詩編唱と最後の晩餐

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ヘブライの詩の形式と詩編

 さて、詩編(Psalms)とは何でしょう。それは歌うことを目的とした宗教的な詩に他なりません。しかし、音楽の詩と聞いて言葉の規則正しい配列と同じ場所での発音の色合わせだけを思い浮かべるとしたら、それはあなた方の狭い知識が引き起こした自己中心的な蜃気楼に他なりません。前のギリシアの講義で散々に教え込んだことを少しは思い出して下さい。この間の授業では、古代における詩とは、発音の長短・強弱・高低が3つ混合されたリズムパターンによる一定の繰り返しの継続にあることを見たはずです。そしてこのことはギリシア語だけではなく、ヘブライ語であれ、またラテン語であってもまったく同じでした。実は、このギリシア語やラテン語に特徴的な長短によるリズム表現こそ、もっとも多彩に表現豊かな言語リズムを表現出来きたのです。皆さんはてっきり音の強弱や高低こそがリズムを定義していると思いこんでしまいがちですが、それはとんでもない間違いです。なぜならギリシア語などにおいて発音される言葉というものは、丁度音楽における旋律のように一定の抑揚を上下しながら波のように進行する性質を持っているからで、言葉のリズムというのは打楽器リズムのように一定時間をパルス信号的に刻むものではなく、波の周波数のように振幅の大きいところから0地点の幅を行き来しながら一定のリズムが形作られているからです。ギリシア語では長短のリズムに合わせる形で、高低と強弱が付き従っていましたし、それはラテン語にも受け継がれていきます。ついでに言っておくと、強弱言語に生き甲斐を見いだしてのさばっていたゲルマンの民がラテン語を、次第に各国の言葉に変えていった後でさえ、その伝統はいくらかヨーロッパ言語の中に姿を偲ばせているのですね。一方で高低アクセントだけではまったくもって表現豊かなリズムを獲得できないことは、切ないくらいにのっぺらぼうのすけ言語である日本語を話すあなた達には、身を切られるほど切実に分ってしまうことでしょう。いや、今のは、ほんのご冗談です。しかし、あなた方の国でも例えば京都や大阪などの方言のように長短が大きく生き残って居る言語の方が、遙かに表情が豊かでしょう。近代国家になる途中で生まれに生まれて育まれてしまった、のっぺら言語である標準語なるものが、おそらくあなた方のかつての言語をすっかり駄目にしてしまったのです。あなた方も西洋音楽を学んで、西洋における音楽と言葉の関係を学び終わったら、ぜひ自国語と音楽について考えるようになって貰いたいものですね。おっと、話しがいつも通りにそれにそれてしまいました。閑話休題強引直接的に言いますと、旧約聖書の言語であるヘブライ語の詩についても、やはり長短に基づく独自の表現豊かな韻律が様々にあって、その部分こそが詩の核心をになっていることを頭に入れておいて下さい。そうしたことは、日本語翻訳ではまるで行方知れずですが、詩編だけでなく旧約聖書の多くの部分が、そのような言葉のリズムによって出来ているわけです。さて、そのことを知った上で、今度は日本語翻訳でも分る、旧約聖書に見られるヘブライ語の詩を特徴付けるいくつかの点を見てみましょう。まず節の平行法(パラレリスムス・メンブローム)というものがあります。これは、詩のある1行に対して、次の1行が併置され対になって2行を形成するという遣り方です。分かりやすく具体的な例を挙げるると、例えばそうですねえ。」
 先生は少し考えていたが、沸き上がるイマジネーションが彼を長い間無口にはさせなかった。

 「私の言ったことで、あなたの役に立たないことがあっただろうか。」という1行があるとします。この1行に対して例えば同様の意味を併置して「私の語ったことで、社会に通用しないことがあっただろうか。」とさらに意味を不変拡大させ、2行がペアとなって意味を強調する。これが一つの遣り方です。今度は逆に、1行目を「黄金の教師の授業は眠くなることがある。」と作っておきます。これに対して2行目を「しかし、私の講義は決して眠らない。」と反語的に並べるとあら不思議、反語的な平行法によって一層私の授業が高められてしまいました。。こうした遣り方の他に、2行目が1行目を補足したり統合したりする統合的な平行法という高次な遣り方もあります。これもちょっとやってみましょうか。」
 先生はしばらく考えて・・・さすがにしばらく止まっていたが。やがて口を開いた。
 「私の涙は、雨が降りやがて溢れた水が河となり、」
 と高く叫ぶと、上から落ちてきた言葉に自分自身で答えて先を続ける。
「その流れが途切れることがないように、止めどなく流れた」
 生徒達が水の流れる記述が多すぎるせいか腑に落ちないような顔をしているのを見て取って、先生もまずいと思ったらしい。
 「これはどうも良くないようですね。素直に詩編の第1編から引用してみることにしましょう。まず、「こうした人は、流れのほとりに植えられた木の、時が来るとやがて実を結び、」ここまでが1行部分になりますね。それに対して2行部分が「その葉もしぼむことがないように、その行いは皆栄える。」と続くわけです。どうです、さすがに先生の即興とは訳が違いますね。豊かな自然描写による比喩が、高い次元で対象物である栄えるの一言に結びつき、文章が完全に結晶化されているのが分るでしょう。しかし、実はこうした例はもっとも単純な形で、この平行法が更に複数の行数で行われる時、交差平行法という拡大されたバリエーションでは、例えば4行の詩があるとすると、1行と4行が、2行と3行がそれぞれ平行関係を結び詩が形成されます。これはもちろん4行に限ったわけではなく、もっと多くの行数がお互いに対応することもあるわけです。でもそれだけで話しは終わりません。こんなものは開始部分の第1の扉に過ぎないのです。今見ているような技法はすべて詩編にも使われていますから、詩編を知るためにも、さらに深く掘り下げて次の扉に進んでみましょう。」

カイアズマス

 ここまで来ると、いったい音楽史の講義なのか、文学の講義なのか、宗教の講義なのか皆目見当も付かないが、このような状態ではボイスレコーダーの音質を落として、長時間録音モードにしておく必要がありそうだ。先生はランプ代わりのラブドスを、筆記用具に変えて、地面にXのマークを書き記した。
 「詩を形成するもう一つの重要な遣り方として、交差配列法(chiasmus)というものがあります。ある長さの文章の中心に折り返し点であるXを置いて、両側のパラレル部分に対する核心の中点を形作るという遣り方で、ギリシア語でキアスモス(キアスマス?)、ラテン語でキアスムス、英語読みならカイアズマスなどと言います。言葉の意味は「X状に交差した2本の線」と言ったところで、ギリシア語Xの発音(キー、カイ)に由来しています。今度はこの遣り方を教えて差し上げましょう。その前に、まず先ほどの交差平行法を使用して一番簡単な文章を作ってみます。例えば、そうですね、・・・「沢山の知識を、教えて下さい、先生、あなただけの、教えを、豊富な知恵を。」という一文があるとしますと、文章が「A,B,CーC',B',A'」のように詩の真ん中を軸として対置されて置かれている事になるりますね。次ぎに、この交差平行法の文章の真ん中に一言を加えてみましょう。「沢山の知識を、教えて下さい、先生、いますぐに、あなただけの、教えを、豊富な知恵を。」こうして新たに「今すぐに」が中心に一言加わると、全体構造は「A,B,CーXーC',B',A'」となり、真ん中の「今すぐに」が、まるで「今すぐにです!」とモーツァルトのお父上が叫ぶ時のように強調されて来るのが分るでしょう。しかもこのパラレルな配置のために、私達の口語文のように「沢山の知識を、教えて下さい、先生、いますぐに、はやく、早く教えてください。」のように感情が溢れすぎて叙事から抒情に流れるのを防いでいます。結果として心躍る楽しい時も、また悲壮に満ちた記述でも一種の構造的な厳粛性が保たれて、宗教的記述にまさに相応しい遣り方だと言えるでしょう。そう言えば先生の即興よりも、もっと良い例がありましたね、もっとも短いキアスマスとして、シェイクスピアのマクベスに見られる3人の魔女の有名な一節、「Fair is foul and foul is fair」というのがあります。試しに何度も口に出して言ってみて下さい、綺麗に(f)が韻を踏んで調子を出している中に、中心の(and)が自然に強調されて聞こえるでしょう。この場合は中心に重要な単語を置いているのではなく、分岐点をリズムと発音の色で強調した詩的な表現としてキアスマスが使用されているわけです。ですから、決して真ん中のアンドを無視して訳してはいけませんよ。今見たのは、もっとも簡単な短い分節ごとのカイアズマスですが、このカイアズマスによるパラレル関係は単語や短い文だけでなく、幾つかのまとまった段落や、それぞれの章同士などの、かなり長い同一概念部分同士の対置関係にも使われ、時には書物全体の内容を規定しているから壮大です。このような文体の作りは、私達になじみの薄いものですが、古代ヘレニズム世界からギリシアにかけて、旧約聖書に限らず広く知られた技法でした。これを理解した上で繰り返し読んでいると、目を通している部分とパラレル関係にある部分が同時に思い起こされるようになり、Xの部分に向かって読んでいることが、同時に最後からXに向かって読んでいるような、X以降を読んでいる最中に、Xから始めに向けて読んでいるような感覚に取り付かれます。そして全体の構造が一度に頭の中を駆け巡り、中心にあるXがクローズアップされた時、あなた方は完全にカイアズマスの虜となることでしょう。そして、このようななじみの薄い構造は、音楽形式を考える上でも非常に頭を柔軟にしますから、もうすこし先に進んでみましょう。」

 先生は、今度は地面に1,2,3と番号を振り始めた。いったい何をするつもりなのだろう。
 「旧約聖書の中は膨大な数のキアスムスで覆い尽くされていますが、例えば君達も知っていそうな創世記の大洪水の部分全体を見てみましょう。いかに君達だって、ノアの箱船の話しぐらいは知っているでしょうからね。では、細かいところは無視して洪水が来たあたりからをざっと見てみましょう。」
 そう言うと先生は地面を黒板代わりに次のように書き記した、と言うより何だかラブドスが勝手に動いているような気がしてならない。

 1.7日間洪水を待つ
  2.箱船に入る
   3.箱船の扉を閉める
    4.40日の洪水
     5.水かさ増える
      6.山々まで覆う
       7.150日間増え続ける
        X.神はノアと獣たちの船を思い出し
       7.150日間水が減り
      6.山々の頂が現われ
     5.水が止まった
    4.40日が過ぎ
   3.ノアは扉を開いた
  2.カラスと鳩を放った
 1.さらに7日間水が退くのを待つ

 「さあ、このように見事にパラレル関係が配置され、折り返し地点のXにおいては、神が思い出した者こそノア、そして彼に続く子孫ユダヤ人達であった事が確認されているわけです。しかも、ここでは途中から書いて見てみましたが、このパラレル関係は、この洪水の部分全体に及んでいるのです。どうです、日付の数が綺麗に統一されていて、初心者であるあなた方にも非常に分かりやすいでしょう。この部分では洪水が起こり去っていくという時間の経過が、見事にキアスムスの形式と一体化して、神がノアを心に留めた事を記述する宗教的な核心部分を、その中心であるXに配置することによって、ストーリー全体が結晶化され一層高められた姿を見て取ることが出来るのです。しかもこの技法は、旧約聖書に限らず、新約聖書にも数多く見つける事が出来ます。例えば、ルカの福音書にあるエリザベツとザカリアの受胎告知の場面を取り上げてみましょう。第1章の行数にして6-25にあたります。」

 1.2人は神の前に正しく戒めと定めを護っていた(6)
  2.エリザベツは子が無く、年老いてしまった(7)
   3.ザカリヤは、祭司の勤めをしていた時(8)
    4.くじを引き、聖所で香をたくことになった(9)
     5.香をたく間、人々は外で祈っていた(10)
      6.主の使いが現われ香壇に立った(11)
       7.ザカリヤは使い恐れた(12)
        X.使いの受胎告知の言葉(13-17行)
       7.ザカリヤは使いを疑い、年齢を告げた(18)
      6.神前に立つ使いが、主の命だと告げた(19)
       信じないから、誕生まで話せなくすると(20)
     5.香の時が伸びて、人々は外で不思議がった(21)
    4.聖所から出たが、口がきけなくなった(22)
   3.ザカリヤは、祭司の勤めを終え、家に帰った(23)
  2.エリザベツは身ごもり、5ヶ月引き籠もっていた(24)
 1.神が自分に心をかけて下さったことを述べた(25)

 「しかも、中心のXが神の使いであるガブリエルの語る5行を形成していますが、その形式が丁度15行目を中心とするパラレル関係になっていて、それと同時に14,15と16,17がペアを組んで、ヨハネがイエスの前に現われ、道を整える大きな役割を担うことを告げているという、調べれば調べるほど楽しくなるような構成が満載です。どうです、皆さんも少し聖書に興味がわいてきませんか。それが駄目なら、まずオデュッセウスを読んで見ても、このキアスマスに触れることが出来ますよ。例えば、オデュッセウスの冥界に行く前後の所などは、「キルケーエルペノルの死ー出発ー冥界行ー帰還ーエウペノルの埋葬ーキルケ」というような構成法になっています。そもそも全体の構成も「イタケ島ー漂流中のオデュッセウスーイタケ島」のようになっていますから、大きな構成自体は非常にしっかりしているわけです。どうです、まるで楽曲解析みたいで面白いでしょう。音楽も詩文学も全体構成については類似点が多く見られるのです。特にそうした詩文を元に音楽を作曲するとしたらどのような形になるのでしょうか。そこに思いが行った時、今度は詩編についても同じ遣り方で見てみることが出来るわけです。詩編は、アウグスティヌスが「祈りの言葉」と呼び、ルターが「聖書のミニチュア」という呟いたように、ユダヤ教でもキリスト教でも、非常に重要な役割を担っています。ユダヤ教で詩編のことを「テヒリーム」つまり、賛美、賛歌の歌と呼ぶように、まさにこの部分が歌うために作られた詩の選集になっているわけですから、ユダヤ教の音楽が、そして後にキリスト教の音楽が詩編を中心にして発展を遂げて行くのはごく自然なことでした。この詩編自体は全部で150編あり、これが5巻に分かれています。そして各巻の最後にそれぞれ栄唱が付けられて締め括っています。そのうち74編もの数が、自らサウル王の側で竪琴を奏で王の精神の病をいやしたとされるダビデ王に帰されていますが、本当のところは分かったものじゃありません。実際は多くの詩が、うっかり偉大なダビデ王に帰されてしまった読み人知らずの詩、と言ったところでしょうか。そしてソロモン王のものが12編、モーセの作であるといういわくの1編の他は、制作者の分らない作品ですが、詩によっては楽器奏者への指示のようなものも見られ、今日風に言えばまさに音楽のための宗教詩集になっているのです。これからキリスト教の初期の音楽を見ていくと詩編唱がやたらと所構わず登場してきますが、それは当然のことだったのです。では、せっかくですから先ほど調べた平行法やカイアズマスの遣り方で詩編唱を一曲見てみましょう。これは、モンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」の中の一曲から詩編147です。要するに聖務日課で聖母マリアを讃える夕べの祈りで唱える詩編というわけですが、実は詩編の番号自体がヘブライ語原典やらキリスト教でのヴルガータ訳などで違ってきますから注意が必要です。ヘブライ語版の147詩編はヴルガータでは146番と147番に分けられているので、ヘブライ語版ではこの前の部分から続いていますし、一番下の小詠唱も元々はありませんから、あくまでも夕べの祈りで切り取られた詩編について、この形で説明するのだと言うことは頭に入れておいて下さい。」

詩編147番

先生はそう言うとラブドスがまた地面に文字を書き始めた。

 1.エルサレムよ、主を褒めたたえよ
  シオンは、あなたの神を褒めたたえよ
  2.主はあなたの門の押えを固くし
   あなたの内にある子供たちを祝福する
   3.主はあなたの国境を平和にして
    豊かな小麦をあなたに与える
    4.主は豊かな言葉を地上に降らせ
     その内容は大地を駆け抜ける
     5.主が羊の毛のような雪を降らせ
      灰のような霜を降らせるとき
     5.パン切れのようなヒョウが降り注げば
      誰がその寒さに耐えられるだろうか
    4.主は豊かな言葉で、氷を溶かし
     やがて風が吹くと、水が流れた
   3.主はヤコブに言葉を与え
    定めと掟をイスラエルに示した
  2.主は他のどの民にもそのようなことはせず
   そのような掟を示さなかったのに
 1.父と子と精霊に栄光があることを願う
  初めにあったように、何時までも変わらず
  アーメン

 「少しあるまじきラブドスの意訳が入っていますが、形式の理解が目的なので、細かいことは気にしないでこの訳で話を進めてしまいましょう。ここでは、中心にXを置く遣り方ではなく、中心部分を形成する(5)の4行を中心にして、両側にシンメトリーな平行法がなされているのが直ぐに分りますが、他にも、一番初めに教えた2行がペアになる平行法によって、それぞれの番号部分が構成されているのも簡単に見つけることが出来るでしょう。しかし本当に重要なのは、それぞれの箇所の意味の配置が形作る論点の中心、それをクローズアップさせる方法にあるのです。つまりここでは、後の西洋世界に見られるような時間を追った縦記述とはまったく違った本質の提示方法が見られるのですが、慣れないと少し分り辛いかもしれません。もう一度、よく見て下さい。この詩編の一番重要な意味は(3)→(1)に向かって読み取ることが出来ます。つまり、我々に定めと掟を授けることによって国を安らかにして国を富ませた主を褒め称えよと言う主旨なのですが、まず(3)の部分の意味は前半2行と後半2行の両方が合わさって完成されています。主は国境を定め自然の秩序によって農作物を与える。それと同じように、民族に言葉を与え、秩序と定めを与えるのだ。それは同時に、言葉を与えることによって国境を定め、定めを与えることによって生活の秩序を与え、豊富な農作物の生産と収穫を可能にするという意味を含んでいるわけです。つまりこの部分は、ただ類似した言葉を並べているわけではなく、前と後ろがそれぞれ補強しあって初めて全体で一つの意味を表わしているわけです。しかも、その意味は一方通行にどちらかに掛かっていくのではなく、前の部分が後ろに語りかけていくような、同時に後ろの部分が前に返っていくような双方向対話が感じられるはずです。今度は(3)の一つ前の両方の(2)を見てみますと、今度は前半のあなた方への祝福に対して後半の(2)が他の民族には決して行わなかったと、(2)同士が反語平行法で絡み合って前半が強調されているわけです。しかし、もっとよく見て下さい、このそれぞれの(2)は、実は(3)に掛かっていて、祝福するからこそ定めと言葉を与える、さらに(3)側から読むと言葉を与えることによって祝福するというように、(3)の2行に対する2行の平行配列を形成し、しかも前半後半どちらの(2)がどちらの(3)に掛かってもまったく同様に平行が形成されるのです。一方(4),(5)では(3)に対して、比喩を用いて主の言葉が私達に投げかけられなかったらどうなっていたかを分かりやすく説明して、強調する形になっています。主が人間というものに対して雪やヒョウを降らせ大地を凍らせる時、誰がそれに逆らうことが出来るだろうか、しかし主は私達に豊かな言葉を降らし、それによって凍えた私達が初めて溶け出して水が流れていくのだ。ここで(5)にあたる一番の中心部分の意味が提示され、反対に主の言葉がなかったらどれほどの飢えと寒さが私達を覆ってくるのか、4行にわたって続けざまに比喩的に強調されて、しかしあなた達には主の恵みが与えられたのだという(3)に対する強調を劇的に高めている訳です。そしてそれほどの重みを持った主の私達への慈悲があるのだから、最後に両方の(1)に同じ比重で立ち返って、だからこそ主を讃えるのです、今すぐにです!となるわけです。しかも、これも大切なことなのですが、この詩はそれぞれの人々個人に語りかけているのではなく、常にイェルサレムに呼びかけて進行していきます。もちろん、イェルサレム、シオンと言った言葉自身にユダヤ民族の意味を含んでいるからですが、ここではむしろ、イェルサレムに語りかける事で詩が完結し、イェルサレムが主を褒め讃えるということは、イェルサレムの民であるユダヤ人一人ひとりが主を褒め讃えることであるという当然の帰結が、詩の外に置かれていることによって、一層人々の心に深く染みいるような間接技法が使われています。更にこの技法によって、主とユダヤの民という2つの階層ではなく、主と祝福された都イェルサレム、その偉大な都の民である私達という3つの階層が成立します。私達である民にとって祝福された都イェルサレムは偉大なもの、しかしそのイェルサレムにとっても主は祝福すべきものであるという、ヒエラルキーを複雑化することによって遠近法のような効果を出し、主の存在を一層高めるという離れ業が、ごく自然になされているわけです。こうなったら、この夜の授業でも、ツアー・デ・フォース(離れ業)と叫び声を挙げるしかなさそうですね。まだまだ見所満載の147番ですが、取りあえずここまで理解したら、今度は何度も何度も口に出してこの詩を唱えてみて下さい。どうです、この縦に時間割されない文章同士の絡み合いが、純粋に美的基準だけで判断しても対位法の曲のようにすばらしい効果を発揮しているのが分るでしょう。しかも、あなた達の日本語にするとお優しくなってしまいますが、元のヘブライ語はもちろんのこと、ラテン語であっても、朗読のスペル自体がイントネーションとアクセントと発音法の絶妙なバランスに気をよくして、信じられないほどの美しさを持った旋律のように感じられ、非常に音楽的に心に浸透するはずです。また同時に、特にこの147番は全体に渡って十全に平行法が使用し尽されているのを見ましたから、ここでこの詩編を十全詩編と定義しておいても差し支えありません。しかし君達、だからといって、すべての詩編がこのパターンで作られていると考えるとしたら、それは逆に大変失礼なことになりますよ。この十全な平行法は、多様な詩編の一要素を形成しているに過ぎません。しかしここまで分っただけでも詩編の作詩法がほんの少しは分ったでしょう。では、そろそろこの場所を離れて少し歩き始めましょう。ヘブライ語ではなく、ラテン語ではありますが、先生が歩きながら詩編を歌って差し上げます。」

 先生はそう言うと、生徒達が立ち上がるまもなく独りでに歩き出し、その歌声が生徒達の道しるべのように先に進んでいった。やがて先生の影は薄くなり、ラブドスの緑色の光と歌声だけが先を進んでいく。私達も急いで立ち上がると、先生の後を追った。気が付けば例の星の瞬きがラブドスの光の直ぐ上にあって、すっかり水平線に近づいている。先生の詩編唱に誘われて黙して歩き続ける私達の前に、やがて小さな3番目の明かりがぼんやりと現われ、ラブドスの緑と天上の青白い光に対して、家族団らんの夕べの色合いで答えているようだった。その明かりは次第に大きくはっきりと形を整え初め、私達が先生に追い付く頃には、はっきりと窓の光の中に人の影さえも映し出された。先生が歌うのを止めて私達に手招きをしたので、私達は先生のように声を潜めて、光の漏れる窓際の方に近づいて行く。すると、先生が辞めたばかりの詩編唱が、窓明かりからこぼれて聞こえて来た。先生は、ささやき声で講義を再開するのだった。  「超新星を追いかけてイエスの誕生が見られると思った皆さん。ご苦労様でした。私がわざわざ口で説明したことをもう一度繰り返すと思ったら大間違い、すでに講義を行った部分は過ぎて、ここはイエスの最後の晩餐の行われた家なのです。この部分を軽く見て、そろそろ初期キリスト教の音楽に話しを移さなければ、私達は時空に巻き込まれて元の世界に戻れなくなってしまうではありませんか。」
 先生はからかっているのか、まじめなのかまるで見当が付かないようなことを言ったが、気の利いた答えが返ってくると思ったら大間違いだ。家の中では、やがて歌も終わり、どうやら皆で食事でもしているらしい。なんだか、こっちまでおなかがすいてきた。

最後の晩餐

 「さて、この最後の晩餐は3つの福音書がユダヤ教の祝祭である過ぎ越の祭りの第1日目だとしていますが、ヨハネの福音書だけはその前日に行われたイエスと弟子達との会食だと記述しています。多くの学者は全体の状況からむしろ、ヨハネの福音書の前日だったという意見に賛成していますが、どちらにしろ、これが過ぎ越の祭りに大いに関係のある晩餐だったことは確かです。ユダヤ教では、7日に一度ある安息日の他にも数多くの祝祭がありました。中でも過ぎ越の祭り(ペサハ)は、エジプトを離れる了承を得るためにモーセがエジプト国王に対して起こした災いの内でもっとも恐ろしい災害、しるしのない家の子供達を皆殺しにしちゃうぞの災いにおいて、ユダヤの民だけがしるしに護られたことを祝う祭りで、太陰暦で春分の日を含む月である「ニサンの月」の15日から7日間行われます。元々は豊穣を祈る農耕祭と牧畜の祭りがあって、まとまって過ぎ越しの逸話と結び合わさったものらしいのですが、重要なことは基本的に民衆がそれぞれ自分の家でお祝いをする、民衆的祭りの性格が非常に強いことなどがあります。ついでですから他の有名な祭日を挙げておきましょう。この過ぎ越しの7週後に7週の祭り(シャブオット)、またはギリシア語で50日後と言う意味の(ペンテコステ)とも呼ぶお祭りが来ます。こちらは丁度小麦の初収穫の時期を祝う、収穫期待祭の意味を持っていました。更に収穫祭の意味では、秋にも仮庵の祭り(スコット)があり、かつて神がユダヤ人に対して、「お前達は砂漠をさ迷い7日間、仮の庵に住まなければならない」と、たとえ話を伝えた記述と重ね合わされています。他にも宗教的に非常に重要な贖罪の日など様々な祝日が1年を通じて行われていきますが。まあ、西洋音楽史的に最も重要なのはキリストが最後の晩餐を行って十字架に磔られた過ぎ越の祭りと言うことになるでしょう。ほら、家の中を覗いてご覧なさい、丁度食事の真っ最中です。実は、過ぎ越の祭りの食事は家庭で祝う場合も事細かに祈りや食事の順番であるセデルが定められています。大雑把に言うと、食事の前にテヒリームを歌ったり手を洗う儀式があり、それぞれ野菜・パンなど分けられた特定の食事をして、物語を読む、祈るといったことが順番に定められて、食後に感謝の祈り、そしてテヒリームが歌われ、最後にもう一度祈りが加わって食事を終えるのです。ここで歌われるテヒリーム、つまり詩編はユダヤ人達がハレル詩編と呼んでいた部分で、113-118番に当たっていました。食時の前にも113,114篇が、さらに食事が終わると酒杯の後に115-118篇が歌われていたといいます。ですから、それに合わせて先ほど歌って差し上げた私のラテン語詩編も実は食事の前半に歌われる詩編113番だったのですが、実際に最後の晩餐でどのような歌が歌われたか記述は一切ありません。もしかしたら、つい調子に載って楽器片手に民謡まで歌いまくっていたかも知れませんが、そのような記述は残されていないのです。ほら、あの一際背が高くて細いハンサムな男がイエスです。丁度皆が順番にイエスに向かって質問をしているでしょう。イエスがこの中の一人が自分を裏切るといったのに驚き慌てて、弟子達が私じゃないですよねと質問を加えているのです。声が聞こえないのではもの足りませんから、自動翻訳機能付きのラブドス君にお願いしましょう。」

 先生がラブドスを中に放つと、途端にラブドスが青白い光に変化した。驚くことに家の中の会話が、日本語に変換されて私達の心の中に響いてくる。ラブドスがこれほどハイテクな代物だとは思わなかった。聞こえてきた声を元に再編成を加えて、自分も記述の腕の見せ所と行きたいところだ。
 「まさか、私じゃあないでしょう。」
 そう言ったのはイスカリオテ出身のユダ、丁度イエスと同じ鉢の食物に手を伸ばしていた。イエスは平然として澄んだ声で答える。
 「私と一緒に同じ鉢に手を入れているものが、私を裏切ろうとしている。人の子は預言の通りに去っていくが、私を裏切るものは災いである。生まれなかった方が良かったものを。」
 イエスがユダを見ながらではなく、弟子達を見渡しながら厳かな口調でそのように言ったので、手を伸ばしていた鉢には注意が向けられず、多くの弟子達はまた先生お得意の比喩でも始まるのかと、姿勢を新たに正した。イエスはすぐさまユダに耳打ちして、「あなたの望むことを今すぐにしなさい」と小声で言うと、皆に向かって話しを始めた。ユダは真っ青な顔をして部屋を後にしたが、イエスから用事を与えられたのだと考えた弟子達は、彼のことを気に留めなかった。イエスは弟子達に改まると、パンを手にとって、祝福を加え、それを小さく裂いて彼らに分け与えた。
 「それぞれ手にとって口に入れなさい。これは私の体なのだから。」
 そう言って一人ひとりにそのパンの切れ端を分け与えると、弟子達が口に含むのを静かに見守っていた。小さな食事が済むとイエスは酒に感謝の言葉を加え、酒杯を充たした。
 「皆この杯で酒を飲みなさい。罪の許しを与えるために、私が多くの人々に与える血がこの杯を充たしている。よく覚えて起きなさい、父の治める王国であなた達と飲み交わすまで、私はこの後(のち)ブドウから作られた酒を飲むことはないだろう。」
 その後、食事が済むと部屋の中では、再び詩編が唱えられた。ところが部屋の外で、その歌声に驚いたように、私達から離れた所に人影が浮かび、がたりと音を立てた。先生は目を丸くして、心底驚いたようだ。
 「あれはユダです。これはいったいどうしたことでしょう。まるで踏ん切りがつかないで、まだこんな所で油を売っていたのですね。困ったものです。ラブドス、ちょっとユダを後ろから追いかけてカヤパの所まで連れて行って差し上げなさい。」
 ラブドスは空中で一回転すると光を怒りの赤に変え、すーっとユダの方に飛び去っていった。しばらくすると、ぎゃああという人の叫び声と、逃げるように走り去る足音がこの静かな夜の大気を遠く切り裂いた。このような遣り方で歴史に介入しても大丈夫なのだろうか。史実通りに進んでいけばそれでよしなのだろうか。聖書のページがいつの間にか変化して、「ユダは眩しい杖に追い立てられて」などという記述が書き込まれてしまったらどうするつもりなのだろうか。そんな心配をしていると、今度は家の扉がぎいと開いて、イエスと弟子達が一緒になって現われた。私達は一斉に身を低くかがめる。幸い、気が付かれないで済んだらしい。

 「皆さんが躓いても、私はきっと躓きません。」
 弟子の一人がイエスの前に立ちはだかるようにきっとなって大声を出す。イエスがそれに答えて、冷たい遠くを刺すようなまなざしでこう言ったのが聞こえた。
 「あなたに言っておく。今夜、鶏が鳴き声を上げる前に、あなたは3度私を知らないと言うだろう。」
 弟子はますます声を高めて、そのようなことは無いと誓い、他の弟子達もけっして躓きませんと一斉に連呼したので、仕舞いには何が何だか分らないうちに向こうの方に歩いていってしまった。
 「今、私だけは躓かないと言ったのは、弟子の一人で、後のキリスト教会成立と伝道において重要な役割を果たすシモン・ペトロです。ほら、ローマにサンピエトロ大聖堂があるでしょう。これは聖なるペトロの聖堂という意味で、ペトロが後にローマに伝道中殉教したのに因んでいるわけです。このサンピエトロの司教が後に教皇として西ヨーロッパキリスト教の太陽として君臨していくわけですね。さあ、さきほどのペトロの言葉は、イエスが弟子達に対して今夜の内に私に躓いて離れるだろうと言ったのに反対したものですが、ペトロはこの直後に捕まったイエスの裁判を覗いているところをイエスの知り合いだろうと尋ねられ、その度に3度知らないと答え、最後の答えに合わせて鶏が鳴いて朝を告げ、我に返って涙するのです。それはさておき、他の弟子達がイエスと分かれて、また家に戻ってきました。ちょっと身をかがめていて下さい。」
 そう言うと、弟子達の多くが先ほどの家に戻って来るのが暗闇の中に微かに浮かんだ。
 「イエスはペトロと、ゼベダイの子ヤコブとヨハネを連れてゲッセマネという果樹園の丘に祈りに出掛けたのです。そこで3人の弟子に眠らないで待っているようにと言って祈って返ってくるといつの間にか弟子は眠っている。また起こして、祈りに出掛け、戻るといつの間にか眠っている。それでも起こして、父なる主に「もし出来ることならこの杯を払いのけて下さい。しかし、主よ。私の望みではなく、あなたの望みを叶えて下さい。」と震え祈り戻ってくれば、やっぱり眠っている。起こした弟子達に「まだ、眠っているのか、魂は燃えていても、肉体は弱いものだ。」と言うと、見なさい、あちらからイエスを裏切る者達がユダを先頭にしてやってくるではありませんか。」
 見れば、暗闇に松明がいくつも瞬いて、何十人もの兵士達が道無き道を先ほどイエス達が消えた方に向かって進軍している。その騒ぎに気が付いて、家から慌てて現われた先ほどの弟子達がイエスの方に走り去ると、やがて兵達が私達の近くを通り過ぎて行く。あれ、ちょっと待て、先頭にいるのは、ありゃあユダじゃない。ラブドスだ、ラブドスがいやがるユダを引きずるように手にへばりついて、ユダをぐいぐい引っ張っている。泣きそうなユダの顔が一瞬松明に映し出され、すぐに向こうの方に消えていってしまった。あまりの強引さに呆れた私は、先生の顔を覗き込んだが、先生は珍しく目をそらして、話を進めてしまった。見なかったことに致しましょうとでも、いったところか。

死と復活

 「このようにして、イエスは逮捕されると、夜の内に大司祭カヤパの所に連れて行かれました。そこで死刑の裁判が行われた後、ローマ側の許可を得るために、総督ピラトの所に連行するわけです。しかしピラトの方では、直前にティベリウス帝下で実権を握っていたユダヤ弾圧の旗手であるセヤーヌスが処刑もあり、ユダヤ親和に傾く政策を模索している真っ最中。そう簡単に暴動の導火線になりかねない宗教関係で処刑を決定するわけにはいきません。しかしピラトの館には、カヤパが集めたのかイエスをおとしめる群衆が群がり初め、死刑を叫び始めています。一方イエスの方はピラトの質問に押し黙ったまま、だからといって罪状も死刑宣告には物足りない気がします。それでは、過ぎ越の祭りに罪人を許すいつもの恩赦を、イエスかバラバのどちらかに与えると群衆に伝えても、イエスを鞭で打ち付けて「この人を見よ」とさらし者にしてみても、群衆はますます死刑を絶叫するので、ピラトもとうとう手を洗って、それじゃあもう君達の思いに任せましょうと、死刑の許可だけ与えて引っ込んでしまいました。こうしてイエスはしゃれこうべの丘ゴルゴダに引っ立てられ、朝の9時頃には十字架上にいらっしゃることに相成りました。その十字架の罪状書きには「ユダヤの王」と書かれ、両側には2人の強盗が一緒に貼り付けられました。ここから先は、マルコの福音書を朗読して差し上げます。」
 先生はそう言うと7つ道具の袋から聖書を取り出した。
 「昼の12時になると、大地は暗く覆われ、それが3時にまで及んだ。そして3時になると、イエスは大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだ。それは「神よ、神よ、どうして見捨てられたのです。」という意味である。しかし、側に居た人々はこれを聞いて「救世主エリアを呼んでいるのだ」と言った。その時一人の男が海綿に葡萄酒を含ませイエスの口に当てようとしたが、他の者達は「待て、エリアが彼を降ろしに来るか見届けてやろう」と言った。イエスは声高く叫ぶと遂に息を引き取った。その時神殿の幕が上から下までまっぷたつに避けた。」
 先生は立ち止まると、急にページを遡り始めた。
 「どうも、細かい記述になるとマルコはぶっきらぼうですね。まあ、その分リアルなのかも知れませんが、この辺りマタイの福音書では明らかに聖書としての価値を更に高めるために創作的虚飾が見られます。マタイで先を続けてみましょう。」

 先生は改めて少し遡って話を進めた。
 「イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取った。すると見ろ、神殿の幕が上から下までまっぷたつに裂け、地面が激しく揺れ、岩が裂け、遂に墓が開き、眠っている多くの聖なる者の死体が息を吹き返した。彼らはイエスが復活した後に、墓からはいずりだし、イスラエルで人々の前に現われるのだ。イエスを監視していた百卒長らは地震や、これらの出来事を見て「本当に、神の子であった」とぽつりと呟いてみた。・・・いや、そんな記述じゃなかったかな。」
 先生はあっという間に脱線してしまったようだ。
 「この後、アリマテヤのヨセフという人が遺体を引き取って墓に納めた後、安息日を過ぎてマグダラのマリアらが墓参りに来ると再び地震が轟きました。慌てて墓の方に向かうと、墓の場所が開いて遺体が消えてるではありませんか。きっと、主の遺体が誘拐されたのだ。「ぴえーっ」と、泣きながら探し回るマグダラの背後で、聞き覚えのある懐かしい声が聞こえます。「君、墓場で何を探しているのですか。」振り向くとイエスが復活して立っていました。驚きに心もつれたマグダラは、つい先ほどメガネさんがやったようにイエスに飛びついて、電撃にやられて「とろーっ。」と叫んでしまうわけです。こうして目出度く復活を遂げたイエスは、電撃聖人となって弟子達の前に現われると、再びガリラヤに弟子達を集合させて、こう言い放ちました。「教会を創るのです。今すぐにです!」こうして弟子達を叱咤激励すると、イエスは天上にゆとりを持って帰って行くというのが、新約聖書の福音のストーリーの最後の部分になるわけです。この時のモーツァルトのお父上のような威厳の満ちた決然たる声に目の覚めさせられた弟子達が、ついに初めての教会を誕生させて、伝道が開始されていく様子は、福音書に続く使徒行伝に書かれていますが、取りあえずこの部分で超新星の指し示す新約旧約聖書の旅を終え、ラブドスに誘われて次の旅を始めましょう。ほら、あの超新星が水平線に消えていきます。」

 先生は遠く開け始めた空の縁に目映いあの星が消えていくのを指差した。いつの間にかユダを引きずったラブドスも先生の元に戻り、私達は長い授業の疲れも忘れ開け行く空をぼんやりと見詰めている。
 「それでは、皆さん。次の場所に向かうまでしばらく疲れた頭をおやすめ下さい。」
 先生がそんな言葉を呟くと、私達の意識は朝を待つ暁の神エーオースに誘われて大気に消えていった。きっと気が付いた時には、また別の講義が新しい場所で再開されるのだろう。お休みなさい、私は最後にあの消えかけた青白い星にそう投げかけた。

2004/11/1
2004/11/16改訂

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