9-4章 17世紀前期の器楽曲

[Topへ]

器楽曲の演奏場所

 今日のように演奏会場に出かけ器楽曲を聴くなど思いもよらなかったバロック初期に置いて、器楽曲の演奏の場は教会と貴族の宮廷やサロン、そして劇場だった。中でも特にルネサンス期から器楽曲が発達したのは教会と宮廷で、2つの性格の違いから教会ではオルガン曲やモテット、シャンソンなどから派生した合奏器楽曲が徐々に特定のジャンルとして使用され、一方宮廷では多くの場合舞曲を器楽合奏用にしたものや、イギリスのヴァージナル音楽のように鍵盤楽器に基づく変奏曲や組曲のジャンルが演奏された。このような2つの潮流が、バロック時代に舞曲組曲を元にした器楽曲のジャンルと、より抽象的な多楽章形式の器楽曲のジャンルを生み出し、後の音楽学者がソナータ・ダ・キエーザとソナータ・ダ・カメーラに分類するような2種類の多楽章器楽曲のジャンルとなった。カーメラはイタリア語の「室内」と云った意味で、フランス語のシャンブルや英語のチェインバーも同じである。一方バロック時代に入ってからオペラの時代として本領を発揮する劇場からは、オペラ序曲を開始とする新しいタイプの器楽曲が生み出され、これらは壮大な絡み合いを見せながら古典派のシンフォニーや協奏曲に辿り着いた。そもそもヴァイオリン属の大飛躍には劇場オーケストラの存在が絡んでいたから、ヴァイオリン一味の弦楽器が主導権を握る交響曲はそれ自体劇場の恩恵を間接的に被っているのだが、さらに交響曲は多楽章形式であり抽象楽章と舞踏的楽章の混淆が見られ、ベートーヴェン以前の3楽章は舞曲形式色濃いメヌエットであり、最終楽章は幾分ジーク型の精神が宿って居ないこともない。

楽器の分類

 バロック時代になると通奏低音のバスラインに関心が高まり、すでにプレトーリウスの「シンタグマ・ムジクム」3巻(1619)の中でも楽器は作品を支え和声を充填するための和弦楽器omnivocaと、音楽を推進させ美しく響かせる旋律楽器univocaに分けられている。

でも、初期の分類って何だか大した差が無い?

 何をおっしゃるウサギの若旦那。アタナージウス・キルヒャー(1601-80)の「音楽総論(ラ)ムスルジア・ウニヴェルサーリス」(1650)を見たまえ、ミヒャエル・プレトーリウス(c1571-1621)の「音楽大全(ラテン語の独風発音)ジュンタグマ・ムージクム」を見たまえ、当時の作曲家に取ってはそれぞれの名前に属性がちゃんと付与していたのだ。よおく観察しなくっちゃあいけない。

教科書での参考分類型

1.フーガ型(継続的模倣対位法曲)
2.カンツォーナ型(段落のある模倣対位法曲)
  →17世紀中頃ソナータ・ダ・キエーザに?
3.一定の旋律や低音による変奏曲
4.舞曲、舞踏的曲
5.即興様式の曲

フーガ型

 ルネサンス的通模倣対位法声楽曲が元になって派生したような途切れないで続く模倣対位法の曲達。
→リチェルカーレ、ファンタジーア、ファンシ、カプリッチョ、フーガ、ヴェルセなど様々。

リチェルカーレ(伊)ricercare

・イタリアの「探求する」に語源を持つ16,17世紀に流行した器楽曲で、元々はモテットを器楽に移植したもの。すでにアードリアーン・ウィラールトや以後居なくなるイーザークが声のない通模倣モテットとしての合奏版リチェルカーレを作曲しているし、オルガンやクラヴィーアでも同じように開始されていったが、鍵盤楽器でのリチェルカーレは次第に声楽語法から離れ、即興的パッセージと模倣をさらに技巧的に遣り繰りするうちに、特にアンドレーア・ガブリエーリによって純な鍵盤器楽曲として独り立ちしてみた。性格としては例えばその息子ジョヴァンニ・ガブリエーリのカンツォーナとソナータがどちらもより和弦的で縦のリズムにに区切られた明瞭な楽曲として類似の作曲書法が見られるのに対して、リチェルカーレはより対位法的であり旋律同士の横の絡み合いで楽曲が組織されていくフランドル型モテット的な書法になっている。16世紀は、声楽のモテットのように次々に新しい類似旋律の絡み合いに移行していくような楽曲だったが、これは声楽モテットが言葉のデクラメーションに合わせて次々に旋律を紡ぎ出して作曲されたことから来ていた。しかし、やがて言葉のない器楽曲では何らかの手段で統一が図られないと構成が弱いように思われた。やがて17世紀に入るころには、単一の主題を持ち、それを各種変奏させたり、次々に新しい対旋律と組み合わせて曲全体の統一を図る傾向が顕著になってきた。フレスコバルディの場合はリチェルカーレもカンツォーナも共にこのような主題を用いた線的対位法傾向の強いものになっている。

代表例
・北のスウェーリンク、南のフレスコバルディと南北横綱対決に例えられることもあるジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)は、フェラーラ生まれで当地に居たルッツァスコ・ルッツァスキに師事しジェズアルドからも影響を受けたオルガン奏者で、1600年にはローマでオルガン演奏と歌手を務め、1607年に教皇大使に同行してブリュッセルに赴いて北方鍵盤楽曲、当然スウェーリンクの音楽にも触れ、1708年からローマはサン・ピエトロ大聖堂のオルガニストとして生涯君臨することになった。特にオルガン演奏の名手として非常に名声高く、1608年のローマのサン・ピエトロ大聖堂オルガニスト就任の際には3万人もの聴衆が詰めかけたという逸話が残されている。彼が作曲した教会礼拝で使用するオルガン曲集である「音楽の花々(伊)Fiori musicali フィオーリ・ムジカーリ」(1635)から「クレードのあとのリチェルカーレRicercar dopo il Credo」や「クレードの後の半音階的リチェルカーレRicercar cromaticho post il Credo」などが彼の名声と生徒指導による影響力によって当時のイタリア型リチェルカーレのスタンダード書法になった。また彼はすぐれた弟子達も育て上げ、ドイツ人のヨーハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616-67)や、ヨハン・カスパール・ケルル(1627-93)らは南ドイツにフレスコバルティ様式を持ち帰った。
・ついでだから、2曲目「クレードの後の半音階的リチェルカーレRicercar cromaticho post il Credo」を分かりづらく言葉だけでざっと説明すると、ルネサンス体位法的声楽曲でお馴染みの順次同じ冒頭旋律を各声部が導入して開始する後のフーガの導入にあたる方法で半音階的な主題が導入される。これは最上声から順次5度下で提示され4声が出そろうと、そのまましばらく各声部で主題を奏しながら、進行する。他の声部は常に付きまとう完全な対主題や明確に限定された動機に縛られず類似性と多様性によって大いに自由に作曲されるため、主題による統制と声部の自由さが保たれていてフーガのように堅苦しくはない。しかし一方ではフーガのように主題から次の主題に至る動機による喜遊句を持たないため、その意味では緊張の度合いが高い。したかって主題提示自体を変奏したり、部分的使用の対旋律を持ち込んだりする事で変化と連続性を保つが、次の第2の部分では主題に絡み合う1つ目の副主題が導入され、各声部に順次導入されながら様々な形で主題と絡みあう。ここでも主題に対する副主題は対主題のように明確に主題と決まったパターンで一緒に登場するのではなく、開始部分の主題が様々な形で現われながら幾分背景に回った所に、副主題が前面に出て順次導入され副主題的部分を経過するような感じになる。嘗ての声楽モテットなら次のモティーフ部分で冒頭旋律は消え去るところを、開始テーマを一貫して楽曲の柱にするという意識が高まったのでこのような形になったのだろう。続く第3の部分ではまた新しい副主題が導入されるが、同時に主題の音価が引き延ばされて導入され、前の副主題とは違い新しい副主題はこの引き延ばされた主題の対主題的要素が非常に強い。つまりさらに異なるモティーフだけで最後の部分を終える嘗てのモテットの部分は、明確に変形された主題の回帰を初めとは異なる新たな部分としての副主題で彩って楽曲の終止に向かう変化と主題による一貫性を兼ね揃えている。この「音楽の花々(フィオーリ・ムジカーリ)」(1635)は後に1714年になってバッハが大きな眼をぐりつかせて大いに拝見したそうだが、聖歌を定旋律とした3曲のオルガンミサに2つのカプリッチョを加えた曲集のうち、「ベルガマスカのカプリッチョ」は自ら「演奏する人は、大いに学ぶことになる」と記すとおり4つの短い動機に基づく対位法で楽曲が完成されている。

ファンタジーア(伊)fantasia

・アムステルダムのヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(1562-1621)はリチェルカーレよりも主題をこってりと重装備に対位法的展開をさせ、規模を一層拡大させた性格を持ちつ、自らのフーガ風作品のことを何度もファンタジーアと呼び、人々に知らしめ弟子に教えることによって北方オルガニストのファンタジーアという固定楽曲を定着させた。このスウェーリンクもまた元々イタリアオルガンの伝統から学びヴェネツィアでザルリーノに師事したともいわれているが、詳細は不明である。彼は後にザルリーノの「和声法教程」のオランダ語訳に関わりながら多くの弟子達を育て、地元のフランドル的ルネサンスポリフォニー様式とイタリアでのオルガン書法に、当時流行していたイギリスのヴァージナル音楽の変奏技法なども吸収して独自の音楽語法に仕立て上げ、弟子達に受け継がせて見せたために「ドイツオルガニストのおじいさん」と呼ばれている。彼の弟子の中にはザームエル・シャイト(1587-1654)やハインリヒ・シャイデマンが居て、シャイトは1624年の「新譜表(タブラトゥーラ・ノーヴァ)」によって優れた音楽を送り出しただけではなく、ドイツオルガンの文字や記号で音楽を表す伝統に、5線譜によるオルガン曲の風穴を開け「ドイツオルガニストのお父さん」と呼ばれた。そんなお父さんのお父上なスウェーリンクのファンタジーアは多くが3つの部分からなっていて、主題の提示的部分から各種展開変奏にいたり、最後にはストレッタ(前の主題提示が終わる前に次の主題が立て続けに入ってくる)や反復進行による執拗な高揚や、保続低音オルゲルプンクト上で繰り広げられるクライマックスが築かれる。主題を一定に保ちながら、次々に新たな対旋律を持ち込んだり、早い走句が導入されたりして、統一と多様性を保つのは前に見たフレスコバルディと等しく、まさに北と南の両雄君臨の面持ちである。(なんのこっちゃ。)ただし、カトリック圏のフレスコバルディがミサ典礼でのオルガン楽曲である、ミサ曲や「テ・デーウム」「マニフィカト」などのオルガン音楽が重要な意味を持っていたのに対し、オルガンが礼拝から閉め出されたオランダのスウェーリンクの場合は、礼拝以外の時に教会などで演奏される催し物としてのオルガン楽曲が中心を占めた。さて、この北方型のファンタジーアの書法は、ドイツでは17世紀初期から次第にフーガfugaとも呼ばれるようになっていった。
・他の国々では本来の幻想的即興漲る楽曲としてファンタジーアが作曲され、17世紀イギリスでも数多くのファンタジーが書かれたが、特に器楽合奏用のものはファンシfancyと呼ばれたりした。一方ドイツですらまったくもって即興的な曲もファンタジーアと言われ続けた。

教科書お奨めファンタジーアな作曲家
スウェーリンクの弟子ザームエル・シャイト(1587-1654)
やっぱり弟子ハインリヒ・シャイデマン(c1596-1663)

教科書お奨めファンシな作曲家
・イギリスで大流行した17世紀初頭のヴィオラ・ダ・ガンバの為のコンソートミュージック(合奏音楽)において、ファンタジー型はファンシと呼ばれ、小アルフォンソ・フェルラボスコ(1578前-1628)、ジョン・コプラーリオ(クーパー)(1626没)、ジョン・ジェンキンズ(1592-1678)などが活躍。この種の音楽は王政復古(1660)の後、マシュー・ロック(1621-77)とヘンリ・パーセル(1659-1695)らが最後の山桜を開花させた。

カンツォーナ(イタリア語で「歌」)型

 ブルゴーニュ時代のバンショワシャンソンじゃない、笑顔の素敵なフランソワ1世(在位1515-47)時代に花開いた新しいフランスシャンソンの方だ。奴の持つリズムのはっきりした音節的で反復の多い軽妙さと分かりやすい形式が、フランスだけでなくイタリアでも大流行したのだ。数多くのシャンソン集が出版されている内に、器楽版まで編曲されるようになると、あらかじめ楽器で演奏されるためのカンツォーナ・アッラ・フランチェーゼ(伊)「フランス風の歌」が作曲されるようになった。これはカンツォーナ・ダ・ソナール(伊)「楽器で演奏される歌」とも呼ばれ、初めは単に声楽から編曲された器楽曲だったのだろうが、やがて純な器楽曲として、オルガン用が、そして1570-1580頃から合奏用も登場し独り立ちすると、歌のようななだらかな旋律による、リチェルカーレなどよりも単純で節のはっきりした和弦的対位法に基づく、幾つかの部分に分かれた器楽曲を指すようになっていった。ニコーラ・ヴィチェンティーノ(c1511-76)やフロレンティーノ・マスケラ(c1540-c84)などの器楽合奏用のカンツォーナが出版され、そうした作品の幾つかは次の部分で対照的な主題を配置したり、次の部分が主題の変形に基づくこともあったが、多くは声楽曲のように初めの旋律の精神を受け継いで、自由に紡ぎ出されて次の部分を形成していった。そんなカンツォーナ型のルネサンスとバロックの狭間に君臨するのがジョヴァンニ・ガブリエーリ(1553/6-1612)の一連のカンツォーナとソナータの楽曲であるが、1597年に出版された「サクラ・シンフォニア集」などの2手に分かれた楽器群の対話による音楽は当時最先端の技法で、その中の「ピアノとフォルテのソナータ」は史上初めて音の強弱が記されたものとしても知られているが、同時に器楽の編成が演奏者に任されず楽譜に記入された初期の例としても重要である。そしてこの曲集には次のバロック時代に重要な要素となった異なる音色、声楽と器楽、声部数の変化などの対比や対話、協奏による変化の多様さ、つまり広義のコンチェルトの原理も見て取ることが出来るし、それぞれの部分をより響きの充実に関心を高めた和弦的な進行と、旋律同士の絡み合いの関心が高い対位法的部分に対比させて配置することによって構成し書法も対比させることによって作品の奥行きを深めている。この方法はジョスカンがモテットなどで使用していたもので、カンツォーナが本来のシャンソンから離れ高度な器楽曲に到達した姿を見ることが出来るが、バロック時代にはいると次第に対位法的作曲部分と和弦的部分の性格の違いを推し進め、情感を刺激するアレグロの対位法的部分と、情感をなだめるアダージョのようなゆっくりした和弦的部分の交代からなる多節形式の作曲が現れ始めた。
・ではついでに「ピアノとフォルテのソナータ」を非常に分かりにくく言葉だけで大ざっぱに説明してみましょう。まず第1合奏を担当する楽器群は、3本のトロンボーンの上にコルネットが最上声を歌い、第2合奏を担当する楽器群は3本のトロンボーンの上にヴァイオリンが最上声を歌うという非常にユニークな楽器編成になっている。ここですでに、全声部の均一性を美的価値として持っていたルネサンスとは異なる、ソプラノ以外のパートを楽器に任せた後期のマドリガーレのような、伴奏楽器群と上声楽器の対比を見て取ることが出来るが、さらにこの2つのグループが離れたところから対話をするように音楽を行なうヴェネツィアお得意のコーリ・スペッツァーティ的対話で協奏する精神も次のバロック時代的精神に適っている。(とはいってもヴェネツィアではこの傾向は後期ルネサンス期に十分に発達を遂げていたし、一方この曲の声部書法はルネサンスのマドリガーレ的ではあるが。)楽曲はまずピアノと記入された開始で第1合奏が単独で演奏を行ない、続いて第2合奏が単独でこれに応答すると、続いて第2合奏に第1合奏が加わった総奏の部分でフォルテが書き込まれ、華やかに第1クライマックスを形成する。続いて再びピアノの指示が現れ、今度は第1、第2楽器群ごとの対話と総奏が強弱の指示と共に短い時間で変更されるより密度の高い部分に移行し、最後には総奏フォルテの音符の一番細かい華やかなクライマックスに到達して、楽曲を終える。ガブリエーリにとってはこのようなタイプの曲で性格を異にする物がカンツォーナとソナータであった。

教科書お奨め作曲家
ジョヴァンニ・マリーア・トラバーチ(c1575-1647)
ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616-67)
タルクィーニオ・メールラ(c1594-1665)

ソナータ(伊)sonata

・イタリア語の「鳴り響く」の意味から来ているこの言葉は、カンツォーナ・ダ・ソナールの最後の言葉と同じで、要するに器楽曲一般を指す言葉に過ぎなかった。その曖昧性は非常に長い間継続するものの、次第にソナータは新しい言葉として人々の心を解きほぐしていった。ジョバンニ・ガブリエーリのカンツォーナとソナータ集(1615)では声部や書法上の違いというより、「タータタ」の明快なリズムで初めからはっきりした動機を打つ明快なタイプがカンツォーナと呼ばれ、より穏やかな調子で開始し次第に変化を付けお送りする楽曲がソナータと呼ばれているに過ぎないのだが、17世紀初頭を過ぎると各声部を均質に作曲して全体の調和を保つルネサンス的作曲スタイルに対して、少数の主役を演じる楽器による主旋律とそれを支えるベースによって旋律の自由な飛翔を可能にしたモノディスタイルが取り入れられた新しいタイプの器楽曲が現れて来たのである。1602年に完成したロドヴィーコ・ヴィアダーナ(c1560-1627)の「100の教会コンチェルト」に含まれる器楽曲の中には声の代わりに楽器を使用したモノディースタイルのカンツォーナなどが含まれていた。このタイプの新しい器楽スタイルはイタリアのヴァイオリン隆盛の開始と手を取り合いながら急速に発達し、タルクーニオ・メールラ(c1594-1665)の「教会および室内用のカンツォーナまたはソナータ」(1637)では通奏低音に乗せて器楽曲ならではの分散和音や音階演奏が声楽を離れ器楽に適した書法を獲得している。この17世紀前半にはガブリエーリのような4声部書法による合奏型カンツォーナやソナータが、通模倣様式器楽曲から脱却しモノディーと通奏低音の影響で変質はしたものの、均一的声部書法を多く残し4声部する楽曲として引き継がれて作曲され続けた一方で、次第に通奏低音のベースラインの上でモノディーの歌のように独奏や2重奏を繰り広げるような新型の曲にもカンツォーナやソナータの名称が与えられていった。それは丁度ルネサンス的マドリガーレがバロック初期の通奏低音によるモノディスタイルを取り入れた新しいマドリガーレに到着したのを後から追いかけているようなものだった。新しく変容したマドリガーレがここにいたってジャンルとしての使命を終えたように、カンツォーナも新しい書法を獲得したしばらく後にジャンルとしての使命を終えることになる。しかしソナータの名称は、言葉の意味がほとんどあらゆる器楽曲に対応できるほど大ざっぱなため廃れることなく使用され、やがて抽象的な器楽主題による楽曲を、特に2本のヴァイオリンと通奏低音のためのトリーオ・ソナータの事をソナータと呼ぶようになっていった。そうなる前の初期のカンツォーナとソナータは4声部書法によるものであれ、特定旋律の為のものであれ、アレグロの旋律線を重視した的部分と、和弦的な速度の遅い部分の交代からなる多節形式の作品だったが、17世紀半ばに速度の遅い部分に、緩やかな旋律に乗せて叙情的な旋律を歌い己惚れる繋ぎ以上の意味が与えられるようになり、アレグロ部分がバスを含めた旋律線の絡み合いを重視した作曲スタイルで洗練されると、独立した楽章によるソナータも誕生したとかしないとか。この例はジョヴァンニ・レグレンツィ(1626-90)の「教会ソナータと室内ソナータ第2巻」(1656)やジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィターリ(1632-92)の「トリオ・ソナータ集作品2」(1667)に見られ、ヴィターリの作品では後に教会ソナータ(ソナータ・ダ・キエーザ)の名称で呼ばれる「緩-急-緩-急」に場合によって楽章を付け加える形が見て取れるというが、果たしていかに。

教会ソナータ(ソナータ・ダ・キエーザ)

・サン・マルコ大聖堂での器楽曲の例を見れば分かるように、ソナータやカンツォーナは教会で器楽曲として産声を上げ、教会で演奏されるものとして発展を遂げた。この器楽曲上演の場所としての教会の役割はバロック時代に入っても変わらず、特にバロック初期に何の断りもなくソナータと記入されていれば、それは教会ソナータの事だった。この伝統は長く続き、次第に宮廷での舞曲組曲としてのソナータが誕生した後のコレッリのトリーオ・ソナータの出版作品群でさえ、舞曲ソナータにはソナータ・ダ・カーメラと書かれているが、ソナータ・ダ・キエーザ(教会ソナータ)という記述は見られなかった。

ヴァイオリン

・ついでに隆盛を開始したヴァイオリン音楽についても見ておこう。ヴァイオリンは1610年頃バロック時代の到来と共にイタリアで合奏音楽の主導権をヴィオール属から奪い始めたが、ジョヴァンニ・パオロ・チーマ(c1570-1622以降)の「教会コンチェルト」(1610)の中には6曲のヴァイオリンのための楽曲があり、今日ではもっとも早い通奏低音上のヴァイオリンソナータの例として上げられている。1629年に出版されたビアージョ・マリーニ(c1587-1663)の「2本のヴァイオリンのためのソナータ」op8よりもそのような器楽のモノディの最初期の例で、この作品8に置いてマリーニは調弦を普通とは異なる音程で行なうことによって普通出しにくい重音などをたやすく演奏するスコルダトゥーラの技法を導入し大きな影響を与えたそうだが、この方法はすでにカルロ・ファリーナ(c1600-c40)が初期の標題音楽である「カプリッチョ・ストラヴァガンテ」(1627)の中で数多くのヴァイオリン技法と共に導入し、モンテヴェルディもマドリガーレ集8巻の中の「タンクレディとクロリンダの戦い」(1624)の中でトレモロとピチカート奏法で戦いの激しさを表わすなど、次々に演奏技法が生み出され、彼らの他にもフォンターナなど多くのヴァイオリニスト達が、新しいヴァイオリン音楽と技法を生み出し、時にソナータという名称を与えながら作曲を行なった。音域も急激に拡大し、マルコ・ウッチェリーニ(c1603-80)の「ソナタまたはカンツォーナ集作品5」(1649)には第6ポジションまで使用するようになっていたので、イタリアの音楽理論家ジョヴァンニ・バッティスタ・ドーニ(1595-1647)は目を丸くして1640年に「ようするにです、ヴァイオリンはリュートの甘さも、ヴィオールの優美さも、トランペットの力強さも、そのほか多くの楽器の特徴のすべてを表わしうるのです。もうすでにです。」といった内容のことを叫んでしまった。こうしたイタリアのヴァイオリン流行はすぐさまドイツにも荒波となって押し寄せ、やがてハインリヒ・イグナーツ・フランツ・フォン・ビーバー(1644-1704)の「秘蹟ソナータ(ロザリオ・ソナータ)(秘蹟スコルーダは誤り)」(c1676)のようなスコルダトゥーラを駆使した名作が生まれてくることになる。一方フランスやイギリスではヴィオール属の幾分くすんだ味のある響きが長い間好まれていた。

変奏曲

 ルネサンス後期に栄えた鍵盤楽器での主題と変奏による楽曲はますます持って栄華を誇り様々な名前を持ってのさばりだした。例えばパッサカーリア(伊)passacaglia、シャコンヌ(仏)chaconnne、コラール前奏曲、パルティータ(伊)partita、コラール・パルティータなどが上げられるが、パルティータという言葉もこの頃は組曲ではなく変奏曲を指し示していた。

シャイトの「新譜表(ラ)タブラトゥーラ・ノーヴァ」1624

・沢山のコラール旋律に基づく作品群の中でも極めつけの曲集の中に、コラール変奏曲(パルティータ)の形を見つけることが出来て嬉しい今日この頃だが、彼のコラールの扱いには声楽のモテット風なものと、今あげたコラールパルティータの用法の他に、コラール主題がフーガ風に開始し各種対位法を駆使して大楽曲を形成するコラール・ファンタジーアがある。もちろん先生だったスウェーリンクから学んだファンタジーの技法をさらに発展させたものだ。足鍵盤には2本独立した旋律を同時に演奏するダブル・ペダルの技法さえ取り入れて見せた。

スウェーリンクの有名な変奏曲として

・忘れちゃいけない俗謡に基づく変奏曲「私の青春は遠の昔に行き過ぎて」がある。疲れてきたから脱線してその歌詞でも乗せておく。

「あっちの青春行き過ぎて」
あっちの青春が過ぎゆくよ。喜びも、こりゃ、悲しみも。
あっちの魂草臥れて、そろそろ体とさようなら。
命も長くは続くまい、春夏過ぎて秋が来た。
はかなく過ぎる人世に、何が未練のあるものか。
思ってみても、悲しいな、流れてもうすぐ冬が来る。

・・・君、全然歌詞が違うって。

舞曲

 ルネサンス期に見たように、上流階級の嗜みである数多くの宮廷的舞踏用の器楽合奏は、16世紀初頭楽譜印刷が成される頃には即興ではなく作曲されることが増えたが、それと同時に実際の舞踏音楽ではない舞踏音楽を様式化した舞踏器楽曲がジャンル化され大量生産されるようになった。こうした舞踏器楽曲では遅い舞曲と速い舞曲のペアが一組とされることが好まれ、イギリス好みのパヴァーヌとガリアルド、イタリアお気に入りのパッサメッゾとサルタレッロなど様々な曲が出版された。フランスでもバレ・ド・クールに貴族一丸となって踊り狂う精神はバロックに入ってますます高ぶり、クーラント(仏)を中心にアルマンド(仏)やら、サラバンドが踊れられ、やがてメヌエットやガヴォットも顔を見せ始めた。専門のダンサーも登場し、1680年代には女性のダンサーも誕生。後にヘンデルはフランスのバレリーナであるマリ・サレを雇ってオペラに出演して貰うことになる。こうして舞踏が盛んになるにつれ、舞踏のリズムを使用した鑑賞用の音楽作品が、一つのジャンルとして定着するようになっていくが、これには最終的にドイツで好まれた高度に様式化された舞曲的特徴を持つ多楽章形式の組曲と、フランスで自然に誕生した各種舞曲を調性で統一して自由に配列した舞曲組曲になった。

組み曲

・ルネサンス時代からパヴァーヌとガリヤルドやら舞曲が流行を極め、16世紀の鍵盤曲や弦楽器の為の様式化された舞曲では速度と拍子の異なる2つの舞曲をペアにするようになっていたが、フランスで様々な舞曲を器楽組曲にして演奏するになったバロック初期、ドイツではパウル・ポイエル(1570-c1625)が「4声部のパドヴァン、イントラーダ、ダンツおよびガリアルダ」(1611)を作曲、同じテーマをそれぞれの舞曲リズムで変容させ統一性を保った。これを引き継ぐように異なる舞踏曲をひとまとめにして「調性と発想に置いて、緊密に呼応させる」方法で作曲したヨハン・ヘルマン・シャイン(1586-1630)が「音楽の泉(伊)バンケット・ムジカーレ」(1617)を作曲、「パドゥアーン、ガリアルド、ク-ラント、アルマンド、トリプラ(アルマンドの3拍子による変奏)」の配列による20曲の組曲を生み出したが、すでに実際の舞踏のためではなく、耳で楽しむ器楽曲としての様式化が大きい。かつて初めと最後の主調部分に関連性が薄い3部形式だった形式も、次第に2部形式が一般化していった。こうした影響と、フランスでクラヴサン奏者達が舞曲を組にして演奏しているのに接したヨーハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616-67)は鍵盤楽曲の組曲として「アルマンド、ジーク、クーラント、サラバンド」の4つの舞曲の組み合わせを基礎に組曲の作曲を開始、後に配列が変わってバロック後半の「アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーク」型に定着していくことになったが、一方合奏音楽の方でもヴェネツィアで活躍していたドイツ人のヨハン・ローゼンミュラー(c1619-84)が1667年に11曲からなる「室内ソナータ(ソナータ・ダ・カメーラ)集」を出版。ヴェネツィア派のオペラで使用されていた序曲を冒頭に付け、「シンフォニアーアルマンドークーラントーバッローサラバンド」の配列で作曲を行なった。もちろん出版はヴェネツィアでなされ、器楽合奏の舞曲組曲がイタリアに広まる原動力となった。

フランスのバレから生まれた曲

・フランスではかつてブルゴーニュ公国やイタリア宮廷で栄えていたバレを取り入れ1581年に「王妃のバレ・コミーック」を上演してバレ大国にのし上がったが、バレ音楽を純な器楽曲に編曲している内に、バレ内で使用される舞曲達の特徴的な語法が模倣され、様式化された舞曲的器楽曲を生み出した。特にリュートが大流行を見せて舞踏曲のリュート編曲ものが頻繁に演奏されたため、その影響が続いて鍵盤楽器語法の中に取り入れられた。リュートの短い修飾音(アグレマン)が鍵盤に移され、鍵盤のように同時に複数の音を進行させられないリュートが生み出した必殺技、一本の線でも異なる声部を持っているように見せかけるスティール・ブリゼ(断続様式)も取り入れられていく。

リュート音楽
・フランスでのリュート音楽の繁栄はエヌモン・ゴティエ(1575-1651)を越えドニ・ゴティエ(1603-72)の「神々の修辞」でクライマックスを迎えた。

一方鍵盤音楽家
・ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール(1601/02-1672)がお父つぁんとしてフランス・クラブサン楽派を生みだしたが、すでに彼の作品の中に後に組曲化されるアルマンド、クーラント、サラバンド、ジークといった舞曲がすでに実際の舞曲から離れた様式化の傾向を交えて、スティール・ブリゼの用法も見て取れる。その流れからルイ・クプラン(1626-61)、ジャン・アンリ・ダングルベール(1635-91)、エリザベト=クロード・シャケ・ド・ラ・ゲール(1666/67-1729)、フランソワ・クプラン(1668-1733)が連なっているが、すでにアルマンド、クーラントなどの組曲を調性で結びつて組にするようになっていて、フローベルガーを待つまでもなく、フランス人にとってはそれが完成された組曲に他ならなかった。

改めて鍵盤楽器による組曲

・フレスコバルディの弟子でヴィーンのオルガン奏者を務めたヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616-67)がシャインを意識してか、実際の舞踏よりも様式化された器楽曲としての演奏効果を目指した組曲を組織し、フランス様式の舞踏組曲をドイツに紹介する意味合いも兼ねて、「アルマンド、ジーク、クーラント、サラバンド」の新しいタイプの組曲をお披露目してみたら、彼の死後ジークとサラバンドの位置が逆になってお陰で大流行をもたらした。そのうちこの4つの楽章は定型化されたものとして把握され、代わりに新しい試みは、冒頭にプレリュードやウヴェルチュール(フランス風序曲)を置いたり、途中に別の楽章を加えることによって一層拡大された。そんなバロック後期の組曲の生みの親にもかかわらず、フローベルガーのおすすめ一番曲は組曲ではなく、アルマンド型で書かれた「皇帝フェルディナント3世の死を悼む哀歌」である。

即興的な曲ートッカータ

 素早い即興的パッセージに溢れたトッカータはルネサンス後期にクラウディオ・メールロ(1533-1604)が高度に組織化し、例えばフーガ的動機導入による十全対位法的部分と即興的部分の交替によって楽曲を構成するような大楽曲の形式が生み出されたが、このジャンルは特にジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)のトッカータ集によって芸術性を増した。彼はトッカータ演奏の際に部分的に演奏しても良いし、拍子に捕われず演奏家のイマジネーションにテンポが委ねられるべきだと考えていた。楽曲は全部のパートが対等の絡み合いを演じるルネサンス期対位法声楽曲的な部分と、特定声部が即興で素早いパッセージを奏でるのを和声的に支える即興演奏部分が交互に繰り返されるが、即興パートは多くが最上声で、また右手と左手の2重奏的即興パッセージになることも多い。このような部分ではテンポは自ずと大きく変化する事になる。フレスコバルディは聖ピエトロ大聖堂のオルガン奏者として活躍すると共に、多くの弟子を育てドイツ人のヨハン・ヤコブ・フローベルガー(1616-1667)がオルガン音楽に華やぐドイツに帰って数多くのトッカータを作曲した。彼も自由即興的部分が対位法的展開による部分を挟むトッカータを多く残し、後のブクステフーデに見られるようなトッカータとフーガが非分離に繰り返される楽曲の手本となった。

2005/01/18
2005/02/05改訂

[上層へ] [Topへ]