生活の世界歴史6「中世の森の中で」紹介

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生活の世界歴史6.「中世の森の中で」

・河出書房新社から文庫本で出ている生活の世界歴史6「中世の森の中で」は、中世のヨーロッパを人々の生活から読み解いていくので、非常に楽しい読み物になっています。特に前半は大して歴史を知らない人が読んでも十分に楽しめるでしょう。
・本当は自分用の索引なのですが、読まないと意味が分らないものの大体どんな話が出てくるのかだけは分りそうなあらすじを書いておきます。興味のある方は、半日で読み終わるような無意味な小説を読むくらいなら、ぜひ購入して中世ヨーロッパを堪能してください。

1.プロローグー自然と時間の観念

 ナラだ、ナラの木だけが特別なのだ、カシは常緑樹だろう。光の世紀シエークル・ド・リュミエールとは18世紀の啓蒙思想の時代を指すが、それ以前の世界ではかつて紀元前5世紀に栄えたケルトの民がやどり木を育んだのを忘れたか。ドゥルイド神官達はナラの枯れ葉の中から沸け出でた宿り木に聖なる力を見いだしたではないか。フランソワ1世でお馴染みのサンジェルマン・アン・レーの博物館が木に触れる事はトゥーシェ・デュ・ボワであると教えてくれたのを忘れたと言うのか。木の実がなければ食用の豚だって育たないではないか。ほら見たことか、森は海で村は島だったのをいい事に、1356年のポワチエの戦いで追いかけていたフランス軍がイギリス軍に後ろから遣られているではないか。奴らが森に勝つのはようやく革命の頃になってからなのだ。馬鹿な、時間までも縦に流れていると言うのか。クテシビオスが水時計を発明するのとは無関係にゆとりを持って昇って行く事によって、14C以来教会だけでなく市庁舎にまで鐘楼が一般化してしまったのか。なんということだ。

おまけ
・午後3時からの9時課(ノナ)を都市部でお昼に繰り上げて施行する間に昼時ヌーンが生まれてしまった。

2.市民の一日、農民の一日

 言わんこっちゃない、入浴は朝だというのに15.16Cになると一度廃れてしまったからといって、昼短く朝が早いのを口実にして水汲み女達がおしゃべりを育んでいるではないか。馬鹿な、都市の国への従属は1214年ブービーヌの戦いにも見られると言うのに水の確保も関っていたと言い張るのか。肉の民か、肉の民の癖に食事精神はやはり麦類であったと叫びながら、19Cまでも新酒ワインがステータスだった事を忘れ去る事が出来ると言うのか。豆の代わりにじゃんじゃん食するジャガイモにいたっては1534年になってから、南米から遣ってきた新参者に過ぎないのだ。一般の人が一番食べたのはやはり小麦のパンだったことを忘れていると、ほら見た事か、パンと野菜の入った豚汁が農村の定番料理になってしまったではないか。そんなことだから、ナイフやフォークは王侯貴族でさえも16、一般には18.19Cにならなければ使えないようなことになってしまうのだ。夜の暗さか、ローソクの明かりさえ消えた後の裸のまんま眠る夜の暗さだけがだけが愛を育むと言うのか。ラーンスロットがうっかりグイネヴィアじゃない女性ともつれてしまったのは真っ暗で格闘したからだと言いたいのだな。なんだと、皆さんが夜中の格闘だと思ったら早合点もいいところで農民達が室内に消えるのは17Cになってからだと。のみやしらみまで絡まったら仕事にならないから野外の昼間にロビンとマリオンごっこを決め込む訳か。つまり1月1日にはお年玉なエトレンヌに心も逸り、四旬節カドラゲシマも過ぎればイースターにうつつを抜かすその精神が、40日の後に結婚を認めざるを得ない土壌を生み出してしまったと言うのか。空港の検疫所をカランティーンというのが40日ペスト隔離から生まれたのをいい事に、5月の結婚を過ぎると聖霊降臨祭ペンテコステになだれ込み、しまった!ヨーロッパは短い夏を発動してしまったのだ。

おまけ
・16-18世紀はコロンブスの持ち込んだ訳ではないが梅毒が新大陸から遣ってきたためか、ほとんど風呂に入らないで強い香水や香油を掛けまくっていた。

3.攻撃と防御の構造

 橋こそ砦なればサン・ベネゼ橋となりて、教会こそ要なれば天守をドンジョンとしたまえ。仏中部のロデーズを見たまえ、ヴィオレ・ル・デュクの再建しカルカッソンヌを見たまえ、市民内部や配下の貴族達ですら対立に生きがいを見い出したのだ。1112年のランのコミーヌを記すギベール・ド・ノジャンは「回想」において語りたまえ。聖堂内でさえ殺戮が行われ、略奪や暴動に明け暮れた人々のなす様を。

4.城をめぐる生活

 中庭クルティスの頃は守り薄く、ノルマンによる脅威の中ランスの城壁取り壊す無頓着振りなど在り来たりの事なれば、1000人ほどのノルマンが分かれ戦ってもなお兵力に遜色なし。細分化の極みは11C初めの北フランス、モン(山)の字を持つ地名多し。木だからこその再建は良材を取り尽くし、12Cに成ってもロマネスクの石造りがすべてだと思うなかれ。石造りのロマネスクな城はシャトー・ガイヤールこそ、カペーとアングロ・ノルマン家の争いの力強き記念なり。されど城内における悲惨な生活の有様を見よ。娯楽は城の外に狩猟と野試合に見いだすべし。未だ騎士道のトーナメントにならない試合は、実際に相手の武器や防具を奪う実践を兼ねた危ない遊びなり。その精神はまさに戦争略奪の目抜き数珠つなぎに生き生きと見いしたり。さらに彗星なるバイユーのタピストリーを見しとき、技術のまだ鎖帷子止まりなればこそ貴重なる鉄の剣を神聖とし、真に恐ろしきはアルバレート、すなわちクロスボウなり。ロングボウの100年戦争時にイギリスで生まれたれば、射出速度の早さクロスボウを圧倒し人々の恐怖とならん。恐ろしく割り切ったる主従関係の中、13Cにはゴシックの城と呼ばれしものまでが生まれたり。

おまけ
・ランベール・ダルドルの「年代記」には下ごしらえした木材による1夜城の逸話が残されている。

5.神の掟と現世の掟

 9Cそこにはすでに身分(オルド)制の分化の兆しが見られるが、何らかの秩序(オルディネス)を持つ所といえば修道院をおいて他にはなかった。人々はゲルマンの多神教の中に生き、教会は喧嘩の場所でさえあったのである。断食を守れというスローガンは万年続く飢餓のための食事制限の意味もあったが、理念がほどよく地に付いたのはようやく11Cも終わりの事である。12,13C以外は飢饉がゆとりを持ってのさばっていたのを忘れるな。ヴォルフェンビュッテル写本を見たまえ。9C頃は2倍がいいところだったのだ。(一方12世紀半ばのクリュニー修道院でも普通2-3倍とか。)平均年齢も酷いものだが、一つ注意が必要である。生まれて間もない乳幼児の多量の死がそれを著しく引き下げる恐れがあるからである。20歳を過ぎた者の平均は1245年に45歳とある。13歳には結婚が可能で、15歳は法的な成人の年だった。嬰児殺し、間引きがあったこともおそらく疑い無い。そして森、自然はやはり敵であった。狼狂リカントロピーも飢餓と関係があるといわれ、1420年になっても狼はパリ市内を荒らしまわった。こうした中教会が七つの秘蹟(洗礼、堅振、聖体、悔悛、終油、品級、婚姻)で人々を繋ぎとめるのには涙ぐましいものがある。しかし教区制ですら13C初め、フィリップ2世オーギュストの築城構築の結果なのである。12C以前の聖職者たちはその中心地ローマでさえもひどいものだった。グレゴリウス7世の改革は、やはりギベール・ド・ノジャンを歓喜させたのである。

        

おまけ
ヨハネの福音書より「一粒の麦、地に落ちて死なずば」

6.正統と異端の接点

 悪魔ディアボルスは聖職者にまでも信じられたが、その現れ方はヴァラキアの領主ウラド・テペスが元になったプラム・ストーカーのような説話的なものではなく、いつも意味も無く突然起こりである。また聖遺物、奇跡もお馴染みの話だが、コンクは聖フォアの遺物を盗む事により一人前の巡礼所となった。巡礼ペレグリヌスは1100年代あまねく栄えたが、その街道を整備したのはクリュニー修道院である。一方聖母マリア敬慕の効用は11Cのお騒がせ人物クレルヴォーの聖ベルナールであった。さすらいの聖職者のある者達はシトー会のようにやがて定住したが、着陸に失敗した者達は異端として燃え尽きていった。

7.「アルス」知の王国

 1248年アフリカで捕虜になる為だけに第7回十字軍に参加した聖王ルイ9世の時代にリュトブフという人がいた。知性を売る男だ。同じ頃ジャン・ド・マンというのもいた。ギヨーム・ド・ロリスの薔薇物語の続きを書いた人だ。1400年にパリで起こった薔薇物語戦争は何を表していたのだろうか。1290年、後のボニファティウス8世はパリ大学のアリストテレス主義の危険を叫んだ。托鉢修道院の教授陣を認めるかどうか、行き過ぎた知識人と聖職者の間で論争があったのだ。既に12C末に亡くなったアヴェロエスは個の自由意志と魂の不滅の否定にまで達していた。教会はそれを否定し、フランソワ・ヴィヨンはその否定をあざ笑った。思想統制の時代の到来である。しかし非道い有様だ、トマス・アクィナスがアルスとスキエンティアを分ける前、アルスとはあらゆる知識に対する好奇心ではなかったか。知的好奇心のギルドとしての大学の精神は、自由7科のアルスの中にすっぽりと収まっていたはずだ。アルスとは7つにすら縛られないあらゆる知識と知性に基づく理性行為なのだ。その精神は1000年教皇(1000年女王の夫)として知られるシルヴェステル2世になるジェルベールが、点々と連なる知識のデブリを渡り歩いていた頃から育まれていたのだった。アクィナス、キミは何だって後になって自由7科の後に学ぶスキエンティア(神学、医学、法学)を見事に分けて見せたのかね。思想に階層を付けて天上への階層の足がかりにすべてをスンマ(大全)で纏めるスコラの精神の積もりかね。パリ大学は足かせを掛けられた。

8.抒情の発見

 アキテーヌ候ギョーム9世です。フォンテーヌブロー女子修道院が怪しいのです。もちろんプランタジネット朝、えにしだのダキテーヌも関わっています。エニシダですね、エニシダだけが特別なのだと叫びながら、オク語(ラング・ドック)を話すオクシタニアによって抒情が発見されてしまったのかもしれませんね。このオク語による叙情詩によって、北のトルヴェール歌曲から、ドイツのミネゼンガーから、イタリアのドルチェ・スティル・ヌオーヴォにまで影響を与えてしまったのでしょうか。

9.エピローグ

 1347シチリアのメッシナに土産上陸。ミアズマめ、大気にいらっしゃるのか?ラ・ボスって1400に入ってもパリを転げ回ること(自己捻転)が出来ると言うのか。死体を数える奴だけがすぐに別のものまで数え出してしまうフランドル絵画みたいなこのご時世。ほら見たことか、目の付け所に中心が無くなっているではないか。これが、これがファン・エイクの精神だと言うのかしら。生首が市場を賑わしてダンス・マカーブルが実践されるときにはフランソワ・ヴィヨンの首までが空中をニコやかに飛び回りながらこの話をうやむやのうちに終わらせてしまおうではないか。

元2001/5/13
2004/8/15改訂

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