「フィレンツェ美の謎空間ー宮下孝晴」覚書

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フィレンツェ美の謎空間 宮下孝晴

1.メリオーレ・ディ・ヤコポ「イエス・キリストと諸聖人」(1271)

 ヴァザーリの建てた職務美術館の最初の一枚から始めよう。13世紀のドゥエチェントの息吹が感じられる。作者は1250年にギベッリーニの中心人物フリードリッヒ2世が亡くなった後に起きたモンタペルティの戦いで捕虜になってしまった男だ。ドゥッチョ(c1255-1319)以前のシエナ派の影響がうっすらと浮かんでいる。ちなみにチーマブエ(c1240-1302)、ジョット(c1267-1337)なのだから、みんな同じドゥエチェント仲間だということがよく分かるだろう。そしてこの彼らの生まれた頃こそ、それまでの剥離しやすいテンペラ(セッコ法)に代わってブオン・フレスコの技法が現れてきた時期なのだ。それもただ乾燥するのではなく実は顔料が化学変化を引き起こすのだ。つまり結晶として壁に閉じ込められる事になる。乾くまでに7,8時間、更にアルカリ性顔料は使えず、漆喰が乾くと書いていたときとはかなり異なった色に仕上がるが、耐久性や明るい色彩はそれでも魅力的だった。ジョルナータの継ぎ足しによってなされるのだ。まず下塗り漆喰アッリッチョの上に、下絵シノピアを描いて、その上に上塗り漆喰イントーナコを塗ると同時に描きあげていく。

2.ジョット(c1267-1337)「荘厳の聖母」(c1310)

 オンニッサンティ教会の為の聖母と呼ばれるのがふさわしい。伝統的なマリアの赤い服は色遠近法の為に(手前に暖色背景に寒色)白く変えられている。もしフレスコの完成者という名前があるとするならば彼かもしれない。パドヴァで製作したスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコを見てみよう。1303-05/1310にかけて作られた作品には聖劇の影響まで見て取れる。そしてフレスコの完成は共同作業ではなくたった一人の作者に一つの壁面をゆだねることになり、結果的に芸術家という概念の誕生を促進した。ここでルネサンスとフレスコ画についての関係を整理してみると、たとえば中部イタリアより南はゴティック美術が発展せず広い壁面があったことや、ドメニコ、フランチェスコの両托鉢修道会が教化用のリアルな宗教画を求めた事、自然から直接学ぶという写実性がやり直しの聞かないフレスコ画において高められた事などがあげられる。斜光線を利用してさまざまなことを解き明かしてみよう。

3.マゾリーノ(1383-1447)とマザッチョ(1401-28)「聖アンナと聖母子」(1424/25)

 国際ゴティック様式の流れを受け継いだマゾリーノの繊細性と、リアルな表現力を持ったマザッチョの写実性。カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂は殆どを焼き尽くした火事に生き残ってマザッチョのフレスコを今日に伝えてくれる。更にこのフレスコの最終的な完成者がフィリッポ・リッピ(1406-69)の子供フィリッピーノ・リッピ(c1457-1504)であったことも象徴的である。マザッチョの「貢の銭」「病人を癒す聖ペテロ」もここにある。ここで下絵をどう写すかについて書かれている。次に移って、レオン・バティスタ・アルベルティがファサードを完成させたサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に入ってみよう。マザッチョの「三位一体」が描かれている。幾何学的な透視図法によって描かれている。カスティリオーニ・オローナの町にはマザッチョ亡き後、晩年のマゾリーノの作品が残されている。

4.ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(c1370-1427)「三王礼拝」(1423)

 フラ・アンジェリコ、ベノッツォ・ゴッツォリ、ボッティチェッリらに影響を与えた画家。三王礼拝は特に好まれた主題。もともとは教会が俗語による啓蒙布教効果の大きい聖劇に力を入れたことに遡る。中でも有名なのはヨハネス・パレオロゴス8世などの中に若きロレンツォ豪華王が混ざっている、ベノッツォ・ゴッツォリ(1420-97)の礼拝だろう。彼はピサのカンポサントでも多くの仕事をしているのだが、第2次世界大戦の折に炎上してしまったのだ。

5.パオロ・ウッチェッロ(1397-1475)「サン・ロマーノの戦い」(1456)

 このメディチ宮殿に飾られた絵を見ると幾何学的透視図法が良く見て取れる。一方サンタ・マリア・デル・フィオーレにある時計や「ジョン・ホークウッドの騎馬像」を見てみよう、視線を利用した遠近法が良く分かる。これこそブルネッレスキやアルベルティらの純幾何学的遠近図法を考えた事との決定的な違いではないだろうか。彼は奥さんに追い出された家の外で正しい遠近法だと叫んだといわれている。隣にあるアンドレア・デル・ダスターニョのリアリズムの行き届いた「ニッコロ・ダ・トレンティーノの騎馬像」と比べてみるのも面白いかもしれない。ドメニコ会のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会にある緑の回廊「アダムとイヴの創造」「ノアの洪水」など、彼の傑作群がかかれている。ところで幾何学的透視図法の製作は、より画家達を知的な芸術家として認識させるようになっていく。そうして新しい画家を代表するのが、パオロ・ウッチェッロとピエロ・デッラ・フランチェスカの2人だった。

6.フラ・アンジェリコ(1387/1400-1455)「聖母の戴冠」(c1435)

 板テンペラの金色背景に惑わされてはいけない。ところでヴァザーリによると油彩画はフランドルの画家ファン・エイクにより完成され、アントネッロ・ダ・メッシーナ(c1430-79)によってイタリアにもたらされた事になっているが証明はされていない。いずれその時代までの祭壇画などのタブロー画は様々な固着材メディウムによってテンペラーレ混ぜ合わされていた。本名はグイド・ディ・ピエトロなのに人々から天使のような修道士フラ・アンジェリコや、天使のような福者ベアート・アンジェリコと呼ばれてしまった彼は、フィレンツェ大司教の座をけってまでも神のために絵を描き続けた。彼はすべては神の思し召しと考えた為にフレスコと相性が良かったそうだ。そして描く前には祈りを捧げるのです。傑作群はサン・マルコ修道院をコジモがミケロッツォ・ミケロッツィに再建させたときに描かれた。彼の絵画は空間の中で生きているのであって「受胎告知」の遠近法はあの場所と一体にならない限り論じられない。では涙を流しながら描いた「キリストの磔刑」を見てみよう。当時青色を出すのは恐ろしく高いラピスラズリの粉末から作るウルトラマリン・ブルーか、一つ落としてアズライトを使うしかなかったのだが、アズライトは漆喰が乾いてからでないと手におえない。この絵で背景が赤い色なのは、セッコで塗った青い色が落ちて、フレスコ下地の赤い色だけが残ったためだ。

7.ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1415/20-92)「ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェストロ公と公妃の肖像」(c1465)

 鉤鼻が隠されたのが見て取れる。フランチェスカはウルビーノ付近からフィレンツェに修行に遣ってくるのである。この絵はドメニコ・ヴェネツィアーノがフィレンツェにもたらしたと言われる油彩画の技法の影響をこうむっている。しかしなんといってもフランチェスカと言えばアレッツォの町の聖十字架物語だろう。その名もサン・フランチェスコ教会にある。ヤコポ・ダ・ヴァラジネ(c1230-98)が書いた黄金伝説の中の話を壁画で埋めたのである。分割法、イメージの引き出し、帽子によって一番描きたい所に専念できると同時に色彩の構成まで遣ってしまうの技法など興味は尽きない。

8.サンドロ・ボッティチェッリ(1444/45-1510)「プリマヴェーラ」(1478)、「ヴィーナスの誕生」(c1485)

 それともう一つドメニコ・ギルランダイオ(1449-94)の1484年頃の「玉座の聖母子と二聖人」を見てみよう。西風ゼヒュロスは大地の妖精クロリスを追いかけ、彼女は愛によって花の女神フローラに生まれ変わってしまった。ヴィーナスには新プラトン主義が大きく関わっている。しかし彼のフレスコはタブローに比べて多くはない。オンニッサンティ教会の中にある1480年の「書斎の聖アウグスティヌス」、そして翌年に描かれた、例の駆け込みタイプから飛び込みタイプに変わってしまったガヴリエルでお馴染みの受胎告知などがあげられる。まさに聖史劇の影響か。ところでオンニッサンティ教会ではギルランダイオの「書斎の聖ヒエロニムス」もあるが、彼がサンドロから大きな影響を受けたのは疑いがない。ロレンツォの時代1480代に工房を構えていた2人なのだから。この時代壁画制作が夢の競演の場所として人々に認識されていたのは、レオナルドの「アンギアリ」とミケランジェロの「カッシーナ」の例を見ても分かる。オンニッサンティ教会にはドメニコの「最後の晩餐」(1480)もある。

9.イタリア・ルネサンスの三巨匠

 まずはヴェッロッキオ(1435-88)を彫刻に専念させるほどの腕前を示してしまった弟子のレオナルド(1452-1519)がいる。当時都市計画からイヴェントプロデュース、更にファッションやアクセサリーにいたるまで様々なニーズにこたえていたのが美術工房ボッテッガだった。三巨匠の時代もはやフレスコなしにも芸術家と認められる社会要因も大きくなっていた。彼らの後の世代フレスコは急激に衰退していく。レオナルドは男色事件で拘置所にはいっている中で、ボッティチェッリやギルランダイオにスターの座を奪われた。一方ミケランジェロ(1475-1564)の例の聖家族のトンド円形画はダヴィデの完成直後に注文を受けた。彼唯一の板絵である。92年のロレンツォの死によってフィレンツェルネサンスの黄金時代は終わりを迎える。1500年に帰ってきたレオナルドは友人のフィリッピーノ・リッピから貰ったサンティッシマ・アンヌンツィアータ(受胎告知)教会の祭壇画の下絵を書いたら大量の人々が押し寄せてしまった。その中にいたのがミケランジェロだ。この後にダヴィデと聖家族を引き受けて完成する事になる。1504年、ダヴィデをどこに置くかでレオとミケがもめている中にラッファエッロがフィレンツェに遣って来ている記念すべき年。そしてアンギアリとカッシーナの対決が繰り広げられそうになるのだが、レオがエンカウストの技法を復活させようとしてしくじった為に、どちらも未完成になってしまった。みんな結局ローマに行ってしまうのはその後の事だ。でもレオナルドには仕事はなかった。

10.ヴァザーリ(1511-74)「ロレンツォ豪華王の肖像」(1532)

 デスマスクや先人達の画から描いたのだ。アレッツォで生まれたのだ。列伝は1950年には初版が刊行だ。丁度三巨匠の時代絵画と彫刻の優劣論がピークを迎えていた。ヴァザーリはこの論争に論文によって蹴りをつけた。彫刻と絵画は共に素描力ディゼーニョから生まれた姉妹なのだと。この時代にもフレスコ画自体の需要は高まりつづけた。しかしブオンは好まれず大量に弟子を動員して簡単にという考えの元に、メッゾ・フレスコ法が一般化した。逆に下地を見せた所だけに線が付くズグラフィートも使われたりしながら。

11.直すべきか直さざるべきか、それが疑問だ。

12.ピエトロ・アンニゴーニ(1910-88)

 ポンテ・ブッジャネーゼのサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会では、ドン・エジストあなたはまた、という声が今でも聞こえてきます。

元2001/8/7
2006/03/13改訂

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