ローマ帝国と、初期キリスト教の音楽下

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当時のローマ帝国

 一息入れたオリバナムは、ふと近くにある演説台に目を付けた。これはラテン語でロストラと言い、文字通り演説台の意味だ。皇帝や重要発表の高官がこの場所から演説をするための台なのだが、兵士姿のままオリバナムはその台に上ってそこから講義を始めてしまった。なんだなんだと、近くにいた野次馬が群がって来たが、言葉がまるで分らないので、しばらく立つと離れていった。こんなお騒がせ状態でフォロ・ロマーノの講義が再開されたのだ。
「では本題の、ローマの歴史について語ろう。オクタヴィアヌス帝の後もしばらくの間、皇帝成立前のカエサルに始まるユリウス・クラウディウス王朝が続いていくが、中でもローマの3大暴君としてお馴染みのカリグラ帝が暗殺された後に皇帝となったクラウディウス帝は、十分な官僚制の整備を敷き、さらに植民市の建設を進めローマ市民送り出し、属州民でも広くローマ市民権を得る政策を取るなど、十分なインフラを整備し、ローマの基盤を確固たるものとした。
 しかし、次ぎがいけなかった。皇妃の淫乱怒濤に暗殺の陰謀が渦巻く中、再び3大暴君の一人ネロ帝が沸け出でて、ローマ皇室は壮大なコンチェルトを奏でてしまうのだ。その様子を見ていこう」
 タイミング悪く「大コンチェルト」と呟く三四郎を無視して、オリバナムは先を急いだ。

「前の講義で、開けっぴろげにアルス・アマトリアを演じきったために、島流しにされたオクタヴィアヌスの娘ユリアが居たことを覚えているだろうか。今からほんの10年ちょっと前、クラウディウス帝の頃ローマは、ユリアの孫娘に当たるアグリッピーナ(15-59)[カリグラの妹で、大アグリッピーナの娘]が、叔母の名をもう一度花開かせるべくさらなるアルス・アマトリアに精進しながら(注.信憑性はいささか不明瞭かとも思われる)、一方では我が子ネロを皇帝とさせるべく暗殺のアルスに手を染める祟ら場(たたらば)の都だった。

 もともとクラウディウス帝の妻は、アグリッピーナと互角に渡り合えるほどの情欲と情念の女メッサリーナだったのだが、メッサリーナはクラウディウス帝を暗殺して愛人である若い貴族シリウスを皇帝に仕立てようと企てた計画が発覚して、逆に殺されて幕を落とした。そのクラウディウスの4番目の妻の座にまんまと転がり込んで、前の夫の子であるネロを養子にして政界に殴り込みを掛けたのがアグリッピーナなのだ。彼女は、まだお若いメッサリーナの娘オクタウィアと我が子ネロを婚約させるなど、当時の政界のどす黒い側面を見事に演じきっていたが、メッサリーナの果せなかった皇帝暗殺の夢を実現し、遂に54年クラウディウス帝に毒をもって殺してしまった。(注.この手の逸話はすべて当時の文献その他に基づいたものだが、史実のみを記したものとも言えず、内容の正当性に疑問のあるものが非常に多い。オリバナムの意見も、愚直に信じない方がよいだろう。)

 こうして誕生したのが現在のローマ皇帝ネロ帝(在位54-68)の時代だ。ネロ帝も10年前に就任した頃は、事あるごとに「セーネカー、セーネカー、セーネカッカー」と頼りながら、かつて家庭教師であり高じて政治界の中心に上り詰めた哲学者セネカの助言に従って、まじめに業務に励んでいたのだが、次第に沸き上がる呪われた血筋に本能が目覚めてしまった。実際上の政治権力を我がものにしたセネカとの間も次第に冷め初め、「セーネカー」と叫び声を上げる事もなくなり、替わりに、快楽と情欲と傲慢と虚栄心が沸き上がって来るのに身を任せて、夜ごとに遊びまくる毎日と成りはてた。

 そんな怠惰のある日、ネロ帝は配下のオトーの第2の妻であるパッポエア、じゃなかった、ポッパエアに一目惚れして、我が手中に納めたい情熱が漲ってしまった。20歳になって意を決した彼は、ついに58年に母アグリッピーナと15歳のオクタウィアを共にあの世に送り出して、62年に目出度くサビーナ・ポッパエア(30-65)と結婚してしまった。スペインに更迭されただけで済んだオトーは、泣きながらローマを後にして、セネカも同じ年に泣きながら政界を引退し、執筆活動に生き甲斐を見いだすのだ。

 また、この一連の結婚騒動を描いた作品こそが、我がパルティア王国ではまだ知られていない未来の作品、クラウディオ・モンテヴェルディの「ぱっぽえあ」……ではなかった、「ポッパエアの戴冠」なのだ。時間を圧縮して結婚式の前にセネカを自害させ、その場面に対して恋人達のたわいもない愛の戯れの場面と、ネロ帝と友人貴族がセネカの死を祝う場面が続くという、倫理的キリスト教伝統の枠を取り去って矛盾に満ちた現実をありのままに提示したその作品は、オペラの最高傑作の一つになることだろう。モンテヴェルディーはこのオペラを、従来の対位法的な声部書法ではなく、モノディー様式という新しい遣り方、すなわち第二作法で作曲したのだ。まるで、アルトゥージをあざ笑うがごとくっ、あ痛っ。」

 オリバナムは、話の脱線が過ぎて、ラブドスから頭を叩かれた。
「私としたことが、つい話しが脱線したようだ。どうかアルトゥージの事は忘れてくれ。」
 アルトゥージだとか第2の作法だとか、何のことか分らないが、そんな事を言われたら、かえって頭に残ってしまうではないか。オリバナムは、三四郎が待たしても「アルトゥージ」と呟いているのを聞かなかった事にして、再びローマの歴史に帰っていった。



「ポッパエアは、ネロ帝の結婚に先立って、無実の罪を着せられ処刑されたオクタウィアの遺体を笑いながら見分致すなど、剛胆な性格を縦横無尽にひけらかしたともされるが、所詮血塗られた関係は長く保たれず、しばらく後になるとネロが身重のポッパエアを蹴飛ばして殺してしまったと言われている。余りにもポッパエアが夫に対して罵詈雑言を放射線のように撒き散らしたのが原因らしい。しかしそんなポッパエアも、自分の家系の出身地である、後にローマ大火を越えるヴェスヴィオ火山の餌食となったポンペイの街では、皇帝より人気があるくらいだったのだ。きっと死の知らせは、ポンペイの人々を悲しませたに違いない。そうしてポンペイの町もまた、彼女の後を追うように、79年火山灰の下に埋もれていったのである。」

 脱線しそうになるんで、オリバナムの回りをラブドスが巡回している。杖にたかられて恐れおののいたのか、彼は慌てて抗議を主道へと引き戻した。

「こうして次第に血筋の呪いを発揮し始めたネロは、祝祭に宴会に夜通し浮かれ騒ぎ、数々の見せ物や舞台、祭りを催してやりたい放題振る舞ってしまうのだった。先に先生がお前達に教えてくれたように、こうした祝祭には軍楽隊が直管トランペットであるトゥバや、ホルンの古い形コルヌなどの金管楽器が使用され、パントマイムのせりふ無しのミームス劇や舞踏やら、さらに合唱独唱の音楽と伴奏楽器としてのアウロスを含めた笛類ティービア、竪琴やリラのような楽器がローマ中に鳴り響いた。ローマにおいては、もはや享楽と暴力と音楽は一体化してしまったのかもしれない。さらにギリシア人の音楽家達が広く活躍して、ローマの人達はむしろ音楽を聞いて楽しんでいたから、音楽は各地からローマに集まってくる消費物の一つでもあり、同時に知識人達の教養と嗜みともされていた。

 一方でミームス劇の役者達ミームスは、宴会の花、舞台の花として必要以上の名声を獲得し、貴族達に抱え込まれて、あらゆる場所に顔を出すのだ。このもっとも秩序を乱し宴会を狂瀾怒濤に追い込むミームスどもにどっぷりと浸かったネロ帝は、やがてネロ祭を催し、ついには我慢できなくなって自ら舞台に登って、慎重に竪琴を弾じ、歌の教師に助けられながら、兵士達の前で歌を歌ってしまうほどだった。挙句の果てに、忘れられないポッパエアの思い出を探し求めたネロ帝は、美男子の解放された奴隷でポッパエアによく似たスポルスの体の一部をはぎ取って女性に変形させる(注.去勢のことだろう)と、あらぬ事か結婚のまねごとまでしまったという。もう何が何だか分らない。そうした男関係の一方で、タキトゥスの「年代記」の記述を事実であるとするならば、のさばり始めたキリスト教徒の粛正と、平地を作ってローマを大改造したいという野心から、ネロ帝自ら火を放って64年の7月19日にローマ中心部を大火災によって焼き払ったとされている。

 ローマは元々密集家屋で家の中には水道も無く、採光に灯油を使うなど火事になりやすかったのだが、それにしてもこの大火は10日にわたって燃え続け、市の大半が灰に埋もれてしまった。なんと14区のうち9区が全半壊してしまったのだ。このフォロ・ロマーノのあたりも大火のまっただ中になってしまう。

 この火事よりも少し前、パウロが伝道に来るよりも早く、すでにキリスト教徒達がローマにも腰を下ろして静かに広まりつつあった。しかし彼らはこのローマでも、まず各地で団体を形成しているユダヤ人達のコロニーから弾圧を受けて、最後の晩餐を記念する聖餐も誤解に誤解を生んで、人肉を食らうだとか、互いに兄弟姉妹で呼び合っている事から近親相姦だとか噂されていた。遂にネロ帝もキリスト教徒を恐るべき異端者だと見なし、大弾圧を加えるのだが、そのきっかけがこのローマ大火だという記述があるのだ。

 実際はタキトゥスの「歴史」以外、誰もキリスト教の迫害と火災を結びつけていないので、大火とキリスト教迫害の関連は信憑性に問題がある。しかしネロ帝が彼らに苛立って迫害を加えたことがあるのは確からしい。ローマ市民の多くは、キリスト教弾圧には無関心だったに違いないが、改めて考えてみると、初期キリスト教の集団の中にある共同生活の精神や、相互扶助関係の愛情に基づく人間関係などは、ローマが巨大化していくうちに失われた都市国家時代の精神に他ならなかった。数々の弾圧にもかかわらず次第に数を増やしていくキリスト教徒の拡大の一要因には、失われたローマ的共同生活の憧れもあったのだろうか……

 もちろん、そんな私の思いは知るよしもないネロ帝は、キリスト教弾圧だけでは飽きたらず、大火の後ついに元元老院一派の陰謀に加担したとし、セネカを始め多くの人々を処刑してしまうのだ。ついに彼の素行不良に付いていけなくなった軍隊から叛乱が沸き起こり、ネロ帝は最後には思い切りの悪い自害に追い込まれてしまう。最後まで付き添っていた心の妻スポルス少年は、劇場で服を脱いで「本当の女」であるか証明せよ、と次の皇帝に脅されて「私の体はネロ帝だけのものでございます」とばかりに自害するなど、何が何だか分らない茶番劇がローマ中枢部で演じられてしまった。このことをまさに。」
「大コンチェルト」と今度は的確な箇所で三四郎が間の手を入れた。
「そうだ、正しくは大コンチェルト状態を満喫する。というのだ。しかし、一つ忘れてはならないことがある。お前達、お優し民族の東方小国家であるジャパニーズに至っては、今現在弥生時代の後半を満喫している頃だ。大和王権はおろか、邪馬台国すら姿も見えず、漸く57年に倭奴国王(わのなのこくおう)が使者を落陽に送り、後漢の光武帝からありがたく金印を頂いてきたばっかりだ。コンチェルトを奏でることすら出来ない後進国の民は、まず自分の田んぼを耕したが良かろう。」

 そんなことを言われても困るのだが、一息ついたオリバナムに替わって、今度は先生がラブドスを手にして講義を続ける。生徒達には休む間もないのだった。



「実際には信憑性に問題があるものの、このローマ大火を一つの中心点として、一つの壮大なキリスト教的物語が誕生しました。それは、ネロ帝のキリスト教迫害に対する嵐の中で、信者達を導くためにローマにやってきたペトロとパウロが、それぞれこの大火の責めを負わされたキリスト教徒取り締まりの犠牲となって、共に殉教したというストーリーです。そんなうまい話があってたまるかと、最近では歴史学的に論証を加えながら聖書までも読み解こうとする傾向がありますが、宗教とは明確な事実によってではなく、人々が真実だと心暖める事柄の累積によって形成されているのですから、ここで一つの『史実ならざる物語をしばらく』展開しても何ら問題はないはずです。しかし、事件の起きる夜までにはまだ間がありますから、ちょっと私達も慎ましい食事にでも出掛けましょうか。」

 そう言うと先生は、ラブドスを一振りして、私達はフォロ・ロマーノの真ん中で臆することなくポンペイに向かって瞬間移動を試みた。まだ、ヴェスヴィオ火山の噴火に飲み込まれる前のポンペイの散策の様子は、いつか記述するとして。取りあえず、まとめの資料をおいておこう。

「泣く泣く(7979)消えてなく(79)なる、ポンペイの町」

ローマ大火

 私達が再びローマに戻ると、早くも日は落ちて、人の灯す明かりが街に溢れかえっていた。しかし先生は街の明かりの中心から離れ、人気も少ない壮大な建造物の前に私達を案内したのである。
「さて、ここはパラティーノの丘に近い大戦車競技場です。夜だというのに、遠くから馬の駆け巡る蹄の音が聞こえてくるでしょう。この建物の中で何が行われているのか、こっそり中に入ってみましょう。」

 兵士達に気付かれないようにして競技場の観客席に忍び込むと、なんたることか、皇帝の恰好をした男が4頭立ての馬に引かれた馬車を懸命にひた走らせて居るではないか。
「……あれがネロ帝です。2頭立て戦車のビガや、4頭立ての戦車クワドゥリガによるレースや催し物はローマでも人気の高い競技でしたが、そのあまりの魅力に我慢できなくなって、こうして誰もいない夜に兵隊を見張りに付けて、戦車を走らせまくっているのです。それだけならば良かったのですが、昨日の夜にクワドゥリガレースの余興として、油で燃え盛るコースを戦車で駆け抜けるという荒技を見物したばかりですから、早速それを実演してみようと、ほら、今競技場のコース上に火が付けられました。」

 危ない、一人の男が不意に戦車の前に飛び出して、大きく手を振って前を遮っているではないか。
「あれは、セネカではありませんか。すでに政界は引退して自らの死を招きかねないネロ帝には出来るだけ近づかないように生活をしていたはずです。きっと、つい夜中に戦車競技場に忍び込むネロ帝の姿を見つけ後を付け、あまりの惨状に我慢できなくなって飛び出してしまったのですね。後世の人々は、彼の著述と人格に対して、実生活の汚れた精神をやり玉に挙げていますが、あのように道徳の虫が騒ぎ立てて、つい飛び出してしまうなんて、なかなかの正義漢ではありませんか。しかし、残念ながら無駄なあがきのようですが。」

 ネロ帝は、もはや常軌を逸した眼で目の前の障害物を覗き込むと、えいっとばかりに手綱を操り、馬はその呼吸に合わせて方向を変える。「セェーネッカァー!」と壮大な怒鳴り声を上げながら、愚か者とばかりに力を込めてセネカに鞭を加えれば、哀れセネカはその衝撃で後ろに飛ばされ、直ちに兵士達に取り押さえられて引き出されてしまった。もはやネロ帝を止めることの出来るものは誰もいないようだ。

 ネロ帝は、一旦戦車の速度を緩め、燃えさかる火に狙いを定めると、自らも兵士から受け取った松明を両手に持って振り回し始めた。横1列に並んだ4頭の馬は、後ろの炎に恐怖して、2輪の戦車から逃れようと、再び駆け出し、繋がれた戦車と共に前に前にと突き進む。しかし、その前にもまた、急に勢いを増した炎の壁が立ちふさがり、横に逃れようとしたそのコース脇にさえも、一斉に炎が立ち上った。兵達がそれぞれに火を放ったためである。ネロ帝は、ますます常軌を逸して、炎を振り回していたが、所詮付け焼き刃の素人芸。あらぬ事か勢いあまって馬のしっぽに火を放ち、尾の燃えた馬が統制を失って暴れ回る。それにつられて、他の馬馬も一斉に別の方に走り出し、馬車は炎の壁に突入する前に分解してしまった。それが運良くネロ帝の命を救ったのだが、馬達はもはや分別を失い、それぞれが炎の中で燃えさかり、火にくるまれてはまた走り出し、そのうち一匹が、競技場を抜けて開けっ放しの入場口から、控えの方に突進していってしまった。ネロ帝は兵達に起こされ、ようやく立ち上がったが、見ろ、馬の消えていった方角から、一斉に火の手が上がった。ローマ大火の始まりだ。

 「ここでは、こうして、ネロ帝の不注意によって始まったローマ大火ということにしておきましょう。ネロ帝は、その時立ち会っていた兵達を直ちに全員処刑し証拠隠滅を図り、火を放ったキリスト教徒を捕まえ撃ち殺してしまえと、配下の者達に叫びました。すると見なさい、ローマが炎に包まれ、密集した家々に、次々に火が飛び移り、人々が逃げまどう中、兵士達がキリスト教徒達の集会場をおそっては、捕まえて火の中に投げ込んでいます。なんと恐ろしいことでしょう。」
 急激に広まる赤く燃える炎に照らされて、消火活動も進まない中にあっても、ローマ兵士達が十字架を持った人々を引っ張って行くのが目に入ってきた。
「もちろんセネカが火車を留めようとしたなどという史実は残されていませんが、翌年65年、彼はネロ帝への反逆の罪で自殺に追い込まれてしまうのです。このセネカのあっぱれな最後は、タキトゥスの「年代記」の中に克明に記されているのですが、どうやら、それをお聞かせしている余裕はないようです。火の粉が、こちらまで迫ってきました。」

 燃えさかる火の粉を被り、崩れ倒れ逃げまどう人々が次第に数を増して、このままでは私達まで火葬されかねない。先生を先頭にして、私達も一斉にローマ中心から離れるように走り始めた。炎の柱が私達の近くを駆け抜け、上からぱらぱらと火のがらくたが降り注ぐのを避けながら、先生はラブドスで逃げる群衆を押しのけながら私達の逃避ルートを確保した。時々、どさりどさりと建物から貴重品を投げ出し、逃げ場を失って自らを投げ出す人々の落ちる音が、炎の熱気で生まれた激しい風の音と燃えるごうごうとした音の中、人々の悲鳴に紛れて聞こえてくる。昔学校で良くやった避難訓練を実践する初めての機会に恵まれた私達は、悲壮感もなく隊を組み先生の後をどしどしと逃げていった。どれだけ走っただろう、ついには人々の逃げるメインルートを外れ、ローマの市街地を遠く後ろに追いやった私達は、人もまばらな小さな街道にまで逃れて、息を切らして道ばたに倒れ休んだ。

 「大丈夫ですか、全員いますね。」
 どうやら、はぐれずに全員いるようだ。オリバナムが逃げながらも放さなかった残りのワインを少しずつ貰って、喉を潤すと、私達は漸く一息ついた。遠くローマの上空は夕焼けのように赤く染まり、龍のごとき炎が上に向かって煙を吐いている。この世のものとも思えない光景だが、気が付くとその炎の龍から逃げるように、小さな人影が私達の方に近づいてくる。

 「あまりの惨劇に、耐えられなくなって一人の男がこちらに逃げてきます。あれは、イエスの教えに従った12人の使徒の筆頭、シモン・ペトロです。遠くイェルサレムを離れてローマで伝道を行っていた所を、急に迫害の嵐が炎と共に強くなり、平常心を失ってつい逃避に傾いてしまったのです。さあ、皆さん急いでその道路の横にある岩場の影に身を隠してください。」

 私達がいち早く岩場に身を翻すと、息を切らしながら一人の男が、赤く暴れる炎の猛獣が都市を覆い尽くす前にローマを抜け出そうと、私達の方に懸命に走って来た。出番を待っていたラブドスは、もはや先生の命令を待つまでもなく勢いよく光りだし、正体の無い目映い輝きとなってペトロの方に進んで行った。後ろを振り向きながら走っていたペトロは、目の前のつんざくような光に驚いて、飛び下がり、走ってきた元の道に転がり戻ってしまった。
「しゅ、主よ」
 ペトロにはラブドスが主に見えるらしい。ラブドスの光は人の形に変化すると黙ってペトロの横を通り過ぎ、燃えさかるローマの方に進んでいく。
「ドミネ・クオ・ヴァディス!」
ペトロはなにやら、謎の言葉を吐いたが、それでも光が先に消えていくので、大声でもう一度叫んだ。今度は、私達にも意味が分った。
「主よ、どこに行くのです!」
巨大な輝きは、立ち止まりペトロの方に振り返ると、透明な静けさを持って、
「あなたが私の子らを見捨てるなら、私がローマに出掛け、もう一度十字架に掛かろう」
と、穏やかに答えを返した。ペテロは我に返って、立ち上がった。自らの心の隙を恥じ、再び取って返してローマへ向けて、足を踏み出した。ラブドスが暖かく後ろ姿を身を来ると、彼の姿はやがて炎の怪物の方に消えていったのである。しかし、おかしな事に、今度は別の男が、こっちの方に走って来るではないか。

「あれは、パウロです。まあ、面倒ですから、2人とも同じ遣り方で処理してしまいましょう。」
そんな馬鹿な。突然投げやりになった先生の対処に、私は若干呆れかえったが、パウロとラブドスは真摯に先ほどのペテロと同じ場面を演じきっているようだ。まあ、気にしないことにしよう。

「この後、2人はローマに戻ると迫害にあって捕らえられ、共に十字架に掛けられ殉教することになります。ととりあえずは、そういうことにしておきましょう。ペトロは主と同じ刑罰では申し訳ないからと、みずから逆さ十字の刑を願い出ました。こうして、彼が埋葬された場所が、後にサン=ピエトロ大聖堂となっていくのです。おや、まだ、人が走ってくる。そんな予定はなかったのですが。どうしたことでしょう。」



 ふと見ると、3人目の影がローマの炎から逃れるというより、見つけた私達に手を振りながら突進してくるようだった。その手に握りしめた袋から、黄金がきらきらと舞っている。あれは、黄金アーンドラじゃないか。サータバーハナ朝がローマとの貿易を活発化させて栄えるのも丁度今、この頃の時代設定だ。道理であんなに元気に走り回っているはずだ。おそらく大分大きな遅刻をしたに違いない。彼は「すみません」といいながら、私達の前に到着した。

「どうも、ローマは広すぎますよ。フォロ・ロマーノに向かっていたはずなのですが、どこをどう間違ったのかパンテオンの方に出てしまい、つい近くのポンペイウスの劇場に足を運んで居たら、なかなか面白い出し物がありまして。」
……ようするに劇を見て遊んでいたわけだ。
「え、パンテオンというのはもっと後の時代の建造物ではないのかしら。」
博識君の女版のような物知りの黒髪すらりさんが疑問を投げかけたものだから、黄金をさしおいて先生が出しゃばってしまった。

「いえいえ、確かに君達の時代に残されているパンテオンは、120年頃に建築大好きハードリアヌース帝が再建した、ローマ建築の最高傑作の一つですが、そこには元々紀元前27頃にアグリッパによって建てられたパンテオンが建っていたのですよ。パンテオンというのは万物の神殿とでもいった意味でしょうか、ただしこのローマの巨大建築物がどのように使用されていたのか完全には解き明かされてはいないのです。それにしても、アーンドラ、あなたが劇に熱中していたお陰で、せっかく生徒達に聞かせようと思った朗読を幾つか飛ばすことになってしまいました。」
 黄金は、そもそもなんでアーンドラと呼ばれているのか分らないのだろうが、丸みをおびたドラえもん体型が、すっかり小さくなってしまった。
「まあ、よいでしょう。あちらに広く開けた岩場があります。皆、あそこに腰を下ろしましょう。講義の再開です。」

イェルサレム神殿の崩壊

 ペテロとパウロが去った後、すっかり人けの絶えた道路の横に広がるごてごてとした岩場に腰を下ろすと、先生は私達にもそれぞれ近くに座るように促した。燃えさかるローマの炎に照らされて、再び講義が再開されるらしい。

「さて、この大火直後のことです。ネロ帝の時代も終わりに近づき、彼がますますもって音楽と歌で遊びほうけるこの時期に、イエスのいた頃から反感と拒絶の高かったローマに対して、66年ついにユダヤ人達が一斉に立ち上がると、これまでにない大暴動が勃発しました。一般的に第1次ユダヤ戦争と呼ばれるこのローマに対する反乱で、68年にはローマの大軍が一斉に迫り、ついにイェルサレムは包囲されてしまいましまうのです。

 しかしちょうどこの時、戦時中でもギリシア旅行を堪能していたネロ帝に対して各地で新皇帝が立ちクーデターが勃発。ネロは68年6月9日、ローマ市内を転げ回って思い切りの悪い自害を果たすことになりました。このような政変によって、しばらくイェルサレムの陥落は先延ばしにされたものの、70年ウェスパシアヌス(9-79)が正式に皇帝即位すると、イェルサレム攻防戦が開始され、神殿も町も皆焼け落ちて廃墟状態になってしまったのです。

 しかし、あらゆるユダヤ人が死を賭して戦ったこの戦闘において、キリスト教達は自らの意志でイェルサレムを離れて、教会のイェルサレムとの離別を果たしました。これはキリスト教において、非常に大きな意味を持っています。これによって、ユダヤ教内におけるキリスト教という立場は完全に無くなり、同時にキリスト教と言うものが民族や土地のしがらみを離れ、その信じる者達の教義によって教団とする体制が、真の意味で完成されるからです。

 一方、イェルサレムの方は、さらに60年後ハドリアヌス帝がこの廃墟にローマ植民市を立てようとした時、132年から135年に渡る絶望的な第2ユダヤ戦争が沸き起こり、完膚無きまでに叩きのめされて以来、ユダヤ人のローマに対する反抗が起きることは2度とありませんでした。そしてユダヤ人達は、新植民市には入ることすら許されず、年に一度、旧神殿の壁で嘆きの祈りをすることだけが許されたのです。この後、子羊を犠牲に捧げ司祭一族であるレビが聖歌隊や楽器奏者ともなって詩編唱を壮大に歌い上げていた神殿の儀式は消滅し、これらの名残は、1世紀近く立ってからようやくそれぞれの流浪のユダヤ人達のコロニーで行われていた、講読と説教の集会であるシナゴーグの中に取り込まれていきました。こうしたユダヤ教神殿でかつて行われた音楽が、どれほどキリスト教音楽に影響を与えたのかは、残念ながら断言することが出来ませんが、この辺りで、いよいよ誕生したばかりのキリスト教達の集会における音楽について、ちょっと見ていくことにしましょう。ただし、初期の教会はまず異教の教えから改宗させ、洗礼を受けさせることが第1の目的でしたし、使徒行伝の中に見られるイェルサレムでの宗教会議でも、異教徒に対しては、モーセの律法や、割礼を行わなくても偶像供え物と絞め殺した動物を食することの禁止、流血を行わないなどの規則厳守と、それから洗礼パプテスマによってキリスト教徒とする事が定められるなど、音楽を含んだ儀式としての集会が画一的に広まっていくようなことは不可能な状況でした。

 それは、もっとキリスト教徒が増大して、集まりの中での組織化と儀式化が広く行われるようになってからのことです。さらにギリシア地方から、ローマに至るパウロの伝道は、救いの根拠や信仰することによって得られる報酬といった、自分側からの期待をする態度を批判し、ただ信仰のみを十字架の福音とするような、イェルサレムのキリスト教会自体からも幾分異端的な考えであり、それが彼の死後も発展を遂げて行った経緯もあって、イェルサレム教会を経由して東方地域に散らばった教会とは、考え方も少し異なっていました。

 それぞれ異民族の中にキリスト教が根付き、有力な集団と指導層が形成されると、それぞれの地域性を持ったやりかたで祈りを捧げ、共同生活を送りましたから、当然音楽の扱いも地域によって異なっていたことでしょう。このような状況で統一された音楽儀式などは夢のまた夢でした。むしろ、式典に合わせて形式化された祈りと音楽という意識が生まれるのも、もっと後の時代かと思われるくらいです。

 逆に考えると、初期教会の傾向がユダヤ的儀礼から離れる方に傾いていたとはいえ、かつて神殿で行われていたソロと合唱や、合唱同士の応答にもとずく詩編唱なども、東方のとある教会では早い内に、あるいはイェルサレムが崩壊する前から、歌われていたとしても可笑しくないくらいです。旧約聖書から新約聖書に移行するように、キリスト教の中にはやはりユダヤ教の伝統が無頓着に流入しました。集会で聖書の朗読と説教が行われるという慣習や、年中行事に合わせた宗教儀式や、キリスト教では少し後になってからですが、音楽における詩編の重要性と、その応答的な歌い方など多くのものを、キリスト教の中に見いだせると思います。

 もちろんそれは完成された後の姿で、初めから詩編唱の歌い方まで定めながらキリスト教が広まっていったと考えたら大間違いです。様々な神を作って崇め奉る異教の民にキリスト教を広めるのは大変なことでした。キリストを信じることに加えて、最低限の倫理と、洗礼と最重要な儀式の遣り方を持って信者とするにしても、キリスト教を浸透させるのは伝道者達の腕の見せ所だったわけです。使徒行伝におけるパウロが、キリスト教の真理を教えに出掛けて行っても律法律法と叫ぶユダヤ人達に対して、もはやお前達ではなく異教徒の間にこそキリスト教を広めるのだ、と叫ぶシーンはユダヤとの訣別の意味も込められているようで圧巻ですが、このような熱烈な伝道者達によってキリスト教は急激に拡大を遂げていったわけです。そしてその中では、何よりもキリストを信じ、偶像を崇拝しないこと、隣人を愛し暴力をふるわないこと、といったもっとも基本的な教義の伝達による教徒の拡大こそが目的でしたから、キリストに対する歌を歌うことの奨励を越えて、完全に定められた音楽の絶対的使用などは考えようがありません。

 もちろん、最初から素朴な形ではあっても儀式として教義と共に重要な意味を持っていた式典のコアな部分は存在し、そこでは音楽も重要な役割を担っています。それはイエスが磔にされる前日に行った、最後の晩餐(ミサ)の部分でした。ここでイエスが、ユダヤ神殿の儀式で行うような生きた生贄ではなく、パンと葡萄酒を取って分け与える儀式によって、弟子達を祝福した事が決定的な役割を果たして、この部分がキリスト教会発足時から最重要の儀式となっていたわけです。まあ、実際のパンと酒の取り分けは、ユダヤ教の過ぎ越の晩餐の儀式に従っただけかも知れませんがね。

 このパンと葡萄酒の儀式は、キリスト教で後になって聖体拝領(せいたいはいりょう)と呼ばれるようになり、もちろん今日のミサでも最も重要な儀式のクライマックスを形成しています。さらに、この部分でイエスが歌を歌ってからオリーブ山、つまりゲッセマネの園に出掛けていったという事実も重要な意味を持ち、聖体拝領と歌を歌うということが一つの儀式として、伝道者達によって広められていきました。しかし聖体拝領の細かい遣り方や、歌の歌われ方や、その音楽が統一されて教えられたのではなく、教義を護ること、晩餐の儀式を行うこと、キリストを讃えて歌を歌うこと、といった理念の獲得という形で広まっていったわけです。もちろんそれは結果としてそうなったのであって、原始教会の伝道者達も、それぞれ最後の晩餐の執り行い方や、音楽の使用方法、場合によっては歌そのものを、教え広めていったのかもしれませんが、それらが統一されていたということは考えにくい状況ですし、この時に伝達された音楽があったとしても、ほとんど手がかりが残されていない状況です。

 果たして、旋律と歌詞を含めてある程度は共通的な核を持って伝授したのか、音楽は異教徒の音楽を用いて分かりやすく伝道したのか、新たに分かりやすい歌詞を書き降ろし歌わせることがあったのか、細かい点になると「儀式化して広まっていくことは無かった」という、振り出しに戻るしかないわけです。ただ、初期キリスト教の傾向として、詩編唱のようなユダヤ教の伝統から存在するような歌ではなく、新しくキリストのために作られた讃歌が多く歌われていたらしいのですが……」

 先生は、涙を流した。キリスト教のために泣いているのではない、自らの知識不足に恥じ入って悔し泣きをしているのだ。



「こうして、おそらく最初期のキリスト教徒の集会では、最後の晩餐と同じように、人々が集まって説教や講読をした後で、晩餐に合わせて聖体拝領が行われ、新しく作られた讃歌や、あるいは場合によっては教わって覚えた詩編唱なども歌われていたのかも知れません。しかし、パウロが信者に宛てた手紙の中に
『君達は、我慢も出来ずに勝手に食事をして、隣に飢えている人があるかと思えば、酒杯にまで手を伸ばして酔っぱらっている者がある始末だと聞きます。このことで、君達を褒めるわけにはいきません。食事の時に集まる時には、互いに待ち合わせるのです。おなかがすいているなら、家で食べることになさい』
とあるように、晩餐に合わせた聖体拝領は、おそらくせっかくの厳粛性をないがしろにすることが多かったのでしょう。やがてローマでは、聖体拝領は早朝に移され、その頃にはある程度儀式化された様子を見ることが出来ます。それでは、数少ない資料の中から165年頃にキリスト教弾圧によってか殺された殉教者ユスティノスが残している、ローマでの日曜日に行われる聖体拝領の記述を朗読して貰いましょう。ついでに行っておきますが、ローマにおいて日曜日は仕事のまっただ中でしたから、その後、仕事に出掛けるにしても、平日を勝手に休日みなし祈りの集会をしているキリスト教達は、果てしなくいかがわしい存在に思えたはずです。では、お願いします。」

 そう言うと、出番の少ないのを気に掛けていた黄金アーンドラが、待ってましたと立ち上がって詩を大きな声で朗読し始めた。

 「太陽の名を担う日に、都市や農村に住むすべての人のための集会が、同じ場所で行われる。使徒達の伝記と預言者達の著作が、時間の許す限り朗読され、集会を司る者が教訓と勧告を皆に与える。私達は皆立ち上がって、主に対して祈りを捧げる。
 それが済むと、パンと葡萄酒と水が運ばれ、集会を司る者が、彼の能力に応じた祈りと感謝を捧げる。会衆がアーメンと同意を表わすと、祈りを捧げたそれらのものが配られ、それぞれが口にする。」

 黄金が続けて講義を行うよりも早く、「はい、どうもありがとうございます」と言って、先生は彼の出番を奪い取った。黄金は悲しそうな顔をして、そっぽを向いて腰を下ろす。

「こうして、すでにミサが、前半の言葉の典礼と、後半の信者の典礼に分かれ、朗読の順番や方法が定まり、聖歌が付けば、ほとんど後のミサと変わらない状態に大枠が出来上がっているのが分ります。後になると前半の言葉の典礼は志願者のミサとも呼ばれ、この部分は信者でなくても参加することが許されるのですが、後半の聖体拝領の部分は洗礼を受けキリスト教徒となったものだけが、参加を許されたわけです。
 さて、改めてこのユスティノスの著述を見てみましょう。実は、今朗読された部分に対して、マッキノンという人がこの時期にローマのミサでは詩編唱など唱えられていなかったのだと、大変力を入れて論文を書いていますが、彼の考えに従うと、この時期まだ聖歌の組織的な使用はまるで見当たらないのですが、一方で宗教的な歌の記述は、聖体拝領が早朝に行われるようになった後も、ずっと夕方の食事に見られるのだそうです。こうしたキリストへの祈りを兼ねた晩餐は、聖体拝領が早朝に移された後も衰えることなく、むしろしがらみから自由になって、盛んに行われるようになっていきました。余りにも流行したために、3世紀には愛餐アガペーという宗教儀式までが誕生して、晩餐での聖歌が至ることろに響き渡ったのです。今度はカルタゴのキプリアヌス(258没)という人の著述を聞いてみましょう。では、お願いします。」

勢いよく立ち上がった黄金が、手の動きまで交えて活動を再開する。

 「夕暮れが近く日も沈むこの時間、残された今日を喜びの中ですごそう。食事が天からの恩恵で充たされるようにしよう。この会食のために、あなたには賛美の歌psalmosを唱えて欲しい。あなたの記憶はすぐれ、音程も確かなのだから、いつも唱えるようにして欲しい。それが私達の心に伝わって、敬虔が立ち上り耳を魅了するならば、あなたは私達を本当に持て成したことになるはずだ。」

 しかし、黄金の出番はあっという間に終わってしまう。
「はい、どうもご苦労様です。ここでpsalmosという言葉が出てきますが、聖書も含めてこの頃のキリスト教文献では、psalmosとhymnos(賛歌)と言う2つの言葉は、明確な線引きがなされていないため、残念ながらこれが詩編唱を歌っていたことにはなりません。確かに、パウロの手紙には『詩の歌プサルモスと、賛美の歌ウムノスと、霊の歌オーデ・プネウマティケをもって』という記述が2回ほど使用されていますが、これが『詩編』と『新しい賛歌』、さらに『言葉ではなく同じ母音だけで旋律を右往左往する歌』を表わしているとは到底言い切れるものではありません。この頃の信者達は新しくキリストを讃えることにこそ生き甲斐を見いだし、新しい数多くの賛歌で信仰を充していた例の方が、多いような気がしないでもないような心持ちになって……」 

 先生は、また不甲斐なくなって涙した。仕方が無くオリバナムが、立ち上がると、先生を押しのけて話しを続ける。

「聖歌、特に詩編唱を取り込んだミサの成立は、キリスト教がローマ国教化されるという、劇的な大事件と深く関わっている。改めて、キリスト教がローマ国教となる様を教えてやろう。」



「ちょっと待った!」
とりとめもなくなった連続体の講義に線を引くために、私は「しばらくお待ち下さい」カードを取り出した。これは、生き残り組みの一人で、若いのにおっさん顔のいつもスーツで授業に参加していた男が、ゴルフに使うドライバーと一緒にこの世界に持ち込んだものだ。慌てて飛び出してきた時に、必需品として一緒に手に持ってきたしまったのだろう。このカードはいろいろな種類があって「お静かに」カードがあるのは良いが、「郷に従え」と書いた不可解なカードも一緒に納められている。私はこの男のことを、ゴルフスーツと名付けることにした。
 オリバナムは、それを出されたら仕方がないと諦めて、しばらくの休憩を取ることにしたが、黄金がやはり幾つかの食料とワインを買ってきて呉れていたので、一層燃えさかる悲劇の炎を花火でも見るかのように酒のさかなにして、失礼極まりないピクニック状態を楽しんだ。

「あの火は、10日間燃え続ける予定ですから、講義の間の明かりには困らないでしょう。」
 先生も不謹慎なことを言ってワインを楽しんでいるようだ。直ぐに再開されるオリバナムの講義に備えて、今は精一杯食事を楽しもうではないか。

2004/11/19
2004/11/29改訂

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