12-1章 バッハの生涯 前半

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チューリンゲン地方

 中世以来ヴェッティン家の支配下にあったこの地方はヴェッティン家出身者が代々引き継ぐザクセン選帝候の統治領として、東のザクセン地方と共に選帝候領を形成していた。1521年にはザクセン選帝候フリードリヒが帝国追放されたマルティン・ルターをヴァルトブルク城に匿ったことはよく知られているが、新教徒の精神宿るこの地方はドイツ中部の地勢もあって30年戦争時には一番の激戦区となり、沢山の民衆が犠牲になった所でもある。戦後の人々は市民から農民に至るまで音楽に慰めを見いだし再度都市の復興が始まるが、音楽的伝統も厚いチューリンゲン地方では各都市教会を中心に宗教曲が鳴り響き、町には町楽師シュタットプファイファーが数多く存在して決まった時間に音楽を演奏したりしていた。バッハの生まれた町アイゼナハもこのチューリンゲンの都市で、彼の誕生時には聖ゲオルク教会オルガニストに親戚の伯父さんヨハン・クリストフ・バッハ(1642-1703)が活躍、1703年からはクリストフの兄ヨハン・エギディウス・バッハの息子に当たるヨハン・ベルンハルト・バッハ(1676-1749)がクリストフの跡を継ぎ、同時にアイゼナハにあるフランス趣味にすっかり被れた宮廷でも活躍、管弦楽組曲などを作曲した。このアイゼナハ宮廷には1706年にパンタレオン・ヘーベンシュトライト(1667-1750)が訪れたほか、テーレマンが一時滞在して音楽活動を行なっている。

誕生と幼少期

 16世紀にルター派の教えを全うするために、あるいはカトリック派の弾圧を逃れてか、ハンガリーから一族発祥の地とも言われるテューリンゲン地方に見事に移り住んだ男として、後にセバスチャンが一族一覧表の一番目に記入した男、ツィトリンゲン(ツィター)を弾き鳴らしては粉ひき水車小屋に音楽をもたらすパン屋の親方ファイト・バッハ(c1577没)から一切の芽が萌えいで、50人にも上る音楽家集団が系図を下る途中に、ヨーハン・アンブロージウス・バッハ(1645-)という男がゲオルク・ヴァルターの妻を輩出した事で知られる親戚のレンマーヒルト家からマリーア・エリーザベト・レンマーヒルトという娘さんををお貰い遊ばして、結婚しては1671年に宮廷楽師兼町楽師としてアイゼナハに就任し、音楽と共に沢山の子供達を設け、丁度8人目に末っ子として誕生した子供こそ、1685年の3月21日に「さん、にい、いち」のかけ声よろしく誕生したヨーハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)だった。彼の生まれたアイゼナハはドイツ中部のテューリンゲン地方にある小さな都市で、近くには聖女エリザベート伝説や「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」と逸話に富んだヴァルトブルク城があるが、この城こそかつてザクセン選帝候フリードリヒが帝国を追放されたマルティン・ルターを匿(かくま)いドイツ語聖書を誕生させた場所で、以来テューリンゲン地方はルター派の牙城として、生まれたセバスティアン・バッハを敬虔な新教徒にせずにはいられなかった。彼は生まれるとゴータの楽師セバスティアン・ナーゲルとアイゼナハの森林監督ヨハン・ゲオルク・コッホを代父として二人の名前を貰い、ヨーハン・セバスチャンの名前を授かると共にアイゼナハの聖ゲオルク教会で洗礼を受けるが、この教会のオルガニストは父アンブローシウスの従兄弟にあたるヨーハン・クリストフ・バッハ(1642-1703)だったから、幼い日からオルガンの中に忍び込んでパイプを引っこ抜いたりがらくたを隠して音色を変えて大いに怒られながら、彼の演奏するオルガン曲に非常な影響を受けたに違いない。ところで、このヨーハン・クリストフ・バッハと云う名前は、バッハの血族関係を見ると沢山出てきて混乱するので、ついでにまとめて見みると、従兄弟のヨーハン・クリストフの他にも、父アンブローシウスの双子の兄弟の名前もヨーハン・クリストフ、さらに我らがヨーハン・セバスチャン・バッハの兄の名前もヨーハン・クリストフで同名注意が必要だ。幼いバッハは伯父のオルガンを聞いたり、教会で聖歌隊の歌に触れて音楽にのめり込み、父親も早くからヴァイオリンを教えて息子に教育を施したに違いない。
 7歳になったセバスティアンはルターも3年間在籍したことのある聖ゲオルク教会付属のラテン語学校に通い始め、ついには3歳年上の兄貴ヨーハン・ヤーコプよりも好成績を収めると、非常に美しい声を出すボーイ・ソプラノとしても活躍し、聖ゲオルグ教会の聖歌隊として歌いながらクレンデと呼ばれる街角合唱隊として喜捨に出かけ、同時に楽器演奏も習得して行った。しかし悲劇が待っていた。わずか9歳の内に、1694年5月と,95年2月に母と父が相次いで居なくなってしまったので、僅かの間に孤児同然となったセバスティアンと兄のヨーハン・ヤーコプはアイゼナハを離れて、新婚家庭の上に面識のほとんど無い年長の兄貴ヨーハン・クリストフ・バッハ(1671-1721)に助けを求めてオールドルフに向かったのである。いち早く自立を目論見た兄ヨーハン・ヤーコプは1年ほどでアイゼナハに戻るものの、セバスティアンはこの地でラテン語学校(リュツェーウム)に通わせていただき、居候の肩身の狭さか好成績を収めて兄に報いようと必死に学業に励み、学年順位で1,2位を争う好成績を収めた。もちろん音楽への情熱もやむことはなく、合唱隊であらゆるパートに声を出したり勝手に対旋律を歌ったりしては先生を困らせていたに違いない。直ちにヨハン・パヘルベルに師事した兄ヨーハン・クリストフからも手ほどきを受け、鍵盤楽器たるクラヴィコードを教わり始めたのである。しかし兄が正しい手ほどきの段階を踏まえるためか、南ドイツ系作曲家であるフローベルガーやケルル、パヘルベルなどの曲集を持っているのに隠して見せてくれないので、とうとう皆が寝静まってから月明かりで写し取った。運悪くやがて兄貴に見つかってごつんと食らわされて楽譜は取り上げられ、おまけに後に眼が見えなくなる遠因を作ったという噂もあるが、取り上げられたはずの音楽はすでに頭の中に鳴り響いていて、この写譜を通じて半ば独学的な彼の音楽才能は大きな飛翔を見せたのかも知れない。
 城の中に眠りたる龍の夢を見て大いに触発されたセバスチャンは、遂に兄の元を離れ北方に向かいザルクブルクに劣りはするが知られた塩の都リューネブルク(龍寝城)に向かった。若き日の大親友ゲオルク・エールトマン(1682-1736)と一緒に、聖ミカエル教会の付属学校に所属する事によって学費を免除され、寄宿も許されるという寛大な合唱団に加わり勉強を続ける事にしたのだ。こうして2人は教会の「朝課合唱隊」に加わり、お小遣いほどの給料を貰いながら、学業に励んだが、この合唱団はほとんど孤児達の救済の意味を持って作られた合唱団で、15人ほどの要員には常に沢山の応募者が詰めかけたと云うが、音楽の才能溢れたバッハにとって入団は朝課前だったのだろう。彼らは教会が持つもう一つの付属学校である貴族学院にも合唱指導に出かけたが、貴族の息子達に財布でこき使われて、貧しさのあまり使いっ走りになって靴を磨くものさえ後を絶たなかった。(本当かね君。)しかしバッハに取ってはこの地にあるもう一つの教会聖ヨハネに出かけてゲオルク・ベーム(1661-1733)の演奏に接し音楽を吸収することの方が遙かに大事だった。2つの教会の合唱団は互いに対立していたという噂もあるが、後の楽譜出版引き受けなどを見ると直にベームから教えを受けた可能性も大いにある。この教会には17世紀の教会音楽の筆者譜も沢山残されていたから、多感な青年時代のバッハにとって非常に重要な時期だった。後の3曲のオルガン用コラール・パルティータ(BWV766-8)はベームの精神が込められているようだと噂が立つほどだ。同時に近くにあるハンブルクやツェレにも音楽の勉強を兼ねて出かけたが、1678年からドイツ語オペラに華やぐハンブルクではラインハルト・カイザー(1674-1739)のオペラが上演され、若手のヨーハン・マッテゾン(1681-1764)が歌を歌い自らも作曲を開始し、バッハがリューネブルクを立ち去る1703年にはヘンデルが遣って来る重要な音楽の中心地であり、バッハにとっては聖カテリーナ教会でヤン・アーダムス・ラインケン(1623-1722)の手によってハルプ・シュニットガー製のオルガンが高らかに鳴り響くことが何よりも重大事件だったかもしれない。ラインケンの作曲に関心を持った彼は、1688年に出版されたトリーオ・ソナータ集「音楽の庭園(ホルトゥス・ムジクス)」の楽譜を手に入れ、3曲をクラヴィーア用に編曲をしてまたしても音楽を吸収してしまった。マールプルクの「楽聖伝説」(1786)という逸話的音楽家伝記によると、バッハがお金を使い果たしてとぼとぼとリューネブルクに戻る途中、どこぞの2階の窓からニシンの頭が降ってきて、バッハの頭に突き刺さった。痛いと思う間もなくいい臭いを嗅ぎ分けて、腹の減るのに任せてガブリとかぶりついたらあら不思議、中から金貨が出てきたので、もう一度ハンブルクにラインケン詣でに出かけてしまったそうだ。今一つ脈絡の定まらない伝説だから、あるいは逆説的に真実かもしれない。一方xツェレの方ではリュリの弟子であったトーマ・ド・ラ・セルと知り合い、その関係から宮廷を訪れたものらしく、フランス式音楽が栄えるツェレ宮廷音楽に接することによって、フランス式の音楽に触れたとされている。この頃にはオルガンの修理にも立ち会いオルガン製作の知識まで十全に吸収して見せたが、ある時ついに声変わりをして聖歌隊員としては役立たずになったので、しばらく器楽奏者として止まってはいたが、どこぞに新しい職を探す必要に迫られた。
 ヘンデルやテーレマンと決定的に違う親無しバッハは大学に行く金など到底無いので、生まれ故郷のテューリンゲン地方で仕事を探し初め、まず1703年にヴァイマルで領主と共に共同統治を任されていた領主の弟ヨーハン・エルンスト公の宮廷で弦楽器奏者として雇われしばらく滞在し、17世紀のパガニーニと名高いヴァイオリン奏者パウル・フォン・ヴェストホフ(1656-1705)と知り合いになった。しかし自分の希望に有ったオルガニストの職を求めてアルンシュタットに旅立ち、アルンシュタットの新教会オルガンが完成したのでわずか18歳のバッハが呼ばれてオルガンを鑑定し、試し弾きが認められた為か1803年の内に85グルデンでコラール伴奏のオルガニストとして自立することになった。この教会は20世紀に入ってからバッハ教会という名称に改名して、バッハ詣での名所の一つになっている。月・木・日のオルガン演奏と、選任のカントールを置かない新教会の少年聖歌隊の訓練だけが仕事だったから、親戚一同との関係を深め、新しい音楽の吸収に励んだだろうバッハ。丁度この頃、スウェーデン王の楽団に所属していた兄ヨーハン・ヤーコプが国王と供に戦に出かけるというので「最愛の兄の旅立ちに寄せるカプリッチョ」(BWV992)を作曲し送り出したり、もう一方の兄のためにも「ヨーハン・クリストフ・バッハを讃えて」などを作曲して、バッハ一族ことあるごとに集まっては酒のさかなにクオドリベットを歌いまくっていた。しかしカントールの代わりにラテン語学校の生徒達の合唱指導するにはさすがに年齢が若くておまけに音楽に妥協知らずのバッハ、あちらは年も足らない新任教師の癖にと舐めてかかっていたから大変な騒ぎになった。1705年に後の妻バルバラの姉カテリーナと仲良くお散歩しているところを、ガイアースバッハという生徒が授業中に俺のファゴットを「山羊ファゴット」と馬鹿にした侮辱を今返してやると殴りかかってきて、血が上ったバッハが剣を抜いて応戦し、あわや決闘かというところで人々に宥められて事なきを得たのだが、後で学校からすこしは妥協もしたら良かろうと諭されたので、そんな妥協は大嫌いですと心で呟(つぶや)きながら、もっと良い環境に移ろうと考えるようになった。
 同じ1705年の事、400kmを歩き続けに歩いてハンブルクと並ぶ北方オルガン音楽の都リューベクに赴くと、名高い聖マリーア教会オルガニストを勤めるディートリヒ・ブクステフーデ先生(c1637-1707)の演奏に触れ、心底音酔した。奇しくも1705年は皇帝レーオポルトの死と新皇帝ヨーゼフ1世の就任の祝う超豪華「夕べの音楽」が催され、先生一世一代の檜舞台を堂々と演じきって最高作品を送り出したから、バッハは大きな感銘と影響を被って頭の中から先生の音楽が離れないほどだ。名残を惜しむあまり4週間の休暇を自主的に4ヶ月に引き延ばし、自らの演奏を聴いてくれた先生から「アーベント・ムジークさえ開催可能な私の後任に成って見たまえ」と声を掛けられるほどだったが、最後の条件に30歳の娘と結婚してくれるならばとあったので「まあ、よく考えておきましょう。」ぐらいの返事をしておいて、そのまま帰ってきてしまった。これによってヘンデル、マッテゾンに続いてバッハからも後継者お断りを食らったブクステフーデ、果たして三十路の娘さんはどんな顔だったのかと気になる人もいるかもしれない。肝心の音楽においては例えば「プレリュードとフーガ ホ短調(BWV533)」などにその影響を見ることが出来るかもしれないそうだ。一方よく言われる「トッカータとフーガニ短調」(BWV565)は、今日偽作の嫌疑が掛けられている最中なので、ここには上げないでおこう。(・・・って、上げてんじゃん。)さてさて、4ヶ月も予定を引き延ばしてさぼりさぼって帰ってきたバッハは、夕べの音楽にかぶれて教会でのオルガン曲を素っ頓狂な不協和音と修飾音で満たした上に、おそらく後の妻バルバラを女性禁制のオルガン席に侍らせて歌わせてラブラブな所を見せつけ、これらが元になって1706年初めに事情聴取をされ厳しく叱責されると、それじゃあ演奏は短くキビキビやりましょうと頷いて見せ、オルガンが鳴り響いたかと思ったらもう終わりにして教会を愚弄するなど、破局が近いことは明らかだった。

青年期

 遂に1706年、ヘンデルがイタリアに留学に出かけたことに無意識のうちに反応したバッハは、このままでは駄目だとぼんやりとした不安を抱え1707年の春、自治都市として市参事会に基づく半独立を認められた都市(ハンブルクもライプチィヒも皆そうなんだけどね)ミュールハウゼンの聖ブラージウス教会オルガニストに就任することを決心した。前任のヨハン・ゲオルク・アーレ(1651-1706)のポストを引き継いでオルガンを演奏し、その年の復活節の為に初めてのカンタータ「キリストは死の縄目につきました」(BWV4)を作曲、コラールパルティータの様に復活節に使用するコラールの旋律を全楽章に織り込んで新鮮な叙情性を表すと、夏には母方の伯父(つまり兄、叔父だと弟)レンマーヒルトの葬儀が行われたのでカンタータ「神に至る時こそ最高の時」(BWV106)を演奏し、おまけにこの時50グルデンばかりの遺産を手にしたバッハは、目出度くレンマーヒルト家の娘さんマリーア・バルバラと結婚する運びとなった。嘗て生まれ故郷でオルガニストを勤めていたヨハン・クリストフ・バッハの弟の娘さんである。結婚式は1707年10月17日、1歳年上の姉さん女房だった。ついでにこの曲で最初期のカンタータの形式を概観してみるのも悪くない。

カンタータ「神に至る時こそ最高の時」(BWV106)

1.
・まずソナティーナと書かれたフルート2本の掛け合いの下ヴィオラ・ダ・ガンバ2本と通奏低音による器楽曲で開始。この楽器群が楽曲全体の伴奏楽器群になる。特にフルート2本の響きが人声に対応して非常に美しい効果を出す。
2.
・合唱。新約聖書使徒行伝17から「神に至る時こそ最高の時」だと提示、新たに文章が書き足されているが、バッハが書いたと考える人もいる。
3.
・テノールによるアリオーソ。「神に至る時こそ最高の時」は歌ってみたものの、やはり死は不安である。迷える小さな心が詩編90から「私たちに自分達の日々を数えさせ知恵を与えてください。(死に対する)」と震えるように提示する。
4.
・バスによるアリア。旧約聖書イザヤ書から「あなたの家に遺言をとどめなさい、永遠に生きられないのだから。」と覚悟を求めるように、神の声が初めて現れる。
5.
・アルト、テノール、バスによる3重唱、または3声合唱によって旧約聖書ベン・シラの知恵14から「契約によりお前は死から逃れられない。」と死の恐怖が提示されると、やがてソプラノがヨハネ黙示録22から「だから、来てくださいイエスよ。」と魂を救済するイエス・キリスト(ただ神ではなくイエス・キリストでなければならない。)を呼びかける汚れのない希望のあるアリオーソ旋律を歌い始め、同時に器楽部分にコラール旋律が登場、ソプラノと2重奏を奏でると、先ほどの3重奏とソプラノとコラールの掛け合いが明暗の対比のように絡み合う。
6.
・アルトによるアリアで詩編31から「私の魂をあなたに委ねます主よ」と直前の死への迷いから抜け、微笑むように自ら死を受け入れる。
7.
・バスによるアリオーソ。新約ルカ受難23から「今日(ホイテ)あなたは私に導かれて天上に至るのです。」とキリスト(この言葉は十字架上でキリストがいった言葉で、ただの神ではなくイエス・キリストという固有名詞がクローズアップされて光り輝く。)からの呼びかけが始まると、私たち(つまり会衆一人ひとり)が合唱によるコラール(またはアルトのソロだが、どちらにせよコラール部分が我々としての会衆を指すことは皆よく知っていたからオルガンで提示されても私たちの呼びかけの歌になる。)「平安と歓喜を持って神の御心に従います。私の心は静かで、主が約束したように私は眠るのです。」的な意味の歌を歌い、バスの天上からの「天上に至るのです。」と掛け合って、呼びかけに答える。
8.
・主観的部分が終わって、最後にここまでの一連の主と個人の魂との死を巡る遍歴を教義的高見から再度第3者的に確認して締めくくるコラール合唱楽曲が最後に加わる。コラールはロイスナーという人が旧約聖書詩編31に基づいて作詞したもの。要するにそんな偉大なあなた様に栄光あれ的な。(・・・そんな投げやりな。)最後は幾分熱狂的なフーガに発展して死が克服され天上に至ったことが確信されたかのように曲を終える。作曲者わずか22歳、脱帽。



 しかしこんな風に器楽曲やら、ソロやら合唱を交えてドラマ仕立てで宗教曲をお送りするのを快く思わない人たちもいた。当時ルター派の中でもハレを中心に拡大していた敬虔主義というグループがあって、論理よりも精神性、修飾音楽よりも純朴な歌で十分と思っているような集団が、音楽の力を信じて疑わなかった正統主義(ルター自身はジョスカンを音楽の主と讃えるほど音楽の力を信じていた。)精神の漲るバッハの音楽に横やりを入れて来るので、かつてはテューリンゲン地方最大のカントール、1568年出版の「ドイツ語受難曲」で一連の受難曲の先陣を切ったヨアヒム・ア・ブルク(1546-1610)も所属していたミュールハウゼンも俺のポケットにはちょいとばかり小さすぎると思ったか、そもそも直接の上司であるフローネという人が敬虔派で支障があったものか、またしても次の職探しのシーズンが始まった。その少し前、1708年2月には大規模なカンタータ「神は私の王」(BWV71)が上演され、市参事会がこのカンタータの歌詞とパート譜を出版したが、これは唯一バッハ生前に出版されたカンタータとなった。こんな寛大な参事会なのに、出て行ってしまうなんて、よっぽど良い待遇が転がり込んできたには違いない。

ヴァイマール時代

ついでだからヴァイマール公の系図などを

ヴィルヘルム・エルンスト公(1662-1728)
・「黄色の城」ことワイマール城に住まうヴァイマール公は、ルター派信仰が強く規律厳守の倹約家である彼は学校開設やら孤児院建造やら文化事業に力を入れ図書館を仕立てて知性の開拓にまで乗り出しながら、芸術の保護者として周辺に名君の誉れを轟かせていた。
ヨーハン・エルンスト公(1707没)
・「赤の城」と呼ばれる別館に居住し兄と共にヴァイマールの共同統治を行う彼の下には、アルンシュタットに就任する前に若き日のバッハが一時宮廷器楽奏者として雇われていた。
その息子ヨーハン・エルンスト(1715年に19歳で没)
・音楽才能豊かな彼は1711年に出かけた出版業華やぐオランダへの留学の際には沢山のイタリア人の楽譜をバッハに持ち帰りバッハはイタリア音楽を体験して大いに勉学に励んだ。
同じく、別の息子エルンスト・アウグスト
・1707年の父の死後共同統治者に即位するが、時代精神の異なるヴィルヘルムとの仲は険悪の度合いを増し、この息子の宮廷に音楽演奏に出かけるバッハさえも次第に冷遇の度合いを増すことになる。しかしケーテン候レーオポルトの妹とエルンスト・アウグストが結婚したのが契機となってバッハのケーテン行きが確定した。



 1708年に目出度く人口5千人ほどのヴァイマールを首都とするザクセン=ヴァイマール公国の領主であるヴィルヘルム・エルンスト公に採用されたバッハは、ヴィルヘルムスブルクの城館で宮廷楽長副学長を務めるドレーゼ親子の元、宮廷音楽家兼宮廷オルガニストとして年俸150グルデンの本給を約束され、これはさらに1714年250グルデンに跳ね上がるなど破格の待遇を得たが、これに気をよくして日曜祝日にヒンメルスブルク(天の城、これに対して天空の城はラピュータだが、脱線して・・・アイルランド人のジョナサン・スウィフトによる「ガリバー旅行記」は改訂版が1726年、完全版が1735に出版されたセバスチャン時代の著作物である。)という城館内教会で演奏される宗教曲作曲にのめり込んだ。このヒンメルスブルクというのは天上をくり抜いた部分にオルガンと器楽演奏者の席を持ち音楽が天上から響き渡るという非常に面白い作りになっていたのだ。1708年には初めての子供である長女カタリーナ・ドロテーアが、1710年には長男ヴィルヘルム・フリーデマン(1710-1784)も誕生し、一方市の教会オルガニストを勤めながら1732年にはドイツ初の「音楽事典」を出版するヨーハン・ゴットフリート・ヴァルタ(1684-1748)や、丁度アイゼナハの宮廷で活躍していたゲオルク・フィーリプ・テーレマン(1681-1767)らとも親交を結んだバッハの元には、「よろしくっす、お願いするっす」とシューバルトやらフォーグラーなどの弟子達も集まりはじめ、日々音楽談義と演奏に華やいだ。
 1713年には2月に以後も時々出かけていくことになるヴァイセンフェルスに初期の世俗カンタータである狩りのカンタータ「私の楽しみは、元気漲る狩りだけだ(「鹿の所だけ狙えるのか」という俗称は存在しないから、注意)」(BWV208)が上演されて始まった。やがてヴァイマール公弟方の息子さんであるヨーハン・エルンストが楽譜出版業の中心地の一つでもあるオランダにあるユトレヒト大学の留学から戻り、「さあお土産だ、イタリア音楽の出版楽譜を大量に買い込んできたから、一つこれで巷で流行の協奏曲を鍵盤楽器用にアレンジしてこしらえてくれたまえ。」と云う。見れば1711年にアムステルダムのロジェが出版したヴィヴァルディのコンチェルト集「調和の霊感」(作品3)もあるじゃないか。「協奏曲のチェンバロアレンジとはなんですか」とバッハが尋ねると、「アムステルダムの盲目のオルガニストであるヤン・ヤーコプ・グラーフ(c1672-1738)は知っているだろう。彼が協奏曲を鍵盤曲に変えて演奏していたのを見たのだ。君にだって出来るだろう。」と言うので、「当たり前です。鍵盤協奏曲ぐらい朝飯の前にだって完成させて見せます。」と請け合ったバッハは大喜びでヴィヴァルディーのコンチェルトに大いなる関心を示しつつ、6曲の「オルガン協奏曲」、17曲の「チェンバロ協奏曲」を作曲し、コンチェルト様式の最近流行の調理法であるをリトルネッロ形式を身につけると共に、豊かな旋律己惚れ歌うイタリア音楽の旋律をパスタの麺のように扱う方法から感銘を受けた。「トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調」(BWV564)のアダージョはトマトソースで味付けしたパスタの旋律に違いないし、1714-7頃作曲された「プレリュードとフーガ イ短調」(BWV894)のリトルネッロ風プレリュードとジーグ的でもありコンチェルト楽章みたようなフーガにもその影響を見ることが出来るという。一方イタリア体験の1713年の内に作曲された「4声の無限カノン」(BWV1073)などを見れば分かるように、彼はイタリア調理法に閉じこもって居る間もジャガイモ料理と数秘的論理性のスパイスを忘れちゃあいなかった。(とは云ってもトマトもジャガイモも大航海時代に新大陸から輸入されたものだし、大航海時代は胡椒を求めて始まったとさえ言われるほどだけど・・・。)彼はイタリア体験の翌年、1714年にフレスコバルディ作曲の「音楽の精華(せいかとは、そのものの真価を見るべき代表的な長所)」(1635)という今日の流行とは掛け離れた楽譜を手に入れると、これを大いに研究し自らの源泉とし、先ほどのカノンや、1713年から開始された一連の原型コラールに様々なモティーフを対位させて教会歴に沿って並べた45曲の「オルガン小品集(オルゲルビューヒライン)」(BWV599-644)や、さらに1716年頃の「トッカータとフーガ ドリア調」(BWV538)などにおいては、最新トレンドとしてのイタリア体験と共に、初期バロックの音楽技法も取り込まれ、新たな境地での作曲が開始されたという。
 さて、1713年も12月になるとヘンデルのお師匠様だったツァッハウの亡くなったハレの聖母教会に向かい、オルガン演奏でオルガニスト後任者の地位を獲得しておきながら、ヴァイマールでの給料アップに繋げてみせる処世術にも才能を見せ始めたバッハは、怒れるハレに謝罪の意を表して表面を取り繕い旨く宥(なだ)めると、とうとう1714年にはヴィルヘルム公の音楽家の中で3番目の地位に当たるコンツェルトマイスタ(楽師長)に任命され、以後4週間に1曲のカンタータの作曲を任されたので、早速「天の王よ、貴方を迎えましょう」(BWV182)によってカンタータ作曲の開始を告げてみた。
 折しもエールトマン・ノイマイスター(1671-1756)が聖書を題材にしたオペラ風レチタティーヴォとアリアの詩を書き下ろし、これに音楽を付けてカンタータを作曲するのが新しいトレンドになっていたので、よしきたバッハも嘗てのような聖書の句を継ぎ接ぎして纏める方法から、ノイマイスターや特にザーロモン・フランク(1659-1725)の新しく作った詩にイタリアオペラ風のレチタティーヴォとABA型ダ・カーポ・アリアを動員し、合唱よりも独唱にスポットを当てたカンタータを作曲し始めたのだ。同じ年の内にカンタータ「泣き、嘆(なげ)き、憂い、怯え」(BWV12)も作曲されたが、冒頭合唱のラメントバスによるシャコンヌ楽章は後に「ミサ曲ロ短調」のクレド楽章の中に転用されることになった。さらに12月はフランス風序曲形式の合唱の特徴的なカンタータ「さあ来てください、異教徒の救い主よ」(BWV61)も作曲。これはノイマイスターの詩に基づいた。この1714年という年は、ちょうどイギリスでは女王アンが天に召されヘンデルの使えるゲオルク・ルートヴィッヒ選帝候がイギリス国王ジョージ1世となる世界史上意味のある年だったが、バッハ個人について言えば次男カール・フィリープ・エマーヌエル(1714-1788)も誕生し、テーレマンに代父役を頼んでフィリープの名前を頂いたりしている。一方オルガニストとしての名声四方に轟くバッハはアンドレーアス・ヴェルクマイスターの「オルガン試奏」で得た知識を十全に生かしオルガン試弾や建造アドバイスにも出かけ回っているが、1716年には大オルガンの完成に合わせてハレに試弾に出かけている。この時ヨハン・クーナウらと一緒におよばれした祝宴の献立が運悪く残っていて、バッハは今日になっても「お前は、この時何を食っただろう」と噂される結果となってしまった。「牛肉煮込みに、マスのアンチョビ・バターソース、その他諸々にだ、さぞ旨かっただろうな、こんちきしょうめ、酒も飲んだだろう、奥さんに言いつけてやる」などと。
 1715年にはカンタータ「私たちの神は堅い砦」(BWV80a)の初稿版や、死を描く音楽としてI教授絶賛の「来るがいい、甘い死の時よ」(BWV161)「道を整備し、大通りを真っ直ぐにしましょう・・・それでいいのか?」(BWV132)を作曲、さらにヨーハン・マティーアス・ゲスナーと知り合いになるが、一方でイタリア楽譜を仕入れてくれたヨーハン・エルンストは若くして亡くなってしまった。そんな中、次第にヴィルヘルム・エルンスト公とその弟の息子であるエルンスト・アウグストの関係が険悪になるので、とうとうビルヘルム公はバッハにエルンスト・アウグストの「赤の館」に赴いて演奏を行なうことを禁止、これに従わずにのこのこ出かける頑固者のバッハと公との関係までも険悪化した。しかしドレーゼ楽長が亡くなると、公との関係が最近気まずいとはいえ、まさか自分が楽長になるだろうと思ったか、後に改訂されて「主よ、人の望みの喜びよ」によるコラール楽章が加わって有名なになるカンタータ「心と口と行いと生き様をもて」(BWV147a)などの作曲を開始して、そわそわしながら楽長就任に備えるバッハだったが、音楽よりも規律を重んじる公は彼の楽長就任を見送り、見せしめのために息子のドレーゼを楽長にした。見事裏切られて頭のてっぺんから火山が噴出した心持ちのバッハは、カンタータの作曲を途中で放棄し、とうとう弟の「赤の城」で知り合ったケーテン公レーオポルトのもとに勝手に就職してしまった。これを聞いたヴィルヘルム公は「使用人の分際で生意気にもほどがある」と一層噴火を極め、彼の辞任を認める替わりに、バッハを牢獄に入れて監禁したのである。監獄の前で舌を出してここまでおいでと言い放ち、いじめ抜いたあげく漸くしぶしぶ12月初めに辞任を認めると、変わって今度はとっとと失せろと言い放つ。こうして泣きながらヴァイマールを去るバッハ一家だったが、そんな極悪非道の投獄生活に陥る前の1717年9月にはヴァイオリン奏者として知らない人はいないとされるジャン・バプティスト・ヴォリュミエ(c1670-1728)に招待されて、ドレースデンの選帝候フリードリヒ・アウグスト1世の宮廷を訪れ、楽長ハイニヒェンの元ヴィラチーニやピゼンデル活躍する宮廷音楽にふれ、ピゼンデルがイタリアから仕入れた大量の楽譜による音楽演奏に触れながら、フランスのオルガニストであるルイ・マルシャンとの鍵盤競演で戦わずして勝利を収めて見せたという伝説も残されている。「平均律だ、やつの調律法はどんな調性でも使えるのだ。どの調性にも旅が出来るのだ。到底太刀打ちできない。」マルシャンもまた泣きながら返っていったと言うが、おそらくこれはドイツナショナリズムが生み出した誇大妄想である。しかし、楽しいからそのままにしておいた方がいいかもしれない。

ケーテン時代(1717-1723)

 ヘンデルが水上音楽でジョージ1世を讃え(1717)、バルトルト・ハインリヒ・ブローケス氏の歌詞による受難曲「世の罪のため苦しみを受け、死のうとするイェーズス」をテーレマン(1716)とヘンデル(1719)が作曲する頃、バッハはアンハルト候国のケーテン公であるレーオポルト(1694-1728)の元に向かった。牢屋の向こうでベロを出しておどけて見せたヴィルヘルム・エルンスト公の顔がまだ浮かぶ。一つ頭を振ったバッハはてやんでいとばかりにケーテン公の宮廷の扉を叩いた。よく来たと迎えるレーオポルト公は、わずか2年前の1715年に即位したばかりの若手で、カルヴァン派だったケーテンにルター派信仰の自由もすこしばかり許可した父親の後、ルター派には幾分厳しい眼差しを向けていたが、一方自ら美しく歌いヴァイオリンやチェンバロなどを演奏するほど音楽好きだった彼は、文化の発展に力を注ぎ宮廷楽団の組織に乗り出した。そこに丁度軍国主義を掲げるプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世に追い出された音楽家の一部が避難してきたので、彼らを雇い入れ、ヴァイマールからバッハ入れ食い状態で釣り上げたので、レーオポルトの時代だけケーテンは華やかな文化都市として君臨する事になった。バッハはそんな人材豊富な宮廷楽団を楽長の立場で自由に取り扱い、さらにレーオポルト臣下中2番目の高給取りとして400タラーの年俸を貰い、公と友人のような付き合いを許されたので、就任早々1717年12月10日には世俗カンタータ「いとも尊きレーオポルト殿下よ」(BWV173a)を作曲し舞曲リズムでカンタータをお送りしてみたが、この曲は後にカンタータ「高く上げられし血肉よ」(BWV173)として無頓着に宗教曲に転じて見せた。世俗曲「私の心は千々に乱れ」に宗教の歌詞を付けてコラールに仕立て上げるような、良い音楽はそれ自体神に仕えるものだというルター派の精神に従ったのである。ここケーテンではもっぱらレオポルト公の宮廷音楽を任され、ルター派の宗教音楽は使用されないため世俗音楽三昧の一時期を迎えたバッハは、おそらく相当数のコンチェルトを作曲したはずだ。多くが失われたらしい協奏曲群の中ではジョスカン記念を兼ねてブランデンブルク辺境伯に贈られた1721年献辞の「ブランデンブルク協奏曲」(BWV1046-51)が今日まで命脈を保っているが、特に第5番ではチェンバロが大活躍してバッハの鍵盤楽器奏者としての面目が見事に発揮され、後のピアノコンチェルトに繋がるほどのウェイトを鍵盤楽器に与えることになった。他にも3曲のヴァイオリンコンチェルトをはじめ多くの器楽曲はこの時期に書かれたのだろう、管弦楽組曲の1番4番もこの時期の可能性があり無伴奏作品群は「フルート」「チェロ」「ヴァイオリン」の順で作曲されたらしい。このうちチェロ組曲を手渡されたのは、宮廷楽団のヴィオラ・ダ・ガンバ奏者であるクリスティアン・フェルディナント・アーベルだが、彼の息子こそ後にロンドンでバッハの息子ヨハン・クリスチャンと共に「バッハ・アーベル演奏会」を企画するカール・フリードリヒ・アーベル(1723-87)で、さらにこの演奏会には幼きモーツァルトが顔を覗かせるから音楽史もなかなか面白い。
 1718年にはレーオポルト公に付き添ってチェンバロまで背中に背負ってカールスバートに温泉保養に出かけ、1719年にはハレにヘンデルが来ているというので出かけてみれば運悪く行き違う頃にも、例えばカンタータ「しりぞけ、もの悲しき影」(BWV202)音楽劇(ドランマ・ペル・ムージカ)という題目を付け、この作品は後に「結婚カンタータ」と呼ばれる事になったが、1720年に再びレーオポルト公に従ってカールスバートに出かけていたら、その間に妻のマリーア・バルバラはお亡くなりてバッハが家に戻った時にはすでに埋葬されてしまっていた。
 気を取り落としていっそ転任でもしようかと思案したバッハは11月にハンブルクに出かけると聖ヤーコブ教会のオルガニストに応募、折り悪くレーオポルト公に使える都合で試験演奏に参加できないので、先に聖カテリーナ教会においてコラール「バビロンの流れのほとりで」による即興演奏を超絶技巧で演奏したところ、普段は「La陰険」な性格で知られた偉大なオルガニスト老ヨーハン・アーダム・ラインケン(1623-22)が「貴方の中に、このような技法がまだ生き付いているのを知って、私は大いに喜ばしい心持ちがした。」と讃えて帰って行った。それにもかかわらず聖ヤーコブ教会の後任者に選ばれなかったのは、どうも4000マルクという膨大な額の準備資金をバッハが払えなかったのが理由らしい。バッハに曲を書いてもらえるとぬか喜びをした主任牧師のノイマイスターは殊(こと)の外(ほか)憤慨して、「例えば天使が天上から舞い降りてオルガニストになることを希望しても、フィーアタウゼントマールクの金が払えなければお帰り願うのか!」と教壇から体制を非難した。バッハが「フィーアタウゼントマールク、フィーアタウゼントマールク」とうなされながら帰路に付いたのを知っていたからである。
 しかし心配ご無用、意気消沈はそう長く続かない、なんと1721年にジョスカンの霊が導い下さったので、トランペット奏者を父に持つ宮廷歌手である20歳のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚して、途端に嬉しくなって奥さん自慢にさぼりがちだった聖餐儀式に連れ立って参加しまくる始末。しかも結婚後もケーテン宮廷で歌手の仕事を勤めた彼女は、バッハの半額ほど稼いで共働き家庭を演じきって見せた。I教授によると最初の妻バルバラと後の妻マグダレーナの気質の違いは、マグダレーナの音楽家になった息子達ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ(1732-95)ヨーハン・クリスチャン(1735-82)の開放的社交的な性格と、フリーデマンとエマーヌエルの内向的情熱的性格の違いに見て取れるという。全くこのコンテンツ自体が磯山雅氏の「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」から成り立っているようなものなのだから、どうかバッハに興味を持たれた紳士淑女諸君は奮発して東京書籍の本を予約購入して一家の宝として欲しいくらいだ。こうして新しい妻に子供たちに華やぐバッハは、すでに1720年から始まっていた「フリーデマンのための音楽帳」への書き込みをさらに活性化させて、1722年に完成される「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の着想や、1723年に完成譜となる「インヴェンションとシンフォニーア」の原型も書き込んで息子の教育に役立てる一方、1722年からは妻の為にも「アンナ・マグダレーナのための音楽帳」を開始して見せた。22年に纏められた平均律クラヴィーア練習曲集第1巻はフィッシャーの20の調による「アリアドネー・ムジカ」(1702)から発想を得たのかもしれないが、長調短調合わせて24調すべての調性に渡り順に前奏曲とフーガをお届けする楽曲自体は前代に例のない画期的な作品だった。しかし周りの環境の方は1721年末にレーオポルト公も新しい妻を迎えると、次第に公の音楽関心が薄れ始めた、つまり奥さんが音楽嫌い(アムーザ)だったのだな、もし。とうとう思い定めたバッハは、先任者ヨーハン・クーナウ(1660-1722)の後釜を探し回るライプツィヒ聖トーマス教会のカントール職に応募して、ライプツィヒ側はテーレマンとクリストフ・グラウプナー(1683-1760)に断られて、心底仕方なく1723年の6月にバッハを就任させることで妥協した。ただしアムーザな奥さんは、バッハがレーオポルト公に辞任の許可を得る直前になくなっているから、おそらく息子を大学に通わせることや、宗教音楽とオルガンに対する思いが抑えられなくなったなどの理由があるのだろう。こうしてバッハは再び宗教音楽に生き甲斐を見いだすのだが、この23年と云えば折しもフランスで和声論を出版したラモが再度パリに進出を試みた同じ年であった。

前半終了ですので「7に見るバッハ」でしばらくお楽しみ下さい

1697年、1695-1700オールドルフ学習時代

・私の妄想によると、兄であるヨーハン・クリストフ・バッハの持っていた筆写譜をこっそり月明かりに透かして写し取って、ぽかりと食らわされたのがこの1697年だ。

1707年、ミュールハウゼン時代

・1703-07の就職先アルンシュタットに嫌気が差して、ミュールハウゼンに移った年で、初めてのカンタータである「キリストは死の縄目に繋がれたり」(BWV4)と、「神の時こそ、いと良き時」(BWV106)が作曲され、さらにおめでとう、10月にマリーア・バルバラと結婚した。

1717年、ケーテン時代(1717-23)に移る年

・9月にドレースデン旅行でルイ・マルシャンをコテンパンに打ちのめし、初めての投獄を経験もし、12月に寒さに震えながらケーテンに向かい、たちまちのうちに世俗カンタータ「いとも尊きレーオポルト殿下よ」(BWV173a)を上演して見せた。

1727年、「マタイ受難曲」初演

・マタイの前にカンタータ3年巻を完成させ、フナのマタイを上演し、9月にはフリードリヒ・アウグスト1世の后が亡くなったので追悼頌歌「候后よ、さらに一条の光を」(BWV198)を上演。オルガン用の「トリーオ・ソナータ」(BWV525-530)も作曲された。

1737年、バッハ批判と、宮廷作曲家称号

・5月にシャイベが「批評的音楽家」を出版、匿名にして実名と変わりないバッハ批判を繰り広げ、バッハが対抗して別の学者に擁護文を書かせるなど熱き戦いが繰り返されたが、この騒動は最終的に1745年にシャイベが謝罪することで蹴りが付いたという。一方11月には、嬉しい「ザクセン王室宮廷楽団所属作曲家」の称号をカイザーリンク伯爵のつてで手に入れることが出来た。

1747年、ポツダム旅行と、フリードリヒ大王

・息子のカール・フィリップ・エマーヌエルと彼の生まれたばかりの子供に合うために、フリーデマンと共にベルリン、ポツダムに出かけ、大王ことフリードリヒ2世の前で即興演奏を披露。後に大王の主題に基づく数々の楽曲集「音楽の捧げ物」が誕生するきっかけになった。またこの年ミツラー主催の「音楽学術交流協会」に入会。カノン風演奏曲「高き空よりわれは来たり」(BWV769)を作曲提出し、同じ年にミサ曲ロ短調の作曲を開始している。(完成は49年)

お暇な方のためには、「3に見るバッハ」もございます。

1703年、アルンシュタット時代へ(1703-7)

・1700-2に掛けてのリューネブルクでの学習を経て、この年ヴァイマール公の弟宮廷の合奏団に初就職、同年の内にアルンシュタットのオルガニストの地位を得る。同じ年に幼き日に演奏を聴いていたヨーハン・クリストフ・バッハ(1642-1703)が死去。

1713年、イタリア体験(ヴァイマール時代)

・もういないさ(1713)コレッリは、でお馴染みのコレッリの無くなった年だが、バッハにとってはハレ教会でのオルガニスト試験をヴァイマールでの給料アップに利用したすばらしい年で、「オルガン小品集」(BWV599-644)にも着手している。

1723年、ライプツィヒ時代へ

・ケーテンを離れライプツィヒに就任した年で、「マグニフィカト(ドイツ風発音)」の初稿版が上演され、「インヴェンション」の清書譜が書かれたのもこの年。

1733年、フリードリヒ・アウグスト2世即位に際して

・新しいザクセン選帝候のために「ミサ曲ロ短調」の元になる、「キリエ」と「グロリア」を作曲し、息子フリーデマンがドレースデンのオルガニストになった年だが、音楽史的にはペルゴレーシ(1710-1736)のインテルメッゾ「女中奥様」が上演された年として重要である。

1743年、・・・モンテヴェルディ没後100周年

・バッハにとって特に大した出来事もなさそうな年だが、百年前には偉大なモンテヴェルディが無くなって、代わりに5歳のルイ14世がフランス国王に即位、イギリスではピューリタン革命の翌年だった。・・・ぜんぜん関係ねー。そのうち調べて書き足そうか。

2005/04/05
2005/04/06改訂

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