2-8章 トルバドゥール、トルヴェールの歌

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大学の誕生

 後の大学設立に遠い恩恵をもたらしたのはカール大帝かもしれない。彼はアルクィンらの学者達と学校設立に情熱を燃やし、ローマ時代にあった教育機関で、教会が取り入れ聖職者の養成機関としてきたスコラを整備した。貴族の知性を高めるために宮廷付属学校を置き、教会の聖職者養育機関として司教座付属学校をさらに整備、修道院内の教育機関を修道院付属学校として整備し、教育システムと寄宿施設、図書館などの配備に勤めたとされる。ところが、大帝の思想は立派だったが、宮廷付属学校の伝統などは精神が理解されず大帝が亡くなるとフランク分裂に乗じてすっかり影を潜め、後の西ヨーロッパの知識階級は多くがキリスト教施設で学習した人々で占められる事になった。ただし、必ずしも聖職者を養成するためだけのものではなく、外校の形で聖職者希望者以外も学習できるシステムがあったらしい。特にアルクィンの流れを汲む修道士達による修道院付属学校教育は次の世代の修道院の指導的立場を受け持ち、ボーデン湖のライヒェナウ修道院や、ザンクト・ガレン修道院などはすぐれた教育機関としても知られる事になった。そしてパリやランスなど都市の司教座聖堂付属学校や、フランドル地方でも教育が盛んになり、農業改革に人口増加と都市の成立が花開くグイード・ダレッツォの生きた1000年代に入ると、聖職者予備軍的な立場を利用して学問のために教師を求めてさまよい歩く放浪学生達があふれ出し、彼ら(の特定の一部?)はゴリアールと呼ばれ、ミュンヘン近郊で発見されたカルミナ・ブラーナは彼らの歌った音楽として知られている。同じ頃から教師達も知性の交換の意味もあり同じ都市に集まる例が見られた。古代ギリシアの医学を教える学校施設が11世紀半ばには整っていたとされるサレルノの施設は大学の最古のものだとされるが、詳細は不明だ。医学系の大学には、南フランスのモンペリエ大学も早くから顔を覗かせている。

ボローニャ大学(ローマ法)

・ボローニャ(ローマ帝国のボノーニャ)では、恐らく902年のハンガリー人の略奪以降都市が安定し教会修道院など教会知識階級の所属する環境が整っていた事もあって、10世紀頃から知識人達が集まり始めたらしいが、やがてこの地の知識人の、特にローマ法に関する教育を受けるために、学生達が遠方から群がってくるような状況が生まれてきた。ここでは学生達が市民権を獲得していないためウニヴェルシタス(つまり組合)を組織して、学生組合が主導して教育機関を完成させていったらしい。これに対して教育者達もやがてコッレギウムという組合を形成するが、教科や教師の選定は学生組合が行なっていた。定まった施設を教育の場所にしていなかった当初には、市と対立すると組合側が大学を他の都市に移動すると脅して、そんなことになったら学生の落とす金が入らないと屈服する市当局なんてこともあったらしい。また拡大するにつれ、出身地によって幾つかのグループが誕生しては、もめ事も起こして大変な有様だった。記録としては1158にフリードリヒ1世が大学の法学生に特許状ハビタ(Habita)を与えたときにローマ法を教える大学として認められた事になるが、今日のボローニャ大学自身の説では1088年に大学発足という事になっている。
・北イタリアのパドヴァにもローマ法の学校が12世紀には存在していたが、1222年にボローニャの学生生徒が多数移動して来た事件があり、この年を一応パドヴァ大学の誕生としている。この関係でボローニャ大学に似たシステムが導入された。他にも認定の年は後になるが、パヴィア、ラヴェンナ、ローマなどイタリアには法律を教える多くの大学が誕生し、教皇に選任される聖職者などはパリ大学に学ぶなど、面白い動きが見られる。

パリ大学(神学)

・一方パリでも大学的組織が次第に形成されつつあった。ここの大聖堂付属学校の名声が高く、やはり多くの学生を集める事になったのである。もちろん中心となる教科は自由7科のそのまた上に君臨する神学である。特に神学者のギョーム・ド・シャンポー(1212頃没)の下には多くの学生が集まったが、そんな中に居た若き生徒のピエール・アベラール(c1079-1142)が、やがて教師に論争を挑み激論が戦わされる事になった。その間にアベラールは別の学校設立し、一方ギョームも最終的に論争に破れて大聖堂付属学校を去って以来別の学校を設立、アベラールは勝利後大聖堂付属学校教師として教鞭を振るっている間に、ノートルダム参事会員の娘エロイーズにプラトニックじゃない恋心を抱き、「これが恋愛革命だ」と叫んで聖職者にあるまじき行いをした咎(とが)により大聖堂を追い出されてしまった。そんなわけで、結局12世紀半ばに大聖堂と別に2カ所の学校が生まれ、合計3カ所の教育機関の3角形の中が、ラテン語だけの学生街カルティエ・ラタンと呼ばれるようになっていった。こうした自由契約によって生徒達に教える新しい勢力はアルティエ(artier)と呼ばれたが、このような教師達が主導して教育機関を生み出した事が、教師達が主導権を握るパリ大学型のシステムを生み出し、次第に教師が組合を作る必要性が高まると、その時点で教授免許状発行を握っていたパリ市が免許状から収入を得る政策に対して、教師組合がそれを奪い取る熾烈な争いが起こった。フィリップ2世(在位1180-1223)が1200年に起こったパリ警備団と学生の乱闘に対して、大学関係者は市ではなくノートルダム大聖堂の裁判に服すると指令を出したときが神学を教えるパリ大学の発足とされているが、後にパリ大学で学んだインノケンティウス3世(在位1198-1216)が1208年に教授免許権をパリ市から取り上げ教師組合に与えると完全に独立した大学となった。
・このパリの教育機関で学んでいた多くのイングランド学生達が、国に帰って11世紀半ば頃からオクスフォードに集まり神学を教え始めたのが、オクスフォード大学の元となり、ここで1209年に起こった恐るべき学生処刑事件によって多くの学生と教師が移り住んだケンブリッジにも、ケンブリッジ大学が誕生する事になる。ボローニャの教師団体コッレギウム(カレッジ)とは異なり、ここでは学生共同生活の学寮がカレッジと呼ばれるようになって、今日ではウニヴェルシタスの名称に由来するUniversitas Magistrorum et Scholarum「教師と生徒の組合」が総合大学のユニヴァーシティーの名称となり、カレッジは単科大学の意味でも使用されている。

スコラ学

 アベラールのころから聖書を順番でなく「魂は物体であるか」のような個別に論議する傾向が活発化して、アリストテレースの論理学の考えをまとめた「オルガノン」などによる論理的な考察の導き方がスポットを浴びるようになると、やがてスコラ学が生まれていく。そして、スコラ学が次第に形を整える頃、アリストテレースに対する関心高まり、ビザンツ帝国やイスラーム圏に保存されていた多くの古典文献、例えばコルドヴァのアヴェロエス(1126-1198)のアリストテレース研究などが、ヨーロッパで翻訳され始めると、大学などで学ぶ学生達に、大きな関心を呼び起こすようになった。信仰だけでよしとするなら、アベラールと対立したシトー教団のベルナール(1090-1153)などの態度のように、神に不要なものは一切認めなければ良いだけなのだが、信仰に生きるより真実を知りたいと思う思想家の本質はついに宗教心を乗り越え始め、大学ではもはや知的好奇心がアリストテレースと決別することを不可能にしてしまった。ローマ法の場合はまだ干渉が薄いが、神学を教えるパリ大学などでは、これが大問題となった。つまり教会聖職者の思想との間に大きな摩擦が起こり、盛んに流入してきた新しいアリストテレースの思想は、特に危険なものだと解釈され、教会聖職者によって13世紀始めからアリストテレースのパリ大学で教えることについて禁止や条件付けが見られる。それに合わせるように教師である思想家達も教会と自由知識の間で揺れ動いた。場合によっては異端宣告も出され、トーマス・アキナス(c1224-74)でさえも、晩年と死後にいくつかの命題がパリ司教から異端宣告されるほどだった。多くの聖職者にとっては、スコラ学的考え方はあくまでもキリスト教を理論で固めるための手段として使用べきで、例えば、巨大な天が動くという事実は、アリストテレースが運動について説明している「動かし手」、つまり神が存在する証拠だなど大いに文学的に解釈された。地動説が後に大問題になる理由は、動かし手が神だと考えられたこの時の思想が大いに関係していたという。
 改めてスコラ学について見てみよう。1000年代から発達してきた「Scolaticus」(学校に属する)から呼ばれたスコラ学は、例えばパリでアベラールが先生に論争を挑み掛かるように、神学を購読した原文だけでよしとせず、その上で真偽を議論と考察によって判断していこうというキリスト教学問から生まれた新しい立場だったようだ。ウィキペディアを参考に、書いている本人がビックリするほどいい加減に記述すると、要するに古典の権威とされる自由7科や神学、法律などに対して、疑問を呈してまず扱うテキストを批判的に読み解き、著者の意図を読み取り、それを関連する他の文献などと照らし合わせることによって、辻褄の合わない点、曖昧な点、対立点などを見つけ出し、論議すべき点をピックアップすると、弁証法によって議論がなされ、反対賛成、AかBかなど2つの対立する立場に立って議論を尽くした後で、合意に達するべきだという、学問上の立場で、これ自体は適切な情報を十分に収拾した上で自らの考察によって審議を判断するという、当時の様々な革命のうちでも思考革命と云えるほどのものだったが、こうした考え方が自然科学と哲学などを発展させていく次世代への原動力となる一方で、この方法によって考察されたスコラ神学が、ギリシアのソフィスト達のように言葉のこね回しに陥る第2段階を迎え、一方では神を言葉で判断する事は不可能なのだという思想を生み出しながら、ルネサンスの人文主義者達によって愚かなりスコラ学と叫ばれて、すっかり意気消沈してしまったという。

ローマ法

・大学誕生に合わせるように脚光を浴び始めるローマ法も、実は体系化された法典はユスティニアヌスがローマ法大全を編纂するようにビザンツ時代になって法律の体系化が初めて意識されるようになったものが、やがて西でも学ばれるようになり、ボローニャではすでに900年代から学者的聖職者達が集まってローマ法を教えるようになっていったのは先ほど見た。こうした法律を整備することへの関心が、世俗法と教会法への意識を共に高め、国家システムと教会システムの確立に繋がって行くことになる。特に知識人エリートが聖職者を中心に行なわれた事は、いち早く教会システムの誕生を促し、例えば後の教会転げ落ち時代と考えられているシスマ大分裂(1378-1417)時代(つまりマショの死後)は、いち早く整備された教皇庁の官僚制、裁判の整備、書類の扱いなどが整えられていった時でもあった。こうした組織システムの方法が、後の中央集権的国家のモデルとなっていくのである。

楽譜として残るもっとも古い世俗曲

遊歴書生goliardusゴリアルドゥスの歌

・11-12世紀の遊歴書生goliardusゴリアルドゥス(ラ)の歌であり、当時教師を求めて各地を練り歩き始めた学生達がある種のさまよえる書生ゴリアルドゥスという階層を生みだし、彼らの一部は仮空の後継者ゴリアス司教を盟主として自らをゴリアルドゥスと呼んだとか、そうではなく大食漢を意味する「グラ」が当てこすりで大食漢を盟主に抱く者達と呼ばれるようになったのだとか、名称の由来ははっきりしない。大学設置前夜、学校から学校を渡り歩く彼らの歌は、もっぱら酒と女と風刺を主題としているが、現存曲はわずかで、しかも譜線無しネウマで書かれている。よって後の資料に残されていないものは、当時の演奏は全く復元できない。これに気をよくして独自の解釈を各自試みる愉快も生まれてくるが、カール・オルフ(1895-1982)も1937年に「カルミナ・ブラーナ」でそうした愉快に手を染めて見せた作曲家の一人だ。

単声歌コンドゥクトゥスconductus(ラ)

・11,12世紀に宗教音楽と世俗音楽の境界線上に歌われた単声歌コンドゥクトゥスconductus(ラテン語で「導き。」)は、元々は典礼劇などの採用されたミサで聖職者が移動したり、礼拝の中で司教が正式に1つの場所から別の場所に導かれる時に歌われたとされているが、一説によると足並み揃えて歌われるために、リズムのはっきりした明快な旋律を生み出したとされている。
・旋律は完全に新しく作曲され、典礼との結びつきが薄かったため、12世紀末までには、宗教世俗を問わず韻文の詞による重々しい、非典礼的ラテン語の歌も指すようになった。またこの時期の多声音楽の作曲家によって、多声のコンドゥクトゥスも誕生する事になるが、これはまた後で見る事にしよう。

土着言語の詞を持つ歌

「シャンソン・ド・ジェスト」(仏)(事績の歌、成し遂げた事柄の歌)は民族英雄を歌う語り物で、幾つかの単純な旋律定型で歌われたらしいので、初期の土着言語の音楽の証なのだが、悲しいかな切ないかな音楽は全く残っていない。高校の教科書にも出てくるのは、フランス民族叙事詩「ロランの歌」(11世紀後半頃)であるが、名前だけ覚えさせられて内容が伴わない授業じゃ意味も無かろう。

騎士道と宮廷愛

 さて、パリ周辺だけが勢力範囲だとはいえ、新しく西フランクを継いだユーグ・カペー。また東の神聖ローマ皇帝ハインリヒ1世(在位919-936)にしろ、直系の皇太子断絶後は有力な諸侯達の選挙によって王に選ばれる形が取られているが、特に9世紀以降になると、神の意志は全員一致の思想が強まり、さら世襲制がない教会では教皇も選挙によって選任されていたので、選挙原理の中心地として世俗世界に影響を与えていった。ピピン3世以来西フランク王は教会に認められて塗油を受ける事が必要になったし、やがてオットー1世が神聖ローマ皇帝となると、ローマに出かけ教皇自ら戴冠されなければ皇帝になれない事になって行く。(まあ、大帝の時からそうだが。)ただしこれは同時に、領土が幾ら狭くなって実行力が及ばなくなっても、こうして認められた者の立場が、他の一般領主達とは異なるという意識にもなった。しかし、封建領主が並び立ち騎士達が活躍し、次第に騎士道なるものが誕生して来るのは、とにかく全体的には分立化傾向の強かった時代のことだ。そうした領主達の間で、新しい歌曲への異常な関心が高まりを見せ始め、1000年以降次第に増加を開始した。記譜して残された音楽の一つとして、始めて世俗代表音楽が登場してくる事になったのだ。
 遙か昔、かつて中学生の学帽宜しくジャージ姿に明け暮れた頃、一部の男性諸君の間でことあるごとに意味もなく「一本行くー!」と雄叫ぶ卑猥な冗談の流行がなされ、赤いジャージ達から軽蔑されるという珍事件が沸き起こったが、現代の人間の個体成長を持ってしても、世界全体の文明的成長を見ても、短絡的な結合から精神的な疎通による愛に気づくまでには、ある程度の文明発達、または教養の獲得が必要なのだと云う説がある。それを踏まえて19世紀の歴史家であるシャルル・セニョボス(セーニョボス、セニュボス?)(1854-1942)が、この時代に始めて認められるただの結合以上の愛の存在に高尚な愉快を覚えて、つい隣の山に向かって「恋愛、これぞ12世紀の発明!」と叫べば、隣の山でキャンプを貼っていた後輩のアメリカの歴史家チャールズ・ホーマー・ハスキンズ(1870-1937)が、ついうっかり「12世紀ルネサンス!」と英語で答えてしまった。この点から見つめると、巨大な船が割れてぶくぶく沈むだけの、とある帝国の映画を見るとなかなか紙一重で、表された精神は結合レヴェルに止まっているんじゃないかとの噂も流れてくる。見てくれの豪華さと内容の空っぽさがやに光る。とにかく、セニョボスの云うところ発明された恋愛はトルバドゥールとトルヴェールの歌にはっきりと見て取る事が出来る。
 その新しい歌はまずアクィタニア地方から始まったようだ。さて前にアクィタニア地方が、プェトゥー(ポワティエ)伯グィオーム3世(麻屑頭王って書いてあるぞ、何だろう、麻色の髪の王か?)(915-963)が「アクィテーンのドゥックス(侯)のグィレム1世」として統治下に治めたのを見たが、2つの領土を合わせると、当時のパリのカペー家を遙かに凌ぐほどの大勢力だった。ところで彼の名称である「グィオーム」と「グィレム」は同じ言葉なのだが、当時2つの分裂条約後の西フランクの範囲で見ると、ゲルマン言語とラテン言語の混合率や、それ以前のケルト語影響下のラテン言語の方言の違いなどから、西フランクの南部と北部は同じ古フランス語と呼ばれる言語ではあっても大きな違いが見られた。(正しくは東部方言もあったそうだ。)南部はラング・ドック語(オック語の言語の意味、オクシタン語)と呼ばれ、北部はラング・ドイル語(オイル語の言語の意味)と呼ばれていた。これはフランス語のouiつまり「ウイ」(はい、yesの意)が当時北方でオイル、南方でオックと発音された事からオイルと発音する言葉、オックと発音する言葉と呼ばれるようになったという。(そんなわけで現代の勇者は、給油をして「ガソリン満タンですか」と訪ねられたら、「オイルオイル」と答えてみてください。)ちょうど2つの方言の境目がおおよそアクィタニアの北方にあったため、同じスペルの「グィオーム」が「グィレム」と発音されたのだそうだ。
 さて、やがて領主が流れて11世紀から12世紀に到達する頃、プェトゥー(ポワティエ)伯グィオーム7世にしてアクィテーン侯グィレム9世(1071-1127)が登場すると、彼を持ってトルバドゥールの伝統が始まったのではないかと噂されている。そもそもトルバドゥールという言葉は、後から「トロバドゥール評伝」(vidas、ヴィダス)が生み出された時に付けられた名称で、伝統の始まった頃にそのような名称は無かったようだ。言葉の意味はtrobar「見つける」の意味に「人」が付いて、転じて言葉を見つけ出す人として詩人などを指すようになったり、旋律と歌詞を作る人々を表わすようになったと云われるが、これをもって当時の人々は曲を作り出すと言う意識はなく、すでにあるものを見つけ出す人だから、中世的理論の心持ちが世俗にも息づいていたと考えるのは、幾分ノイローゼ気味かと思われる。14世紀前には書かれていた筈だが一体何時の事かとされる101人の歌い手と彼らの歌を記した評伝である「ヴィダス」から、グィレム9世のところを取り出してみると

「寛大さと武勇と優雅さを持ち、誰よりも女性の扱いに長けていたプェトゥー伯は、同時に詩を作り歌う心得においても非常な才能を示したので、世界中の女性は進んで彼に騙される事に生き甲斐を見いだした。」

 見たように記述され(貴様、また、勝手に作り替えたのか!)、彼には11曲の作品が残されているとも書いてある。彼の誕生から亡くなるまでだけを眺めても、この年間には教会刷新運動の中から生まれた象徴的な出来事カノッサの屈辱(1077)、スコラ学の重要な神学書であるカンタベリー大司教アンセルムスの「唯一なるお方はどうして人になったのかしら?」(1094)、同じ年ヴェネツィアにサン・マルコ大聖堂完成、翌1095年に教皇ウルバヌス2世が十字軍を宣言、1096年から99年にかけての第1回十字軍が沸き起こり、1099年にイェルサレム王国が誕生。これによってしばらくの間イスラーム教徒と共存する形で中東に王国が維持される事になる。また、その間1098年にシトー会修道院が設立し、恐るべし修道士ベルナールも1112年にシトー会入りを果たし、1115年にはクレルヴォー修道院を創立、教会改革の旗手として活躍しながらパリ大学前夜のアベラールの議論に反対を叫ぶなど、ヨーロッパ中が新しい熱気に包まれているような出来事が次々に起きつつあった。また十字軍自体が巡礼熱の高まりによるイェルサレム奪還を目指したように、イェルサレム、ローマ、さらに9世紀初頭に星に導かれた司教テオドミーロがうっかり発見した聖ヤコブの墓がもたらしたイベリア半島の西の端サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂が3大巡礼地であり、グィレム9世の統治するアクィテーンはまさにヨーロッパ中の巡礼者達が西の端に向かうときの巡礼街道まっただ中だった。巡礼は農民から騎士貴族誰もが参加したので、当地には有力領主達や聖職者なども逗留し、また多くの一般巡礼者で賑わっていた事だろう。彼自身イベリア半島からイスラーム教徒を追い出しちゃえ運動レコンキスタの本格的な高まりに合わせるように、ピレネー山脈を越えイスラームに遠征し、その際多くの美しき夜のお供用の美女達や、豊かな珍しい音楽を奏でるアラブ人の楽師達を奪い取って持ち帰り、イスラームの豊かな詩を歌い上げる伝統に触発されて最初のトルバドゥールになったという説もあるぐらいだ。それにしてはアラブの詩と関連が無いと反対意見も出され、目下学者達が殴り合いの真っ最中である。ただし本来厳格なイスラーム教の元では、音楽や舞踏は宜しくないとされしばらくの間衰退していたアラブ音楽も、ウマイヤ朝以降再度隆盛しハールーン・アッラシード(763/766-809)の頃には、カール大帝見たようなギリシア古典のアラビア語翻訳などの文芸復興運動や、多くの歌を収めた「歌の書」の編纂が行われ、歌い手達の華やか文化が開花したのは間違いない。9世紀にスペインに流れ着いたバグダットの音楽家ジィルヤーブは、イスラーム文化のヨーロッパ流入の例として名前が上げられるが、彼は4つの臓器を持つ魂の入れ物としての人間に合わせて4弦にしておいたウードに、魂を込め5弦にしたためバグダットを追放されたという伝説まで残っている。
 グィレム9世が亡くなるとアクィテーン侯は息子のグィレム10世(1099?-1137)が跡を継いだ。ところが1137年にサンティアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼に出かけている間にお亡くなりて、ガスコーニュ出身のよく知られたトルバドゥールであるマルカブリュ(c1127-50頃活躍)が、トルバドゥールファンなら誰でも知っている哀歌「神の御名によって平安を」を捧げる事になったのである。後に書かれたヴィダスには「あまりに有名なマルカブリュの歌は至る所でその歌が聞こえてくるほどだったが、彼の歌の言葉があまり強烈なので、腹を立てた領主達に打ちのめされてしまった。」と書かれているが、これによって主人を亡くしたマルカブリュも次の領主の事が気になったに違いない。なぜならグィレム10世には生き残った息子が無く、結局残っていた娘2人のうち長女のアリエノール・ダキテーヌ(1122-1204)(より正しい発音はアレノ・ダクィテーンだそうだが、慣習名で行きましょう)が父親の領地アクィテーン侯、プェトゥー伯、さらにガスコーニュ侯を引き継ぐ事になったからである。このアリエノールこそ、始めて生涯を見たときには創作じゃないかしらと私を戸惑わせるほどの、中世随一の女性で、2人の国王の妻となった上に十字軍に参加するは、反乱を画策して幽閉されるはで、領土が心配どころの騒ぎではなく、大変な騒ぎとなった。この大騒ぎに付き添って、かつてアクィテーンで活躍していたトルバドゥール達が、彼女に付き添って各地を渡り歩くのであるし、彼女自身がトルバドゥールだったのだから、音楽史としても放っておく訳にはいかない。ざっと彼女の略歴を追っかけてみよう。

アリエノール・ダキテーヌ(1122-1204)

 すでにグィレム10世生前に後見の話は出ていたものか、勢力が小さくなってもかつての西フランク王国の後継者であるカペー家のルイ6世(肥満王、またはフトッチョー)(1081-1137)は、1137年早速息子のルイ(16歳)をアリエノール(15歳)と婚姻させ、宮廷ごと移動しながらそこかしこで結婚式を挙げまくっていると、どうも驚く、国王ルイ6世が亡くなったと云うのだ。これにより、その年のうちに皇太子はルイ7世(若年王)(1120-1180)として即位、奥さんのアリエノールも目出度く王妃となったが、彼女はは妹の恋愛に首を突っ込んでは教皇ともめるは、突っ込んだ恋愛沙汰の後始末でシャンパーニュ伯と対立して旦那のルイ7世がヴィトリーの町を攻め教会ごと市民を焼き尽くすは、一緒にパリに来たトルヴァドゥールのマルカブリュが、一度は宗教界に足を踏み入れるため自由7科を学んだ事もある敬虔なルイ7世の前で、開けっぴろげなアリエノール愛讃を歌いまくれば、ルイ7世の逆鱗に触れ追放されるは、口の悪いマルカブリュがそれに対して非難の歌を作って復讐するは、何が何だか分からないうちに進行し、やがて子供が出来ない事に気が付いたアリエノールは、クレルボーの修道院長となっていたベルナールに「子供が出来ませんの」とお悩み相談に出かけると、1年後におなごが1人誕生したものの、その代わり1146年にベルナールが呼びかけた大演説にすっかり捕らわれて、1147年に開始する第2回十字軍に、神聖ローマ皇帝コンラート3世と共に参加することになってしまった。イスラーム教のアイユーブ朝サラディン(サラーフ・アッディーン)の包囲にあって失敗したと云われるこの十字軍だが、ルイ7世とアリエノールはそれとは関係なく勝手に2人で喧嘩して帰途についてしまったらしい。翌1150年に生まれた子供も女だと分かると、2人の心はますます離れ、とうとう1152年に元々血縁だったという理由で結婚が無かったものとされ、その2ヶ月後にはさらに驚く、アリエノールはアンジュー伯ヘンリ(1133-1189)と再婚してしまうのである。
 そんな再婚があってたまるか、ノルマンディもアンジュー伯も俺の臣下だとルイ7世は2人を召還するが無視され、兵を進めては失敗し、53年には自分には出来なかった息子ウィリアムが2人の間に誕生して、踏んだり蹴ったり煮たり焼いたりの心持ちでパリ宮廷で転げ回っていた。このアンジュー伯というのは、乱立の900年代頃か有力地方勢力として伯を名乗り1000年頃から最初期の石造りの城(中世ヨーロッパでもそれ以前は木造だった)を建築し、トゥールの伯権も獲得し、1100年代には24時間耐久でお馴染みのルマン付近のメーンを手に入れ、ついにはノルマン人のノルマンディーまでもが、アンジュー家のジェフレ・プランタジネとノルマンディー家のマチルダさんとが結婚する事によってアンジューのものとなり、急激に領土を拡大。プェトゥー伯のさらに北方に広がるアンジュー家は、パリのカペー家に対抗する大勢力として君臨していた。もともとアクィテーンとカペー家の結婚はこれに対抗する意味で計画されていたらしいのだが、マチルダとジェフレ・プランタジネの息子であるアンジュー伯ヘンリとアリエノールが結婚した事で勢力構図ががらりと変わり、カペー家にとっては大変な事態になった。少し前に話を戻してアンジュー家の方では、マチルダとアンジューが結びついた後も、イングランド王位には1066年にノルマンディー公国から海を渡ってイングランドを征服した偉大なノルマンディー侯ウィリアムの孫にあたるスチーブンが居たが、彼はマチルダさんの軍と争いになり1153年に敗北を喫し、スチーブンは死ぬまでは王として認めるが、次の国王はマチルダさんの息子が継承するという条約が集結していたが、ショックのためか暗殺か翌54年にそのスチーブンはお亡くなりて、マチルダさんの息子さんのアンジュー伯ヘンリは目出度くイングランド国王となったのである。イングランドに到着すると、アンジュー伯はヘンリー2世(在位1154~1189)として即位、おまけにトルバドゥールのベルナール・ド・ヴァンタドゥルンらが相変わらずアリエノールに熱烈な愛の歌を歌いまくっていたので、ルイ7世ならずも危険を察知したかヘンリ2世は、こいつらをイングランドに連行して歌わせてみる事にしたという。こうしてトルバドゥールは海を渡ったのだと云えれば楽だが、実際はいつからイングランドに歌い手が上陸していたかは分かったものじゃない。
 さてこの結果、カペー家にとっては呪わしい、イングランドからノルマンディーを通って、アンジューを越えて、アクィテーンに繋がる連合体が誕生してしまった。ルイ7世の方も再婚してともかく直系男子をと焦るが生まれるのはやはり女ばかり、「女しか生めないのは私じゃなくてお前だわ」と、ほほほほ笑ったアリエノールはヘンリ2世付き宮宰を勤めたトマス・ベケットの交渉で、そのルイ7世の娘をまんまと自分の息子ヘンリと結婚させ、あわよくばカペー家をも我が手にしようと画策するが、ルイ7世は力尽きる前に3度目の結婚で何とか男子を残し、これが後のフィリップ2世(オーギュスト、尊厳王)(1165-在位1180-1223)となりカペー家が継続する事になった。
(アリエノールのここから先なんか嘘くさいから、調べ直した方が良い。)
 さてさて、アリエノールの生涯はそのぐらいで気を緩めちゃいけない、今度は、イングランドのヘンリ2世に愛人が出来て、次の旦那さんとの関係も悪化し始めた。アリエノールは1167年頃からはもっぱら大陸に止まり、もうこうなったら自分の息子達に夫を乗り越えさせようと考え、大陸側領土のヘンリー2世との共同統治も自分だけの領土と解釈して、直接息子に受け継がせてしまおうと画策を始めた。そんなわけで、ヘンリー2世の知らぬ間に、彼の息子達には駄目親父伝説がお母さんを通じて心の中に刻み込まれていくという・・・・。そして駄目親父のヘンリー2世が大陸に渡った時、1173年についにアリエノールの反乱が勃発し、皇太子戴冠を済ませた筈の息子ヘンリ、三男リチャード、四男ジェフリー悉(ことごと)くヘンリー2世の元を逃げ去り、逆に親父をとっ捕まえようという大変な騒ぎになったが、最後には立場逆転アリエノールは捕まってソールズベリー塔に目出度く?監禁となった。男装で槍を持った53歳の姿で捕まったという。当然子供達への接見は一切禁止となるが、離婚を成立させようとしたヘンリー2世の考えは果たせないまま皇太子ヘンリが亡くなりて、挙げ句の果てにカペー家のフィリップ2世が我が息子のリチャードと結んでさらに反旗を翻すと、お可哀想なヘンリー2世はついに1189年すっぽり病の床で呼吸が停止してしまった。
 これにより67歳にして、アリエノールは牢獄から浮き世世界に再登場すると、度量衡統一だの、イングランド共通通貨だの、歌い手の再編と宮廷技芸の再開だの、病院建設だの、何なんだお前はいったいと思うようなすぐれた政治を行ない、夫の死後生き残ってイングランド王となったリチャード1世(獅子心王)(1157-在位1189-99)が即位するやいなや出かけた第3回十字軍遠征(1189~92)において、見るも無惨な囚われ人状態を満喫すると、身代金調達ばかりか自ら交渉に出かけ彼を取り返したという。その後カスティリア王に嫁いだ娘の子供の一人をカペー家フィリップ2世の息子ルイと結婚させて見せたが、彼こそ後のルイ8世(獅子王)(在位1223-1226)だ。彼は例の1214年にイングランドのジョン(欠地王、「負け犬のジョン」とは呼んではいけません)(在位1199-1216)が大陸領の奪われた土地奪回を目指して進行したとき、これをブービーヌーの戦いで撃退した王で、1216年には逆にイングランドに侵攻したが、ジョンはヘンリー2世の末っ子だから何たる事かアリエノールの息子だった。結局結びつきとしてはカペー家の方は弱い血の繋がりにすぎない。いずれそうなる前に1204年、ノートルダムではすでに偉大なペロティヌスのオルガヌム「ヴィデールント」「セデールント」の作曲も終わった頃に、アリエノールはフォントブロー修道院で大往生を成し遂げて見せ、今日でも横たわる像が置かれているという。

トルバドゥールとトルヴェール

 フランスの地図をリヨンから西に視線を移していくと、クレルモン・フェランがある。1731年にクレルモンとモンフェランが合併した都市だ。クレルモンは1095年のクレルモンの公会議でウルバヌス2世が「十字軍に行くぞ!」と叫んでしまった場所としてお馴染みだが、一方モンフェランの都市には13世紀モンフェラン伯の居城があって、13世紀前半にはクレルモン伯とモンフェラン伯を併せ持つダルフィ・ダルヴェルニュ(1234年没)というお方がこの辺り一体を統治していた。彼も自身トルバドゥールであり、と云うより南フランスなオクシタニアにあっては、領主が歌を作り旨く歌える事がステータスにもなっていただけのことだが、宮廷文化の中心を担う歌であるトルバドゥールの歌を当然擁護し、多くのトルバドゥール達が宮廷に出入りしていた事で知られている。実は彼の城が都市モンフェランの中にあるように、この時代拡大する都市に合わせて有力者達が都市内に居住地を持つ事が増加した。しかも宮廷的なものと都市的空間に引かれた線は緩やかだったらしく、都市職人がそのような城で歌を聴くことも可能だったし、例えばトルバドゥールのエリアス・ケレルは貴金属職人で小売業者、ペイル・ヴィダルはなめし革職人の息子、といった様々な人々が歌い手として領主の屋敷に出入りしていたようだ。カタロニアの詩人ライモン・ヴィダル(1200頃活躍)によると南オクシタニアでは「聖職者や市民、農民」でも、誰もが歌い手になれるという。つまりそうした人々もトルバドゥール達が歌う場所に出入りして聴く事が出来るような、ある種の開放的な流動性が保たれていた。実はそもそも王侯の宮廷自体が、家族兵士配下のもの達を引き連れて、1年を通じて支配地を護り歩き続けるのが当時の宮廷だったから、一カ所に固まっているヴェルサイユ宮殿の精神で見るとえらい事になる。この移動する宮廷はカール大帝も行なっていたし、それ以前からあるゲルマン的な伝統なのかも知れないが、後になっても歴史を見ていくとこの宮廷移動の精神はちょくちょく顔を出し、ブルゴーニュ侯に至っては、この伝統を正統に継承した感さえあるぐらいだ。ただし宮廷巡行で常に必要なものは、移動地で行なう礼拝のための単旋律聖歌であり、多くは他の仕事も兼ねた歌手達が同行していた。それに対してジョングルールjongleur(仏)のように旅芸人一座で宮廷を賑わす音楽や芸を行なうもの達は、音楽に置いては民衆の歌や、よく知られたトルバドゥールの歌などを歌ったりしたらしいが、移動する宮廷に一緒に雇い入れられる事はなく、領主が存在する都市を聞きつけては自ら出向き、領主は群がる彼らに一時的な賃金を支給する形で、彼らの音楽や芸を利用していた。そうした音楽環境の中で、当初アラブから影響を受けたかどうだか、より洗練された宮廷に相応しい韻を踏み形式の整った洗練された歌詞を持つ歌曲を歌う伝統が生まれ、やがてその歌い手をトルバドゥールと言うようになったが、これは当初トルバドゥールという特別な吟遊詩人が存在したのではなく、その歌曲を歌っているときだけトルバドゥールという訳だった。(モンフェラン伯がトルバドゥールだったというのが、ただトルバドゥールの歌を作り歌ったという意味で、社会上の身分でも階層でもないように。)この流行に押されて、領主や付き従う臣下達も嗜みとしてすこしでも優れた歌を歌って、他の者より注目を受けて格好(かこ)いい騎士になってみたいという思いが高貴なトルバドゥール達を生み出していくのだが、多くの宮廷があっちこっちに行ったり来たりして、お祭り騒ぎに明け暮れ、行く先々でトルバドゥールの歌曲が宮廷文化上重要な地位を占めると、やがてさらに多くの者達がトルバドゥールに憧れるようになった。この情熱によって都市市民、職人や、場合によっては農民でさえも、領主に近づき金銭と名誉を獲得し格好(かこ)いい生活がしてみたい野心を持ち、新しい歌い手達を次々にトルバドゥールに仕立て、やがてはなっからトルバドゥール以外の何者でもない(他の仕事はない)、宮廷の巡行に合わせてジョングルールと同じように各地を渡り歩く生粋のトルバドゥール達を生み出す事になった。ただしトルバドゥール自体は騎士的歌曲を歌う者を指すだけなので、ジョングルール達でもトルバドゥールの歌曲を歌えば、歌っている間はトルバドゥールなのだった。

都市の中の歌い手

 こうした巡行は各地の都市や館を周り歩き、都市では領主などの到着に合わせたお祭り騒ぎが沸き起こり、町中は当時大流行したカロール(輪舞)などの舞踏で、皆が輪になって歌いながら踊りまくったり、どんちゃん騒ぎ状態に陥(おちい)ったという。特に王のような高い存在が遣ってくるとなるとどえらい騒ぎが沸き起こった。これは12,13世紀を通じた特徴だそうで、14世紀に聖職者ジョン・プロムヤードが著述した「スンマ・プレディカンティム(説教大全)」では、聖職者が呆然として立ちつくす悪魔に声を掛けると、悪魔が「何の助けも入らないからただ座っているのさ」と呟くので、不審に思い都市の方に近づいていくと、「町中が、おいらの主人のものになっているんだ。」と悪魔の指さす向こうで墓地に満ちあふれた町中の者達がカロールを踊りまくっているという。これは元々壁のない郊外に墓地や教会施設に、新しい居住地が密集し始めた1100-1300に掛けて、城壁が作り直され、郊外の墓地や教会を飲み込んで発展していく熱気の中で、浮かれては騒ぐ当時の都市市民の姿で、将来の都市拡張ために取っておかれた墓地や空き地が、ことごとくカロールを踊る最高の舞台として選ばれてしまったという。こうした熱気と、都市の拡張や流動性の高い身分階層などの社会状況を把握して、その中にジョングルール達や、トルバドゥール達を置いてみないと、当時の音楽状況もなかなか聞えてこないかも知れない。  実はジョングルールなどあらゆる世俗音楽を担う様々な楽士達も、カロールと並ぶ聖職者の非難の的となっていた職業で、「ヴィダス」の中にも17人の楽士が描かれ、そこには聖職者、市民、商人一族、騎士、職人、学問破棄者からなど、トルバドゥール達同様に多種多様な者達が存在する事が分かる。渡り者として宮廷を追いかけ賃金を獲得する彼らは、追いかけのトルバドゥール達(身分のない)もそこに含めても構わないかも知れないが、12.13世紀頃から賃金を保証され一定期間において雇われる者達も現れ始めた。彼ら芸人は宮廷内でもっとも身分の低いではあるが、次第に整備される宮廷音楽家の一番の走りなのである。また13世紀、楽士達を都市が祭りのさい使用するなどの例が見られ、これも都市楽師達へと次第に繋がっていく。こうして次第に誕生したジョングルールではない世俗音楽を演奏する階層の誕生は、安定した職業としての音楽家と、その一方に大量の貧しいジョングルール達を遠い先にまで生み出す原動力となった。
 話をトルバドゥールに戻すと、この歌いまくる伝統の粋な心持ちは、詳細不明だがやがて北方にも伝播し、オイル語でトルバドゥールを指す発音「トルヴェール」達が誕生する事になった。当時の宮廷が流動的な上に、アリエノール・ダキテーヌのような政略結婚が日常茶飯事だった事もあり、遍歴楽士達は北方にも足を伸ばしたし、外交を通じて接触しているうちにうっかり感染した領主などもあるのだろう。初期のトルヴェールである領主コノン・ド・ベテューヌ(1180-1200活躍)にはトルバドゥールの旋律を採用したものが幾つかあるが、北でもやはり多様な地位の人々が歌い手になっている。特に13世紀には多くのトルヴェールが都市聖職者や市民から登場しているのが北方の特徴といえそうだ。ちょうど北方の都市では「ロマン」の大流行が沸き起こり、騎士道や宮廷風な愛と冒険に明け暮れる一連の物語が若者の心を捕え、例えばアーサー王物語はパリで一大ブームを沸き起こし、互いにアーサー、ラーンスロットと呼び合っては別の奴が聖杯を後ろで「すーっ」と素通りさせるなど、大変なミミクリ型の遊びを沸き起こした。彼らは「ロマン」の物語を元に詩と音楽を生みだし、ハープやヴィエールで飾り付けて歌うことに情熱を燃やし、ついでにこれで女も引っかけてみせる野望に燃えたぎっていたのだ。アーサー王はトルバドゥール、トルヴェールの歌詞にも顔を出し、例えばナヴァール王チボー・ド・シャンパーニュの「神はペリカンのようだ」という曲では、アーサー王の物語にドラゴンが城を倒したごとく、世界は滅びるものだというような歌詞が見られるし、ガウセルム・ファイディトの「何とつらいことだろう」では、偉大なリチャード獅子心王が亡くなった哀悼の歌に、アレクサンドロスも、シャルルマーニュも、アーサーもあなた様には劣りますという詞が見られる。
 さて、ヴィエールは12世紀のうちに南方トルバドゥール達に知られていたものだが、13世紀には北方に伝播してたちまちのうちに流行したのである。運の良い事にアリストテレス思想に由来するエートスの楽器としてのキタラ、リラ、の精神に則って都市の聖職者はヴィエールに比較的好意だった。13世紀後半には北フランス都市聖職者の文献に高尚な楽器として現われるほどで、ヨハンネス・デ・グロケイオも「ヴィエールは種々音楽に対応でき、どの楽器よりすぐれている。」と書き表している。こうした都会の若者達は、やがてトルヴェールの伝統に触発され2代目、3代目のトルヴェールとなったのかも知れないが、それより前にアリエノール・ダキテーヌがアクィテーンの多くのトルバドゥールをパリに突撃させた影響も、トルヴェール流行に結構大きなインパクトを形成しているのではないかと思われる。ただし、説明しろと云われても困る。間違っていたらあっさりこの部分を削除して済ましておくだけである。さて、この歌の伝統は何も今日のフランス地域だけではなく、当時の領主達が巡行しまくりの上に、政略結婚がヨーロッパ全土を行き交うのに合わせて、ドイツ方面でもちょっと遅れて12-14世紀にミネジンガーが活躍を開始した。

 

アリエノールその後

 それでは、最後にアリエノールの子供達の生き様とそれにまとわりつくトルヴェール達などを見ながら、世俗歌曲の章を離脱することにしましょう。1189年に始まった、アイユーブ朝(「ああ良い湯」「部長!」という強引な覚え方があったっけ)のサラディンに奪われたイェルサレムの奪還を目指した第3回十字軍は前に少し見たが、この第3回十字軍こそ、イタリア遠征繰り返す神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤ひげ王、バルバロッサ)(1123-在位1152-90)と、フランス王フィリップ2世(オーギュスト、尊厳王)(1165-在位1180-1223)、さらにアリエノールとヘンリー2世の子にしてイングランド国王となった三男のリチャード獅子心王(1157-在位1189-1199)という3人の王が、仲良く(とは思えないが)参加する国王三羽ガラス十字軍で、後々唐傘(からかさ)掲げた三位一体攻撃が結局不和により崩壊するという伝統を築いた。
 1190年まずフリードリヒ1世が小アジアに駒を進めるが、河で遊んでいるところうっかり深みにはまって溺れて亡くなったので、恥ずかしいので毒殺説だの心臓麻痺だの誤魔化してみたが、本当はただのうっかり伝説に過ぎなかったともいう。残る国王2人は奪われしアッコンを奪還し、ついにアイユーブ朝のサラディンを打ち破った。しかし赤ひげのせいで三位一体攻撃が出来なくなって欲求不満が表面化した2人の王は対立し、フィリップ2世はいち早く戦線を離脱、とうとう一人になったリチャード1世もイェルサレム奪還を断念して帰途の途中、フィリップ2世が新皇帝らと結託した落とし穴にはまって、パリに向かう途中でオーストリア公に捕まりて、「囚われ人」として切ない捕虜の生活を送り、莫大な身代金をかき集めたお母さんなアリエノールがケルンに出向いて、漸く神聖ローマ皇帝を経由してイングランドに帰ってきた。この逸話が「うっかり囚われ人」伝説を生み出したとされるが、この楽しい十字軍にも数多くの歌い手達が付き添っているから見てみよう。まずクーシーの城主であるグイ・ド・クーシー(c1165-1203)は13世紀の「バラ物語」に英雄として名前を挙げられるトルヴェールだし、コノン・ド・ベテューヌ(c1180-c1220活躍)も領主だった。モンフェラート伯に使えたゴーセルム・フェディト(1170-1205頃活躍)はサイコロで全財産を奪われた鴨ネギのトルバドゥール。ギロー・ド・ボルネイユ(1165-1200)は市民からリチャード1世の配下となりトルバドゥールの師と讃えられるほどの人物に出世し、おまけに十字軍の途中ではアンティオキアの王子の元にしばらく滞在して己の技芸をもって異教徒からも讃えられた。そしてアリエノールの息子であるリチャード1世自身も、もちろんトルヴェールとして名を馳せた人物で、「捕らわれ人は決して身の証を上手には語れません。」は彼の最も知られた作品だが、本当は後世の別人の作品だ。こうして多くの歌い手もまた参加した十字軍だったが、リチャード1世が囚われ人を満喫している間に、末っ子のジョンとフランスのフィリップ2世が結託して、ジョンがイングランド国王になっていたので、釈放の漲る怒りでジョンを追い出してイングランド国王に復帰すると、リチャード1世は歌曲どころの騒ぎじゃない、海を渡ってフィリップ2世が俺の居ない間に奪い取った領土を回復している間に、最後までうっかりの呪いからは逃れきれず、流れ矢に刺さって魂が天上に捕らわれ人になってしまった。フィリップ2世は大喜びで勢力回復、再度王となった負け犬の(と呼んではいけない)ジョンに対して有利な条件で講和を結ぶ。駄目王ジョンの方はその間にも1208年カンタベリー大司教任命をめぐって対立したローマ教皇インノケンティウス3世からは破門され1213年に謝罪するわ、翌年フランスに反旗を翻して仕掛けたブービーヌの戦いでは、戦争前から「領土無し王」の名称で親しまれていたジョンに相応しくフィリップ2世に大敗して、イングランドの大陸側の領土を正式にフィリップ2世に奪い取られ直すは、翌年1215年には国内貴族・聖職者の権利を認めるマグナ・カルタを承認させられるは、そうかと思えばインノケンティウス3世がその条約を破棄させるは、これに腹を立てた国王反対派の貴族達がフィリップ2世の皇太子ルイと結んで一時ロンドンまで占領するわ、大変などんちゃん騒ぎの中で、1216年うっかり腹をこわしたジョン王は「お腹が痛いよう!」と叫んで天上にお帰り遊ばしたという。まさにアリエノール伝説に相応しい楽しいエンディングを迎える事になったわけだ。しかし、この時奪われた大陸のイングランド領土の怨念が、後に100年戦争を沸き起こす起爆剤になるから歴史というものは壮大だ。

世俗歌の歌い手達

 では、最後に教科書のまとめによって世俗歌曲などを再確認しながら、トルバドゥールとトルヴェールの部分の終わることにしましょう。

ジョングルールjongleur(仏)またはミンストレルminstrel

・10世紀頃現われた旅芸人、出し物一座、彼らは音楽曲芸手品で各地を渡り歩いた。11世紀に彼らが作った友愛組織は、後の職業音楽家組合的なものになっていく。
・音楽としては既存の歌、よく知られた民衆の音楽などを使用したり、トルバドゥール、トルヴェールの歌を歌ったり、臨機応変な奴ら。

トルバドゥールとトルヴェール

・国王から、貴族から、身分は低いが歌はうまい者から、とにかく自ら歌を作り歌う一連の輩が登場し、フランスを中心にヨーロッパを荒らし回った。先に開始して影響を与えたトルバドゥールと、後に流行を巻き起こした北方のトルヴェールとは、時間と土地などによって傾向が少し異なっているが、彼らの歌はシャンソニエ[(仏)シャンソン集]に残されている。シャンソンはフランス語の歌だから、要するに歌の曲集なのだが、実際はトルバドゥールの使用するオック語を使用し、トルヴェールはオイル語で歌詞が書かれ、トルバドゥール旋律が約260とトルヴェール旋律が約1420も残されている。
・その形式は多用の一言で、バラードの単純なものから、劇のようなバラード、2人以上の登場人物を持っただろうもの、身振りを伴うだろうものなどあり、その多くには舞踏が要求されたそうだ。ただし、実際は流行や廃れ、楽器の扱いから形式に至るまで時間と場所による様々な経緯があって、その中に一人ひとりの歌人達が活躍しているので、それを同じ平面から眺めれば、ただ多様の一言に還元されるのは致し方ない。主題も様々だが、歌詞の内容にも流行廃れや、地方ごとの特色があり、南方ではひたすら貴婦人を讃える愛の歌が多い一方、北方では13世紀後半初めて宗教的歌が登場し、これを特徴として上げられるが、そうはいっても北方だって愛の歌夜通しライブがたけなわ(最盛時)だった。
・愛好された種目にパストレーラ(プロバンス語=オクシタン語)牧歌詩、パストゥレル(仏)がある。これは、「騎士が羊飼いの娘に恋をして執拗に追い回すと、抵抗の後受け入れられるか、別の恋人や娘の家族に追い払われる。」(教科書参照)と言うストーリーがベースになっていて、そのうち各担当を別の人が歌っているうちに、身振りまで交えて、小規模の劇にまで発展したそうで、こうした音楽劇でもっとも有名なものは、最後のトルヴェールとも云われる事がある、アダン・ド・ラ・アルが1284頃に書いた「ロビン(ロバンは今日風の発音)とマリオンの劇 Jeu de Robin et de Marion」があり、ここで使用される歌がアダン自身のものか、知られた歌を取り込んだのかまでは分らない。この冒頭の歌「ロビンは私が好き」を見ると、見事な単声ロンドで作曲され大文字を合唱、小文字を独唱とすると、ABaabABの形になっている。またこうした露骨な愛のストーリーと別の、宮廷愛の最良の歌も数多く残され、例えばトルバドゥールのベルナルト・デ・ヴェンタドルン(1150頃-80頃)「ヒバリが羽ばたきCan vei la lauzeta mover」がよく知られている。
彼らの旋律は音節的で、詩行の最後から2番目の音節に、短いメリスマ音型が見られることがある。即興的修飾を駆使し、変化を促した。音域は狭く、8度を超えることはほとんど無い。主に教会旋法の第1,第7とその変格旋法で歌われている。しかし記入されることの無かったリズムが、今となっては分らない。ある人は拍のない自由唱法だったと言い、別のものは音節アクセントに対応していたという。また一行または2行の反復句refrainが何度も何度も現われるものもあり。これは多分踊りの歌、つまり踊り手全員が合唱で歌ったのがもともだとか、そうじゃないとか?
・形式上は、歌詞の韻律も形式感も自由なものが多々あるトルバドゥール歌曲に対して、トルヴェール歌曲では韻律へのこだわりや、楽曲形式の集約が見られ、ここから次第にバラード、ロンドー、ヴィルレー、レーといった、シャンソン定型が登場していくることになった。
・教科書には12世紀のトルバドゥール、コンテッサ・ベアトリッツ・デ・ディア(ディア伯爵夫人ベアトリッツ)の「気に染まないことも歌わなければなりません A chantar」が紹介されているが、当時の写本に特に多く残されているのはルイ7世とアリエノール・ダキテーヌの娘マリ・ド・フランスの宮廷にクレティアン・ド・トロワやらコノン・ド・ベティエなどの文学者と共に仕えたガース・ブリュレ(c1160-1213以降)と、そのマリ・ド・フランスを祖母に持ちフィリップ2世に仕えた貴族シャンパーニュ伯ティボー4世(1201-53)だそうである。

ミネジンガー

・憧れの聖女「ミネフジコ」を讃えた盗人集団では無かろうが、ちょいっと遅れてドイツでも12-14世紀にミネジンガーが活躍。一説には、赤ひげの神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(在位1152-90)が1156年にフランス側のベアートリス・ド・ブルゴーニュと結婚したことがフランス世俗歌曲の流入をもたらしたとも云うが、政略結婚や、巡行などで各地の文化接触が結構あったのである。さて、ミネリート(愛の歌)はフランスの愛の歌より一層抽象的で、ときに宗教的で、音楽も一層地味で重々しい。ドイツのお国柄は、何も後になって生まれたものでは無いようだ。また詩のリズムから、おそらく旋律の大部分が3拍子で歌われていたらしいと書いてあった。
ヴィツラウ・フォン・リューゲン(1268頃-1325)の「ああ、私は考えた We ich han gedacht」の例が教科書に載っているが、他にも、ナイトハルト・フォン・ロイエンタール(c1180-1237 以降)や、フラウエントロープの名で知られたハインリヒ・フォン・マイセン(1250/60-1318)などが活躍。そして忘れてならないのが、13世紀のうちにマシュー・パリスが「世界の驚愕」と讃えてしまったという、偉大な神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世、その人ではなく、彼の十字軍に同行したヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(1170-1230)で、彼の「パレスチナの歌」は交渉で回復したイェルサレムに入城して感動のあまり歌ってしまった曲としてお馴染みだ。そして、ヴァーグナーのオペラタンホイザーでお馴染みの、タンホイザー(c1205-c70)と、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(c1170-c1220)もまたミネジンガーとして実在の人物だが、1207年のヴァルトブルクの歌合戦の逸話は後の伝説に過ぎないようだ。14世紀に活躍した後期のミネジンガーであるオスヴァルト・フォン・ヴォルケンシュタイン(c1377-1445)は、多声曲にも手を出した。

マイスタージンガー

・ドイツ諸都市の商人や職人達が、ミネジンガーを引き継いだら、13世紀にフランスで貴族達から教養市民達にトルヴェール伝統が移っていくのに遅れて、14-16世紀にドイツでも同じ流れが起きたからマイスタージンガーが生まれてしまった。
ハンス・ザックス(1494-1576)によるダビデとサウルの戦いの注釈、「ダーフィト(ダビデ)は切実だったので」の例が。これはバール形式(aab)になっていて、bはアプゲザング(歌い納め)で新しい旋律を含み、aより長いことが多い。しかし、ある本によると、そんなハンス・ザックスでさえも霊感に襲われることは滅多になかったのである。

イベリア半島の世俗歌曲

・イベリア半島のカスティーリャ王国の賢王アルフォンソ10世(在位1252-84)。レコンキスタを進行して、グラナダを都とするアンダルシア地方以外をイスラームから奪い返し、教皇から聖王の名称を与えられた英雄フェルナンド3世の息子として王位に付いた彼は、アフリカ遠征に失敗したり、国内イスラーム教徒の反乱にあったり、強権的製作が貴族の反感を招き、とうとう息子のサンチョ王子(後のサンチョ4世)に廃位させられ無念の死を迎えるなど、それの何処が賢王なものかと突っ込みが入りそうな政治的失策国王だった。しかしその一方で、イベリア半島の歴史を編纂した「大年代記」(これはサンチョ4世が完成)や、法律書の編纂、そして彼のの指示で編纂された、400曲以上の単声のカンティーガ(カスティーリャ語で歌の意味)は音楽史上重要な資料として今日残されることになった。これは「聖母マリアのカンティーガ集」(Las cantigas de Santa Maria)と呼ばれるもので、イベリア半島で大流行していた聖母マリア崇拝の多くの讃歌を収拾したもので、10曲ごとにマリアのための讃歌と細密画(ミニアチュール)が置かれて、ガリシア語というイベリア半島俗語の一つによって詩が書かれている。この細密画には楽器を演奏する人たちが描かれていて、もしかしたらこうした楽器が伴奏に使用されたのか、それとも当時の楽器を修飾のため書き表したのかまでは分からないが、非常に豊かな音楽伝統を感じさせる内容になっている。思えば、トルバドゥールは元々イベリア経由のアラブ伝統の影響を強く受けたという可能性もあり、イスラームに対抗意識の固まりだったイベリア半島キリスト教世界にも、影響は与えただろうし、アルフォンソ10世はトルバドゥールのギロー・リキエ(c1230-1300)のパトロンだったともされているから、トルバドゥールの伝統との関係が意外と深いものがあるかもしれない。こうした歌曲は王の命令があって運良く当時の音楽が残された例だが、半島で歌われていたほとんどの音楽は、基本的に鳴り響いた後行方知れずになってしまう運命にあった。ちなみに、聖母マリア崇拝と云えば、当初教会は否定的だったはずなのだが、始め拒んでいた民衆的死者儀礼をむしろキリスト教に取り込んだように、この時期にはキリスト布教への有効性もあり聖母マリア信仰を認めるようになっていた。カンティーガ集については、細密画と歌詞の説明のある次のページをお薦めしておく。

「Las Cantigas de Santa Maria」

イタリア半島

・イタリアでも直ちにトルヴェールの歌曲が流れ込んだが、それがすぐイタリア語の世俗歌曲騎士風味の文化を生み出すことはなかった。そもそも統一的なイタリア語(標準イタリア語は19世紀の統一時に作製された人口言語なのだそうだ)なんて存在せず、ラテン語の崩れたイタリア半島の俗語からして都市ごとに会話が通じないほどかけ離れている場合があったので注意が必要だが、(フランス側だって、オック語とオイル語だけに分かれていたわけではない)、まあ方言言語としてイタリア半島のどこかで使用された言語という意味でイタリア語としておくと、俗語の宗教的な歌曲が今日まで使用に残されている。この単声ラウダ(lauda)は、一般信者と罪を悔いる者達の行列とによって歌われ、ペストなどの流行が起こると、自らをむち打ちつつ懺悔集会を敢行するむち打ち苦行団のための歌としても、多くのラウダが使用された。

神聖ローマ帝国方面

・このむち打ちの心がドイツにおける「むち打ち苦行者の歌」であるガイスラーリートを生み出したが、もちろんドイツ方面の俗語だって地方ごとに大きく異なっていた。いずれ、むち打ちつつ更新しながら歌いまくるこうした歌は、決して典礼音楽ではなく、宗教的な世俗歌曲に分類される。

イングランド

・イングランドでは、ケルト人吟遊詩人バードの伝統があり、ゲルマン進出以降もスコプという宮廷詩人や、放浪詩人的なグリーマンの活躍が見られ、ハープなどを使用して歌う詩や歌曲の伝統は、非常に古いものがあるはずだが、当然記譜されることもなく、消えてしまった。もちろん、これはトルバドゥール、トルヴェール以前のフランスの音楽に対しても、また他の国々に対しても云えることだが、後にイングランド国王ヘンリー2世時代になってアリエノールのお付きトルバドゥールであるヴァンタドルンなどが遣ってきたりしている。当然この時期には、イングランド宮廷の言語はノルマン語(ノルマンディー地方のフランス系言語の方言の一つ)であり、英語の世俗曲はほとんど残されていない。もちろん、これは民衆が歌を歌わなかったと云うことでは、まったくもってないのである。

2005/06/05
2005/08/15改訂

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