ベートーヴェンの生涯と楽曲

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生涯

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンについて
 一昔前には、日本人の不治なる奇病から、聖人君子みたいに、たたえられて、それがかえって等身大の彼を貶めているのに、ベートーヴェン大明神みたいな、讃え口調すら見られたという彼も、最近では、映画やら、「不滅の恋人への手紙」やらで、すっかり身近な?存在になってきた。また、「のだめカンタービレ」の影響で、もともと日本ではそれなりに人気のあった「交響曲第7番」が、ポピュラーソングなみに、人々の知るところになったのも、記憶に新しいところだ。そうして、ベートーヴェンの32曲のピアノソナータは、その芸術性もさることながら、学習段階の踊り場ごとに対応した、難易度の差もあって、ピアニスト養成所の教本として、世界的に重要な教科書を提供し続けるのであった。
生涯略歴
 1770年、ドイツのボンで生まれたベートーヴェン。宮廷歌手の父から音楽を教わるが、酒とスパルタで少年のこころに傷を負わせたという。一方では、ネーフェから的確な音楽教育を受け、1787年にはヴィーンに出掛けるが、母の訃報と共にボンに戻り、駄目になっちまった父親の代わりに、ベートーヴェンは音楽で生計を立て始める。ボンに立ち寄ったハイドンの弟子となって、1792年にはヴィーンに移住。ピアニストとして名声を博す一方で、作曲の勉強を続け、ピアノ三重奏曲を作品一として出版。ベートーヴェンは作曲家としても次第に名声を高めていくことになった。
 1802年、難聴から「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる、自殺しようと思ったわけではなさそうなこころの叫びを執筆し、数多くの傑作を残すこととなった。
 1804年には交響曲第三番「英雄」が、1808年には交響曲第五番「運命」、第六番「田園」が作曲され、1824年に交響曲第九番が発表されるまで、全部で九つのシンフォニーを残している。他にも弦楽四重奏や、32曲のピアノソナタは、聖典扱いされるくらい、学習者にとっても、好事家にとっても大切な存在だし、5つのピアノコンチェルトもそれぞれに忘れがたい作品である。
 しかし生活は順風満帆ではなかった。不滅の恋人との恋に破れ(たらしい)、甥のカールとの養育を巡って裁判に明け暮れ、晩年はほとんど耳が聞こえなくなっていたが、音楽だけは無頓着に高揚を続け、1827年に亡くなっている。
その詳細(西洋音楽史のページへ)

作品解説、楽曲解析(作業中)

交響曲(シンフォニー)(作成順)
交響曲第5番 「運命」Op.67(1808)ハ短調
交響曲第6番 「田園」Op.68(1808)ヘ長調
交響曲第3番 「英雄」Op.55(1804)変ホ長調
交響曲第8番 Op.93(1812)ヘ長調
交響曲第7番 Op.92(1812)イ長調
交響曲第4番 Op.60(1806)変ロ長調
交響曲第1番Op.21(1800)ハ長調
交響曲第2番Op.36(1802)ニ長調
交響曲第9番Op.125(1824)ニ短調
ピアノ協奏曲(コンチェルト)
ピアノ協奏曲第1番op.15(1798)ハ長調
ピアノ協奏曲第4番op.58(1806)ト長調

関連リンク

「ウィキペディア」
…………ウィキペディアの「ベートーヴェン」のコンテンツ。
「Web KANZAKI」
…………交響曲のページなど有用な情報があり、非常に見やすい。

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