モーツァルトの生涯 その2

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ヨーロッパ巡行

 1563年6月9日にザルツブルクを出た一家は、ミュンヘンで再びバイエルン選帝候マクシミリアン3世の宮廷で演奏し、ハイドン楽長の下エステルハージに仕えていたルイージ・トマッシーニと知り合った。その後アウグスブルクを経由してハイデルベルクに向かう途中、プファルツ(ファルツ)候カール・テーオドールの夏の離宮シュヴェツィンゲンでは名高い管弦楽団を誇る候お抱えの楽団、つまりマンハイム楽派の音楽に接している。

マンハイム楽派

・マンハイムは17世紀初頭からプファルツ選帝候の城塞都市として発展し1720年に宮廷が移されて以来、フランスの影響を大きく受けながら芸術の都に変貌を遂げていたが、特にこのカール・テーオドールが選帝候を勤めていた1743年から78年の間は、宮廷収入の7%を音楽に当てるほどの情熱が、ヨーロッパ中の名手を集めた60名を越える宮廷楽団を誕生させていた。その草分け的存在であるヨハン・シュターミッツ(1717-1757)は1742年からマンハイムの宮廷楽団に参入し4楽章形式のシンフォニーを発展させ、後にマンハイム楽派と呼ばれる当地のオーケストラ作曲家達を生み出すのに重要な役割を果たしたが当時すでにお亡くなりて居なかった。しかし1747年から宮廷バス歌手として採用されていた草分けの同僚であるフランツ・クサーヴァー・リヒター(1709-1789)は健在だったし、やはり草分け仲間のイグナーツ・ホルツバウアー(1711-1783)も活躍していた。さらに彼らに教わりながら成長したシュターミッツの2人の息子カール・シュターミッツとアントン・シュターミッツ、クリスティアン・カンナビヒ(1731-1798)らも活躍を行なっていて、カンナビヒに至っては58年頃からヨハン・シュターミッツの後を継いで宮廷楽長に就任。後66年にパリ滞在中には自作の交響曲を出版しつつ、旅行中のモーツァルト一味に鉢合わせている。

 8月10日に到着したフランクフルトでは、14歳のゲーテが演奏会場で7歳のモーツァルトの演奏に感銘を受けている。その後ボン、ケルン、アーヘン、ブリュッセルなどを経て11月18日にパリに到着。このパリでは翌1764年4月10日まで5ヶ月に渡って滞在しつつ、神童のお披露目が入念になされた。いよいよパリに着いたと思ったら、皆様の期待に沿うべくモーツァルトではなく、パリ音楽について語り出す始末だ。

 

当時のパリ音楽

・18世紀中頃にフランス語のオペラとイタリアオペラの優劣などで大いに盛り上がっていたパリ。この都は1715年にルイ14世が無くなって以来、ヴェルサイユ宮殿より優位に立ち、芸術からファッションに至るまでリードするようになった。押しつけがましい専制君主がいなくなった反動で、貴族達がそれぞれ競い合ってお好みの趣味を擁護し、裕福市民達が貴族的な文化活動に足を踏み込み始める頃、知識人達の啓蒙主義活動も盛んになり、貴族・知識階級・裕福市民らが混合してパリの文化的活動を繰り広げる時代が到来。パリはロンドンと並ぶ音楽消費の都となった。
 このパリを目指して当時の作曲家が多くパリに出かけ演奏した。例えば先ほど登場したヨハン・シュターミッツ(1717-1757)は1754,55年にパリに足を伸ばし自らの楽曲を知らしめたし、後にヨハン・シュターミッツの長男であるカール・フィリップ・シュターミッツ(1745-1801)も長らくマンハイムの宮廷楽団で活躍した後、1770年前半にはパリで活動を行なっている。マンハイムのリヒターは1744年に自らのシンフォニーを6曲パリで出版しているし、ヴィーンのヴァーゲンザイルはパリの出版社のために器楽曲を作曲し、グルックとクリスチャン・バッハの先生でもあるミラーノのジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニのシンフォニーもパリで知れ渡っていた。
 パリでは市民層の成長に伴って、1725年に公開演奏会「コンセール・スピリチュエル」が開始され、これはアンヌ・ダニカン・フィリドール(1681-1728)が四旬節の期間王立音楽アカデミが休みになる期間に合わせて、宗教声楽曲と器楽曲を演奏することによって幕を開けた。この演奏会は始めのうちオペラが閉鎖された期間のみ開催可能で、フランス語を使用した歌は歌ってはいけないと言った決まりがあり、ラテン語による宗教音楽か純器楽曲だけが演奏されていたが、後にフランス語世俗声楽曲が取り上げられるようになると、オペラ以外の音楽活動の中心になっていった。またベルギー人のフランソワ=ジョゼフ・ゴセック(1734-1829)は、1751年にパリに来てラモとシュターミッツの後を継いで後にラ・ププリニエール家の管弦楽団の指揮者となったが、このような裕福貴族の持つ管弦楽団の演奏もパリで繰り広げられていたのだ。そしてここまで見てきたように、パリの器楽曲はすっかりドイツ人達の活躍が目に付く時代が到来していた。
 またオペラにおいては、1752年にペルゴレーシの「女中奥様」がパリで上演された時に、軽快なイタリアの喜劇的オペラとあまりにも重厚ぶったフランスオペラの優劣論であるブフォン論争が沸き起こり、「女中奥様」が喜劇的作品だったために、フランス語のオペラ・コミークに注目が向けられたお門違いの騒動があった。その後イタリア人ですでにイタリア・オペラの上演を重ねていたエジディオ・ドゥニ(1708-75)が、ゴルドーニの台本による「良い娘」(1757)を最後にパリに移り、以後フランスのオペラ・コミークを書いて活躍を開始。彼は1761年からパリのイタリア座の音楽監督に就任し、台本作者のファヴァールと共に次々に新作を送り出していく。
 さらに鍵盤楽器や小編成の器楽曲においては、毒キノコを食して一家断絶を遂げたドイツ人の鍵盤奏者ヨハン・ショーベルト(c1735-1767)や、やはりドイツ人のヨハン・ゴットフリート・エッカルトらが活躍していたので、パリに到着したモーツァルトはこのドイツ人作曲家などと知り合いになっている。

 そんなパリで、知人からの紹介状によって百科全書派の一人でオルレアン公の秘書を務めるフリードリヒ・メルヒオル・グリムを頼ったモーツァルト一家は、彼の取りなしによって、明けて1764年1月始めに当時のフランス国王ルイ15世の御前で演奏を行い、パリで公開演奏会を開いて曲芸師として大いに持て囃された。この出版の都パリではヴォルフガングの作曲したヴァイオリン付きクラヴィーアソナータを出版。目的を果たすと、ロンドンに向かって旅出った。

当然ロンドンの音楽事情に話が行く

・すでに1672年に王室音楽家バニスターによって開始された定期的な公開演奏会は、1シリングの入場料で市民が音楽を楽しむことが出来たし、1678年にはトマス・ブリットン開催の演奏会も行なわれるなど、さすがはロンドン市民達の発達がお早いお早い。ヘンデルが活躍した18世紀前期にすでにイタリア・オペラの流行と自国ポピュラーソングを使用した英語のバラド・オペラブームがあり、振興する市民階級のイタリア・オペラよりも英語の合唱を好む傾向を見て取ったヘンデルが公開演奏会(劇場)によるオラトーリオに転向するのが18世紀中頃だったが、丁度ヘンデルと同じ頃イタリア人のフランチェスコ・ジェミニアーニ(1687-1762)で活躍し器楽部門の名声を欲しいままにしていた。そしてこの18世紀前半には数多くの公開演奏会が開催され、1714年にロンドンにやってきたジェミニアーニも1731年から予約制の定期演奏会を開催。この演奏会のためにコンチェルトグロッソなどを作曲していった。また宗教音楽の公開演奏会(市民のための)は「コンチェルト・スピリトゥアーレ」と呼ばれ、しばしば開かれていたし、同僚の作曲家や病院などに対する慈善演奏会も行なわれ、ヘンデルのメサイヤ初演はアイルランドのダブリンでの慈善演奏会だった。一方で1710年頃「古楽アカデミー」が誕生し、さらに76年には「古楽コンサート」が設立、これらは過去の音楽を演奏する団体として最初期の例である。こうして新旧音楽観心高まるロンドンでは、圧倒的人口を誇る都市市民とその資本を当て込んで演奏会、出版の流れが定着し、それを当て込んで大陸の多くの音楽家達が活躍の舞台を求めて流入する出稼ぎ音楽家達で溢れかえっていた。またロンドンっ子達も、そんな大陸の様々な音楽を楽しむことをこそステータスのように考えていたので、ロンドンはイギリス作曲家による新作の舞台ではなく、大陸作曲家の稼ぎ場として重要な都市となったのだった。
 そしてモーツァルト一家が到着する直前の1762年、偉大なセバスチャンの末っ子ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)がロンドンに到着したのだった。当初兄さんのCPE・バッハに作曲を学びイタリアで事もあろうにカトリックに改宗しつつボローニャのジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニに師事しイタリアオペラデビューを果たしていた彼は、62年にロンドンのキングズ・シアターでオペラ「オリオーネ」を上演し大成功を収めたが、調子が出てきた彼は1年の滞在予定を引き延ばし、翌63年には当地でクラヴィーア協奏曲作品1を出版し、ドイツから遣ってきていたカール・フリードリヒ・アーベル(1725-87)と協力して1764年から「バッハ=アーベル・コンサート」を開催し、公開演奏会のバトルに参入することになる。同時に後々オペラも作曲し、そのため彼のシンフォニーはまさしくイタリアオペラの序曲形式と切り離せない精神を持っているそうだ。

 そんなロンドンに到着したモーツァルト一家だったが、名声高き作曲家に目を付け取り入る事に掛けては誰にも負けないレーオポルト。さっそくクリスチャン・バッハやアーベルとお知り合いて、国王ジョージ3世に謁見し、公開演奏会を開き喝采を浴びるなどお決まりのパターンを演じるが、8月に入ってレーオポルトが体を壊して、2ヶ月近くロンドン郊外のチェルシーで療養を行なっていたので、ロンドンで聞いた音楽の影響などを込めつつ息子は作曲をして遊んでいた。そんなこんなで殊の外長居することになったロンドンで、1765年を迎え結局ジョージ3世に3回も謁見して、公開演奏会も4回開いて、神童作曲のヴァイオリンソナータ6曲を王妃に献呈しながら、7月24日にロンドンを出発した。
 すると旅の途中、オランダの方から「おおい、おおい」と声がする。何だと思って振り向いてみると、オラニエ公ウィレム5世が手招きして呼んでいるじゃあないか。このオラニエ公というのは、ネーデルラント地方の領土を収める貴族であったが、細かく見ていくとこんな具合になる。まず12世紀より前に遡る名門貴族ナッサウ伯が、ルネサンス時代ブルゴーニュ公などにお仕えしつつ、ウィレム(1533-84)という奴の時に血縁関係からオラニエ公の領土も相続し、彼がオラニエ公ウィレムと呼ばれるようになった。ネーデルラント地方はもともと総督という軍事官職があったが、オランダ独立戦争で共和国政府が成立した後も、軍事官職として総督というポストが継承され、独立に多大な功績があったオラニエ公ウィレムの働きなどもあり、オラニエ家が中心的州であるホラント州など幾つもの総督職を兼任しつつ、議会に対する別の勢力として共和国時代も君臨し続けた。そんなオラニエ公のウィレム5世時代にモーツァルトが訪れたわけだが、この時代フランスから啓蒙主義の流入が盛んで、世襲的に国家重要役職にあるオラニエ公に対しては、なかなか世間様の風が冷たいものがあったが、そこは名門オラニエ公、後にナポレオン時代に共和国政府があえなく崩壊すると、後のヴィーン体制時代にはオラニエ=ナッサウ家から国王が選出されオランダ王国が誕生して、今日まで続くことになる。オラニエ=オレンジの事だから、今日でもオレンジ色が国民的シンボルカラーなんだそうだ。もちろん今日の国王は多分に象徴的存在だから、王様気分で勝手な真似は出来ようはずもないが。話が大分それたが、さっそくオランダに向かったモーツァルト一家。しかし途中のリルという所でヴォルフガンゲルルが喉頭炎に掛り、息子が直ると、今度は父親のレーオポルトが病気に掛って、1ヶ月間留まってしまった。ようやくお招き預かったオラニエ公の宮廷があるハーグに到着したのは9月10日だったが、今度はナナールが腸チフスにかかって、ヴォルフガンゲルルもオラニエ公の御前で演奏を行なった後に同じ病気に遣られて、2人仲良く生死の境目を彷徨っては、霊体離脱ごっこを楽しんだのかもしれない。(・・・楽しめるものか。)
 当時の旅行は大揺れの馬車で、医療も今日のように発達していないので、都市間を渡り歩いては体力を消耗したり、先々の流行病に巻き込まれたりと、成長盛りの子供には過酷な旅だったことが、彼の身長が伸び悩んだり、この頃次々に病気に掛った(結節性紅斑、腸チフス、関節リウマチ、天然痘などなど)原因だったのではないかとよく言われている。取りあえずハーグでの病は峠を越えたので、復活したヴォルフガンゲルルルルは、1766年始めに公開演奏会を開いて、さらにアムステルダムに向かって3度の演奏会をこなしつつ、オラニエ公に頼まれてまた6曲のヴァイオリンソナータを作曲したり、ロンドン時代同様交響曲を作曲しながら旅を続けていたが、ようやくパリに戻り、ヴェルサイユ宮殿などで演奏しつつ、さらに帰宅途中の都市で活躍しながら、11月29日にザルツブルクに戻ってきた。レーオポルトはこの旅行で財政的にかなりの成功を収めて、「ぐへへへ」とは言わないものの、ちゃっかり各地の特産などをザルツブルクで売りさばき、財布の中を勘定したりしてみたという噂もある。

ヴィーン再び

 ここで長旅も終わりを迎え対位法の学習などに励んでいたヴォルフガンゲルルだったが、名声が高まったお陰で作曲の依頼も舞い込んできた。67年の内に、大司教ジーギスムントのためのレチタティーヴォとアリア(K36)が作曲され、翌年には宗教的ジングシュピール(劇付きドイツ語オラトーリオ)「第一戒律の責務」の第一部を任され、第2部担当のミヒャエル・ハイドンや、第3部担当のアードゥルガッサーと互角に渡り合って見せた。この作品は要するに宗教的な1幕ものが3つ合わさったもので、モーツァルトが担当した部分は、マルコの福音書にある「第1の戒律とは、ああして、こうして、そんでもって神である貴方の主を讃えることです。」というような言葉を元にしたもので、これをドラマチックに信仰を獲得していく信者のストーリーに脚本し、「正義」「慈愛」「世俗」「キリストの霊」「キリスト教徒」という登場人物で行なうものだそうだ。大司教はご褒美に12ドゥカーデンの金メダルを呉れたが、本当に少年の作品かどうか部屋に閉じこめて作曲を行なわせたら、カンタータ「聖墓の音楽」(K42)が生まれてしまったという落ちまで付いている。また同じ年、お父さんが昔退学して見せたというザルツブルク大学の学生が行なう学校劇として、「アポロとヒュアキントス」(K38)も作曲。このラテン語による音楽劇は、美男子ヒュアキントスがアポロンを選んだのに腹を立てた西風神ゼフィロスが、円盤投げの遊技でアポロンの投げた円盤がヒュアキントスを撃ち殺すように仕向けたが、悲しんだアポロンは彼をヒアシンスに変えた、というようなギリシア神話を元に、ラコニア王だの王女メリアなどを登場させた作品だ。ザルツブルクにおいて大学の音楽劇は、オペラ劇場の変わりとまでは行かないが、非常に重要な役割を担っていたので、ザルツブルクの作曲家達はよくこの大学音楽劇のために劇作品を仕立て上げたりしていたのだった。
 この1767年の秋、マリーア・テレージアの娘の一人がご結婚と相成ったのに奮発して、皇室の関心を買おうと、レーオポルトは一家総出でヴィーンに向かった。ところがどっこい花嫁の娘さんは天然痘に掛って天に召され、病気の流行に慌ててオルミュッツに逃げたモーツァルト一家だったが、ヴォルフガングもナナールも天然痘に掛かり合って、きわどい状況を行ったり来たりしつつ、12月末までこの都市に留まることになったのだ。1768年1月には病気も回復し、復活記念かヴォルフガングは交響曲ニ長調(K45)など作曲しつつ、ヴィーンに取って返して、マリーア・テレージアらに謁見して、皇帝ヨーゼフ2世からオペラでも作曲してみた前と言われたかどうだか、春から12歳の全霊を掛けたオペラ・ブッファ「素朴さを装う娘」(ラ・フィンタ・センプリチェ La finta semplice)(K51[46a])を作曲。日本語では意味の皆目見当も付かない「見てくれの馬鹿娘」という馬鹿珍訳で親しまれているが、この作品は、上演を巡るどす黒い劇場関係者との遣り取りや裏工作に破れたか、見事に上演の夢は果たせず、レーオポルトはわざわざヨーゼフ2世にお手紙を差し上げて、損害賠償がどうしたこうしたの騒ぎとなった。結局このオペラは69年になってシュラッテンバッハ大司教が自らの宮殿で上演させてみるのである。その代わりヴィーンの医師だったアントーン・メスマーという知人がドイツ語ジングシュピールの作曲をヴォルフガングにお頼みて、ジャン・ジャック・ルソ(1712-78)の「村の占い師」をパロった(パロディ作品に仕立てた)ジングシュピール「バスティアンとバスティエンヌ」(K50[46b])の作曲が夏の間に進められ、秋にメスマーさんのお宅で上演される運びとなった。このメスマーさん、ネットで検索してみたところ、「宇宙には動物磁気とでも呼ぶべき流体が偏在すると主張し、人間の病気や精神的不調もこの動物磁気が作用すると考え、その治療にあたった。」と書いてあったが、睡眠療法やらカイロプラクティックやらの説明にも顔を出していたので興味のある人は彷徨ってみたら如何でしょうか。私は、もうごちそうさまです。さて、話を戻してモーツァルトだが、もちろん数多くのヴィーン音楽にも十分に触れつつ、グルックの「アルチェステ」の上演にも立ち会い、「悲惨なオペラ、アルチェステ」という名言を残したりしている。
 こうして旅行と言うよりは、短期留学のようにヴィーンに1年以上も留まったモーツァルト一家だったが、1768/12/7にはミサ曲のデビュー作「ミサ曲ハ短調」(孤児院ミサ)(K139)を自分で指揮した後、ようやく1769年の1月にザルツブルクに帰還した。底抜けに寛大なるシュラッテンバッハ大司教は、ヴィーンで上演されなかったオペラを5月に上演させて、11月からは無給ながらヴォルフガングを楽団員に加えてくれた。これを見たレーオポルトは内心まだまだいけると、心の中で考えたのかも知れない。

第1回イタリア旅行(1769/12/13-1771/3/28)

 まだ廻っていないイタリアに、青年になる前に突撃して神童振りをアピールしつつ当地の音楽を吸収させなければならないのです。今すぐにです。とでもシュラッテンバッハ大司教を説き伏せたか、レーオポルトは今度は息子と2人だけで、「仕方がないから120ドゥカーデン(約270万だとか)支給してやるから行ってこい」とイタリア旅行を許され、ブレンナー峠を越えることになった。様々な都市を滞在しつつ、ヴェローナでの演奏会でフィーバーを起こしつつ、イタリアオペラに生で触れ、マントヴァを経て、ミラーノに到着すると、さっそく当地の音楽的権威であるジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ(1700/01-1775)と知り合った。このサンマルティーニは、1728年からミラーノにあるサン・アンブロジョ大聖堂の楽長兼オルガン奏者を筆頭に多くの教会楽長を兼任し、教会音楽よりも、世俗的器楽作品の当世風をリードする作曲家として有名で、急緩急の3楽章シンフォニーにおいて、ソナータ形式の枠組みが見て取れるなど、前期古典派のイタリア代表者として活躍していた。また後にモーツァルトが2回目のパリ旅行を行なっていた時、パリオペラ界を大いに騒がせていた、同門下生同士による壮絶なオペラバトル、グルックVSピッチンニ論争において、グルックとピッチンニを共に成長させて遣った人物だ。まあ論争だから正しくは2人の名を借りた聴衆のバトルだったのだが。
 さて、ヴォルフガングはこのミラーノにおいて公開演奏会も成功を収め、おまけにオペラの依頼まで貰う快挙を成し遂げた。このミラーノは当時オーストリア領土でありアリア・テレジアの息子の一人フェルディナント大公が収めていたので、ザルツブルク出身の2人にとっては都合が良かったのである。これに気をよくしてボローニャに向かうと、ここでも演奏会を開き、運良くジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ(1706-84)と知り合うことに成功している。よくマルティーニ神父などと呼ばれるこのおじいちゃんは、遙か若い頃にはアントーニオ・ペルティなどから作曲を教わりつつ、1725年ボローニャのサン・マランチェスコ教会楽長に就任し、後司祭の位を得た聖職者兼音楽家で、終生ボローニャに留まりつつ音楽理論と学識により多くの弟子を育てる一方、音楽の歴史に深い興味を持ち音楽史の草分け的存在として有名だ。司祭となったからマルティーニ神父という訳だが、ニッコロ・ヨンメッリは彼の弟子だし、ロンドンに渡ったセバスチャンの息子、ヨーハン・クリスチャン・バッハもイタリア時代彼の下で学んでいる。その一方で、1500曲もの作曲を残し、自らの学識を駆使した謎カノンなどがある一方、ギャラントスタイルの器楽曲有り、そしてもちろん宗教曲も残したり、非常に名の知られた存在だった。そんな彼に知り合った若きモーツァルトが、知識をまるで吸収しないはずがあるだろうか。いいや、ありはしないよ。(反語。)ちゃっかり者のレーオポルトはマルティーニに自分の著作した「ヴァイオリン教程試論」を贈って、マルティーニから「音楽史」の初めの2巻を贈られてお近づきの印とした。特に古い音楽への眼差しが今日音楽を生かすという精神は、このマルティーニの影響により浮かび上がって来たのかも知れない。
 ちょうど成長期でなんだか眠くなったりしながら、ヴォルフガングはフィレンツェなどを経由しローマに到着すると、今度は楽譜を写すことも禁止のシスティーナ礼拝堂内だけで歌われるという幻の一品、グレゴーリオ・アッレグリ(1582-1652)の「ミゼレーレ」という曲を、聞くやいなや記憶に留めて、後で9声部もある2重合唱曲をすっかり書き写してしまったのである。その勢いでナポリにまで足を伸ばし、ナポリ楽派のオペラを堪能しまくり、演奏会も開き、ついでにパイジェッロ(1740-1816)などのオペラ作曲家達と知り合いになり、折しも古代遺跡発掘ブームに沸き立つポンペイ、ヘルクラネウム見物まで行なってローマに戻ると、大変なことになっていた。アマデーが写し取った「ミゼレーレ」の楽譜の正確さが証明され、余りの天才振りに、後でローマ教皇から「黄金拍車」勲章を授かることになったからである。この勲章は音楽家ではラッススだけが以前に貰ったことのあるもので、グルックやディタースドルフが頂戴した「ラテラノ騎士」の称号よりもすばらしく価値の高い、「エクエス・アウラテ・ミリティエ(黄金の軍騎士)」という称号なんだそうだ。こうして教皇に直に謁見を賜わる事の出来たヴォルフガングは、家への手紙で「騎士(シュヴァリエ)ド・モザール(モーツァルト)より」とおいた書きをしている。その後さらに各地を巡りつつ、7月後半からボローニャで3ヶ月を過ごした2人はだったが、8月になるとヴォルフガングは変声期で声が変になる一時を迎えた。ボローニャではマルティーニの元で対位法のレッスンなどを受けつつ、台本の到着したミラーノ依頼のオペラ「ポント王ミトリダーテ」の作曲をすすめる。マルティーニはこいつなら大丈夫だと踏んで「我がボローニャのアッカデーミア・フィラルモニカの入会は非常に格調高く権威のあるものだが、お前なら20歳の年齢制限と、下積み修行の必要などの規定を打ち破って、部屋に閉じこもっての対位法作品完成もクリア出来るに違いない。」と勧めるので、「神父さん、それは何の食べ物です」と尋ねてみると、「そうじゃあないよ、昔ボローニャでアドリアーノ・バンキエリ(1568-1634)という作曲家がおって、彼が一つ奮発して遣ろうかのう、と呟いて1615年に音楽活動専門のアカデミを立ち上げたのじゃ。まあ音楽の学識を深めるための会合と発表会とでも言うのだろうか、この伝統が受け継がれて1666年に6並びを記念したアッカデミア・フィラルモニカが誕生したのじゃよ。」と神父が説明を加えていたが、はっとした親父のレーオポルトがしゃしゃり出て、「あのアルカンジェッロ・コレッリが、才能のあまり20歳の規定を無視して、17歳で同地のアカデミア・フィラルモニカに正会員として合格してしまったという、あの伝説の。」と大いに乗り気になったので、それより美味しいものが食べたいくらいだったヴォルフガングだったが、奮発して10月に試験を受けることにした。ところがどっこい4声のアンティフォナ「クエリーテ・プリムム・レーニュム・デイ」(K86[73v])をわずか1時間で作曲してしまったので、全員一致で会員として推挙されたという情景は、モーツァルトファンなら「よっ、待ってました」とポーズを取って立ち止まる名シーンになっている。
 止めが入ったところで、お捻り無しで10月半ばボローニャを離れ、ミラーノに到着。ぎりぎりまで作曲を進めていたオペラ・セーリア「ポント王ミトリダーテ」(K87{74a})の初演が、ついに12月26日行なわれ、まんまと成功を収めてしまった。このミトリダーテというのは、小アジアにあったポントスの国王ミトリダーテ6世(前135-63)のことで、ローマ帝国と戦った彼の生き様をラシーヌが悲劇台本に仕立て上げたものを、メタスタージオ型のセリア台本にしたもので、あまりすんばらしいので、20回も再演され、ミラーノ大公から73年の謝肉祭用のオペラ、「ルーチョ・シッラ」の依頼まで獲得してしまった。さらに翌年初めにはヴェローナのアカデーミア・フィラルモニカから「カヴァリエーレ・フィラルモニコ」(楽師的騎士)の称号まで貰って、ほくほくしながら、ヴェネツィアなど観光しつつ、ザルツブルクには3月28日舞い戻った。

第2回イタリア旅行(1771/8/13-12/15)

 イタリアから戻ったモーツァルトは、イタリアオペラを始め多くのイタリア的な音楽から影響を受けつつ作曲を行ない、また教会用の作品としてマルティーニから教わった対位補の技術を織り込みつつ精進を重ねていた。しかしうっかり思春期を迎えたために、恋愛なども取りざたされる中、マリーア・テレージアが自分の息子ロンバルディア総督フェルディナント大公の結婚式のためにモーツァルトに依頼したオペラ「アルバのアスカーニョ」(K111)を上演すべく、再びレーオポルトと共にイタリアに向かう。ミラーノに着いて、ハッセと顔を合わせ、ようやく台本が届いたので、作曲を本格化して上演にのぞんだ。まず婚礼の翌日10/16に上演されたハッセのオペラ「イル・ルッジェーロ、偉大な感謝の気持ち」(セシル・スコット・フォレスターもびっくり、「ホーンブロワー、海の勇者」みたいな題名だ。)が上演される。隠居生活を送っていた70歳すぎのハッセだったが、マリーア・テレージアがお頼みてメタスタージオの台本で作曲を行なったのだが、本人自身「初演の夜、あらゆる不幸に祟られた」と嘆いている。ハッセはこれを持ってオペラ作曲から完全に足を洗うことになるが、一世を風靡(ふうび)した奥さんのファウスティーナ・ボルドーネとさらに10年あまり生活を楽しみ、奥さんが82年に、おじちゃんが83年に天上に帰っていくのだった。
 それはご苦労なことだが、このルッジェーロの翌日にモーツァルトのオペラ(正しい名称は祝典セレナータというジャンルになる)「アルバのアスカーニョ」が上演された。これは、トロイア戦争で崩壊したトロイア王家の生き残りアイネイアース、彼の息子アスカニウス(アスカーニョ)が、父上がイタリアに上陸して築いた都市をアルバ・ロンガ市に都を移したら、これが後々ローマの礎となったというギリシア神話から、お優しい愛の部分だけを取り出して、実はアイネイアースのおっかさんでもある女神ヴィーナスが、アスカーニョの結婚を取り持つという台本を仕立て上げ、要するにヴィーナスをマリーア・テレージアに見立てて、アスカーニョがフェルディナント大公という趣旨でお送りする祝典的劇作品だった。これは非常に大成功を収めて何度も再演を繰り返したので、調子に乗った親父のレーオポルトが、「要するにです!大変お気の毒の至りですが、ヴォルフガングのセレナータが、まったくハッセのオペラを打ち負かしてしまったのです。私には言いようがないほどにです。」とザルツブルクの実家に手紙で送りつけたので、後々までルッジェーロ大失敗伝説が定説化してしまったが、ある証言によると、ルッジェーロも決して失敗とは言えなかったようだ。まあ、親ばか、とでも言っておきましょうか。ザルツブルクに帰ろうとしたら、大公が話があるから待てと言う、さては宮廷勤めかと期待する親父レーオポルトだったが、どうやらマリア・テレジアが「乞食のような世間を渡り歩く者を雇うと宮廷仕えの質が落ちますよ」と手紙を送り、フェルディナント大公は雇用を取りやめてしまった。

コロレード溶液・・・じゃないや

 2人揃ってザルツブルクに帰ってきたら、翌日寛大なるシュラッテンバッハ大司教がお亡くなりて、75年の2月頃にはニ長調(K136[125a])、変ホ長調(K137[125b])、ヘ長調(K138[125c])という3曲のディベルティメントなどを作曲していたヴォルフガング。これらは弦楽5重奏スタイルで管楽器無しで書かれていて3楽章のニ長調が特に知られている。「ザルツブルク・シンフォニー」などと呟いてしまう好事家まで出てくる始末だ。その間にも、次の大司教の選出が始まり、ザルツブルク聖職者の意向ではなく、皇帝ヨーゼフ2世が選出に干渉し、啓蒙主義改革の旗手ヒエローニュムス・フォン・コロレード(つまりコロレード伯ヒエローニュムス)(1732-1812)が大司教となった。彼は主任するやいなや改革を開始し、ミサ全体を45分以内に収めさせたり、会衆にラテン語ではなくドイツ語で歌わせようとしたり、教会用器楽曲などを廃止したり、大学改革に熱を燃やすあまりザルツブルク演劇の中心を担っていた、大学劇場を閉鎖して、ザルツブルクの作曲家達による音楽劇の伝統に終止符を打ってみたりする一方で、財政再建のため宮廷楽団による演奏会を減少させ、次第に音楽都市ザルツブルクとしての魅力が薄れていく要因を懸命に築き上げていった。このため後々までコロレードはモーツァルト親子からごろつき同然の影口で罵られることになるが、取りあえずコロレードが就任した後8月21日には、ヴォルフガングを年給150グルデン(約75万円と書いてあった。ざっと2グルデンで1万円ぐらいか。)の給料を与えて、有給楽団員に任命して遣っている。

第3回イタリア旅行(1772/10/24-1773/3/4)

 第1回イタリア旅行の際に依頼を受けていたミラーノの謝肉祭用オペラを上演すべく、コロレードの許可を得て三度(ミタヴィ)親子2人でイタリアに向かうと、12/26というクリスマス翌日にこのオペラ・セーリア「ルーチョ・シッラ」(K135)は、マリウスとの内戦に勝って独裁官となったルーキウス・コルネーリウス・シッラ(B.C138-78)が、不意に独裁官を辞任する生き様を、今一取り留めもない台本にしてしまった作品で、ついでに付け加えておくと、前に作曲したポント王ミトリダーテと戦ったローマの部将こそ、このシッラで、つまりルキウス・コルネリウス・スッラ(・フェリクス)(←「幸運の」と後で自分で付けてみた)の事だ。つまり歴史を見れば、彼はイタリアの同盟市戦争で戦い、ミトリダテス戦争に勝利し、マリウス軍を我が軍に吸収して実権を握って、無期限の独裁官となるが、自ら辞任して余生を送ったという話で、カエサル時代よりちょいと前のお話になる。音楽の独裁官を目指すモーツァルトはまたしても大成功を収めて、26回もシーズン中に再演されて、ほくほくしながらザルツブルクに帰って行くのであった。一方親父は息子の就職のためにフィレンツェ大公に手紙など差し上げたが旨く行かず、幾分がっかりして帰還した。

2006/2/16

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