初期古典派の声楽曲・器楽曲

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歌曲

リート

・18世紀も後半になるに従って声楽曲にも新しい潮流が起こった。次第に開催地の増える公開演奏会では、コンサート形式の歌曲がレパートリーに取り入れられ、一方ステータスのために費やすだけの時間と資金を持ち得た一部の都市市民階層は次第に自分達の嗜みとして、趣味として音楽を習ったり演奏したりする事が増えていく。そうした中で、アマチュアの人々が集まってアンサンブルに興じる機会も増加した。すでに上層貴族層のボックス席の収入で一般チケットを遙かに上回る資金を回収できるようなヴェネツィアオペラの形態では1637年から公開劇場が開始できたが、やがて劇と結びつかない歌やオーケストラの公開演奏会も大都市で採算がとれるように成り始める18世紀中期以降、それに合わせて公開演奏会を見物出来るほどの一角の市民達の間にも巷の歌以上の音楽が広く浸透し始め、例えばアマチュアの楽器奏者達が集まってオーケストラを結成する事もあった。バッハの指揮したコレーギウム・ムージクムは学生達のアマチュアの合奏団体だったが、音楽学校が整備される前、大学に行く事が出来かつ音楽に興味を持つ学生などは、各地で同種の学生オケを結成し、そこには音大があったら入るようなプロの予備軍が活躍していたのだ。現にセバスチャン・バッハは息子達を大学に行かせるためにケーテンを離れてライプチィヒ行きを決意したじゃないか。音楽で活計を立てるにしろ、大学行きは出世の重大事となり、しかも音大は無いとなれば、音楽家の卵達が偉大なライプチィヒ大学などに集まってくるのは当然だった。しかしさらに時代が下って、次第に音楽大学などが組織され初め、一方より多くの人々が趣味で音楽に手を出し、同時にオーケストラの技術がアマチュアを寄せ付けない傾向を見せ始めると、一般の好事家のためには輪唱や合唱などお手頃な遣り方も盛んになり、19世紀初めには今日忘れられた数多くの市民参加を見越したオラトーリオが作曲されるほどに声楽曲が華やいだ。こうしたロマン派に続く大きな流れの中で、次第に歌曲が重要なジャンルとして見なされるようになり、作曲家の目を引く頃には芸術的なジャンルとして独り立ちした。これらは昔から民衆が歌っていた地元の歌の芸術化の側面を持ち、オペラの曲とは違いそれぞれの国で独自の様式を獲得し、ドイツのリートやフランスのメロディーなどが生み出されていった。
・イギリスではすでに16世紀以来、酒を飲みながら歌う輪唱の「キャッチ」や、後に乞食オペラでバラッド・オペラとして旋律が取り込まれた民衆的流行歌であるバラッドや、17世紀に生まれた男性3声で歌う「グリー」など様々な市民的音楽がいち早く、音楽史に登場する形で作曲家達によって取り上げられたし、フランスではルソーなどがフランスとイタリアの民謡を採取して、バルトークやコダーイの遙か前に土着伝統の発掘に乗り出したが、民謡的音楽の発掘と芸術歌曲の誕生はそこかしこで竹の子見たようにニョキン出て来た。(急に投げやりになる。)こうしてフランスではロマンスが生まれ、やがて民謡の出版楽譜も出回った。
・特にドイツのリートは殊の外芸術的高みに登り始めた。初期のリート集である「プライセ川のほとりで歌うラムーゼ」は既存の旋律に基づく簡単な和音を付けた歌曲集だったが、18世紀中頃になるとベルリンを中心にクヴァンツ、C・H・グラウン、C・P・E・バッハらが活躍し、CPEは1758年にクリスチャン・ゲレールト(1715-69)の集めた「宗教的頌歌と歌曲集」に曲を付けた。やがてヨハン・アーブラハム・ペーター・シュルツ(1747-1800)ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルト(1752-1814)とその娘ルイーゼ・ライヒャルトらが現れリートを作曲。彼らの作曲方法はデクラメーションに従った歌の旋律を邪魔しない和弦的な伴奏によって、歌詞の意味の把握を重視したが、これはゲーテが理想と考えた歌詞の内容を尊重し、しかし決して歌詞を踏み越えないすぐれた作曲法だと思われていた。しかし19世紀初頭にシューベルトらが現れると、伴奏による特徴的な性格付けや和声変化などによって、音楽自体の力を借りて、詩だけでは掘り起こせない情感に聞くものを導くようなロマン派のリートが誕生した。ゲーテはこのような遣り方に非常な不快感を示しシューベルトを評価しなかったが、これによってゲーテを「ロマン派と呼ぶには、あまりにもお優しすぎるように御座いますな」と嘆くことは出来ない。実はそこには非常に難しい問題が内包されているからである。すぐれた詩には音楽無しで朗読された時に、それ自体リズムと韻と構成を持つ完成された様式があり、それ自体で情感を揺さぶるものだから、音楽に乗せられた詩は、オペラが本来どちらも独立して成り立つ劇と音楽とを混合させた為に引き起こしす様式上のある種の不完全性と似た、ある種の問題を引き起こす。今日ではもっぱら歌われる形か、あるいは黙読する形で詩に接する事が多いため気にする人が少ないかもしれないが、ゲーテにとっておそらく自分の詩は、音楽を意識して書かれた場合でも、それ自体朗読で完全な形式とリズムを持ち感動を与えるものだったから、音楽の方が詩を乗り越えてまで聞き手の情感を右に左に突き動かすことには我慢が出来なかったのかもしれない。いずれモーツァルトの歌曲には比較的単純な伴奏が付いているが、同じ単純な伴奏型でベートーヴェンが「遙かな恋人へ」作品98を作曲し、歌曲を連作もの(リーダークライス)にして提出する頃には、単純な伴奏のリートを声と器楽の融合による芸術的ジャンルに導いたフランツ・ペーター・シューベルト(1797-1828)が現れ、ついでにそれまで長ったらしい繰り返しだったバラードも高度に芸術的な様式にして送り出す頃、その後のロマン派の皆さんは驚いてこれに付き従ってしまったのである。(だんだん、力尽きて、手抜きになってきたな。)

コンサート用歌曲

・一方演奏会用の歌曲も大いに盛んになった。これは特定の歌い手の技を披露すべく入念かつ技巧的に仕立てられた幾分娯楽的な作品で、モーツァルトの「コンサート・アリア」などがよく知られている。「劇唱(シェーナ)」のようにオーケストラと声のためのジャンルもあり、ハイドンの声楽とピアノのためのカンタータ「ナクソス島のアリアドネ」のような劇のような進行を持つ歌曲も作曲された。

教会音楽

 合理主義精神が宗教のよりどころだった「神だけは知っていらっしゃる」的な世界観を打ち破っている間に、フランス革命時の共和政府はとうとう旧来の神を偽物だと廃して、人々の心のよりどころのために暫定的に「最高存在」という曖昧なものを讃える祝典を催すまでに至ったが、自分達の存在について苦慮する思想界の人々は「意味も神もどこにもありゃしないし、同時に何者でもない」という空っぽの自分が定義されるのを見て心底恐れ、「がたがたぶるぶる」震えてはおののき、18世紀に入ると大いなる反動で新しい宗教を定義しようと苦心した。しかし、一般の人々にとってはむしろ、そんな「がたぶる」はお構いなく、神の存在やら宗教やらに関わる時間が減ったことによって、社会は世俗的傾向を強めていった。ロマン派時代には新しい宗教的回帰が芸術運動を通じて繰り広げられるが、全体的な世俗的社会傾向とは関わりが薄かった。
 もちろんこれは程度の問題で、19世紀が20世紀ほど宗教心をないがしろに出来た訳でもないし、一方今日でも何らかの宗教心を持って居る人は沢山存在するし、音楽語法が世俗語法と変わらないからと言って、そのことが作曲家の心に神が居なくなっていた事にもならない。にもかかわらず、初期バロック以上の世俗精神によって最新作曲技法で送り出された教会音楽は、詩の内容以外はほとんど世俗曲と何も変わらなくなってしまい、古典派に入る頃には教会の中で最上の作品が生み出される機会は大分少なくなった。丁度18世紀末から19世紀に入る頃、教会の方では次第に本来の典礼に立ち返るために、特に続くロマン派の時代には世俗曲と変わらない大楽曲を閉め出す傾向が強くなっていくが、これは保守化と云うよりトレント公会議の精神の大分遅れた完成なのかもしれない。だってハイドンやベートーヴェンのミサ曲は、今日教会で演奏されていても、やっぱり教会には不似合いな気がする。正確に言えば礼拝的精神(東西を問わず)は主観性に訴え日常情感を揺さぶるのとは正反対の、もっと穏やかな瞑想の方が相応しいはずで、例えば、日本の仏教関係者だって古典派の宗教曲よりは、グレゴリオ聖歌の方が遙かに宗教心に満ちていると認識するのではないだろうか。おそらくそうした認識もあって、行き過ぎに対する非難もあって、お里帰りを果たす教会に対して、音楽の方は教会に依存する必然性が全くなくなっていた。
 いずれ多くの作曲家達の作る宗教的作品の教会用の音楽は、世俗用音楽に対して次第に減少し、ハイドンやモーツァルトはおろかシューベルトにも多くのミサ曲が存在するが、ある曲は演奏会用の合唱曲として教会を離れたり、ドイツではアマチュア合唱が盛んになったこともあり大人数で演奏するオラトーリオに生き甲斐を見いだし始めたし、これはヘンデルのオラトーリオ伝統の生きるイギリスでも同様だった。ここでは作曲家達は、宗教心を呼び起こす敬虔さを込めた客観的瞑想に至り心を静め神に対峙する音楽の代わりに、合唱とオーケストラで巨大な祝祭を演じ日常的な喜怒哀楽に訴えて感情を高ぶらせ、神を題材にした崇高な世俗曲として作曲を行なった。すでに19世紀末まで人気を保ったカール・ハインリヒ・グラウン(1703/4-59)「イエスの死」(1755)は、オペラ的なダ・カーポ・アリアに満ちあふれ、日常的な情に訴えるセンチメンタルな作曲法になっているそうだ。

イタリア

・カトリックの殿堂イタリアでは各種教会やヴェネツィア孤児院などで引き続き宗教音楽が作曲され続け、今日演奏会場に登場しない膨大な宗教曲が眠っているが、オペラ自体の復興同様これから蘇ってこないと、何とも言いようがないそうだ。レント期間のオラトーリオ演奏や宗教曲演奏は19世紀まで無頓着に引き継がれ、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニなど多くのオペラ作曲家が宗教曲を書いている。ロッシーニによる1820年の「栄光ミサ」は世俗的だとして後に教会から叩きのめされた。確かに世俗的は世俗的だ。

フランス

・宗教音楽の伝統は18世紀後半大きく下降し、革命によって打ちのめされたが、そうなる前「コンセール・スピリテュエル」などでは宗教音楽が演奏され、ハイドンの「スタバート・マーテル」ももてはやされていた。教会内での宗教音楽はジャン・フランソワ・ルシュウール(1760-1837)が改革を目指したが、反対派に追い出されたので結局オペラに走ってしまったのは象徴的だとか。もはや教会内で音楽の革新は出来ないものか、ため息一つ旅立つ彼は伝統ハーモニーに教会旋法やギリシア旋法に対する自分なりの解釈を加えて作曲を行ったが、彼の考えは弟子のベルリオーズやグノーを通じて19世紀フランス音楽に影響を与えるのだった。

イギリス

・イギリスにおいてはルネサンス同様の保守主義と、ハンドル氏が晩年に獲得したオラトーリオの名声により、教会音楽のバロック様式がしばらく生き残っていたし、教会音楽の活力が長く生き残った。国教会の要請に応じてアンセムや賛美歌といった短めの曲が沢山残され、ウィリアム・ボイス(1710-79)、モリス・グリーン(1696-1775)、ジョン・スタンリ(1713-86)、チャールズ・エイヴィスン(1709-70)や、バッハの作品をイギリスに広めたサミュエル・ウェズリ(1766-1837)、神童モーツァルトのイギリス版を少年期に演じきったという噂のあるウィリアム・クロッチ(1775-1847)などが活躍した。

ドイツ、オーストリア

・ミサ曲、カンタータ、オラトーリオ伝統から1つの通常文を単一楽章で構成し、ソロとソリストの掛け合い、合唱、オーケストラからなる十全なミサ曲が誕生したこの地域では、交響的ジャンルの宗教編でありオーケストラ付きの大規模声楽曲の最高ジャンルとしてのミサ曲は典礼曲と言うより、作曲家の挑戦すべき大作品として多くの作曲家に取り上げられていった。

器楽曲ーソナータ、交響曲、協奏曲

 特にこの時代以降、幼少より音楽的趣味を鍛え抜く貴族達の宮廷やサロンから、公開演奏に顔を見せ楽譜を購入する市民階級の市場原理に音楽家の活動の場が次第に移行していった。しかし市民階級といってもそれは貿易や商業などで財力を持った上層市民と、社会システムの中である程度の余剰財力を保ち趣味を文芸に生かすことの出来る新しい中産階級と、数多くの下層市民との生活水準の差は非常に大きく、一方でフランス革命を見れば分かるように、啓蒙主義の時代を通じて次第に新しい価値観を持ち始め官僚などの地位で勝ち組となった貴族達、貴族の権利を買い取り貴族と名乗れるようになった財力を持った上層市民は、反感を持ちながらも結局のところ類似の社会階層として価値観を共有し始めた。大資本家である彼らは、すすんで邸宅に器楽演奏家を抱えていたし、こうした社会上層を形成する人たちの中には大衆的で俗的でないもの、より難解で複雑な芸術を理解し擁護する人々も多く存在した。一方自ら楽器を習っている内に娯楽以上の芸術作品を理解しファンになる人々も生まれ、また著述活動で人々を導こうとする多くの知識人達も芸術的作品を擁護し、より高い作品に一般人を導こうと目論んだ。こうして俗的で安易な楽曲がもてはやされ大量生産され、サーカス芸的な名人芸が拍手喝采を浴びる一方で、進んで複雑で芸術的だとされる作品と作曲家を理解し擁護するグループが居たことが、大量の器楽曲を生み出しながら娯楽とは名状しがたい手の込んだ器楽曲とその発展を支えることになった。
 18世紀の間、例えば啓蒙主義者達はフォントネル「ソナタよ、ソナタは私に何を渡して何を語りたいのか、私にはさっぱり分かりません。」と言ってからかったが、言葉のもたらす論理性によってすべてを明らかにする啓蒙主義者達にとっては、言語の無い器楽曲は意味を明確に伝えることの出来ないもの、つまり言語付き音楽より劣ったものだと考えられていた。それにも関わらず、器楽曲はますます聴衆の支持を得て、バロック時代を抜ける頃にはすでに続く器楽曲の隆盛を約束されているように思われた。E・T・A・ホフマン(1776-1822)「器楽だけが特別なのです。器楽だけが何の手助けもなく、純粋に音楽を表わし、器楽だけが、言葉で説明する感覚ではない、表現不可能なものを提示しうるのです。」と言い、ショーペンハウアー「理性言語で言い表すことの出来ない事を表現しうる、気高い世界言語に乾杯だ!」と叫ぶロマン派の精神は、古典派の器楽作曲家が思想界などお構いなしに実践した数多くの業績に、思想家達が追随しただけのことだった。
 古典派の時代、特に前半は様々な器楽曲のパターンが模索され、ジャンルも流動的で、例えば娯楽的な小規模オーケストラの為のセレナードや、カサツィオーン、ノットゥルノ、ディベルティメントなどのジャンルは作曲家にとっては何でも構わない名称では無かったが、その表わすものは曖昧だった。弦楽器だけのアンサンブルも初めは3重奏の方が優位であり、今日定番化されてお馴染みの、ピアノ・ソナータや4楽章のシンフォニー、弦楽4重奏の定番化などや、楽章の書法としてのソナータ形式などは古典期を通じて模索され発展した。したがって、古典派の音楽について、古典派の定型から逸脱したものだと感想を述べるのは安易に過ぎるかもしれない。

鍵盤音楽

 18世紀、上流階級の多くの家庭にはチェンバロが家具を兼ねて鎮座して、お嬢さんが鍵盤楽器を嗜むのは彼らのマナーのようにさえ思われていた。より慎ましい生活を送る家庭にさえもクラヴィーアが置かれていたが、これは18世紀半ば以降次第にピアノに取って代わり始め、19世紀になるとピアノを習わせることがステータスにさえ思えてくるほど、流行を極めることになる。この傾向は連続的に今日まで続いていると言えるかもしれない。
 ピアノは1700頃にクリストフォリが自らフィレンツェに持つ制作工房で「チェンバロ・コル・ピアネ・フォルテcembalo col pian'e forte(伊.強弱の付けられるチェンバロ)」を作成し、弦を鍵盤に連動するハンマーで叩いて音量を変化できるようにしたのが始まりで、1730年代にはドイツのオルガン製造で有名なジルバーマンも改良を加えた楽器を制作している。当初はバッハから「ジルバーマン、お前はもっとその楽器を学ばなければならん」と言われるほど、未成熟な部分を残す楽器だったが、1770年代以降になると、鍵盤楽器の主役としてのチェンバロとピアノの入れ替わりが目につき始めた。その頃出版された多くの鍵盤曲は、どちらの楽器でも演奏して差し支えのないものだったし、例えピアノの為に作曲したとしても出版するときには「ピアノまたはチェンバロ用」と記入しなければ売り上げに影響があると思われたので、ピアノで弾いて欲しいであろうベートーヴェンのピアノ・ソナータでさえ、チェンバロでも演奏できますの記述が書き込まれて出版された。一方イタリアでは、オペラのチェンバロレチタティーヴォの伝統が継続され、18世紀に入ってもかなりの間チェンバロが使用され続けている。しかし多くの国々ではピアノの隆盛を妨げるものはなく、ピアノの勢力拡大と合わせるように、鍵盤楽器や交響曲におけるソナータ形式と呼ばれるやり口が次第に形を整え、後のロマン派の人々から一つの定型と見なされるようになっていく。

ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757)

・アレッサンドロ・スカルラッティの息子として、奇しくもバッハやヘンデルと共に生まれ、没年も3人そろって50年代なドメニコは、もっぱら新語法の紹介の為に使い勝手が良いため、前期古典派の章で紹介されることが多い。1701年に父親が宮廷楽長として大活躍するナポリ宮廷の礼拝堂オルガニストに就任した彼は、1703年には「オッタヴィア」でオペラ作曲家としても活動を開始、やがてイタリア中を武者修行宜しく練り歩くと、ドイツから武者修行に乗り込んできたヘンデルと出くわし、オルガンやチェンバロの競演をしているうちに友人となった。1709年からはローマに来ていたポーランド王妃の為に仕え、数多くのオペラを上演。1713年からはジューリア礼拝堂の楽長にまで出世し、「スタバートマーテル」などの宗教曲を書いている。1719年になると、ポルトガル国王に呼ばれてイベリア半島に渡ったスカルラッティは、宮廷楽長としてリスボンにある王宮で大活躍し、やはり数多くの教会音楽と世俗音楽に手を染めた。特に鍵盤をこよなく愛し達者に演奏なさる王の娘マリーア・バルバラとは親しい関係になり、彼女に鍵盤演奏を教えながら、次第に一連の練習曲を作曲し始めたと言われている。1824年と、それから28年には妻を貰いに、一時イタリアに戻っているが、マリーア・バルバラが後にスペイン王フェルナンド6世となる皇太子と結婚しスペイン王宮に入るというので、ご一緒に同行してマドリードに向かい、以後亡くなるまでスペイン王宮の鍵盤楽器奏者として活躍した。
・鍵盤以外のさまざまな音楽において、彼についてははバロック時代の中にイベリア半島の音楽家の章でも設けて、ヘンデルやバッハと共に紹介する方が、理に適っているようにも思えるのだが、ポルトガル王女マリーア・バルバラにハープシコードを教えながら作曲しただろうとされる500曲以上(ラルフ・カークパトリック(1911-1984)が付けた番号では555曲)もの練習曲(essercizi、エッセルツェーチ)によって前古典派の登場の合図とされているので、古典派の章に紛れ込んでいるらしい。おかげで他の作品群がすっかり日陰に追いやられてしまった。さてこの練習曲、一部は1738年の「チェンバロ選集曲集」として出版されているが、これらの作品の楽曲形式が

「単一楽章の2部形式による主題のはっきりしたソナータであり、後には2曲連鎖した2楽章の曲も見られるし、通奏低音的楽曲構成を離れてスマートな調性プランによって均整のとれたプロポーションを獲得しているのだから。」

という理由によって、主題と動機展開については古典派のような形式は見られないものの、これを持って前期古典派の鍵盤ソナータの開始の合図とされ、スカルラッティと云えば基本的に単一楽章の2部形式による楽曲だけを果てしなく作っていた鍵盤作曲家だと思われるようになってしまったわけだ。このような新しい鍵盤楽器の書法が、同時期のフランスクラヴサン音楽とどの程度関係しているのかは知らないが、イタリアで活躍するバルダッサーレ・ガルッピ(1706-85)や、ドメニコ・アルベルティ(1710-40)ドメニコ・チマローザ(1749-1801)や、ドメニコ・パラディエス(1709-91)などにも類似の書法が見られ、彼らは自由な2,3楽章形式によるソナータを作曲して、通奏低音や対位法書法から完全に離れた左手伴奏の右手旋律タイプの典型は、分散和音音型アルベルティバス(アルベルティがよく使ったとされた分散和音伴奏)に特徴的に現れている。調子の出てきたガルッピはとうとうロシアにまで出かけて音楽を広めてしまった。一方ロンドンでもスカルラッティの楽譜が出版されているから、ローズイングレイヴ(1688-1766)トーマス・オーガスティン・アーン(1710-78)はおろか、ヨハン・クリスチャン・バッハ(1735-1832)にも影響を与えはしなかっただろうか、と話が続くわけだが、ようするにスカルラッティが狼煙を上げたか、他の誰かが始めたのか、古典派に向かう新しい書法の傾向は、どこから始まったのかよく分からないのかもしれない。
 その後イタリアの鍵盤奏者達はイタリア喜劇の影響かアレグロなど早い楽章にも歌うような主題を投入し、次第に均衡のとれたフレーズによる主題が提示され、主題の性格あるいは動機を使用した経過を経て属調にいたり、属調の性格を変更するため主題を変形したり第2の主題を生み出したりしている内に、次第に属調から主調に戻ってはじめの主題を提示する部分が発展して展開部になったとか、ならないとか誤魔化しながら、フランスではクラヴサン音楽が廃れいつの間にやらドイツからショーベルトやヨハン・ゴットフリート・エッカルト(1735-1809)が押し寄せただとか、北方でもヨハン・クリスチャン・バッハ(1735-82)やヨハン・ショーベルト(c1735-67)、ヴィーンのモン(1717-50)やヴァーゲンザイル(1715-77)などが新しいタイプのソナータを作曲し、ロンドンに渡ったクリスチャンがモーツァルトのソナータの先生だと言われる頃には、1770年代に著述されたコッホの「作曲入門試論」(1793)も表わされソナータ形式の原理がしっかり理論化されているのだから、まあこの辺で完成としておこうというわけである。

カール・フィリップ・エマーヌエル・バッハ(1714-88)

・「クヴァンツ馬鹿のフリードリヒ2世にさようなら」とぽつりと呟いて、クヴァンツの曲ばかり演奏しては褒め称えるフリードリヒ大王のポツダム宮殿を離れ、1767年自分の名前を貰ったテーレマンの後継者足るべくハンブルクに向かったカール・フィリップ・エマーヌエル・バッハ(CPEバッハ)(1714-88)は、さっそく市内5大教会の監督と、商人組合アカデミーというアマチュア団体の演奏会の指揮を任され、今までの鬱憤を晴らすべく精力的に音楽活動を行なった。当時ハンブルクは詩人のクロプシュトックやホメーロスとシェイクスピアをドイツ語に翻訳したフォス、さらに「ラオコーンなどはどうせ覚えていないのだから」でお馴染みのレッシングなどが思想界をリードし、ドイツの文化的中心地の一つとして大いに栄えていた。CPEバッハも、すでに1753年に学習意欲に燃えるアマチュアのために記した「正しいクラヴィーア奏法試論」において、和音や通奏低音の仕組みから、修飾音の演奏方法まで丁寧に指導した教本を出版していたが、今やそのような教本を購入して音楽に接するような市民階級に向けて音楽を作曲するようになった。古典派のソナータを発展させる為に特に重要な役割を果たした彼の作風は、同時期のイタリアの鍵盤楽器などに比べて、主題内の動機の展開と対位法的声部書法がより多く 特に一つの楽章の短い間に対照的な楽想を多く盛り込み、ギャラントのシンメトリーを逆手に取ったようなリズムの変化や突然の休止、調性のやり直しなどで新鮮な驚きを与えつつ、旋律の情感と結びついた修飾音を加え、即興演奏的フレーズをソナータの中に導入、速度を変化させるルバート技法も織り込んで個性的な作品としたが、ソナータ形式の枠組みの中で構成しているために全体が引き締まっている。こうした作風は同様にソナータを書く同時代人たちに影響を与えたというより、ハイドンやベートーヴェンがソナータに今まで以上の意味合いを込めようと画策する上で有益な参考となったのかも知れない。

ソナータ形式

・後期バロックで圧倒的に好まれた2部形式の構図は、舞曲組曲だろうとソナータだろうと「前半→リピートで繰り返し→後半→リピートで繰り返し」の楽曲で、前半の最後で異なる調性、特に属調に移り、後半で属調から主調に戻って曲を終える方法だった。この場合、後半部分が冒頭の主題の変形や、類似型で開始されたり、同じリズムで異なる音型を生み出して後半を開始する場合もあったが、いずれにしても前半後半とも始まりの部分が楽節の頭であり、リピートの部分が結尾になっている。しかしやがて、他の調で開始される後半部分が主調に戻るのに合わせて、冒頭主題を回帰させる方法が登場し、全体の比重が大きく変化した。この場合、後半部分の主題が回帰するまではある種の発展的推移になり、一方主題が回帰した後は主調のまま前半部分を類似に再現する方がバランスが良く思われた。
 こうして短い中間部分を持つ「A-中間推移-A型」の楽曲が生まれ、もっとも重要な点は主題を別の調に移行させ、推移的不安定な状況を経る事によって、帰ってきた主題が楽曲に安定感をもたらす救世主として新たな様相を持って登場するということである。この際、さらに推移部分に変形された主題を持ち込んだり、主題動機とその変形を用い各種展開を行なえば、「A-展開的推移-A」の形になり、フリーデマン・バッハやC・P・E・バッハが好んで使用したソナータの形式になる。しかしこの場合前半部分Aは、最後に向かって他の調性部分に到達するように作曲されるため、後のベートーヴェンのソナータ形式ならば第1主題から第2主題に向かう推移までの役割を、前半部分Aが担っているが、第2主題は存在しない。後のソナータ形式では、「A-展開的推移-A」の前半であるAの部分自体が、2つの部分に分けられて、全体の構成が「AB-展開的推移-AB」となる。正しくは、第2主題の後に拡大された終止形がCの部分を形成するために「ABC-展開的推移-ABC」の形が完成されたソナータ形式の形と言えるかもしれないが、調性から見て属調領域に移行するBC部分は一つのまとまりとして話をすすめる。もちろんベートーヴェンなどはこれに最後のコーダを付けていっそう大きな形式にする場合があったが、このパターンの場合、第2主題が明確に有ろうと無かろうと、前半の中に存在する第2の調性である属調部分が、前半部分の主調部分と同じ比重を持つようになる為、中点を支えに両側を形成する「A-展開的推移-A」のような簡単な天秤とはバランス感覚がまるで異なってくる。天秤の両側2つ乗せられる重りの替わりに、その天秤の皿の上にさらに天秤が乗っているような、複雑な均衡を保つことになり、それ自身楽曲を構成しうる楽節同士を結びつけて、さらに大きな枠で括る複合形式が誕生することになる。したがって「A-展開的推移-A」タイプの作曲と「AB-展開的推移-AB」タイプの作曲には、本質的なイデオロギーの違いのようなものが見られ、平穏に順次発展を遂げたと単純に言いにくいものを感じる。いずれ、最後の段階ではソナータ形式は複合三部形式として、お馴染みの形で登場するのだが、誰か知識と根気の有る方が居たら、私のためにソナータ形式誕生の謎を解き明かしてください。

ソナータ以外のピアノ曲

変奏曲も数多く生み出され、ベートーヴェンのようにソナタ形式のようなある種の形式を変奏に持ち込んだ作品も生み出されたが、より多くは主題の後で絶えず新しく変化していくある種の開放感が覚えやすく分かりやすい主題旋律と共に多くの人に好まれた。またこの時代になると鍵盤用の「練習曲」が次第に市場に出回り初め、ピアノに適(かな)った様々な指の技法と音楽性を兼ね揃えた(つもりの)ダニエル・シュタイベルト(1765-1823)らの作品が知られていた。また、ベートーヴェンのようにある種のドラマ性を持たせるためにソナータ形式を活用することはせず、違ったフレーズを持つ性格の異なる楽節同士の場面の移り変わりを配置する道具として、おおよそのパターンが定まったソナータ形式を器(うつわ)として利用する作曲家も多く、7年間父親によってピーター・ベックフォードに貸し出されてイギリスに渡ったムッツィオ・クレメンティ(1752-1832)や、彼と親しいながらライバル関係を結んだヤン・ラディスラフ・ドゥシェック(1760-1812)などはその代表選手だが、クレメンティは今日練習曲「グラドゥス・アド・パルナッスム」でもっとも知られている。他にもマンハイムのヨハン・バプティスト・クラーマー(1771-1858)や、ドイツ系フランス人フレデリック・カルクブレンナー(1785-1849)、シューベルトとためをはれるという噂のあるイギリス人ジョージ・フレデリック・ピント(1785-1806)らが活躍し、ヨハン・ネーポムク・フンメル(1778-1837)はベートーヴェンの知人であった。実はシューベルトよりベートーヴェンより先に死んでいるカール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)もピアノソナータなどを残しているが、非常にロマンチックなものである。

小編成の室内楽

 弦楽4重奏は1790年以降公開演奏会でも演奏され始めたが、絶対優位な室内楽のジャンルにすらなっていなかったし、ヴァイオリンソナータなどは初期にはピアノソナータの旋律的添え物としてヴァイオリンが付いているようだった。パリではバロック時代のコンチェルト・グロッソの伝統がかいま見られるシンフォニア・コンチェルタンテ(協奏交響曲)というジャンルがあり、オーケストラと何種類かのソロ楽器が渡り合っていた。ベートーヴェンでさえヴァイオリン、チェロ、とピアノとオーケストラの為の「3重協奏曲」(作品56)を1804年頃になって作曲しているので、むしろ古典派の時代は様々な室内楽の模索から今日よく知られたジャンルが浮かび上がってくる時代に一致している。ジャンルの定型化は18世紀後半から19世紀初頭に掛け強まり、ロマン派時代には逆にそれに縛られることになった。
 当初バロック時代のトリーオ・ソナータの持つ3声部書法はバランスのよいものに思われ1780年代までヴァイオリン2本をチェロが支える3重奏は一般的な組み合わせの一つだった。その後になって和声の均質性と充実した響きを求めてより多くの弦楽器による室内楽曲が次第に多くなっていくが、弦楽4重奏はヴィーンで活躍するディタースドルフ(1739-99)やヴァンハル(1739-1813)、そして同じ頃作品20の弦楽四重奏を完成させ1774年に出版したヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)らが関心を示し、その後ハイドンが自らの作品33(1782年)で芸術的ジャンルに高めた後、モーツァルトが答え、ベートーヴェンがエマヌエル・フォルスター(1748-1823)の4重奏曲も研究しながらポンと手を叩き、これぞ俺様のためにあるマイ・ジャンルだと得心して数多くの作曲の実験の場としたことによって、結局後の時代の定番となった。しかし、彼の弦楽4重奏のパターンとは異なる協奏曲風の4重奏曲を書いていたマンハイムのフランツ・クサヴァー・リヒター(1709-89)など、後のように様式的に幾分硬直化したジャンルでは全くなかったのである。
 一方ハイドンと同時代のルイージ・ボッケリーニ(1743-1805)はハイドンを讃えすぎたため「ハイドンの妻」というあだ名を頂戴したが、彼は室内楽のジャンルでは夫であるハイドンの好みに対して浮気をして、チェロ2本を加えた弦楽5重奏を大量生産した。一方モーツァルトの方はチェロではなく、ヴィオラを2本使用した弦楽5重奏を書きこのジャンルにもすぐれた作品を残している。一方アントーン・ライヒャ(1770-1836)らは木管5重奏にすぐれた業績を残し、ピアノ付き室内楽ではロマン派を告げるホフマンや、ベートーヴェンを批判したルイ・シュポーア(1784-1859)、フリードリヒ2世の甥でナポレオンに打ちのめされた軍人作曲家のルイ・フェルディナンド(1772-1806)などが作品を書いている。こうして古典派時代を通じて弦と管楽器のための、弦とピアノのための、ありとあらゆる室内楽が生み出され続けた。
 また、好事家が交響曲やオペラをピアノ、ピアノと声楽、または小編成の室内楽で楽しむ為の出版楽譜が、数多くの編曲楽譜を生み出し、演奏会場用ではない室内楽音楽を生み出し始めたのもこの時期である。

オーケストラ

 特定の場所を除いて、18世紀の管弦楽団は1750年代を過ぎても規模は今日よりずっと小さかった。1760-85年のハイドンの管弦楽団が25人以上になることは滅多になかったし、1790年代になってもヴィーンの管弦楽団は普通35人を越えなかった。バロック後半から盛んになり始めた公開演奏会や、都市の催しのための演奏会などでは楽器のうまい大学生などアマチュアの演奏家も動員され、ベートーヴェンの交響曲上演の際には沢山のアマチュア演奏家がトラとして参加していた。それに合わせ、譜面には以前慣習で済ませていたことを事細かに記入する必要が生まれ、音楽に関心を示す市井人が増加すると共に通奏低音のような煩瑣な手続きは割に合わないものになった。上声の旋律が穏やかな和音変化に乗せて規則正しいフレージングを描く新しい作曲法が、絶えず和音を交代させリズムごとに出しゃばるチェンバロなどでの通奏低音を破棄すると同時に、誰もが理解しやすい記譜法としての合理性からも通奏低音の記入は廃れ、演奏されるべき音符はすべて記譜されるようになっていった。

管楽器の発達

・あったのさ(以下省略)

新しい編成

・弦中心に置き、それに弦に従属しないで活躍しうる独立声部の管楽器群を加える事が整備されていくと、次第に構造と書法に影響を与えつつ、やがてオーボエ2、ホルン2で、祝祭ムードではトランペットと、太鼓が弦楽器群に加わるのが一般化していった。またバスーンも1本加わりチェロパートを共に弾いていたらしい。オーボエが緩徐楽章でフルート、クラリネットに持ちかえることも行なわれ、1790年代にはクラリネットがオーケストラの正式メンバーになり始めた。ただしトランペットとホルンの出せる音程が限られ、トニック周辺しか演奏できないかったり、木管楽器も特に古典派初期には同様、遠い調では休んだり、旋律の一部を演奏せざるを得なかったりして、その効果的な使用方法は作曲家の腕の見せ所になっていた。これに対して、急速に楽器の改良が模索されていくのがこの時代である。

シンフォニー

 オーケストラ楽曲としてのシンフォニーは、ドメニコ・スカルラッティのお父上アレッサンドロ・スカルラッティがナポリオペラの特徴的な開始序曲であるシンフォニーアを編み出したときに始めの一歩が踏み出された。単独で演奏可能な序曲が劇場以外で行なわれるオーケストラ曲として作曲される内に一つの器楽曲ジャンルとなり、すでに1730年代にはイタリアで初期の器楽曲シンフォニーアが演奏されている。例えば、教会内器楽曲がとりわけ充実していたボローニャなどでは、ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ(1700/1-75)の2部のヴァイオリンとヴィオラ、通奏低音楽器からなる「シンフォニーア ヘ長調」(c1744)などが作曲された。ちょうどこのシンフォニーアの翌年に書かれたシャイベの「批判的な音楽家」(1745)にはシンフォニーの記述が見られ、これがイタリアオペラの序曲から誕生して最近ドイツにやってきたと述べた後で、今日劇場外や教会でさえ演奏されるが、宮廷などの合奏器楽曲として演奏される場合は、作曲家が腕をふるって作曲をすべしと述べている。シャイベのためにはバッハを批判しないでおいた方が後の評価が高かったかもしれない。
 この頃になると交響曲制作の中心はドイツに移り始め、一昔前は交響曲を完成させたと思われていたマンハイムのヨハン・シュターミッツ(1717-57)率いる管弦楽団の、大胆な強弱やクレシェンド効果を高めるための特定の音型などが、「マンハイム楽派こそ生みの親」だと勘違いされていたし、ヴィーンではゲオルク・マティーアス・モン(1717-50)や、ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル(1715-77)らが交響曲を作曲していた。北方のベルリーンでもヨハン・ゴットリープ・グラウン(1702/3-71)やカール・フィリップ・エマーヌエル・バッハ(1714-88)が中心になってシンフォニーアを作曲。ここでは特に3楽章形式が好まれ主題の動機素材を最大限生かす密度の高いバロックマニエリスム的な作曲を生み出し、書法には対位法的要素が強く息づいていた。この時代の交響曲は4楽章のものだったり、3楽章だったり必ずしも一定でないが、大方3楽章がより一般的な状態から、世紀末に向けて4楽章パターンへ変化が見られ、これにはハイドンが4楽章形式の交響曲を掲げてどたばた足音を立てた事が大きな原因の一つらしい。ハイドンは冒頭楽章の前におそい序曲を配置する方法もそこら中でひけらかして見せたので、とうとう他の人の足跡が分からなくなってしまった。
 このシンフォニーはもともと序曲から出発していることもあり、劇だけでなく演奏会などでもオープニングを告げる序曲としての性格を持つ、長調で軽快で疾走するような作品が数多くあり、後のベートーヴェンの交響曲のような重厚で深い作品に移行するのは、ハイドンや後年のモーツァルト、そして圧倒的にベートーヴェンの作品によってであるから、それ以前の作品を同様に考えるべきではない。あまり多量に量産されたので、18世紀中に知られるだけで2万曲以上シンフォニーが残っているそうだ。

ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-82)

・偉大な作曲家の息子として父親を通じ音楽に触れたはずのクリスティアンは、20歳になるとボローニャはジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ(1706-84)から教えを受け、1760年にはミラーノ大聖堂のオルガニストになった。驚くべきことに、敬虔なルター派信者であるヨーハン・セバスチャンの息子は、バッハの死後当地でカトリックに改宗してしまったのだ。しかし己の音楽で一旗揚げたい思いから、2年後自立した音楽家が市民を相手に戦いを挑んで名声を獲得しうるの地ロンドンに赴き、自らの才能を試すべく新しい楽器であるピアノフォルテの為のコンチェルトなどを作曲して見事成功を収めた。彼はロンドンで生活を続け、室内楽、鍵盤音楽、オペラに交響曲の作曲家として活躍し、1764,5年には8歳で天才児童ひけらかし演奏旅行に出かけていたモーツァルトと知り合い、彼に大きな影響力を行使して見せた。1770年頃に作曲された「チェンバロまたはピアノ・フォルテのための6つの協奏曲」(作品7)を見ると、バロック時代のリトルネッロ形式を幾分引き継いだ当時の協奏曲の様子を見ることが出来る。この確固たる構成美と言うより慣習により定型化されたようなコンチェルトの主題提示や配置法は、結局ロマン派にまで伝わっていった。

フランスの管弦楽曲

・18世紀を通じてパリは音楽の重要な中心地であり続けたが、演奏と出版の中心地としてオペラ騒動を再三引き起こす聴衆は、器楽曲に置いても常に新しいものを求め、賛美したり罵ったりしながら愛好家を楽しませていた。このロンドンと並ぶ音楽消費の都を目指して当時の作曲家が多くパリに出かけ演奏し、サンマルティーニ、シュターミッツ(54.55年)、ヴァーゲンザイル、イグナツ・ホルツバウアー(1711-83)らの器楽曲はたちまちパリ市民の知るところとなった。2つ以上の独奏楽器を用いたコンチェルト風オーケストラ曲である協奏交響曲もパリで流行し、ジョゼフ・ブローニュ・サン=ジョルジュ(c1739-1799)やイタリア人のジョヴァンニ・ジュゼッペ・カンビーニ(1746-1825)らが曲を書いている。他にもバイエルンから出てきたアントン・ファルツ(1733-60)やベルギー人のフランソワ=ジョゼフ・ゴセック(1734-1829)なども活躍し、ゴセックは1751年にパリに来てラモとシュターミッツの後を継いで後にラ・ププリニエール家の管弦楽団の指揮者となった。彼は結局パリに定住し交響曲、弦楽4重奏、1760年代からは喜歌劇でも活躍、革命時には革命祭典の為の楽曲も書き国家に奉仕し、パリ音楽院が出来ると初代校長の一人に選ばれた。こうして18世紀後半を代表するパリの作曲家となったゴセックだが、革命で誕生した共和国の祝典の為に書かれた行進曲やカンタータの管弦楽的効果はベートーヴェンにも影響を与えた。

2005/04/17
2005/09/07改訂

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