ベートーヴェン 交響曲第8番 ヘ長調

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概説

・まるでハイドンやモーツァルト時代の最上のシンフォニーのような、自己完結した音楽的結晶を目指した作品。第3番のように動機やリズムを理論的に組み合わせてその結果、理論を感じさせないまでに昇華させた作品とは正反対の、純粋に音楽の耳の心地よさを最優先し、動機やリズムはそのための補強に使用されるという意味で純音楽的作品であり、同時に様式を拡大させさらなる意味を持たせるという遣り方ではなく、様式を切りつめ様式の抽象化に成功したような作品。そうした意味で真に完成された古典的作品を目指したと言えるかもしれない。しかし、一方では最終楽章には様式の新たな発展や、数多くの作曲家の理論的なトリックがしかけられているが、それは全体の純音楽的意味を一層高めるように構築されていて、8番全体に一層の輝きを与えている。つまり4楽章はもっともユニークで興味深い、拡大された楽曲でありながら、前の3楽章との比重関係は古典派の交響曲のように護られていて、重厚さと重心は第1楽章にあり、軽快性とユーモアは最終楽章でピークを迎え、全4楽章のバランスは黄金分割でもなされているかのようだ。
・無駄のない声部書法の洗練された付けいる隙のない完成された様式は、モーツァルトのアイネクライネやジュピター交響曲のようにすべてが必要不可欠なものであり、足りないものは何もない。皮肉なことに、小振りで純音楽的であり何の哲学も思想も含んでいないことが、ベートーヴェンの他の交響曲に対してこの8番を幾分マイナーなものにしているが、この第8番は切りつめられた様式、無駄はないが思想に固着しない書法、リズムの愉快さやユーモア感などできわめてユニークな作品であり、実は周到に策を弄した最終楽章においてもその本質は替わらない。(むしろその効果を生かすように、計略がなされているため。私達は連続的に心地よい罠に掛かりっぱなしになる。)

作曲時期と成立過程

・1809年にフランス軍に占領された衝撃に天に召されたハイドンの祟りが東方に沸け出でて、1812年に始まるナポレオンのロシア遠征を覆い尽くし、遂にフランス軍が敗退を開始する原因となったかどうかは知らないが、そんなロシア遠征に合わせるように作曲が進められた。改めて見てみると、まず1811の終わり頃7番と共にスケッチが開始されるが、翌年の4月にまず7番が完成、一方8番は一時ピアノ交響曲第6番を目指したが、1812年7月始めに手紙による恋人攻略のためカールスバートに出掛けたベートーヴェンは、ナポレオンのロシア遠征に先んじて大敗北を喫(きっ)し、精神的に破綻することによって、音楽のみが昇華して交響曲として形を整え、夏から9月にかけて急速に作曲され10月に完成された。1814年の初演では、すっかり第7番交響曲の名声に影を潜めてしまったが、不滅の恋人への思い出の隠れたこの曲を「はるかによい」と考えていたベートーヴェンは「人々が賞賛しないからこそ傑作だ」という謎の言葉を捨てぜりふ(パルティアン・ショット)にして演奏会を後にした。それでは音楽を昇華させた手紙を一部引用して終わりにしよう。

     おはよう7月7日ー
 「ベットを出る前からすでにもう、思いはあなたの所へ、私の、私だけの不滅の恋人の所へと向かうのです。私の情感は、しばらく楽しい気分に留まっていたかと思うと、唐突に、あるいは情感を込めて再び悲しくなります。」
 ・・・訳者が酷いとせっかくの手紙も滅茶苦茶だ。この翌年の1813年になって、3日間の失踪事件が発生し、ズメスカルとの要塞攻略が開始したとするソロモンの説がある。
 「もちろん!そして僕も仲間に入れてくれ。たとえ夜であっても。」
 8番の初演された1814年、ヴィーンでは会議が踊っていた。ベートーヴェンの交響曲の新作はこの後10年間、1824までヴィーンの聴衆の前から遠ざかるのである。

7番8番の覚え方

・お祝いに(1812)、国(92)に送ったシンフォニー、組(93)で生まれた7・8番、公開初演は祝いさ(1813)、祝いよ(1814)。・・・そんなんで覚えられるか!

楽器編成

・フルート2,オーボエ2,クラリネット2,ファゴット2,ホルン2,トランペット2,ティンパニ2,弦5部

演奏時間

カラヤン(愛称ころよん)指揮ベルリン・フィル1962演奏の時間
第1楽章-9:17
第2楽章-3:54
第3楽章-5:54
第4楽章-7:07
・関係ないが今このCDの解説を見たら「不滅の恋人へ」の手紙が明るく希望にあふれた手紙と書いてある。この人国語赤点だったのかしら。

ついでに古楽演奏のガーディナー版の時間
第1楽章-8:40
第2楽章-3:45
第3楽章-5:27
第4楽章-6:17

2004/10/7

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