ベートーヴェン 交響曲第9番 第4楽章3

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3.詩節1の歌詞全体による歓喜への讃歌部分(655-842)

2重主題によるフゲッタ部分(655-729)

(6/4拍子、Allegro energico,sempre bin marcato.)
[詩節1前半後半による対位](歓喜の主題に基づく主題による)
(合唱、①②を同時に対位法で)
①歓喜、美しい神々のきらめき、
エーリュシオンの娘達、
炎に酔い我らは踏み進む、
聖なるもの、貴方の神殿に!

②抱き合え、すべての人々よ!
そして口づけを世界に!

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 詩節1後半から詩節3後半にかけて完全に歓喜主題から離れていた楽句は、神の存在を確信し歓喜を讃えるべく再び歓喜主題部分が再現される。ここで全体を概観すると、歌詞提示部分だけで見たとき詩節4部分が逸脱中間部的を形成していたが、楽曲全体で考える場合は詩節4部分も歓喜主題部分として一貫性を保ち、直前に見た詩節1後半から詩節3後半に至る部分こそが、歓喜主題から離れた中間部分のように置かれていたことが分かる。ただしそれは詩節前半の詩を順次提示しながら創造主の存在に辿り着くための、いわば歌詞の筋立てに従った異なる性格の楽句への情景変化であるから、続く歓喜主題の再現的部分は、ソナータ形式の再現部とは全く意味あいが異なり、ここからは確信した「歓喜」を讃えるいわば歓喜の讃歌が行なわれる訳だ。
 この讃歌的部分では、教義の中心である詩節1全体は、歌詞自体の力よりも、むしろ音楽の力によって、言語だけでは通常起こりえない状態、つまり前半と後半を対位法によって一緒に提示してしまうという融合を成し遂げ、先ほど上げた①と②の歌詞が同時に進行していく。つまり合唱のソプラノが詩節1前半の歓喜主題に基づくフゲッタ主題(656-662)を①の歌詞で提示すると同時に、アルトが先ほど詩節1後半の提示部分で生まれた詩節1後半主題を対旋律(655-662)として②の歌詞で歌う。この2重対位法を主題として、器楽部分には声楽パートの補強に加え、8分音符による細かい順次進行パッセージ修飾を、詩節1前半旋律をなぞるように投入し、讃え歌うような効果をさらに高めて、これらの対位法素材が次々に声部を変えて投入され、ひたすらに歓喜を讃える美しい讃歌がこの部分を形成している。ここでは、合唱が4声で表わされるような部分では、もはや歌詞自体は明確に分離して聞き取れないかもしれないが、事前に旋律の受け持つ歌詞の意味を理解している聞き手は音楽の力によって、すっぽりと対位法の意味とそれが表わす内容が分かってしまうだろう。つまり、これまでの過程があってこそ、始めて表わすことの出来る方法がこの讃歌の部分で採用されているわけだ。また歌い手である我々人間側から「歓喜」を讃えるというこの部分において、理性的・知的なものであると同時に、私的感情を遙かに越えた状態を表わすフーガ的な作曲手法を用いることは非常に相応しい。もう本当に時間切れなので、この対位法の極致は意義を見ただけで、これにて通過するが、これは断じて軽く見て居るのではなく、ここで少しでも足を止めて深入りすると、動きが取れなくなってしまうから、今は涙を飲んで次に行こうという理由だ。

詩節3と詩節1後半による中間部分(730-762)

(B dur→d moll→F dur→g moll→A dur→G dur)
[詩節3後半]
ひれ伏すのか、すべての人々よ?
万物の創造主を感じるか、世界よ?
星空の向こうに創造主を求めよ!
[詩節1後半の後半]
兄弟よ、星空の遙か彼方にはきっと、
一人の愛(いと)しい父が居るだろう。

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 続いて再び詩節3と詩節1後半による創造主の最確認を行なうが、詩節1後半の前半部分はすでに直前の部分で提示されているので、ここでは詩節1後半の後半部分2行と、詩節3後半が使用されている。興味深いことに、ここでは疑問から確信に至るべく、疑問符付きの詩節3後半が先に提示され、最後の1行である「創造主が居る」という部分をカットして、この1行の意味を、詩節1後半の最後の部分「愛しい父が居る」から抜き出して繋ぎ合わせる形になっている。つまり詩節1と詩節3の後半3行目が(uberm Sternenzalt、星空の彼方)という言葉を同じ場所に使用しているため、ここに掲載した歌詞のように、実際は「星空の向こうに創造主を求めよ!」と「兄弟よ、星空の遙か彼方にはきっと」が音楽を変えて言い直されながら、共通の意味を持って歌詞の強調と接続を行ない、音楽的には言い直しの部分で次の部分に移行する優れた構成法になっている。これによって一連の讃歌部分が、対位法部分で使用されなかった詩節1後半2行を使用して締め括ることによって、直前の対位法部分と合わせて一つの閉じられた詩節1讃歌を表わすことに成功している。音楽的には詩節3後半部分は、実際に創造主に近づく場面としてではなく、先ほどの確信の回想といった意味で、跳躍下行後に跳躍上行して半音階でさらに2音上行するという、初めの詩節3後半提示部分を様式化して登場させ、これが合唱と楽器の完全ユニゾンによって回想的にバス、テノール、アルト、そして4声一斉で4小節ごとに断片提示される。
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 ここで連続的に最後の詩節1後半に移行し、和声課題第1巻のような圧倒的に単純な和弦的声部進行による斉唱の力によって、創造主が居ることが小声(ピアノ)ながら確信されるような部分が登場し、ソプラノが(e)音保続から上行、これをもう一度行ないつつ歌詞を噛みしめる讃歌の到達点を形成、木管が修飾音として投入する順次音階上行パッセージが輝かしい崇高さを演出している。

3.詩節1による歓喜に満たされた祝祭歌的部分(763-940)

詩節1前半による祝祭歌(763-842)

(2/2拍子、Allegro non tanto)
[詩節1前半]
(ソロ)
歓喜、美しい神々のきらめき、
エーリュシオンの娘達、
炎に酔い我らは踏み進む、
聖なるもの、貴方の神殿に!
神秘の力で貴方は結び戻す、
激しく時代が引き裂いたものを。
(合唱)
神秘の力で貴方は結び戻す、
激しく時代が引き裂いたものを。
すべての人は兄弟となり、
貴方の翼に抱かれるだろう。
[poco adagioの合唱によるカデンツァ→Tempo Ⅰ]
神秘の力で貴方は結び戻す、
激しく時代が引き裂いたものを。
すべての人は兄弟となり、
貴方の翼に抱かれるだろう。
(ソロによる、poco adagioのカデンツァ)
すべての人は兄弟となり、
貴方の翼に抱かれるだろう。

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 「確信して祈りの歌まで歌ったら、後は祝祭的に歓喜を歌いまくらずには居られないのさ。」そんな様相で(Allegro non tanto)に速度を高め開始する、歓喜主題の変奏による祝祭歌的な部分。主題は大きく形を変え、最後のまとめ的部分に移行したことを告げながら、早い8分音符の器楽伴奏が走り回っては、祝祭的精神を持って、始め男声ソロ2声と女声ソロ2声が掛け合っているうちに、合唱がこれに参加して、ついにソリスト達の重唱と合唱が共に掛け合う祝祭的讃え歌に突入。ここに至ってもはや誰も止められないような勢いで盛り上がると、ついに「貴方の翼に抱かれるだろう。」の部分に到達し、ここで(poco Adagio)になって合唱による最後の自由カデンツ風部分が4小節形成される。しかしこのカデンツだけでは、高揚した感情に収拾が付かないので、再び合唱が歌詞を手前から歌い始め、やがて再びカデンツの最後の1行に到達すると、今度はソリスト達が非常に豊かなカデンツを演出、しかも11小節に拡大して、全体として世俗的祝祭の精神で「歓喜」を讃えきる。

コーダ的、詩節1後半による熱狂的な祝祭歌(843-940)

(2/2拍子、Poco Allegro,stringendo il Tempo,sempre piu Allegro、prestissimo)
[詩節1後半]
(合唱)
抱き合え、すべての人々よ!
そして口づけを世界に!
兄弟よ、星空の遙か彼方にはきっと、
唯一の愛すべき父が居るだろう。
[詩節1前半1行目]
歓喜、美しい神々のきらめき、
エーリュシオンの娘達、

 祝祭的に盛り上がった「歓喜」は今まさに最後のクライマックスを形成する。ピッコロ、トロンボーン、トライアングル、シングルなど皆々参加を希望し、ティンパニーももちろん轟(とどろ)き、すなわち詩節1後半旋律を(prestissimo)の祝祭的なものに変え、詩節1後半部分を讃えきりたい情熱が、にっちもさっちもいかなくなった激しい熱狂状態となって、詩節1後半の教義確信を絶対化する、と云うかもはや音楽が「歓喜」そのものとなったかのようにたまらなく高揚し、その中で最後に詩節1前半1行目を提示し、これに立ち返ることによって詩節1全体の最終確認を全(まっと)うし、歓喜の極みの中で大円団を迎える。

まとめ

 いずれ第3楽章までの第9番は、人間世界の悲劇や英雄ぶりではなく、もちろん革命や共和制と云った人間社会的勝利ではなく、もっと大きな神々の領域とか、世界の創造とか、もっと我々個人を越えたイメージによってなされていたように思われる。このイメージが正しいとするなら、このイメージのまま第4楽章を表わすとしたら、楽園追放から我々までを扱うのではもう1曲作曲し直す必要があるから、最終楽章のまとめとして、創造主の英知そのものを提示して、器楽曲のまま例えばフーガなどを駆使して統合を図る方法が1つあったのでは無いだろうか。そしてもう一つ、有力な方法として考えられるのは、最後を敬虔な祈りの歌にして、宗教曲的な解決を図る方法で、これは実際に声を用いても、また器楽曲によって宗教曲的な祈りの歌を創出する方法でも可能になる。ベートーヴェンは4楽章を合唱付きにするか、器楽曲で行なうのかで長い間迷って、さらにこのシラーの「歓喜の歌」による統合が正しいかどうかで、随分悩んでいたようだが、それは第9の第3楽章までのイメージを統合する魅力的な最終楽章の道が幾つかあって、それらに比べて「歓喜の歌」による統合がより良い選択かどうか確信が持てなかったのかもしれない。しかし、ここで器楽曲の統合を図れば、楽曲としての結晶のような構築性は高まるが、多分に神秘的で高尚ではあるが我々の精神からは距離を置いた傑作が誕生しただろう。また宗教的祈りの合唱曲にしていたら、やはり神秘性と敬虔な面持ちは高まったに違いないが、多分に宗教曲の面持ちが濃くなっていただろう。ベートーヴェンは、ここでシラーの詩を使用することによって、啓蒙主義を抜け理性に照らされ、迷妄に満ちた枠組みを乗り越え、自由平等友愛の精神で世界兄弟に成りつつある我々人間達が、その世俗的立場から歓喜を讃え、神々世界を垣間見る「歓喜」の讃歌・祝勝歌を共に歌い上げるという4楽章を持ち込んだ。これによって全3楽章のイメージを、神々が築いた我々の存在する世界として提示し、我々の理性からその世界を、そして神を讃えるという「歓喜の歌」の部分を第9番全体の中心に据えることに成功している。したがって、この楽曲解析のように、世界創造的イメージを持ち込んでも、またギリシアの神々の世界を当てはめても、また単に「混沌的→熱狂・闘争・軍隊的→楽園的→歓喜」のようなイメージで4楽章全体を眺めても、最後に我々の「歓喜の歌」を讃えて締め括るその精神は等しく説明が出来る。つまりここでの神のイメージはキリスト教の様な具体的な特定の神よりも、もっと抽象化されて普遍的なものに置き換えられているため、人間の一般的な感情によって宗教を越えて理解しうる作品になっている訳だ。とくにギリシア神話の世界には世界創造があり、さらにエーリュシオンはギリシア神話の黄泉の楽園そのものであり、神々の闘争があり、軍神アレースは軍隊的、酒神デュオニュソースは歓喜を司り、大神ゼウスは雷神で第1楽章のイメージも重ね合わせることが出来るかもしれないなど、シラーの詩自体の持つギリシア的精神とキリスト教的精神の混濁を考えると、非常に興味深い意味を持っている。
 いずれにせよ、3楽章まですべてを踏まえて、この第4楽章を置くことによって、視点と立場を大きく我々側に置き換えた作劇法的な場面転換を行なって、この最終楽章を全楽章の意義の中心、そしてクライマックスとしている。そのため、その精神がまるで掴(つか)み取れないと、第4楽章の接合に不具合があるように感じらるかもしれないが、ベートーヴェンは最終的にその意義は多くの人々に理解されうる範疇(はんちゅう)にあり、したがって見せかけの不具合は音楽そのものによって凌駕(りょうが)され、しかも一度その意義が認識された後には、かえって最も強力な楽曲構成として機能すると確信したに違いない。本当に作曲に不本意があれば、晩年のベートーヴェンがこれほどの大作をあえて不完全なまま放っておく気遣いはない。つまりベートーヴェンが別の曲に残した言葉を借りるなら、結果としてこの最終楽章は「そうでなければならない」のである。

2005/07/20
2005/08/13改訂

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