10-1章 17世紀後期イタリアのオペラと音楽

[Topへ]

ヴェネツィアに見る17世紀後期のオペラ

 複数の公開劇場に沸き立つ17世紀後半のヴェネツィアでは、モンテヴェルディやカヴァッリ、チェスティの後を追って、沢山のオペラ作曲家達が活躍した。例えば、

アントーニオ・サルトーリオ(1630-80)
ジョヴァンニ・レグレンツィ(1626-1690)
カルロ・パッラヴィチーノ(1630-88)
ピエトロ・アンドレア・ツィアーニ(1616以前-1684)

などが競い合ってオペラを作曲する中、ヴェネツィアの祝祭的性格はますますもって享楽の都を満喫した。すでにサンカッシアーノ劇場開演の翌年には、政府公認のカジノであるリドットが誕生し、お祭りあるごとに仮面を付けて別人として快楽に耽るどんちゃんの心が、やがて18世紀を彩る色事師ジャーコモ・カサノヴァ(1725-1798)も活躍するバロック後期へと一直線に繋がっていく。オペラも純粋な劇としての完成度ではなく、花形歌手達への偏った関心がオペラのアリアを媒体としてさらに進行し、オペラはお気に入りのアイドル歌手のアリアを聞くための手段になってしまった。そんなわけで偉大な女性歌手であるジローラマ夫人やジューリア・マゾッティは、最も報酬に恵まれた作曲家カヴァッリの2倍から6倍もの金額を手に入れることが出来た。台本作家のジューリオ・ストロッツィはアンナ・レンツィが流行に火を付けてしまったのはすごいと、レンツィの歌姫としての才能をこれ見よがしに褒め讃えた。50年代には20曲ぐらいだった1つの作品でのアリアの数が、70年代には60曲にもふくれあがったのだ(当社比300%アップ)。イタリア各地で開催されるようになっていたオペラにとって、ヴェネツィアは一番の中心地として作曲家の憧れだったから、ヴェネツィアオペラの傾向は各都市で共有され、やがてアリアはベル・カントのなだらかな旋律に乗せて、同じようなメロディを繰り返すタイプの有節歌が主流となった。2部形式のAB型アリアや、3部形式のABA型が常套化、曲の合間に同じ音楽による反復句(リフレイン)を挿入することも好まれ、舞曲様式の曲や、オスティナート低音によるアリアも作られた。やがて休み無く低音伴奏が8分音符でリズムを刻みながら走り回る走句低音running bassや、チェンバロと低音楽器だけで支える通奏低音アリアcontinuo ariaなどが生み出されていった。

17世紀後半以降のヴェネツィアオペラ

・アリアに聴き惚れレチタティーヴォではおしゃべりに華やぐヴェネツィアオペラは、17世紀後半から18世紀前半に掛けておおよそイタリア中の作曲家が活躍するオペラの中心地として君臨した。18世紀初頭にはナポリオペラの大家アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)と、修行を兼ねてイタリアに留学していたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)もオペラを上演した。ヘンデルのオペラ「アグリッピーナ」は1709年に上演されたのである。
・その後もレオナルド・レオ(1694-1744)、ニコーラ・ポルポラ、レオナルド・ヴィンチ(c1690-1730)や、ハッセ、ガルッピが活躍していくが、18世紀前半のオペラ作曲家の中心はやはり、トマーゾ・アルビノーニ(1671-1750)アントーニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)の2人によって占められた。特にのさばるヴィヴァルディのえげつない遣り方に不快感を表して、正体を暴こうとしたヴェネデット・マルチェッロが「流行の劇場」を書き上げてヴィヴァルディ一味の暴露と批判を繰り広げる有様だった。そんなヴェネツィアは1797年にナポレオンのイタリア遠征で消えて無くなるまで、オペラに花を咲かせ続けていくのである。

サン・マルコ大聖堂以後のオペラ以外の音楽

・すでにモンテヴェルディな時代にはコーリ・スペッツァーティは廃れ、独奏を際だたせたバロック的音楽に変質していたサン・マルコ大聖堂での音楽は、30年のペスト以降も続けられ、ロヴェッタ、カヴァッリなどを経てジョヴァンニ・レグレンツィ(1626-1690)が楽長をする頃、再び活気を取り戻した。その後もアントーニオ・ロッティ(c1667-1740)やバルダッサーレ・ガルッピ(1706-1785)が楽長を務めるが、17世紀後半ヴェネツィア音楽はもはやオペラとオスペダーレに移行していった。
オスペダーレとはヴェネツィアにおける孤児院のことだが、大量の捨て子少女達をエリート集団に養成するべく音楽教育にも力をいれた幾つものオスペダーレで、付属礼拝堂での声楽や少女達自ら演奏する器楽アンサンブルのために、すぐれた音楽家達が曲を書いている。レグレンツィやフランチェスコ・ガスパリーニ(1668-1727)が楽長を務め、後にはアントーニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)やヨハン・アードルフ・ハッセ(1699-1783)、ニッコロ・ヨンメッリ(1714-1774)など数多くの作曲家の活躍する場所になった。
・一方18世紀前半を飾るトンマーゾ・アルビノーニ(1671-1751)やアレッサンドロ・マルチェッロ(1669-1747)とベネデット・マルチェッロ(1686-1739)兄弟などはアマチュア肩書きのまま作曲を全うした。しかしベネデットお気に入りの言葉「高貴なディレッタント」の意味は音楽で金銭を獲得する必要など無い財産溢れる名門貴族という意味で、今日的意味でのプロとアマチュアという使い分けではないから注意が必要だ。ヴェネツィア音楽界は、遂に趣味で作曲を行う有閑貴族的教養人を生み出すに至ったのである。

ナポリタンなオペラ

 12世紀ノルマン人の領土となって初めは神聖ローマ帝国系の支配が行われたものの、1266年に今日のフランスに領土を持つアンジュー家が奪い取って以来、長らくフランスと、スペインのアラゴン家が支配を繰り返すナポリは、16世紀初頭からしばらくスペインの支配を堪能した。スペイン国王が福王を派遣し、1600-02年に新しく建築された王宮に君臨し、宮廷音楽の中心地ともなった。

ナポリタンバロック音楽の開始

・福王王宮の付属カペッラは16世紀半ばからスペイン人など外国作曲家に占められ、1599年から楽長に就任したジョヴァンニ・デ・マック(1548/50頃-1614)もフランドル人だったが、彼の下でようやくイタリア人のジョヴァンニ・マリーア・トラバーチ(c1575-1647)やアスカーニオ・マイオーネ(c1565-1627)、フランチェスコ・ランバルディ(c1587-1642)などが活躍を見せ始め、マックの死後トラバーチが楽長を継いだ。フランチェスコを始めランバルディ一味はトラバーチの下で兄弟一丸となって音楽活動を繰り広げて見せた。その他ナポリの捨て子養育機関であるコンセルヴァトーリオでも音楽活動が活発化し、18世紀には多数の去勢高音歌手カストラートを始め数多くのオペラ歌手をも生み出した。

オペラの開始

・オペラが初めてナポリにやってくると、遅くとも1654年頃、サン・バルトロメオ劇場がヴェネツィアを真似て公開オペラ劇場として君臨し、1653,54頃にナポリ人作曲家フランチェスコ・プロヴェンツァーレ(c1626-1704)の「イル・チーロ」が上演されたものの、1680頃まではヴェネツィアオペラを中心に盛んに上演が行われていった。そのうちコンセルヴァトーリオでもオペラを遣るようになる、。1680年にヴェネツィアからピエトロ・アンドレア・ツィアーニ(1616前-1684)が副王の王室カペッラ楽長に就任する頃には、宮廷でもオペラが上演されるようになっていた。やがて楽長の死の後釜として満を持して登場した若きナポリタンオペラの中心人物アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)が就任するに及んで、18世紀に影響を与えたナポリ派オペラの新たな様式が生み出されて行くことになる。実際18世紀にイタリアを初め各国にも流出して反映を極めた、イタリアオペラとは実はナポリオペラに他ならなかったのである。

スカルラッティなオペラ

・彼が中心になってナポリで大いに発展させた新しい様式を分類してみよう。このような様式は彼のオペラの代表作の一つである1721年にローマで上演された「グリゼルダ」(グリルだぜ、は間違い)を覗いてみれば皆で仲良く朗唱によって泳ぎ回っているのを見て取れる。

1.レチタティーヴォの2分化
→通奏低音のみで、話し言葉に近い朗唱によって劇を進行させるレチタティーヴォ・センプリチェ(単純な叙唱)は後にレチタティーヴォ・セッコ(乾いた叙唱)と呼ばれ、ナポリ派オペラではこの用法が圧倒的に多い。この乾いた叙唱の部分で矢継ぎ早にストーリーを展開させ、次のダ・カーポ・アリアでは完全に物語を中断して配役のその時の心情を(心情の移り変わりではなく、普遍的な情感として)歌い継ぐ、その交代によってオペラが進行していった。このセッコに対して、オーケストラを十全に使用して緊迫した劇的場面で披露するとっておきのレチタティーヴォはレチタティーヴォ・オッブリガート(義務づけられた叙唱)と呼ばれるようになった。これも後にレチタティーヴォ・アッコンパニャート(伴奏される叙唱)やレチタティーヴォ・ストロメンタート(楽器の付けられた叙唱)と呼ばれるようになる。

2.中間的アリア
→かつてドメーニコ・マツォッキは叙唱の中に中間部的旋律部分メッザーリアを持ち込んだが、今度はアリアと叙唱の中間的な様式で作曲するレチタティーヴォ・アリオーソ、またはアリオーソが生み出された。

3.ダ・カーポ・アリア
→歌詞の前半と後半をA,BとしてABAの3部形式を形成するアリアにおいて、Bの終わりに(Da capo「頭から」)と記入し、Aを繰り返す指示を与えたものをダ・カーポ・アリアという。しかし、この時代の一般的な遣り方はもう少し手が込んでいた。まずAの前に導入の為の器楽による短い反復句(リトルネッロ)を置く。その後AからBに移る前に再び冒頭に類似したリトルネッロが登場する。Bを歌った後は導入のリトルネッロを飛ばしてAに戻るが、その際に(Da capo)ではなく(Dal segno「印しから」)と書いて印しの書き込まれたAに戻って曲を閉じる。こうして中間部的Bに旋律やリズム、そして基本調性を変化させ、Aに立ち戻るスマートな図式が大流行し、18世紀前半の定型となっていった。実はダ・カーポ・アリアにも技巧性や性格、叙情性などによって数多くの分類があり同じタイプのアリアは続けて歌わないだの、同じ歌手が続けて歌わないなど様々な慣習が生まれていたが、初めの歌詞が再度回帰する事から、1曲全体では一つの情感が止まって歌われる。つまり情感の変化を伴うストーリーはレチタティーヴォが担い、アリアではその情感の豊かな提示が求められた。さらにこのアリアでは後半のA繰り返しが一層華やかな修飾によって技巧的に歌唱され、歌唱の技自体で十二分に感動を与える事が出来、歌手の歌を聴きに来る聴衆にとっては格好の形式だった。
4.シンフォニーア
→スカルラッティは「災い転じて福となす」(1686)において自らのオペラの序曲に和弦的性格の強い急ー緩ー急の3部分による楽曲を生み出し、彼の影響力から後のオペラ作曲家達がこれに習う事になった。このイタリア風序曲は、しまいには純な器楽曲に多大な影響を与えてしまうことになるのである。

スカルラッティ時代のオペラ

・1701年のスペイン継承戦争によってナポリの支配がスペインからオーストリアなハプスブルク家に移つった後、ナポリのオペラは絶頂期を迎えた。コンセルヴァトーリオ出身の作曲家、フランチェスコ・マンチーニ(1672-1737)、ニコーラ・ポルポラ(1686-1768)、フランチェスコ・フェオ(1691-1761)や、レオナルド・レオ(1694-1744)、レオナルド・ヴィンチ(c1690-1730)といった作曲家達がスカルラッティと競い合うようにオペラを作曲。スカルラッティは更なる高みに到達しようと、シリアスものよりは下等とされていたコミック・オペラ(喜劇的なオペラ)である「名誉の勝利」を書き上げ、他の作曲家達がコメディア・イン・ムジカを作曲する先鞭を付けた。こうしたイタリア人作曲家達の切磋琢磨と、名声に釣られて各国からナポリオペラを学びに来ては、各国に広め歩くハッセや、グラウン、ヘンデル、さらに後にはクリスチャン・バッハなどのおかげで、ナポリ楽派のオペラは、ヨーロッパオペラのスタンダードに上り詰めた。

その後のナポリオペラ

・今度はポーランド継承戦争で1743年にスペインがナポリ支配権を取り戻した。王子であるドン・カルロス(後のスペイン国王カルロス3世、ちなみにヴェルディのオペラのドン・カルロスはフェリーぺ2世の息子で精神的にお優しすぎて若死にした方で別人。)が遣ってきてサン・カルロ劇場を建設すると、生真面目なオペラ、オペラ・セーリア(喜劇的オペラが盛んになるに連れて悲劇などを扱った正統オペラをこう呼ぶようになっていった。)の中心地となって先ほど挙げた作曲家達の他に、ハッセや、ペルゴレーシ、ヨンメッリなどがはるばる遣ってきてオペラを上演した。
・こうしたオペラを支えた作曲家達は他の諸声楽曲も作曲し、例えばフランチェスコ・ドゥランテ(1684-1755)のようなオペラを書かない声楽曲の大家も生まれたが、器楽だけは十全に栄えなかった。

2005/01/18
2005/02/11改訂

[上層へ] [Topへ]