、ガリレオ衛星さえ見つけることが出来た。土星を眺めると、輪っかが麦わら帽子みたいに広がっていた。点にしか見えない星粒に、顔があるのがおかしかった。

 秋の夕暮れは、まだしも夏の大三角の出番だった。そこには白鳥が飛んでいて、くちばしには美しい二重星があった。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中で、互いに回るサファイアとトパーズに例えられた、二重星のアルビレオである。

 望遠鏡で眺めると、一つの星が二つに分離して、それが宝石なんかよりも、もっともっと美しく思われるのだった。秋風がちょっと肌寒いのも、気にならないくらい熱心に、自分はそれを眺めているのだった。

 私の家からは、流れゆく銀河なんかまるで見えなかった。空はあの当時ですら、町の明かりにすっかり穢されていた。すぐ近くには大通りさえあって、自動車のヘッドライトが行き交う始末だった。それが当たり前の夜空だと思っていた私は、ある時、父親に連れられていった富士山で、本当の天の川の流れを目の当たりにして、星降る夜という言葉の意味を、始めて悟ったことさえあった。それからは、地球の夜景図を見るたびに、恐ろしい光にを満たしたこの国が、ヒステリックなもののように思えてならなかった。

 私は、月を眺めることもあった。眩しい時のフィルターも用意されていた。クレーターを観察しながら、ノートに写し取って、図鑑と照らし合わせて、名称を記しながら、自由課題を済ませてしまったくらいのものである。それなのに、まん丸なぽっかりを見せる『静かの海』くらいしか、今となっては思い出せない。あの頃の情熱と一緒に、記憶はどこかに抜け落ちてしまったらしい。私はなんのために、あんなに熱心に覚えたのであろうか。そんなことを考える自分が、かえって馬鹿馬鹿しかった。『静かの海』にはたしか、一九六九年、アポロ十一号が着陸したはずである。その頃にはまだ、私はこの世に生まれてなどいなかったっけ……

 近くの草原には、虫の音が響いていた。それを籠へと投げ込んで、鳴かせてみることもあったけど、もっぱら面倒くさくて、捕まえるだけ捕まえては、また離してやる方が多かった。だから望遠鏡に飽きた時には、不意に草むらへと分け入ることさえあった。鳴き止んだ虫たちが、また鳴き始めるまで待っている。それさえワクワクするような喜びだった。なにがワクワクするんだか、今の自分には分からない。不思議なくらいの、それは幼さであった。

 とりわけお気に入りはウマオイだ。あの独特の鳴き声は、何度聞いても飽きないのだった。そのかわりスズムシなんかは見かけなかった。あれはいつも、売られたケースの中でしか、実物を見たことがなかったのである。コオロギだって捕まえたけれど、なんだか黒っぽい味気なさで、ウマオイのバッタじみた美しさに比べたら、がっかりする程の見てくれだった。大抵は草むらのほうへ投げ返してしまった。奴らはそんなことでは、くたばったりはしなかったからである。僕は始めて、見てくれの大切さを悟ったのであった。

 草むらをさ迷って、響きの中に紛れていると、振り仰いだ天空からは、ぽっかりした月が照らしていることもあった。自分が小さな欠けらに思われて、私は沢山の虫たちと同化してしまい、ぽつんと突っ立ったまま、いつまでもいつまでも、神々しさに打ちのめされたみたいに、我を忘れて仰向いているのだった。

 不意に呼ぶ声がして、ようやく仕事帰りの母親が、夕飯の買い物袋を籠一杯にして、自転車を押して歩いてくる。すると私は、もう一目散に駆け出して、虫たちのことなど忘れてしまい、月のことだって忘れてしまい、夕飯のおかずのことばかり、一生懸命に尋ねるのだった。

仰ぎ見る虫鳴き夜(よる)の歌心
奏での妙さえ知らぬ月影

十二

 燻りのなかに身を投じて、燻製になるために歩いていく。そんな錯覚さえ起こる畦道を、一本道として僕らは駆け抜けた。田んぼから立ちのぼる煙が、あたり一面を荒廃させて、焼夷弾は今こそまっさらに、大地をならしていくようにも思われるのだった。

 学校で見せられた空襲の映像が、幼い僕らを、無頓着に駆り立てた。人々が右往左往しているのに、悲壮感なんかどこにも湧かなかった。ぼかんぼかんと爆弾が落ちるのが爽快だった。子供だけに、不見識なものだった。その日の帰り道、僕らは「空襲だ」と叫びながら、田焼きの真ん中を懸命に逃れていくのであった。

「敵襲だ」

 大空にジェット機の影を発見して、一人が叫び声をあげた。僕らは慌ててその場にしゃがみ込んだ。もちろん必死の形相で、全力で対処している。それでいながら、心底楽しそうでもある。そんな真剣勝負の遊びが、連続体となって連なっていくうちに、肌感覚と結びついた記憶となって、いつしか人のこころを成長させていく。僕らは無意識のうちに、互いを育て合っているらしかった。

「あっちのほうに弾が落ちたぞ」

自分は煙の発生源を指さした。

「まだ人が生きている」

「助けなくちゃ」

「馬鹿、俺たちがやられちまう」

「あんな煙じゃあ、もう助からない」

僕らは懸命に論じあった。僕らは陸軍の軍人さんであるらしかった。それでいて、兵隊のことなんて、何も知らなかった。

 なだら下がりに続く農道に、四人もの子供が伏せって騒いでいるので、またあいつらかと思って、近所のおじさんが田んぼから笑っている。

「笑っていやがる」

「後はよろしく頼むという意思表示だ。出て行ってはいけない」

僕は皆の中でも、とりわけ馬鹿であるらしかった。そんなことをいって、説得を始めたのである。みんなはもちろん納得した。ようするに、どっちもどっちだった。

 ところが、しゃがみ込んだ僕らに向かって、

「こら、お前ら。あっちで、お焼きをするから、食いにいけ」

という声が響いてきた。お焼きとは、炎の中にいろいろ投じて食うのである。

焼夷弾のことはすっかり消えて無くなった。

芋の顔がほかほかして思い出される。

なんだか、お腹もすいてくる。

煙はぷかぷか、空が高いや。



「ほんとか」

僕らは叫んで、焼夷弾の煙の中を走りだす。みんなで競争だった。僕は遅くはなかったが、どうしても一人抜けない奴がいる。ちきしょうめ、と思って走っていった。

 煙は僕らを見守っていた。たなびく煙のあと筋を、秋風はどこまで運ぶだろう。こんな煙が空に集まったら、色づき始めた暮れかけの雲が、次々と生まれるのであろうか。ある時、近所のおじさんが、雲を作るために野焼きをするんだなんて嘘を教えるから、僕はそれを本気で信じ込んでいた。実に中学生に入るまで、雲は野焼きから生まれるものだと、無頓着に思い込んでいたのである。愚か者は幸せであった。

 お焼きには、すでに二、三十人が集まっていた。待っている間には、日も沈んでしまう。夕暮れは遥か山裾のあたりで、紅のように燻りを続けている。それがまるで、お焼きの燃えさかる炎の、なれの果てのような気がして、ふと仰ぎ見ると、もう沢山の星影が、大空にまたたき始めているのだった。

「おい、あれは、火星なんだぞ」

 ひとりのおじさんが、赤い星を指さした。

「何であんなに赤いんだろう」

と質問すると、

「星で焚き火をしているからさ」

と平気で嘘を教えてくる。まったく罪つくりな大人たちであった。

「焼夷弾のふるさとだ」

仲間の一人が、訳の分からない感慨を述べたてた。僕が驚いた口調で、

「地球存亡の危機だ」

と答えたので、おじさんは思わず吹き出した。

 やがてお芋が焼けてくる。なんだか、星の赤と、夕焼けの赤と、炎の赤と、それから、このサツマイモの表面の、赤茶けた色さえも、互いに呼応して、ひとつの調和を満たしているのではないかと思われた。人々のざわつく声と、シルエットの動きとが愉快だった。それはどことなく、影絵じみていた。

夕暮れは僕らのこころの焼け野原
血潮も紅きバラードなるかな

十三

 あの頃、トンボの大群はすごかった。夕焼け色したあたり一面、トンボで埋め尽くされるのだった。

 たしかあれは家の改築で、礎石(そせき)のコンクリートに使う砂山が、庭先に山積みにされていた時のことだった。砂にはわずかの湿度が籠もるらしく、ちょっとつついただけでも、掘り進むのに最適な固さがあった。学校から戻った僕は、さっそくトンネルを掘り始めた。改築は知り合いの大工だったから、子供のいたずらには寛大だった。もちろん、機材に触ろうとするときは注意したけれど、砂のいたずらくらいだったら、山さえ崩さなければ、咎めたりはしないのだった。僕はほとんど我を忘れて、いろんなところを向こう側まで開通させていった。すると、まだ若い見習くらいの大工が、

「ずいぶん、掘ったなあ」

と釘を取るときに、僕を褒めてくれた。

「うん」

僕は自信たっぷりだった。

「ここに、自動車を通すんだ」

 もちろんそれは、オモチャのミニカーには決まっている。中でもお気に入りは緑色のスポーツカーだった。意味もなく両側の扉を開ききって、トンネルの中へ通してみせるのだった。そうやって僕は、懸命に一人遊びに興じていた。仲間のところへ向かうことは、すっかり忘れてしまったらしい。ようするに僕は、誰かがいても、いなくても、一人で遊び続けているらしかった。

 ところが、近所の原っぱの方から、みんなの声が聞こえてきたので、はっと気がついた。するともう、僕は一人では遊んでいられなくなった。トンネルさえも、急に味気ないもののように思われ始めた。ミニカーはすべて穴から取り出して、オモチャのケースに投げ入れると、砂の穴はそのままにして、

「ずるい。一声掛けてくれないなんて」

と思って、急いで走りだしたのであった。



「おおい」

と手を振ると、

「何やってたんだよ」

とみんなの声が響いてくる。僕はさっそく仲間に加わった。

 遅れてきた罰として、真っ先にオニの役をさせられてしまった。しかし、実は逃れるよりも、捕まえまくりのオニのほうが、自分は好きだったのである。そうやってみんなで走り回っているうちに、次第に西日が陰ってくるのだった。

 夕暮れが近づくと、豆腐屋のラッパが高らかに鳴り渡った。やがて遠くから、

「八百屋」

という声まで響いてくる。うちの近くには、移動式のトラックの八百屋が、夕方になると必ず、新鮮な野菜やら海産物やら、肉やら魚やら、さらには子供のオモチャやらガムまでも、一緒にならべて売りさばくのだった。

 だから自分も、しばしばそこで駄菓子を購入した。それは、すぐ近くの砂利道の途中だったけれども、貰った百円玉を上に放り投げているうちに無くしてしまって、最後には泣きながら探していたことさえ今でも覚えている。その時は、まるで地球存亡に関わるくらいの、出口の見えない悲しみに捕らわれたものだった。今でもときどき、あんな率直な大声を上げて、泣いてみたいような気もするのだけれど……

 もちろん、その日は八百屋にはいかなかった。ちょうど鬼から逃れるので、精一杯の時分だったからだ。賢也(けんや)が僕を生け贄に捧げて逃げたので、追い込まれた僕はピンチに立たされた。鬼の魔の手が迫ってきた。けれども鬼は恭ちゃんだったから、ちょっと気を緩めて、掴まってやろうかとも考えた。思えば小さな初恋じみていた。

 そうやって遊び疲れた頃、誰かが空を指さして大声を上げた。

「どうした」

全員が振り仰ぐと、トンボが押し寄せてきた。

 さっきまでは僕らの合間を、時折すり抜けるくらいだったトンボが、オレンジに染めかけの空一面に、赤々とした尻尾(しっぽ)をなおさら赤く、大群となって押し寄せてくるのだった。

 奴らは西空を横切るみたいに、北から南へと飛んでいく。空き地のあらゆるところが、すぐそばのススキやら野菊の上やら、どこもかしこも、トンボの休憩で一杯になってしまった。自分の肩にまで止まってくる。しばらくは驚くに任せて見守っていたが、今度はそれを捕まえようとして、指をぐるぐるさせたり、人差し指を天に向かって伸ばしてみたりするのであった。

 トンボは実にたやすく捕まった。捕まえたトンボを、腕でぐるぐると何十回も振り回して、いきなり空へと放してやると、奴らはコントロールを失って、酔っぱらいみたいになるのがおかしかった。そうやって遊びつくしても、トンボの大群はまだ止む気配はなかったのである。

 群れは、遠くに控える山並みの方から、反対の方へと向かっていくらしかった。

「山を降りて来たんだ。秋だから」

と誰かが説明した。

 西空にキラキラ光る宵の明星が、たなびく雲にすっと隠されたとき、夕風がまた、さっと吹き抜けるのだった。そうして僕らが、トンボの歌を口ずさんだり、また追いかけっこをしている間に、いつしかトンボの姿は、急にまばらになってしまうのであった。

 なんだか不思議な思いがした。奴らはどこへと向かったろう。みんなは、夕飯の時刻が近づいたことを悟って、ようやくお開きにするのだった。

僕らよりとんぼの羽より軽やかに
明星(みょうじょう)さえぎる何の雲かも

十四

 岬の夕暮れに、灯台は立ち尽くす。猛り狂うほどの荒風(あらかぜ)は、わたつみの神が入り日を惜しんで歌う、どなり歌でもあるのか。すさまじい勢いで私の頬を打ちつける。

 潮の音が、ドドーン、ドドーンと響いてくる。入り日は見えない。灰色の雲がしだいに、あたり一面の色彩を、奪おうとする狭間に怯えて、はるか崖下まで震えるような低木が、ばさばさとした音を立てるのだった。

 味気ないような観光案内のボードが、灯台の説明を加えている。灯台の明かりには、「カンデラ」という単位が使用されるらしかった。それから、地形を表現する「崎」の文字ではなく、「埼」の文字が当てられるということも記してある。これは船舶から見た、しるしといった意味で命名されるらしい。風が冷たくて、頭が鈍くなる。なんだかよく分からない。私はいい加減に読み流して、すぐ先にある階段へと足を進めた。

 木枠で斜面を押し留めただけの、極めて急な階段が、老人どもの観光客を、寄せ付けないくらいの危うさで控えている。強風が打ちつけるごとに、心を奪われて足を踏み外し、階下に転落してしまうような、そんな錯覚にさえ囚われる。

 片方だけの手すりを握りながら、ひたむきに登っていった。ようやくコンクリートを踏みつける。もちろん灯台の上ではない。礎石(そせき)の見晴台である。ぐるりと手すりで渡して、一周できるようになっているが、こんな寒い曇り空の灯台に、訪れる人などいない様子だった。

 海は西に開けていた。北にも開けていた。晴れきった夕暮れには、どんなに入り日が美しいことだろう。今はただ、ぶっきらぼうに味気ない。

 強風が、目覚めかけの春の喜びを、木の芽ごと奪い去るように、しならせの枝を駆け抜ける。私の頬をも打ちつける。灯台を打つ風切り音だろうか、ウウゥーと不気味な悲鳴をあげている。荒波はドドーン、ドドーンと音を立てる。私は海を眺めるのだった。

 私は、これでもいぶん生きてきた。そうして何もなしえなかった。けれども私は、何かをなそうとした訳でもなかった。ただ毎日を怠惰に過ごすばかりであった。おかしいことだろうか。大方の人間が、本質的に何をしようとするでもなく、毎日を生きていくだけなのは、間違いなのだろうか。それが人間の自然な営みであって、それを懸命一途と、夢やら希望やらを押しつけて、そのくせ現実は、夢やら希望やらとはほど遠い、ひどく味気ないものに過ぎなくって、誰もがあっぷあっぷしているのではないだろうか。

 海は答えない。それでいい。海は答えてはならないのだ。誰に対しても答えないことが、私たちのこころを慰めてくれる。ただ白波の形相を眺めながら、私はつかの間、諦観を続けるのだった。

 私は記憶の荒野を振り返る。振り返ると、振り返るごとに、惨めな想い出が、岩盤に打ちつけられるような気がする。それはいつも、私の影となって、自分の心を責め立てる。だから振り向かない。ただ、悲しみが押し寄せてくるときには、そっと遠くを見つめながら、

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

また、中原中也の詩の一節を、虚しく口ずさむのだった。

 誰もが子供の頃は、何かになれるものだと信じている。そうして、無邪気にはしゃいでいる。けれどもほとんどの人は、こころの雄大さに比べたら、極めて矮小なものにしかなれやしない。大志と見るにはあまりにもちっぽけな、日々の職務の際に追いやられて、消費と労働を繰り返す部品みたいになっちまって、与えられた娯楽を握りしめて、見知らぬ何ものかに飼育されながら、それとも気づきもせずに、朽ち果てていくだけなんだ。けれども、その飼い主は誰なのだろう。



 悪魔?

 馬鹿馬鹿しい。おとぎ話も大概にしろ。奴らはいつだって、飼い慣らすことすら出来ずに、しどろもどろで逃げていくじゃないか。

 神?

 冗談は止してくれ、奴が人間のことなんか、気にする訳がないではないか。人間から見たら、蟻はみんな蟻にすぎない。神からみたら、人間はすべてがただ人間には過ぎないんだ。それ以上のものでは決してないに決まっている。

 それじゃあ、経済?

 けれどもそれは、社会的活動の営みの結果生まれるものである。我々が回しこそすれ、どうしてそれに雇われなくってはならないんだ。

 だとしたら、国家?

 けれどもそれは、我々の選び抜いた代表によって運営されるものである。戦後の民主主義社会において、支配階層はもはやいなくなったはずでは無かったか。

 結局、飼い主は我々自身。つまり我々の望みそのものであって、安全に、部品のように、回転しながら、娯楽という名の餌を享受することだけが、戦後社会の目指してきた終着点なのだろうか。今こそ我々の理想社会の完成であって、それゆえにこそ部品からはぐれた者たちは、行き場を失って、たやすくも自殺に追い込まれるのだろうか。

 全員一斉に、虚しく経済を回転させて、自分自身も回転させられて、それで消費だけを極めて、経済大国へのし上がった。けれども、何のために?

 馬鹿げた話だ。私は何も考えまい。考えたって報われない社会を築いたのは、自分じゃないんだ。なぜ自分が煩う必要がある。第一自分は、いつもそこから阻害されっぱなしじゃないか。なぜよりによって私が、その事を思い悩んでやる必要があるのか。それとも自分も結局は、無責任へ逃れたがる、一塊の部品に過ぎないというのか。



 大自然の冷たさ、素っ気なさは、こころの虚しさを慰めてくれる。油断するな、生きているだけで有り難いと思え。わたつみの神がちょっと戯れただけで、お前たちは海の底に飲み込まれちまうんだ。そんな強風が打ちつけがてらに、私の心にささやくのだった。



 だんだん、色彩が損なわれていく。

 私の悲しみも損なわれていく。

 人は同じ情緒には留まってなどいられない。生々流転、思想だってそれから免れない。海は素っ気なくも雄大で、遠くの方に夜釣りでもするためだろうか、いくつかの漁船の姿が、ようやく明かりを灯し始めたところである。

 単純な私の情緒は、それと同時にちょっと嬉しくなってくる。

 すると不意に煌々とした光が、灯台からかなたへ向かって、真っ直ぐに放たれた。まるで漁り火と呼応して、自動点灯した様子だった。

 私の気分は回復した。それは新鮮な喜びであって、吹き抜ける強風さえも、その瞬間には心強いもののように思われたからである。

 そんな単純なおかしみが湧いてくるのに任せて、子供みたいな純真に心を委ねて、自分はしばらく西の海を眺めていた。ポケットに手を突っ込みながら。

わたつみのみやこも知らぬ海原(うなはら)の
漁(いさ)りも待つや宵のカンデラ

十五

 挫折という言葉を始めて噛みしめたのは、あれは幾つのことだったろう。近頃では歪んだかたちして、こころが戻らないくらいに、私の精神は怠惰に折れ曲がってしまったらしい。どこから先が挫折の領域やら、見当すらもつかない有様である。無様が服を着て歩いている。時々は、そんな思いすら湧いてくる。哀しいことだ。けれども、あの頃は違っていた。それはまだ、人生にとっての、一大問題には違いなかったのである。

 もちろん私は、三重跳びだって出来なかった。泳げなくて、夏休みのプールが恐ろしくって、引きずられながら学校に連れられていったこともあった。鉄棒からずり落ちて、脳震とうを起こしたことさえあった。

 それでもへこたれなかった。何度でも踏ん張りを重ねて、やがては出来るようにしてみせた。そのうち、そうやってクリアすることが、人生の喜びなのだと気づき始めた。果敢になった私は、何にだって挑戦して見せたのである。

 Ⅰ度とⅤ度の和音が分からないとか、誰彼に走っても追いつかないとか、そんなのは必ずしも、挫折とはならなかった。挫折という言葉は恐らく、それを一途と生涯を定めて志した何ものかが、ポキンと折れる瞬間を指すものである。幼い子供にふさわしい言葉では、そもそもないのであった。

 けれども、いわゆるその場その場での小挫折なら、四六時中あった。それはやがて訪れるべき、人生唯一の本当の挫折に、対処するための予行練習ででもあるらしかった。今でもよく覚えているエピソードすら、幾つも残されているくらいである。



 それは、文化祭の出し物を仕上げている時のことだった。私は無謀にも、なんの知識もなく、割り箸で作ったヘリコプターを、ゴム動力で上空に持ち上げることを思いついたのだった。その時は、いわば創作オモチャの展示会だったから、みんなは地に足のついた、無難なものばかりスケッチに描いていた。私にはそれが気にくわなかった。

 スケッチの発表の時は、私は得意であった。みんなは、

「すげえな」

「本当に飛べるのか」

なんてがやがやしたので、私は、自分がつかの間人気者になったような喜びで、わくわくしていたのである。もちろん先生は、泣き寝入りは目に見えているものだから、

「ものを飛ばすということは、画に描いたようにはいかないのですよ。けれどもまあ、懸命に挑んでみなさい」

と諭しがてらに応援してくれたのであった。

 もちろん中には、私と同じような無謀組も何人かいた。竹ひごのレールで、ジェットコースターにボールを走らせるスケッチを描いた奴もいた。市販のものを真似たに過ぎなかったが、何しろ装置が込み入りすぎていた。実物が仕上がったとき、玉はどっかへ飛んでいってしまった。彼の作品は、ただの竹の模型として展示されたのである。それでも、なかなか大したオブジェだった。

 ある奴は、竪琴のリラを作ろうとしていた。これは形だけは、すばらしいものが出来上がった。意気揚々として、作品を発表したものだった。けれども、楽器の響きがしなかった。これも、やはり置物だった。もっとも、当人は失敗だとは考えていなかった。辛うじてゴムのビュンという虚しい音が響いたから、先生も苦笑して咎めなかった。

 女の子のなかには、人形を作ってくるものも多かった。もちろん、これらは大抵は成功だった。中には、わら人形みたいな恐ろしいものも混じっていた。夕暮れの音楽室にでも見かけたら、泣き出す子供が続出することは目に見えていた。けれども、当人はやはり気にしていなかった。人の美的センスはそれぞれであると、私は無意識に悟ったものである。

 同じ人形でも、手足を動かそうとした祐一(ゆういち)の作品は、はかない失敗に終わった。スイッチを入れたとたんに、動き出すはずの両手が、ぼとりと落ちた。祐一は泣き出した。みんなは笑い出した。足はとうとう、一歩も動かなかった。どうやら男子のほうが、高望みの傾向が強いらしい。イカロスの馬鹿さ加減を指さして、現実主義に咎めるのが、どうやら女の役割らしかった。

 もちろん自分だって、最後まで格闘し続けた。はじめプロペラさえ回せれば、胴体は浮かび上がるとばかりに信じていたが、飛行とは、そんな生やさしいものでは無いらしかった。ロウで作った鳥の羽くらいで、羽ばたけるものかどうか、イカロスの逸話さえも、はなはだ嘘くさいものに思われてきた。あんまり苦しくって、親父に尋ねてみたけれど、親父は家にまで仕事を持ち込んで、せっせとこなすのに忙しく、私にはあまり構ってくれないのだった。

「ゴムの数を増やせ。機体の重さを減らせ」

とばかりいって、バランスのことは、すこしも教えてくれなかったのである。そうして母さんはといえば、

「そんな、ややこしいこと考えないで、前にプロペラを付けて、飛行機にしなさい」

と極めて女らしいアドバイスを、尋ねるたびに繰り返すばかりだった。私はかえってムキになって、ヘリコプターに取りかかる毎日だったのである。

 最後の三日間は、ほとんどなみだ目であった。完成が間に合うかどうかよりも、自分の発想に勝てなかったという屈辱が、私を惨めに染めていくらしかった。でも、恐らくはそんな経験を山ほど持たなかったら、人は人として成り立たないに違いない。すべてを手際よく、マニュアルを眺めるみたいに、成功させることになんか、わずか一パーセントの価値すらも、ないのだということを今なら言える。しかし当時は、そんなこと知り得ようはずもなく、ただただ悔しくってならなかった。

 重ね重ねて思い煩った、

果ての間に間の成功と挫折。

諦めと達成の連鎖が、

人を築き上げていくらしかった。

 そうしてそれは、お勉強の解けることよりも、全身を極限まで駆使した必死の遊びの最中(さなか)から、手足を動かした全力の活動の営みから、ようやく身につけられるものらしかった。そうして教育も学校も、そのためにこそ、まずあるべきらしかった。

 今ならそれを自信をもって言える。だが、飛べないプロペラを前にした私に、なにが悟れるというのだろう。いっそ、それを踏みつにしけて、壊してしまいたい衝動に駆られるくらいだった。それから助けてくれない両親を恨んで、なおさら悲しくなるのだった。

 前日には、とうとう堪えきれなくなって、わあわあ泣き出してしまった。もちろん悔し泣きだった。父も母も慰めてはくれなかった。それが教育というものらしかった。今は悔しさに浸らせるべきだと、彼らは考えたのである。もちろん幼い私は、彼らをつかの間恨んだ。けれども数日したら、けろりと忘れてしまっていた。

 ようするに、ヘリコプターは飛ばなかった。ただの置物として、竹ひごのジェットコースターの横に並べられていた。少し離れには、歩けなかったロボットも置かれていた。腕はガムテープで止められていた。しくじりにあふれた、凄惨な展示場であった。

 しかし、眺める大人たちにとって、すべてはガラクタくらいにしか思えなかったに違いない。彼らには子供にしか見えない、驚異の世界はもう分からなくなってしまっていたから、ただ誰ちゃんのは整っているとか、そんなことばかりをおしゃべりして、またすぐに、次の教室へと向かってしまうのだった。

 その日はさすがに悔しくってならなかった。よどみなく流れてきた人生が、躓くやいなや永遠に、私を堰き止めてしまうような、やりきれない思いがのしかかってきて、友達も誘わずに家路へとついたのだった。

 とぼとぼ帰る河原のあたりで、私は石につんのめった。大地に転がって、膝をついたとき、秋風に吹かれた夕空に、にやけた三日月が浮かんでいた。悔しさと痛みとが一緒になったような屈辱で、自分はまた泣きだした。

はしょってた僕のいのちのつまずきを
膝つき見るや秋の三日月

十六

 あの頃、庭さきに広がる畑には、隅のほうには花も植えられていた。初夏の息吹を期待して待ちわびる、そんな長雨の合間には、いつしかパンジーに代わって、赤い花が開くのだった。それはまるで、雨粒とたわむれるような仕草を見せていた。しとしとを忘れた五月晴れがぱっと原色を返すとき、驚くほど鮮やかに菜園の緑が色づいて、中でも際だって美しいのは、その紅色を揺らす花たちであったのだ。

 原色図鑑の錯覚に見とれていると、ポカンとした子供を見つけた近所のおばさんが、

「どうしたのか」

といって寄ってきた。

「この赤い花は」

と思わず口にしてしまう。

 恐らくは、なんでこんなに鮮やかなのかと聞こうとしたのが、子供ながらに馬鹿のような気がして、途中で止めてしまったのであった。ところがおばさんは、その名前を尋ねたのかと勘違いしたらしく、この花は「てぃんさぐぬ花」だと教えてくれた。幼いわたしは、その花が鳳仙花であることをすでに知っていた。だから、

「違う違う。これは鳳仙花なんだ」

と慌てて訂正を試みた。おばさんは笑っていた。

 おばさんの生まれ故郷では、そういう名称で、鳳仙花を呼ぶのだそうである。呼ぶと「てぃんさぐぬ花」は、まるで答えでもするように、柔らかく風に揺れるのだそうである。そうして赤色はもっともっと眩しくて、じっと見つめていられないほどの赤なのだそうである。わたしはおばさんから、その不思議なふる里の話を、いろいろと聞かせて貰うのだった。

 そのうちおばさんは、まるで不思議な呪文でも唱えるみたいに、穏やかなフレーズで、歌を口ずさむのだった。それが「てぃんさぐぬ花」の歌なのだという。沖縄の民謡だと知ったのは、ずっと大きくなってからのことであった。



 梅雨が過ぎ、また時が流れて、秋風の予感のする頃になると、花の色を忘れた鳳仙花に、小さな実が並び始めるのだった。わたしはそれを見つけると、必ず指先に突っついてみた。するとある時、突っついた拍子に、実が弾けるみたいにして、ぱっと種がまき散らされるのだった。種は小さくって、ただ黒くって、子供が意味もなく集めてしまいそうな、手頃な愛嬌があった。かといって集めても、なんの用途も思い浮かばないのだった。

 ただ、弾ける瞬間が楽しくて、こころまで一緒になって弾けるような気がして、気が付くたびに指先で突っついては、種子を飛ばすのが日課となっていた。それから何気なく空を眺めると、不思議なくらいに秋空が、どこまでも突き抜けるように思われるのだった。わたしはその向こう側を見極めようとして、「てぃんさぐぬ花」の種子を握りしめたまま、いつまでも空を眺めているのだった。それからおばさんに教わったあの歌を、一人で口ずさんでみるのだった。

 あの頃は、そんな喜びの感覚だけを友として、人は一生を送れるものだって信じていた。そんなたわいもない、あの頃の感覚が、今ではたまらなく遠く思われるのであった。

はじけてたやんちゃごころの鳳仙花
なくさないでね勤め間に間に

十七

 春の海は、寒さと暖かさの対話みたいだ。紫外線を突き刺す日射しが、初夏の暑さを伝えようとすれば、ちょっと陰ったときのぶち当たった風は、痛むくらいの冷たさを残している。真昼日なのに、こんなに人気(ひとけ)が少ない。踏む砂の音は静かに、波間は穏やかに、靴を濡らそうと迫って、諦めたみたいに遠ざかる。それが幾度も幾度も、絶え間なく繰り返しては、決して飽きることを知らなかった。

 遠くの方では、海鳥が飛んでいる。幾羽にも重なってたわむれるのである。夜釣りの面影を残した、疲れ気味の船が行き過ぎる。向こうの弓状の湾になった先には、岬の観光ホテルが建っている。釣船はもっと手前の、気取らない桟橋あたり寄せるらしい。だんだん陸(おか)へと近づいて来る。水平線は遙か遠くだ。

 自分は、手持ちぶさたになってきた。意味もなく、蟹穴に棒を突き立ててみた。それからちょっと掘ってみたけれど、蟹は隠れたまま姿を見せなかった。あるいは留守なのかも知れない。

 なんだ詰まらない、と思って、ビーチコーミングを気取ってみる。もっぱら丸いガラス片と、それから貝殻だ。今時分、子供すら探しに来ないのだろう、綺麗な貝殻があちこちにこぼれ落ちている。みんな波の忘れ物だ。

 採取の目的もない暇つぶしだから、手頃な大きさのを探し回っていると、同じ貝とは思えないくらい、それぞれに美しさが違って見える。肌が滑らかで、自然のままに光沢を放つ貝殻がある。かと思えば、岩から剥がれたみたいな、ごつごつの表情もある。

 そんなごつごつに限って、必死にパテを塗りたくって、どうにか偽物の光沢を放とうとして、人々から軽蔑を買うものであるらしかった。わたしたちはみんな美しいものを、交互に求め合っているはずである。それは外見の場合もあるし、中身の場合だってもちろんある。それにしても、偽物で外側を塗りたくって、偽物の香りをまとわりつかせて、貝殻の中身はすっからかんな貝殻を握りしめるくらい、虚しくなることはないんだ。

 不意にむかし聞かされた、ある童話を思い出した。それは、良き景観と相応しい服を着こなした人々の島と、安い素材と商品看板とよれよれの服を着て、嘲笑を求める人々の島、それから見てくれだけが生きがいなってしまった、化粧いちずのエゴの楽園という物語であった。

 思えば、ずいぶん過酷な童話を子供に聞かせたものである。その締めくくりには、自然な美しさ、安っぽくない外見を求める心は、かならず同じように内面を形成する。外見と内面はひとつに繋がっている。奇抜なファッションを極める人のこころは、必ずとげとげしい。けれども外見にぼろ切れをまとっただけの人のこころは、それよりももっと乏しいに違いない。といったことが記されていた。あるいは、バランスの重要性を訴えたかったのかもしれないが、子供にはよく分からないエンディングだったような気がする。もう幼稚園頃の話だ。

 わたしは、列車に描かれたコマーシャルのことを思い出す。外的に虚構を求める人間は、かならず内面に虚構を求める。外的に商品を追求して、公的なあらゆる箇所に商品のコマーシャルを連ねた国民は、かならず内面においても商品くらいの価値しか持たないのではないだろうか。

 わたしは淋しくなって、また貝殻を探し始める。波がからかうみたいに、靴のところまで寄せてくる。慌てて浜へ逃れると、それに合わせて、小さな貝殻が流されてきたらしかった。

 何気なく取り上げてみると、それはピンク色の貝殻だった。小さくって、柔らかくって、気取らなくって、それでいてさりげなくオシャレで、まるで桜の花びらのように思われた。それを眺めていると、不意に向こうから、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。

 貝殻を手の平に包んで、思わず振り返った。遠くで紫外線をよけるみたいな白いパラソルが、大きく揺れていた。パラソルはだんだん近づいてくる。それから、空いた方の手を一生懸命に振っている。わたしは、ずいぶん待たせやがってと、ちょっと怒ってやろうとしたのだけれど、彼女を眺めているうちにすっかり忘れてしまった。

 近づくあの人に、さっきのピンク色の貝殻を見せてやるんだ。

 手の平をそっと開くと、

「わあ」

という声がしたのは嬉しかった。それから大はしゃぎになって、二人はしばらくの間、同じような貝殻を探して回るのだった。そうして遊び疲れたならば、二人で一緒に昼食を取ろう。まだ今日という日は、始まったばかりなのだから。

桜貝みつけた波間のよろこびと
パラソルみたいな僕の恋人

十八

 「あるひは横町」と書かれた看板を曲がると、謎の商店街が広がっていた。普通の人には場違いな、不思議空間に紛れ込んだような気がして、僕らはちょっと踵を返しかけた。

「なんかおかしくないか」

 僕が尋ねると、彼女はだらしないわね、といった仕草で、ともかくも進んでみましょう、近道には違いないのだからと答えるので、横町に踏み入れる決意をしたのである。

 見た目にはごく普通の、大正時代を復元したような、こざっぱりとした商店街であった。自動車の進入が拒否されていて、店舗ごとの和風なつくりの奥に、和服を着た店員が控えている。だからといって行き交う人々は、着物を着ているわけでもなかった。

 喫茶店をひとつ抜けると、さっそく、

「切り貼り工房おくのほそ道」

という店に出くわした。着物を着た中年女性が、奥の方でふたり、その辺の九官鳥のおばさんじみたしゃべりをしているので、思わずげっとなった。服装と品性とがまるで噛み合っていない。

 見せ棚のところには、「あらたふと」だの、「ねまるなり」だの、「なみのまや」、あるいは「いうぢよもねたり」なんて札までびっしりと並べられているのでびっくりした。みんな破格のお値段である。

「いらっしゃいませ」

 話を止めたおばさんが、めざとく見つけて近寄ってくる。彼女のお友達は、それじゃあと言いながら、店を逃れたらしい。何か物足りない表情をしている。どうせ買い物途中の無駄話だったに決まっているのだ。僕らはこの札はなんに使うものか、気になるところを尋ねてみた。

「あら、ご存じないんですの。お客様ったら。これさえあれば、簡単にわたくしどもの、美しき日本語復興運動にだって、参加できるんでございますのよ。つまりはこれを用いまして、しごく簡単に、俳句や短歌を穢れた現代語から、救出することが出来るんでございます」

というのでびっくりした。現代語が穢れに満ちているなんて初耳だ。思わず二人で目を丸くしてしまった。店には芭蕉だけではない、蕪村やら一茶のコーナーも設けられている。もちろん正岡子規のコーナーも用意されていた。けれども飯田龍太(いいだりゅうた)のコーナーは存在しなかった。あるいは、十九世紀生まれの俳人までに限っているのかもしれない。隣の彼女が、

「どうやって、使うの」

と聞いてみると、おばさんの顔がぱっと明るくなった。それは商売の喜びというよりも、手持ちぶさたのところを、聞き手が出来て嬉しかったような表情であった。

「こうするんでございますのよ」

さっそく僕らを、奥の方へといざなったのである。

 不思議なことに、そこにはまるでATMくらいの大きさの、画面の付いた装置が据え置かれ、おまけに操作すべき手元には、キーボードまでも設置されていた。

「お試しですから、もちろん代金はいただきません」

なんて前置きをしてから、おばさんは機械にキーを差し込むと、キーボードでもってパスワードを入力した。画面が「ピッ」と音を立てて、「お試し運用」と表示される。それから無意味に子犬のキャラが駆け抜けるので、彼女が、

「かわいい」

と好奇心を示す。こらこら、そんなところに、引っ掛かるものではない。僕は内心ひやりとした。

 おばさんは、さきほどの札を横の溝へと差し込んだ。どうやら読み取り式のカードにでもなっているらしい。

 早速画面に、

「短歌」「俳句」「山頭火」

という三つのカテゴリーが表示された。

「うちの店は、なんといっても芭蕉でございますから、基本は俳句でございますわ」

なぜ「なんといっても」なのかは分からない。おばさんは、緑色の「俳句」と書かれたタッチパネルのところを、人差し指でチェックした。するとたちまち、上中下に三分割された言葉を記すべき領域が、僕らの前に表示されたのである。

「あら、面白そうじゃない」

 彼女はすぐ取り込まれてしまう。僕はなんだか気が進まなかった。早くも結論が見えるようで心が冴えなかった。おばさんの差し込んだのは「あらたふと」である。

 画面には、三分割の上の句の部分に、「おすすめ」と記されたマークが点滅している。おそらくは中句、下句にも入れられるが、そこがもっとも効果的だとでもいうのだろう。

「初心者は、まずは、おすすめに従うべきでございます」

と勝手にルールを決め込んでいる。また触れてみせると、さっそく「あらたふと」という言葉が、上部に表示された。また子犬が走り抜ける。彼女が、かわいいと言ってはしゃぎだす。まんまと店の策略に引っ掛かっている。この間、ケーキ屋さんで余分に買わされたことを思い出して、僕はちょっと苦笑い。

「後はこのペンでもって、画面に記していただくか、あるいはキーボードで打ち込んでいただければ、誰にでも簡単に優れた俳句が生み出されるという訳でございます」

 おばさんは説明がてらに、解説のところに貼り付けてあるお手本を眺めつつ、その通りの文章を打ち始めた。

「この札は、あら尊いなあ、くらいの意味でございますの」

なんて説明を加えている。中の句のところに、

「歩って見つけた」

と記すと、

「こちらをごらんになってください。まだ季語がないので、季語のマークが点滅しておりますでしょう。季語を打ち込むと消えますのよ。また季語の分からない方には、この自動マークを押していただきますと、ちょうどいま旬の歳時記が、自動的に挿入されるというわけでございます」

なんて言いながら、自動のところに触れてみた。すると、下の句のところに「夏木立(なつこだち)」と表示されたので、上中下を合わせて、

あらたふと歩って見つけた夏木立

という、時代の不明瞭の文章が表示されてきた。

「もちろん、これでも古語が穢れに満ちた現代語を、柔らかく包み込みまして、まことに美しい響き。皆さまあこがれ一途(いちず)の大和言葉に変貌を遂げますから、このようにして俳句をたしなむプロの方もいらっしゃるくらいのものですけれど、やはり基本は、この変換ボタンを押していただきませんと」

と言いながら、「変換」という表示を触れてみる。すると、

あらたふとありき見つけや夏木立

 まるで滅茶苦茶な文体が編み出されてしまった。「歩いて見つける」という叙述的なくどくどしさが、圧倒的に現代的なのに、古語調に変えようとして、変な言葉が生み出されてしまったのである。しかしおばさんはへっちゃらだった。

「さすがでございますわねえ。芭蕉と見分けの付かないほどの整頓された、これな俳句はいかがでございましょうか。これは現代俳人のさる著名なお方に、わざわざお願いして詠んでいただいたんでございますのよ」

と自分ながらに見とれている。

「特にこの、歩いていて、ようやく見つけた夏木立の、尊さが滲み出ていると申しますか。誠に、誠にすばらしい表現でございます。ビューティフルでございます。ワンダフルでございます」

と大いに賛している。完成を喜んで、さっきの子犬が画面上で跳ね回っている。彼女はそれにつられて喜んでいる。まったくだらしのないことである。

「そうそう、この『ねまるなり』なんて、新進気鋭の若手の方が、すばらしい句をお詠みなさって、このあいだ番組で表彰されたばかりでございますのよ」

なんていいながら、また装置に差し込んで、今度は名句紹介というモードに切り替えた。

「先にこちらで、名句を詠んでいただいて、それからご自身で作っていただくのがお勧めなんでございますの」

なんて説明しながら、名句の最新と書かれたところを触れてみせると、

菓子の茶を飲んでおいしくねまるなり

なんて、時代設定を無視した、いつの時代にもない不可解な言語が、堂々たる御姿(おほんすがた)で表示されたのには驚いた。

「これこそ大和ごころでございます。この『菓子の茶』なんて、着眼点が大変よろしゅうございます。『おいしくねまるなり』なんて、わたくしには到底思いも及ばない表現でございます。至高の極みでございます。世にも尊ぶべき稀香(まれか)の極致でございます」

 自分が首をかしげて、稀香とはなんのことだか悩んでいると、おばさんは、

「さあ、さっそく一つおやりになってみてくださいまし」

なんて勧めてくるので、またびっくりした。

「いや、ごめんなさい。今日はこれから親戚のうちにいかなければなりませんから。帰りにでも、ゆっくり寄りますよ」

そう答えてから、慌てて店を逃れたのである。もちろん、おばさんは善意そのものだった。

「そうでございますか。ぜひあなた方のような若者の皆さまにも、美しき、尊き、ありがたき日本語の伝統を、これからも大切になさって、受け継いでいって欲しいものであると、わたくし、とうとうと思ふしだいなんでございますのよ」

なんて訴えながらにパンフレットを手渡すので、邪険にも出来ないから、

「ありがとう」

と礼を言って、ようやく二人して店から逃れ出たのであった。

 横町の商店街には、まだまだ「万葉のおもむき屋」だの「和歌の下句焼(しもくやき)」だの、さまざまな看板が軒を連ねている。僕らは顔を見合わせて、それから思いきり走りだしたのであった。アーケードを一気に駆け抜けると、振り向きざまに大声で笑いだす。

「すごいや、あれが美しい日本語なんだってさ」

「本当。びっくりね。こんなところがあるなんて。新しい町おこしかしら」

「うん」

僕はしばらく考えていたが、

「そうじゃないんだろ。むしろ和歌だの俳句だのが、一般の人のこころから離れてしまったから、あたりきの言葉でもって、詩を作ることすら出来なくなってしまって、かといって昔の言葉による古典主義を全うするでもなく、不可解な言語を弄び始めているんだ。あんまり、よい傾向ではないと思うけどな」

「でも、勝手にさせておけばいいんじゃないの」

「まあ、今のところはね。けれどももし、奴らが捏造言語をこの世に広めようとして、お金を巻き上げたり、添削なんかし始めたときには、やっぱり誰かが注意しなくちゃならないと思うけどな」

僕はつい真面目になってしまう。けれども彼女は、

「ええ、そんなの面倒だよ」

というので、僕もすぐ面倒な気持ちがしてきた。

「うん、面倒だね。そんなことより、波止場にでもいって、海でも見ようよ。変な日本語の口直しにさ」

「口直しに?」

「そうさ」

と僕は彼女の手を握りしめると、気を取り直して日射しの中を駆け出したのであった。

けったいなほら吹きどもをけちらして
波止場へいでて君をいだこう

十九

 かといってわたしは、擬古文には大いに引かれるものがある。現代文の叙述の極まりをもって、そのまま古文調に体裁だけを整えるものは、あれが古文と関係するとは思えない。それは偽古文(にせこぶん)、あるいはエセ文語であるには違いない。けれども、特徴的な文体の傾向といっしょに運べれば、それで今風のことを詠んだって、違和感の感じられない、一つの文体を生みなすことだって、出来そうな気さえするのだけれど。

 それにしても古文調が、和歌や短歌の表現として相応しいのであれば、なぜ古典を研究なさっているような学者やら愛好家の皆さんこそが、現在の短歌のメインストリートを形成しないのだろう。かえって中途半端な古典知識しか持たないような、不思議な言語を弄びたがる謎サークルが、のさばっているのはなぜだろう。そうして和歌の研究者の皆さまは、内心思うところがあるような記述をそれぞれにしているのに、それを口に出すこともなく、

「いやあ、わたしは、今の短歌のことはよく知らないんですよ」

なんてすっとぼけるのはなぜだろう。これは卑怯でもあり、研究者としては最低の行為ではないのだろうか。過去の和歌の本領を探求するなら、それをもって未来の和歌をよりよくする働きかけを起こさなかったら、探求の意味さえないのではないか。歴史はカタログ化のために存在するものじゃない。未来の一歩の礎となって始めて、唯一の価値を持ち得るものなんだ。だから、そのような社会への働きかけにこそ、単なる学問探究だけでなく、力をそそぐことがなくなったとしたら、その学究が文化にすらも寄与せず、社会への働きかけのまるで無い、おたくとか呼ばれる最下層の趣味人と、なにも変わらない事にもなってしまうではないか。

 どうして彼らは、雑誌を拠点にお城さこしらえる、謎のサークルからは離れたところで、強権ぶって添削などをなさったり、企業募集の俳句などの選者に、のこのこ出かけていって、お歴々ぶったりしないような集団による、同業者ギルドのような共同体を作って、そこを拠点にして、張りぼてのお城に対抗したりしようとは、なぜ思わないのだろうか。

 結局、そんなことはどうでも良いことで、和歌の伝統なんてどうでも良いことで、目くじら立てるほどのこととてなくて、なあなあに暮らしていければ、それでいいのだろうか。

 けれども、それはいけないことだ。どんな事柄にだって、自分の好奇心の赴く時には、本気で考え抜いて、本気で議論をして、正邪曲直、退廃と邁進を突き詰めるほどの姿勢だけが、スポーツだろうと、政治だろうと、生き方だろうと、文化だろうと、それらをよりよくし、また流行りだけに終始しない、伝統の継承のためにだって、絶対に必要なことなのだ。

 そうしてこの国では、真剣に語り合うことをまるで格好悪(かこわる)のように、幼い頃から生真面目なところを交互に糾弾し合って、なあなあのルーズな思想へと導こうとするような、不気味な教育システムが完成してしまっているのである。教師までもが、とにかくこれさえ覚えておけば式の、無意味な教育を繰り広げているのであった。そのあげくに、理性で解決すべきことを、まるで一世紀も遅れた後進国の末路みたいに、情をもてあそんで解決し損ねて、交互にあっぷあっぷするような、集団的奇病に落ちいているようにさえ、私には思えてくるくらいのものである。

 人間社会における合理主義なんてものは、手抜き主義でもなければ、効率主義でもないんだ。効率だけ求めるんだったら、それは村の祭りなんかいらないものだ。それを町おこしの利益だけに還元したって、もっと効率的な方法は沢山あるのだし、それなら採算の合う祭り以外は、すべて淘汰されなければならなくなってしまう。実際にどれほど多くの祭りが、人々の心から見捨てられて、またこの先も淘汰の危機に瀕していることだろうか。どれほどの歳事が、面倒を友として抹殺されてしまったことだろうか。

 それを守り抜いて、次の人々へと継承し続ける行為は、伝統という中立的な事柄のために、国民が犠牲になることではないんだ。ただ自分たちの心の糧を、自分たちの生き方のよりどころを、流行り廃(すた)りだけに邁進すれば、それはもう人のこころを持たない、単なる娯楽動物にすぎなくなってしまう。だって一貫して持っているものが、何もないのだから。すっかり自分が乏しくなってしまって、ただ自己主張ばかりはいよいよ動物なみに激しくなって、そのくせ集団としては、異分子を排除しつつ、同一の行動を取り始めるから、ヒステリックな社会を形成するのは、目に見えているではないか。そうならないためにこそ、柱のようなものが必要なのではないのか。

 そうして、それを必要とするのは、労働力としての人間を育成するためではもちろんなくって、ただ人々ひとりひとりの生き方やら考え方の、質をこそ問題にするのであって、生活の質をもし給料の質としか換算出来なくなったとしたら、それは、機械ではなくって社会的動物である人間にとっては、はなはだしい非合理主義には違いないのだ。だって経済も消費も、社会的な人間活動の一部ではあっても、人間自身は経済でも消費でもないのだから、それを無頓着にイコールで結びつけることなんか、出来ようはずがないに決まっている。もしそれを強行するならば、人間にとって喜怒哀楽なんて、かえって非効率的ということにすらなっちまうのではないか。

 景観のもたらすこころの豊かさすらも知らず、至るところを個別勝手な自分領土ごとのガラクタ置き場みたいに、ごちゃごちゃの景観に変えていくことを、合理主義だと思っていたらとんでもない話だ。そんなのは、人が人としての営みを放棄するための、手抜き主義に違いないんだ。そうしておいて、自分たちの生活空間をより良くするために、交互に話し合うこともせず、ただ自分の領土に線を引っぱって、そこから職場へ向かっては、ずるずるべったりに仕事をこなし、職場から帰っては、自宅ではテレビやらネットに入り浸りでは、真剣な言葉のやりとりなんて、生まれてくるはずなんかないんだ。かと思えばあの、学生同士のお悩みのスケールの小っちゃさと、恐るべき同質性。視聴した意見を無頓着に自分のものとはしゃぎまわるだけの、自己のどこにもない、あの居酒屋の会話……

 ああ、もしかしたら、だからこそ、それに合わせるみたいに、奇妙な言葉が捏造されているのかも知れない。だとしたら、そんな社会においては、自分こそが間違いであって、彼らこそが正統の姿に他ならないのだろうか。こころにイデアの存在を仮定しなかったら、どんな社会だって、現状こそがもっとも優れたことになってしまう。なんの軌道修正の意思もなく、怠惰に流されていくばかりではないのか。そうして馬鹿な学者どもが、それを類型化することを学問だなんて本気で信じ切っていやがるんだ。

 わたしはなんだか、ひどく脱線してしまったらしい。これだけのことをノートに記して、それから急に侘びしくなってくる。それからあの人への思いばかりが募ってきて、もう伝統のことも、言葉のことも、どうでもよくなってしまう。考えたってどうせ無駄なんだ。聞き手なんていやしない。そうと知りながら、懸命にしゃべることは、なんという不経済なことではないか。それならもっと気楽に、ただ、あなたとたわむれていたい。それが情の支配なのだろうか。そうだとしても……

すがたなき羽ばたき鳥のさえずりを
恋せし思い君にとどけよ

二十

 今日もあなたの夢を見た。

本当にわずかな時を距てて、あなたは遠くへ消えてしまった。

まるで、暖かさを求め来たる冬鳥の、気も晴れてさわやかに逃れるみたいにして、どこかへ飛んでいってしまった。

 取り返しのつかない想い出を胸に、わたしは哀しくてスナップを眺めている。アルバムをめくるたびごとに屈託のない笑顔が、もう寄り添えないオシドリの、突っつき合う仕草みたいで淋しかった。

 わたしは考えを止められなかった。あなたはそれが嫌だといった。人はもっとフィーリングで生きなければならないといった。息苦しいといった。わたしはいま、もう何も考えずに、あなたの元へ走りだしたい。だけど……

 私たちの社会は、動物的に発展してきたのではなかった。本当にユニークな、ごく一部の人たちの、考えや意思の連鎖で、ここまで高次に発展してきたのだった。感じる人たちは、その網の目のような連鎖に寄生して、肉付きを与える一方で、常に感覚の優位を主張して、己のエゴのもとに隆盛を極めるのだった。

 私には分からなかった。それならばいっそ、社会が二つに分裂して、それぞれの陣営で幸せに暮らしたらいいのではないか、学生の頃にはそんなことを、真剣に考えることすらあったのだけど、教師も生徒も、お勉強のシステムが間違っているなどとは決して考えず、無頓着にそれを既成のものとして、改めようという意思も思想すら持たないらしかった。それで友情やら恋やらお受験の悩みこそが、学生の悩みだと信じ切って、誰もが同等の行動パターンに耽るばかりだったのだ。

 けれどもこんな言葉を、あなたが理解し得ないのはもっともだ。自分自身にも重くって、逃げ出したくなるようなことすらあったのだから。もう何も考えないで、頭に連なっている思想をすべて偽りとみなして、あなたの元へと、走りだせたなら、私はどれほど幸せになれるだろうか……

 だけどそれはもう、私ではない気がする。
それは幸せな顔をした、感情を友とする、
ちょうど冬の池にならんだ、あのオシドリみたいな、
慎ましさではあるけれど……

 それなのに、そこに私はいなくって、
私の心はますます一人ぼっちになって、
あなたの傍にあっても、あなたの体に触れても、
でも心は、数万光年も乖離したままで、
震えているなんて、堪えられない……

 だからあなたにはもう、私は連絡なんか出来ないと思う。あなたはきっと、理屈のないところで、いわゆるあなた方がスタンダードと称するところで、普通の彼を見つけ出して、屈託もなく笑い合いながら、子供を作って、幸せに生きていったらそれでいいんだ。ほほ笑む気力なんか出ないけれども、きっと私といるよりは、あなたは幸せになれるに違いないのだから。

 不気味なくらい同質的なスタンダードに支配されて、私はいつでもはぐれてしまう。けれども、本当の豊かはこんなんじゃなくって、もっと多様なポリシーを持った集団が、もっといろいろな価値観を持った社会のまとまりが、地域的に、あるいは趣味においても、価値観をぶつけ合っていなければ、たとえば新聞は各紙ごとに大きく主張を異にして、あるいは庶民を軽蔑するような意見を提示する、ちょっとイヤミなエリート的な雑誌があって、それに対して糾弾を加えるような雑誌があって、そうやって多様性のうちに、一つの社会を形成しているのでなかったら、もうその集団は、圧倒的な同質のうちにへたれて、やがて滅びていくだけのような気が、自分にはしてならないのだけれども……

 どんな新聞も、どんなテレビ報道も、それから雑誌にしたって、すべてが均質的な、たった一つの日本人というもののために、最適化されたような均一性。それは中立などとはまるで関わりもなく、ただ異なった価値観を、まるで掲げることが無いのは、つまるところ、異なる価値観の需要など、どこにも存在しない、同一精神に満ちあふれているためではないのだろうか。

 ああ、こんな蟻んこみたいな、単一文化圏を拵えておいて、同種のものをさまざまに選択して、多様性の時代だなんてほざいている。自分たちを眺めるだけの観察眼すら、もうどこにもなくなっちまったのだろうか。ジェネレーションごとに、みんな同じ傾向、同じ意見、同じ文化が隆盛を極めるばかりで、それでいて落ち着きなく、流行の狭間をうろついているのはなぜだろう。

 次々に餌をあさるみたいに、絶えず新しいものに食らいつくばかりで、まるで自分の生き方やら、教養とは結びつかない、はやり一辺倒に身を委ねるのはなぜだろう。本気で思い悩み、変革すべき事柄を、ただおしゃべりの道具にして、口先だけ動かして、己の感情を満たす一方なのはなぜだろう。

 なぜ町で十人に一人くらいは、和服を着て歩かないだろう。公共の乗り物にまで広告を張り巡らせるほどの社会を、汚らしいと思うような人々が、なぜ十人に一人くらいはいて、反対運動を繰り広げないだろう。それならば仲間を募ろうと思って、ちょっとそんなことを口にすると、たちまちみんな離れていってしまうばかりで、またぽつねんとなるのはなぜだろう。

 そうやって、いつも思い悩んでいる自分は、そこから抜け出すほどの宛さえなくて、もう行動するほどの気力も失われてしまったらしい。ならばせめて今はもう、最後にあなたの幸せくらいは、私の手であなたに捧げて見せようか。つまりは私こそが不要であることだけは、私にも辛うじて分かっているのだから。

 精神的な世界は、流行とは関係のないもので、それは常に希少なもので、だからこそ人々は実社会ではそれを嘲笑し、物語の中でのみそれに憧れるものならば……

 ああ、大多数が信任する感情をのみもてあそんで、ほかの感情を糾弾したり、屈辱したりするような、そんな人間ばかりが、この世から消えてしまったら、きっとどれほどさわやかな世界が開けているような気がするのだけれども……

 自分はもう、森の中をさ迷いながら、日暮れの宵闇を怖れつつ、足を引きずるばっかりで、たましいはすっかり疲れてしまったような気も、確かにするのです。それをあなたに慰めて貰いたい。けれど、その時あなたは、果たして幸せになれるのだろうか……

 あなたが好きでした。もうお会いしません。いまはただ、あなたのために。

おやすみなさいあなたのしあわせ願うのは
今でも君を愛しているから

二十一

 枯れ葛(くず)を焼き払った河原から、色を忘れかけた森林が、そのシルエットを濃くするように見えたとき、味気ないくらいの川のせせらぎが、丸石をよけるみたいに流れていくのだった。

 殺風景なコンクリートの階段が、ちょっとだけ焦げている。こんな朽ち果てた土手から、春になると一斉に草花の息吹が始まるなんて、どうしても信じられない。これをかぎりとして、廃墟へと朽ち果てていくような有様だった。流れを乱された川音が、あちこちで泡を立てている。わたしは悲しかった。

 こころを紛らわせようと思って、水際から駈け上がるみたいに、コンクリートの階段をのぼっていく。不意にガサリと音がしたので、驚いて振り返ると、まだ焼かれていない対岸の枯れ草から、一羽の鳥が飛び立った。なんの鳥だか分からない。セキレイかとも思ったが、確証のよりどころはなかった。水面にぼちゃりと大きな音がしたと思ったら、石でも落としたような輪を描いている。魚が跳ね返った跡らしい。

 わたしはなんの鼻歌とも知れず、土手のうえの砂利道を歩き出す。ここは散歩道でもないから、人の気配なんかどこにもない。それがせめても、慰めだった。

 右手は冬田が一面に広がっている。夏には青穂が一面にそよいでいた。それがわずかのうちに、こんな干からび色をして朽ち果ててしまう。川の向こう岸の森林地帯へと、西日が隠れてしまった後だから、あたりの色彩は急速に損なわれていくらしかった。

 わたしはどこまでも歩いていく。そろそろ遠くの街あかりが、ぽつりぽつりと侘びしさを募らせながら、灯す仕草を始めている。国道沿いのヘッドライトが、行き交う姿さえ味気なかった。



 わたしはあなたのことを考える。春には二人して、花摘みの散歩がてらに、ここを歩いたこともあった。あたり一面ではないにしろ、れんげ畑(ばた)に染まる田んぼのところどころには、赤紫の彩りが総体にそよいで、まるで靄(もや)のようにも思えるのだった。二人は靴音を競い合った。水かさの増したせせらぎが快活に、こころのリズムを高めてくれた。

 ちょっと肌寒の風が吹きすぎる。そんなときには、何気なく手を繋いでみるのだった。それだけでこころが暖かかった。からだも暖かだった。来年の春もここに遊びに来ようなんて、屈託もないほほ笑みでもたれ合って、なんの心配すらしていなかった。

 梅雨の紫陽花だって、二人は傘のなかから眺めていた。それは植生の改良を目ざした、有志の皆さんが植えた紫陽花であるらしかった。それほどの広域には及ばなかったけれども、したたる雨に洗われるたびに、色彩を変化(へんげ)する姿ばかりが、灰色の雨空に際立っていた。二人はわざと一本の傘だけを開いて、無駄に近寄ってたわむれながら、反対側の肩をすっかり濡らしてしまって、楽しくおしゃべりを繰り広げるのだった。

 夏になると、葛がすべてを覆い尽くした。それは恥じらいのない、緑のたくましさの情熱あって、価値観など何一つなく、河岸の両側を埋(うず)めてみせるのだった。雨降りに恋い焦がれる憐れな青年みたいに、水かさの減ったせせらぎが頼りなかった。葛に飲み込まれないコンクリートの小さなスペースには、花火の残骸が残されていた。

 二人は稲田の砂利道を歩いて行くのだった。稲穂に吹きつける風は暑かったけれど、こころには心地よく響くのだった。それはあなたの口ずさんだ、何気ない流行歌みたいにして、わたしの幸せまでも飾り立ててくれた。そっとあなたにフレーズを合わせたとき、まるで自分の分身であるかのような気がするのだった。

 けれどもいつしか野分が吹き過ぎた。二人はどれほど寄り添っても、一人にだけはなれないものらしかった。ほんの些細なことの一つや二つで、もう向こう側に渡ることすら叶わない、遠く隔てた天の川の住人のようになってしまう。悲しみばかりが膨らんで、吹き荒れる夜嵐ようにさえ思われた。

 そうして、秋が訪れた。葛はまだ花を咲かせていたけれど、緑葉はすっかり黒ずんできた。わたしは一人して、この河原をさ迷い歩くのだった。寄り添うべきあなたはもういない。わずかばかりの出来事が、二人のこころを河面(かわも)に引き裂いた。そうして、対岸に待つべき人はもういない。たとえ渡ったとしても、そこには、報われない未練が残されるばかりだった。

 わたしは一人でさ迷った。絡み合うような葛のツルが羨ましかった。花の色はもう褪せかけていた。ただ淋しそうに揺れていた。色彩の面影がどことなく、春のれんげ畑(ばた)を思い起こさせた。回想にまかせて水面(みなも)に石を投げ入れると、川の流れにドブンという、鈍い音が加わるばかりだった。それは実に味気ない、秋らしい響きに思われた。わたしはぼんやり眺めていた。

 季節の移ろいが、若草を萌え上がらせ、緑葉を高鳴らせて、やがては朽ち果てる儀式みたいに、移りゆく人のこころというものが、どうしても不可解でならなかった。わたしは今でもきっと、彼女を愛している。それなのにあの頃みたいには、穏やかな思いを確かめ合えなくなってしまった。そんな頼りない感情というものが、今では煩わしいもののように思われて、わたしは一人で、どしどし秋のなかを歩いていくのだった。時にはトンボがからかうみたいに、わたしの横をすり抜けていく。青々と突き抜けた空が、それを見守って涼しい顔をしているのだった。



 そうして今わたしは、冬さえも行(ゆ)き過ぎようとしている。あらたまの年を迎えた河原は、訪れるべき春を待ちわびるあまりに、かえって過酷なまでに生命の息吹を、根絶やしにするようにさえ思われた。殺風景が肌を突き刺すみたいに、枯れ葛の焼け残りは痛々しかった。流れる川を捨て去って、わたしは砂利の小道をばかり、枯れ田の果てをさまよい歩く。水色を忘れかけの大空が、わずかばかりの青みを残している。また日が暮れる。わたしはあの流行歌を思い出しては、淋しく口ずさんでみるのだった。ずいぶん歩いてから振り返ってみたら、すっかり遠ざかった森林のふち取りから、わずかな入り日の名残が、まるで紫を溶かし絵の具の、シルエットとなって彩りを添えているのだった。

 わたしは、道ばたにしゃがみこむ。舗装されてはいるものの、誰も通らない枯れ田のなかに、ぽつんと紛れ込んだような孤独が押し寄せてくる。はるかかなたの国道何号線だかの、ちょっとした夕暮れのせわしなさが、まるで曇りガラスの向こう側みたいな、回想めいた霞を見せていた。

 春めいたフィルターを掛けたみたいに、ヘッドライトの明かりがすーすーと流れていく。昼のあいだは一時間に一往復くらいの列車が、仕事帰りの本数を多くするのだろう、またかなたへと去っていく。風にガタゴトの響きが加わった。国道と交わる赤い点滅灯が、カンカンという響きを奏でている。すべてが影絵のように懐かしかった。

 不意にわたしは空を見上げた。一番、二番と星がまたたきを始めている。急に夏の夜の流星群ことが思い出されて胸が痛くなった。あなたはわたしに肩を抱かれて、二人は永遠(とわ)を確かめ合ったはずなのに……

 自分たちの肉体が干からびても、たましいだけはずっと春のままであり、二人の思いは決して途切れることなどないのだと、かたくなに信じきっていたはずなのに……



 今は虚しいくらいに夕暮れの、ヘッドライトの群れが拠り所をなくしたみたいに、遠くを連なってゆくばかり。あんな流れ星のすぐ下で、二人で交わした約束さえも、すっかり味気ないくらいに思われるのであった。

焦がれあう銀河二人を分かつなら
幾億光年駈ける願いよ

二十二

 パソコンに入れた情報は、クリック一つで消してしまえるけれど。残されたアルバムの写真ばかりは、それほどたやすくは捨てられない。だけどもう、暖かい面影さえも辛いから、私はそんな二人の記憶を、心のなかへと返そうと思うのだ。

 冬のさなかの別れ唄。恋の葛藤のおさめ歌。あしたの朝を歩み出すための、それは儀式のようにも思われて、私は枯れ草を集めている。河原はすっかり焼けただれてしまった。焦げた葛の名残には、もう火は点らない。土手横に広がる枯田から、藁の束を引き寄せて、それを山積みにした。咎めるものは誰もいない。ただ、遠くに犬の散歩をする人が、時々立ち止まりながら過ぎゆくばかりだった。いつの間に姿を隠したのか、入り日のあたりがちょっと赤らみ始めている。

 こんな冷ややかな大気のなかに、二人の面影はどうして消えるだろう。今では触れられないものがある。語りかけられない人がいる。それが不条理でならなかった。私の心は淋しい。どこかに犬の遠吠えがする。あれは、さっきの散歩の犬だろうか。警戒心のない、喜びにあふれた遠吠えであった。



 軽やかにいこう。ふり返らずに、前だけを向いて、大路(おおじ)を抜ける春風みたいに、さわやかでありたい。それなのに背中から、呼び止める侘びしさはなんだろう。振り返るのが辛くって、私はアルバムを枯れ草の山に投げ込んだ。

 マッチで火を点す。こんな時にライターは似合わない、自分は、どこかで貰ったマッチを、新聞にくるんで持ってきた。つかの間のアコースティック。私はこころの迷信家であるらしかった。別れの儀式には、マッチこそがふさわしいと、頑なに信じ切っていたのである。

 やがて新聞の炎が枯れ草へと移る。不意にぱっと広がったかと思ったら、まるで夕焼け色が乗り移って、生き返る鬼火のようにも思われるのだった。心まで燃えていくような錯覚が、私の悲しみを麻痺させてくれる。だからアルバムは、もう拾わない。周辺の炎がやがてはアルバムを包むだろう。私はただそのことを、こころに焼き付けようと願うのだった。



 アルバムの周囲が溶けるみたいに歪んでくる。

そう思ったら、不意に真ん中のあたりから、

ぱっと炎を上げた。



 私ははっとなる。沢山の面影が、不意に諦めきれないことのように思われて、慌てて手を伸ばそうとしたけれど、もうアルバムに触れることなど出来ないのだった。私は途方に暮れて、それから、これでいいのだと思いなおす。あなたのシルエットばかりが、いつまでも瞳の奥に浮かんでくる。



 煙はどこまで昇ってゆくだろう。

二人の記憶を運ぶしぐさをして。

あんな近くに触れ合った、

あの日の温もりを空へと返すみたいに、

煙はどこまで昇ってゆくだろう。



 不意に夕風が炎を煽ったとき、燃え盛ったままの枯葉が一枚、炎の精霊みたいにして舞い上がった。けれどもそれはすぐに力を失ってしまって、どうしても空までは辿り着けないのだった。私はひとりで呟いてみる。

お別れです。大切なあなた。
幸せであってください。
これは嘘ではない、
僕の本心なのです。

秋風がまた吹き抜けて、
……ああ、もう夜が近い。

あっけらかん散り葉あつめと焚き火して
君にさよならわかれの煙よ

二十三

空っぽになって、抜け出せないような気分。
何を読んだからって、何を聞いたからって、
浮かばれないような、淋しさばかり谺(こだま)する部屋。

今日を頑張っても、明日なんか何もない。
とぼとぼ歩いて、消えてしまいたい気分。
だからといって、どうしようもない細道を、

するりとくぐり抜ける人だっているのだし、
さ迷うさなかにうずくまってしまい、
震えるままに朽ち果ててしまうような、

そんな人だって、きっといるのだから……
まるでサティの胎児のような、侘びしさばかり、
こらえきれない、なみだなのです。

まあるい春はどんなだろう、
それは優しい仕草だろう、
そのころこころに穏やかな、
幸せ一杯咲くのだろう。

そんな願いのつぼみさえ、
霜に打たれて朽ちてゆく。
それはわずかなひとかけら、

数えるともない沢山の
つぼみのなかの悲しみの
取るに足らないひとかけら

そんな命の出来事の、
無意味なものには過ぎないけれど、
それを無意味と悟ったままでは、

僕たち生きてなんかいかれないのです。
僕たち生きてなんかいかれないのです。

 歌ともなくて、語りともなくて、私は湯船につかったままで、そんなフレーズを奏でてみる。初期バロックのカンタータの自由さを夢見て。けれどもメロディーに乗せるほどの才能もないから、フレーズが音程をさ迷うみたいに、しどろもどろに口ずさむ。

 それを下手な歌だって、笑ってくれるあの人はもういない。いっしょにシャボンでたわむれあったり、湯船でぶくぶくするあの人は、いつの間にやら、私の近くから羽ばたいてしまった。

シャボンに願いを捧げたら
もこもこしている一方で
答えもくれない滑らかさ
しらばっくれてる肌ごこち

 なんだか分からない。馬鹿なことを歌い始めたら、淋しさのうちにもわずかな愉快が込み上げてきて、わたしは人ごとみたいに笑ってしまうのだった。

山茶花くらいの冬花火
祭りひとつもない宵の
忘れ花火のおおだまの
ひびきはどんな谺かな

ああ、あれは時代錯誤の
花火職人どもの邁進なのです
ああ、あれは時代錯誤の

おしゃれ着とり込むベランダに
肩をすぼめて眺めの宵よ
忘れ花火は三重(みえ)ひとつ
真っ赤なつぼみを付けました

ああ、あれは今に咲くのだろう
もし職人どもに歌心さえあったならば
ああ、それは今こそ咲くのだろう

そうしたら真っ赤なつぼみがぱっと弾けたとたんに
それはもう見事な山茶花が形づくられたのです

 歌っているうちに、どことなくフォームが整っているような気がしてくるので、わたしはいつの間にやら、詩の構成を吟味している。ああ、これだから駄目なのだ。けれども……

 浮かべた柚のかおりを楽しむでもなく、さりとて小説を読みふけるでもなく、だらしない即興詩に身を委ねるみたいにして、静かにバスタイムと戯れている。不意に口元をとどめると、味気ないくらいにシンとしてしまう。あるいはその瞬間こそもっとも、今の自分にはふさわしいような気もするのだけれども……

枯蝉(かれぜみ)のそばにはらりと手向け花

 自分にはもう、侘びしさを抜け出すくらいの、気力は無くなってしまったらしい。くだらない俳句を詠んでみて、それからまた笑ってしまう。その時だけは幸せにも思えるのだけれど、柚を人差し指につついてみると、またあなたの幻影が浮かんできて、突っつくことすらつまらなくしてしまう。あなたの柔らかな肌のなめらかさが、胸一杯あふれてきて、こらえるみたいに柚をもてあそんでいる。

 湯はしだいに、ぬるくなっていくらしかった……

湯にあって指さきしずくの哀しみを
こらえるくらいのなんの歌かも

二十四

誰も信じられない。
けっ、また言ってらあ。

 そんな言葉で、落書きを連ねたって、報われないことは、分かりきっているのだし、かといって、これから何を楽しむでもなく、何を喜びとするでもなく、ただ消えゆくことを怖れるのみにして、おめおめと生き残っていくばかりなのだろうか。

誰ともうまくいかないのです。
もっとも、無理に合わせたいのではないのです。
そうではなくって、価値観の違う人々の、
社会がどこかに必要なのです。

文化のバーゲンセールを目ざす人々が、
嘲笑とヤジを求める人たちが、
人のあたまを叩いて喜ぶような生き物が、
それを眺めてはしゃぎまわるような生き物が、

あふれてしまったら、もう終わりなんだ。
底値一辺倒の生活こそが美徳とされて、
人の最低限度の良心やら美徳を、

けたけた笑いながら動物のエゴを、
標榜するばかりの社会になっちまったら。

 そうしたらもう、最安値の生活を真似出来ない人々は、誰もが最安値に足もとをすくわれて、最安値のみすぼらしさに怯える少数民族は、まるでやまいの烙印を押されて、侘びしく滅ぼされるばかりなのだろうか。

見てくれとそれから
感情とをもてあそび
暇を潰すための
娯楽をばかり

莫大な投資をして
物語を餌みたいに
次から次へと読みあさって
はやりの物をあさるばかり

得るものなくて
とっかえひっかえ
しているうちに
移りゆく人々

喜怒哀楽の極端と
言葉のはてなきひもじさと
乏しい意思と見るも無惨な
不自然色したお化粧と

 私の心は、急速に干からびていくらしかった。誰かに語りかけることすら、そろそろ飽きてきたらしい。憎まれたいとは思わない。だけど、もう誰のシンパシーがどうのこうのなんて、わずらう気力さえ起こらない。なんだかぽっかりとした無気力に陥って、呼吸をしていることひとつ、不可解に思われてくるばかりなのです。

 有機物も、無機物も同じこった。逃れきれないしがらみを、逃れたからってなにも悪かあない。それは初めから、疑いないことだけれども……

 やっぱりどこかに、幸せを求める小さな祈りが、人のこころには疼くものらしい。私はなんだか、みすぼらしいなりをして、とぼとぼ歩きの老犬の姿をして、こんな小さな部屋に閉じこもって、怯えるみたいに吠え立てているばかり。決して消えてしまおうとは、踏ん切りがつかないのであった。

遠くに風の音がする。
……ああ、また夜明けが近い。

はらはらとなみだの色さえ濁るのは
干からびちまったこころなるかな

二十五

音なしの世界というものを、
歩いていくのには限度がある。
それは聴覚のことではなくって、
心の問題なのだけれども……

 小さな男の子がいました。好奇心旺盛なその子は、いろいろなことを尋ねてまわりました。空の色のことや、犬同士のお話のことや、立ち込める霧の晴れ渡る瞬間の、あの不思議な境界線のことを、彼は尋ねてまわりました。

 それな好奇心をどんどん満たしてやることだけが、ものを考えるための唯一の方策だと知っていましたら、まわりの大人たちは寄ってたかって、父親も母親も、近所のおじちゃんもおばちゃんも、それに見知らぬ市井(しせい)の人たちさえも、それぞれ精一杯に教えてやりました。それが社会の習わしになっていたからです。

 小さな男の子がいました。自意識の発達に任せてその子は、いろいろなことを自慢しました。覚え立ての言葉のことや、仲間より早く走れることや、恐ろしい水の間に間をかき分けた、あの水泳の一番乗りの勝利などを、彼は自慢して回りました。

 それな自尊心をどしどし充たしてやることが、生きる希望に満ちあふれるための、唯一の方策だと知っていましたから、まわりの大人たちは、両親も親戚のおじさんも、先生だってもちろんのこと、時には恐ろしげな兄さんさえも、それぞれ精一杯に彼を褒めてやりました。けれども彼が悪いことをした時には、それぞれ精一杯に叱ってやりました。そうやって社会が一丸となって、みんなで人間を成長させていくことが、人間だけの特権となっていたからです。お勉強が教育なのではありません。それだけが本当に、人間のための唯一の教育なのでした。

 ある時、亀裂が走りました。社会が豊かになって、人々は実社会に喜びを見いだすよりも、より労力の少ない娯楽のなかに、埋没するようになりました。社会で何かを働きかけるのは労力で、しかも不快感に苛(さいな)まれる危険をはらんでいましたから、もうそうしたことは止めてしまって、自分の殻に安心して身を委ねられる、労力の低い快楽に群がることにしたのです。

 そのうち彼らは、ものさえ考えなくなりました。ただ与えられた情報に右往左往して、動物的な大数(たいすう)の法則に、たやすく支配されるようになりました。ある事件があったとき、メディアの垂れ流す情動の指向性を、我が心とばかりに信じきって、自分の意見と履き違えて、一枚めくった後ろ側を、考察することをすら取り止めてしまいました。またメディアも必死になって、彼らの情動の指向性を押しはかろうとしました。どちらが悪でもありませんでした。相互作用を及ぼし合って、急速に一つの傾向を築きあげていったのです。かつて、このような相互作用の果てに、自らを信じ込ませたような軍国主義が、しだいに足を高めつつあったあの頃の経験を、まるでもう一度繰り返すようなひたむきさで、人々は考えることを放棄していったのです。

 こうして、機構としての社会ではなく、集住する人間同士の、もっとも根本的な義務と権利の、自然なバランスが崩れてしまいました。それを忘れることは、人間社会を維持する意思と労力とを、放棄することには過ぎませんでしたが、もう誰もそれを気に病みませんでした。



 小さな男の子がいました。好奇心旺盛なその子は、いろいろなことを尋ねてまわりました。空の色のことや、犬同士のお話のことや、立ち込める霧の晴れ渡る瞬間の、あの不思議な境界線のことを、彼は尋ねてまわりました。

 けれどもう、彼がなにを尋ねても、いい加減な答しか返ってこないのでした。父さんは「そのうち教えてやる」といって誤魔化してしまいました。母さんは「そんなことは考えなくていいの」といって済ませてしまいました。まして知らない人に尋ねたら、「うるさいがガキめ」といって、怒鳴りかかってくるのでした。

 彼は質問をすることを、なにか悪いことのように思い始めました。考えることが、なにか間違いであるように思えるのでした。ただ与えられた情報に頷いて、ほくほくしていることこそが生きることだと悟りました。それに親たちは、仕事から帰ってきてからは、テレビを眺めて暮らすばかりだったのです。今日、僕になにがあって、僕がなにを考えたのか、そんなことはどうでもいいらしいのでした。だから彼も両親を見習って、テレビばかりを眺めて暮らそうとしました。ちょっと不思議に思って尋ねたくっても、どうせうるさそうな顔をされるばかりでしたから、彼は悲しい思いをしながら、それを心のなかに封じ込めてしまいました。それで親たちは、子供が静かになってよかったと、本気で思い込んでいたらしいのです。

 だって、彼が学校から帰って来て、分からない問題を尋ねたとき、お母さんはそれは先生に聞いて頂戴、それはお母さんの係じゃないからと言ったのです。父さんはそれは学校で教えることだと言ったのです。それから習ったばかりの万葉集のことを尋ねたら、二人は何一つとして知らないらしいのでした。それどころか、両親の知識も味覚も趣味のレベルも、自分らとほとんど変わりない、尋ねるべき価値もないということを、彼はしだいに悟り始めたのです。

 彼は心のなかで、何かが殺風景になっていくのを感じました。そこへ父さんがゲーム機を買ってくれました。周りを見ると、誰もがこれにのめり込んでいるようです。彼はそれを開始しました。

 すると不思議なことに、時間がどんどん流れていくのでした。心のなかの、淋しさや、殺風景も、みんな忘れてしまえるのでした。人と人とは、語り合って何かを発見したり、交互に褒め合ったりしながら、喜びを見いだして生きていくものではなかったのだ。出来るだけ相互に踏み込まないようにして、満たされないような心の淋しさは、最新式の娯楽によって、埋めて暇つぶしをするのが人間の営みだったんだ。彼は無頓着にそう信じ切ってしまいました。そうしてずいぶん長い年月を無駄に、強刺激の娯楽をばかりとやり過ごしてしまいました。

 ようやくその娯楽が、画面のなかに暇を潰したという以外、何一つ価値など存在しないことに、彼は気づき始めました。自分は何一つ、新しいことが出来るようにはなっていませんでした。自分は何一つ、新しい思想が生まれたわけでもありませんでした。そうして一番恐ろしいことは、自分の喜怒哀楽と結びついた、本当のあの頃の想い出というものが、何一つ存在しないことを、彼はようやく悟り始めたのです。

 けれどもようやくそれが、成長を留めるための暇つぶしに過ぎなかったのだと悟ったとき、もはや彼は、すべてを吸収できる大切なシーズンを、すっかり過ぎ去ってしまっていたのでした。

 彼はびっくりしました。慌ててふり返ってみましたら、自分の歩んできた道には、何一つ存在しなかったのです。そうして少し老けた父さんと母さんは、やっぱりテレビを見ながら笑っているのでした。番組は他人を馬鹿にして交互に笑い合うという、おぞましい動物園の姿を惜しげもなく晒していたのです。どこの国にも見られないような、怪鳥みたいな奇声を張り上げて、なんだか挙動不審のジェスチャーを加えながら、汚らしい笑い声を張り上げていたのです。

 思い返してみれば、彼は二人が笑っているという事実以外、両親と本気で触れ合った記憶さえ、ろくに持ち合わせてないのでした。そう思うとなんだか不気味なくらい、この世の中が詰まらないもののように思われてくるのでした。

 改めて周囲を見渡しましたら、もう仲間もみんな、娯楽の話ししか、どこかで仕入れたネタを語ることしか、出来なくなっているらしいのでした。それから、考えないこと、突き詰めないこと、本気でないこと、相手の言葉にムキになって反論しないことが、美徳とされていることに気がついたのでした。

 何の疑いもなく職場に出かけて、歯車みたいに職務を全うして、職場から帰ってきて、テレビをつけたり、パソコンを開いたりして、本当に大切な自分というものが、交互にまるで存在しないらしいのでした。

 ようやく彼は、こんな社会に生まれたことを、心底うらみに思いました。そうしてその日、どこかへと消えてしまいました。もちろん、誰ひとりとして、彼の気持ちなんか知り得ようはずはありませんでした。

 もちろん両親は泣いていました。でも、なんのために泣いているのだか、恐らく彼がいたって理解出来なかったに違いありません。なぜなら両親は、自分たちが彼を殺めた主犯だとは考えず、翌日からさっそく、自分たち以外のものを、我が子を殺した犯人として糾弾し始めたからです。それは誠に、動物の雄叫びのような、恐ろしい声を立てて糾弾し始めたのです。

 これがメディアから流されたとき、ものを考えない沢山の人々は、一斉に彼のいた会社への抗議を殺到させました。考える一部の人々の意見さえ、生意気だといって、ついでに糾弾してやりました。ですから会社のほうでも、真偽を突き詰めることを早くも放棄して、おわび金を払って頭を下げてしまいました。役員は非があるなんて思ってもいないくせに、これでうまくいくのだから、しょせんは職務の一環だと割り切って、ぺこぺこカメラに向かって頭を下げて見せたのです。

 そんな行為の一つ一つが社会に悪い影響を及ぼすことなど、彼らにとってはどうでもよいことでした。真偽を突き詰める前に処断を尽くしてしまうことが、社会にとってどれほどの恒久的弊害をもたらすか、そんなことは、知ったことですらないのでした。

 雲のかなたから、この様子を眺めていた彼は、はやくあそこから逃れることが出来て、自分はまだしも幸いだったと悟りました。そうして本当の仲間を捜すために、大空へ向かって翼を広げたのでした。

 めでたし、めでたし。



 ……私は、そっと淋しい童話から目を離す。それは子供のためのものなのか、私のためのものなのか、誰が書いたものなのか、それはまるで分からない。ただいつの頃からか、私の書斎の書棚の一番隅っこに、先輩面をして控えているのだった。だから私はこの童話を大切にして、今でも持っているのである。そうして時々は、こうして開いてみることもあるのだった。

 私はおめおめと生き延びて、こうして酒を飲んでいる。私は実に、何一つなし得なかった。そうして今、更けゆく夜を悲しんでいる。童話の彼を羨むでもなく、かといって哀れむでもなく、自分と彼とを比べてみるでもなく、ただ自分のからっぽさ加減が、無性に骨身に染みてくるばかりだった。

 でもだからって、すべてが無意味な訳じゃあない……

僕ねえ、これでも懸命に生きてきた
せめて矜恃を酒に託そう

二十六

 幸せの願い心を暖めながら、彼女の祈りは虚しかった。蛇口をひねったときに、無機質な水が流れるばかりだった。水は透明で冷たかった。まるで世の中みたいだ。彼女はそう考えた。考えるうちに、気づけばなみだが、またぽたぽたこぼれていた。

 慌てて顔を洗ったら、こぼれた口紅が指に付いた。

 ……みじめなわたし。

 洗顔をあらためたのに、すっぴんの肌は、疲れてふにふにしなかった。彼女はふにふにしないと思って、ぼんやり鏡を眺めていた。そのうち、またなみだがこぼれてきた。

 自分の心は、どうなっているのかと、ときどき心配になってくる。

 こんなんじゃ駄目かなと思う。いけてないと思う。それなのに、どうしても浮かび上がれない。

 こんなの自分じゃないと思う。こんなの私じゃない。私はもっと幸せになれるはずなのに、明るいはずなのに。鏡に向かって、そっと尋ねてみる。

 こんな社会は間違っていると思う。それなのに、どう間違っているのかが分からない。ただわたしをここまで追い込んでいるのは、こんな社会なんだと思う。ともかくも、全然駄目である。なってない。そうは考えるのだけれど、何がなっていないのか、やっぱり分からなかった。

 鏡に向かって、口をいいって開いてみる。

 鏡の向こうで、心ないわたくしが、おかしみの仕草をする。不意におかしくなって、思わず吹き出してしまう。変な顔。ぜんぜんいけてない。報われない表情。どんな色に染めてみても、髪の色がしっくりまとまらない。

 舌を出してから、今日は爪の色も落としてしまう。

 まっさらなわたし。あしたの休日に備えて、部屋にプチこもりを敢行しよう。

 誰とも会いたくない気分。ただポテチを友として、コーヒーと戯れて未来を見夢る。そんなぐうたらの、文庫本はなにかしら。

 ……わたしは、今の小説なんて大っ嫌い。まるで娯楽の探求者。感情をもてあそんで、喜んでいるだけ。

 それからまた、鏡を見つめている。こころが浮いたり沈んだりするので、時々消えてしまいたくなる。不意にぽっかり浮かんでくる、まっ黒な恐ろしいマリモみたいなもの。

 それが溢れそうになるのを、いつもごっくんて飲み込んで、

 知らないふりをして、なんとかやり過ごす。

 彼女はまたいつの間にか、鏡に向かって泣いているらしかった。

 遠くで風の音がする。

 ああ、夜も遅い。

もう消して、誰にも言えないひとことを
鏡をきみにそっとつぶやく

二十七

 いかがお過ごしですか。お元気しておられますか。
泣いたりは、していませんか。愉快なことは、ありますか。

 ただ頷く姿ばかりを、僕は描こうと思います。
せめてもの、僕への慰めのために。だってもう、
あなたへの、幸せのために、お節介を焼くことは、
僕には、出来なくなって、いるのですから。

 僕は初めから、誰ともうまくいかないって、
それは、分かっていたはずなのに。
ずいぶん幸せに浮かれ騒いだものでした。
それを、甘ったれた情けなさとは思いません。
誰しもみんな、幸せになりたいものではあるし、

かといって、そのためだけに、
大切なものまで折ってしまったら、

僕はもう、僕ではなくなってしまうのだし、
かといってどの道、生きていかれないのであったら、
僕でなくたって、折れて命あることの方が、
どれほど、幸せだろうって思うのですけれども。

 たぶんもう、僕にはきっと、
歌を奏でることは出来ません。
うらみばかりが、溢れるほどに、
こころのなかの、みずみずしさが、
損なわれていくのを感じるのです。

 けれども、それはしかたのないことです。
ずいぶん必死に歩いてきたのです。
表面ばかり、必死になって合わせてきました、

どこかに、理想の世界があるような、
子供じみた錯覚を頼りにしながら。
愚かしくも悟りきることさえなくて、

歩むかなたには幸せの丘吹く風が、
花とかおるほどのぽかぽかした世界だって、
きっとあるって信じて歩いてきたのです。

僕は、愚かでした。

「有明の月と歌ってはみたものの、
人はしばしば平気で嘘を付くのです」

 旗を振ろうと思います。あなたのために一生懸命に。
そして、僕の果てしない醜態に。

 ピエロにだってきっと、人の感情はこもるのでしょう。フォルスタッフ。久しぶりに、シェイクスピアに、寄り添いたいような夜更け。それは二十世紀の、日本の演劇のガラクタみたいな脚本を、一つの残らず、この世から抹消したいような、そんな淋しい夜明け前。アルコールですら逃れきれなかった、白みも見せぬあれな夜明け前なのです。

 鳥が鳴いています。僕らのためでなくただ一生懸命に。
鳥が鳴いています。そうして、それでこそふさわしいのです。

 そう、味方がいなくたって、敵さえいれば、生きてはいける。
それはそう。それはそうだけれども……
もし敵さえいなくなったら? 

 どうするだろう。そのとき僕は、どうやって朝日を望むのだろう。
 自然の営みだけでは、立ち行かないところまで、僕らは追い立てられているのかも知れません。

 もし僕の意味に、ついてこれる人があったとしたら、どうしよう。
そう、せめて同情を、千の同情を、あなたに手渡したい思います。
あなたのことは、きっと僕だけが知っているのだから……
……ほら、暖かいだろう。これで、僕の精一杯なんだ。
……けれども、これがすなわち、デフォルメの第一歩なのです。
分かっておいででしょうか。

 これからの、芸術が、どうなっていくのか、
わたしは、自分の命より、はるかに、不安であります。
それでいてわたしには、なんとも出来ないのです。
ああ夜が、また刻々として過ぎていきます。

窓がらすすかして銀のともしびを
ぽつりと揺れる夜長なるかな

二十八

[長歌]

 日だまり頃のまどろみは、斜陽の風と戯れて、春さえ浮かべと願うけど、それはきっと窓のうち、籠もるがゆえの蜃気楼。

 こころの休みを思うとき、ケットルばかりが湯気立てて、紅茶のカップとウイスキー、わずかにたらして音楽を、楽しむくらいのリフレッシュ。今日の怠惰のすべてです。

 アンプにともして赤ランプ、こころになんのCDを、流してみたいなモーツァルト。優しさばかりのなみだ目と、溢れるうちのほほ笑みと、歩きたくなるピアノ曲。ただ彼だけがしるし得た、それは天上の奏で歌。

 トレーと送れば再生の、ボタンひとつと戯れて、ゆらゆら揺らせマグカップ。まあるいピアノのかたちして、響き渡るはハ長調。

 なぐさめ色ではないけれど、白妙(しろたえ)みたいなC dur(ツェードゥーア)。こころはきっと軽やかに、また踊りだすばかりです。淋しさなんか脱ぎ捨てて、春待草の仕草して、羽ばたくみたいな紅茶から、湯気立ちのぼれウィスキー。それこそ明日への祈りなのです。

[短歌]

ぱぱぱぱぱなみだの淵からモーツァルト
ほほえむみたいなallegrettoよ

二十九

 ふと目覚める。朝の息吹に誘われて、放つ窓さきは軽やかだった。深淵の闇から甦ったような、懐かしさでいっぱいになる。小鳥らの歌を聴くと、ああ、もうすぐ春が来るのだと思う。そうして愉快が込み上げてくる。

 思い返せば、闇ばかりという夢でもなかった。私はまどろみのなかで、ある女性に恋をした。そうして肩を抱き合った。それからなにか、大切な会話を交わしあった。それがどうしても思い出せない。あれは、なにを語り明かしたのだろうか……

 瞳を開くとき、彼女はもう消えていた。ひとり寝のふとんは侘びしかったけれど、私はまた、職場へと向かわなければならないのだ。ベランダから戻ると、ケットルに湧かし始めのお湯が、ちょうどよいくらいの汽笛で鳴りひびく。まるで愚かな子供の泣き声みたいな活気に満ちていた。

「さて、今日を生きようか」

 そんな言葉を呟くと、私はあわてて止めたコンロから、おろしたての湯気をカップに注ぎ入れる。

 ポタージュにはスメルジャコフがよく似合う。

 そんな風に考えてみる。しかし、さっぱり意味が分からない。これは何の名前だったろう。まるで思い出せない。あるいは、どこかのスープのメーカーだろうか。それとも「スルメじゃコンブ」の間違いだろうか。例えばそれは、晩酌の友?

 まあいいや。名称のゆくへは知れないし、思い出そうとした夢の情景だって、肝心なところが途切れたままだった。それでも今でもまだ、甘いような、苦いような切なさだけが、目覚めのこころのなかにかすかに揺らめいている。

 ただその瞬間を頼りとして、僕は夢のことを思い出そうとしてみるのだけれど、それがどうしても浮かんでこないのだった。

 テレビをつけてみる。チャンネルを回すと、どこもかしこもニュースばかり。こんなものばかり見せられたら、感受性の豊かな人間ほど、ノイローゼになってしまうのは当たり前なんだ。

 人はあちこちの戦争に思いを馳せた方が、必ずしも立派なわけじゃない。遠い事件を身近に感じ続けたら、誤認の連続ということになってしまうではないか。

 馬鹿馬鹿しい。そう思ってスイッチを切る。

 静かなる部屋。夢は帰ってこない。



 焼き上がったトーストの音がするから、バターを塗ってスープと運び寄せる。カップにはコーヒーは入れない。朝は紅茶にレモンを数滴。砂糖は無くってそれっきり。ひと口飲むとわずかな酸味が、こころの底をリフレッシュ。雑音はもうどこにもない。

 ああ、生きている。そんなくだらない感慨が、たまらなく嬉しいこともある。きっとマンションを逃れる頃には、こころの淵からこぼれ落ちてしまうような、淡い思いには過ぎないけれど、そんな思いの一つ一つが、その日一日の幸せのパラメーターにだってなっているのならば……

 だって、そう信じなかったら、僕らの命はなんだろう。僕はまだ歩いていかなければならないのだし、ようやく冬の寒さが気を弛め、春を迎えようとしているような喜びの中を、鳥たちだって幸せを噛みしめているこんな朝、僕ひとりがうつむいていたって始まらない。

 だからほほ笑みばかりを歩いていこう。

 歩みを終えるその時は、誰しもいつ来るか分からないけれど。

 それまでは、せめて朗らかに、悲しみはただ胸に秘め、それだからこそなおさらに、喜び色した笑みをたたえ、今は大手(おおで)を振って、大路(おおじ)を歩いていこうではありませんか。

あまからの夢になくした味なのに
見つけられ得ぬ朝のせわしさ

三十

 どうしても逃れられない、木下闇(このしたやみ)の暗がりを、とぼとぼ人の仕草して、ずきずき痛む足だけを、押さえながらに歩いても、歩いても、それでもどこへも抜ける当てもなく、もと来た場所へと戻される。

 それが毎日の営みへと還元される頃、月日は莫大に押し流されて、人はそれをこそ命と信じて、諦観(ていかん)の暮れ間へと立ち尽くす。喜びすら忘れ果ての密林に、彼は老い朽ちていくのだろう。ちらちら見える月影くらいは常緑の、覆い被さるような樹林のすき間から、かすかに覗くことだってあるのだが、恐らくあちらからは、彼を発見することなど、叶わないようにも思われるのだった。

 嘲笑と軽躁(けいそう)から逃れて、エゴの肥大が恐ろしくて、とうとうこんな密林へと、彼は迷い込んでしまった。どこ行く当てすらない。ただ途方に暮れる毎日だ。湿った土が侘びしさを掻き立てる。瑞々しかった肌さえも、そろそろ干からび始めていた。



 誰を呼ぶでもなく鳥が羽ばたいた。小さな枝がぱらぱらと、足もとに落ちてくる。彼はそれを拾い上げた。小さな木の実がついている。彼は茶色の実を引き離して、手の平に転がしながら笑ってみた。それが今日一日の、彼の唯一のほほ笑みであった。

 小さな獣たちも、そろそろ塒(ねぐら)へと帰ってゆく時間だ。みんな家族を連れてゆく。あちらの家族と、こちらの家族と、みんな考え方も、生き方も違うらしい。それでいて、新しい夫婦(めおと)と寄り添って、婚礼の祝宴を挙げたりもしている。

みんな交互に違うポリシーを掲げている。

それでいて、うまく回っているのだ。

彼はそんなことを考えて、とぼとぼとぼとぼ歩いていく。

 単一になった社会のなかで、違う民族だってほざく奴らのことを、彼は哀しく思い返すのだった。まるで思想やら価値観まで同じになって、違う民族もあったものかなんて、あの頃は憤慨したこともあったっけ。森に迷い込むより、ずっと昔の話である。

 またくだらないことを考えだす。本当はもう、闇が迫っているのだから、彼はどこか寝座(ねぐら)を探さなければ、寒さをさえも凌げないはずなのに、もう感覚が麻痺してしまっているのか、闇の中でも樹木を避けることすら、今の彼にはたやすいらしく、路傍をゆく人のようにあれこれと、憤慨ながらに歩いて行くのであった。



 人殺しをするのは悪いことかも知れない。けれども、人殺しがなぜ悪いか議論することもなく、ただ人殺しが悪いと決めつけるだけの社会は、もっと悪い社会ではないだろうか。規律の根幹は思考の上に成り立たなければならないのではないのか。そうでなければ、過去の慣習を実にたやすく金科玉条としたり、あるいは豚のような欲求に駆られて、動物的に流行を追い求めたり、平気で人を殺してみせるような、両極端な人間しか生まれないのではないか。

 学生は意味を考えない。けれども、意味とは数学じゃない。科学じゃない。羅生門の感想じゃない、もっと別のことだ。お勉強が出来ることは、それは職人の巧みと同じなんだ。人格とは関係のないことだ。そうして本当に意味を考えるということは、もっと別のことなんだ。

 自分は何も考えてこなかった。与えられるものを勉強と信じきって、一方では強刺激の合間を絶えずさ迷っていた。あの頃を思い出すと、無性に侘びしくなってくる。うな垂れた拍子に木の根に躓いたら、膝小僧を強く打って、ずきずき痛み始めた。なおさら侘びしさが込み上げる。気がつけば、辺りはもう真っ暗になっていた。

 ああ、自分の一生だ。彼はそう思った。まるで闇である。小さなランプが欲しかった。点すべき何ものをも、彼は鞄のなかに残してはいなかった。もとよりリュックなどは持っていない。登山服を着ている訳でもない。ある日の普段着のまま、世の中の叫び声を逃れるうちに、知らない間に密林へと迷い込んでしまったのである。そうしていつしか、出口の方向さえ、分からなくなってしまったのだった。

 それでも彼は、いつもの岩穴へと辿り着いた。彼の動物的な嗅覚が、次第に目覚めつつあるらしかった。迷子のようにさ迷い歩いても、常にここを帰るべき所として、彼は寝座(ねぐら)に定めつつあったのである。

 彼はまた腰掛ける。それから木片と、枯れ草と、棒きれでもって、またスリスリと音を立てて、何かを必死にやっている。彼は自分の手でもって、火を起こそうとしているのであった。

 昔ちょっとだけ垣間見たことがある。煙が出たところで、風で煽って火を付けるのである。よく分からないから、板状の木やら乾いた皮に穴を開けて、下へ向かって、棒を回転させている。それでいて、細い枯れ草などを周囲に置いて、煙が出たところで息を吹き込んでいる。

 煙までは出せるようになった。けれども、まだ一度も火はつかない。今日も駄目だろうか。精神の燃え盛る時期には、火なんて無くてもへっちゃらだった。けれども、もう心も体もへとへとである。暖かいものが欲しい。そうでなくっては、これから冬へと向かうこの密林の中で、自分は凍え死んでしまうに違いない。それとも、あるいはそれこそが、自分に残された唯一の幸せなのだろうか。

 しかし、真っ赤になった奥の方に気をよくして、息を吐きながら続けていると、不意にぱっと枯れ草が炎を上げたので、彼の顔は赤く照らされたのである。あっと思った瞬間に、彼は手際よく枯葉の束を追加した。それから枯れ枝を並べると、炎は勢いよく燃え上がったのである。初めての暖であった。

ああ、嬉しいなあ。
こころ、暖まるなあ。

 彼は炎というものが、これほどまでに人のこころを慰めてくれる、勇気づけてくれるものであると、始めて悟った。なんだか今日一日が、この瞬間のためにあったような気がして、森をさ迷ったときの煩(わずら)いなんか、みんなどこかに消えてしまった。明日は川から魚を捕ってきて、ここで焼いてみようか。これからずっと生きていけるのだと、つかの間、そんな勇気も湧いてくるのだった。

 けれどもしょせん、それは喜びの残照には過ぎなかった。寝る頃になるとまた、誰とも口を利けないまま、誰にも知られないまま、老いては朽ちていく自分の憐れが、重々(おもおも)しくのし掛かってくる。枯葉の山を築いて、その中にすっぽりくるまれるから、寝床は暖かい。しかし、これから火を焚く以上は、薪も集めてこなければならない。やることは沢山ある。森を逃れたってどうせ、あの頃とは変わらないのだ、なおさらに一人ぼっちが、大勢の中で思い知らされるばかりである。思い返せば、羞恥心のない雄叫びばかりが響いていた。彼は虚しく夢想を始めるのだった。

 そうだ、もしかしたら、この樹海が闇なのではない。あの触れ合うくらいに人間同士が近くにありながら、交互にぽつねんと生きて、交互に雄叫びを発散して、その実相手の存在なんて、みじんもないような奇妙な世界こそが、本当の樹海だったのでは無いだろうか。

 抜け出したかったはずの闇の中で、彼はどちらが本当の闇なのか分からなくなり始めた。どちらに存在した方が、まだしも救いなのか、まるで分からなくなり始めた。けれども、どちらにしろ、幸せになんかなれないのだと思う。

 あの頃は、幸せになれなんて、脅す馬鹿がいたっけ。けれども幸せとは、結果に過ぎないんだ。幸せになるなんて言葉そのものが、本当は間違っているんだ。幸せはなるものじゃあない。気がつけば、そこにあるようなものなんだ。あるいは自分は、あまりにも幸せについて考えすぎたのかも知れない。その結果として、不幸ばかりが木枯らしの寒さを身について、胸に染みこんで離れなくなってしまったのかもしれない。そうだとしたら……

 遠くで夜風が泣いている。それは夜更けの子守歌なのだろうか。彼は幼い頃聞かされた、童謡を思い出しながら、歌っているうちに、なんだか涙が止まらなくなってしまった。何が哀しいのかは自分でもわからない。ただぽろぽろぽろぽろ泣けてくる。そうしていつしか、泣いているうちに眠ってしまった。



 朝の息吹は人の心を強くする。それは彼にとっても同じだった。やはり生きていこうと思う。日光は薄暗い森林にも、突き抜ける木漏れ日となって、彼に喜びを与えてくれるのだった。

 彼は自分の鞄から、ノートと筆記用具を取り出した。そういえば、これはまだ買ったばかりで、まっさらなノートである。何も考えずに、自分はとりあえず、このノートをすべて埋め尽くすまで、言葉を連ねてみたらどうだろう。それを当座の目的として、他のことは何も考えず、何も思い悩まず、悲しみの湧き起こるときには、ただ涙を流し、誤魔化すこともせず、苦しいときは大声で叫びながら、もうここから抜け出そうとするでもなく、ここで生きて見せようか。

 そうしてノートが一冊分埋まったならば、改めてその時には、別の目標を考えればよいではないか。その考えは、ここで暮らす道かも知れない。ここを逃れるための方針かも知れない。あるいはそうなる前に、自分はここで凍え死にしてしまうかも知れない。けれどもくよくよせずに、苦しんでも苦しんでも、なおかつくよくよせずに、真っ暗でも寒さに震えても、なおかつくよくよせずに、足が折れるまでは、自分はどうしたって歩いていかなければならないんだから。

 彼は穴から這い出すと、近くの小川へと早朝の大気を吸いこみながら、威勢良く空元気をして、とんとんと降りていくのであった。近くからは野ウサギが、不思議そうな顔をして見守っている。ああ、また今日が始まろうとしていた。

あふれてた清水欲しくてがぶ飲みの
たましいくらいを永遠にかかげよ

覚書

作成2010/1/21-2010/03/21

2010/3/13

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