モーツァルトの生涯 その5

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そして1788年

 大バッハの息子、ほどほど偉大なカール・フィーリプ・エマーヌエル・バッハ(1714-88)がハンブルクでお亡くなりたこの年、ベートーヴェンは18歳になりボンのブロイニング家の子供達にピアノを教え、うっかり娘のエレオノーレと初恋に落ち、ヨーゼフ・ハイドンは3曲のドーニ交響曲(90-92番)や第1トスト4重奏曲2曲などを完成させた。そしてザルツブルクでは親父レーオポルトはすでになく、ヨーゼフ・ハイドンの弟ミヒャエル・ハイドンが例の大司教の元で踏ん張っていたが、ザルツブルクの音楽伝統は次第に萎(しおれ)れ加減、その頃フランスでは国庫が破産し翌年の革命を予感させる頃、ドイツではちゃっかりカントが「実践理性批判」を出版していた。
 レーオポルトが亡くなった87年にロシアのエカチェリーナ2世と会合を済ませた皇帝ヨーゼフ2世は、この88年にロシアと共にオスマン・トルコに対して兵を差し向け、南ハンガリーでこう着状態に陥り、人的被害と戦費による経済恐慌を巻き起こしてしまった。これによってエセ改革者ヨーゼフのネガティブキャンペーンが繰り広げられたかどうだか、中傷のパンフレットがヴィーンに数多く出回り、翌年にはハンガリーでの反乱まで起こって来る。戦争による音楽など高級娯楽への資金の締め付けも立ち所に現われ、どこぞの学者によると翌年89年にはヴィーンで開かれた各種演奏会の数が、それまでの半分以下の16回に、90年には7回にまで落ち、91年には一気に回復するのだそうだ。そして、これに合わせるように、モーツァルトの生活も非常に苦しい一時期を経験することになった。そんなこともあり、また宮廷作曲家になったこともあり、これまで作曲があまり見られなかった舞踏用の作品や機会音楽の量が増加することになる。
 さて、2月にピアノ協奏曲ニ長調「戴冠式」(K537)を完成し、3月にピアノのためのアダージョロ短調(K540)を作曲したモーツァルト。いよいよ5/7には「ドン・ジョバンニ」のヴィーン初演が行われ、年内に14回上演されたが、モーツァルトは自身は非常に乏しい思いに駆られた。実際にヴィーンでのオペラの作曲家としての評価はどんなものかと言うと、なんでも83年にイタリア・オペラが再開されてから、90年初めまででパイジェッロ(166)回を筆頭に、アントーニオ・サリエーリ、ドメーニコ・チマローザ、マルティン・イ・ソレルらが100回以上を記録するのに対して、モーツァルトは「フィガロ」と「ドン・ジョヴァンニ」の2作によって僅か35回の上演になるそうだ。このオペラは6/15にはライプツィヒでも上演され、ヴィーンよりも余所で成功した方がたやすい心持ちがしてくるのだが、この6月頃から8月に掛けてモーツァルト最後の3つの交響曲が作曲されている。つまり交響曲39番変ホ長調(K543)、交響曲40番ト短調(K550)(クラリネットの「有る」「無し」の2稿がある)、交響曲41番変ハ長調(K551)がそれであるが、依頼があったためか演奏会用か、ロンドンにでも行こうと考えていたのか、作曲の動機は分かっていない。実際には相当の高額所得者であったにも関わらず、収支バランスに無頓着で高水準の生活を続けた結果か、それとも何か知られざる出費があったのか、金銭に困るようになってしまったモーツァルト。この年フリーメーソン仲間である商人のヨハン・ミハエル・プーフベルクにあてて、借金のお手紙を差し出して、これは以後癖になり、プーフベルクを恐怖のどん底に叩き落とした。(かもしれないね。)モーツァルトの金銭感覚については、高価な物を欲しがりすぎたとか、ビリヤード台を購入したり、貴族みたいに馬車を購入したり、高価な部屋を借りたりと書かれたり、いいや晩年はギャンブルに手を出して自己崩壊したのだという意見もあったりするが、当時の貴族社会の生活と一般市民社会の生活がどれほど異なり、金銭感覚自体もどの社会に所属するかによってかなり異なるという事実を考えれば、自ら貴族達の社会に足を踏み入れて活躍するモーツァルトにとって、そうした品物を購入するのがそれほど逸脱した物欲だとは思えない。恐らく彼はそうした貴族達と精神においても衣服や生活態度においても対等で無ければ気が済まなかっただろう。
 そんな88年だったが、作曲においては例の3曲交響曲の他に、ピアノ・ソナータハ長調(K545)や、プーフベルクに献呈された傑作ディヴェルティメント変ホ長調(K563)などの他に、スヴィーテンの依頼でヘンデルのオラトーリオ「アシスとガラテア」のオーケストレイションを行なっている。スヴィーテンが1780年に設立した私的協会の為の演奏会用で、モーツァルトが指揮して演奏され、この後「メサイア」「アレクサンダーの饗宴」「聖セシーリアの祝日への讃歌」と続けられることになるのだ。

1789年

 ヨーロッパを震撼させるフランス革命のこの年、モーツァルトは3月にスヴィーテン男爵の依頼でヘンデルの「メサイア」のオーケストレーションを今日風に変更した(K572)のち、ベートーヴェンのパトロンとしてよく知られるカール・リヒノフスキーに誘われて、ベルリンに向かうことになった。このリフノフスキーはモーツァルトに音楽を教わり、またフリーメイスン仲間でもあり、2人は連れだって4月始めにヴィーンを旅出ったのである。この旅行中大量の手紙がコンスタンツェの元に送り続けられることは言うまでもないが、演奏会やオルガン競演などを交えつつ、ライプツィヒではかつてセバスチャン・バッハが活躍した聖トーマス教会でオルガン即興演奏を行なえば、バッハに師事した当地の楽長ヨーハン・フリードリヒ・ドーレスが感動してしまった事件もあった。やがてプロイセン王のサン・スーシー宮殿があるポツダムに到着、しかし国王には謁見叶わず、もう一度ライプツィヒを廻りつつ、今度はライプツィヒで演奏会を開き最後の3つの交響曲でも演奏したかも知れない。しかし、リヒノフスキーは用事でもあったか100フローリンほどモーツァルトから借りてヴィーンに戻ったので、気にせず一人でベルリンに到着したのである。ここでは上演中の「後宮からの誘拐」で「音が違う!」と叫んだら、「先生だ!マエストロがいらっしゃるのだ。」と一同大騒ぎになったという、わざとらしい逸話が残されているが、5/26に見事御前演奏を果たし、子のないフリードリヒ大王が皇太子に指名し国王となったフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(在位1786-1797)から、「どうか6曲の弦楽4重奏曲と、娘のためのやさしいピアノソナータを書いておくれんかな」と注文され、6月始めにヴィーンに帰ってきた。ただし、実際はそんな依頼は無かったのではないかとの推測もあるようだ。
 さっそく注文された作曲を開始したモーツァルトだったが、弦楽4重奏曲ニ長調(K575)とピアノ・ソナータニ長調(K576)まで作曲して停滞。あるいは予約演奏会開催を目論んだのに、予約者がスヴィーテン男爵のみであった衝撃で、しばらく「たった一人の」とうわ言のように繰り返して居たかも知れない。作曲のペース自体も89年にケッフェル番号にして20曲未満で、来年の90年にはたったの7曲に落ち込むことになる。そんなこともあって、この時代は「モーツァルト危機一髪時代」と呼ばれることもあるそうだ。おまけに7月には妻のコンスタンツェが一時生死の境を彷徨うほどの病気に掛かったこともあって、お金に困ったときのお手紙相手として、またしてもプーフベルクに借金の手紙が舞い込んだのである。
「妻の不幸な病気のために収入の道が閉ざされた私が、懸命に奮発して予約演奏会を開こうとしたところ、2週間も名簿を回した挙げ句に、予約者の名前にはスヴィーテンの名前しかないのです!」
8月後半にはヴィーンで「フィガロの結婚」が再演され、コンスタンツェは妊娠中の体を一人バーデンに保養に出かけていたが、お腹の子供は11/16に生まれるやいなや亡くなってしまった。その間にも、9月にクラリネット奏者アントーン・シュタードラー(1753-1812)のためにクラリネット5重奏曲イ長調(K581)を完成させると、10月に心疲れ果てたる皇帝ヨーゼフ2世からオペラの依頼が舞い込んできたモーツァルト。皇帝は通常の2倍にあたる200ドゥカーデンを支払い、実は一番のお気に入り作曲家モーツァルトの音楽で、心を癒したかったのかも知れないね。こうして89年後半はダ・ポンテ台本によるオペラ「コシ・ファン・トゥッテ(女は誰もこんなものさ)」(K588)の作曲に専念するのだった。
 また、アロイージア・ウェーバーの旦那さんヨーゼフ・ランゲの描いた有名なモーツァルトの未完成肖像画もこの頃に製作されているらしい。モーツァルトの容姿は、小男のやせっぽちで、頭がでかく青白く、鼻が際だって、端正で美しい美男子とはお世辞にも云えなかったようだが、未完の肖像画だけでなく、ランゲは後にモーツァルトの性格についてもコメントを残している。また、心持ちで記しておこうか。

「いやはや、彼は重要な仕事に打ち込めばなおさら、話し方や動作が駄目駄目でした。そうなったら、悪い言葉使いで脈絡のないお話にうつつを抜かし、普段なら到底言いそうもない非道い冗談をお言いなさって、もう大爆発なのであります。」

1890年

 明けて90年の1月にオペラを完成させたモーツァルト、さっそく親友のハイドンとプーフベルクを呼び、試演などを試みて、1/26に初演となった。このオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の内容はざっとこんな感じだ。
 ナポリを舞台に2人の男フェランドとグリエルモが、哲学者ドン・アルフォンソと掛けをして、2人の婚約者ドラベッラとフィオルデリジという姉妹に対して、戦場に行くと言い残して、立ち去る。嘆く婚約者どもに変奏したフェランドとグリエルモが、互いに相手を変えて口説け落とせるかどうか、まあ試してみようじゃないか。以下、後半に続く・・・・というのが趣旨になっているが、結局この年の内に10回再演された。
 ところが自称啓蒙主義の皇帝ヨーゼフ2世は、自ら注文したこのオペラを見ることも叶わず病に伏せていたが、2/20に何事も中途半端なまま、噂によると「我が意図はすべて優れり、されど我が成果はすべて劣れり」という言葉を残してお亡くなりて、彼の弟レーオポルト2世(在位1890-92)は即位すると、農奴制廃止令を取りやめたり兄の改革を後退させようと目論んだ。モーツァルトは去年依頼されたプロイセン国王のための弦楽4重奏曲を変ロ長調(K589)、ヘ長調(K590)と作曲を続けたが、結局彼の弦楽4重奏はこれでお仕舞いとなり、6曲のセットが完成することは無かったのである。8月には妻がまたバーデンで保養するというので、後からモーツァルトも追い掛けて、しばらく留まったが、どうも頭痛や不眠で調子が上がらない。10月には皇帝の戴冠式が開かれるので、宮廷作曲家として期待するところあったが、自分の名前は見あたらない。負けじと自費で戴冠式の行なわれるフランクフルトに出張し、市立劇場で演奏会などを開き、ついでにマインツで選帝候の前で演奏し、マンハイムでドイツ語版「フィガロ」上演に立ち会い、ミュンヘンではカンナビヒなど旧友に再開しつつ、例のカール・テオドールの要望で、当地に来ていたナポリ国王の前で演奏し、演奏旅行を繰り返しながら11月10日頃ヴィーンに帰宅した。この間にコンスタンツェはヴィーンでのお引っ越しを済ませていたが、モーツァルトは「フィガロ・ハウス」までは行かないものの、化なりの広さを持つ年間家賃330グルデンもするという。本当にお金に困っていたのかしら、と疑問がよぎるぐらいだ。さて帰宅するとロンドンの劇場支配人からロンドンに来ませんかとお誘いを受けたが、踏ん切りがつかず、悩んでいる内に、ザーロモンに誘われたハイドンの方が、ロンドンに旅立つことになった。この時の様子をハイドンの項から拾い出してみよう。

・不安に駆られたモーツァルトは、いっちゃあ嫌だい、いっちゃあ嫌だい、と駄々をこねて心配したが、これをなだめてハイドンは、ロンドンに向けて出発する。出発の馬車に乗り込むと、モーツァルトはハイドンの顔をじっと見て、「もうお別れになるかも知れません。随分ごきげんよう」と小さな声で言った。目に涙がいっぱいたまっている。ハイドンは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。馬車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から顔を出して、振り向いたら、やっぱり泣いていた。何だか大変小さく見えた。小さく見えるのは当たり前だ、モーツァルトは翌年天上に帰っていってしまうのだから。

 こうして2人は最後の別れを果たすのだが、この年はどうも1年中体調がさえないで、作曲された作品も非常に少なく、旅行中の自動オルガンのための作品や、井上太郎氏が愛して止まないと叫んでしまう弦楽5重奏曲ニ長調(K593)などが残される程度だ。
 ところでこの自動オルガンのための作品というのは、ヨーゼフ・ダイム・フォン・ストリッテッツ伯爵(c1752-1804)が、昔決闘をして一時貴族の称号を取り上げられていた時にミュラーという名前で、石膏像やら蝋人形やらを集めて1780年頃から、ヴィーンで「ミュラーの芸術ギャラリー」などを開催し、次第次第にオルゴール付き蝋人形美術館に変容をとげていった。彼が、1790年にラウドン将軍(決してうどん大好きの「La、うどん将軍」ではない)が亡くなった時、将軍の等身大蝋人形を飾る霊廟用に自動オルガン用の作曲を依頼。「アダージョとアレグロヘ短調」(k594)が作曲されたのである。モーツァルトはさらに翌91年、美術館の自動オルガン用に、優れた作品である「ファンタジーヘ短調(K608)」、「アンダンテヘ長調(K616)」を完成させている。今日ならディズニーランドで流す音楽を作曲したようなものなのだろうか、新聞に美術館の紹介がのせられ、優れたモーツァルトの作品が鳴り響く、と書かれているから面白い。

1891年

 88年頃に大部分作曲されていたらしいと考えられているピアノ協奏曲変ロ長調[27番](K595)が1/5に完成し、91年の目録を開始したこの年は、続けて子供向け歌曲集のために、27番協奏曲の最終楽章旋律を使用した有名な「春への憧れ」(K596)や、さらに沢山の舞踏音楽を作曲しつつ春を迎えた。これらの舞踏曲は宮廷での舞踏会用に作曲され、一方自動オルガンのための曲として、ヘ短調の幻想曲(K608)も完成、去年の体調不調もどうやら回復したらしく活気に溢れていると、ヴィーンのヴィーデン劇場で活躍するヨーハン・エマーヌエル・シカネーダー(1751-1812)からドイツ語のオペラを遣らないかと進められたのである。丁度相棒のロレンツォ・ダ・ポンテがあまりにもヨーゼフ2世の寵愛高かったため、皇帝がお亡くなりた途端に解雇されて、がっかりしているモーツァルトだったが、シカネーダーとはすでに80年にザルツブルクで知り合いだったし、83年には一座を連れてヴィーンに来ていて、アウフ・デア・ヴィーデン劇場で興行を行なっており、おまけにフリーメイスン仲間でもあった。ドイツ人がすぐれたドイツ語オペラを完成させなくて一人前と云えるかとの意気込みを持つモーツァルトも、シカネーダーの誘いにもちろん大いに乗り気になった。どうやらこの2人は、本来極秘のフリーメイスンの身内儀式を織り込んだオペラを思いつき、これを荒唐無稽なおとぎ話で覆うという壮大な計画に取り付かれたようである。実際は会話部分も存在するが、モーツァルトはこれをドイツ語オペラだと明言した。
 最後の弦楽5重奏となった変ホ長調(K614)やグラスハーモニカ(グラスに水を入れて回転させながらふちに指を乗せると不思議な音が鳴る。こうしたグラスを沢山並べたものだが、これは避雷針の発明者ベンジャミンフランクリン(1706-1790)が考案した、お碗状のガラス版を回転する中心軸に対して縦に連続的に並べて、お碗の下に水を張って、これをあたかも鍵盤を弾く変わりに指を当てて音を鳴らすと言う楽器。)のためのアダージョハ長調(K356[617a])などを作曲した後、5月頃からいよいよ渡された台本「魔笛(Die Zauberflote)」(K620)の作曲に取りかかったが、競合相手との兼ね合いから台本もどしどし変更されながら作曲を続ける。するとヴィーンの中心にちくちくと尖塔がそびえるシュテファン寺院の楽長(c1730-93)が病気だという。それはそれはと行動を起こして嘆願書を提出すると、モーツァルトに5/9付けで副楽長就任が転がり込んできて、これは無給だったが、いざという場合には楽長になるだろうと思われた。(運悪く?楽長は病気から復活してモーツァルトより長生きするのだが。)最近ではキリエニ短調(K341)という名曲は、副楽長就任に関連してこの年作曲されたのではないかと考えられている。6月に入ると妻のコンスタンツェが出産を控え保養のため息子カール・トーマスとモーツァルトの弟子ジュースマイヤーを伴いバーデンに出かけ、モーツァルトはプーフベルクや他の人に金よこせの手紙を書きつつ、「魔笛」の作曲を続け、6月になると妻を追ってバーデンに到着した。そして、妻の世話などしてくれたバーデンで教会の合唱隊長アントーン・シュトルのためにモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K618)を作曲し、7月後半に2人でヴィーンに帰ると、コンスタンツェは6人目の子供を誕生させ、彼はフランツ・クサーヴァー・モーツァルト(1791-1844)と命名された。この子は意識が付く前にお父さんがお亡くなりたのに、親子の遺伝か後に音楽家として活躍し、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世と自ら名乗って己惚れてみた。
 ところが、7月に依頼人の名前を明かさない条件で金さ払うから「レクイエム」(K626)を作曲して呉れろという依頼が舞い込んできた。後に判明したことによると、フランツ・フォン・ヴァルゼック・シュトゥパハ伯爵という奴が心だ妻のためのレクイエムを自作として演奏させたいが為に、知人のライトゲープに頼んで、このライトゲープが仮面を付けてモーツァルトの家の扉をどんどん叩いて、モーツァルトを死に神の恐怖に追いやった・・・・というのは映画の見過ぎである。ただし、実際の作曲は「魔笛」が完成してから本格的に行なわれたと考えるのがよいそうだ。そしてもう一つ、レーオポルト2世の戴冠式のためのオペラ・セーリアの差曲依頼が舞い込んできて、このオペラ・セーリアのためにしばらく「魔笛」は中断気味になった。弟子との共同作業というルネサンス工房的手法でセーリアの作曲を行ない、わずか18日で完成、9/6の初演に間に合わせるという驚異的作曲によって、見事オペラ・セーリア「皇帝ティートの慈悲」(K621)がプラハで上演され、モーツァルトは200ドゥカーデンの収入を獲得、おまけに直前に再演された「ドン・ジョバンニ」の指揮もこなし、また戴冠式でのミサ曲はサリエーリがモーツァルトのミサ曲ハ長調を2曲(K317とK337)を指揮し、このため(K317)の方は後に「戴冠式のミサ曲」とあだ名されるほど、プラハの熱狂ここに極まったようである。

皇帝ティートの慈悲

・このオペラ・セーリアは皇帝レーオポルト2世のボヘミア王即位指揮のために依頼された物である。台本はメタスタージオの代表作であるが、もはやメタスタのスタイルも時代から乖離(かいり)していたので、ザクセン宮廷の詩人カテリーノ・マッツォーラと共に原作のアリアの大幅カットと、重唱増加などが進められた。ティートとは、ローマ皇帝ティトゥス(39-81)の事であるが、脱線だらけのアカデミの事だから、説明が反れることは避けられないだろう。まず暴君としてお馴染みのネロ帝(37-68)の時代にイスラエルで暴動が起き、ネロ帝は将軍ウェスパシアヌスらを派遣、第1次ユダヤ戦争(66-70)が開始したが、このウェスパシアヌスの息子こそがティトゥスである。ところがこの戦争の最中68年にネロ帝はクーデターによって自害に追い込まれ、ローマ帝国は4人皇帝が入れ替わり立ち替わる混乱に陥った。慌てローマにもどるウェスパシアヌスは最終的に69年12月に前皇帝を打ち、ローマ皇帝としてフラウィウス朝が開始。70年にはエルサレム攻略を息子ティトゥスに任せて、息子は見事ユダヤを攻略したのである。こうしてイェルサレム神殿が破壊され、今日残る嘆きの壁だけがその名残を留めることになるわけだが、一方ティトゥスの方はローマにティトゥスの凱旋門などを立ててもらい、親父の後に皇帝に就任したわけだ。彼の就任中にはヴェスビオ火山大噴火でポンペイが消えて無くなる(79年)事件もあったが、メタスタージオのオペラでは、先王の娘や部下に裏切られつつ、最後に罪を悔いた彼らを許してやる俺様、というセーリアの支配者礼賛ストーリーが繰り広げられるものだ。つまり、皇帝ティートがユダヤ王女であったベレニーチェと結婚する積もりのところ、先の皇帝の娘ヴェテッリアが妃の地位を狙い、愛人セストにティート暗殺を促して始まるストーリーは、ベレニーチェとの結婚中止や、セストの妹セルヴィーリアと恋人アンニオや、皇帝がセルヴィーリアを妃にするだの進行するが、まあ以下興味のある人は見て下さいぐらいで、終わりにしておきましょう。

 その後ヴィーンに戻ると、体調悪化にめげず漸く9/28に「魔笛」が完成し、9/30にヴィーデン劇場で初演が行なわれ、日に日に圧倒的な成功を噛みしめることになった。シカネーダー一座とどんちゃん騒ぎを満喫して、体調も堅調そうでだったが、嬉しくて10月始めに泣き笑え状態を表わした傑作クラリネット協奏曲イ長調(K622)を完成させる頃から、レクイエムへの作曲にのめり込んでいった。10月後半にはノイローゼみた様に作曲に取り付かれたモーツァルトを、妻のコンスタンツェがプラーター公園に連れ出したところ、泣きながらレクイエムは自分のために作曲しているだの、誰かが毒をもっただの、大騒ぎするので、妻が夫の死後このことを思いだした途端に、毒殺説が大ブームを巻き起こすことになる。しかし、これはまだ後の話、11月に入ると「フリーメイスンの為の小さなカンタータ」(K623)も作曲され、自身指揮をする気丈な所を見せたが、残念ながらこのカンタータを持って彼の目録は終止符を打つことになる。なぜなら、次第に体調悪化が非道くなって、11月後半にはベットでの生活となり、それでも「レクイエム」の完成を目指したが、残念ながら体調回復せず、12/4には友人とレクイエムの部分を歌い、作曲中の「ラクリモーザ」の部分で泣きだしてしまったという逸話も残されている。最後の日もジュースマイヤーに「レクイエム」完成の指示を与えるなどしたが、12/5の0時55分にお亡くなりた。死因は今だ確定していないが、検査が今日的でないのだから、資料不足で確定しづらいのは一般的事象である。カール・ベーアの説ではリューマチ性炎症熱に掛かっていたモーツァルトが、急性心不全か、瀉血(当時は病気の時に血を抜くと治ると考えられていた)で血を抜かれたせいだとされているが、どうも皆の大好きなサリエーリ毒殺説はあまりにもドラマティック過ぎる気がする。検屍(けんし)では、毒殺的症状の痕は何もなかったという。

サリエーリ毒殺の広まり

 生前からモーツァルト毒殺説が巷のうわさ話として囁かれた挙げ句、ロシアの文豪プーシキンが1830年に「モーツァルトとサリエリ」を仕立て上げちゃったら、見事毒殺の首謀者として後の伝説を確定させられて、20世紀映画の「アマデウス」でとどめを刺されてしまう。それにしてもサリエーリ先生、せっかくベートーヴェン、シューベルト、チェルニー、フンメル、リスト、モシェレスなど名だたる作曲家に技術を伝授しましょうと後継指導致し、シューベルトに至っては無料でレッスンを見てやるほどの教育的人物だったのに、あまりにも悲惨な結末。彼の名誉のために一言付け加えようと思ったが、残念ながらやっぱり彼の作品は一流ではなかったか。

 最後の時、部屋には妻コンスタンツェと、彼女の妹ゾフィー、さらに医師が居た。埋葬の細かい経緯も明瞭とは言い難いが、あまり興味がないので、最後に魔笛の粗筋などを記して、これを持って打ち切り御免としましょう。

魔笛

 所はエジプト、時は遙か昔のことである。王子タミーノは驚いてしまった。大蛇だ、大蛇が追い掛けてくるではないか。のたくり舌出しシュルシュル音まで立てて迫り来る大蛇の勇姿に、今や肝っ玉も取り落として心の臓は飛び出んばかり、非常な勢いで逃げながら次第に意識が遠のいて行く有様だった。あわや大蛇の餌になるのは免れぬか、そう誰もが思ったとき、お優しすぎた王子タミーノに、しかし救いの手が差し伸べられたのである。誰だ、いったい誰が現われたというのだ。鹿か!それとも森の熊さんか!想像を膨らませる我々の前に現われたのは、エレボスニュクスもびっくり「夜の女王」という大した奴に仕える侍女達だ。彼女達たちまちの内に大蛇を軽く打ちのめして、ほほほほと笑ったりしていたが、救って遣った相手は誰かいなと顔を覗いた途端にはっとした。お優しく気を失ってしまった王子タミーノのあまりの美しさにぞっこんいかれ・・・・じゃなかった、つい見ほれてしまったのである。侍女達はさっそく夜の主である「夜の女王」のもとに走り出す。たちまち入れ替わって登場するのは焼鳥屋の山ちゃん・・・ではなく、鳥刺しのパパゲーノだ。パパパパと騒ぎ回っている内に目ざめたタミーノに対して、俺様が大蛇を倒したのだから感謝して貢ぎ物でもよこせと法螺を吹いていると、さっそく戻ってきた侍女達が、女王に変わってお仕置きよと決めぜりふを吐いて、パパゲーノの口に錠前を付けてしゃべれなくしてしまった。変な漫才を見せられて茫然自失たるタミーノに、侍女達が話しかける。夜の女王の娘であるパミーナの肖像画を見せながら、こんな美しい娘っ子がザラストロという悪魔に捕らえられているの、ねえ、何とも思わないの、だらしないわねえ、などと問いかければ、タミーノの方は肖像画をみてたちまちぞっこんいかれ・・・じゃなかった、見惚れてしまったものだから、僕が助けに行かなくちゃ王子様としていけてない、と内心思ったかどうだか、僕が、僕がぜひとも救い出しますと宣言すれば、よくぞ申した、雷鳴轟き夜の女王が登場すると、ぜひとも、ぜひとも娘を救ってやっておくんなさいましと訴える。こうして目的を持った勇者となったタミーノは、パーティーを組むためにパパゲーノの口の錠前を外して貰い、こいつを一緒に連れて行くことにしたのだった。女王の侍女達は、タミーノには魔法の笛を、パパゲーノには魔法の銀鈴を渡し、2人はザラストロを倒すべく、パミーナの捕われている城へと向かうのである。
 ザラストロの城に向かうとまずパパゲーノが、偶然パミーナを発見。黒人のモノスタトスというやつが、黒い悪魔を演じて脅かしてパミーナを気絶させておいて、ぐへへへと近づいたところに、鉢合わせたパパゲーノは黒い悪魔に驚いて飛び上がるが、相手も体中の鳥の羽に驚いて、両人逃げまどったりしながらも、パパゲーノはパミーナに白馬の王子様が貴方の元に現われますと告げておくことは忘れない。
 一方タミーノは神殿の扉を叩いた。叩くやいなや話がおかしくなってくる。悪魔ザラストロからパミーナを救いに来たと叫べば、いや違う、それは逆だ、悪は昔から夜に決まっておろう、ザラストロが善でなくて、誰が善き人になれようかと言われ、はてそんなものかと考えながら、しばらくすったもんだが有った後、ようやくパミーナと出会ったタミーノは、たちまち相思相愛ぞっこんいかれ・・・ではなく愛情花開き、それを知ったザラストロが、2人個別に試練をくぐり抜けてこそ愛情なるべし、と告げる。告げるやいなや一幕が降り、以後2幕は試練と勝利、そして夜の女王の野望が砕けて、ザラストロの太陽の世界が満ちあふれて、水戸黄門もビックリの大円団を迎えるのであった。めでたしめでたし。

2005/04/23
2005/05/11改訂

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