古事記第4変奏2、末弟(すえおと)殺し

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赤き猪(い)

 ここに、何も知らない末弟(すえおと)に荷を負わせつつ、伯伎(ははきの)国と出雲(いずも)の国の境の山麓(やまふもと)にいたりし時、初兄(はじめのあに)が末弟(すえおと)に告げるには、
「赤き猪(い)この山にあり。これを討ち取り、一人前となれ。」
お前は半人前だから、獲物を射止めて成長の証しを見せろというらしい。オホナムヂ(大穴牟遅)は悪意を知らない。元気よく二つ返事で引き受けた。次兄(つぎのあに)が続けて、
「我ら共に山上(やまかみ)より追い下(くだ)るから、お前は下で待ち取れ。もし待ち取らなければ、兄弟(あにおと)の契りを棄て、谷に突き落としてやる」
と怖い顔で睨み付ける。オホナムヂ(大穴牟遅)は大いなる勇気を持って、己を鼓舞して頷いた。これで兄たちの仲間入りが出来る。子供でないところを見せてやるのだ。まだ人間で言えば14歳ほどの少年である。知性より威勢が先に立つ年頃だ。オホナムヂ(大穴牟遅)は全身を漲らせて、山下(やまくだ)る猪(い)を待ち構えた。

「世の中そんなに甘くない」
そう呟いたのは、はたして何番目の兄であろう。八十神(やそかみ)は猪(い)に代わり、火をもって猪(いのしし)じみた大岩を焼き焦がし、末弟(すえおと)に向かって転がし落としたのである。森は鬱蒼(うっそう)として茂り、合間にちらちら赤く近づく大岩は、枝葉をなぎ倒し迫り来る。転がる轟音と燃えさかる燻(くすぶ)りが一体となって、鼻息粗く駆け降る獣のようだ。
「猪などに負けるものか。必ず我(われ)が止めてみせる。」
獲物と思ってがっぷり掴んだオホナムヂ(大穴牟遅)の、悲鳴をあげる暇(いとま)さえなかった。肉体の脂に乗り移るように、炎が全身を覆い尽くしたのである。焼き尽くされても力を緩めず、みごと大岩を止めたのは天晴れである。しかし麗しき神は燃えさかり、焦げた粘土のように固まってしまった。やがて焦がれた路を八十神(やそかみ)が降る。熱い熱いと下りてくる。目の前の岩を見るや笑い出した。
「焦げていやがる。」
たちまち全員で三三七拍子を取って喝采すると、

「姫やほれ、麗(うるわ)しきかな黒焦げの
仁王立ちたる益荒男(ますらお)は
望みの夫とお見受けいたす」

と酔っぱらいみたいな歌を読みながら、八十神(やそかみ)は国に帰っていったのである。

 月読(つくよみ)の夜が訪れても、息子は帰ってこない。待ち案じて戸口に佇(たたず)む母神のもとに、月明かりを背負った兎が一羽(いちわ)、天空から舞い降りてきた。因幡の白兎である。

 ・・・・・馬鹿を言ってはいけない。間違いになる。いくら因幡の兎だって空を飛んだら大変だ。実は時を惜しんで、鷹に山越えを頼んだのである。しかし心もそぞろな母は、羽ばたく兎に驚いて、
「一羽の兎よ、息子の居所を教えておくれ」
と尋ねてしまった。神の言葉は絶対である。この時から兎は、一羽、二羽と数えられることに定まったのであった。一羽の兎はオホナムヂ(大穴牟遅)の最後を告げる。驚いた母神は、裸足のまま、涙のままに駆けだして、暗闇を叫ぶ狼や、おぞましい夜鳥(よるどり)の高笑いする森に踏み込んだ。岩がかかとを打ち、枯れ枝(え)がつま先を刺し、蔦(つた)握る指先から血が流れても、母は止まらなかった。先行(さきゆ)く兎を追いながら、闇に閉ざされた森の中を、涙ながらに掻き分け、掻き分け、血を垂(た)らせるその姿には、冷徹のツクヨミ(月読)の命(みこと)でさえ憐憫(れんびん)を垂(た)れ、やがて森の奥に月の光が注ぎ込んだ。青白い光源(こうげん)の向こうに、闇に塗られた葉という葉が、いのちを限りに灯(とも)るみたいに、何万もの蛍が一斉に、呼吸もせずに発光したみたいに、森は浮かび上がったのである。獣たちは鳴き声を止め、小さな獣道が一本、光の筋のように伸びていく。兎はその道をとっとっと跳ねていく。

 母が必死に後を追うと、ついにオホナムヂ(大穴牟遅)の焦がれた大岩が、赤く照らし出されたのであった。息子は岩を支えた逞(うるわ)しい形のまま、岩から掘り出された彫刻みたいに、静かに固まっている。母は走り寄って息子の名前を呼ぶ。「オホナムヂ、オホナムヂ」と嘆きながら、黒い彫刻を抱き締め、擦(す)れた手の平でさすって、暖かみを甦らせようとする。ついには途方に暮れて、その場にしゃがみ込んで泣き尽くした。兎は掛ける言葉すら見つからない。つぶらな瞳をぱちくりさせていた。

木国(きのくに)

 月の欠けること三日に任せて嘆き尽くした母神だが、ついに兎の教えに従い、天(あめ)に参上(まいのぼ)ると、命(いのち)をつかさどるカムムスヒ(神産巣日)の神の前に伏せり、
「我が子オホナムヂ(大穴牟遅)は、
天つ神の血を受ける子です。
どうか、どうか貴き芽を摘み取らないで下さい。」
と懇願するので、カムムスヒ(神産巣日)の神は頷(うなず)いて、キサガヒヒメ(きさ貝比売)とウムガヒヒメ(ウムギヒメ)(蛤貝比売)を使わして、オホナムヂ(大穴牟遅)を再び活(い)かさせたのである。白兎はこれを歓んで歌うには、

「ここにキサガヒヒメきさげ集めて、
ウムガヒヒメ水を持ちて、
母の乳汁(おものちしる)を塗りしかば、
麗(うるは)しき壮夫(をとこ)に成りて、
出で遊行(ある)きき。」

 こうしてオホナムヂ(大穴牟遅)は復活した。復活したとあっては八十神(やそかみ)が黙ってはいない。すなわち、怒り欺(あざむ)きて山に連れ出し、大樹(おほき)を切り伏せ、矢をはめて罠を作り、そこに至らしめて氷目矢(ひめや)を放てば、矢に外された細工によって、オホナムヂ(大穴牟遅)の命(みこと)は木に打ち挟まれてしまったのである。八十神(やそかみ)が手拍子打って館に戻り、酒盛りを開いたことは言うまでもない。

 ここにまた、因幡の白兎走り寄り、御親(みおや)の命(みこと)に知らせば、母は泣きつつ探し求め、血まみれの手でその木を割きて再び生かし、その子に告げて言うには、
「ああお前、このままでは八十神(やそかみ)に殺されてしまう。今すぐ木国(きのくに)のオホヤビコ(大屋毘古)の神のもとに行くのです。」
と涙ながらに訴えるので、悪意を知らぬオホナムヂ(大穴牟遅)もさすがに落胆し、
「我(われ)兄弟の絆深きを求めれど、
命を捧げても兄どもは顧(かえり)みず」
と涙を流した。兄弟(きょうだい)で血を流す愚かさが悲しかったのか、それとも兄たちに負けたのが悔しかったのか、それは分からない。涙ながらに、因幡の白兎を従えて、少年は山を逃れて行った。

 木国(きのくに)に逃れたオホナムヂ(大穴牟遅)を、追って八十神(やそかみ)は紀伊(きい)に入った。木の大神オホヤビコ(大屋毘古)のもとに迫り来る。館は八十神(やそかみ)に囲まれ、矢が一斉に放たれる時、オホヤビコ(大屋毘古)の神はオホナムヂ(大穴牟遅)を引き連れ、守護の大木の根元の洞穴(ほこら)に逃がして言う。

「ここよりスサノヲ(須佐之男)の命の居ます
根の堅州国(ねのかたすくに)に向かうべし。
必ずその大神、汝の事を議(はか)りたまわん」
と押し出すので、「ありがとう」と礼を述べたオホナムヂ(大穴牟遅)は、闇を恐れず底に向かって下(くだ)り降(お)りた。後に残された木の神は、八十神(やそかみ)の弓矢を食い止め、一族の神々が到来するのを待って、木の神々と八十神(やそかみ)との間に、壮絶な戦闘が繰り広げられたのである。このいくさで八十神(やそかみ)は二十もの神が討たれ、木の神もまた二十の命(みこと)が滅び、豊かな紀伊の森は一時(ひととき)すっかり荒廃した。

2008/04/23掲載

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