ベートーヴェン、交響曲第3番、概説

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成立(1804)

 着想は、遺書をしたためた年である、1802年10月頃に生まれたものであろうか。1803年に集中的に作曲され、1804年始めにウィーンで完成。交響曲第3番のスケッチの中には、交響曲第5番6番の着想が混ざり込むほどの充実作曲生活が。

 1804年12月のロプコウィッツ邸での私演をへて、翌年1805/4/7に作曲家自らが指揮してアン・デア・ウィーン劇場で初演。献呈はロプコウィッツ候に、出版はスコアが1823年にボンのジムロックから行われている。

「英雄」ボナパルトに関する経緯

 伝記作者を喜ばせるのが趣味だったベートーヴェンの弟子のフェルディナント・リースが有名な逸話を残している。
「1804年5月、ナポレオンが皇帝に就任したというニュースを聞いたベートーヴェンが叫んでしまったのである。『それではもはや彼もありきたりの人間と一緒ではありませんか。今に暴君になるのです、いずれきっとです』立ち上がったベートーヴェンは、あまりの怒りに標題に書いてあった『ボナパルトと題された』という部分をかき消して、さらに収まりがつかずにそれを破り捨ると、椅子と一緒に私の方に投げ付けてきたので、驚いた私はイギリスの方まで逃れた。」
 椅子と一緒に以下は嘘であるが、おおざっぱにこのような逸話が残されているのである。さらに、その後書き直された標題には、この交響曲が
「あるエロイカ(英雄)の思い出のために交響曲」
と題された、ということになっているが、この話はそう簡単ではないらしい。

 まず第1に、1804/8/26に出版社ブライトコップ&ヘルテルに送った手紙では、
「この交響曲はまったくもってポナパルト(Ponaparte)です。通常使用の楽器の他に、3本ものホルンをオブリガートとして加えるのです。」
などと記されていて、つまり彼はナポレオンの戴冠前から、ボナパルトのためではなく、「ポ」ナパルトという別人のために作曲をしていたのである。(……そんな訳無いだろう)



 ……すいません、今のは忘れてください。いずれこの手紙の段階では、ナポレオンの皇帝就任が済んでいるにも関わらず、ベートーヴェンはこれを彼に結びつけようとしていたことが分かる。それに1805年の公開演奏会では、まだ「エロイカ・シンフォニー」の名称は使用されていない。つまりリースの話しに何らかの偽り、捏造、あるいは前後関係と意味づけの再統合が行われた可能性がある。そして「エロイカ」の名前は、1806年、管弦楽譜の出版が行われた時に初めて付けられたそうだ。

 さらに自分用の総譜の標題を覗いて見ると、確かにボナパルトと題されたの部分は消してあるが、下にボナパルテのために書かれたと言う文字は、消されもせずに残されたままだ。リースの言うようにこの時ナポレオンへの反感が明確に生まれたのなら、何故その部分だけは最期まで消さずに残しておいたのか。ボナパルトの題名だけが消されているために、一層「ボナパルテのために書かれた」という部分が消されていないことの意味がクローズアップされ、到底リースの逸話通りに事が運んだとは思えないのである。

 実はこの曲の作曲中、交響曲第3番を手みやげにフランスに渡ってみようかと考えていたベートーヴェンが、それを取りやめウィーンのパトロンと関係を維持する方向に歩み出した結果、反ナポレオンのウィーン貴族達と心を同じくする必要性があったのではないか。という話しもある。

 これに興味のある方はぜひ、声に出して読みたいメイナード・ソロモンの「ベートーヴェン上」を大声で朗読してください。ベートーヴェンがナポレオンに抱いていた複雑な感情が、次第にクローズアップされてくるのを、目の当たりにすることでしょう。



 ついでに、ウィキペディア (Wikipedia)を見たら、作曲者が第9番を除き、自分自身の交響曲中、もっとも出来栄えに満足していた曲はこの曲だったという説があると加えられた後に、
「この曲の標題であるエロイカ(eroica)とは、もともとの語eroicoが女性名詞であるsinfoniaを修飾するために活用した語形である。現在では、単独でこの語形のままドイツ語の辞書の見出しとして採用されることもあり、固有名詞化しているとみることもできるが、単独で用いるのは本来はあまり適切ではない」
などと書いてありました。これからは、エロイカ・シンフォニーアと最後まで発音しましょう。



・革新性覚え書き。終楽章の変奏曲。緩徐楽章の葬送行進曲。交響曲編成でホルンを3本使用。

楽器編成

・フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン3、トランペット2、ティンパニ2、弦5部。

2004/8/15

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