ベートーヴェン 交響曲第9番 第4楽章1

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1.器楽序奏から導入部分(1-236)d moll

 器楽序奏部分は、かつて第1楽章が分散和音の衝撃により渦巻く楽曲の混沌からついに光を誕生させたように、分散和音のエネルギーの中から歓喜主題を誕生させるための手続きになっている。しかしソナータアレグロ形式にカイアズマス技法を取り込んだ楽曲構成による緻密な設計はすでに1楽章で行なったので、この最終楽章では、歓喜という我々人間に相応しい主題を、我々にもっとも相応しい、すなわち人間のドラマを表わすのにもっとも相応しい形式であるオペラ的な、またはオラトーリオ的な、つまり作劇的な作曲法によって歓喜のメロディーを誕生させ、この4楽章をオラトーリオ的な作曲方法によって統一している。第1楽章のソナータアレグロ形式では、いかに拡大発展しようとも、楽曲は同時に構造に束縛され続け、主題展開の旅は拡大発展しようとする傾向と、構成に従い楽曲を保とうとする傾向のせめぎ合いの結果、ドラマ性を持たせつつ構成秩序が全うされる純器楽的な楽曲形式により作曲されていた。いわば古典主義的な形式美を自ら進んで保つ事が、楽曲の知的な合理性と情感に訴えるドラマ性のバランスを統合していたが、それに対してこの第4楽章は、場面が次々に新しい様相をもって次の情景を提示したら、再び元の状態を再現することはない、いわば演劇のような、あるいは文学的な、つまり作劇的な構成で作曲されている。したがって、このような作曲法がなされている楽曲に対して、純器楽曲でこそもっとも威力を発揮するソナータ形式や、ロンド形式に当てはめたり、変な器楽的形式を捏造したりするのは、明確にその意識で作曲されている場合を除いてするべきではない。さらにこの楽章では変奏も重要な要素になっているには違いないが、変奏はいわば統合の手段として使われていて、第3番交響曲の第4楽章のように、各変奏の方法と配列によって楽章形式が確定されているわけではなく、つまり楽曲形式を確定する要(かなめ)を担っている訳ではないので、変奏曲形式という用法も不適当だと思われる。つまり作劇法だと説明した通り、この楽章はテキストに乗っ取って進行する、オペラやオラトーリオ、オーケストラと合唱による大讃歌のような方法で作曲されているのだから、その内容に即したこの曲限りの構成法が最もすぐれているので、その構成を解き明かすことが楽曲解析になるのだから、それをサボってヘンテコな楽曲構成を捏造する誤りだけは避けたい。
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冒頭分散和音(1-7)

 (d moll)の1転主和音で開始する冒頭の響きは管楽器で(B)音が強く鳴らされることによって、主和音に+6の(B)音が加わったと言うよりは、(B dur)の主和音が同時に鳴り響く2重調性のぶつかりのような、強烈な響きをもってフォルテッシモで開始する。これはティンパニー轟く管楽器だけで提示され、続いて、第1楽章の第1主題中心主題に対比させられる、分散和音による指向性の定まらない激しいエネルギーを提示するという流れになるが、まずこの冒頭の響きをもう一度確認してみよう。この4楽章冒頭部分からコントラファゴットが導入され、ホルンはD管とB管が共に使用され、管楽器総奏的に強烈な冒頭和音が提示される。実際の所は、木管楽器群が(d moll)の(a)音を、倚音として2度上行した(b)音で演奏し、すぐに(a)音に解決して分散和音を提示するという方法で、これが冒頭トランペットの(a)音とぶつかるために誕生した響きだが、恐らく1楽章から重要な意味を持っていた(B dur)の主和音も一緒に提示するという意味が込められて、さらに第3楽章の(B dur)最後の主和音がそのまま、断絶掛留として残されたものとも考えられる。そして(B dur)は最終楽章でも詩節4後半の提示部分での中間逸脱調性として、重要な役割を果たしているので、第4楽章の冒頭にこの重要な調性関係を織り込んだとも考えられるわけだ。続く分散和音型は非常に興味深い作曲方法になっていて、本当なら全部ユニゾンにしたかったが、楽器の音域と演奏可能音の制約を受けて、結果として異なる動きが表われたり、音が途絶えているというのはあまりにも悪意に満ちた解釈である。一流の作曲家は当然ながら制約を効果に変え方法に熟知しているし、比較的安易に音が出ないために声部変更をする場合もあるだろうが、それは楽曲の該当部分ごとに考えるべき事柄で、この冒頭動機に置いては、最初はオクターヴだ出せないため変更したかもしれない部分も含めて、徹底的に全体のバランスが考えられて作曲がされているため、結果として完成した姿は変更すべきでない完全な状態にあるから、演奏可能だからと云って音を加えるべき余地は全くないし、返って効果を損なうことになる。
 この4小節の冒頭分散和音はファゴット、コントラファゴット、ホルンが保続音で伸ばされ、ティンパニーが(a)音を打ち鳴らしつつ、その上声で分散和音が開始する前半2小節と、ティンパニーが(d)音に移行し、同時に先ほど上げた保続音楽器が保続を止めて分散和音の動きに加わる後半2小節からなっている。つまり前半2小節で保続音内に分散和音が打ち鳴らされ、それが後半2小節で分散和音の動的な力を増加させ、その後の和声的8分音符部分に至ってカデンツが開始、最後の7小節で半終止する。分散和音自体は主和音の響きで、その後の和声的推移でカデンツを形成する方法は、まさに第1楽章第1主題で見たのと同じ遣り方だが、完全にカデンツを形成せずに、属和音で分散和音部分の楽曲が放り出されてしまうのが本質的に異なる。そして第4楽章ではこれを受けて属和音のまま弦楽器のレチタティーヴォが導入され、作劇的手法によって楽曲が形成されていくのである。
 さて先に行く前に、まだまだ分散和音部分を覗いてみよう。この一連の響きの中で最も重要な役割を演じているのはトランペットで、冒頭のフォルテッシモの響きから木管が8分音符連続による分散和音型を開始しても、トランペットは一貫して冒頭1小節目途中からのリズムパターンである「タタタター」を規則正しく繰り返し、音型としても十全たる分散和音型ではなく、(a-d)の上行跳躍と下行跳躍を交互に繰り返し、このトランペットが奏される部分では強烈なその響きが全体の響きをつんざくような金管の響きに支配される、一方8分音符進行の途切れた部分では、上声の木管部分に中心点が移行するので、(Presto)の早いテンポで激しい分散和音の響きの中ではあるが、8分音符連続リズムによる木管群のユニゾン的部分に対して、強烈な響きで掛け合う別のリズム型を持ったトランペットによる響きの効果が、完全なユニゾン進行の持つ指向性の定まった力強さといったものを破壊させて、純粋な分散和音のエネルギーの固まりとして、混沌とした高密度なエネルギーを提示することになった。しかも保続音の中で開始した分散和音だが、3小節目からファゴット、コントラファゴットがユニゾンの動きを開始し、一方D管ホルンも信号のように3小節目から4分音符で同じ音を繰り返し始め、響きの強烈さの目立つ初めの2小節より、いっそう活発な動きを見せ、リズムの複雑化による無指向性の分散和音の動力をさらに増し、そのエネルギーの力で続く2小節の8分音符の和声的な響きとして7小節目で半終止するのだが、これは旋律を派生させるべく方向性をもった力ではなく、純粋な劇的エネルギーの固まりであるこの分散和音は、それ自体の楽句からは続く完全終止を迎えるべく自ら旋律を紡ぎ出すことは出来ないで、中に放り出されたような感じになる。
・さて、この第9番交響曲の第1楽章から第3楽章までが、分散和音のエネルギーによって主題が誕生していった過程はこれまでに見てきた。それを思い起こしてみると、この分散和音はむしろそれらすべての楽章主題を派生させた根元としての、純粋な分散和音のエネルギーをそのままの状態で提示していると思われる。したがって、この7小節に続く部分は、この分散和音エネルギーから歓喜旋律を導き出す手続きとなるのだが、その方法は第1楽章のような分散和音の誕生を演出する方法ではなく、第2楽章の冒頭リズム動機の提示を兼ねた楽曲素材としての分散和音の提示でもなく、主題の導入前奏を担っている訳でもなく、ただ純粋に分散和音のエネルギーの圧倒的な力だけを提示したような置かれ方になっている。そしてベートーヴェンはこのエネルギーの固まりから歓喜の主題を導き出す方法として、声楽的な方法、つまり作劇的な方法であるレチタティーヴォ導入によって次の場面へ提示させるという遣り方を採用した。まあ、作曲上はこの有効な方法を活用できるために、このような形で分散和音エネルギーを提示したのだろうが、こうした場面構成法や、器楽によるレチタティーヴォ楽句の提示、さらに非常に歌謡的な歓喜主題自身の提示と変奏による確認作業によって、実際に声が登場する前には、声楽への心の準備、または一種の期待や予感が高まるように作曲されている。したがって楽曲への理解が深まれば深まるほど、声楽の登場が必然性に満ちて感じられるはずだ。

器楽レチタティーヴォ提示部分(8-16)

 この純器楽曲としては主題に進めないような分散和音の固まりを提示して、それを作劇的なレチタティーヴォの導入によって、つまり分散和音部分を一つの場面として、言語による問いかけによって次の場面に繋いで行くという方法が、弦楽器ベースだけで登場する一本の旋律、つまり声のないレチタティーヴォの部分になる。このレチタティーヴォ旋律は、やはり冒頭分散和音と同様、分散和音が上下入り乱れるアウトラインに基づいて作曲され、冒頭分散和音が主和音に基づいて作曲されていたのに対して、属和音部分を形成したまま、次の(g moll)の属和音による冒頭分散和音エネルギーの再現に到着する。このレチタティーヴォは、実際には声のない器楽だけで提示されるが、それにもかかわらず、経過音によってつなぎ合わされた分散和音構成音から、十分に旋律が派生し、開始の管楽器群に対して始めて登場する弦楽器の異質な響きもあり、見事に声楽的なレチタティーヴォとして認知されることに成功している。(しかも後に出てくる声楽部分を知ってしまうと、その影響からますます声楽的レチタティーヴォにしか聞えなくなる。)
 それにしてもなぜ管楽器のあれほど激しい分散和音エネルギーに対して、続くこの単旋律のレチタティーヴォが、遜色なく応答できるか不思議に思う人があるかも知れない。別段大した効果でもない。例えばドキュメント映画を作成して、戦争時の崩壊した町のカットから戦後の豊かなその町のカットにいきなりシフトしたら、見ている我々が「なんじゃこりゃ」と途方に暮れることがある。(そんな場面に出くわすもんか!)そこで2つのカットの間に一言「このかつての悲劇が何たらかんたら」と説明の台詞を挟むんでやることによって、我々の脳みそは、非常に理に適ったものとして把握してしまうだろう。つまり声とか言葉にはそれだけの優位性が、当たり前だが備わっているわけで、この人間の認知における言語的なものの優位性を利用したカット割り的な方法として、うっかり我々の頭の中でこのレチタティーヴォ部分が認知されてしまうからこそ、2つの楽句は対等に渡り合えるのである。これ以下の部分も場面場面に何かを説明して次に引き渡しているような叙述的レチタティーヴォが、いわば詞の無い語り手の役割を果たして、この器楽部分を進行しているのが分かる。しかも執濃(しつこ)い[・・・造語だから「執濃い」なんて漢字は無いぜよ]ようだが、実際の所、言葉は無いのである。ここでベートーヴェンが作曲途中までこれらのレチタティーヴォすべてに言語を当てはめようとしていたらしいことから、初めは文字通り語りによる説明を場面の間に挟み込み、語り手の進行によって歓喜の主題へ導こうとしていた事が分かる。その当初のプランは幾分理屈の勝った、感情よりも意味に訴えるような計画になっていたが、ちょうどかの宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」において、理屈に勝ったブルカニロ博士という哲学的存在を次第に抹消して、完全に叙情的なものに置き換えていったように、ベートーヴェンもまた言葉を消すことによって指向性のある意味づけと哲学を抹消し、視聴者の情感に直接訴える道を選択した。そしてその選択は多義性、両義性をもった抽象化された歓喜の讃歌のイメージを一層深いものにしていると思われる。つまり大成功だと云うんだね。

分散和音提示部分校半(17-29)

 この器楽レチタティーヴォによって導かれる楽句では、先ほどの分散和音が様相を変え(g moll)の属9和音上で行なわれる。属和音はそれ自体主和音への解決を指向するため、開始より次に向かおうとする指向性を持って再現。この分散和音繰り返しは、やはり管楽器だけで行なわれるが、トランペットの動きが活発化し、木管に合わせた分散和音化の動きをより強め、これが属9和音の響きと重なって動的な力をさらに強めている。実際はこの動的な分散和音の力から、分散和音から生まれる主題という前の3楽章を踏まえて、77小節の「歓喜の主題」が誕生して確定されるというのが、この器楽序奏部分の主意である。しかしレチタティーヴォで繋ぎ合わせるこの楽句構成をもってすれば、回想という方法が効果的に、何の違和感もなく提示できる。ベートーヴェンはさらに手の込んだ方法を思いついた。分散和音に続いて(B dur)の属和音を使用してレチタティーヴォで場面を繋ぐ。

回想部分から歓喜主題の誕生(30-91)

 その方法とは、かつて分散和音の力によって生み出された第3楽章までを回想する事によって、全楽章の統合力を高めると同時に、過去3つの楽章の精神ではなく、「歓喜の主題」という精神を発見していくというプロセスを提示する方法だ。前の3楽章にはそれぞれ、1楽章の誕生し形成されつつある原始的な情念が、2楽章では建設的にして狂騒的、軍隊的、祝祭的なスケルツォによる壮大な建設とそれを讃える祝祭が、3楽章では神々世界的な理想郷の憧れのようなものが込められていたが、このような前3楽章に対して、ここで人間的親愛と理性による「歓喜」という概念が提示され、これこそ我々が我々の器具の楽器である「声」で歌うべきものだという「歓喜への讃歌」が開始するのが4楽章だと見ることが出来る。つまりこの一連の楽曲解析で見てきたように、前3楽章までを人間と離れた、神による自然世界の誕生形成とその崇高、つまり神々の領域の事柄を表わしていると考えるならば、この部分は神々のもたらしたこの宇宙と世界に対して、我々である人間が神々への英知を垣間見るための唯一の道として、人間の持つ感情の内で信頼と愛情を司る歓喜と云うものを示して、歓喜を讃え歌う先には天上の創造主が居ることを確信しようとするのが4楽章の趣旨だと考えることが出来る。大分宗教めいた概念だが、この楽曲解析においては、ベートーヴェンの宗教観や晩年の日記やら筆記帳を調べているの訳ではなく、純粋に楽曲自体から読み取ったある種の宗教的概念、哲学的概念を勝手に抽出した積もりになって、これが途方もない拡大形式の第9番を生み出した根元ではないかと、楽曲構成やら使用された歌詞とその扱いなどから、推察して見ただけのことである。このある種の宗教的方向から、改めて第4楽章の冒頭器楽による回想部分を確認すると、3楽章までの回顧は、世界の創造から我々人間の立場を確認して、それに対して続く部分では我々の「歓喜の歌」を提示し、この「歓喜主題」を持って神の存在を垣間見、創造主を確信することによって、歓喜に満ちた讃歌を歌い上げようと云うのが第4楽章の趣旨と解釈できる。
・いずれにしてもレチタティーヴォを間に挟んで、分散和音エネルギーによって誕生した第1、第2、第3楽章がごく短く確認され、ついに第4楽章の主題である歓喜の歌の主題前前奏4小節(77-80)が登場するが、その後さらにもう一度レチタティーヴォによって導入の手続きが取られ、歓喜主題が完全登場するわけだね。

歓喜主題提示部分(92-207)

 純粋に楽曲分析だけすれば、この一連の器楽部分は各楽章で分散和音から主題が誕生するという共通の遣り方を、最も膨大な規模で送り出した事になるが、つまり4楽章冒頭の分散和音エネルギーから主題を派生させたものこそが「歓喜の主題」となる。
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 主題は非常に歌謡的で、声楽にこそ相応しい単純な反復進行の多い主題となっていて、まったく器楽的な主題では無いため、器楽で提示されるにもかかわらず、やはり非常に声楽を予期させる主題になっている。そして、これはまさに歓喜の主題に相応しい。つまり我々の楽器である声にこそもっとも相応(ふさわ)しい主題であり、明確に4小節ごとのフレーズ感を持って[A-A'-B-A']の全16小節で出来ている。その後に中間部分から後半に掛けての[B-A']がもう一度繰り返さるが、これは後の声楽が導入された後の合唱による応答に対応していて、これによって歓喜の主題は全体で24小節で閉じられる。
 主題は始めレチタティーヴォの楽器である弦楽器ベースだけで単旋律で提示され、その主題が主題旋律はそのままに他の声部による修飾によって第1変奏
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、第2変奏を行い、第3変奏でフォルテッシモの管弦総奏に到達、ここにいたって楽章内での歓喜主題の地位を完全に確立させる。つまり器楽部分では、主題の提示と3つの変奏、合わせて4回歓喜主題が提示されるわけだ。その後細かく見ればきりがない、188小節からの歓喜主題後の推移旋律は、声楽導入後は各詩節を繋ぐ器楽部分を構成することになる。その後(poco ritenente)の特徴的部分を経て再び冒頭の分散和音エネルギーが登場。

冒頭分散和音再提示部分(208-215)

 今度は弦楽器も加わり冒頭分散和音が提示され、この楽曲冒頭の一番の趣旨である、分散和音からレチタティーヴォを経て歓喜の主題が派生するという手続きをもう一度、しかも回想を挟まずに直接行なう。つまりこの部分は、本来再び冒頭理念を再現させると同時に、歓喜の主題を再提示して合唱部分に移行させる部分なのだが、ベートーヴェンはここで非常に見事な作戦を敢行した。再度登場した冒頭分散和音エネルギーを、先ほど誕生した歓喜主題に対する対立項と見立て、その響きを始めて登場する声によって否定するという方法だ。

レチタティーヴォ(216-236)d moll

  友よ、このような響きではない!
  もっと心地よい響きを奏でよう、
  もっと喜び溢れた旋律を。

 この最後のレチタティーヴォの部分にだけ、ベートーヴェン自らこの歌詞を付け加えて、シラーの「歓喜に寄せて」への導入としたのだが、この方法は見事としか云いようがない。冒頭分散和音だけでは無指向性ではあっても、必ずしも「破壊するもの」という認知の確定には結びつかないと考えられるが、ここで歓喜の主題の後にこの分散和音エネルギーを一層激しく提示して、直ちに初めての声によって「この響きではない」と否定するのだから、ここにいたって冒頭分散和音は作劇的な手続きによって歓喜の主題に対する対立項、破壊者的なイメージを持つに至り、今日に至るまで「カタストロフの」とか「破壊の」とか「轟き来たれる恐怖は今まさに暗雲たる大地に稲光となって襲いかかれり」とか、時には意味不明な言葉を交えて、人々から「よっ、悪役」と肩を叩かれるようになってしまった。しかも、実際はレチタティーヴォの歌詞の否定が、直前の分散和音だけを否定したのか、それ以前の3楽章の器楽部分に対しても「もっと心地よい響きを」と云っているのか、ここ以外のレチタティーヴォに歌詞が付けられないことによって、多様に解釈が出来るようになって、この曖昧さは作曲者の最高の仕掛けとして明確に意識されて作曲されている。しかもこのレチタティーヴォは今までのレチタティーヴォ3回分を弦楽器の和声的経過を間に挟みながら提示するようになっていて、それ自身前半中間終止の3つの部分を持つから、その間に冒頭分散和音の印象は、二度と復帰が叶わないまでに遠ざけられてしまい、冒頭分散和音再現直前の歓喜の主題と、レチタティーヴォ以降の声楽による歓喜の主題のイメージの方が圧倒的に優位に立つわけだ。きりがないから、そろそろ声楽部分に突入することにしよう。

2005/07/14
2005/08/01改訂

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