シラーの「歓喜に寄せて」歌詞選択

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シラーの「歓喜に寄せて」

 第4楽章の作曲プロットは使用歌詞の配列構成が最重要な要素となっている。ベートーヴェンが使用した歌詞とその配列を調べるために、まず9つの詩節を持つシラーの元の詩を、それぞれいい加減に見てみることにしよう。

シラー「歓喜に寄せて」はおおよそこんな感じの内容(断然いい加減なので)

1.
喜びに踏み込む喜びは世界を一つにして王侯と乞食が兄弟となる
→抱きしめキスを交わせ天の彼方には父が居る
2.
喜びの成果は友情であり愛情だ
→それを持つ者達よ輪して共感し主に至ろう
3.
自然から喜びを飲んで我々は生き、キスとワインと友を与えられる
→ひざまずくか、感じるか、星空の先を探せ、創造者はそこに居る
4.
喜びは天上の規律であり天球の動かし手だ
→走れ、兄弟よ、喜びに満ち
5.
喜びは探求に微笑み、忍耐に道を示し、信仰に宿り、死後の世界に立つ
→よりよい世界のために堪え忍べ、天上で主が報(むく)いてくれる
6.
(喜びの心を持って)神を倣(なら)い怒りも復讐も忘れ敵も許せ→地上では和解を、裁きは神が行なう
7.
(酒飲み歌スコリオン的)
残忍が優しさを奪い絶望が勇気を挫いても、喜びはグラスからわき上がる、立ち上がり喜びのワインを天と精霊に掲げよう
→そう精霊に
8.
(政治的、それをスコリオンで讃えたワインに誓えと)
苦痛に勇気を、無実に救いを、誓いに永遠を、敵にも味方にも真実を、玉座の前には誇りを、功績には栄光を、偽りには没落を
→このワインに誓え、天上の審判者に誓え
9.
(かなりの異教的)
暴君から救出を、悪人にも寛大さを、死に向かっても希望を、処刑台で慈悲を、死者も生き、罪人は許され、もはや地獄は無い
→別れの時、甘美な眠りに、どうか審判者の優しい判決を

 この詩はシラーがヴュルテンベルク公国を脱出して彷徨い歩いていた頃、お世話になったクリスティアン・ゴットフリート・ケルナーという生粋のフリーメーソンっ子に依頼されて、フリーメーソンのロッジ(集会所)で歌うために作成したものである。よって、この詩にはフリーメーソン的思想立場が明確に込められている。フリーメーソンとは、元来中世の石工達のギルドが仕事が減ってか技術的メンバーと共に思弁的メンバー(石工でない者達)を集ううちに、職業組合から友愛扶助団体に変更し次第に本末転倒しながら誕生したとも云われ、中世以来会員の集いを「ロッジ」と言いながら、憲章の原型は14,15世紀には登場し、1717年に個々のロッジを統合する大ロッジ(新しいロッジを承認したりする)がロンドンに登場したときに、近代的フリーメーソンが誕生したとされている。参加資格は民族、宗教、階級を一切問わない自由なもので、自由平等友愛の精神によるヒューマニズムと、世界共同体的精神に基づいて行動する事を信条としていた。入会の怪しい儀式や、独自の世界観、合い言葉や、3つの身分的階層などが、端から見ていかがわしく見え、宗教寛容と自由の精神が既存システムを脅かすと考えられた18,19世紀には大いに政府などから危険視されることもあったし、キリスト教世界を独自に練り直して怪しからんと云うので、教会からも敵視されたが、18世紀の啓蒙主義者や知識人達が大いに共感参加する、いわば思想的信心会のような役割を果たし、恐るべき秘密結社というよりは、それに参加することは公然たる立場の表明ぐらいの意味を持っていた。にも関わらず、同時に儀式めいた入会を済ませて始めて会員となることが出来るので、実際に政治を転覆させたり方針を転換させたり社会革命を目指したりするような政治的秘密結社に対して、入社的秘密結社などと呼ばれてみたりする。特にフランス革命の要人達はかなりの数がフリーメーソンで、フランス3色旗の自由・平等・博愛の精神は、実はフリーメーソンのキャッチフレーズだったし、アメリカ独立の精神もフリーメーソンからご登場なさったとも言われている。つまり入会や教義にオカルト要素を多大に持ちながら、その本質に自由・平等・博愛を持ち共和制へ向かう啓蒙主義の社会合理主義の精神と一致した側面を持つことから、当時の知識人達を大いに放り込んで見せたのだろう。
 そんなわけで、例えば「歓喜」はフリーメーソンの儀式でお馴染みの重要キーワードだし、詩節1の「神殿」はロッジを指し「すべての者は兄弟になる」の理念によって入会の挨拶見たようにも捕らえることが出来るらしい。そのような視点から見ていくと、詩節1は教義の提示であり、詩節2と詩節3がそれぞれ親愛と自然から歓喜を受けて創造主にいたり、詩節4では規律、つまり規則に関するキーワードが登場し、同時に歓喜の天上規律を持って我々も掛けだそうと、詩の中間的移行を形成する。こうして規律を提示した中間提示に迎えられた続く詩節5と詩節6では、君がなすべき道徳や倫理が創造主の認知の元に表わされ、詩節7番は詩節4番と同様に詩の中間移行を形成して歓喜を讃える酒飲み歌スコリオンになっている。詩節8は儀式として見れば宣誓を担っていると思われるが、すでに1783年に達成されていたアメリカ独立戦争の革命的精神を持って、まるでフランス革命を予感させるプロバガンダ的な部分を形成、最後の詩節9はキリスト教世界観から見れば甚だしく異教的であるが、フリーメーソン的精神の自由や平等を表わしたものであるから、やはりフリーメーソン的な教義を表わして、死後の判決に優しい言葉を求めて終わるという詩になっている。したがって、フリーメーソン精神的には「歓喜」に近い部分に「自由」という言葉も存在していたため、この「歓喜」に「自由」を嗅ぎ取る者が居ても不思議ではない。シラーが本当は「自由に寄せて」として「歓喜Freudeフロイデ」「自由Freiheitフライハイト」に置き換えて出版したかったという伝説は根拠が無く、一説によると体育会から民族自立とナポレオンに対抗する肉体と精神を築き上げようとしたフリードリヒ・ルードヴィヒ・ヤーン辺りが捏造したとか、グリーペンケルが1838年に出版した小説に遡るとかいうネット上の噂もあるが、一方フリーメーソン的な「歓喜」の概念から離れると、この詩の前半と中間部と後半の関連性が一貫性を無くすような側面があり、これは「歓喜」を「自由」に置き換えると最後のキリスト教的には異教的精神によるエンディングまで、辻褄が合ったものになるため、シラーの「歓喜」には「自由」の精神もあるとして置き換えても、原作者はそう怒ったりはしないかもしれない。そんな思いから1989年12月25日の東西ドイツ統合を祝う野外演奏ではバーンスタイン指揮で「自由」に置き換えた演奏をしてみた。もちろん一方で、詩節の7,8,9は非常に民衆による王政に対する革命精神が色濃く浮かび上がってくるため、詩節1-6までをカモフラージュに、最後に示される革命讃歌として読み解くことも出来るかも知れないが、私は詩の成立過程について細かいことは知らない。ただ詩を見てそう思うばかりだ。きっとドイツ語の本に詳しいものが有るだろうから、興味のある人は、洋書に手を出した方が遙かに有意義だ。そして、もちろんこれは詩であるから、その言語の持つリズム感と意味が密接に結びついた結晶となっているので、意味だけ理解できても、詩の美しさとか込められたエネルギーなどは、1/10も理解できたことにはならない。試しに冒頭部分だけでも見てみることにしよう。カタカナを読んでみただけでも、そのリズム感の幾分かは伝わって来るに違いない。

Freude, schoner Gotterfunken
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische, dein Heiligtum!

フロイデ、シェーナー/ゲッター、フンケン
トホター、アォスエー/リージ、ウム
ヴィアベト、レーテン/ホイエル、トルンケン
ヒムリッ、シェダイン/ハイーン、リヒトゥム!

(ただし、ええ加減な表記ですが)

ベートーヴェンの歌詞選択

 このように詩としての完成度の上に、複合的に様々な意味を内包している「歓喜に寄せて」だが、音楽家の方から見ると、魅力的ではあるが甚だしくまとめにくい詩であるといえる。確かに有節歌曲形式で順番に歌詞を付けていくのに相応しい詩形ではあるが、一方内容の方から見ると、同一の事柄を同じ立場から歌ったり、内容が起承転結に進むようなものではなく、むしろ様々な側面を一緒に表わしているために、有節歌曲形式で順番に並べると、音楽が順次的同一的統合性を強めるために、返って歌詞の前半中間後半の辻褄の合わない事になって、大失敗に陥る可能性が高く、ベートーヴェンも早くからこのジレンマに気づいていたのかも知れない。これを統合するためには、一つは有節歌曲形式ではなく、詩節ごとにその精神に合わせて異なる音楽を付けながら進行する方法があるが、この場合第9番全体の規模で最初から合唱付きの交響曲を提示しなければならなそうだ。しかしベートーヴェンは結局その方法を取らなかった。彼は、第9番を作曲する頃にはすでに自らの芸術感に揺るぎない自身を持っていたから、詩人に臆(おく)する事無く、多義性を持ったある種百科全書的な「歓喜に寄せて」から、「歓喜によって生命と秩序を与えられた我々は、歓喜の親愛によって世界中が兄弟となる。その歓喜の向こうには創造主がきっと居る。」という「歓喜によりて兄弟となり創造主に至る」側面だけを抽出して、歌詞の内容を一つの側面に絞り込む道を選択したのだ。恐らくより直接的には、この場所だけがこの時期にベートーヴェンの好奇心に触れる部分だったのかも知れない。そして有節的な歌曲を指向する歌詞配列を配置換えすることによって、オラトーリオ形式に相応しい歌詞構成を行い、合唱とオーケストラのための壮大な楽曲を形成する。何と魅力的な考え。さらに彼は、詩節1の持つフリーメーソンの教義的な「王侯と乞食が兄弟となる」という歌詞を、一層普遍性を持った「すべての者は兄弟になる」に変更し、詩節1のイメージを大きくすべての人々に広げることに成功した。「王侯と乞食」のままだったら、フリーメーソン的精神やら同時に革命的精神の残る具体性を持った第4楽章になったかもしれないが、ここではむしろ革命精神や自由主義の精神よりも、歓喜による相互理解的親愛の精神を持って創造主の存在の確認に至るという、いわば最も熱狂的な宗教詩のようなものに抽象化されている。
 この基本プロットに基づいて、まず詩節1から詩節4までが抽出されたが、後半にある使用可能な詩節7の酒飲み歌は、それ自体歓喜を讃えていて魅力的だが、歓喜よりも乾杯を思い起こさせるから不採用になったのかも知れない。(または、最後の熱狂的な祝祭歌の部分には歌詞はなくても、乾杯の精神は込められていると見ることも出来そうだ。)さらに、歓喜と親愛というプロットから離れて、規律が全面に押し出される詩節4の前半部分も切り落とされ、一方詩節4が元々詩の中間移行部分を形成していたために、後半の「駆け出せ」の部分が移行的性格を持ち、楽曲形成において中間部を形成する重要なキーポイントになるために、これを残す。そして詩節3後半部分、詩全体で唯一疑問符が登場する場面は、最重要な要素としてreserve、つまり予約することにして、一方で同種の内容を繰り返す詩節後半部分のうち、最も性格の弱い詩節2の後半がカットされる。さらに取り出された前半後半6つの部分のうち、先ほど見たように「駆け出せ」の移行的性格や、疑問符の独自の場面、そして詩節1後半のいわば主題の確信的部分は、それぞれ独自の楽句によって場面構成の要に使用すると効果的なため、シラーの元詩にあるソロ的部分と合唱的部分の関係は破棄され、代りに詩節1から詩節3までの前半部分がそれぞれの形で歓喜の内容を説明しているため、この前半部分をそれぞれ3つ順番に提示して、その後詩節後半部分に移行することを思いついた。ただし同時にベートーヴェンの抽出した詩節の核心部分、というか教義をまとめた部分は前半後半を合わせた詩節1に集約されているために、これも同時に完全なものとして提示部分で提示させる必要がある。このあたりで詩節を登場させる順番構成が大分整理されてくる。
 まず全体としては前半部分3つを提示して、後半部分3つを提示する。これによって前半3つ部分が完全な提示的部分になるから、これを歓喜主題の変奏によって順番に提示することにする。これに対して後半部分はそれぞれ異なる楽句構成で表わされるため、提示部分後半を形作ると同時に、提示部分より後ろの楽曲部分に対しては、中間部的な場面を提示できる。するとその部分のクライマックスは疑問符の付く詩節3後半であり、その疑問符を受けて提示を終わった詩の核心部分が行なわれる讃歌の部分(対位法的フゲッタ部分)に移行すると効果的だ。しかしこの方法では残る詩節のどちらを先にしても提示部前半の主題部分とフゲッタによる主題回帰までの間が無頓着に主題から離れてしまい都合が良くない、同時に教義全体である詩節1全体をまだ一度も提示していないのだから、そうだ、ここで再度詩節1前半から開始して詩節1後半まで提示する部分を作れば、詩節1全体の提示と詩節後半の提示を兼ね揃えて、おまけに詩節1前半は歓喜の主題によって形成されるから、楽曲から見ても見事な統制がはかられるじゃないか。すると一度移行的部分である詩節4によって逸脱推移して、詩節1前半提示に回帰して歓喜の主題も提示してから、詩節後半の提示にいたり、詩節3後半に辿り着いた後、歓喜主題による対位法的部分に移れば、楽句的にも詩の提示としても完璧じゃないか。
 と云うような考察が為されたかどうだか、想像的に一例を挙げてみたまでだが、この詩節提示部分がどの程度まで音楽的考察による楽曲構成と絡み合っているかは分からない。ただ、この提示部分においてはやはり詩として最も見事に提示するための詩句部分の配列構成が優位にあって、まさに詩の構成が楽曲を形成しているように見える。この意味において、ベートーヴェンは一流の詩人では無かったが、つまり出だしの歌詞はお世辞にも見事とは云えないが、しかしこれは、合唱導入上すぐれた作戦として成功しているし、普遍性と抽象性を弱める「乞食と王侯」の歌詞を斥(しりぞ)けるなど、さすがは音楽家の中の音楽家、すぐれた詩の再構成能力を持っていたと思う。(もちろん彼の場合は、楽曲的にも同時に考えて居たのだろうが。)
 おそらく、この提示部分が中核として始めに具体化したことによって、第9番全体の構図が獲得されていったものと考えられる。ここから先は詩節1の教義の中心的部分の讃歌として機能していて、音楽的構成側からの構成がウェイトを増していると思われるので、楽曲解析の中で見ていくことにしよう。

2005/07/17
2005/07/28改訂

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