ベートーヴェンの生涯 その1

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ワンポイントJ缶(ジョスカン)

 やあ、ワンポイントのジョスカンだよ。今日は音楽史上もっともお騒がせな人物、ベートーヴェンの年号さ。


 「いいな、名を(1770)残せよお前達。嫌にな(1827)るまで曲をかけ。」そう言って別れを告げた偉大な父を、ロマン派達が追い掛ける。


彼が亡くなる頃にはロマン派の旗手達は青年時代なのさ。それじゃ、また。

前史

 「父を否定するあまり祖父を理想の人間と思いこんだのだ。」とメイナード・ソロモンが解き明かすルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)。その理想の祖父もまたルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1712-1773)という名称であり、後に彼は祖父の名前を貰ったことを誇りに思っていた。祖父の代から話を始めよう。祖父はベルギーに生まれ、教会付属聖歌学校から音楽街道をひた走るという、当時の音楽家の標準的コースを辿った。33年にはケルン大司教クレーメンス・アウグスト選帝候(在位1725-61)の宮廷楽団バス歌手となり、ボンに居を構えると、半年後マリア=ヨゼファ・ポルと結婚し、誕生した子供のうちヨハン・ヴァン・ベートーヴェン(1739/40-1792)だけが成長した。
 祖父は劇場でオペラ歌手としても活躍し、選帝候が代わりマクシミリアン・フリードリヒ(在位1761-84)とすぐ宮廷楽長に任命され、1761年から死ぬまでこれを務めた。奥さんのポルはいつの頃からか分からない、やがてアルコール中毒に陥り、おそらく祖父が楽長になるより前には修道院に入れられて、以後死ぬまで出られなかったらしい。息子のヨハンはほどほどの能力で祖父が楽長をする宮廷のテノール歌手として活躍し、音楽教師の仕事も行なっていたが、父親には逆らえず、気力の足りないところがあったという。そんな息子が初めて反旗を翻す。夫に先立たれたマリア=マグダレーナ・ケヴェリヒ=ライム(1746-1787)と1767年に結婚したのである。ルートヴィヒは怒り狂った。彼は結婚に反対し身分の低い女めがと罵ったが、実際はベートーヴェン家の方が身分の低いぐらいだったそう。教養もヨハンよりは奥さんの方があったらしかったが、未亡人であるところが気にくわなかったのであろうか。自由婚を前提に考えるとおかしく感じるが、日本でも案外最近まで些細なことで結婚が反対されたものだし、今日でもそうであると言えるかもしれない。取り立てて騒ぐほどの話じゃなか。
 結局結婚してしまえば、楽長でありワインの販売も行なうルートヴィヒは、すぐ近くに引っ越しつつ彼らに援助を行ない、ヨハンも宮廷と音楽教師の収入を得て、順風のはずだった。69年には長男ルートヴィヒ=マリアが誕生したが、これはすぐに亡くなり、我らが主人公ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが誕生日は確実ではないが、1770年12月17日に洗礼を受けた。出生後1日以内に洗礼を受けるのが通常なので、恐らく16日だろうと考えられている。その後74年にはカスパール=アントン=カールが、76年にはニコラウス=ヨハンが生まれ、男3人兄弟となった。(ベートーヴェンは妄想的に自分を1772年生まれだと思い込み続けたのだそうだ。)
親父からお前は早足のヨハンだ、駄目だ駄目だと言われ続けたヨハンは、73年にルートヴィヒが亡くなると、選帝候に楽長の後任に自分を推薦するような手紙を書いたが、実際は祖父の威光に守られた盆栽だったようで、次第に日陰に落ち込み、やがてアルコール依存症にかかった。妻は悲観主義の傾向が強く、「結婚なんて何のためになりますか。ほんの少々の喜び、あとは悲しみの鎖なのです。」とか「何とたくさんの若い人達が、考えもなしに結婚していることでしょう。」などと愚痴っていたという。

 ようやくベートーヴェンを中心に話を進める時が来たようだ。ルートヴィヒが4,5歳になると、ヨハンは自分が親父に虐げられた復讐をするためか、モーツァルトの神童を真似ただけなのか、息子に熾烈な音楽教育を施した。無理矢理鍵盤の前に連れて行き、ぶたない日はほどんどなかったという。ある時は地下室に閉じこめ、呑み友達と飲み歩いてから寝ている少年を引きずり起こして練習させるなど、自分が優位に立てる唯一の人物、すなわち子供に対して、あらゆる復讐を無頓着に行なって見せたのだろうか。才能溢れる子供が自由に即興したり作曲めいたことをすると、生意気なくそガキめと思ったかまた子供を虐めぬく。
 一方では自宅で息子の演奏会を行なって金を取ったり、78年にはケルンで演奏会を開き神童をお披露目して、本当は7歳なのに6歳の神童と名を打って、優れた収入を得ようとしたが、あまり芳しくなかったのか公開演奏会が繰り返されることはなかった。こんな有様で虐められながら音楽を叩き込まれたような息子に対して、母親が特に情け深かった証拠も残されていないそうだ。7歳になると、ノイガッセの街にある学校に通い始めたが、汚いままほったらかしにされていて、ひとりぼっちで遊び仲間もなく、勉強にもまったく感心が生まれず、足し算より先には進めず、一人で居る時が一番ましといった有様だった。
 ようやく70年代終わり頃から、オルガンやらヴァイオリンやらを先生について習い始め、10歳頃には教会のミサでオルガンを演奏するぐらいに成長した。そしてついに運命の出会いが待っていた。80年頃、ヨハンが当地に来ていたクリスティアン=ゴットロープ・ネーフェ(1748-1798)の元に息子を送り込んだのだ。これによってベートーヴェンの音楽性は独り立ちを始めるのであった。

学習期

 このネーフェは、1771年にライプツィヒでヨハン・アーダム・ヒラーが開講した音楽学校の第1期生として学び、76年にヒラーの楽団指揮の後継として活躍した男で、グロスマン劇団の劇場上演のための作曲と音楽監督を依頼されて79年にボンにやってきた。彼は1781年には宮廷のオルガン奏者の地位も得て、当時は作曲家としても、知識人としても広く知られていた。ネーフェの師であるヒラーがセバスチャン・バッハの弟子から音楽を教わった関係で、ヒラーから「平均律クラヴィーア曲集」を学んだネーフェが、ベートーヴェンにこれを教材として与えたことは有名だ。さらにセバスチャン・バッハの息子であるC・P・E・バッハ(1714-88)も、「クラヴィーア演奏指導の試み」という著作と一連の鍵盤作品によって当時の鍵盤楽器を学ぶ者達の重要な作曲家だったが、やはりネーフェによってベートーヴェンの学習にあてられている。こうして鍵盤楽器の演奏や通奏低音の学習やら作曲法を学び始めたベートーヴェンだったが、思想上においてもシュトゥルム・ウント・ドラングや啓蒙思想に浸っていたネーフェから、何らの影響を受けた可能性が強い。ボンではフリーメーソンのロッジはすぐ潰れたが、81年にはイルミナーティという秘密結社が誕生し、これは危険を感じて後に読書教会という名称で活動を続け、反教会、反君主的な自由主義を信奉した。ネーフェはこれに参加していたし、ベートーヴェンの周りには新しい思想の息吹が渦巻いていたのである。
 ネーフェが宮廷オルガニストに任命されると、弟子のベートーヴェンに手伝いをさせるようになった。ベートーヴェンは宮廷音楽家の正装をして、オルガンの演奏などを開始し、82年には無給ながら宮廷オルガニストの助手に採用、同じ頃には劇場でのオペラ公演のチェンバロ奏者の勤めることがあったという。さらに83年には宮廷楽団のチェンバロ奏者になり、気をよくしたネーフェは83年、クラーマー編集の音楽雑誌に「ケルン選帝候国の音楽事情」と題して、ネーフェ氏に教育されているベートーヴェンが、やがて第2のモーツァルトになるだろうと意気揚々と書き記すほどだった。ここに「ベートーヴェンが、平均律を弾きこなしている」ことが書かれ、「この全調による前奏曲とフーガを知る者には、このことが何を意味するか分かるだろう」とある。関係ないが、セバスチャン・バッハの平均律は、音楽教育の教材として筆写譜として結構広く知られていたんじゃないだろうか。ベートーヴェンは作曲研究のために後々まで平均律の曲を弦楽4重奏や5重奏などに編曲することになる。ベートーヴェンの作曲も開始した。早くも選帝候マックス=フリードリヒに献呈された3つのソナータ(WoO-63、1782-1783)やピアノ協奏曲変ホ長調(WoO-4、1784)など最初期の作品群が作曲され、3つのソナータは83年のうちに出版された。
 84年は重要な年になった。アル中がひどくなる親父に対して、2月に意を決したベートーヴェンは「父に家庭を維持する能力がないため」給料の増額と宮廷副オルガニストの地位を請願した。新しい選帝候はこれに対して、6月から宮廷オルガニスト代理の職を与え、彼は150フローリンの給料を得るようになった。新選帝候マックス(マクシミリアン)=フランツ(在位1784-94)は、啓蒙主義者としてヴィーンにいる兄の皇帝ヨーゼフ2世に足並みを揃えるような改革を打ち出して行くのだが、一時劇場の閉鎖と宮廷楽団の減員など財政政策も行なわれたため、このオルガニストの職は優れた音楽的才能を認めて貰った結果かもしれない。新しい選帝候は民衆の教育にも力を入れ、85年にはボンのアカデミーが大学になるといった具合だった。この84年にはベートーヴェンはマブダチのフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー(1765-1848)の紹介によって、選帝候顧問官だったフォン・ブロイニングが亡くなったあと未亡人となっていたエレーヌの元に紹介された。やがてベートーヴェンは1歳年下のエレオノーレに優しい感情を抱くようになっていったという。
 さて前選帝候に続いて、祖父の親友も亡くなったので、早足のヨハンは下降中の宮廷内の地位に危機感を感じたのだろうか。85年か86年頃、犯罪をやらかしてしまった。亡くなった祖父の親友の土地には自分の権利があると主張し、署名を偽造したのだが、見事に発覚してしまったのである。幸い訴えられずに澄んだのだが、宮廷での地位がお慈悲で名前だけは残っているぐらいまで落ちてしまった。そんな親父が、アル中によって警察に捕まるのを踏みとどまらせる役割まで担うベートーヴェンは、アル中の親父に変わって宮廷音楽家、音楽の教師として活躍しながら、宮廷から年収450フローリンを得て、宮廷音楽家としてはなかなかの額を貰うほどに成長。ついに選帝候のお墨付きを得て87年3月末にヴィーンに向けて出発した。これは恐らくモーツァルトと接触するために選帝候が送り出したらしいが、残念ながらヴィーンに到着すると母危篤の知らせが入り、2週間ほどで故郷に急ぎ戻るはめになった。モーツァルトが激励したという逸話は恐らく出鱈目だとされているが、モーツァルトのピアノ演奏は生で聞いていて、「見事だが、レガートではない」という感想が残されている。亡くなる前にはボンに辿り着いたが、7月に母親を失ってからは一家全員を守る立場に立たされてしまった。
 ついに芯の随からアル中の親父に対して、ベートーヴェンは1789年に選帝候宛の嘆願書を提出。彼の給料の半分を家計を切り盛りする自分に支払い、ヨハンは退職させるようにと願い出た。これは認められたものの、父親が自分が定期的にお前に支払うから、給料支払いの権利まで奪わないで下さい、おいおいめそめそと泣きだしたので、まあ止めにしておいた。父親は結局1792年に亡くなったのである。あたかも啓蒙主義君主であったヴィーンのレーオポルト2世がこの年急にお亡くなりたように。(何の関係があるんだ。)ここだけの話だが、ベートーヴェンはこれでお荷物から解放されたのであった。そしてこの1789年の嘆願書に合わせるように、作曲された作品が急増して、2つのカンタータを含むかなりの作品が生み出されていくことになる。

ボンでの環境

 ネーフェが劇場作曲家として就任したことはすでに述べたが、結構な音楽都市であったボンでは、イタリアオペラにフランスのオペラ・コミーク、ドイツ語のジングシュピールから、普通の劇まで様々な劇場作品が上演された。例えばモーツァルト、グルック、チマローザ、サリエリ、ペルゴレーシ、ゴセックなどなどの作曲家達のオペラを楽しむことが出来たし、ネーフェの作品も上演されていた。器楽曲もハイドンやモーツァルトの交響曲やソナータ、ハイドンの好敵手イグナーツ・プレイエルの作品などメジャーどころろは出版され、宮廷図書館はこうした作品を蔵書として、さらに膨大な宗教音楽作品が納められていた。
 そんな環境で大いに音楽を吸収したベートーヴェンだが、このボン時代で特に重要なのは、「皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ」(WoO-87,1890)と「皇帝レオポルト2世の即位を祝うカンタータ」(WoO-88,1890)である。これらの曲は結局実際には演奏されず、1884年に再発見されるまで忘れ去られていたが、ブラームスが「ヨーゼフ」の方を見て、「ベートーヴェンがそこに居るじゃないか!」と叫んでしまったほど、ベートーヴェンらしさがかいま見えるのだそうだ。
 人間関係も、70年代の学校のように寂しくはなかった。むしろ恵まれない一桁年代を埋め合わせるように、彼は友人に恵まれ、10代を謳歌した。まずは宮廷楽団員との親しい関係があげられる。
 例えば、ニコラウス・ジムロック(1752-1834)は74年から宮廷のホルン奏者を務め、ベートーヴェンはホルンを軽く練習しながら楽器に触れる機会を得ることが出来た。1800年に書かれたホルンソナタは、ベートーヴェンにとって金管楽器では唯一のソナタであり、彼がまだナチュラル管だったホルンの技法を熟知していたことがよく分かる作品だ。このジムロックは初めは副業的に、後には本格的にボンで出版事業を行ない、ベートーヴェンの重要な作品の出版も手がけている。
 アントン・ライヒャ(チェコ語アントニーン・レイハ)(1770-1836)はベートーヴェンと同じ年生まれで、プラハで生まれたのだが、1785年から選帝侯マクシミリアンの宮廷楽団のフルート奏者となっていた。青年時代の親友であり、何を学んだかはともかく、2人で一緒にボン大学に入学を果している。
 フランツ・アントン・リース(1755-1846)は宮廷楽団のヴァイオリン奏者としてベートーヴェンの面倒を見てくれた。後に彼の息子フェルディナント・リース(1787-1838)がベートーヴェンのピアノの弟子となることは有名だ。
 多くの人々と交友を深めた80年代後半、彼は娘達のピアノ教師として有名貴族のブロイニング家に通うようになった。未亡人のエレーヌ・フォン・ブロイニングはベートーヴェンにとって一種の母親代わりとなったそうだ。また友人からさらに踏み込んだ関係に行くかよそうかの間柄?だった、娘のエレオノーレとは、彼女がヴェーゲラーと結婚した後も手紙の遣り取りが続いている。もちろん大親友のヴェーゲラーとも死ぬまでの手紙の遣り取りがあるわけだ。ただし、基本的に女性関係は非常に奥手でござった。
 このブロイニング家にはクリストフ、ローレンツ、シュテファンという息子達も居たが、彼らともたちまち仲良くなった。特にシュテファンはベートーヴェンがヴィーンに出てから再開し友好を深め、亡くなる頃にも非常に濃い友情関係を持つことになる。ブロイニング家では多くの貴族達と知り合うことが出来、他にも後々まで重要な関係を持つ人々も含まれている。例えばヴィーンの名門貴族フェルディナント・ヴァルトシュタイン伯爵(1762-1823)ともここで知り合い、ベートーヴェンの才能に惚れ込んだ伯爵は、彼にシュタイン製のピアノを贈り、ボン時代の作曲に生かされたのは、有名な話だ。
 また会員ではなかったがネーフェの入っていた読書教会との関係も強く、90年に亡くなった皇帝ヨーゼフ2世の詩を悼むカンタータは、この教会から委嘱(いぞく)された。さらにボンのツェーアガルテンという居酒屋は、未亡人のアンナ=マリア・コッホが本屋と共に経営し、大学教授や急進思想家や、知的好奇心旺盛な者達が夜ごとに集まっていたが、ベートーヴェンもここに通っていたそうだ。そんな居酒屋では、「右を見ても左を見ても、カント、カント、そういう私もカントが好きなのよね」といった有様で、思想界は啓蒙思想とカントに溢れかえっていた。ベートーヴェンは後に1820年に例の名言「われわれの内なる道徳律とわれわれの上の星空ーカント!!!」という言葉を会話帳に残している。ベートーヴェンは知識熱が高じてか、革命の勃発する89年には、親友のアントン・ライヒャと友にボン大学の学生として名前を登録しているそうだ。
 どのぐらい大学に通ったのかは不明だが、シラーにも共感を覚え「歓喜の歌」にはボン時代から作曲の意志を見せていた。シラーの友人でボン大学に招かれていたフェッシェニヒは、シラー夫人に宛てて「この少年はシラーの歓喜を全節作曲しようとしています」と書いているが、恐らくベートーヴェンはフェッシェニヒの大学でのシラー講義も聴いたりしたのだろう。そしてこの計画は、晩年に交響曲第9番に結晶化されることになる。さて一度閉鎖されたものの再開された劇場で、ベートーヴェンはヴィオラ奏者としてオケに参加していたが、この革命の年1789年にはモーツァルトの「後宮」「ドンジョヴァンニ」「フィガロ」がボンで初演され、その音楽に触れることが出来た。

フランス革命勃発(1879年7月14日)

 さて、啓蒙思想に大きく触れカントの思想に沸き返るような時代の熱気を感じていただろう若きベートーヴェン。すでにアメリカ東部13州がイギリスに対して起こした独立戦争(1775-1783)などの話も、青年達の話題に上ったことがあるはずだが、やがて1879年ヨーロッパを震撼させるビックニュースが彼の下に飛び込んできた。フランス革命の勃発、すなわち民衆達の蜂起である。
 経済の行き詰まりや、フランスの身分制度であるアンシャン・レジーム、最下層民の悲惨さ、啓蒙思想がエリート層を中心に共通理念となったこと、貴族の中に同調者が多数存在したことなど、様々な理由が重なって劇的に進行したフランス革命は、特に第3身分の代表者となったものたちが「国民議会」として議会制度を樹立する行動と、1789年7月14日に起こったバスティーユ牢獄襲撃という民衆の暴動によって、王朝崩壊から共和制樹立へと突き進んでいったのである。そしてただちに、君主制崩壊を恐れる各国との間に、革命戦争が引き起こされていくことになる。ベートーヴェンの生きた時代は、革命騒動と革命戦争の中から、ナポレオンが頭角を現し、ついに独裁者として皇帝になると、各国に圧力を強め、これに対して反ナポレオンの連合軍が、最終的にナポレオンを凋落させ、1814年15年のヴィーン会議によって、革命前の素敵な君主制の枠組みを守りましょうと叫んで乾杯を上げるという、非常に劇的な時代だった。  すでに92年に神聖ローマ異国最後の皇帝フランツ2世(在位1792-1806)が即位すると、それまでの啓蒙主義の運動を次々に叩きのめす反動政策を開始。カウニッツを罷免し、防衛司令官の処刑したりしていたが、フランス革命に対してプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(在位1786-1797)と結び、フランス干渉戦争を開始することになる。革命と干渉戦争のニュースは次々にヴィーンの市民達にも伝えられ、好奇心はともかく、誰もが時代の劇性のもたらす熱気のようなものを感じていたに違いない。そこで、ベートーヴェンが革命について記し、語った事実から、革命とベートーヴェンをつぶさにリサーチするというも楽しいかも知れない・・・・楽しいかも知れないが、私のポケットにはちいっとばかり大きすぎるので、これは誰か博識な方が遣って下さい。

・・・とにかく

 時は満ちた。偉大なるハイドンがロンドンに向かう途中と、帰って行く途中の2回ボンに立ち寄ったのだ。ハイドンを誘い出したザーロモンが昔ボンの宮廷楽団でヴァイオリンを弾いていた関係か、恐らく帰宅途中の立ち寄りでベートーヴェンは自作のカンタータを見て貰ったのだ。彼を押す貴族達やハイドンを賛えるネーフェの様々な尽力があったのかもしれない。ベートーヴェンは選帝候から1年の有給休暇を貰い、ハイドンの弟子としてヴィーンに向かうことになった。皆の記述のある記念帳にはヴァルトシュタイン伯爵が「たゆまない努力により、モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りたまえ」という有名な文句が記入され、好きだったエレオノーレからも言葉を貰っている。こうして彼は92年11月始めにヴィーンに向かって発ち、次の月に例の親父ヨハンがお亡くなりた。死ぬのが分かっていて旅出ったのかも知れない。時に「いいな国(1792)にはかえさぬぞ」でお馴染みのドメニコ・チマローザの「秘密の結婚」が初演された年であった。(・・・なんの関係があるんだ。)

2007/4/7

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