ベートーヴェン 交響曲第9番 第4楽章2

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歓喜の主題による前半各詩節提示(237-330)D dur



(Allegro assai.)
[詩節1前半 -歓喜の主題による]
(ソロ)
歓喜、美しい神々のきらめき、
エーリュシオンの娘達、
炎に酔い我らは踏み進む、
聖なるもの、貴方の神殿に!
神秘の力で貴方は結び戻す、
激しく時代が引き裂いたものを。
すべての人は兄弟となり、
貴方の翼に抱かれるだろう。
(合唱)
神秘の力で貴方は結び戻す、
激しく時代が引き裂いたものを。
すべての人は兄弟となり、
貴方の翼に抱かれるだろう。

[詩節2前半 -歓喜の主題変奏1]
(ソロ)
大きな勝利の恩恵を授かり、
一人の親友の信頼を掴(つか)んだもの、
一人の優しい妻を勝ち得たもの、
共に喜びの歓声に加わるのだ!
ただ一つの魂でも我が友と
地上に呼ぶ者が居るのならば!
しかしそれが出来ないような者は、
密かに涙してここを立ち去るがいい。
(合唱)
ただ一つの魂でも我が友と
地上に呼ぶ者が居るのならば!
しかしそれが出来ないような者は、
涙して密かにここを立ち去るがいい。

[詩節3前半 -歓喜の主題変奏2]
(ソロ)
すべての生命は歓喜を飲み
自然の乳から歓喜を啜(すす)る、
善き人々も、そして悪しき者も、
バラ咲く道を辿(たど)るのだろう。
口づけとワインを授けた歓喜は、
生死を分けた友さえも与えてくれた。
虫けらさえ官能の喜びを授かり、
智の天使ケルビムは神の前に立つのだ。
(合唱)
口づけとワインを授けた歓喜は、
生死を分けた友さえも与えてくれた。
虫けらさえ官能の喜びを授かり、
智の天使ケルビムは神の前に立つのだ。

 いよいよ歓喜主題が声楽によって提示される。この歓喜主題は一貫してシラーの詩の各詩節前半である8行詩側で使用され、それに対して原詩詩節後半の4行詩(元の詩でのコーラス的応答部分)は、3つの4行詩にそれぞれ詩の特徴に合わせたそれぞれの音楽が使用され、歌詞に基づいた場面転換を見せる。つまり歓喜主題が形を変えながらも一貫して使用され、楽曲の統合を図る最重要の変奏主題となる一方で、4行詩の部分ではそれぞれの情景を提示する独自の部分を形成して、歌詞配置とそれに基づく楽句配置によって、この楽章1回限りの独自の構成によって作曲されている。しかも、後に登場する詩節1後半の旋律は、後半の詩節1後半部分が再登場する部分でやはり変奏的に継続使用され、詩節1前半に継ぐ楽曲の重要旋律となっている。つまり詩節1前半で使用される歓喜の主題と、詩節後半の主題によって、楽章全体の骨組みが形成されている訳だ。そしてその骨組みの組み方である設計図を導き出しているのが、シラーから抽出したベートーヴェンの「歓喜の歌」の歌詞ということになる。
 それでは、順番に見ていくことにしよう。まず管楽器だけの伴奏の元、ソロとコーラスが「Freude(歓喜)」と、これから歌いげる中心主題を交互に4小節呼び合う。それに答えて弦楽器の伴奏が開始すると共に、バリトンソロで詩節1前半の歌詞が歓喜主題によって導入される。実際に聞いている印象では、器楽部分全体は主題が確定されるまでの手続きで、声楽が導入されると印象が声楽に移ってしまうのが声により活動を営む我々の性質であるから、歓喜の主題の変奏の関係も、器楽部分と声楽部分の関係は対等連続的な変奏としてではなく、ここから声楽による主題変奏1と置き換えて、話を進めても構わないと思うが、楽曲全体の構図は通し番号の方が分かり易いだろうから、一般的なやり方に従って、通し番号を付けていくことにしよう。
 ただし、実は主題変奏については細かく見ているゆとりはない。まずこの第4変奏(声楽第1変奏)で詩節1前半がバリトンソロによって提示されるが、弦楽器の和弦的な伴奏に、オーボエとクラリネットが声楽に対する対旋律的な伴奏を行ない、声と木管の3重奏的な進行をすると、ソロの提示が終止するやいなや、後半4行がソプラノ抜きの合唱でユニゾンで応答され、弦楽器の伴奏が完全にユニゾンに合わせて主題旋律を奏でると、管楽器が総動員され華やかな合唱応答を形作る。そして各詩節を繋ぐ器楽だけの推移部分は、かつて器楽提示部の歓喜主題提示が終わった後の推移楽句を元に行なわれる。
 続く第5変奏(声楽第2変奏)では詩節2前半がソロ4声で提示され、それに対して器楽伴奏は和弦的なリズムと響きの補充はホルンだけが行ない、チェロとフルート、ファゴットが短いフレーズを弦と木管で交互に繰り返しながら、ソロの重唱を修飾していく。続いて合唱4声が、今度はユニゾンではなく4声書法によって後半4行を繰り返し、弦と木管の他の楽器も加わって動きの幅の大きな器楽伴奏を形成する。そして再び器楽の推移旋律。
 第6変奏(声楽第3変奏)では詩節3前半が8分音符によって旋律変奏されソロも順次導入の方法で開始され、始めテノールとバスが同時に、続いてアルトが、最後にソプラノが導入され、4声に至るが、ソロ部分の器楽伴奏は、ホルンが単音で(D)を保続低音として拍ごとに打つ以外は、一貫して弦楽器に登場するトリル音型が効果的に使用され、木管は声楽に合わせたパッセージを行なっている。合唱4声の応答では、トリル音型を使用しつつ、木管がフルで声楽部分に合わせたパッセージを総奏して力強い盛り上がりを見せる。
 こうして、どの変奏もそれぞれに器楽による対旋律導入など様々な修飾がなされているので、詳しく調査するだけの価値は十二分にあるのだが、しかし私の時間は十二分にないので、さようならと手を振って先に進むことにしよう。この第3変奏までで、各詩節前半部分の提示は終了し、続いて詩節後半部分の提示が開始するが、この第3変奏の最後の部分では、器楽が推移旋律を行ないつつも、コーラスが途切れることなく、もう一度最後の一句「た、大変です!ケ、ケルビム(Cherub)が、ケルビムが、神の前に!」の部分を、2分音符による和弦的な勝利の歌のようにフォルテッシモで提示し、詩節3によって提示された、我々が歓喜を讃える理由を保証してくれるもの、「何てったってあの智天使ケルビムが神様の前に立っていらっしゃるのだから、間違いっこありませんぜ。」という確信をクライマックスとして提示。同時に歓喜主題領域から次の場面へ移行するための締めくくりを行なっている。もちろん初演の時にも、コンサート会場には、関連販売としてケルビムの縫いぐるみが店頭販売され、ベートーヴェン自身着ぐるみを着て売りさばいたという・・・のは、根も葉もない妄想だ。とにかくケルビムの和弦的部分で調性を(D dur)の属和音領域である(A dur)に到達させ、最後のフォルテッシモの「gott.」のフェルマータと共に(B dur)の属和音(f-a)を提示する。これは(D dur)からの遠隔調(いい加減な説明をすれば、古典派の転調では音階構成音が元の調性から離れすぎている調性には移行したがらないのだが、その音階構成音が遠い調性とされる領域を指す)である(B dur)に、(A dur)を経由して、(A dur)の準固有和音調(a moll)のナポリの2度としての(B dur)に到達するという手続きを取って、第9番における重要な要素であるナポリ和音的転調の効果で調性の辻褄を合理的に、しかも9番的に統一された効果(ナポリ的解釈)を使用して転調したものである。

詩節4後半提示による中間部(331-542)B dur



(6/8拍子、Allegro assai vivace,alla Marcia.)
[詩節4後半]
(ソロ)
楽しく太陽が駆け抜ける、
天上の壮大な規則に従って、
駆け出せ、兄弟よ、己(おの)が道を、
喜び溢(あふ)れ、勝利に進む英雄のように。
(ソロ+合唱)
駆け出せ、兄弟よ、己(おの)が道を、
喜び溢(あふ)れ、勝利に進む英雄のように。
(器楽によるフゲッタ部分が続く)

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 原詩の持つ推移的移行的な詩節4の精神を大いに活用して、第9番の基本調性パターンである(D)領域に対して、(B)領域の(B dur)による中間部的逸脱部分がトルコ行進曲風に行なわれる。しかしベートーヴェンはこの中間推移部分を同時に歓喜主題にも結びつけるという、歌詞配列よりも一歩進んだ楽曲構成を思いついた。まず器楽だけで、(6/8拍子)で変奏された主題自体を提示させ、続いて登場する詩節4後半の声楽部分は、その変奏された歓喜主題の対旋律として誕生し、両手を大げさに振って行進したり飛び跳ねたくなるような旋律を持って、つまり歌詞の持つ精神に基づいて生み出されたと考えられる。歓喜主題変奏の側面から見ていくと、まず管楽器で(6/8拍子)に変えられた歓喜主題がタイによるシンコペーションリズムに変形されながら完全に提示され、これが第7変奏(器楽第4変奏)となる。ここでは改めて楽曲が導入され、調性楽器拍子が変化し、さらにシンコペーションリズムを使用した変奏によって、前の詩節前半提示部分とは異なる新しい楽句を形成するが、同時に明確に前の主題を引き継いで登場するため、変奏形式の統一性と多様性が見事に調和している。この第7変奏は、始め管楽器と新しく導入されたトライアングル、シンバル、大太鼓の打楽器群だけで演奏され、やがて途中から弦楽器が短い合いの手リズムを開始、この管楽器による歓喜主題が元主題と同じ進行で旋律終止すると、続いてこれがもう一度繰り返され、そこに対旋律が声楽で加わり次の第8変奏を形成する。
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 変奏と統一の統合と言う言葉は、続くこの第8変奏(声楽第4変奏)においていっそう相応(ふさわ)しい。つまりこの部分でテノールのソロが導入され、歓喜主題に対する対主題が声によって前面に押し出され、ついにはこの部分の主要主題となって、主題と対主題の関係が入れ替わって、歓喜主題の方が伴奏的役割を担うと、中間部分的自立性がより高まり、主題の継続性と場面の独立性を兼ね揃えた「走れ走れ走ってしまえ」の部分を形成する。このソロの部分は器楽部分と同様、打楽器群と管楽器だけで伴奏され、やがて合唱が導入されると弦楽器の伴奏音型が少しずつ音数を増やし、それに乗せて継続して歌うソロと合唱が絡み合って進行、伴奏に回った管楽器による歓喜主題第8変奏が終わり、続く推移旋律を変奏した終止句が完全に提示を終える部分に揃えて、前面で歌う合唱とソロも終止して、管弦入り乱れてフゲッタ部分の器楽楽句が開始される。こうして「駆け出せ兄弟よ喜び溢れ英雄のように」の快活な行進曲は、だんだん我慢できなくなってきて、器楽達がフゲッタの導入を開始して駆け巡る結末を迎えることになるのである。
 さて、この部分までを振り返ると、異国情緒溢れるトルコ趣味はモーツァルトの「後宮から逃れてみた」やピアノソナータのトルコ行進曲を見ても分かるように、すでにベートーヴェン以前からある種のエキゾチックな音楽として西洋文化に入り込んでいたが、この楽章にいたって異国情緒溢れる行進曲から、ベートーヴェンの抽象化によって、拍子と調性で場面を転換させた天空世界の規律の中を駆けめぐるような、煌(きら)めく行進曲の描写に置き換えられている。その抽象的なトルコ行進曲を讃えるべく、この部分ではフルートの上にピッコロが書き込まれ、木管楽器のお仲間に加わると同時に、トライアングル、シンバル、大太鼓の打楽器三勇士がティンパニーのお供をして行進曲に愉快を添える。これらの楽器はこの(alla Marcia)行進曲風の所で登場するが、声楽部分が終了してフゲッタ器楽が天空を駆けめぐり出すと、もはや楽句が完全に行進曲から離れるため活動を停止する。
 声楽の歌詞となる詩節4後半は、まずテノールのソロによって開始され提示を終え、続いて最後の2行を繰り返しているうちに、「己(おの)が道を」の所で合唱のテノールとバスが一緒に歌い出して、つまり男性声域だけによる炎に酔っぱらったような熱狂に到達すると、その熱狂を引き継いで器楽フゲッタが開始するわけだ。
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 この器楽部分のリサーチはきりがないので実際に興味のある人は譜面を眺めて貰うことにして、一目見れば分かるように、合唱の最後の小節で弦楽器ベース(チェロとコントラバス)に登場するフゲッタ主題は、歓喜主題最後の4小節(歓喜主題部分の後続楽句が登場しないから、中間部分より最後の4小節が相応しい)を抜き出した歓喜主題に基づく主題になっていて、歓喜主題によるフーガ風部分(ここで安易にフゲッタと呼んでいるもの)の導入を果(は)たしているが、その対旋律としてヴァイオリンに登場する息の長いフレーズは、第7変奏から特徴的に使用され始めたシンコペーションリズムを使用して主題にから見合う。このフゲッタ主題の提示が(431-434)となり、以下主題と対旋律が声部を変えて順次導入されるが、2回目(435)小節からはもう一つの対旋律である第3の旋律がフゲッタ主題の8分音符に合わせて副次的に音を補充し、最後の主題終止句(434)がさらに2小節付け加えられる。続く主題開始は(441)からで、ここではさらに最後の主題終止句が4小節も付け加えられ、次の主題導入までの時間を引き延ばすと、(449)から始まる主題は再び2小節付け加えた形で次の主題(455)を導き、つまり主題提示までの推移時間を変えることによって、主題提示に揺らぎを形成している。この5回目の主題提示ではさらに主題開始音型も変化させ、いわば喜遊句(きゆうく、フーガ主題提示後のフーガ主題素材による推移部分)へ移行する合図として主題の最終提示を行なう。以下、続く部分もそれ相応に作曲上興味深いが、これじゃあどうしたって最後まで終わりっこないのだから、後はそれぞれの楽曲分析に道を譲って器楽部分の説明を終わりにすることにしよう。ただ、ここで最も興味深い点だけ述べると、それは器楽曲の駆けめぐる土台としての転調の変遷で、「駆け出せ己が道を」を「駆け出せ調的枠組みを」に置き換えて進行するとしか思えない、調性リレーの旅はすさまじいので、試しに短い調性推移も含めて列挙してみる事にしよう。
 声楽部分の調性(B dur)で開始した器楽部分の調性推移は、(B dur)→(F dur)→(g moll)→(G dur)→(c moll)→(Es dur)→(f moll)→(As dur)→(b moll)→(Ges dur)→(Des dur)→(b moll)→(Ces dur)→(h moll)→(e moll)→(D dur)→(h moll)→(H dur)→(h moll)→(D dur)という調性プランによって次の部分の調性である(D dur)に移行する。楽曲自体から調性旅行の逸脱がピークに到達して変位が最も激しい部分は赤で記された(b moll)→(Ges dur)の部分で、(Ces dur)は(H dur)と同じものだから、(Ces dur)の登場する当りから、(D dur)に向かう明確な調性プランに復帰したことが分かるだろう。

詩節1全体と詩節後半提示による後半部(543-654)

(6/8拍子のままD dur)
[詩節1前半再現]
(合唱)
歓喜、美しい神々のきらめき、
エーリュシオンの娘達、
炎に酔い我らは踏み進む、
聖なるもの、貴方の神殿に!
神秘の力で貴方は結び戻す、
激しく時代が引き裂いたものを。
すべての人は兄弟となり、
貴方の翼に抱かれるだろう。

[詩節1後半(3/2拍子、Andante maestoso)G dur→F dur→C dur]
(合唱)
抱き合え、すべての人々よ!
そして口づけを世界に!
兄弟よ、星空の遙か彼方にはきっと、
一人の愛(いと)しい父が居るだろう。

[詩節3後半(Adagio ma non troppo,ma divoto)g moll→F dur→g moll→D dur]
(合唱)
ひれ伏すのか、すべての人々よ?
万物の創造主を感じるか、世界よ?
星空の向こうに創造主を求めよ!
星々の先に必ず彼が住んでいるから。

 歌詞によって楽曲が良い意味で規定されている例はこの部分にもっともよく表われている。当たり前だが詩節1後半に対応して呼びかけを行なう歌詞は詩節1前半であり、「歓喜によって時流の切り裂いたものが結ばれすべてのものは等しく貴方の前に兄弟になる」から、詩節後半の「抱き合えすべての人よ。愛しい父が居るから。」へと繋がって、ベートーヴェンが抽出した意図での「歓喜に寄せて」の教義的部分を形成する。そしてこの教義全体である詩節1全体はまだ一度も提示されていない。おまけに中間部分の「駆け出せ駆け出せ」から直接詩節1後半に向かったのでは、詩の応答が不成立になる。どういう事かと云うと、元々の詩節4後半の意味は「天上規律のように→駆け出せ兄弟よ」であるが、詩節1後半は「抱き合え!口づけしろ!→創造主が居るから。」であり、さらに詩節3後半の場合は疑問符によって形を変えた詩節1の精神を踏襲していて「ひれ伏すか?感じるか?→星の向こうに創造主を求めよ。」であるから、詩節1後半と詩節3後半は併置されることによって「創造主の確認」の効果を一層増すが、一方で詩節4後半から詩節1後半へ繋げても唐突すぎて詩的効果が薄い。そこで詩節1前半を再導入して詩節1後半に繋げると、教義の完全提示という詩全体の確信がこの部分で行なわれて、それを引き継いで疑問符付きの詩節3後半で強調されるため、開始部分で詩節1全体を提示するよりも、詩の提示部分全体における教義の中心とクライマックスを、初めではなく後半に取っておく(reserve)ことによって、詩としても楽曲としても見事な構成感を獲得しているのが分かる。音楽的には、歓喜主題を担っていた詩節前半から、一度歓喜主題を背景に生み出された詩節4の旋律に移行することによって、中間推移させ、続く詩節1前半の再提示で歓喜主題第9変奏(声楽第5変奏)を登場させ、同時に詩節1後半部分への橋渡しとしているのである。こうした楽句連結は、該当楽句部分がそれぞれの前後関係で見れば中間的部分だとか、再現的部分だとか、その上で全体的には提示部の中だとか、多様的に解釈が可能で、しかも聞いている内に前後関係から部分の立場と位置が変化するので、絶えず新たな解釈が生まれ続けるような構成感を持っているため、聞く度に解釈しきれない新鮮な驚きとなって、見事な構成を獲得している。

詩節1前半再現(543-594)

・先ほどの詩節4後半部分が歓喜主題を背景に形成され、その後の器楽フゲッタも歓喜主題に基づいていたとはいえ、特にフゲッタ部分では歓喜主題本来の形からは大きく離れていたので、まるで主題展開を経た後の再現部分への回帰のような効果を持って詩節1前半が歓喜主題を奏で、しかもこの部分はすべて合唱によって提示され、和弦的進行による合唱と管楽器に対して、弦楽器が8分音符で音階的に駆け回る、非常に総奏的な歓喜主題を形成、かつて器楽序奏部分で登場した歓喜主題が4回目の提示(つまり第3変奏)で総奏に到達したのと同様、声の部分による純粋な歓喜主題の提示としては、この部分で総奏的到達点を迎えることになる。(ただし、連続的に歓喜主題の変奏番号を振ると第9変奏になる)しかもこの部分は直前部分の行進曲風の(6/8拍子)のまま形成され、より発展した形として次の部分にはっきり移行しているから、情景としてはもう開始の詩節順次提示部分とは異なる場所、つまり教義提示のクライマックス的部分に突入したのである。そしていよいよ(G dur)に移行し詩節1後半部分が登場する。

詩節1後半提示部分(595-626)

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・楽曲は3/2拍子になり(Andante maestoso)による息の長いコラール的な和弦的合唱が、テノールとバスのユニゾンによって開始し、詩節1後半を形成する旋律8小節によって詩節1後半の前半2行を提示する。その間楽器は弦楽器ベース(つまりチェロとコントラバス)とトロンボーンが、合唱声部に合わせて旋律を演奏するので、全体は単旋律によって詩節1後半旋律が提示される。トロンボーンはバロック時代から宗教曲などで神秘の響きとして使用されることのあった楽器で、この創造主の存在を確認する詩節1後半と詩節3後半部分において、栄光の楽器トランペットから神々の神秘の響きであるトロンボーンに楽器が移され、トランペットとティンパニーがこの部分では使用されないことは、この部分がコラール的な和弦的4声体で宗教的な祈りとして表わされていることと共に、創造主との距離が最も近い場所になっている。つまり「歓喜→兄弟的親愛→創造主」という関係において、創造主の部分に踏み込む宗教的なクライマックスはまさにこの部分において形成され、この部分による創造主の(直接見ることはないが)確認にがなされたために、以下の部分は確信を持って「歓喜」の教義である詩節1を讃える部分に移行する訳である。するとこの部分が(G dur)で開始し、続く詩節3後半部分が(g moll)で開始するのは、原調(D dur)に対するⅣ度調領域が、創造主に近い調性として設定されている事になるが、この関係はすでに第3楽章の最後の部分、神々の領域が顔を覗かせるⅣ度調領域に予見されていた。(というか、そのように仕組まれていた。)
・さて、詩節1後半主題の提示に続いて、この詩節1後半の前半2行による8小節が、ソプラノとアルトの女性合唱が加わり繰り返される部分で、4声体の和声が形成されると、それと同時に器楽伴奏も合唱の和弦的進行に合わせ和声的進行し、さらに弦楽器とコントラファゴットに細かい順次進行的な伴奏旋律が動き出しながら、「抱き合えキスを」の歌詞を讃えると、この2回繰り返された詩節1後半初めの2行への応答として、創造主を確信する詩節1後半の後半2行による新たな旋律が、先ほどと同様の手法で提示される。つまりまず男声合唱と弦楽器ベースとトロンボーンによってユニゾンで8小節の応答旋律が提示されるが、先ほどの呼びかけが(G dur)であったのに対してさらにⅣ度調関係にある(C dur)で提示され、この8小節がやはり女声合唱の導入と共に和声化され繰り返えし、シンコペーションの特徴的な器楽の細かい音型によって修飾され、非常に美しい「愛すべき父は居る」の情景を表わすが、この部分は先ほどの(C dur)に対してさらにⅣ度調関係にある(F dur)で形成されている。

詩節3後半提示部分(627-654)

・第3楽章で予期されていた神々の領域を提示させる方法、つまり比較的単純な和声に基づく長調と短調の3和音を、短3和音に進むかと思わせては長3和音に進行し、長3和音に進行するかと思わせては短3和音に移行する、非常に基本3和音型の目に付く部分を形成、ここではヴァイオリンを完全に休止し、管楽器と弦楽器部分すべてを声楽部分と同様に和弦的に進行させ、修飾伴奏の一切無い声楽も器楽部分も共にルネサンス的和弦的対位法を行なう部分を形成し、これを持って最も神に近い神秘な響きの部分を形成する。この旋律は器楽が4小節先に行なう(627)からの部分は合唱部分の導入提示として捉えられ、合唱部分で(631-646)の「muss er wohnen、必ず住んでいる」のクライマックスまでは、連続的に一つの旋律を描く。そのソプラノの線は、始め分散和音下行型で7度下行し、次にクレシェンドしながら4度順次上行すると途切れ、続いてさらにクレシェンドして順次3音上行し、休符を入れてさらに「Welt?、世界よ?」の所でもう1音上行してフォルテッシモに到達。しかし次の「Such,ihn、確かに彼は」の部分で6度下のピアニッシモに跳躍下行して、直ちに6度上に復帰してクレシェンドして、半音階上行を交えつつ順次進行し(g)音に到達する・・・という、旋律の先生に見せたら何だこれはと突っ込みを入れられそうな常ならぬ旋律的進行を行なっているが、常ならぬものを表わすためのこの旋律進行は、実際は完全に成功していて、初めの分散和音の下行の大きな力は弱い上行によって反行し、さらに時間を掛けて1音ずつ上行を確認しながら根気よく昇っていくことよって、開始の(d)音の1つ上の(e)に到達。その後一度開始の時の下行の力が返すが、しかしもはや上行の力の方が増し、先ほどの(e)音から半音階でゆっくり力を込め上行してついに目的地である(g)にまで到達する。つまり冒頭の分散和音下行の7度の力に対して、時間を掛けて10度上行するという息の長い旋律が、この部分の基本線になっている。もちろんこの合唱は4声体であるが、このソプラノ旋律が非常に意図的に作成されていることから、この旋律から始まってすべての旋律が導き出されていると考えられる。しかも調性的にも、全体の(g moll)が「万物の創造主を感じるか、世界よ?」の部分で、遠隔調の(F dur)に逸脱して、再び(g moll)に復帰するが、第9で効率的に明確に意識を持って使用されているこのような調性関係の使用は、実際は芸大和声に取り込まれていて可笑しくない、ある種の調設定の遣り方になっている。
・こうして(646)で「muss er wohnen、必ず住んでいる」を確信した旋律は、続く部分で再びヴァイオリンが導入され、器楽によってピアニッシモで(D dur)の準固有属9和音が聞えると、続く「歓喜」を讃える讃歌部分に向けて、車輪が動き出すように、準固有属9和音の響きの中でもう一度「創造主は居る」の歌詞を歌いつつ讃えるように楽句を終える。

2005/07/20
2005/08/09改訂

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