モーツァルトの生涯 その1

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作曲者プロフィール

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)(1756/1/27-1791/12/5)

生まれ故郷のザルツブルク

 ザルツ(塩)の城、または砦(ブルク)と呼ばれるザルツブルクは産出される岩塩が船積みされザルツァッハ川を下っていく重要地点に作られた砦と都市である。紀元前10世紀頃にケルト人達のハルシュタット文明がこの付近で栄えていたが、それ以前すでにこの地方の岩塩の採掘が開始していた。紀元前14年にローマ軍の進出によって、今日のオーストリア付近はローマ人によってノリクムと呼ばれるようになり、ケルト人の居住するザルツブルクの原型ユリクムにもローマ文化が流入。その後ローマ転げてゲルマンに荒らされると、696年にバイエルンを治める公からこの辺りを寄進されたルーペルト(ルーペルトゥス)司教の時に、キリスト教を広めるべくサンクト・ペーター修道院が創設され、彼は初代ザルツブルク司教だと後々定められることになった。8世紀には大聖堂も建設され、ザルツブルクは大司教区となり、ザルツブルク司教は周辺領土を治め岩塩採掘と金鉱収入も握る地方君主的な立場を強め、1077年の叙任権闘争の際には皇帝派に対抗すべくホーエンザルツブルク城の建築が行なわれ、1181年には大聖堂が建て替えられた。そんなこんなで中世は皇帝派と教皇派が凌ぎを削る間に位置するザルツブルクは城塞を持ち双方と駆け引きを行なう重要な都市であり、また重要な塩の産地としてその財政を潤してきた。1278年にはハプスブルク出身の初めての神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ1世(在位1273-1291)によって、ザルツブルク大司教が帝国領主に任ぜられ、またカトリックへの情熱から、1498年にはユダヤ人を追放、宗教改革の時代にはカトリックの牙城として君臨し、1525年のミュンツァーによる農民戦争では包囲した反乱軍を追い返し、後の1731年にはプロテスタントを都市から一掃してみせることになる。
 さて、農民戦争も終わり、安定を取り戻したザルツブルクは、16世紀の終わりにヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ(1559-在位1587-1617)が大司教職に付くと、すでにイタリアなどでは15世紀から盛んになっていったルネサンス的宮廷の伝統が流れ込んできたのである。彼は火災にあった大聖堂の立て替えを開始させ、大聖堂横にある大司教が任務を行なう邸(レジデンツ)だけでは物足りないと、ザルツブルクを走るザルツァハ川の向こう側に自分のためのミラベル宮殿を建設。91年には大司教宮廷カペッラを創設し、大聖堂の聖歌隊再編も行い、当地の音楽活動を離陸させたのだった。その後バロック時代初期にはザルツブルク近郊に夏の離宮ヘルブルン宮殿が建設され、ここに立てられた劇場でオペラの上演が行なわれたし、大司教パリス・ロードロン(1586-在位1619-1653)の時には見事30年戦争に中立を守り通すことによって、30年戦争最中の1628年に大聖堂がついに完成し、新しいレジデンツも完成し、ミラベル宮殿が改築され、おまけにベネディクト派(ベネディクティーナ)の総合大学まで創設された。
 音楽においては、すでに14世紀にドイツ語で始めて歌を作ったとも言われる「ザルツブルクの修道士」が活躍し、16世紀前半には名オルガニストのパウル・ホーフハイマーや、ハインリヒ・フィンクなどがザルツブルクの宮廷に所属したりしていたが、その後ライテナウが正式に宮廷楽団を創設すると、宮廷音楽家にハインリヒ・イグナーツ・フランツ・フォン・ビーバー(1644-1704)やゲオルク・ムッファト(1653-1704)などが活躍したし、ヴィーン宮廷で副楽長を務めるアントーニオ・カルダーラが当地のためにオペラを多数作曲するなど、大いに発展を遂げた。
 そしてジギスムント・クリストフ・フォン・シュラッテンバッハ(1698-1771)が大司教となりレーオポルト・モーツァルトがザルツブルクでヴァイオリンの仕事を開始する頃には、ヨハン・エルンスト・エーベルリン(1702-1762)が大聖堂オルガン奏者とザルツブルク宮廷楽長を行なう重要な作曲家として活躍し、もしかしたらレーオポルトも彼に師事したことがあるかも知れない。エーベルリンの対位法的な数多くの宗教曲などはモーツァルトが青年になる頃まだ演奏され続けていたので、ザルツブルクの音楽傾向に重要な影響を与えただけでなく、モーツァルトにも何らかの影響を与えたのかも知れない。そしてエーベルリンの弟子だったアードゥルガッサー(1729-1777)が、レーオポルトの同僚としてオルガン奏者と作曲家として活躍を開始し、1762年からはハンガリーで活躍していた、ヨーゼフ・ハイドンの弟であるミヒャエル・ハイドン(1737-1806)[ザルツブルクのハイドン]が、大司教に目を掛けられ宮廷音楽家となり、モーツァルトが成長する頃の重要な作曲家達が活躍する時代を迎えていた。

そしてお父上レーオポルト・モーツァルト

 アマデウスのお父上のレーオポルト・モーツァルト(1719-1787)は、アウグスブルクで製本師の息子として誕生し、イエズス会の教育機関で聖職者の道を進みかけながら、父を亡くした17歳でその道を自ら退学によって踏み外し、ザルツブルクの大学に入籍した。彼は、恐らく音楽に熱中していたためか、学業疎かで出席不足による退学となり、1739年からはヴァイオリン奏者として活躍、目出度くも1743年にザルツブルク大司教の宮廷楽団第4ヴァイオリン奏者となった。初めは無給だったがだんだん調子が出てきたので、作曲も熟しながら職を全うし、定給を獲得できるようになった47年には、当地で見事アンナ・マリア・ペルトゥル(1720-78)と結婚。生真面目な?彼は今度は毎晩毎晩子作りに励んだが、ようやく1751年になって、後まで成長する娘っ子マリア・アンナ(通称ナナール、ナンネル)(1751-1829)が誕生。これに気をよくしたレーオポルトは55年に自らのヴァイオリン知識を、専門家でない一般の皆さんに伝授するための教則本をまとめ、翌年56年に今日でも読み継がれる「ヴァイオリン奏法」を出版し大いに賞賛されたが、その56年の1月27日に誕生したのが、これから見ていくヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトである。大喜びのレーオポルトに追い打ちを掛けるように、翌年57年に宮廷作曲家の肩書きを手に入れることが出来て、何だか将来が開けているような心持ちがしていた。

ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)

 キリスト教徒は生まれたらまず洗礼しなきゃいかん。これによってキリスト教徒デビューを果たすわけだ。そんな訳で洗礼は翌日1/28に行なわれ、この際1/27が霊名祝日である聖ヨハネス・クリュソストムスの聖名を頂く事になった。このヨハネス・クリュソストムスについては、自分のコンテンツから引用しておこう。

ヨハネス・クリュソストムス

 「おしゃべり上手の、あるいは雄弁の「黄金の口」ラテン語で「クリュソストムス」とあだ名されたヨハネスが、結婚して子供を産むことによって古代都市文明の生き残りであるローマ帝国を助けるなと叫んでいます。」先生はキリスト教がローマによって後任される前の教父達の話を続けた。
「あら、モーツァルトの名前だわ。」すらりさんがそう言うと、先生の話は横道にそれてモーツァルトの名称の由来に脱線してしまった。
 「良いところに気が付きましたね。このヨハネス・クリュソストムス(c347-407)はコンスタンティノープルの大司教を務め後生まれ故郷のアンティオキアで司教とキリスト教解釈に命を捧げた人物で、後に聖人となりましたが、これが洗礼などを通じて付けられる守護聖人の名前として誕生したばかりのモーツァルトの上に乗っかるわけです。さらに聖ヴォルフガングという聖人の名前も加わったため、ヴォルフガングの聖人祝日である10/31はモーツァルトの命名の祝日となりました。こうしてヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオーフィルス・モーツァルトという名前が出来上がるわけですが、ついでに言っておくとテオーフィルスとは「神が愛する」という意味で、ギリシア語系の言葉ですが、もしドイツ語で同じ意味を表わすと「ゴットリープ」となります。モーツァルトは後になってこの部分をラテン語に変えて「アマデウス」としましたが、実際はイタリア語風に「アマデーオ」と呼んだり、「アマデー」と書いたりしています。まあ「ゼウスに甘ったれた」とでもいったところでしょうか。それにしてもクリソストムス自身は音楽に対して「アウロスあるところにキリスト無し」とか「舞踏も戯曲も音楽も合わせてみんな悪魔のくず」などと酷い言葉を吐いていますから、彼が音楽の神童の名前にすっぽり納まっているというのは、なかなかアイロニーに溢れていて面白いですね。・・・あれ、もとは何の話しでしたっけ。」

 何の話だったか、私の方が尋ねたいぐらいだが、モーツァルト自身は70年代後半から自らを「ヴォルフガング・アマデー」と呼んでいる。また幼少の頃はヴォルフガングの名称から、ヴォルフガンゲルルとか呼ばれていたので、ここではヴォルフガングの名称を使用しつつ、次第にモーツァルトに名称を変えながら話を進めていこう。さて、彼の生まれた頃、すでに姉のナナールはお父さんから鍵盤楽器などを習い始めていたし、どっちにしろ作曲家の息子として生まれたときから音楽に囲まれていたようなヴォルフガングだったが、3歳になるとさっそく姉の鍵盤演奏を真似て、鍵盤の上で悪戯を開始した。鍵盤に探りを入れては、偶然見つけた3度の響きに共鳴して、「きゃっきゃ」とはしゃぎ廻る息子の姿を見たレーオポルトが、つい嬉しさのあまり「三つ子の魂、百までも」と叫んだかどうだか、この願いは天には通じず、この天才はわずか35歳で珊瑚のはかなさで人生を駆け抜けることになった。
 さて、レーオポルトは気づいてしまった。息子の才能に。ヴォルフガンゲルルの尋常為らざる才能に気づいてしまったのである。さっそく父はナナールだけでなく、アマデーにも音楽教育を本格的に開始した。こうして4歳の時には各作曲家の鍵盤曲を優しい順に配列した「ナナールのための音楽帳」を使い、さっそく勉強を開始。勉強と書くと語弊がある。音楽大好物のヴォルフガンゲルルにとって、それは学習ではなく最高の遊びだったに違いない。音楽帳には彼が音楽帳をクリアした様子が、日付として残されているそうだ。宮廷トランペット奏者でレーオポルトの友人であったヨーハン・アンドレーアス・シャハトナー(1731-95)が、「音楽に熱中すると、他のあらゆる関心が死んだも同然になるのです。玩具で遊ぶときでさえも、彼にとっては音楽を伴って始めて一人前の遊びなのです。」(・・・そのままじゃないが、まあそんな精神かなあと)と後に回想するほどの音楽的感受性は、わずか5歳になるかならないうちに作曲を開始するという離れ業に辿り着いた。この頃わずか10小節ほどの「アンダンテハ長調」が作曲され、これは今日ケッフェル番号(k)1aが与えられた彼の最初の作品となっている。レーオポルトが感激のあまり、まいっちんぐ状態に陥った事は言うまでもない。(そりゃどんな状態だ。)またシャハトナー君の回想によると、アマデーはやがてクラヴィーア協奏曲まで誕生させたのだという。その回想の精神を曖昧に再現するとこんな調子になる。


 「インクをこぼしながらシミの中に音符を書き込む悪戯のような譜面に熱中する息子から父が取り上げた楽譜を見て、私たちは子供の可愛い浅はかさに愉快を覚え大いに笑っておりました。しかし、レーオポルト氏は今度はその音符の配列に興味を抱き、懸命に音楽を追っておりましたところ、突然わんわん大声を上げて男泣きに泣いてしまったのです。私は驚きのあまり彼に駆け寄ると、一体何があったのかと問いただしました。すると彼は感極まって、私に譜面を突きつけながら、手を振るわせながら叫んでしまったのです。「見てください、シャハトナー君、今すぐにです!」と彼は声を高めました。「この音符達は、何て正確に、規則に則って書き込まれているのでしょう。でもこれでは難しくて誰にも演奏できません。」 するとこれを聞きつけたヴォルフガンゲルルは、「何言ってるんだい、これは協奏曲なんだから、うんと練習してこうやって演奏するんだい。」と元気よくクラヴィーアの前にあった椅子に飛び乗ると、すばらしいテクニックで鍵盤の上を走り回ってしまったのです。哀れお父さんがまたしてもわんわんと涙を流すのは時間の問題でした。」


 彼の回想は豊富で、他にも金管楽器を以上に恐れるアマデーを押さえつけてシャハトナートランペットを喰らわせて遣ったら、真っ青になって床に倒れぴくぴくと痙攣して大騒ぎになっただの、本格的に練習をしたこともないヴァイオリンの合奏に参加すると駄々をこねて泣き叫ぶので、シャハトナーが「俺の第2ヴァイオリンパートを一緒に演奏してみろ」と楽曲を開始したら、シャハトナーが唖然として演奏を止めてもアマデーは第2ヴァイオリンパートを弾き続け、またしても親父さんがおんおん泣き出してしまうといった逸話が残されている。また幼いアマデーは誰にでも「僕のこと好き」と尋ねて廻り、ある時シャハトナーが何度も何度も同じ質問が来るので、試しに「うんにゃ」と首を横に振ったときには、今度は息子の方が「そんにゃ」と泣きだしてしまった。
 そんな神童の到来はザルツブルク中で話題になり、父君レーオポルトは「神がザルツブルクに誕生せしめた奇跡を世に告げ知らせん」との使命を帯びて、また今のうちにあらゆる音楽に接触させ吸収させて大作曲家になって貰いたい願い、そして幼少天才音楽家誕生の出し物をプロデュースすることによって、莫大な興行収入を獲得するがために、大都市巡りの息子お披露目の旅に出かける事を決意。こうして旅行に継ぐ旅行でヨーロッパ中を掛け抜けるアマデーの大旅行が開始することになったのだ。

旅に出るアマデー

 さっそくレーオポルトはナナールとアマデーを連れて1762年1月にミュンヘンに向かった。ここでバイエルン選帝候マクシミリアン3世の宮廷で演奏、さらにイタリア歌劇を始めて見たらしいが、2月中には帰宅。するとどうやらザルツブルク宮廷楽長の偉大なるヨハン・エルンスト・エーベルリン(1702 - 1762)が6月中になくなったという。レーオポルトはしばらくの間だ恭しくも大司教様の近くにあって、おべっかでも使いこなせればまた違ったことになったかもしれないが、ヴィーンでの名声と皇帝のお墨付きという別の作戦を立てたのか、あるいは別の思いが胸にあったのか、同じ年の9月には母親も連れて息子のお披露目演奏会の旅に出かけ、各地を練り歩き評判をかっさらいながらヴィーンに到着した。大司教は旅行ばかりで使い物にならないレーオポルトの代わりか、1757年からハンガリーのグロースヴァルダインにある司教の楽長となっていたヨーハン・ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)を、モーツァルト一家の旅立つ直前、8月に月給25グルデンで雇い入れ、 宮廷作曲家、楽師長として採用。後々までレーオポルトが危険人物として不快感を手紙に記す結果となったが、息子のヴォルフガンゴロロとは仲の良い付き合いをしていたようだ。まあレーオポルト宿命のライバルとでも言っておこうか。
 さて今はザルツブルクよりも、ヴィーンが大事だ。いよいよモーツァルト一家がヴィーンに到着すると、すぐさま大騒ぎとなった。貴族からの招待が殺到、ついにシェーンブルン宮殿でハプスブルク家の皇帝フランツ1世、及びマリーア・テレージア控える有名な御前演奏に至ったのである。このとき宮廷作曲家のゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル(1715-1777)に向かって「貴方の協奏曲を弾きますから、譜めくりしてくださーい。」と願い出たり、マリーア・テレージアの膝の上に飛び乗ってキスを貰ったり、ずべっと転んだのを起こしてくれたマリー・アントワネットに「僕のお嫁さんにしてあげる」と嬉しくて叫んでしまったりと、あまり大いにはしゃぎ廻ったので、翌年には呆れたハプスブルク家から姉と弟に大礼服のプレゼントがなされた。この大礼服は63年にアントーニオ・ロレンツォーニによって描かれたとされる有名な大礼服を着たモーツァルトとして今日に残されている。その後も演奏会に明け暮れ、10月には10日ほど結節性紅斑(けっせつせいこうはん)とかいう病気で寝込むなど、音楽動物として人々に囲まれる生活の無理が早くも出てきたのかも知れないが、この病気は、皮膚の下が炎症を起こし赤い隆起が出来るような病気で、関節炎や発熱を伴う特徴があるそうだ。しかしたちまち回復して12月にはハンガリーの貴族廷に出かけるなど、さらなる活躍に磨きを掛けつつ、ようやく翌1763年初めにザルツブルクに到着したのだった。さて、わずか6歳のヴォルフガングルルだったが、ヴァーゲンザイルさんに譜めくりをお願いするなど、すでに音楽の優劣を本能的に理解していたのかも知れない。後のヴィーン旅行のように明確な影響を提示できるはずもないが、アマデーにとっては聞くもの聞くもの毎日がこれ学習に他ならなかったので、さっそく当時のヴィーン音楽事情を覗いてみることにしよう。

ヴィーン楽派の音楽

・すでに17世紀前半に自ら作曲まで行なうほどの皇帝が控えるお膝元ヴィーンでは、イタリアオペラが上演され、1698年から宮廷作曲家だったヨハン・ヨーゼス・フックス(1660-1741)が1712年に宮廷カペッラの楽長になり、副楽長にアントーニオ・カルダーラ(c1670-1736)が起用され、オペラに器楽曲に宗教曲まで大いに華やいでいたが、次の時代を担う若手達が次々に登場していた。例えばフックスの弟子であるヴィーン生まれのゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル(1715-1777)が1739年から死ぬまでヴィーン宮廷作曲家として次の時代をリードしていたし、同名の音楽家である父親とカルダーラから音楽を学んだヴィーンっ子のゲオルク・ロイター(1708-1772)はイタリア留学も行い31年から宮廷作曲家に、さらに38年父の後を継いでシュテファン大聖堂の楽長となっている。彼はマリーア・テレージアのお好みだったらしく1751年には宮廷楽長に上り詰め、死ぬまでその地位にあった。彼はフックスの撒いた対位法伝統を継承し数多くの宗教曲を残しているが、ヴィーンお好みの宗教曲はカトリックのドイツ語圏共通のオーケストラと合唱のための作品であり、彼もオケを十全に使用したミサなどを大量生産し、一方でまったくホモフォニースタイルの器楽曲で当世風新音楽の旗手としても活動し、その音楽の持つ開けっぴろげな分かりやすさが「単純明快愉快愉快」と人々の喝采を博したとも言われている。
 他にもやはりヴィーン生まれで1738頃から死ぬまでヴィーンのカール教会オルガン奏者を務めながら、世俗器楽曲も作曲していたゲオルク・マティーアス・モン(1717-1750)、さらにヨーゼフ・シュタルツァーらが活躍して、17世紀中頃には小節に合わせて規則的に変化する和声伴奏に乗せたホモフォニースタイルの新しい音楽を送り出していた。他にもすでにオルガン奏者、合唱隊長として活躍していたヨハン・バプティスト・ヴァンハル(1739-1813)も1761年頃ヴィーンに遣ってきて、ディッタースドルフに師事しながら作曲家として名声を獲得していく。このカール・ディタース・フォン・ディタースドルフ(1739-1799)自身も新音楽の旗手であり、各地の貴族や司教に仕えつつ69年から北モラヴィアの伯爵の元で長期の楽長職を行なっていく人物だが、たびたびヴィーンやベルリンなどで活躍し、こうしたヴィーン音楽の新しい作曲家達の活動は、同時期にホモフォニースタイルのシンフォニーなどをリードしたマンハイム楽派やベルリン楽派などと共に、ヴィーン楽派(あるいは第1次ヴィーン楽派、第2次はシェーンベルク一味の時代だそうだ)を形成した。こうした各地の新音楽の発信は、地域ごとにそれぞれ流行というか信念が少しずつ異なっていたが、シンフォニーとソナタ形式の登場について見れば、まさにイタリアオペラ序曲的な軽快な3楽章のボローニャや、3楽章にこだわりながらも急激な転調と楽句移行で魂を揺さぶろうとする北ドイツのCPE・バッハなどに対して、モンなどは4楽章形式のシンフォニーを作曲。ヴィーンの定番は4楽章かと思いの外、例えばヴァンハルは3楽章を好むなど、実際の所3,4楽章の編成は比較的自由だった。またCPEなどが単一主題の後に次々にエピソード風に楽句を配置していくような構成を好んだのに対して、ヴィーンでは反対の性質を持ついわば第2主題的なものを取り込む方針が好まれたという。
 さて、ゲオルク・ロイターはシュテファン大聖堂楽長に就任すると、シュテファン寺院の少年合唱隊員を捜すことにした。この時掘り当てたヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)が1740年にヴィーンに遣って来たが、4楽章シンフォニーという古典派の交響曲スタイルは、彼が後に手にする圧倒的な名声によって確立して所があるそうだ。1745年にはこの合唱隊に弟のミヒャエル・ハイドン()も到着して、兄以上の美しい声にマリーア・テレージアが大喜び。声変わりをして1749年にヴィーンの町に放り出されたヨーゼフはヨハン・ミヒャエル・シュパングラーの屋根裏に辿り着いたが、この頃ヴィーンの市民達が楽しむのを当て込んだ「ガサティム(巷流し)」が軽いオーケストラ器楽曲を演奏するのが流行っていて、そこでは夜ごとに多楽章の様々な楽器編成による楽曲であるセレナーデ、ディヴェルティメント、カサツィオーン、ノットゥルノなどが演奏されていた。こうした楽曲はもちろん貴族の館でも演奏され、様式化されたシンフォニーなどより軽いジャンルとして、娯楽要素満載で演奏され、その声部書法はシンフォニー同様、すっかり新しいホモフォニースタイルによって作曲されていた。もちろんこちらは宮廷楽団が演奏するのである。若きハイドンはこのような市民のためのガサティムに参加し、このために作曲を行ないつつ、本格的な作曲活動を開始するのであったが、こうしたことは皆モーツァルトがヴィーンに演奏旅行に来る前に完了して、ヨーゼフ・ハイドンはすでに1761年にエステルハージ候の副楽長としてアイゼンシュタットに赴任していたし、弟のミヒャエルは翌1762年にザルツブルクの宮廷作曲家兼楽師長として就任し、同僚の宮廷作曲家レーオポルトが危機感を募らせたのは、先ほど見たとおり。
 オペラの重要な中心地の一つでもあったヴィーンでは、アポストロ・ゼーノ(1668-1750)やピエトロ・メタスタージオ(1698-1782)といった台本作者が活躍し、特にメタスタージオは後期バロックから初期古典派時代のオペラ・セーリアの形式化に大きな影響を及ぼしていた。また、イタリア人のソプラノ歌手ファウスティーナ・ボルドーニと結婚し「イタリアのザクセン人」の名称でイタリアで活躍し、継いでドレースデンでも莫大な富と名声を獲得したヨハン・アードルフ・ハッセ(1699-1782)は、すでに音楽活動のピークを過ぎていたが、ドレースデンが7年戦争で荒廃し歌手の解雇と楽団縮小に見舞われたため、1760年からヴィーンに遣ってきていた。彼はマリーア・テレージアの娘達カロリーナとマリ・アントワネットの音楽教師として活躍しながら、ハプスブルク家のためにオペラやカンタータなどを作曲して晩年の一花を咲かせ中だった。
 一方新しいオペラ改革の旗手であるクリストフ・ヴィリバルド・グルック(1714-1787)は、1734年頃ヴィーンで室内楽奏者として活躍しながらイタリアオペラに打ちのめされ、1737年からイタリア詣でをして4年間ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニの元でオペラの勉強を行ない、続けてイタリアでオペラ上演を開始し、イタリア巡行オペラの指揮者としてヨーロッパ各地を巡りつつ経験を重ね、50年代からヴィーンを中心に活動を行なっていた。このヴィーンではもちろんメタスタージオとも共同作業を行なっているが、詩人のラニエーロ・デ・カルツァビージ(1714-95)やヴィーン宮廷劇場支配人のドゥラッツォ伯爵など、新しいオペラを推進する仲間と知り合い、1755年には「明かされた無実」で筋書きの簡素化と、ダ・カーポ・アリアの廃止や合唱の採用などで改革を実践。1762年のフェスタ・テアトラーレ(宮廷の大祝祭的出し物)「オルフェーオとエウリディーチェ」で反メタスタージオの秘策をフランス伝統から引き出したカルツァビージに導かれながら、修飾を悉(ことごと)く排除し言葉のデクラメーションに従った作品を生み出した。そしてカルツァビージが起草した可能性の高い宣誓が付け加えられた1767年の「アルチェステ」が登場するが、この時2度目のヴィーン旅行に遣ってきて天然痘に掛るという非道い目にあったモーツァルトが、このオペラを見物して「悲惨なオペラ、アルチェステ」というコメントを残すことになる。

 そんなヴィーンの息吹に触れたモーツァルト一家だったが、ザルツブルクに戻ると、レーオポルトは密かに宮廷楽長の座は私のものではないかと期待したりして、どうもそわそわ落ち着かない。しかし見事に当てが外れて、ジュゼッペ・フランチェスコ・ロッリ氏(1701-1778)が後任に選ばれたので、「あんなレヴェルの低い音楽家に!」と素っ頓狂な声を上げて怒り狂ってしまったのである。このロッリ氏は、増給無しで楽長になって見せますと大司教に宣言して、それが経費削減のために受け入れられたという話もあるぐらいだが、すっかりがっかりしたレーオポルトは、シュラッテンバッハ大司教に願い出て、またしても家族4人でヨーロッパ巡りの旅行に出かけるという方針を打ち出した。こうしてモーツァルト最大のヨーロッパ巡回旅行が開始することになったのである。

2006/02/10

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