古事記第4変奏4、腕試し

[Topへ]

蛇(へみ)の室屋(むろや)

 オホナムヂは歩み来る。
待ちきれないスセリビメが名を尋ねると、
ハヤスサノヲの命はさえぎって、
「こやつはアシハラノシコヲ(葦原色許男)という」
と睨み付けた。黄泉つ国の男ども、ヨモツシコヲ(黄泉津色許男)に対して葦原のシコヲという意味だろうが、随分見下した名称だ。オホナムヂはそれも仕方がないと思った。何しろ八十神(やそかみ)に殺されかけて、逃れ落ちた末弟(すえおと)にすぎないのだから。ただ淡々と答え返すには、オホヤビコ(大屋毘古)の神に従い、あなたの智恵を得るために、根の堅州国(ねのかたすくに)を降(くだ)りませると説明した。スサノヲはあざ笑った。

「我(あ)が与えし試練果たさねば、
二度と中つ国に帰ること許さず。
まずは腕試しせん。」

とすさまじい形相で迫って、さっそく黄泉軍(よもついくさ)から選び抜いた若者と腕を競わせたのである。スセリビメは心配のあまり胸を高鳴らせたが、危ないと心震わせた渾身の剣を、オホナムヂは辛うじて受け流して、交わした剣を首筋に突きつけた。随分汗を流している。

「黄泉軍(よもついくさ)一人に手こずるとは不甲斐(ふがい)ない。このひ弱の客に与える部屋などないわ。今宵は蛇(へみ)の室屋(むろや)に寝ろ。分かったな。」
と怒鳴りつけると、スサノヲは娘の腕を引いて去ってしまった。黄泉軍(よもついくさ)どもがさっそく室屋(むろや)を案内する。館の裏の岩肌にポッカリ空いた洞窟に、牢獄みたいな扉が付いている。重そうな鍵を差し込むと、ガチャと鈍い音を立てて、閂(かんぬき)が自由になった。中からはシュウシュウと恐ろしい音がする。おおかた皆で蛇謡(へみうた)でも歌っているのだろう。仕方がない。覚悟を決めて入ろうとすると、後ろから足音が響いた。ハッとして振り向くとスセリビメが裏口から走って来る。草履がタッタと音立てる。見張りの兵が「いけませんお嬢様」とか何とか言ったようだった。しかし、姫が何か手渡すと、兵は口笛を吹きながら屋敷の垣根に隠れてしまった。融通の利く規律らしい。オホナムヂはクルリと向き直った。するとスセリビメは息を切らせて、
「この蛇(へみ)を斬らんとすれば、斬り別れるごとに新しく蛇(へみ)となり、ことごとくが噛み殺しに来ます。決して剣を用いてはなりません。」
と注意する。オホナムヂは驚いて、
「ではどうすればよい」
と美しき姫に尋ねる。
「その前に聞きたいことがあります」
「我(われ)に答えられることなら」
「なぜあなたは、さきほど、その・・・」
オホナムヂは真面目な顔で慎んでいる。
姫は顔が火照(ほて)ってくる。
「いきなり口づけなどしたのです」
と頬を真っ赤に染めてオホナムヂを睨み付けた。その燃えるような瞳はそっと潤んでいる。口元がちょっと尖(とんが)って、怒ったようで可愛らしい。ほとんど衝動的に、
「ひと目に見て、我(わ)が妻と信じたゆえに」
と言ってのけた。随分堂々としている。顔色一つ変えない。キョトンとした眼で、私の心に入ってくる。危ない。スセリビメの胸は夏の嵐のように波打った。それを悟られまいとして、いきなり手に持った一枚布を差し出すと、ほとんど怒ったように、
「もし蛇(へみ)が食おうとしたら、
このヒレを三度(みたび)振って打ち払うのです」
とだけ言って、走り去ってしまった。
オホナムヂはポカンとして立っている。

 やがて見張りが戻って来たので、オホナムヂはヒレを隠すと室屋に入る。後ろで扉がギイと鳴って、すぐにガチャリと音がした。閉じこめられたに決まっている。真っ暗な室屋(むろや)はジメジメしている。ヌルッとした苔(こけ)のような感触に驚いて、つま先を留(とど)めると、その瞬間、ギィエッと断末魔のカエルの鳴き声が響いた。奥に誰か居る。松明をかざしたオホナムヂは硬直した。何重にも重なりあった岩棚(いわだな)から、何十、何百という眼が、黒曜石の黒光りをして、オホナムヂを睨んでいるではないか。そして互いにギィエッ、ギィエッと恐ろしい声を上げる。蛇が鳴くとは思わなかった。黄泉の蛇だから鳴くのだろうか、オホナムヂは恐ろしくなった。このつま先を踏み下ろしたら、すべての眼が一斉に、仇(かたき)を食らいにやって来る。そんな殺気に満ちあふれていた。

 オホナムヂは唾を飲んだ。動きを悟られないようにヒレを静かに取り出した。額から冷や汗が流れる。ようやくヒレを握り垂らすと、つま先を下ろして一歩前に出た。蛇(へみ)の睨む光が束の間、星々のごとくに煌めいた。しかしまだ飛びかかっては来ない。オホナムヂはまた一歩、ハラハラとヒレを舞うようにして踏み出した。蛇はヒレのなびくのに合わせて、酔ったように首を左右に揺らし始める。まるで取り憑かれた振り子ようである。うまく行くかも知れない。オホナムヂはヒレと松明を握りしめながら、芝居がかって麗しき舞いを披露しながら、蛇の前に出(い)でてはヒレを三度(みたび)振るい、蛇を打ち払いては、三度振るって、また打ち払う。蛇たちはそれに合わせて、体をくねらせながら、ヒレに吸い込まれるように、ゴロリゴロリと転がった。まるでじゃれているようでもある。これを室の奥まで繰り返しつつ繰り返しつつ、ついには蛇を仲間とすることに成功したのであった。

 こうしてオホナムヂの神は、蛇の隣りに安(やす)く寝て出(い)でたのであるが、スサノヲの命は納得しない、今日もまだ部屋が無いと云って、今度は呉公(むかで)と蜂との室(むろ)に寝ろという。ところがまたしてもスセリビメが現れた。今度は呉公(むかで)と蜂とのヒレを授け、
「二度もヒレを授けたからには誓って下さい。
私を妻として、必ず葦原の中つ国に連れ出してくれると。」
と美しい顔で怒ったように迫ってくる。気丈なところがオホナムヂのお気に入りらしい。彼はただ無言で口づけを交わした後、その瞳を見詰めながら、「必ず」と約束した。

剣比べ

 こうして呉公(むかで)と蜂との室(むろ)を安(やす)く出でたからには、よもや帰れとは言えない。スサノヲの命はもっとも粗末な一室を、オホナムヂのために貸し与えた。ひと月(つき)後(のち)に祝いの剣比べを行う。せいぜい鍛えておけという話だ。黄泉一(よもついち)の強者(つわもの)と競わせて、アシハラノシコヲ(葦原色許男)など葬ってくれるわ。娘をたぶらかしおって。妻が不在なので宥(なだ)める者もなく、スサノヲは激しい怒りが吹きすさぶのにまかせていた。

 オホナムヂはさっそく翌日から、館を守る黄泉軍(よもついくさ)どもに教えを請うて、剣術を磨きだした。スサノヲでさえも軽蔑して用が無ければ近寄ろうとはしない、天つ国や中つ国からみたら、おぞましいくらいのヨモツシコヲ(黄泉色許男)どもに、気さくに声を掛けるオホナムヂの態度に、館の兵どもも驚いた。
「我もアシハラノシコヲ(葦原色許男)と呼ばれる身。
お前達とはかわりもない。」
とさわやかな笑顔は、目映いばかりに凛々しく、端正で、とても我らの同類とは思えない。しかも偽る心が微塵(みじん)もない。妬(ねた)みを食らうヨモツシコヲたちも、たちまち敬意のようなものを抱くようになった。信じられないことに、オホナムヂに剣を教え込もうという気を起こしたのである。

 しかし気性の荒い黄泉軍(よもついくさ)の特訓は苛烈を極めた。オホナムヂは体をあざで満たし、足はむくれ、手は豆だらけ、骨が曲がらないほどの痛みを覚えながら、必死に技を盗んでいった。時々スセリビメが傷口を治療してくれるのが楽しみだ。それだけではない、時には黄泉つ国の不思議なお菓子まで出してくれる。楊枝に刺して「あーん」と言って食べさせてくれる。それが楽しみで、わざと手が使えない振りをする。闇にツクヨミの降(お)ります間、黄泉国を治めることに忙しいスサノヲは、体中あざだらけの姿だけを見かけ、軟弱者よとあざ笑った。ただ留守中に、娘の心がなびくことだけが心配だ。それで厳重に見張らせたはずだったが、スサノヲの知らぬ間(ま)に、黄泉軍は二人の味方になってしまった。

 いよいよ剣比べとなった。かがり火が囲み立ち、ツクヨミも訪れて煌々と照らしだす。アシハラノシコヲを一目見ようと、沢山のヨモツシコメ(黄泉志許売)、ヨモツシコヲ(黄泉色許男)が群がって来る。闇雉(やみのきじ)が羽ばたく空には、黄泉(よみ)の凍てつく風にも、豊穣を告げる期待のような瑞々しさが、息吹きとなって駆け抜ける。穏やかな陽気だ。降り注ぐ月の光に、遠くの山のシルエットが、青々と映し出された。これほど明るい黄泉も珍しい。そこに剣の響きが、強者の歓声が、烈しいヤジが飛び交って、東国武士の剣合わせのような活気が溢れている。中にオホナムヂの神がいた。彼はスサノヲのお気に入りの武者を4人討ち果たし、最後の5人めが剣を構えているところだ。スサノヲはオホナムヂを睨み付けた。

 困ったことになった。これほど上達するとは思いがけなかった。迂闊に5人抜きの褒美を与えるなど言うものではない。猪口才な若者め。我(われ)が直に剣を振るい、二つに切り裂いてくれようか。いや待て、それはさすがに大人げない。スサノヲは娘をちらりと見た。恋人を心配する乙女の眼だ。くそ、娘泥棒め。あの男めが。いろいろな思いが駆け巡り、いっこう気が晴れない。そのうち二人は剣を交えた。

 肩の呼吸(いき)が荒い。腕が鉛のように重い。先の戦いが烈しすぎた。もう少しで負けるところだった。辛うじて剣を返したが、すでに全霊を使い果たした。もう体が動かない。足が前に出ない。群衆の野次だけが激しく盛り上がる。オホナムヂは気力だけで相手を睨み付け、その動きを止めながら、もはやここまでかと観念した。剣が動かないのだ。不屈の闘志がポキリと折れ、諦めが胸に忍び込む。もう駄目だ、情けない。そう思った刹那だった。「最後の一人です。勝ちなさい。」という声が響き渡った。スセリビメが力一杯叫んだのである。応援と罵声の野次が、驚いたように静寂に満ちた。

 オホナムヂはハッとした。情けない。足が折れ、手が折れるならまだしも、よりによって心が折れるとは。どうかしていた。月に憑かれたみたいに、魂を抜き取られたのだ。枯れかけの勇気が、裂けた地底から湧き起こる。恋人の言葉が体を熱くする。全身全霊にかけて剣を振るえば、ありがたい、まだ動く。終われば壊れても構わない。渾身の力となって今こそ蘇(よみがえ)れ。オホナムヂの剣が舞った。同時に相手も斬り掛かる。双方の剣のリズムが同調する。決して負けてはいない。戦える。勝ってスセリビメを娶(めと)るのだ。スサノヲに我(われ)を認めさせてやる。アシハラノシコヲなどと、我を嘗(な)めるな。

 烈しく打ち下ろされた太刀は、相手の受けた剣を粉々に砕いた。砕け散った剣は不思議な銀(しろがね)の粒となって、二人を包んで桜吹雪のように舞った。地下の不思議な鉱物で鍛えた剣は、粒子を崩壊させることがあるという。時が止まった能舞台のように、オホナムヂの剣が相手の喉に突きつけられ、降りしきる銀(しろがね)に浮かび上がる。美しい幻想。まるで絵巻物に封じ込められた絵だとスセリビメは思った。そんな演出があってたまるかとスサノヲは怒った。しかし勝負が定まった以上、黙っているわけにもいかない。

 「オホナムヂよ、約束通り、我(われ)の許すかぎりの望みを叶えてやろう。八十神(やそかみ)を亡ぼし、中つ国を治めたいか。それとも天つ国に登りたいか。」
と見下ろせば、
剣で体を支えながら息も定まらない
オホナムヂが答えて言うよう。
「我が望みはただ一つ。
スセリビメを妻として娶りたい。」

スサノヲの顔が真っ赤に燃える。頭の中に言葉が無くなった。いきなり腰の剣を引き抜くと、オホナムヂに斬り掛かった。スセリビメが叫び声を張り上げて、スサノヲの心を呼び戻さなかったら、そのままオホナムヂは真っ二つになっていたに違いない。それほど女の叫び声は、つんざくように館に響き渡ったのである。娘を見ると、真っ青になって縁際(えんぎわ)に震えている。剣だけは留めたスサノヲだったが、なんとも忌々しい、そのまま憎き若造を蹴り上げると、オホナムヂは遙か館の柵まで吹き飛ばされて、ボロ雑巾のように打ち付けられ、崩れ落ちて動かなくなった。そのまま気を失ってしまったのである。死ななかったのが奇跡であった。

2008/05/15掲載

[上層へ] [Topへ]