ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調

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合唱付き交響曲

 1806年のゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラーや、1813年のペーター・フォン・ヴィンターの合唱付き交響曲があるそうだし、1820年にはダニエル・シュタイベルトが「ピアノコンチェルト第8番合唱付き」を発表するなど、合唱付きシンフォニーの精神は前代未聞でも何でもないが、要するに田園シンフォニーのように、面白い遣り口を採用して抽象化様式化を高めて前代未聞の最高作品に仕立て上げるという、ルートヴィヒ大王お得意な作曲スタイルといえる。したがって、アホみたいに前代未聞とか、にもかかわらず事実上第1作だとか、神聖の極致が轟いて地割れがどうとか訳の分からんことを騒ぎ立ててみっともないのは止めにしたい。

作曲の経緯

 ベートーヴェンの素敵に楽しい伝記でお馴染みのソーロモンに云わせれば「声だけでは十分ではない、だから彼自身が祝祭を「歌と舞踏」で表わすべきだと述べたように、舞踏や行進の楽曲が声楽に結びつけられ、さらに哲学的意味合いを持たせる2重フーガが加わり、勝利への祝祭と宗教的なものが解け合っている。後期様式の特徴となるべき4つの軸である、歌、舞踏、変奏曲、フーガが「歓喜に寄せて」の中に解け合ってしまったのだ!」という第9番交響曲だが、シラーの詩への関心は非常に早い内から作曲家の心の中にくすぶっていた。ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(1759-1805)「歓喜に寄せて(An die Freude)」は1785年に作詩され、翌年雑誌に掲載されたそうだが、すでにベートーヴェンがボンからヴィーンに立つ前の学習期、1793年頃にこの詩への作曲への関心があったらしい。その後1798-99年にも、この作品の一部か全部かに曲を付けていた可能性があり、1803年にはジムロックへの売り込みに「歓喜に寄せて」の名前が含まれているが、残念ながら作品は綺麗さっぱり失われてしまった。
 合唱付きの交響曲としてはドイツ人のゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー(1749-1814)が1806年にいち早く世に送り出しているから、うわさ話ぐらいには何らかの認知があったかもしれない。フォーグラーはこの交響曲の翌年にダルムシュタットの宮廷楽長として招かれ、ついでに音楽学校を組織してヴェーバーやマイヤベーアを生み出すことになる。ベートーヴェンの方は、1808年の「合唱幻想曲」(op80)の事を手紙で「大交響曲」なのだと叫び、合唱フィナーレに「歓喜に寄せて」の言葉による導入を持ち込むなど、合唱付き交響曲と「歓喜に寄せて」の精神は後年に唐突に表われたものではなさそうだ。1812年には「歓喜に寄せて」の一部「喜びは神の美しい花火」の詩に対するスケッチが、交響曲第7番・第8番の合間に登場し、合唱付き序曲の可能性が模索されていたが、この主題素材は結局、序曲「霊命祝日」(op115)で使用されることになった。その頃、1813年にはドイツ人でミュンヘンを中心に活躍をしていたペーター・ヴィンター(1754-1825)がやはり「合唱付き交響曲」を世間に送り出している。
 1815年以降のスケッチになると、スケルツォ主題や第1楽章の原型などが顔を覗かせるが、1817年6月にロンドンのロイヤル・フィルハーモニック協会から2つの交響曲依頼を受けたのが契機となって、1812年以来長らく途絶えてた交響曲に再び関心が高まった。そして翌1818年になると、交響曲に声のパートを用いる事を真剣に考えるようになったが、その頃の考えでは
「昔の旋法を用いて交響曲に敬虔なる歌を持ち込む。例えば、主よ貴方を崇めます、アーメン。のようなものを、歌だけで、あるいはフーガの導入部として。2つ目の交響曲の全体をこの方法で遣って見ても愉快だが、声は最後の楽章か、またはアダージョから入れても面白みがある。」
(当時9,10番が予定されていた)とメモが残されている。
 しかし、1819-23年に掛けて、最後の3つのピアノソナタ、ディアベッリ変奏曲、そして膨大なミサ・ソレムニスに着手していたベートーヴェンは、優先順位としてこちらを上位に置き作曲を続けた。特に全身を傾けた「ミサ・ソレムニス」の中には、すでに1809年から始まっていた古典伝統以前への長い探求への旅が、パレストリーナなどルネサンス音楽の宗教音楽語法や、ヘンデル、バッハ、C・P・E・バッハの研究を通じて、「C・P・Eの連祷(れんとう)を忘れては行けない!」と叫ばせるほど縦横無尽に作曲に生かされることになったが、この獲得された晩年の様式は、もちろん第9番にも入り込むことになった。こうした作曲の合間にも、1822年には、「歓喜に寄せて」による合唱付きの4楽章交響曲の構想が本格的に見え始め、フィナーレを「歓喜の主題」によって作曲する構想が練られ始めたが、結局23年の夏まで、第9の最終楽章は器楽で進めようか、つまり合唱の構想は第10番交響曲に当てはめるべきかで悩んでいたようだ。
 集中的作曲は23年3月に「ミサ・ソレムニス」がルードルフ大公に献呈された後に行なわれ、まず4-6月には第1楽章が総譜化、8-9月に第2楽章の草稿がほぼ完成し、10月には第3楽章がほぼ完成したが、残り第4楽章は先に合唱部分が完成して、先行する器楽の歓喜のメロディーに基づく部分が作曲され、さらに器楽のレチタティーヴォ導入部分へと進んでいったそうだ。こうして翌年2月まで格闘をして、暫定的完成となった。この間24年のスケッチには第10番の作曲も記入されるが、一方で手紙や会話帳の第9番に関する資料は非常に乏しい状態にある。

初演

・1824年5月7日にヴィーンのケルントナートーア劇場で。オケはアマチュアも参加して弦楽器パートが12-12-10-12、管楽器が2倍編成に拡大され、合唱も90名以上動員、さらにピアノまでもが通奏低音として参加するという大根チェルト方式。覚え方は「岩にしみ入る第9番」とでもしておこうか、「献堂式」序曲、ミサ・ソレムニスから3楽章を遣った後に、演奏された。シュパンツィヒとウムラウフが2人で指揮を行ない、作曲者の指示は放っておくように指示を出してくれたお陰で、作曲者本人は総指揮者の横でうろちょろ楽譜を見ながら水の中を半回転したり妄想を満喫したという伝説は、今日伝記映画にも取り入れられている。初演は会話帳を見ると拍手喝采アンコールの後「ベートーヴェン、万歳!」が何度も沸き起こり、皇帝を讃える以上に万歳を叫ぶなと警察官が止めに入ったとも云うが、収益上自分の取り分が少なかったのでいつもどうり腹を立てて、シンドラーに罵詈雑言を吐き散らしたので、これ以降身辺の世話はカール・ホルツ青年が勤めることになった。この時からシンドラーはベートーヴェンの後世を捏造で汚すことを心に誓ったのかもしれない。5月22日のヴィーン再演は会場の席が半分以上空いたままで、収益が転げ落ちて、さらにベートーヴェンを苛立たせた。しかしヴィーン以外では、この年の内にロンドン、フランクフルト、アーヘンでの初演が行なわれている。

その後の演奏

・目出度くプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(ベートーヴェンが密かに父親だったらと憧れる偉大なフリードリヒ大王の息子)に第9番が献呈された1826年には、ライプツィヒで3回演奏されているし、早くもプロイセンの首都であるベルリンで初演が行なわれたが、初演の前に17歳のメンデスルゾーンがピアノでの試し弾きにかり出されているという。その後も各地で初演が続き、1827年3月にはヴィーンでの再演も行なわれた。死後の演奏では、1830年頃から活気に溢れて演奏がしだいに定着化していったようだ。したがって、長らく忘れられたように書き込むのは幾分捏造じみている。その間にヴァーグナーやらハンス・フォン・ビューローやらがロマン派の精神で大いに変更極めた楽譜を作成し、一層進んだ新しい作曲家が過去の大作曲家の手直しをして差し上げるという、進歩主義の立場に立って大いに己の第9を形成して演奏を楽しんだ。

楽器編成

通奏楽器群
・フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、ティンパニ,弦5部
2楽章
・トロンボーン3
4楽章
・ピッコロ、コントラファゴット、トロンボーン3
・トライアングル、シンバル、大太鼓
・独唱4声部+混声4部合唱

演奏時間

カラヤン指揮ベルリン・フィル1962年演奏の時間
  第1楽章-15:27
  第2楽章-10:58
  第3楽章-16:25
  第4楽章-23:58

古楽演奏のガーディナー版の時間(すべて繰り返し有り)CD作成が1994年(国内版の解説付きがおすすめ)
  第1楽章-13:04
  第2楽章-13:06
  第3楽章-12:05
  第4楽章-21:24

2005/07/06暫定改訂済み
2005/07/25改訂

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