11章 後期バロックの器楽

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概説

即興演奏について

・今日ベートーヴェンのピアノソナタに勝手に修飾音を加えて、旋律まで大幅に改訂して演奏したら、待ってましたとばかりに座布団が飛んでくるかも知れないが、バロック時代では譜面のままの演奏しか出来なかったら、次の日から宮廷を追い出されたに違いない。鍵盤奏者は通奏低音に基づいて曲に合わせて自由に和音とリズムと旋律を即興演奏出来なければならなかったし、楽器奏者はメロディーラインに情感を深めるための手段としてのトリルや前打音、ターンなど数多くの修飾音を加えるだけではなく、さらに進んで音符の間に書かれていない旋律を創作する旋律線修飾ディヴィジョン(ディミニューション、フィギュレイション)が出来なければ宮廷人から足蹴にされた。バッハのインベンションの演奏では当時の慣習による自由な修飾音ぐらい入れて演奏しなかったら弾いている甲斐がないじゃないか。譜面ですべてを語り尽くしているから、修飾音は不要だとか、バッハほど才能がないなら付けない方がましだとか、訳の分からんことをほざいていないで、間違っていてもいいからまず何か加えてみたらどうだ。音楽はそんな固まったものじゃあないぜよ。さて、ここでコレッリの独奏ソナータをアムステルダムのエティエンヌ・ロジェが出版した時に付けられた作曲者自身の指示と銘を打つ旋律修飾の例を乗せて置こう。当時の出版業界を見渡すとロジェが勝手に作曲者の手本に仕立てたでっち上げの修飾例の可能性もかなり高いが、いずれ当時の修飾法の一例を見ることが出来るだろう。


通奏低音


・他にも声楽アリアや楽曲終止前の46の和音(つまり2転)で演奏者が名人芸を繰り広げて拍手喝采を引っさらう遣り口もバロック時代お得意の方法で、今日cadenza(伊.終止)が即興演奏部分とかソロ演奏部分の意味を持っているのはその為である。演奏家の自由は変奏曲や組曲内の省略の自由や、楽器使用とその数について奏者や環境に任せる自由などさまざまだが、当時の時代精神は健全な事に演奏されてこそ初めて音楽なのであり、作曲家は実際の演奏を目的に曲を書いたから、鳴り響かなくても芸術作品は完成され演奏者はそれをありがたくも忠実に再現致すような精神はまだ無かった。

オルガン

 オルガンと言っても、膝に乗せて一人で演奏するランディーニのオルガネットでお馴染みの片手演奏「ポルタティーブ型」や、ふいごと演奏者が室内据え置きの小型オルガンを演奏する「ポジティーヴ型」もあり、14世紀頃から独奏楽器としての使用も開始されるが、常設型の巨大オルガンは15世紀前半にオルガン製造理論を認したアルノ・ド・ズヴォレの頃から、15~16世紀にかけて一気に今日様の水準にまで登り詰めた。北方ドイツでは足鍵盤がいち早く定着し16世紀に入る頃には小さな教会にまでオルガンが設置され、数多くの設計図面がオランダに残されるなど建造と改良のラッシュが続く。特にドイツのプロテスタント地域ではバロック時代に入ってからアルプ・シュニットガー(1648-1718)ゴートフリート・ジルバーマン(1683-1753)といった偉大なオルガン制作者達によってバロック時代を飾る壮大なオルガンが生み出されていったが、彼らは多彩な音栓(ストップ)を持ったフランスのフルオルガンであるプラン・ジュや、アントウェルペン、アムステルダムといったオランダの高度に発達したオルガンの特質を混合させ、多いものでパイプ数6000本を越えるドイツ型巨大オルガンを超絶技巧を込めて誕生させていった。

その構造

・目に見えるせいぜい数百本のパイプの影に隠れて、場合によっては何千ものパイプを抱えるオルガンは、バロック時代当時は背後にフイゴを踏み付けて風力を送り続けるフイゴ踏み(独カルカント)を動員して生み出した風を、鍵盤を弾いた部分のパイプに流し込んで笛のようにパイプ内の空気を振動させることによって音を発生させ続ける壮大な装置だった。もちろん今日では空気は自動で送られるが、本質的機構はバロック時代には完全に完成していた。数千本に達するパイプは最低音のものは最大で10メートル近い長さを持つ事もあり、最高音のパイプは1センチに満たないこともある。さらに、この長さの幅を順次段階的に変えたパイプが立ち並ぶだけではない、管自体の形も空気の送風口とその反対側も開放された開管と、パイプの片方の閉ざされた閉管、さらに片方がほんの少しだけ開けられた半開管に分けられ、さらに空気の取り込みの方法として笛のようにただ狭い入口を通して外口に当てて音を出すフルーパイプと、オーボエなどのように自ら震えて振動を発生させる空気口を持ったリードパイプがある。こうした方法によって、さらに管の形状によっても音色が変化するから、いろいろな効果を考慮に入れて数を増やしていくうちに千や二千じゃ足りなくなって、時には管の数6000本以上にも達してしまった。
・さてもちろん音色を変えるにしたって全部の鍵盤が同じ音色を出せなくちゃあ話しにならないから、それぞれの音色のパイプは鍵盤の数だけ長さを変えて揃っているわけだが、このワンセットを1つのストップとか1つのレジスターという。そしてオルガン奏者が幾つもの段になった手鍵盤と足鍵盤を持つ演奏台(コンソール)に座って、並んでいる音色操作装置(これもストップ、またはレジスター)を駆使して音色を変更させることをレジストレーションと言うが、これはただ単に一つのパイプ群であるストップから別のストップに、鍵盤に連動されたパイプ群を移動するばかりではない。実はこのストップは同時に何種類も組み合わせて鳴らすことが出来るから、音色の数は非常に拡大する。そこで基本となる譜面通りの周波数が出る中心音域を表す管を「8フィート管」(足鍵盤の最低音を実音で鳴らすときの開管パイプの長さ8フィートに由来)と呼んで、それにミックスして倍音率に従ってオクターヴ上の音が出るパイプ群を「4フィート管」12度上が「2と2/3フィート管」と言うように表し、逆にオクターヴ下の「16フィート管」と言って、このため鍵盤の音域は4~5オクターヴであるのにも関わらず、実際の音域は16ヘルツ~1万数千ヘルツに達しオーケストラ楽器の音域をカバーする88鍵盤ピアノの27.5~4172ヘルツに対して、人間の可聴域16~20000ヘルツに迫る勢いを見せている。このような数多くのストップを組み合わせて音色を決定し、譜面に合わせてをどう演奏するか判断しなければならないのだが、これをレジストレーションと言う。各種ストップは、便宜上幾つかのグループに分けられ、標準音を出す中心的役割を担うプリンツィパル系は空気取り入れ側の反対も開いた開管が中心になるストップグループである。他に管の素材や長さに対する幅(スケール比)によっても音色が異なり、柔らかい音色を持つフルート系や、閉管(ゲダクト)系(奇数倍音だけが響く特徴を持つ)、弱く音色が異なり弦のような弦楽器系、オーケストラの管楽器のように独特な音色と大音量を持つリード管系など様々である。大オルガンの場合、鍵盤に連動する一連のパイプ群が、それぞれ送風装置を共有した独立のヴェルクと呼ばれるグループに分かれ、例えば8フィートの基本音色を出すハウプト(主要)ヴェルクや、足鍵盤のペダルヴェルクなど、3~5のヴェルクに分かれて全体として一つの楽器を形成する。こうして合計60あまりのストップを駆使して、任された当地のオルガンのために自ら演奏する楽曲をお届けするのが当時のオルガン音楽作曲家兼演奏家だったから、実際は書き込まれた楽譜だけを持ってこれが彼の音楽だというのは甚だ不適当である。

鍵盤楽器の調律

・鍵盤楽器の調律は1523年にピエトロ・アーロンが純正3度を得るために中世理論では絶対条件の響き渡る完全5度の美しい共鳴をほんのちょっとだけ誤魔くらかして狭くしてみた時に大きな一歩が踏み出された。バロックに入って各種旋法が長調短調に基づく音楽に取って代わられると転調が当たり前になってくる。一つの音階を組織する全音半音配列パターンはたった2種類だが、開始する主音の場所は曲の間に何度も変化するとあっちゃあ、場所によって全音の大きさが異なる純正律なんて到底使い切れるものじゃあない。おまけに和音の響きとその進行も重要条件だから3度の響きもないがしろに出来ないとあっちゃあ、3度に美的センスの欠けらもないピタゴラス音律なんて我慢がならない。いっそ5度がすこしぐらい響かなくても3度の響きで3和音的な美しさで十二分に補いが付く、いやむしろお釣りが出るくらいだと、長い間絶対条件だった完全5度が歪められた時、音楽における中世からの脱却は真に完成したのかも知れない。このピエトロ・アーロンが考えついた中全音律ミーントーンは例えば(C-E)の純正3度を得るために、本来なら完全5度の連鎖で(C→G→D→A→E)と調律するところをそれぞれの完全5度をほんの少しずつ誤魔化すことによって(C-E)を純正3度にする。これをさらに続けてオクターヴ12音ことごとく調律すると、どうやら調律の出発点の調性である(C dur)に近い調性の3和音は美しい響きになった。しかしすべての調性に転調したいじゃないかという野心がバロック時代を通じて様々な調律方法を生み出す調律ブームを巻き起こした。本来純正にするはずの音をわざと微妙にずらすことを「テンペラメント」(調整する、妥協する)と言うが、演奏家楽器制作者達はこのテンペラメントの遣り方に生き甲斐を見いだしたのである。このような中で生れたもが、全部の調整が使用できて異名同音読替も可能な「ウェル・テンペラメント」(ほどよく調整された、適温の)と呼ばれる各種調律法である。そこでバッハの「ヴォールテンペリールテ(つまりドイツ語でウェルテンペラメント)クラヴィール曲集」が、「平均律」と訳したのは大きなる失態であるとか、真の意味は完全平等な平均でない調律を意図したものだとか、大いに議論が活発になったが、おそらくあの題名は「すべての調性によるクラヴィーア曲集」といった意味ぐらいで名付けられただけのような気がしてならない。そしてもし、すべての調性が演奏可能な調律による全調性のクラヴィーア曲集という意図で付けた題目ならば、平均律では駄目で、不等分調律法が相応しい、とは曲集の理念上言えないと思う。
・そもそもリュートなどはギターのように指で押さえる部分にフレットを持っていたために、ルネサンス期にすでに均等な半音を持った音階を組織していた。ジャーコモ・ゴルザーニス(c1520-1575/9)は1567年に24の調によるパッサメッゾとサルタレッロ曲集を作曲、ヴィンツェンツォ・ガリレーイ(1591没)も1584年に12長調と12短調によるリュート組曲を送り出している。従ってその音階配列をそのまま鍵盤楽器に当てはめることも、また演奏家でもある調律家諸君は12の音が等しい感覚になるくらいづつ5度を同じ幅だけ縮めていくことも容易かったはずだが、ある調性でのより甘美な響きや調性ごとの響きの性格、そして何よりルネサンス期から継続するミーントーンなどの伝統に進んで身を投じて、種々のウェル・テンペラメントや中全音律ミーントーンなどで鍵盤楽器を調律しては喜んでいたのが、バロック時代のドイツだったのかしら。詳しく調べてみないと非常に心許ない。

プロテスタントオルガン曲と代表的作曲家

・プロテスタントオルガン曲は多くが賛歌、聖書朗読や大規模宗教曲などの前奏曲の役割を担っていた。こうした前奏曲はオルガン・コラールとか、トッカータとか前奏曲(ラ)プレルディウムと呼ばれた。バッハ以前の代表者の名前を挙げるだけ上げておくと。

ゲオルグ・ベーム(1661-1733)
 →リューネベルク
ディートリヒ・ブクステフーデ(c1637-1707)
 →リューベクの聖マリア教会オルガニストとしてオルガン演奏と、「夕べの音楽」で圧倒的名声を博し、ヘンデルとバッハがそれぞれブクセテフーデ詣でに出かけるほどだった。彼の「前奏曲とフーガ」や「トッカータとフーガ」は自由楽曲部分とフーガ部分が交互に何度も繰り返す大楽曲で、よくある例として「前奏-第1フーガ-間奏-第2フーガ(第1フーガから派生した、あるいは変奏した主題)-後奏」のような5つの部分を持った台形式になっている。これは北方ドイツで流行った形式で、彼のもっとも有名な曲は「プレリュードとフーガ嬰ヘ短調」だそうだ。
ヨハン・クリストフ・バッハ(1642-1703)
 →アイゼナハで活躍し、偉大なバッハのお父上の兄弟。
ヨハン・パヘルベル(1653-1706)
 →ニュルンベルク
その他ツァホやクーナウなど。

トッカータ

・ブクステフーデお好みのパターンである即興的部分とフーガ的部分の繰り返しによる途切れない楽曲は、ドイツ各地で作曲され、即興的な部分自体に早いパッセージ的部分と穏やかな動きの部分を含んだ移り変わりの激しい大形式のオルガン曲となった。穏やかな動きの部分ではしばしば保続低音pedal point(独オルゲルプンクト)が使用され、楽曲の和声進行速度を引き延ばし一つ所で止まった状態の上にしばらく楽曲を繰り広げて離脱して行く遣り方が好まれた。17世紀の間、特にドイツ北方ではこのようなフーガ部分と即興部分の連なった一つの楽曲が前奏曲とかトッカータと呼ばれていた。バッハの初期のクラヴィーア用トッカータ集(BWV910-196)はおそらくアルンシュタットからヴァイマール時代の頃の作品だが、例えばトッカータ嬰ヘ短調(BWV910)が導入→アダージョ→第1フーガ→間奏→第2フーガと連続的に演奏されるようにブクステフーデ型を踏襲している。

フーガ

・17世紀末までに順次声部を導入するリチェルカーレ型の楽曲は、フーガと呼ばれるのが当たり前になり明確ではっきりしたリズムの主題が全声部で導入された後、主題のないエピソードepisodo部分と再度の主題部分を交互に繰り返して発展する楽曲へモード変換をした。18世紀になると前奏曲やトッカータを対位法的フーガに対する和弦的楽曲や即興的楽曲に見立てて、「前奏曲とフーガ」とか「トッカータとフーガ」とペアにして作曲することが流行し始めた。もちろんこの場合トッカータはもはやフーガ的部分は含まない即興曲になった。

コラールに基づいた楽曲

・合唱の代わりにオルガンにコラールを歌わせ、コラール旋律を受け持たない声部に対位法的な声部を飾った楽曲をオルガン・コラールと云うが、おそらく会衆のコラール合唱と交替して演奏していたのかも知れない。教科書では特にコラールがはっきりした形で1回だけ演奏されるこの種の楽曲をコラール前奏曲と命名すると大いに威張っているが、要するにバッハの「オルガン小品集(オルゲルビューヒライン)」(BWV599-644)だと思っておけば差し支えない。一方コラールの旋律が変奏の主題になっていればコラール変奏曲だ。これはコラール・パルティータと呼ばれることもある。さらに定義してコラール旋律の素材の一部が自由自在に展開発展する即興的要素を持った楽曲をコラール・ファンタジーアとして、オルガン曲を分類して見ると新しい発見があるかも知れない。

カトリック諸国でのオルガン音楽

・オルガンそのもの同様各種様式を取り込んで組織化して巨大組織に仕立て上げた重厚大楽曲のドイツ式オルガン楽曲よりも、屈託のない霊感を表すのに都合の良い嘗てのリチェルカーレ型や声楽曲に近い変奏カンツォーナ、初期の柔軟な形式のトッカータなどを好み、北方オルガン曲よりも優雅で軽妙な楽曲が好まれた。例えばスペインのファン・バウティスタ・ホセ・カバニーリェス(1644-1712)のティエント(ようするにリチェルカーレ型)、パッサカーリア、トッカータなどが良い例だろう。またフランスではより色彩の変化にこだわってしばしば使用する音栓を指定したりしている。フランスではルーアン大聖堂オルガニストを勤めたジャン・ティトルーズ(1562/63-1633)から始まるオルガン楽派が、ミサや聖務日課に使用するオルガン曲を纏めた「リーヴル・ドルグ(オルガンの本)」といった曲集を出版しながら、独自のオルガン音楽が華やぎ、ルイ14世の時代には4人のオルガニストが宮廷お抱えとして交代でヴェルサイユで仕事をこなし、それ以外のシーズンはパリの教会で活躍していたが、その宮廷オルガニストの1人に選ばれたフランソワ・クプラン(1668-1733)の「教区のためのオルガン・ミサ」と「修道院のためのオルガン・ミサ」はこの時代のオルガン曲のフランス代表である。

チェンバロとクラヴィコードの音楽

チェンバロの歴史

・イタリア語でチェンバロ、またはクラヴィチェンバロは、英語ならハープシコード、フランス語ならクラヴサン、ドイツ語ならキールフリューゲルと呼ばれるが、その成立については定かではない。1400年頃の記録にはクラヴィツィンバルムという名前が出てくることから、棒で弦を打ち鳴らすツィンバロムや爪で直に弦を弾くプサルテリウムなどに鍵盤をつけて楽器にしてみたのが事の始まりらしい。1440年頃にブルゴーニュ公に使えていたアルノー(オルガンのアルノ何とかとは別人?)の理論書の中に3オクターヴぐらいの楽器として記述が見られるが、1500年頃には2段鍵盤のものも現れ始め、セバスティアン・ヴィルドゥンクが「ドイツ語による音楽の書」(1511)の中で、細かい記述を残している。16世紀後半から17世紀に入ると数多くの楽器が製造され、大きさ種類も増加し、ヴァージナルやスピネットなど様々なタイプが現れた。チェンバロの名産地としては初めイタリアが盛んだったが、後にフランドル地方、特にアントヴェルペのリュッカース一族製の物が良品として出回り、18世紀にはフランスやドイツでも数多く製造された。このチェンバロは貴族のひけらかしの為の家具調度でもあり、カラフルな修飾や芸術的絵画を施したこだわりの作品が数多く存在する。

チェンバロ(ハープシコード)の簡単な構造

 鍵盤をシーソーに例えると、こちら側に指が居て鍵盤を押し下げる、すると向こう側にはジャックというすらりと縦に長い棒が乗っかっていてこれが持ち上げられる、持ち上げられる上に爪(プレクトラム)が付いていて、持ち上げられた瞬間に爪が弦を弾いて音が出るのだが、この時同時にジャックの上の方にある頭の部分で弦を押さえ込んでいたダンパーが弦からはずれるから弦が振動できるわけである。さて、次にこちらが指を離せば、当然ジャックがシーソーの原理で下に降りてくる。この時弾いた爪がもう一度弦を弾いてしまったら音が2回出てしまうので、そうならないようにバネの仕掛けで動く舌を機構に取り入れて、降りてくる時には弦に触れないようになっている。こうして無事ジャックが初めの地点に戻ると、ダンパーが再び弦に乗っかり弦の振動を中止させ、音が鳴りやむ。この機構によりタッチによる音量変化に乏しいので、音色と音量を大胆に変更する手段として、鍵盤を2段にして使用する弦を変え、またストップ操作で使用する弦を変えたり、重ね合わせて演奏できるようになっているので、連動ストップを使用すると下の鍵盤を演奏すると上鍵盤も同時に鳴り響き、上鍵盤を演奏する場合は上だけしかならないというような効果も出せるため、協奏曲の総奏とソロの交代のような効果も出すことが出来た。

クラヴィコード

・一方恐ろしく簡単な発音機構のため値が比較的安価に製造でき有産庶民の楽しめる楽器として広まった鍵盤楽器にクラヴィコードがあった。元は中世のモノコードの弦が次第に数を増やした楽器に、14世紀後半頃タンジェント付きの鍵盤が付けられたのが事の始まりだとされ、1477年に聖歌隊での教育楽器にされた資料も残っている。16世紀にはスペインなどで流行を見せ、特に17,18世紀のドイツでこよなく愛される楽器となった。その発音機構は、他の鍵盤楽器からうつけ者と軽蔑されるぐらい単純である。つまりシーソーの原理で、こちらが鍵盤を押し下げると、向こう側にはただ先が刃の様になった金属片タンジェントが乗っている限りで、これが上に弾きあげられるとフェルトで押さえられていた弦に直接下からぶち当たって、その当たった場所から弦の止めピンの場所までの長さの弦が振動する仕組みになっている。当然離せば、再び弦がフェルトの上に降り、音は鳴りやむ。つまりタンジェントは弦の押さえる止めの部分と発音の部分を兼任していて、強く弾きすぎれば音程は高くなり、弱すぎれば音がちゃんと出てくれない、おまけに打弦後も鍵盤を同じように押さえておかないと、音程が変化したり音が消えたりしてしまう。このデリケートなコントロールは逆に卓越した演奏者にとっては、非常に細かいニュアンスを表すことの出来る楽しみとなり、打弦後の鍵盤をほどよく揺らすことによってベーブングと呼ばれるヴィブラートをつけることも出来た。この用な機構のため当然多くの人が演奏を聴くような環境に耐えるほどの大音量は出せないが、その代わり微妙な音のニュアンスの変更が出来、強弱も出せるこの楽器は、個人で楽しむためには非常に有効な楽器だった。

主題と変奏

・声楽の模倣曲時代からそれを変奏する事は開始されていたが、1650年頃になると知られた旋律に基づく曲ではなく、自ら創作した主題による変奏形式が多く作られるようになっていった。こうした主題はしばしばアリア(伊)ariaと呼ばれ、その後に各種変奏が続く。一番初めには独で第5の国家と噂されないこともないバッハの「ゴールトベルク変奏曲、あるいはアリアと32の変奏曲」を聞くのがお手頃だ。

組曲

・ドイツ人のヨハン・ヤコブ・フローベルガー(1616-1667)がイタリア留学では飽き足らなくなってフランスにも音楽探索と演奏に出掛けている内に、ルネサンス期の緩ー急のペアから発展してきた組曲形式が次第に面白みを帯びてきた。彼は、「アルマンド、ジーク、クーラント、サラバンド」の組曲を曲集としてまとめ上げドイツに広めていたら、後の組曲型のひな形になってしまった。パルティータとも呼ばれるドイツ型クラヴィーア組曲の根幹を示しておこう。

開始
→各種前奏曲が付くことも多い

アルマンド(仏)allemande
→元々ドイツ起源の舞曲らしく、早めの偶数拍子が特徴の8・16分音符による活発な動きが目につく楽曲。

クラント(仏)courante
→フランス起源舞曲で、中庸の速さの複合2拍子や複合3拍子型リズムを持ち、しばしば2つの拍子の間を移りゆく。

サラバンド(仏)sarabande
→スペイン起源だが大もとはメキシコから輸入されてきた舞曲らしい。遅い動きの3/2または6/4拍子で、しばしば2拍目が強調され和弦的な書法で作曲される。

サラバンドとジークの狭間
→サラバンドによる変奏ドゥーブル(独)doubleや、各種舞曲が入ることがある。

ジーグ(仏)gigue
→イングランド・アイルランドに起源を持ち、活発な動きを持つフーガ的な3×N拍子型が多い。

フランスのクラヴシニスト(クラヴサン音楽家)の例

・元々バレー的な組曲から発展したクラヴサン組曲は決まった型を持たず、自由な舞曲の組み合わせになっている。一例を挙げれば、カンタータや宗教音楽を始め数多くの鍵盤音楽を作曲し人の羨むほどの名声を獲得したエリザベート=クロード・ジャケ・ド・ラ・ゲール(c1665-1729)女史や、1713-30年の間に27群のオルドルordre(仏で組曲の意味)と書かれたチェンバロ曲集を出したフランソワ・クプラン(1668-1733)などが居る。オルドルは調性の統一された舞曲集で、クプランは初期の作品では組曲内に「アルマンド、クーラント、サラバンド」が置かれドイツ型の舞曲組曲の影が見えるが、後には全く詩や絵画の題名のような舞曲名を組にして、ラモの舞曲集に影響を与えてみた。さらにクプランは巷で流行のイタリアとフランスの優劣論争に対して「リュリ讃」(1725)「コレッリ讃」を送り出し、イタリア音楽とフランス音楽が手を取り合うことが真の芸術音楽の誕生に繋がると提唱したが、誰も掛け合ってくれなかった。どちらの音楽も場面を表す幾つもの楽曲が組み合わさって出来たトリオ・ソナータで、例えば「リュリ讃」の大ざっぱなストーリーは
 「リュリがエリジアの野で音楽を奏でていると、アポロンが降りてきてリュリをパルナッソス山に連れて行き、コレッリが持て成してくれる。アポロンがフランスとイタリアの趣味の調和を説くと、リュリとコレッリが共に演奏を行って、パルナッソス山に調和の音楽が鳴り響いて曲を終える。」
という面白い作品なので暇な人は是非聞いてみたい。どこかの演奏団体が、演じて映像化してDVDで販売しても面白いかもしれない。

シャコンヌとパッサカーリア

・2つの区別は非常に曖昧だが、シャコンヌは特にリュリの劇音楽で一般的に知れ渡ったようだ。3拍子リズムによる荘重な曲でお届けしてみる。

鍵盤用ソナータ

ヨハン・クーナウ(1660-1722)は1692年に合奏用のソナータを初めて鍵盤楽器用の楽曲として送り出し、1700には「聖書物語の音楽的表象、(聖書ソナータ)」を世に送り出した。

合奏器楽曲

楽器の分類

・バロック初期に和弦的と旋律的に分けられた楽器群は、今や独奏旋律楽器obbligato(オッブリガート)と合奏楽器ripieno(リピエーノ)、通奏低音楽器basso conteinuo(バッソ・コンティーヌオ)に分けられるようになった。合奏内で使用される楽器の比率は旋律線と並んで通奏低音に多くの楽器が当てられ、旋律線と共に通奏低音線が常にはっきり浮かび上がり、この第2の線が煙たがられるまではバロックの精神は息づくことになる。

イタリア発器楽合奏

・弦楽器を主体とする器楽曲は、ヴァイオリン属がきらびやかな高音でカストラートよろしく歌いまくるイタリアで成長し各国に広まっていった。ボローニャではサン・ペトローニオ教会を中心としてボローニャ楽派と呼ばれる器楽作曲家を生みだし、マウリーツィオ・カッツァーティ(c1620-1677)は1670年にヴァイオリンと通奏低音の為の宗教用のソナータ「ペッリカーナ」などを送り出した。やがてクレモナでは偉大なヴァイオリン制作者であるニコロ・アマーティ(1596-1684)、アントーニオ・ストラディヴァーリ(1644-1737)、ジュゼッペ・バルトロメーオ・グアルネーリ(1698-1744)らを輩出して、ヴァイオリンはこの世の夏を謳歌し始めた。北方イギリスやフランスではルネサンス期のヴィオラ・ダ・ガンバ合奏が18世紀にはいるまでかなりの勢力を保って、チェロ音域のバス・ヴィオールを中心にヴァイオリン音域に達するトレブル・ヴィオールまでフルセットでヴィオラ・ダ・ガンバ合奏を楽しむ伝統が廃れなかったが、漸くイタリアのヴァイオリン熱が伝播して、バロック後期にはどこもかしこもヴァイオリン勢力が「ヴァイオリンにあらざれば弦楽器にあらず」とのさばるようになってきた。

イタリアでのソナータ

・17世紀初期には声楽中の器楽前奏や間奏をさしたりすることが多かったソナータ、シンフォニーアといった名称は、17世紀中頃になると独立した器楽曲を表すことが多くなった。1660年頃からは舞曲組曲が並ぶようなタイプのソナータと、舞曲によらない幾つかの楽曲が3つ4つ組み合わさったようなソナータがクローズアップされてきた。同時に各楽章間では主題が独立性を保つ方がすばらしいと考えられるようになった。楽器編成としては通奏低音(チェンバロ+ベース楽器、またはどちらか一方)の上声で2つの楽器が互いに2重奏で絡み合うソナータ・ア・トレ(3声部のソナータ)が流行し、後にトリーオ・ソナータと呼ばれた。通奏低音は必ずしも鍵盤と低音楽器の2種類が必要なわけではなく、どちらか一方でも演奏できるから、トリーオ・ソナータは4人でなくちゃ演奏出来ないのだと誰かが言い張ったらぜひ蹴っ飛ばしてやりたまえ。1700年頃からは単一の楽器による独奏ソナータも多く作られるようになっていく。
・カンツォーナ・ダ・ソナール型もまだ命脈を保っていたが、それぞれの主題部分が独立して長い楽曲を形成すると、数曲の楽曲の連続となった。楽章間に変奏的類似性を見いだせる変奏カンツォーナ型など興味は尽きないが、ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィターリ(c1644-1692)とその息子トンマーゾ・アントーニオ・ヴィターリ(c1665-1747)を持って教科書から姿を消した。

大きな合奏用の作品

・イタリアではジョヴァンニ・ガブリエーリ時代から17世紀を通じてトリーオ・ソナータやソロ・ソナータよりも大きな編成の器楽曲も非常に好まれていたが、これは特にヴェネツィアとボローニャで繁盛した。これらの曲名はカンツォーナ、組曲、シンフォニーア、ソナータなど様々だったが、直ちにドイツでも模倣されイタリアで流行が過ぎた後も命脈を保った。中でも合奏用ソナータ、特に組曲はドイツで長寿を全うするが、ドイツのこの種の初期の例としてシャインの「音楽の宴(伊.バンケット・ムジカーレ)」(1617)があり、その後もヨハン・ローゼンミュラー(c1620-1684)の5部の弦と通奏低音の為の11曲のソナータ(1670)などが作曲されている内に、フランスのオペラの中にふんだんに盛り込まれた器楽合奏による舞曲達の様式と一緒に紹介された組曲のオーケストラ版がドイツで大流行し、その重要な仕掛け人であるゲオルグ・ムッファト(1653-1740)は「精華集(ラ.フロリレジウム)」(1695,98)を、J・K・F・フィッシャー(c1665-1746)は「春の日記」(1695)を作曲、音楽協会または演奏家協会であるコッレジウム・ムジクム(独風発音コレーギウム・ムージクム)も好んでこうした合奏曲に手を染め、やがてバッハやテーレマンなどが合奏用の組曲や協奏曲を提供していくことになる。ドイツの特徴として、編成を拡大して、弦だけでなく管楽器を好んで取り入れた。また、特にオペラを通じて発達した劇音楽に付随する序曲などでは各パートごとに何人もの奏者が同時に演奏し、早くから実際上のオーケストラ音楽を演奏していたこともあって、イタリアではシンフォニーアと呼ばれたりしながら、次第にオーケストラ音楽作品という意識も芽生え、一方のフランスもバレから離れて器楽曲のジャンルと化した、リュリ風序曲の後ろに様々舞曲を連ねた管弦楽組曲が盛んに演奏され続けた。

コンチェルト

・ルネサンス期の16世紀初めに声楽アンサンブルの為の用語として使われ始めたコンチェルトは、16世紀半ばを過ぎると声楽と器楽の互角に渡り合う楽曲を指すようになっていった。バロックに入ってもこのよう意味でのコンチェルトが使用され続けたが、ヴァイオリン属を中心に置く器楽曲がイタリアで発展を遂げると、17世紀前半から声楽的なコンチェルトを器楽に応用する作品も登場し、1680年頃には器楽曲のジャンルとしてのコンチェルトという用語が大分一般的になってきた。これは声の部分と楽器の部分の対比ではなく、少数声部のあるいは独奏楽器群の部分とすべての楽器による合奏部分の対比交替などで楽曲を形成する遣り方で、声楽と器楽の交替や、声楽曲内でのソロ部分と合唱部分の交替などとも親しい関係を持っていた。こうしたコンチェルトはソナータやシンフォニーアと同様、ミサや器楽のオッフェルトリウム(奉献唱、今日は奉納唱)への序曲などとして宗教行事にも使用された。コレッリの「クリスマス・コンチェルト」(op6-8)のように降誕節のミサのために使用されたためパストラーレ様式の楽章が付け加えられるものもあるが、もちろんより多くは宮廷音楽など世俗用として演奏された。教科書によると1700頃には大きく3つのタイプのコンチェルトがあったとか。

1.オーケストラ・コンチェルト(コンチェルト・シンフォニーア、コンチェルト・リピエーノ)
→独奏と合奏の明確な対比はなく、第1バイオリンと通奏低音がたの楽器より強調される程度のもの・・・ほんまかいな。

2.コンチェルト・グロッソ(伊.大きなコンチェルト)
→あるまじき器楽合奏に燃えさかる情熱のサン・ペトローニオ教会のオーケストラは多くの器楽作曲家を生み出し、コンチェルトの発展に大きな役割を果たし試行錯誤を重ねる内に誕生したかもしれないコンチェルトの一般的な形式の一つにコンチェルト・グロッソがある。日本語では合奏協奏曲と訳され、コレッリのおかげで世間様に顔向けが出来るようになったとされているが、これはおそらく1680年代から作曲していった彼のこの種のジャンルの選集になっていて死後1714年に「コンチェルト・グロッソ。小さなコンチェルトの2つのヴァイオリンと1つのチェロ、大きなコンチェルトの2つのヴァイオリン、ヴィオラ、低音からなり、後者は状況により可能な場合は複数で声部を重複するがいい」として出版された。これは本来核となる全体を通して演奏を行なう主役の楽器群コンチェルト・オッブリガート(義務付けられたコンチェルト)に対して、楽曲に添え物をして音量の変化を楽しんだり、核になる楽器群の行なったテーマの華やかな応答などを行い効果を出す為のリピエーノ楽器が要所要所で投入され、オッブリガート楽器と共にトゥッティ(イタリア語で「全部」の意味からつまり総奏、トゥッティの替わりにリピエーノ、つまり「詰めこまれた」と表わすこともあった)を築くという方法だが、コレッリは様々な方法でこれを利用している。後にゲオルク・ムファットが楽器が揃わなければオッブリガート声部だけでも演奏可能な合奏器楽曲を作曲した時、1701年にドイツで書かれた紹介文に「ローマで新しいコンチェルトに出会い、これに従った曲を書いたのだから、皆さんは2つのヴァイオリンとチェロかヴィオラ・ダ・ガンバの低音による3つの楽器でも演奏できるし、もちろん通奏低音楽器を充実させて演奏できるが、私の目指した完全なコンチェルトの姿を聞きたいならば、トゥッティ(T)とソロ(S)の記号に合わせてコンチェルティーノ(小さな合奏)楽器だけの演奏とコンチェルト・グロッソ(大きな合奏)による交代で曲を演奏してください。」それが作曲家一番の望みなのだからという趣旨を述べている。ここではオッブリガート楽器群がコンチェルティーノと呼ばれ、リピエーノ楽器がコンチェルト・グロッソと呼ばれているが、このようにコンチェルト・グロッソと云う言葉はジャンルとしてもトゥッティを表わす言葉としても使用され、この作曲方法ではヴィヴァルディが大いに作曲したようなトゥッティの合奏に合った主題提示と、独奏楽器群の自由で合奏声部に縛られない技巧的な書法の交代による協奏は見られない。ついでにムファットの言葉は、この種のソナータにおいて通奏低音楽器は弦楽器だけでも構わないことも告げているから使い勝手がよい。
3.独奏コンチェルト(ソロ・コンチェルト)
→おそらくアレッサンドロ・スカルラッティのナポリ派序曲の「急-緩-急」による3つの部分による演奏効果をオペラから離れて演奏している内にクローズアップされてきた3楽章形式のソロ・コンチェルトは、やはり器楽オーケストラの殿堂ボローニャで生み出されたのかもしれない。詳しい成立は皆目見当もつかないが3楽章の協奏曲としてはジュゼッペ・トレッリ(1658-1709)による「コンチェルト集作品6」(1698)やトンマーゾ・ジョバンニ・アルビノーニ(1671-1751)の「シンフォニーアとコンチェルト作品2」(1700)などがあり、1709年に出版されたトレッリの作品8のコンチェルト集では、後半の6曲がリトルネッロ形式を使用してソロとトゥッティの書法が異なる新しいタイプのコンチェルトになっている。最終的にこれ以降劇的でドラマチックな作曲が出来るこのタイプのコンチェルトがヴィバルディの名声と共に大流行を見せ、バッハがのめり込んで、古典派の協奏曲の原理に流れ込んだため、コンチェルト・グロッソより進化した新型と見なされ、ずっと後になってコレッリの作曲はコンチェルト・グロッソどまりだった、とか残念ながらとか、すこしお優しすぎたとか言いたい放題言われることになってしまったが、コレッリ型の合奏協奏曲はそれ自体完成された様式であり、ヘンデルの合奏協奏曲は確かに生前のコレッリとの接触が重要な意味を持っていただろうが、決して「リトルネッロ形式を生涯知らなかった」からではなく、彼の性格上合っていたとか、ロンドンの聴衆の事情とかがあってコレッリ式の合奏協奏曲に成っているのだろう。コレッリのもう一人の弟子であるジェミニアーニもやはりロンドンで活躍しているから、暇のある方は彼の作品とヘンデルの作品と、さらにヴィヴァルディの作品を比べてみたらどうでしょう。ただし一方リトルネッロ形式は確かに音楽を劇的に進行させるのに大きな意味合いがあった。リトルネッロとはイタリア語で「回帰する」とかいう意味で、バロック時代初期の声楽曲で何度も何度も繰り返す短い器楽合奏を言うようになり、それがダ・カーポ・アリアの頃に繰り返される器楽だけの部分を指すようになって定着していたが、やがて協奏曲の中で独奏楽器群が活躍する間に何度も何度も回帰してくる合奏の事もリトルネッロと言うようになり、ヴィヴァルディお好みの用法では「幾つもの動機素材を持つ主題提示的意味合いを込めたリトルネッロ合奏ー複数・あるいは単数の楽器がソロ(独奏)的書法で掛け合うが、リトルネッロ主題に対して性格を変えた素材を使用ー冒頭リトルネッロ素材の一部を使用したリトルネッローソロは初めのソロに基づいて交代の度に技巧的になったりー一方リトルネッロはソロに対する終止型ほどに冒頭素材の最後が使用されるだけだったりーあるいはソロが4季のようにドラマの変化を表わしているような性格の変化を見せて別の動機を使用したりーかと思えばリトルネッロが新たにソロを導くべく新たな導入風にトゥッティを奏でたり」様々な方法で繋がれ最後がトゥッティによって締めくくられる。特にアムステルダムで出版された「四季」を含むヴァイオリンコンチェルト集「和声と創意への試み作品8」(1725)ではベートーヴェンがソナタ形式を乗りこなしあらゆる可能性を探求したように、リトルネッロ形式を我が物としさらなる価値を与えた実験を見ることが出来る。これはリトルネッロ形式と3楽章形式という大枠だけを見れば、どれもこれも同じ作曲方法で、ダッラピッコラの言うごとく、同じ曲を何百も書き直しただけになってしまうが、それを言ったら、ベートーヴェンのソナタだって同じ事になってしまうから身もふたもない。

アルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)

ワンポイントJ缶

・やあ、みんな元気にしているかい。今日はコレッリのワンポイントさ。
「いろいろ誤算(1653)があったから、もう居ないさ(1713)コレッリは。」
マッテゾンが「すべての音楽家の王」と呼んだコレッリにいったい何の誤算があったのだろう。謎は深まるばかりだね。それじゃあ、また。

生涯略歴

・イタリアはボローニャとラヴェンナの中間部にあるフジニャーニョで父親が亡くなるやいなやこの世に生を受けたコレッリは、13歳の時にはボローニャでヴァイオリンなどを学び更に音楽教育に弾みを付けているとわずか17歳でアッカデーミア・フィラルモニカへの入会を認められるほどの才能を示した。1675年頃にはローマでヴァイオリン奏者として活躍し、カトリックに改宗してローマに逃れてきたパトロン女史として広く知られたスウェーデン王家の娘さんクリスティーナに、栄えある作品1のトリーオ・ソナータを出版献呈している。彼女が亡くなると、ローマパトロン3羽ガラスの一人ピエートロ・オットボーニ枢機卿が彼に目を付け宮廷楽長に登用した。気をよくした彼は1694年には作品4のトリーオ・ソナータを、1700年にはヴァイオリンとコンティヌーオの為のソロ・ソナータ集である作品5を世に送り出した。1702年にはナポリの宮廷に招かれA・スカルラッティやパスクイーニと知り合ってみたが、主にローマを中心に生涯を全うした。
・生涯に作品6まで出版した彼の楽譜は生前からコレッリブームを巻き起こし、演奏会場ではファンが「もう百年生きてください!」と叫び声を上げるほどだったが、同時に彼はローマで数多くの弟子を直接教育して影響力を行使して見せた。例えばヘンデルとジェミニアーニはロンドンに渡って合奏協奏曲を作曲し続けた。出版された作品群以外わずかにしか残されていない彼の全作品は簿ロック時代の中でも群を抜いて佳作であり、おそらる死ぬ前に完璧でない大量の作品を破棄してしまったと言うから驚きだ。完成された佳作だけを死後世間に残しておきたいという考えも、自らの作品を綺麗に2種類のトリーオ・ソナータと、ソロ・ソナータ、合奏協奏曲に分けて秩序立てて出版する態度も、精神はロマン派的意味での作曲家の理念を思わせる。グラウト氏によると彼は声楽曲を作らなかったが誰よりもヴァイオリンを声楽のように扱うことにたけ、ブラヴーラ(伊.技巧の華やかさ)の点では彼を凌駕した者でもカンタービレ(伊.歌い得る)の本質を捕らえることに置いてコレッリを越えた者は居なかったそうだ。したがって技巧に溺れない彼の曲の中で最も技巧的なヴァイオリン独奏ソナータ集作品5の中に含まれる変奏曲「ラ・フォッリーア」(伊.狂気)が彼の大人気作品なのは幾分皮肉である。フォッリーアは16世紀初めから広く知られていたスペインの旋律で、17世紀には変奏主題として大層好まれていた。

作曲の特徴

・全音階的で反復進行を旨とする彼の楽曲では、半音階は減7の和音ともっぱらナポリの6度で使用され、曲が始まると主題は明確に終止した後に、その旋律の性格を継いだ新しい旋律を紡ぎ出す事によって作曲を行っている。このような方法はspinning out(紡ぎだし方)と呼ばれ、動機的統一で縛られない自由に発展する楽曲は瑞々しく、絶えず新鮮な効果を持つ。

作品

・作品1と3は出版時にはただソナータと書かれたトリーオ・ソナータ(正しくはソナ-タ・ア・トレ)集である。当時イタリアには嘗てのカンツォーナ・ダ・ソナールから派生したソナータが誕生していたが、これは長い間教会を中心に発展したために後になってソナータ・ダ・キエーザと呼ばれるようになった器楽曲でありとりわけヴァイオリン2本に通奏低音が活躍するトリーオ・ソナータの形が一般的になっていた。これは緩急変化する多節形式による楽章、独立した幾つかの楽章、その混淆によって作曲を行なうもので、コレッリの場合このタイプの楽曲は「緩ー急ー緩ー急」のものもあるが、多節形式を十全に使用した楽曲を1つの楽章とした幾つかの楽章の組み合わせもあり、バラエティに富んでいる。彼のソナータ・ア・トレにおいて一般にソナータ・ダ・キエーザと呼ばれるこの作品1と3を見れば、彼が「緩ー急ー緩ー急」の4楽章の配列を標準型を定めたとは到底云えないこと、曲に応じた柔軟な態度で楽章を形成していたことが分かる。緩急の交代で楽曲を構成する多節形式は決してアレグロの代理では無いだろうし、「緩ー急ー緩ー急」を定型化した作曲家の代表にするなら別の人物を捜し出した方が良いだろう。 ・一方作品2と4はソナータ・ダ・カーメラ(室内的ソナータ)と記入されたトリーオ・ソナータ集で、前奏曲の後に舞曲が続く構成になっている。すでにドイツ人のヨハン・ローゼンミュラー(c1619-84)が1667年に11曲からなる「室内ソナータ(ソナータ・ダ・カーメラ)集」を出版し、ヴェネツィア派のオペラで使用されていた序曲を冒頭に付け、「シンフォニアーアルマンドークーラントーバッローサラバンド」の配列で作曲を行なったのは前に見たが、この種のソナータもヴァイオリン属を中心に器楽曲漲るイタリアで流行を見せ、コレッリの時代には舞曲組曲風のソナータとして定着していた。ただしそこに見いだせる楽曲構成もソナータ・ダ・カーメラの典型を生み出したとは言い難い。むしろ舞曲とは元々関係のないプレリュード(前奏曲)を発達させたり、舞曲ではないグラーヴェと書かれた楽章を配置したり、ガヴォットではなくガヴォットのテンポでと書かれた楽章を置いたり、舞曲から離れた宮廷などで演奏に相応しい室内楽的ソナータとしての性格を見て取れる。

ジュゼッペ・トレッリ(1658-1709)以降

 コンチェルトの紹介がてらコレッリの音楽を摘んで見たのだが、話しをコンチェルトに戻すと、ボローニャ楽派でソロ・コンチェルト型を発展させたトレッリの登場を持って後のコンチェルトのトレンドはコレッリ型よりも、もっと劇的に対比を持った楽器群の交替に基づくトレッリ型が主流を占めることになる。彼は[急ー緩ー急]の3楽章タイプを広め、類似の音楽で定期的に繰り返されるリトルネッロritornello(伊.帰ってくるもの)とソロ楽器の活躍する部分にはっきり分けられた楽曲を人々に示し、コンチェルトをバロック後期の花形楽曲に仕立て上げた張本人だとされている。彼の後を受けて同じイタリア人作曲家達、トマーゾ・アルビノーニ(1671-1750)、エヴァリスト・フェリーチェ・ダッラーバコ(1675-1742)、アントーニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)といった作曲家達が直ちに作曲を始めているし、ヴィヴァルディ様式に興味を示し研究していたバッハもこのタイプのコンチェルトを残すことになった。

2005/02/22

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