古事記第4変奏5、鳴鏑(なりかぶら)

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枯れ野

 その夜、スセリビメは付ききりで看病をしていた。スサノヲとは一言も口を利かない。一瞥(いちべつ)を加えたきり顔を合わせようともしない。しかし父とても苦しかったのである。娘だけは奪われたくない。だがいずれは嫁に行くに決まっている。であるならば、あれほどの若者もそうは居(お)るまい。だが・・・と明け方まで煩悶(はんもん)していたが、とうとう覚悟を決めた。すなわちオホナムヂのもとを訪れると、 「最後の試練を果たしたのち、必ず娘を嫁に与えん」 と言い放ったのである。こうして傷の完治を待って、妻取りの試練が始まった。

 スサノヲの命は笛の音(ね)響く鳴鏑(なりかぶら)の矢を取ると、これを力一杯に引き絞った。弓弦(ゆみづる)を掛けるのにさえ数人を要する弓は、細竹(ほそだけ)のようにたやすく撓(しな)る。威勢良く弾けばピューキュリルルーと、黄泉つ鳥みたいな不思議な鳴き声をして、鳴鏑は彼方(かなた)に消えていった。スサノヲはオホナムヂに振り返る。

「汝(なれ)、
黄泉(よもつ)枯れ野の鳴鏑(なりかぶら)を取り、
命損なわず我が元に持ち帰れば、
必ずスセリビメを妻とせん」

と宣言した。控えていた黄泉軍(よもついくさ)の一人が、鳴鏑(なりかぶら)はネズミどもの好物なれば、すぐに取り戻すべしと忠告する。オホナムヂは頷いて、ちらと恋人の方を見たが、彼女の瞳は不安で潤んでいる。心配するな。必ず鏑(かぶら)を持って戻ってくる。そう瞳で告げて、スサノヲに一礼すると、たちまち駆けだした。黄泉(よもつ)枯れ野に向かったのである。

 この枯れ野は草木の亡骸(なきがら)の原ではない。からからに干からびた幹が、茶色にひび割れるような葉を茂らせて、枝を広げつつ育ちゆく、いわば枯れた息吹きの不思議の森なのであった。月明かりも半分欠けている。ツクヨミ(月読)の命は中つ国にでも顔を出しているのかもしれない。これを頼りに鳴鏑を探し当てるのは、容易なことではなかった。枯れ草への飛び火が恐ろしく、松明など持ち歩けそうもないからである。オホナムヂは、それでも奥へと歩み始めた。がさりがさりと枯葉が鳴って、干からびたリズムで呼び返す。時々狼のような恐ろしい遠吠えが聞こえる。
「お前の怯えた足音を、追って襲って食ってやる。」
そう叫んでいるかとも思われる。オホナムヂは恐ろしさを押し殺して、わざと両手を振って奥へ奥へと歩んでいく。足音はがさがさと拍子を高める。鳴き声はやがて消え失せた。

 足を止めて耳を澄まそう。スサノヲの話では、あの鳴鏑は風に悲鳴を上げるのではない、自(みずか)ら声を発する、鳴木(なきぎ)を弓矢にしたものだという。その声を頼りに探し出せという話だった。しかし、何も聞こえない。まだ近くは無いようだ。オホナムヂは、半ば気落ちしてあたりを見渡した。すると奇妙なことに、枯葉を長く巡らせた背高の草に、そこだけ芳醇の香りを湛(たた)えた赤い実が、オホナムヂの腰の辺りで、サクランボの様相で幾つも実(みの)っている。蛍草よりずっと淡い微かな輝きで、豆電球みたいに赤く光っている。干からびた風景の中に、浮かび上がった原色が、黄金(こがね)の月と呼応して、異様に映(うつ)る。オホナムヂが近寄ってみると、その一つを食べていたネズミが、慌てて飛び退いた。あっと思う間もなく、彼方(かなた)に逃げ出してしまった。根の堅州国に住まうこの動物は、根棲(ねず)みと呼ばれ、中つ国と黄泉つ国を自由に行き来する、ほとんど唯一の生き物であった。この枯れ野は彼らのお気に入りらしい。

 そうだ、追い掛けて、鳴鏑のことを尋ねてみよう。彼はざくざくと踏み出した。枯れ木に阻(はば)まれた闇の奥が、うっすら赤らんで見える。赤い実が一面に茂っているらしい。彼はますます枯れ草を踏みつけたので、驚いたネズミたちは、いち早く地肌に姿を隠してしまった。オホナムヂはそんなことは知らない。ただ、枯れ木の群れが途切れると、赤い実をつけた枯れ草が一面、風にたなびいている野原に出た。足を踏み入れると、赤く発光する靄(もや)の中に、腰まで浸(つか)っているような心持ちがする。一つ一つの輝きが弱いのと、その数が無数にあるせいだろう。あんまり不可思議なので、ついには立ち止まって、しばらくはぽかんと放心していた。ようやく、この当りに偶然落ちていないかと、耳を澄まして鳴鏑を探してみたが、そんな奇跡はそうあるものではない。やはりネズミを探して聞くしかないか。オホナムヂは大きな声を出して、

「ネズミよ、ネズミ。
闇の君子(くんし)よ、厨君(ちゅうくん)よ。
寝ずの姿を晒しておくれ。
寝ずに姿を晒しておくれ。
鳴鏑を知らないか、
あの鳴鏑を知らないか。」

と呼んでみたが、チュウともクンとも言ってくれない。その代わり、ふいに風が吹き込んだと思ったら、豪(ごう)という烈しい炎が、四方の森から一斉に立ち上った。スサノヲの命(めい)により、枯れ野のに火が放たれたのである。

火計(かけい)

 「枯れ野に火を放つ」とは言ったものである。猛り狂った紅蓮(ぐれん)の炎は、自らが呼び込んだ風に煽(あお)られてはのたうつように、燃えさかる憎しみから逃れようと、枯れ葉から枯れ葉に飛び移り、なお一層のことのたうち回る。苦しい、苦しいと嘆きながら、オホナムヂを目がけて、四方から押し寄せてくる。しまった、スサノヲは我(われ)を焼き殺すつもりか。オホナムヂが驚いて見渡せば、炎の壁は孤客(こかく)に迫る。絶体絶命。もはや、これまでか。

 しかし驚いたのは、オホナムヂだけではなかった。枯れ野に住まうネズミども、モグラどもが、焼き出されるように駆け込んで来たのだ。もはやオホナムヂなど眼中にはない、逃れるようにして赤い実の原に駆け込んできた。それが十や二十ではない。何百も、何千もの姿で、草原は埋め尽くされてしまった。キイキイと断末魔(だんまつま)の悲鳴を上げれば、あたりはまるで地獄草子の有様だった。踏みつけ合ったり、噛みつき合ったりして、大変な醜態をさらけ出した。そのうち一匹のネズミが不意に、呪いを込めた譫言(うわごと)か、それとも悟りを開いたか、あるいは単なる乱心か、

「内(うち)はほらほら、
外(と)はすぶすぶ」

と叫んで小躍りを始めたのである。なるほど、草原の内側はほら、こんなに安泰だが、外(そと)はスブスブと燃えさかっている。ネズミやモグラは同調しやすいらしく、しまいにはみんなで声を合わせて、

「内(うち)はほらほら、
外(と)はすぶすぶ。
内(うち)はほらほら、
外(と)はすぶすぶ」

と足踏みを始めてしまったのである。火は刻々と迫ってくる。大合唱は狂乱の盛り上がりを見せている。自分も悟って斉唱(せいしょう)に加わろうかしらん。それにしても不思議なのはモグラだ、自分で地下に逃げれば良いのだが・・・などと考えていたオホナムヂだったが、ネズミたちの合唱に合わせて、
「内(うち)はほらほら、
外(と)はすぶすぶ」
と口の中で呟いているうちに、はっと思い当たることがあった。

「内はほらほらとして、まるで洞窟(どうくつ)のよう。
その戸(と)はすぶすぶとして、すぼまっている」

 我に返ったオホナムヂは、たちまち「静まるのだ」と稲妻のような声を奮わせた。驚いたネズミらはピタと静まり返る。炎だけが轟音を立てている。オホナムヂは落ち着いた調子で、
「お前ども、己(おの)が命が惜しければ、
俺(おれ)の命令に従うのだ」
と命じた。

 すなわち命(めい)に従い、モグラは一丸となって地中を掘り進み、ネズミは原(はら)の草を噛み千切ると、周囲の枯れ木まで運んでいく。熱さ堪(こら)えて運んでいく。そのネズミの数はただごとではない。迫る炎に勝る早さで駆け回っている。一方ではモグラどもが、掻き出した土を土塁の如く積み上げる。広大な草原はほどなく完全な空き地となった。必死になって火を熾(おこ)していたオホナムヂは、これを松明にかざすと、四方の枯れ木に向かって次々に投げ込んだ。ぱっと炎が立つ。たちまち燃えさかる。オホナムヂは走り戻ると、ネズミやモグラと共に、掘り下げた洞穴に飛び込んで身を隠したのであった。それからしばらくのち、迫り来る炎の群れと、押し返す炎の群れが、互いを焼き尽くそうと罵(ののし)り合う、すさまじい金切り声が、焼かれる木々の悲鳴と共にこだました。阿鼻叫喚とはここに生まれた言葉かと、疑うくらいの恐ろしい悲鳴だ。洞穴の中は身じろぎ一つしない。皆押し殺したように、枯れ野の嘆きを聞いていた。互いに寄せ合った、動物たちの鼓動まで聞こえてくるようだ。それほど固くなって、彼らは奇跡を願ったのである。時々熱風が押し寄せ、穴蔵の中に吹き付ける。ああ、これまでかと観念すると、冷たい風が入ってくる。炎と共に舞い上げられた枯葉が飛んで行く姿さえ目にした。だが、ついにはうなり声が、少しづつ遠ざかるのが、はっきりと感ぜられた。もう大丈夫だ。我らは助かったのだ。オホナムヂはそう思うと、今度は疲れが押し寄せてきた。そして何時(いつ)しかうとうと眠ってしまったのである。

 どれくらい寝ただろう。不思議な「ピキューリルル」という音がして目覚めると、オホナムヂの前にはあの鳴鏑(なりかぶら)があった。ネズミどもが運んで来たらしい。よく見ると所々に囓(かじ)った後がある。しかし形はしっかり残っている。時々自(おの)ずから不思議な響きを上げる。握りしめて外に出てみると、荒れ狂う炎はすっかり消えていた。枯れ野はもはや、灰となって消え失せた。ただ焼け残った幹の間から、所々に黒ずんだ煙が立ち昇るばかりである。やがて遅れて出てきたネズミらが、一斉にオホナムヂを囲んで踊りを始めた。感謝の気持ちを伝えたいらしい。オホナムヂも大変嬉しかったので、大いに踊り狂った。陽気な笑い声が辺りにさえ渡った。やがてネズミらは森を替えるため、元気よく立ち去ったのである。彼らに郷愁の哀れは無いのだろうか。オホナムヂはそのバイタリティーを愉快に感じた。愉快に感じて、足並みも軽く、館に踵(きびす)を返したのである。スセリビメの姿が瞼(まぶた)に浮かぶ。妻を抱きしめるのももうすぐだ。

2008/06/01掲載

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