4-2章 14世紀フランス、アルス・ノーヴァ

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西ヨーロッパ14世紀

 フランス、ついでイギリスなどで中央集権的近代国家への道が足音を強くすると、見せかけだけの太陽である教皇の力は軍隊を伴う実力行使の世俗勢力の前に屈服した。都市の隆盛が貿易と貨幣経済社会を推し進め、それが中央集権的国家と結びつき始めたとき、権威と権力は莫大な資金を持ち大きな軍隊を組織出来る大勢力に集中し始め、後の近代国家への1番狼煙(のろし)が煙を燻らせた。中小封建領主達は巨大な経済圏に飲み込まれ相対的に価値を減少、飛び道具と軽装歩兵の活躍による効率的な戦争が一般的になると、騎士階級は意味を成さなくなった。このような次の時代へのシフトが行なわれ始めた14世紀、慢性的な天候不順と慢性的な疫病のシーズンが到来し、長らく拡大を続けてきたヨーロッパの農業生産、農地拡大、人口増加の歯車は反転し、14世紀半ばのフランスとイギリスの人口の1/3を奪ったと云う恐ろしいペストの流行を中心にして、慢性的不作に生産停滞、農地減少、人口減少といった悲惨な状況が生み出され、それに合わせるかのように教皇はフランス国王によってローマから南フランスのアヴィニョンに移され宗教的混乱を迎え、ドイツでは皇帝が不在の大空位時代を迎え、イギリスとフランスはかねての領土争いに蹴りを付けるべく百年戦争に突入して、混乱と戦争が一層この時代を暗く塗り替えた。それにも関わらず、イタリアでの都市ごとの経済活動と政治体制は、この時期ペストを挟んでさえ、いよいよ絶頂期に向け発展を遂げるなど、この時代は停滞よりは、次の時代に移行するための新しい思想や社会状況が生み出され、それは悲惨なペストによっても留めることは出来なかった。つまり14世紀は暗い時代だろうと涙の谷間だろうと、歴史の歯車がより強力に動き出した、西洋史的には非常に有意義な時代だったと言える。

転げ廻る教皇と弾(はず)む世俗権力

 高まるキリスト教の熱気が教皇を天高く押し上げ、その地域を治める実質的なトップである国王や諸侯を照らす偉大な太陽に見せかけた。しかし、いかに宗教心が熱くても、あらゆる人々は、農民も商人も貴族も王侯も、所属する行政機関システムと経済システム側に身を置くため、必然的にそのシステム側の世俗的トップがより強力な太陽になるのは、時間の問題だった。元々教皇は神聖ローマ帝国皇帝のイタリア政策と絡んで、グレゴリウス改革時代以前から改革以後まで変わりなく、世俗権力との泥仕合を演じながら14世紀のアヴィニョン捕囚を迎えるようなものだったが、十字軍の高まりとキリスト教への熱気が束の間だけ、教皇に世俗領主悉(ことごと)く押さえつける実質的権力があるかのように、すべての人に、錯覚を引き起こさせたようなものかも知れない。そして教会のヒエラルキーと宗教組織は、かえってアヴィニョン捕囚の時に高まってくるのである。
 こうして急激に沈みゆく教皇の太陽は、ボニファティウス8世(在位1294-1303)フランス国王フィリップ4世(在位1285-1314)の時に日没を迎えることになった。フィリップ4世がギィエンヌ(ボルドーのあるイギリスに輸入する為のワインで重要だった場所)を賭けたイングランドとの争いのために教会法を無視して聖職者と修道院に課税を行なうと、これに対して教皇ボニファティウス8世が勝手に課税した者は破門だと宣言し、何だとこの野郎とフィリップ4世がフランスからの貴金属持ち出しを禁止、これによって教皇庁への献金をストップさせた。まあ、この時は何とか和解に到達したが、ナルボンヌ司教とナルボンヌ伯の所領問題でまたまた対立すると、再び教皇が「破門じゃ破門じゃああこりゃこりゃ」と叫び出したので、フィリップ4世はノートルダムに貴族・高位聖職者、そしてさらに都市代表を参加させた「三部会」(1302)を召集、この会議の国王支持を取り付けた。心を痛めたボニファティウス8世が教書「唯一の聖なる教会」を発し「教会権力には世俗と宗教に向けられた2振りの剣があるべきです。今すぐにです。」と叫ぶと、フィリップ4世はボニーの廃位を要求。怒ったボニーがついに破門行動を起こそうとするやいなや、フィリップ4世の政治担当として活躍していたモンペリエ大学教授のギョーム・ド・ノガレと云う奴が、ローマ近郊アナーニでボニーをとっ捕まえて、泣き出したボニーはようやくのことでローマからの援助に救い出されたものの、その時に「ノガレられまい、ノガレの縄を!」とあまりに非道いフランス風ジョークを聞かされたのがトラウマとなってか、1ヶ月後に天上に召されてしまった。こうしたノガレのような大学出身者達は、学んだローマ法などを元に世俗権力による中央集権国家を目指し、数多くの者達が法律を熟知した政策担当者として国王の周りにで役職を担うようになっていたが、教会自体のヒエラルキーや制度を整えていったのも、世俗の中央集権国家の枠組みを整えていったのも、こうしたシステム形成に生き甲斐を見いだす大学出身者達だった点も見逃すことが出来ない。
 さてボニーが亡くなった後、フランス派の攻勢が強まり、フランス貴族の出身であるクレメンス5世(在位1305-14)が教皇に就任。フィリップ4世に脅されながら1309年にアヴィニョン(この地も教皇庁の領土になっていた)に滞在すると、フィリップ4世はあらゆる手段で教皇を引き留め、以後1377年まで教皇はローマではなく、このアヴィニョンに教皇庁を置かされることになった。しかもフィリップ4世が莫大な資金力を持つテンプル騎士団を討伐して豊かなマネーを懐に収めると、これに対して何の反論も行なわないクレメンス5世への非難が急激に高まり
「国王なんぞは月でも良いが、教皇様はすっぽんぽん」
と云われるまでに墜落してしまったのだ。この教皇庁の移転事件を教皇のアヴィニョン捕囚(1309-77)というが、これはさらにギョーム・ド・マショーが亡くなったのを記念して(関係ねえって)、1378年からは神聖ローマ帝国やイタリアの支持するローマの教皇と、フランスの支持するアヴィニョンの教皇と、2人の教皇が並び立つ、いわば西洋版「南北朝時代」である教会大分裂(シスマ)(1378-1417)を迎えることになった。非常に面白いことに、後醍醐天皇が京都を離れ吉野にお移り遊ばして開始する日本の南北朝時代(1336-92)と、年号に重なる部分があるじゃないか。
 そんな中、教会側でも公会議による決定を教皇決定よりも重視しようという公会議至上主義の精神が高まり、例えばシスマを終わらせたコンスタンツ公会議(1414-1417)(若きデュファイが、ダイイ枢機卿に連れられて公会議に付き添ったとも云われる公会議だ。)など多くの公会議が開催された。しかしここでは、すでに各国の聖職者達が、まるで各国家代表のように振る舞っている様子を見て取ることが出来る。もはや教皇を中心とする教会組織の一員としてより、各国家教会に所属するという意識が現れ始め、ここでも教皇とキリスト教の枠組みよりも、国王と国家的な意識の方が次第に優位に為りつつあるのが分かるのだそうだ。
 アヴィニョン事件はドイツに衝撃を与えた、「我らが皇帝がフランス王に飼い慣らされてクンと鳴く教皇から戴冠を頂戴するだと、そんな屈辱があってたまるものか。」この怒りは、1356年、皇帝選定の特別任務を持つ代償として、自らの領土に圧倒的な特権を維持出来ちゃうという、美味しい立場を獲得した選帝候が正式に定められ、同時にそれらの特権を承認させた黄金印文書が定められたとき、選帝候の多数決で皇帝を選出すれば教皇の承認は不要だという決定をもたらした。300もの自治都市や諸侯が入り乱れてしのぎを削る領邦国家テリトリウムは、この後ずっとドイツ独自の形態として長らく続いていくことになる。こうして事実上の完全分裂を確定させたドイツでは、政治的中心としての教皇と神聖ローマ皇帝の概念は両方とも崩れ去ったのであるが、むしろ正確には、最初から分裂傾向が強くて、まとまる気持ちなど無かっただけかも知れない。ただし教会の力に対して、世俗の力が強力に前面に出てきた点に関しては、やはりフランスと同様だそうだ。

アルス・ノーヴァ

 13世紀後半になると、ノートルダム楽派の曲集編集作業や各地での写譜など、旧来作品群に対する集大成であるアンソロジーの情熱が高まってきた。しかし一方で、新しいモテートゥスが次々に写本に納められるなど、新作への情熱も衰えることを知らず、しかも新しい作品は一層新しい表現を求め、急激に旧来の記譜法の枠をはみ出していった。まるで新しい価値観と芸術感を元に急激に変化を遂げた19世紀末から20世紀初頭のような熱気が、音楽語法の変化を促したかのように、当時の音楽もまた、自覚を持って新しい語法を生み出していったのだ。例えばペトルス・デ・クルーチェのセミブレヴィスの3分割以外の分割法や、一層細かい音符の使用などは前回に見たが、このような新しい表現を満たす新しい記譜法をまとめたモの司教フィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361)が、これを1322-23年頃「アルス・ノーヴァArs nova」すなわち「新しい技法」と命名して世間様に問うてみたところ、音楽理論家であり数学天文学者のジャン・デ・ミュール[ラテン風ヨアンネス・デ・ムリス](c1300-c1350)も「アルス・ノーヴェ・ムジチェ(ラ)新音楽の技法」(1321)[ジョスカン没年200年前を予感して]を表わし、一層明快に新しい記譜法を体系化、イタリアのペトラルカまでついでにヴィトリの事をフランス唯一の真の詩人と讃えてみせた。もちろん詩と音楽に密接な関係があるのは皆様ご存じの通りだ。
 この「アルス・ノーヴァ」は単なる記譜法の説明だったはずなのだが、これが元でパリを中心に新音楽擁護派と新音楽反対派が二手に分かれ、知識階級の間で大論争を巻き起こすことになった。新音楽派が「旧来の音楽など今ではすっかり古ぼけて、使いものにならねえんだから、古い技法、すなわちアルス・ヴェテルムとか、アルス・アンティカと呼んでたくあん石を括りつけて海にでも沈めちまえ」と言えば、伝統を重んじる一派は、「危うい、気を付けなくちゃ、危うい」と非常な危機を感じて、特にリエージュの理論家ジャック・ド・リエージュ[ラテン風ヤコブス・レオディッチェンシス](c1260-1330以降)などは百科全書的な「音楽の鏡Speculum musicae(スペクルム・ムジチェ)」という著作の中でこう述べてしまった。

「不自然なリズムや予想もしなかった動きを駆使して気まぐれな慌ただしい精神を表した今日の音楽は、全くもってセミブレヴィスさえも散々分割してミニマ、さらにはセミミニマまで生み出して、それを完全な3分割ではない2分割といった遣り方で悪戯するために、なんとまあ秩序の欠片も御座いませんことか。2で割るとは一体どういうことなのでありましょう、音符はどんなに細かく分割されても三位一体が保たれて、天上の数の秩序がそのまま表現されていて、すっごくいいのが鉄則だったのに、これはまさに神をも恐れぬ不届きな悪行であります。そして新型に生き甲斐を見いだす奴らは、オルガヌムや、コンドゥクトゥス、ホケトゥスのような伝統的ジャンルを悉(ことごと)く蔑ろにして、今やまさにモテートゥスどころかカンティレーナ、すなわちこってこての世俗歌曲を生み出すことに、生き甲斐を見いだしているのであります。危ない、気を付けなくちゃ、危ない。我々のさらに上の先輩でさえも、せいぜい「コンドゥクトゥス、すごっくいい!」と叫ぶことで、世俗的音楽へのはけ口を十分としていたのではなかったか。それがモテートゥスに取って変わられたのは知的音楽のためには良かったかもしれないが、物事には歯止めがなくってはなりません。でなければ、神も掟も秩序も協和も到底あったものではないのであります。」

と、旧来のケルンのフランコや、ペトルス・デ・クルーチェの音楽辺りまでで止(とど)まることを理想として掲げたものだから、後々モンテヴェルディを批判したアルトゥージの先輩として、「中世のアルトゥージ」のレッテルを貼られてしまった。この中世のアルトゥージは、ギョーム・ド・マショーよりわずかに早く生まれ、わずかに早く亡くなったぐらいの人物だが、こうして起こった新しい技法と古い技法の対立点については、記譜上においても次の2つの異なる見解がクローズアップされてきた。

 ①3分割に加えて、2分割を認めるか(「たたた」ではなく、「たた」で進行するような感じになる)
 ②ブレーヴィスを4つ以上のセミヴレーヴィスに分割し、セミブレーヴィスを更にミニマに分割することを認めるか

 同じ1324,25年頃、教会内部でも近頃の礼拝音楽に対してヨハンネス22世(在位1316-1334)が苛立ちを教令に書き込めている。

「新しい音楽に共鳴するならず者達が、礼拝音楽をセミブレヴィスとミニマで埋め尽くして、旋律はホケトゥスで分断するわ、ディスカントゥスで弄(もてあそ)ぶは、調子に乗って世俗歌曲の上声さえもそこに当てはめる。すこぶる怪しからん。許し難き神への挑戦は我々の排除すべき事柄である。」

 しかし結論から言わせて貰えば、アルトゥージの言葉が何の役も演じられずバロック時代を迎えたのと同様、これらの言葉は頓着無く見捨てられ、意気揚々と新音楽が発展したのである。では、ここで新しい音楽を表わすべく登場した、新しい記譜法について軽く見ておくことにしよう。

アルス・ノーヴァの記譜法

ジャン・デ・ミュール(c1300-c1350)が後年に残した「リベルス・カントゥス・メンスラビリス(ラ)計量音楽の書」を中心にして当時の記譜法をまとめた金澤正剛著作「中世音楽の精神史」にもたれ掛かって、拝見してみることにしよう。まずここでは基本リズム単位はテンプスではなくタクトゥスと呼ばれ、しかもこのタクトゥスがブレヴィスからセミブレヴィスに移されてしまった。セミブレヴィスを分割したより細かい音符であるミニマが登場して、大活躍をしていたので、セミブレヴィスを基準に置いた方が分かりやすかったからである。ミニマの登場により5つの音符が使用されることになったのであるが、2倍のロンガはここではマクシマと呼ばれている。ちなみにセミブレーヴィスを表す菱形◆音型が、後に丸くなって今日の丸い音符になっていくことになる。

マクシマ→ロンガ2つ分。ロンガ[黒塗り四角(■)+右下棒]の四角を長方形に横に2倍伸ばした音符で表わす。
ロンガ→黒塗り四角(■)+右下棒(真っ黒な烏の国の国旗のように)
ブレヴィス→黒塗り四角(■)
セミブレヴィス→黒塗り菱形(◆)
ミニマ→黒塗り菱形(◆)+◆の上に棒を伸ばす(まるで波平の髪の毛のように頭のてっぺんに伸ばすと、これが後の時代に4分音符となった)

・そして14世紀半ばには、さらにミニマの棒の先を反対側に折り曲げた一層細かい音符セミミニマまで登場し、使用されるようになっていくが、もちろんこれは今日の8分音符の棒から出ている旗の部分になっていくわけだ。ついでに休符も音符ごとの長さに応じて異なる記譜で表現し、ブレヴィスなら四角が譜線の間を隙間無く占領する縦線で、セミブレヴィスなら譜線の下側に向かって、下の線に接触しないように表わし、ミニマは上に棒が伸びていることから、譜線の上に向かって、上の線に接触しないように迫(せ)り出して、後のセミミニマは棒を途中で折り曲げてみたりなんかしている内に、これらも悉(ことごと)く今日の休符記号のルーツになってしまった。途中で折り曲げた休符は、後に4分休符になるわけだ。
 さて、ここでマクシマをロンガに分割するときの関係をマクシモドゥス、ロンガをブレヴィスに分割するときの関係をモドゥス、ブレヴィスをセミブレヴィスに分割するときの関係をテンプスTempus、セミブレヴィスをミニマに分割するときの関係をプロラツィオProlatioと呼ぶが、この関係はすべての分割において、完全な(ペルフェクタ)3分割の場合と不完全な(インペルフェクタ)2分割の場合があるとされた。つまりすでに世間様で大流行していた基本音符の2分割が理論化され取り入れられているのが分かるが、この2分割の精神こそ後の2拍子型リズムの原型になった。こうして完全不完全が各音符ごとの関係にあると、ブレーヴィスの分割は2分割だが、セミブレーヴィスの分割は3分割にするなど、様々な場合が出てきてややこしいので、音楽を記譜する時に中心的な位置を占めていた「ブレヴィスを基準となるタクトゥスに分割してセミブレヴィスを生み出す分割」と、「タクトゥスをさらに分割してミニマを生み出す分割」をまとめて一つの記号で表わすことを思いつき、これは計量記号つまり「メンスーラ記号」と命名された。迂闊(うかつ)者の学生諸君の中にはテスト用紙に「メンソーレ記号」と書き記す者がいるようだが、これは通じないから注意が必要だ。ただし沖縄に行って「メンソーレ」と声を掛けられたときに「メンスーラ」と答えを返しても、十中八九は通用するので、これは使用しても構わない。その記号は最終的に次のようになった。

○(白丸)の真ん中に小さい●(黒丸)→円は最も完全なものであるから、外側の円がセミブレヴィスを完全な3分割を表わし、中の黒丸がミニマの完全な3分割を表わす。つまりミニマを「た」で表わせば、「たたた、たたた、たたた」で一つのブレーヴィスとなる。
○(白丸)→セミブレヴィスが完全な3分割を表わすが、中の黒丸がないのでミニマは不完全な2分割になる。つまり「たた、たた、たた」となる。
C(半円)の真ん中に小さい●(黒丸)→半円はセミブレヴィスの不完全を表わし、黒丸がミニマの完全分割を表わすから、「たたた、たたた」となる。
C(半円)→すべて不完全なやつには、「たた、たた」こそが相応しい。そして、この半端者の半円こそが、後に4/4拍子を表わす記号として、メンスーラ記号が生き残ったなれの果てなのである。半端者ほど長生きするの例えはここにも表れている。

・他にも、音符の区切りを人工的に仕立てるために使用されていた小さな点「プンクトゥス・ディヴィジオニス」(分割点)を応用して、いつの間にか不完全分割の音符に点を付けたら完全分割の長さだけ音符を伸ばすという荒技が登場し、この点の用法は「プンクトゥス・アディショニス」(付加点)と呼ばれるようになった。これが後の付点のご先祖様だというから驚きだ、ぜひお線香の一つも供えておこうと心に誓ったら、それだけじゃない、今度は赤などのインクを使って「色つき音符」の場合の特殊事例など、大量の記譜法が送り出されて、目が回ってぐうぐう寝てしまった。寝てしまったので、仕方がない、記譜法についてはこのぐらいで終わりにすることにしよう。

フランス中世文学

 武勲詩chanson de geste(シャンソン・ド・ジュスト)は80篇の口誦叙事詩群の総称であり、11世紀終わり頃から12世紀半ば頃にまとめられ、もちろん代表作は11世紀末に成立した「ロランの歌」だ。一方アーサー王に生き甲斐を見いだす騎士気取りの時代精神が、12世紀中に宮廷風騎士道物語roman courtoisを誕生させ、やがて流行を開始するトルヴェール歌曲などと共に封建貴族や騎士の間で流行を開始した。
 例えば「トリスタンとイズー」Tristan et Iseutは12世紀中に成立し、それを元に民衆的性格を持つベルール作「トリスタン物語」(c1170)や、騎士道宮廷愛に彩ったトマの「トリスタン物語」(c1170-75)などが生まれた。クレティアン・ド・トロワ(1135-1183 ?)も12世紀後半に「ランスロ、または荷車の騎士」、「ペルスヴァル、あるいは聖杯物語」といったアーサー王にまつわる物語を執筆し、これらは未完に終わったもののアーサー王に熱狂する読み手達は、騎士貴族に限らず大学生や市民階層にまでうっかり広がってしまい、後の作者が大量の「聖杯物語」を生み出す原動力となった。
 一方13世紀になるとギョーム・ド・ロリス「ばら物語」(1225-1240頃)の前編を書き上げ、愛とか快楽とか嫉妬といった感情を擬人化して物語るという方法で宮廷風の愛を歌い上げれば、これにジャン・ド・マン(1240-1305以前)が(1275-80)頃にこの続編を仕立て上げ、むしろ道徳的な立場からバラ物語をお送りしてみたが、その頃には巷には宮廷風ではない「ファブリオ」といった新しいジャンルの文学が登場していた。これは要するに聖職者にならない大学生とか都市市民をターゲットに登場したようなジャンルで、現実社会を風刺して同時に笑いを誘うような喜劇的俗な作品を送り出して、後の喜劇作品の土台になったりしてみたのである。これは13世紀に最盛期を迎えたが、同じ頃「狐物語」Roman de Renartという一連の作品も最盛期を迎えていた。これは元々12世紀末頃登場したもので、人間を狐と狼の争いに見立てて描いた動物叙事詩だったが、この時期、知的な社会風刺の1ジャンルにのし上がって、詩人リュトブフなど様々な人が一連の動物に見立てた人間風刺を繰り広げて見せた。このような12,13世紀の騎士道、世俗的風刺、喜劇的なものは皆々無頓着にモテートゥスの歌詞に使用されて、その多様性を高めているから面白い。そして特にこの「狐物語」の延長線上に、これから見る「フォベール物語り」(グラウト風表記)が登場するわけだ。

フォヴェール(フォーヴェル?)物語り(1310-14)

・「ロマン・ド・フォヴェール(Roman de Fauvel)」、これは1310年に書かれたフランスの道徳風刺物語だったが、1314年ににフィリップ4世に登用されたジェルヴェ・ド・ヴィスが書き足して2倍以上の長さになったものを、さらに1316年にシャイユー・デュ・ペスタンという人が、第3部を付け加えたときに、音楽史的に重大な事件が沸き起こった。なんと物語に説明を加える歌詞を持った169曲(167曲?)の楽曲が物語に挿入されたのである。この曲集には当時のあらゆるジャンルの曲が顔を覗かせ、単旋律宗教曲であるアッレルーヤ、イムヌス、アンティフォーナ、レスポンソリウムといったものから、ロンド、バラード、レ、シャンソンールフランといった13世紀中に登場してきた、定まった型を持つ単声世俗曲、さらに34曲(33曲?)の多声モテートゥスが含まれているのである。多くの歌詞は聖職者の道徳を非難することに当てられているが、その中のおそらく5曲は、今日「アルス・ノーヴァ」の名付け親の役を貰っているフィリップ・ド・ヴィトリ(1291-1361)その人の作品ではないかと考えられているのだ。彼の作品はイヴレーア写本(c1360)の中にも9曲それらしいものがあるが、これらの彼の作品を調べると、アイソリズム・モテットの初期の例を見て取れる。すでに13世紀のアルス・アンティカのモテートゥスにもテーノルを繰り返して使用したものや、一定のリズムパターンに目覚めたものが存在しているが、ここに至ってモテットのテーノルを一定の規則で繰り返すことによって、作曲の拠り所を与えようとする考えが、組織化されてきた。これはテーノルの旋律を

①繰り返される同じ音の高さの旋律線コロール(ラ)色
②繰り返される長いリズムの単位タレア(ラ)切断、断片

に分けて考えることによって、テーノルの旋律の区切りと異なる場所でリズムを区切り、テーノルの途中で新しくリズム型が繰り返されたり、リズム型が繰り返されている間に、テーノルがもう一度初めから繰り返されたりする内に、常に新しいリズムと旋律のパターンを持ってテーノル部分が形成され、上声の様相に変化を付けやすくすると同時に、一定に保たれるリズムパターンや旋律の音高は、たとえ認知されにくてもある種の秩序として楽曲を統合するだろう、と云う考え方だ。こうしてテーノルは音高以外に、リズムという新たな要素で構成を担う方法が誕生し、アイソリズム(等しいリズムの)モテットが登場したが、例えばヴィトリの物語り内の「雄鶏が喋るー新しいものにーネウマ」や、4声による「恥知らずにも歩き回ったーほむべき得をそなえー歌詞無し(器楽声部)ー歌詞無し(器楽声部)」などに見て取ることが出来るという。曲集に収められたヴィトリの多声作品の中には、イングランドの写本に器楽編曲され収められたものもあり、純器楽曲の初期の編曲楽譜を残している。また、このフォヴェール物語のお陰で、中に含まれたジャンノ・ド・レスキュレルの3声のロンドーが生き残り、本来誰も覚えて居なかっただろう名称を、今日まで伝えているのは、天晴れだ。

新しい多声のジャンル

 さて、このアイソリズムに気をよくしたフィリップ・ド・ヴィトリは、遙(はる)かイタリアからペトラルカが讃えるほど当時一流の詩人だったが、彼は世俗歌曲のジャンルでも重要な革新を行なったと当時の資料に残されている。残念ながらマショと違って、自らの作品集を写本にまとめて後世に残す破廉恥な行為はしなかったため、すっかり彼の作品は所在不明になってしまったが、トルヴェールの伝統から生まれたフランスの世俗歌曲は、13世紀の間に詩句と結びついた旋律の決まった繰り返しに基づく定型(フォルム・フィクス)と云うものが定まって来た。その経緯については相変わらずの不可思議千万無量なのであるが、出来上がった定型はヴィルレ、バラード、ロンド、レの4種類があった。前にアダン・ド・ラ・アルが始めて多声のロンドを作曲したのを見たが、その後も14世紀初めに聖職者にあるまじき行いをした罪で処刑されたトルヴェールのジャンノ・ド・レスキュレルが多声の世俗歌曲を1曲だけ残している。定型の内レは単旋律で行なうジャンルだったので、残りのヴィルレ、バラード、ロンドが次第に多声で作曲されるようになって、やがて14世紀も特に中頃を過ぎる頃には完全にモテートゥスから多声音楽の主役の座を奪い取ってしまった。全声部自分で作れるし、定旋律に煩わされることもない、詩と一緒に作るのに最適で、さらに詩と旋律が知性よりも感情に訴える叙情の時代になると、正直申し上げて、2つの歌詞が同時進行しているよりは、1つの歌詞を歌い上げた方が、よっぽど心を惹(ひ)き付けることが出来る。また詩の完成度が高くなれば、2つ同時に聞いて貰いたくもないし、聞きたくもないじゃないか。こうして、2つ以上の異なる意味を並行的に提示するという非常にユニークな芸術ジャンルは、2つ以上の旋律を同時に歌うという音楽の助けを借りて、中世に誕生したが、この後しばらくして、急速に音楽のメインストリートから転げ落ちることになるのであった。これは恐らく、モテートゥスの表わそうとした多重旋律に合わせた複合言語の同時進行という本質が、劣った発展段階であるのとは正反対の、例えば3つの舞台で同時に異なる劇が同時進行しつつ絡み合うような芸術が人間の認知を越えすぎて普通行なわれないのと同様、ついうっかり人間の通常認知以上の高次芸術に足を踏み入れてしまったためかと思われる。ただし、今日のようにCDで繰り返し聞ける特権のある時代には、このモテートゥスの持つ独自の面白さは、理解されうるチャンスが十分にある。そう思ってか、何より自分達で歌って楽しいからか、沢山の演奏にお目にかかれる昨今だが、現代のモテートゥスが作曲され、認められない間は、この芸術の面白さが理解されたとは言えない。チャレンジ精神のある今日のトルヴェール達は、ぜひ作曲してみると良い。ただし、ルネサンス以降継続する対位法による歌詞のずれと異なる言葉の同時発音や、例えばオペラの多重アリアや、カノンの歌詞の追い掛けなど、モテートゥスで誕生した精神は、後の音楽技法の中に息づいているのも、見逃しがたい事実である。忘れたように付け加えれば、このカノンは同じ旋律と同じ歌詞を、例えば2声のうち一方が遅れて繰り返しながら進行するような曲で、すでにこの14世紀にフランスではシャスというジャンルになって、多声楽曲としての認知を得ていた。

写本

 こうした、アイソリズム・モテートゥスや定型による多声世俗歌曲などは、百年戦争のフランス持ち直しシーズンである、シャルル5世(在位1364-80)と漲る兄弟達の時代になって、この時期大きなまとまった写本が幾つか残されているお陰で、今日知ることが出来る。現在カンブレに有る「カンブレ写本」や、イヴレーアにある「イヴレーア」写本などがあるが、アルス・ノーヴァの代表選手と今日名高いギヨーム・ド・マショの楽曲は驚くほど少ないため、マショが勝手に写本を作るのを阻止したのか、それとも自分の楽曲を隠していたのか気になるところだが、何だかよく分からない。

ギヨーム・ド・マショ(c1300-1377)

・この新しい、多声世俗歌曲のジャンルに生き甲斐を見いだした新しい作曲家にギヨーム・ド・マショ(c1300-1377)がいる。ジャン・ド・リュクサンブール(リュクサンブール公ジャン、ボヘミア王ヨハン)に秘書官として仕え、政治に首を突っ込みながら、ボヘミア拡張を目指す王の元、転戦に付き従って各国を駆け回っていたが、1346年にクレシーの戦いでジャンが亡くなると、ベリー公ジャンなど様々な有力者に使えつつ最後にかつてより獲得していたランス大聖堂参事会員の仕事を果たすべく、ランスに落ち着いた。彼はおそらく(1347-49年)にフランス人口の1/3を奪い去ったペストの衝撃により、人の命の余りの儚(はかな)さに「我が命尽きるとも」の精神が沸き起こり、自分の作品を豪華写本にまとめることを決意したのかもしれない。当時の作曲家の名前は残らない方が普通で、作曲者知らずの曲達が幅を利かせる14世紀にあって、マショの作品だけがご自分で懸命に写本にされ、有力者達に献呈され、結果としてアルス・ノーヴァの代表選手にのし上がったのである。こうして自ら編纂した作品群には、フォルム・フィクス(定型)に基づくヴィルレ25曲、バラード24曲、ロンド9曲、さらにレも10曲残されていて、レには連続する節を同時に歌うと多声になるような面白い作品も残されている。またロンドの中には有名な「私の終わりは私の始まり」のような曲もあり、これは楽曲の真ん中から先の部分をそれまでの譜面を始めに向かって演奏する形で作成して、つまり初めから演奏しても、最後から逆に前に音符を呼んで演奏しても同じ音楽が聞えて来るという非常にユニークな3声の作品だが、ロンドの歌詞の構成から楽曲中間以降の逆に譜面が書かれている部分は合計3回登場し、歌詞の「ただ3度逆行して、そして終わる」という歌詞遊びも兼ねている逸品だ。さらに宮廷風騎士道物語roman courtoisみたような音楽に合わせて歌われる長編の物語を詩にしたものも5編有り、もちろん32曲のモテートゥスもそれらに匹敵する重要なジャンルを占めている。特に最期の3つのモテートゥスは1359,60年にランスが包囲された折りに書かれたとされ、これはイングランド国王エドワード3世をランス大聖堂でなんとフランス国王に戴冠させようとする、あるまじき振る舞いに邁進するイングランド軍が侵攻してきたためだった。神とノルマンディ公と聖母マリアに助けを求めたそのモテートゥスはあらゆる人の涙を誘わずにはいられなかったという。(というのは史実ではなく、私の作り話だが。)結局この時のランス、ついでパリ包囲は失敗し、それが元でフランスとイングランドでブレティニ条約が調印、束の間の平和に生き甲斐を見いだしたマショは、ミサの中で年中同じ歌詞で歌われる通常文の所だけを5つ取り出してまとめて作曲した、ノートルダム・ミサを書き上げ、後々ルネサンスから、バロック、古典派を越えて作曲され続ける、連作ミサ曲(キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイをまるで5楽章の楽曲みたいに作曲する遣り口)の第1歩を踏み出した。
・この連作ミサ曲は、当時にもトゥルネーのミサ曲、バルセロナのミサ曲、と呼ばれる各通常文をまとめた作品が存在するが、マショの場合はすべてを一人で作曲している点が際だっていた。より正確に言えば、一人の芸術家の手でまとめ上げるべき作品としての意識を持って作曲されている点が、時代を飛び抜けているようだ。しかし作品自身はもっと時代を突き抜けている。基本的には単旋聖歌をテーノルとして使用し、そこにアイソリズムの技法を持ち込んで作曲を行なっているのだが、冒頭のキリエを軽く眺めるだけでも、開始を告げるキリエ1が特徴的な裏拍リズムを時折見せながら進行すると、続く「クリステ・エレイソン」の部分では次のアイソリズムを用いてテーノルの保続傾向が増し、その一方で上声2声の動きが非常に活発化して、まるで2重唱的な意味を持たせている部分を登場させ、これ以後は常に上声2声が優位に進行し、下2声は響きを補充しているかのようだ。続いてキリエ2に到達するとまたアイソリズムのパターンが変わって、上2声がリズムや旋律を交互に掛け合うような部分を形成、さらにキリエ3は前半がこのキリエ2の類似進行になっていて、途中まで繰り返しかと半ば思わせつつ離脱して、キリエ3を全うする。この曲については一度詳しく楽曲を調べてみるだけの価値を十二分に持っているので、何時の日かコンテンツが出来ることを夢見て、今は通り過ぎておきマショー。(・・・誰か座布団持ってけ。)作曲の充実したついでに、わずか19歳のペロンヌ・ダルマンティエールと恋文を遣り取りして、60代にして2人の恋物語を「真実の物語Voir dit」という作品にまで仕立て見せた。これが羨ましいというので、後の学者達が「老いらくの恋なんぞするやつにろくな詩人無し」とレッテルを貼ろうとしたが、残された音楽作品を見る限り、彼は自己顕示欲のなせる技だけで後世に名を残したのではなく、例え他の作曲者達が悉く彼と同様写本を後世に残したとしても、やはりアルス・ノーヴァの代表者の座を射止めたのではないかと思う。「西洋音楽史の曙」の第9章によれば、他の写本にはわずか22曲しか作品が残されて居ないのは、おそらくずさんな写本の流布から自作を護った可能性があり、14世紀末30年ほどの歌曲にはマショーの影響が見られるし、詩は次の世代の文学を形作るのに重要な役割を果たしたんだそうだ。

教科書に見るマショーのまとめ

・32曲のモテットはほとんどが、楽器による聖歌テーノルが付けられ、異なった詩を持つ上声2声を持つ3声という伝統的な方法で作曲されている。アイソリズムが全声部に渡っている汎(はん)アイソリズム的作品が見られ、またホケット技法が多く取り入れられているのが特徴で、一曲にはホケットと名付けられた曲もあるそうだ。
・彼の世俗作品は、単声のものはトルヴェールの伝統を継承。セクエンツィアに似た12世紀の形式である単声のレlaiが19曲、単声のヴィルレvirelaiが25曲。多声のヴィルレも7曲。
・多声のヴィルレ、ロンドrondeau、バラードballadeという定型にアルス・ノーヴァの傾向が明確に表われている。音符の2分割の可能性を開拓。(それはつまり今日風に云うところ2拍子型の精神)
・更に重要なことは、最上声カントゥスを他の声部に支えられる実際上の主声部にしたことだそうだ。これはバラード様式orカンティレーナ様式と呼ばれる唯一歌詞を持つ最高声部が曲を支配し、下の声部はそれを支え、多く楽器用になっているような曲に見られる。つまり1つの歌詞、1つの旋律が重要視される様式であるから、和声体系がルネサンス以前であるとはいえ、響きの連続の上で旋律己惚れる効果的な歌曲という意味では、ポピュラーも含む今日様歌曲の遠いご先祖様になっているのである。
・また、平行5度、不協和音も多いが、同時に3度や6度の一層柔らかい響きが広く用いられて、しかも秩序的使用が見られる。
・続いてバラード、ロンド、ミサ曲の説明が記入されている。(該当箇所を参照、詩の定型は言語理解があって言語リズムを獲得して初めて意味を持つもので、形だけ覚えてもあまり意味がないので、ここではいちいち記入しませんが、興味のある人はお調べください)

宗教曲

・宗教曲がわずか「ノートルダムミサ」だけのマショ(モテートゥスは宗教的題材を扱っても典礼用ではない)を見ても、世俗の時代を実感できるが(というか、発展すさまじかったのが世俗音楽だったということか)、実際の所、先に挙げたアルス・ノーヴァの写本「イヴレーア写本」にはミサ用の楽曲も掲載されているし、マショの「ノートルダムミサ」のような一人で纏めた作品ではないが、ミサ通常文をセットにした多声楽曲が残されていて、今日「バルセロナのミサ」や3声の「トゥルネーのミサ」などが取り上げられ演奏されることもある。特に「トゥルネーのミサ」は早期に書かれた部分は13世紀後半に書かれた可能性があるそうだが、一般的に13世紀にはミサ固有文が多声曲として残されるのが一般的だったが、次第に通常文の多声曲が登場し始め、これらのミサにおいては、別々に作曲された通常文が後からまとめられることになった。
・また、教会自体は手の込んだ音楽を批判していたが、その影響の強いイタリアでもアルテルナーティム(ラテン語で「交互」の意味)という演奏習慣から一種の典礼の多声伝統が生まれていたと教科書に書いてあるぐらいだから、相変わらず教会が多声に満たされていたことに代わりはないようだ。特にイングランドでは、14世紀の最重要な写本であるウスタ大聖堂のためのウスタ断簡に、ミサ通常文のためのトロープスや、コンドゥクトゥス、そしてロンデッルスの技法を持ったモテートゥスなど、典礼用の多声曲が収められているように、この地の多声曲は世俗曲ではなく、第1に宗教曲として存在していたが、十全に発展したイングランド典礼音楽が百年戦争に関連してダンスタブルらに乗せて大陸に渡ったとき、新しい風が吹き込む流れになっていく。

2005/07/28
2005/08/13改訂

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