第3変奏1、クシナダヒメ(櫛名田比売)

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クシナダヒメ(櫛名田比売)

 こうして避け祓われたスサノヲは、
出雲の国の肥の河上(ひのかわかみ)、
名は鳥髪(とりかみ)という所に下(くだ)り降(お)りた。
斐伊川上流の極みに控える鳥上山で、今日では船通山(せんつうざん)として知られている。斐伊川上流には比婆山(ひばのやま)もあり、これこそ古事記にある比婆か分からずとも、いずれスサノヲの命は、母の待つ根の堅洲国(ねのかたすくに)に向かおうとして降臨したのだろう。

 川に沿って歩む足音が、
淀みないせせらぎに掻き消され、
立ち止まって渓谷の風を受ければ、
水は留まることもなく、
我一人が留まるのみ。
「なぜ我(われ)は求められぬのか」
そう思えば、男泣きに泣きたいくらい悲しくなった。ふいに鼻歌などを唄って、気を紛らわせながら、この国の青人草どもに唄を教えてやるのだ、など取り留めもなく空想に耽っていると、川上から小さな箸が流れてきたのである。岩肌を緩急に下(くだ)りゆく渓流の、たまりのような水面(みなも)にしばし留まって、箸はくるくると回りながら、ダンスを踊るようにして、また彼方(かなた)に流れ去った。

「我は一人にあらず。」
人懐かしい思いの湧くスサノヲだったが、
「河上(かわかみ)に誰か居るのだ。」
と威勢よく立ち上がると、背後の岩肌を掴(つか)み上げ、えいとばかりに肥の河に投げ込めば、向かいの山さえぐらぐら揺れる。河はせき止められ水かさを増し、走り去るスサノヲの後ろには、あふれ落ちる滝さえも生まれたのであった。彼は跳ぶように川岸を登っていく。

 やがて館が見えてくる。
天(あめ)の八尋殿とくらべれば、みすぼらしい掘っ立て小屋だが、青人草(あおひとくさ)の住まう竪穴式(たてあなしき)とはわけが違う。少しは名の知れた神が住んでいるかも知れない。さっそく「御免、御免」と扉(とびら)を叩くと、返事を待たずに引き戸を開け放った。
 奥では薄暗い中に老夫(おきな)と老女(おみな)の二人おり、
おとなしい乙女を中に置きておいおい泣きながら、
「ああ、どうぞお許しを」
「おお、今度ばかりは」
と平身低頭。
控える娘は頬(ほお)の涙も乾き、
ほとんど放心したように、
仄白(ほのじろ)い肌をか弱く振るわせて、
怯えるような瞳に仄(ほの)かに宿った光が、
ハヤスサノヲの瞳に飛び込んできた。
彼は思わずはっとした。慌てて、
「なれどもは誰(たれ)ぞ。」
と館を振るわせるほどの大声で訊ねたのである。

 娘を奪い食らう怪物で無いことを知った二人は、なお怯えながら、
「我(あ)は、国つ神で最も貴き、
オオヤマツミ(大山津見)の神の子。
名はアシナヅチ(足名椎)といい、
妻が名はテナヅチ(手名椎)といい、
娘が名はクシナダヒメ(櫛名田比売)という」
と答えるので、
「なが泣くゆえは何ぞ」
と質問してやる。
語頭(ごとう)に3度「な」を重ねてリズムを取ってやったのは、我ながらに心地よい。「老夫(おきな)と老女(おみな)が怯える乙女を中に置きて嘆く」という構図が、心地よく語頭に「お」を繰り返しつつ、「嘆く」の「な」でリズムを整えたのを受けて返したものだ。さすがはスサノヲ、今日も随分冴えていやがる。と一人で微笑んだが、老夫婦に言葉遊びに興じるゆとりは無かった。もっともゆとりがあったからとて、理解されたかどうか、そうとうに怪しいものである。
「我(あ)が娘、
かつては八乙女(やおとめ)有りしも、
生け贄と豊穣を取引する大地の主(ぬし)、
高志(こし)の八俣(やまた)のヲロチ、
年ごとに贄(にえ)と厄(わざわい)を秤(はかり)に掛け、
我(あ)が娘を食らう。
今、また来(きた)るべき時ゆえに泣く。」

 それはあまりにもひどい。言葉遊びを無視されたことも忘れて、スサノヲは憤(いきどお)った。クシナダヒメといえば奇しくも「奇し稲田(くしいなだ)」の姫。
精妙神聖の稲田の、
足を撫で、手を撫で、
大切に育てたご老体の、
最後の結晶が奪われた暁には、
もはや大地の豊穣は泡のごとく消え、
粟(あわ)の穂一本育たないのではないか。
「ヲロチだと。その形はいかに。」
と訊ねれば、
「その目は赤かがちのごとくでして、
1つの身に八頭(やかしら)、
八尾(やお)を持ち、
からだをコケと檜(ひのき)と杉で覆い、
その長さ、谷八谷(たにやたに)、
尾根八峡(おねやお)に渡り、
腹を見れば、ことごとく血にただれて赤し」
という。あまり聞き慣れない言葉を使われても困る。
「赤かがちとは何ぞ」
と間を挟むと、それは赤く熟(う)れた刹那の酸漿(ほおずき)だという。
「ほうほう」
と頷くと、何がおかしかったのか、萎(しお)れていた娘さんが初めてクスリと笑った。微笑(ほほえ)むと頬がちょっと赤くなって、仄かに膨らんだように思われた。スサノヲははっとした。ただれた酸漿(ほおずき)だかなんだか知らないが、そんな変な怪物に、この娘さんを渡してなるものか。そんな素朴な感情がスサノヲの心に生まれたのである。

「それはいかん」
とぼそりと呟いた。
老人はすっかり怯えて、
「仕来りですから」
とほとんど諦めムードに満ちている。
とうとう娘さんは泣き出してしまった。しかも声を潜めて、堪(た)える涙がとめどなく堪(こら)えきれず、せきを切って頬をつたうように、両親を悲しませまいと控えながら、流れ落ちる涙はいじらしい。速きこと隼(はやぶさ)のごときハヤスサノヲの命、この娘さんを守るのは我(われ)の使命だと決めてしまって、神の言葉づかいも忘れて、突然、
「娘さんを嫁に欲しい。
必ず我(われ)が守り抜く。」
と宣言したのには、両親も娘さんも本当に驚いてしまった。いずれ名のある国つ神の息子か孫か、世間も知らずに甘やかされて育ったに違いない。でなければ誰があの八俣のヲロチから、娘を守ろうなどと思うものか。悲しみ嘆く毎日を思い起こした老夫(おきな)は、この大いなる脳天気が腹立たしくさえなってきた。

「守り抜くとはいかなる意味ぞ!」
といきり立つよう言い返せば、
依然スサノヲの命はその意を介せず、
「いざ、この太刀にて切り刻まん」
と言い放つ。よっぽど精神に異常があるに相違(そうい)ない。こいつが勝手に死ぬるのはこいつの勝手だが、下手にヲロチの機嫌を損ねた日には、娘が幾つあっても足りたものではない。まったく迷惑な男よ。と、どちみち最後の娘であることを忘れたらしく、アシナヅチ(足名椎)が思い煩っていると、それまで控えていたクシナダヒメが、幼子のように純真なスサノヲの瞳の奥に、何かを見つけ出したのであろうか、突然、
「乙女の幸せも知らずに生け贄となるよりは、
その神の妻となってから殺されたい」
とハッキリと口に出したのである。二人は驚いてしまった。今まで老爺(ろうや)と老婆(ろうば)の思いだけを推し量り、自(みずか)らを隠し通して犠牲(いけにえ)にさえ登ろうとした娘に、まさかこんな一面があろうとは。老神(ろうしん)はそれぞれに狼狽して、
「ああお前、わしらだけなら、
誰が愛しい娘を贄(にえ)に出すものか。
ヲロチとの契約によって大地の豊穣がもたらされればこそ、
わしらの犠牲によって、皆が幸福になれればこそ・・・」
とだけ言ったが、爺さん、胸がつかえて言葉が詰まってしまった。
そこでスサノヲの命が、
「豊穣は我(われ)が代わりに約束しよう。
我(われ)はオホゲツヒメを形見として穀物の種を運び、
懐(ふところ)に抱(いだ)いて大地に降りたのだ。
ヲロチなどと契約を交わさずとも、
天つ神の英知により豊穣をもたらすこそ、
我(あ)が降(くだ)り来たるゆえぞ」
と言い放ったのには驚いた。恐れ多き天つ神の一言に、はっとしてスサノヲを見上げれば、髭(ひげ)を剃って半人前かと思われた顔立ちには、猛々しさと知性が不思議に溶け合いながら、キラキラと輝く髪を伸ばしに伸ばして、たくましい肉体へと降りていく。
しまったと思った。
大変な無礼をしたかと目配せをした二人だったが、
老夫(おきな)が恐る恐る、
「なれど汝(な)の御名(みな)を知らず」
と慌てて訊ねれば、
「我(あ)は、アマテラス大御神の弟(いろせ)、
今まさに天(あめ)より降(くだ・お)り来たる」
と名乗るので、アシナヅチ・テナヅチともに床に転げ落ちるようにして、
「ああ、何と恐れ多いことです。
どうか娘を貰ってやって下さい。」
「何とまあ。これまでのご無礼お許し下さい。」
と平身低頭無礼の謝罪は留まるところを知らず、
娘さんはそばでくすくす笑い出すし、
二人の頭を上げさせるのにも一苦労だった。

 しかしそんなスサノヲ自身も、大いに驚いていた。先日まで天つ国を荒らしてまわり、天(あめ)より払(はら)われた己(おのれ)が、まさかこんな立派な抱負を語ろうとは、昨日までは考えもしなかった。今朝(けさ)には思いもしなかった。それは多分、こいつのせいだ。スサノヲは心の不思議を思い、ちょこんと座り込んだクシナダヒメを覗き込んだ。2人の瞳がかちりと逢って、娘さんは頬を赤くして俯(うつむ)いた。可愛い。とにかく俺が守るのだ。スサノヲは心を新たにした。

2008/01/04掲載

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