レンブラントの生涯略歴

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レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(1606-69)

森や山のほとんどないひたすら平野のオランダにはこんな言葉がある。「世界は神が作り、オランダはオランダ人が作った。」紀元前から1300頃にかけて次第に海水が上昇を続ける中にあって、必死で領土を守ろうとした北部ネーデルラントの民は、堤防を築き、治水と灌漑さらにはパンの粉ひきまでもこなす風車を作りあげ、必死に海水から居住する低地を守ってきた。その感慨と誇りがこの言葉を生んだのである。そのオランダに光と影を操る一人の男が生まれたのは、1606年7月15日のことだった。


ライン地方のハルメンの息子であるレンブラントという名前を持つ偉大なる画家の卵は、毛織物工業都市ライデンの製粉業を営む風車付きの家に、母コルネリアによって生み出された。1613年に神をも恐れぬ7歳児がラテン語大学に入ったとき、誰が1620年にわずか13歳で入った(当時は特殊ではなかったものの)オランダ最古の1575年成立ライデン大学をあっさり退学(?)して、イタリア留学の絶大な博付けを持った空想画の中家ヤーコプ・ファン・スワーネンブルフの元で絵画を学び始めてしまうと思ったことだろう。あまりの早業にライデン入学は名前だけで、税金対策と兵役を逃れるための賢い選択だったのかと、後の学者に思われる始末、すでにどっぷりと絵画の学習に手を染めていた。それが証拠に1641年に後のレイデン市長が記した本の中を見てみたまえ、そこにはピーテル・ラストマン(1583-1633)の元で6ヶ月学習した者なりと書いてあるではないか。ハルメンの息子は3年間学んだスワーネンブルフだけでは飽きたらず、父の勧めに従って、アムステルダムのイタリア留学済みの物語画大家であるラストマンの元に武者修行の旅に出ているのである。レンブラントより前の時代、聖書や神話を扱った絵画で名をはせていたラストマンは、18歳の青年を半年ばかり面倒見た結果として、後に前レンブラント派という切ないネーミングを付けられることになった。このラストマンの元で学んでいた同郷のライデン出身のもう一人の画家、ヤン・リーフェンス(1607-74)と赤と白のライバル関係を結んだレンブラントは、ライデンに戻るやいなや共同でアトリエを開き、熱い友情と血みどろの殴り合いを交互に繰り広げながら、互いにさらなる高みを目指して精進していくことになる。注文を取り付け、制作する一方、オランダ語で頭を意味し、頭部のみを描くトローニー(頭部習作)において修行と実験を行ったが、数多くの自画像トローニーはさらなる売り込みの足がかりともなったのだ。後々油彩30枚以上、エッチング16枚、素描12枚にも上る自画像の初期の傑作は、かつてマウリッツハイス美術館に納められていると考えられていたが、最近ではこれはレンブラント本人の絵ではなく、それまでレンブラント以外の作品だとされていたニュルンベルクにある自画像こそが、初期の傑作自画像だと判明してしまったからさあ大変。一昔前の学者達は偽物を指して、大いばりでレンブラントを説明していたわけだ。こらこら、笑っちぁいけない、レンブラントほど本人の作品か工房で弟子達が仕立て上げたのか、さらには何を題材にした作品なのかさ迷い歩いている画家も珍しいのだから。とにかく、やがて数多くの注文が舞い込むようになると二人はさらなる野心に目覚めて、父も亡くなったとある日曜日(???)、レンブラントは夢の都アムステルダムに向けて、リーフェンスはイギリスに向けて、それぞれ杯を酌み交わした後に旅立っていくのである。


13世紀、アムステル川がエイ湾に注ぎ込むあたりに集落が出来、洪水から身を守るために堤防(ダム)を築いたのが直接の始まりとされるアムステルダム。やがて1306に完成した旧教会を中心として自治都市として拡大していく中、町中に水路が張り巡らされていったという。このオランダの首都は当時、世界最高の商人と歌われ、海洋貿易の富を一手に集めて世界都市、世界銀行としての成長を遂げている最中だった。為替が流通し、銀行、株式取引所が建ち並び、東インド会社からの莫大な収入により裕福になった市民達は、数多くの技術者や職人を必要とした。数多くの外国人労働者が流れ込み、金儲けが人々の合い言葉となった。やがて1610年に約5万人だった人口は40年には15万人にも達したのである。1668年には世界に先駆けてガス灯が灯るなど都市生活は現代のような様相を呈し、プロテスタントの国ではあったものの、それぞれの宗教には驚くほど寛大なオランダ人気質は、金儲け、学問、芸術を分け隔てなく考える自由なものだった。1631年、そんな国際都市に上京した25歳のレンブラントは、当時の画家達の習慣に従って、まんまと有力画商ヘンドリック・ファン・アイレンブルフの家に住み付くと、画家達を集めて株式投資のようなことまで遣っていたアイレンブルフのお気に入りの画家として、32年には「ニコラース・チュルプ博士の解剖学講義」の仕事をこなして大成功を納めた。翌33年には早速、裕福市民層、さらに様々な組合や市民隊から数多くの肖像画の注文が舞い込み、彼は名声を獲得した自分を慕って集まる弟子達を総動員して、レンブラント工房にやってくる数多くの注文を次々に片づけていくのである。彼の工房では一昔前の同時代人、ルーベンスの高次に組織化されたような役割分担(ある者は周囲の人物だけ、ある者は背景だけ、小物だけを制作するといった)は行わず、かなり弟子達に自由な裁量が任されていたようである。弟子の考えに従って、模倣絵画では先生の構図が変えられている例もあるが、あるいはレンブラントは構図の実験を自分だけでなく、弟子達が行うことを奨励していたのかもしれない。都に出てきて自画像のあり方も変化した。かつて、絵画物語の何らかの配役を当てはめて練習的要素を持って書かれていた自画像が、おそらくより現在の自分自身を忠実に表したものが多くなっていく。これにより、細部まで注文に対応できるスキルをアピールすると共に、すでに得た名声によって、己のプロマイドを顧客に買って貰おうとする野望までもが目覚めてしまった。そんなこの時期の肖像の傑作として「鉄兜を被った自画像」を上げておこう。自信を深めたレンブラントはライデン時代RHL(レンブラント・ハルメンスゾーン・ライデンス)と書いていたサインを、ただ単にレンブラントと書き現すようになった。もちろんルネサンスの巨人達が、ファーストネームだけで戦い抜いたのに習ったのである。


春が来た、33年のある日アイレンブルフの邸宅にいとこのサスキア・フォン・アイレンブルフが来ていたのである。読み書きをこなし教養豊かな当時としてはまれな知性を持ったこの女性の美しさにすっかり打ちのめされたレンブラントは、それまで多いとはいえなかった女性肖像画を次から次に描き連ねた挙げ句の果てに、34年、目出度くサスキアと結婚を成し遂げた。さらに鴨ではなくカモシカのようなサスキアには、親が残してくれたあまりにも膨大な財産が背中にネギのように乗っていたので、レンブラントはその資金を利用して画家組合に名を連ね、上流階級の仲間入りを果たすことが出来たのである。39年にはついに後先を考えない大邸宅を購入するが、レンブラントの儲けではなくサスキアの財産で手に入れたのだという噂までも広がった。


絵画においては後にアムステルダム市長になるアンドリース・デ・フラーフから上半身より遙かに値段の高い全身像の肖像を求められるなど、様々な肖像画をこなす一方で、オラニエ公フレデリック・ヘンドリックからキリスト受難の連作を求められるなど、聖書や神話の物語絵画も舞い込んだ。当時の絵画伝統は物語画こそが画家の最高の仕事だったし、ほとんど同時期の先輩ルーベンスは物語絵画でヨーロッパ中に名を轟かせていた。たしかにオランダでは様々な専門分野すべてに高い需要が見込めたが、レンブラントにとっても最高の仕事は物語画だったのだ。サウル王の怒りにスポットを当てたルーカス・フォン・レイデンの絵画を乗り越えようとした野心作、「サウルの前で竪琴を弾くダヴィデ」や「眼を潰されるサムソン」など、次々に物語画の傑作が生み出された。


一方次々に生み出されたレンブラントとサスキアの子供達は、皆言葉を話す間もなく天上に帰ってしまったので、二人の心はまったくもって晴れなかった。ようやくすぐに別れを告げないで成長してくれる息子ティトゥスが41年に生まれたのだが、その翌年、最愛の妻は遺言状を残すと結核に打ちのめされて、わずか29歳で高い天上に向けて旅立ってしまった。悲しみこらえてレンブラントは42年の大作「夜警」を完成させたが、すっかり創作の糧を失ってしまった。

 

泣いてばかりはいられないと、幼い息子の養育のため夫を亡くしたヘールチェ・ディルクスを乳母として雇い入れたのが運の尽き。自分の心の隙間を癒すためについ、愛人関係を結んでしまった。ところがもっと若くて生きのいいヘンドリッケ・ストッフェルスが現れたので、愛人の鞍替えを敢行したところ、49年ヘールチェは家を出るやいなやレンブラントを婚約不履行で訴えた。裁判に大勝利を収めたヘールチェは見事賠償金を獲得しただけでなく、その間レンブラントのコレクションをじゃんじゃん売り払って、莫大な富を築いたという伝説が残されている。そのためヘールチェは更正施設に連れて行かれてしまった。結局嵐の後はヘンドリッケが籍は入れないものの内縁の妻としてレンブラントを慰め、二人の間の2番目ヘの子供コルネリア女子はレンブラントの死後まで生存するただ一人の子供となるのである。


市場の好みが折り合わずに肖像画の注文が減ったのか、肖像画のような金になる仕事には見向きもしないで、物語画ばかりをえり好んで描いていたのか分かったものじゃないが、注文量に見合わない美術品購入や骨董品コレクションばかり重ねていたらいたら、気が付けばレンブラント自身の経済はすっかり破綻の危機に瀕していた。52年にはシチリア島の絵画コレクター、ドン・アントニオ・ルッフォから哲学者の肖像を描いてくれと抽象的な注文を貰って、「アリストテレス」を制作するなど、傑作を編み出してはいたものの、すでに翌53年には至る所から借金を重ねていたのである。順風だった生活に変化が生じたこの時期、絵画の描き方においても変化が現れた。アムステルダム市長ヤン・シックスの影響という噂もあるが、初期の細部まで入念に描写するようなやり方は、次第に当時の画家達の一般的スタイルから離れていく。絵の具を厚く塗り荒く描くことによって、適当な距離から見るとかえってリアルに見えるという、ルネサンスの巨匠ティチアーノと同じスタイルを模索し始めたのである。さらには、ルネサンスの絵画に着想を得た作品や、同一サイズの一連の聖人像などルネサンス的な作品が増えていくなか、「デイマン博士」に至っては、マンテーニャの構図が一目見れば分かるように使われてるなど、新たな境地に足を踏み出した。しかし、ちょうどその頃オランダ経済は、チューリップの球根だけで豪邸が建つほどのチューリップ市場投機が37年にバブル崩壊した後、すでに歪みが生じていたのかもしれない。遡って51年にイギリスが自国の貨物を外国すなわちオランダに運ばせない航海条例を出したのに腹を立てて勃発した、1652-54の第一次イギリス・オランダ戦争にすっかりやつれ果てて、十分な打撃を受けてしまった。それに釣られて、借金地獄に陥って豪邸のローン返済すらままならなくなったレンブラントも、1656年法廷から財産譲渡の判決を受け、とうとう自己破産を成し遂げてしまったのである。絵画の中に逃げ込んだレンブラントは、この56年に「ヨセフの息子達を祝福するヤコブ」と「デイマン博士の解剖学講義」という2つの傑作を仕立て上げると、住み慣れた豪邸を離れヨルダーン地区の小さなアトリエに引っ越していった。


自己破産はしたものの、画家の名声が破綻したわけではもちろんない。かつての注文数を取り戻すことなど出来ないが、例えば61年と63年には先ほどのルッフォから注文を受け、「アレクサンドロス大王」と「ホメロス」を描くなど、重要な制作をこなしていた。しかし、せっかく絵画を販売しても財産譲渡を言い渡されたレンブラントは受け取った金のほとんどを債権者に渡さなければならない。そんな困ったちゃんの父上を見て育った息子ティティスは見る見るうちにしっかり者に成長して、1660年内縁の母ヘンドリッケを共同経営者として美術商会を立ち上げ、レンブラントを名目上の社員とした。これによって借金の債権者達がレンブラントの稼ぎを全部持っていってしまうことを防いだのである。「息子よ」と叫んだかどうだか、レンブラントは1661.2年に「クラウディウス・キウィリスの謀議」と「布地組合の見本調査官」を制作、海外からの注文も舞い込んできたがはいそこまで。クラウディウス・キウィリスの絵画はお引き取り願いますと言われ、1663年にはなんとヘンドリッケが夫を残して病に倒れ、イタリアのトスカーナ大公コジモ・デ・メディチがアトリエを訪問してくれた翌年の68年には、あろう事か頼もしい息子のティティスまでもが結婚したばかりで天国に旅立ってしまった。衝撃を受けたレンブラントは2枚の自画像を描き上げては見たものの、69年10月4日、息子の後を追って高い空に舞い上がっていった。



箇条書き



エッチング(腐食銅板画)

 16世紀に発明された。銅板をロウで覆って上からエッチング・ニードルで図柄をひっかいて描く。この銅板を酸の溶液に入れると、ロウの削られた部分が酸で腐食するので、銅板からロウを取り除いてインクを付けて印刷機にかけると出来上がり。

ドライポイント

銅板を直接引っ掻いて描く。

2004/1

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