4-3章 14世紀イタリア、トレチェントの音楽

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イタリア中世

 一方では教皇の目指す、宗教界トップの地位とローマ及びイタリア諸都市の実質的な支配権力、一方では皇帝の目指す、ドイツ王、イタリア王、シチリア王、神聖ローマ皇帝の称号にローマの実質的な支配権力を掛けて、互いに凌ぎを削る皇帝と教皇の対立と中央集権の不在は、元々アペニン山脈で東西が分断され気味の上に、南北風土の違いもあり地域ごと都市ごとに自立傾向が強いイタリアを、いっそう分権的にしていった。こうして中世からルネサンスに掛けて、一種の都市を中心とする地方君主制と、独立都市共和制が乱立。さらに後に共和制が維持できなくなった都市では、14世紀の内にシニョーリア制という最高権力を独裁者に与えて統治する都市政治も誕生した。こうした都市ごとの地方分権は、中欧集権的王権が存在しないうえ、教皇と皇帝の絶え間ない抗争があったために、各地の自立傾向を強めたのかもしれない。しかしもっと本質的な所では、地理や風土に人口分布などから、貿易と産業構造の拠点としての都市の成立が、ギリシアのポリス社会のように成立するイタリア半島の性質そのものが、この状況の生みの親かと思われる。11世紀以降のヨーロッパ全体の経済上昇と、十字軍遠征による定期的な物資輸送にビザンツ遠征も加わり、海洋貿易の資本を一手に収めたイタリアの有力都市の中でも、海洋貿易で栄えた最後の勝者ヴェネツィアジェノヴァに、ローマ時代のメディオラーヌムからロンバルディア王国の首都を経由して、繁栄を失わずに有力貴族が公国として治めるミラーノ、教皇のいらっしゃる偉大なローマに、南の異質な文化を持ちシチリア同様王国として存在するようになるナポリ、そして花の都フィレンツェが最前列を走っていた。フィレンツェは、12世紀にトスカーナ伯夫人だったマチルダさんが亡くなった後、トスカーナ伯から多くの特権を獲得して自治を認められ、13世紀を通じて教皇派と皇帝派に分かれて都市内政治抗争を繰り広げながら、すでに11,12世紀から次第に市場に登場し始めた毛織物産業で経済力を高め、14世紀には同産業で莫大な富を築くに至った。さらに余剰資本を銀行業などに向けながら発展、その経済的繁栄に支えられて、フィレンツェは絵画、文学、そして音楽においても重要な文化都市として頭角を現し、ルネサンスに連続して突入していくことになるのである。

イタリアの政治情勢

 教皇と対立して十字軍には消極的だった東ローマ皇帝にハインリヒ6世(在位1190-1197)が居る。悲しみの溺死を遂げた偉大なフリードリヒ1世の息子で、シチリア王グリエルモ2世の娘コンスタンツェと結婚しシチリア王位継承権を主張し、跡を継いだシチリア王タンクレーディと争った男だ。(念のために、十字軍の遠征で女戦士クロリンダと愛し合いながらも戦闘を繰り広げたイタリア勇士の物語はタッソの書いた別物。)ハインリヒ6世は教皇を初めとする自分に対する敵対的包囲網を、十字軍から帰宅途中のリチャード1世を網ですくって見事捕われ人にすることによって切り抜け、さらに運良くタンクレーディも亡くなったので、シチリアにまで征服してシチリア王になってみたのだが、残念ながら1197年オケゲムとは何の関係もなく、急転謎の死を遂げた。しかし妻コンスタンツェとの間に生まれた息子こそがフリードリヒ2世(1194-1250、シチリア王1197-1250、神聖ローマ帝国皇帝在位1215-50)が1人あいだに挟んで帝国皇帝になると、シチリアのパレルモの王宮に、イスラーム人、ユダヤ人など民族を越えて知識人を集めて国際色豊かな政治と生活を行なった。彼はヨーロッパ最初の絶対主義君主などと呼ばれることもある近代的国家意識を持った男だったので、「法典」を発布し議会に都市代表を参加させ、産業を国王の統制下に置くなど様々な改革を行ない、あんまり国際人だったために十字軍の軍事的意義を見いだしかねて教皇の出発命令に背いていたら、ついうっかり破門されてしまったほどだ。しかたがないので渋々出かけた第6回十字軍においては、アイユーブ朝の内乱に乗じて争うことなく平和条約を提携して、イェルサレムをイスラーム人も安全な生活が出来る条件で奪還して、そんな十字軍は認めないと刃向かう教皇に対しては、これを軍事力で撃退して1230年には破門までも解消した。
 このように地理的にイスラーム勢力の最前線を担い、貿易や十字軍を通じて異文化接触の豊かな地中海に突き出たイタリア半島は、名目上は神聖ローマ皇帝が兼ねたイタリア王に服するものとされていたが、実際はフリードリヒ2世ですら北イタリアの都市同盟であるロンバルディア同盟との抗争に決定的な勝利を収めることが出来ないなど、貿易と経済を中心とする都市の独立性と都市国家的性格が際だっていた。海洋貿易に漲(みなぎ)るジェノヴァやヴェネツィアだけでなく、少し遅れてミラーノやフィレンツェなどの都市も勢力を拡大、互いに凌ぎを削りあっていたのだ。彼らは都市を中心とする周辺地域を治める都市共和国として独立のお墨付きを頂いたり、一方では都市勢力争いの結果などから有力貴族などが諸侯のように都市王となって政治を行なう、シニョーリア制の都市王国として君臨しながら、同盟を築いて外部勢力を防いだり、イタリア半島の実質的支配権確立を目指しながら争う教皇と皇帝のどちらかについて互いに争ったりしながら、アルプス以北とは異なる政治状況の中で中世からルネサンスに向かって胎動を始めていたのである。この教皇派(グェルフィ、ゲルフ)皇帝派(ギベリーニ、ギベリン)の対立は、後にフィレンツェからダンテを追放して「新曲」を書かせる原動力にさえなっているから面白い。彼はなにもベアトリーチェを追い回して妄想にふけっていた訳では無かったのである。(・・・誰もそんなことは言っていないと思うが。)
 一方、ドイツ王も兼ねるはずの神聖ローマ皇帝がイタリア勢力争いに出張し不在が増えると、遂にドイツ諸侯達は国王選任の際に国内にいない名目的外国人皇帝を立てる大空位時代(1256-73)を迎えることになってしまうが、今度は教皇の要請でフランス王ルイ9世の弟であるアンジュー伯シャルルすなわちシャルル・ダンジューが1266年にシチリア王を撃退、翌年には担ぎ出された息子を捕らえて処刑して地中海帝国を夢見れば、南フランスからシチリア王に、エルサレム王やアルバニア王の称号まで獲得して一時最大版図を持つヨーロッパ有力者にのし上がった。彼は第4回十字軍で成立したラテン帝国が滅亡したのに対して、再度ビザンツ帝国を奪還してイタリアからビザンツに至る帝国建設を夢見て行動を起こす。兄ルイ9世を説いて第7回十字軍を自分に敵対するアフリカのチュニスに向けさせ、うっかり兄が亡くなったのち優位な条件で和平を締結すると、イェルサレムには向かわずイタリアに戻り、劣勢にあった中東のキリスト教十字軍勢力の崩壊を決定づけた。しかし、完全なるローマ帝国再建の妄想を実現させるべくビザンツ攻略に向かう直前、1282年にパレルモを中心に反フランスの大暴動が発生、大量のフランス人が殺害された。「シチリアの晩鐘」である。さらにシチリア人はバルセロナからバレンシア辺り一帯に勢力を持つアラゴン王(西ゴートの生き残りがナヴァール王国にとけ込みながら国王の分割相続で11世紀に生まれたアラゴン王国と、かつてカール大帝が設けた辺境領に誕生したカタルーニャ王国の連合したのが当時のアラゴン王国だった)に救援を求め、敵対勢力のアラゴン軍が勢いに乗って、シャルルは次第次第に敗北しながら病気になって亡くなってしまったのだ。この後シチリアの支配権はアラゴンに移ることになった。

海洋貿易なイタリア

 イタリアでは1000年教皇の就任を聞く頃には、すでに海洋貿易の情熱が高まっていた。すでにいち早く海洋貿易でビザンツ帝国などと盛んに交易を行なっていたトップバッターの独立貿易自治都市であるアマルフィ(ナポリ近く)は、残念ながら1075年にノルマン人達の進軍に服従し、さらに12世紀に入るとピサに攻略され貿易都市の主勢力から転げ落ちたが、その頃にはすでに、1063年にシチリアのイスラーム人達を船団引き連れ打ち破ったり勢力を拡大しつつあったピサや、11世紀に「有翼のライオン」でお馴染みのサン・マルコ大聖堂が建造され1204年には第4回十字軍の戦利品として4頭の馬を聖堂に飾ってしまうほどのヴェネツィア、そして現在もイタリア最大の海港都市として活躍を続けるジェノヴァが、それぞれ自治都市として周囲の農村部までもを含む共和国を形成し、互いに海洋貿易の覇権を争う都市勢力同士の抗争が繰り広げられ、アルプスの北方で封建領主制が成立して互いの領土拡張を目指して渡り合ったのとは異なる、資本と貿易を握るために相手を攻略し合うような争いが見られた。このイタリア的な都市を中心とする小国家が互いに競い合う構図は、貿易先のビザンツ帝国やイスラーム勢力との接触もあり、総体としてのイタリア各都市の資本と生活・文化水準を押し上げ、やがてルネサンスを生み出す原動力になった。しかしこのイタリアの地理とも結びついた都市国家的性格がその後も変化することがないうちに、やがて北方では国家対国家という新しいシステムが構築され、結果としてイタリアという国家を打ち立てられないまま北方の国同士の争いに巻き込まれて苦悩する近代に向かうことになる。しかしそれはまだ先の話だから向こうの方に置いて、ここでは軽く4つの都市の覇権争いなどを見てみることにしよう。
 まず十字軍によって12世紀には栄華を誇ったピサだが、この頃建造され真っ直ぐに建てたはずの大聖堂付属塔の辿(たど)る「ピサの斜塔」への切ない道のりが、すでにヴェネツィアとジェノヴァとの覇権を掛けた争いに暗示されていた。続いて13世紀に入ると、遅れて勢力を高めるフィレンツェとの対立も加わり、1284年に雌雄を決するピサとのメロリア沖海戦に徹底的に打ちのめされ、その後はルネサンス期を通じてフィレンツェとの争いに明け暮れながら次第に傾いていったのだ。
 一方、後には1492年にアメリカ大陸に渡ったコロンブスも活躍していたジェノヴァは、やはりピサやヴェネツィアと争いながら、特にピサが傾き始めて以降はヴェネツィアと取っ組み合いながら海洋貿易を掛けた覇権争いを繰り広げた。しかし1380年のキオッジアの戦いにおいて、最後の最後でヴェネツィアに敗退した後、15世紀後半にはフランスとスペインのイタリア半島での勢力争い、つまりイタリア戦争に巻き込まれて苦しんだ。しかしその後もやはり海洋貿易都市としてそれなりに栄えていたのである。
 そして最後まで勝ち抜き、15世紀に遅れたルネサンスの中心地として文化の華を咲かせ、バロック時代を通じてオペラの重要な中心地となったのがヴェネツィアだったが、先に進めれば18世紀、ついにフランス革命を世界に広めるべく進軍するフランス革命軍のイタリア方面司令官ナポレオン・ボナパルトに攻略され、議会は泣きながら共和制の廃止を宣言したのだった。時に1797年、オケゲム没後300年の事であった。(・・・全然関係ねえ。)
 先走った話を中世に戻すと、イタリア半島に劣らずイベリア半島の海洋進出も盛んだった。レコンキスタが進行すると、ジブラルタル海峡通過が容易に通行可能になって、すでに1277年にはイングランドに辿り着いていたジェノヴァ商船だが、これによって1400年頃には完全にバルト海の北方貿易と地中海の南方貿易の融合が成し遂げられ、イタリア都市からイベリア半島を経由してフランドル地方に向けて、商業航路が確立されたのである。すでに14世紀初頭からハンザ商人も英仏海峡を抜けて、北方漁業の拡大も目覚ましく、15世紀末にはイベリア半島南部にまで交易を拡大した。大航海時代の新航路の発見はこうした海洋貿易拡大の情熱の延長線上にあったのである。もちろん長距離航海は、13世紀以来の航海術の発達があって始めて可能だった。方位磁石、羅針盤、アストロラーベ、海図としてのポルトラーノ地図に航海日誌など、様々な技術が開発され、14世紀初頭には地中海を大型で甲板を持った「コカ」帆船が行き交うようになり、さらに巨大化し体勢が保てるように舵が改良されカラヴェル船が登場。15世紀半ばからポルトガルの造船所が大型カラヴェル船の製造を開始した。もっとも地中海内では17世紀になっても昔からのガレー船が幅を利かせていたが、外海の航海には新しい船が商業形態だけでなく海戦のあり方まで大きく変えていったという。こうした航海の発達につれ、中世初期に見られた海路に馴染みの薄いアルプス以北の一般的認識である、怪しくおどろおどろしい海の概念から、次第に海はもう一つの道という考えが広まり始め、13世紀以降になるとイギリス、フランス国王の海への関心など、造船国営化、海軍充実が進むと、国王に従う高貴な船乗りの時代が到来することになるそうだ。

フィレンツェの進出

 見出しだけなのでござるよ(涙)

文芸復興の狼煙(のろし)

 フランスで盛んになっていたラテン語ではない我々の話し言葉による文学の流れと俗語によるトルバドゥール、トルヴェールの歌曲ブームに押し出されるように、宗教と学問の分離、教会と国家の分離が確定的になった14世紀になると、イタリアで古典古代を咀嚼(そしゃく)吸収した俗語文学が誕生し、いよいよルネサンスの狼煙が立ち上がり始めた。ではしばらくの間、ハレー彗星に導かれながら進行する樺山紘一著作「世界の歴史16ルネサンスと地中海」に教科書を持ち替えて、先生に導かれながら進行しよう。(「・・・あんたはそれしか出来ないのか。」「・・・ええ、出来ないの。」)
 とにかく1301年にハレー彗星が夜空に怪しく輝き、ロビンとマリオンは抱き合いながらぶるぶる震え、不吉の象徴かと教皇庁も大騒ぎ、フィレンツェの画家ジョット・ボンドーネがパドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂の壁画「マギの礼拝」の中にこの彗星をうやうやしく描き込み、勢力拡大するフィレンツェの年代記作者のジョヴァンニ・ヴィラーニがこれを年代記に記述した。果たして不吉な神の送るまやかしか、はたまたヨハネ黙示録の開始か、このハレーを始めとする彗星の出現が偶然にも、中世の拡大期が反転する1300年から1400年代に掛けて増大し、顔を覗(のぞ)かせては人々を驚かすのである。ジョットの描いたスクロヴェーニ礼拝堂は1305年に完成して、その年パドヴァ大聖堂の聖歌隊長だった重要な音楽家であるマルケット・ダ・パドヴァのモテートゥス「幸いあれ天の女王よ/汚れ無き母よ/イーテ・ミッサ・エスト」が演奏されたらしいとされているし、一方彗星の登場した翌年には、すでに勝手に愛していたベアトリーチェに死なれて政界に立つダンテ・アンギエーリ(1265-1321)が、フィレンツェで沸き起こる教皇派(グェルフィ)同士の対決であるビアンキ(白派)VSネリ(黒派)の抗争の結果、政界どころかフィレンツェまで追放となっている。ダンテが「あの彗星さえ来なければ、こんな事にはならなんだ」と嘆いたかどうかは知らないが、これ以降、キケローやホラーティウスなどのローマ詩人の多大な影響を受け20代に書き上げた「新生」に続く数多くの作品を書き上げ、ラテン語ではなく皆が理解できちゃう我々の話し言葉による詩を模索しつつ「俗語論」などを著述したあげく、ついに長年掛けて執筆を続けた「喜劇(コンメディア)」、すなわち後にボッカチオによって「神聖な喜劇La Divina Commedia(ラ・ディヴィーナ・コンメーディア)」(1304-21)と命名された「神曲」が1321年に完成した。フリー百科事典ウィキペディアによると
『名称を「喜劇」としたのは、「悲劇」とは逆に円満な結末を迎えるため、また、女子供でも読める俗語で書かれているためだという。』
と書いてある。女子供のどれほどが字を読むことが出来たのかは疑わしいが、このトスカーナ地方の方言で書かれた「神曲」の文体こそが、広く読まれ定型化されるこよによって今日のイタリア語のルーツの一部となるのだから、どこぞの国のようにただ名前だけを出して「神曲神曲」と先生が叫んだら、生徒が「愉快愉快」と答えて誰も内容を知らずに次に進んでしまうようじゃ、世界史もほとんど垂れ流し状態だ。このドメニコ・ディ・ミケリーノの描いたダンテの絵を見て少し反省したまえ。
  <<これ>> (とだけ書いて、何時か掲載する積もりらしい)

 さて、この俗語を芸術的高みに押し上げるというダンテの思いに答えて立ち上がったのがフランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374)である。とはいってもフランスでトルバドゥール、トルヴェールが俗語による芸術歌曲を歌いまくった情熱が、すでにイタリアに流れ込んで我々俗語によるトルバトーレ歌曲なども登場していたこともあって、ダンテ自体がそれに影響を受けて俗語に生き甲斐を見いだしたのだが、アレッツォに生まれたペトラルカはラテン語の文法を集大成すると同時に、一方で俗語による数多くの抒情詩(カンツォニエーレ)を作詩したのである。ダンテに倣って憧れの女性ラウラを見いだしたペトラルカは、ひたすらラウラを讃えて讃えて讃え抜いて、生まれた詩を年下の友人に見せてみた。云うまでもなくジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313-1375)である。「十日物語り(伊)デカメローン」(1353)ばかりがうろちょろ目に付くボッカッチョだが、彼は完全に埋もれていたホメーロスを釣り上げて、ペトラルカと共にギリシア語を習いながら部分的に翻訳したり、古いラテン語翻訳を研究したりして古典の恐ろしさに衝撃を受け、晩年は同じくらい衝撃を受けたダンテの「神曲」の注釈に精神を注いだほどの文芸復興の立役者だ。彼らの俗語による文芸復興運動は、散文に使用される俗語を音節を揃え韻を踏み芸術的な高みに押し上げることになったが、拍節的で芸術的な俗語詩の運動は、当然ながら俗語歌曲と大きな関わりを持つことになった。パドヴァのアントーニオ・ダ・テンポが記した「俗語詩芸術要論」にも、1332年に執筆され俗語詩を音節的に統合する事について述べられているが、韻律法と共にマドリガーレ、バッラータ、ロトンデルス(フランスのロンデル)、ソネットの例が記されているそうだ。
 ペトラルカはパリ生まれのイタリア人だったし、トルバドゥールの伝統はイタリアで流行っていたし、北イタリアの宮廷ではフランス語が話され、ペトラルカがフィリップ・ド・ヴィトリを大詩人として讃えるなど、新しい文化的運動の胎動もかなり広範囲の文化的流動があって誕生したものだったから、イングランドでもフランス語が話されて、1386年にはイングランドでチョーサ(c1340-1400)が「カンタベリ物語り」を「デカメローン」風に書き上げるのは、時間の問題だった。おまけに教会と大学がコロニーとなって存在するラテン語文化圏はヨーロッパ全体を覆っていたから、地域ごとの知的活動の流動性が高かったのである。こうして14世紀を通じて、人文主義の芽生えと、古典古代のラテン語ギリシャ語文献への関心の高揚が見られたが、この胎動は実際にはそれ以前の13世紀、さらには12世紀ルネサンスと呼ばれるものから連続的に由来を体系付けて行かなければならないわけである。
 ・・・ただし私の手には負えなくなってくるので、ここではそろそろトレチェント音楽に話を移してしまいましょう。さようなら。

イタリアのトレチェント音楽

 こんな状況のイタリアだったが、イタリアでは14世紀のことをmille treccento「1300年代」から取り出して単にトレチェントtrecentoと呼ぶので、そのトレチェントの音楽を見ていくことにしよう。
 都市国家が並び立ち競い合っていたこの時代、政治を牛耳る者達の宮廷には13世紀生まれのイタリア版俗語歌曲の歌い手トロヴァトーレ達が歩き回り、幾分特殊な多声の音楽より、圧倒的に旋律は一つだけの各種音楽が溢れかえって、そうした歌い手やあるいは楽器の演奏者などが都市市民の賞賛も宮廷での賛辞も勝ち得ていた。民衆の歌としては唯一単声のラウダが写本に残されているが、民衆がラウダしか歌わなかったわけではもちろん無い。教会内での多声音楽もあったが、大部分即興で成り立っていたためあまり残されていない有様だ。特に14-16世紀に音楽上重要な場所であったフィレンツェでは、ジョヴァンニ・ゲラルディ・ダ・プラート(c1367-c1444)「アルベルティ家の楽園(伊)イル・パラディーゾ・デリ・アルベルティ」に書かれていることなどを見ると、イタリアでいかに各種音楽が日常社会生活に関わっていたかを知ることが出来る。たわいもないストーリーでお馴染みの「デカメローン」だって1日の話が終わると、一同は歌と踊りによって締め括っているじゃないか。
 アルビジョワ十字軍などで追い出された南フランスのトルバドゥール達は13世紀後半にイタリアに大量に流れ込んだ。トルバドゥールのアルノー・ダニエルは北イタリアにおいて一流の歌い手と讃えられ、ダンテも「俗語論」の中で俗語詩の達人として名前を挙げているらしい。イタリア人のフランス音楽文化に対する関心は、トレチェント音楽の記譜法を理論付けたマルケット・ダ・パードヴァ「定量音楽の果樹園(ラ)ポメリウム・イン・アルテ・ムジチェ・メンスラーテ」(1318)を見ても、フランスのアルス・アンティクァの記譜法理論からの派生を見て取ることが出来る。ちなみにこのマルケット・ダ・パードヴァは先ほど見たように、1305年スクロヴェーニ礼拝堂の完成祝いのモテートゥスを作曲したパドヴァ大聖堂の聖歌隊長でもあった訳だ。恐らくフランスのアルス・ノーヴァ直前の記譜法を伝え学んで、1318-26年頃に「ポメリウム」を著述したらしい。彼の著述を元に(した金澤本を元に)トレチェント音楽の記譜法を軽く覗いてみることにしよう。

トレチェント音楽の記譜法

・アルス・ノーヴァでは、ブレーヴィス■(四角)からセミブレーヴィス◆(菱形)への分割と、セミブレーヴィス◆からミニマ(菱形+上棒)への分割をメンスーラ記号で表わすという方法だったが、トレチェント音楽では、ミニマへの分割が存在しない。代りにブレーヴィスから分割されたセミブレーヴィスが1つの分割に対して1つの音符の場合の他に、2つ音符の場合、3つの場合、4つの場合があるので、次のようになる。

ブレーヴィスが3分割の場合
セミブレーヴィス1つ音符(た、た、た)
セミブレーヴィス2つ音符(たた、たた、たた)
セミブレーヴィス3つ音符(たたた、たたた、たたた)
セミブレーヴィス4つ音符(たたたた、たたたた、たたたた) ブレーヴィスが2分割の場合
セミブレーヴィス1つ音符(た、た)
セミブレーヴィス2つ音符(たた、たた)
セミブレーヴィス3つ音符(たたた、たたた)
セミブレーヴィス4つ音符(たたたた、たたたた)

・この8通りに名称を付け、またアルファベット記号を与えて楽譜に記入しておけば、これがメンスーラ記号と同様の役割を果たし、これが記譜法の基本となる。さらにブレーヴィスはプンクトゥス・ディヴィジオニス(分割を表わす点)によって分割されるので、今日で云う所の拍を越えたシンコペーションなどは起きないが、1拍内のセミブレーヴィスの数は、先ほど上げた基本を超えて投入出来る。その場合は基本的にはより前の音符を不平等分割によっていっそう細かい音符にして読むので、前の音符が後ろの音符の半分の音価になる。さらに進んで、基本のセミブレーヴィスより短い場合には◆(菱形)の上に棒を突き出し、より長い場合には◆(菱形)の下に棒を伸ばすことによって、長いリズムと短いリズムを自在に書き表すことが出来た。したがって表わされる音楽は、拍のしっかりした、音符分割による旋律修飾を主体にした音楽になって、アルス・ノーヴァのリズムへの関心とは異なるイタリア気質を提示することになったという。音を細かく分割する際の傾向も、フランスで好まれた3分割(ガッリカ式)に対して、2分割(イタリカ式)あるいは倍の4分割の方が愛されたそうだ。さらに数比の神秘から唯一なる神に至る伝統のパリ大学と異なり、イタリアの法学の大学などには数学的音楽構造を探求する伝統が無いため、フランスで流行った人工的なアイソリズムモテートゥスの書法は広がらなかった。
 こうしたイタリアのトレチェント音楽だが、1330以前の多声はほとんど残されず、しかしそれ以後急激に拡大する。その開始を告げたマドリガーレがすでに初めから多声の楽曲として認められていることから、多声世俗曲の知られざる前史が横たわっているのかも知れない。特に世俗様式と宗教様式の関係は初期トレチェントから見られ、世俗多声の2声曲は、かつてのオルガヌム技法の流入の影響により始まった、ラテン語歌詞による13世紀の即興的対位法技術であるカントゥス・ビナーティムと同じ原理によって生み出されている。つまり、14世紀最初の対位法伝統は、アルプス以北の影響というより、13世紀からのイタリア多声音楽の伝統が元になって始まったようなのだが、残念ながら詳しいことは分からない。これらの作品は、オルガン奏者アントーニオ・スクアルチャルーピ(1416-80)が所有していたスクアルチャルーピ写本などの中に、15世紀になってからトレチェントとクアットロチェントの音楽として納められているが、大抵2声か3声のそれらの楽曲は、イタリア世俗多声音楽の3つの代表ジャンルである、マドリガーレ、カッチャ、バッラータとして残されている。トルバドゥール、トルヴェール伝統の豊かなフランスとは違い、イタリアでは作詞作曲を一緒に行なう例は、むしろランディーニぐらいで、分業傾向が強かった。またこうしたトレチェントの写本が次世代に入ってから、入念に編纂されミニアチュアや肖像画付きでアンソロジー的に残される現象は、過去の音楽への眼差しが、必ずしも現代的現象では無いことを告げているかも知れないね。(誰に話しかけとんねん。)

マドリガーレmadrigale

・詩の型を表わす場合のマドリガーレは、7音節行と11音節行を基本に、3行句strofa(伊)ストローファが2回か3回続いた後、締めくくりの2行句ritornello(伊)リトルネッロが加わるものとされ、名称は母国語の詩を意味するmatrigaleか、牧歌(mandriale)に由来すると考えられている。これを音楽にする場合は、いかなる理由か分からないが、トレチェントの最初期のマドリガーレからすでに多声化することが定められていた。すなわち繰り返されるストローファを同じ音楽で行ない、締めくくりのリトルネッロは拍節を異なる別の音楽になるから、音楽だけを図式化すると、aabまたはaaabという形になる。現存する最も多いマドリガーレは2声曲で、ついで3声の曲があるが、ヤーコポ・ダ・ボローニャ「私は不死鳥で(伊)フェニーチェ・フ」はよく引き合いに出される馴染みの曲だ。特に14世紀半ばを過ぎるまでは、ほとんどマドリガーレが多声世俗楽曲の中心的役割を担っている。その歌詞は牧歌的なイメージを表わしたものが多く、初期北イタリアの代表3選手はマギステロ・ピエーロ、ジョバンニ・ダ・カッシャ、ヤーコポ・ダ・ボローニャの3人である。
・北イタリアでは特にフランス語が商人達の重要な言語の1つになっていたし、フランス語文化へ関心がトルバドゥール、トルヴェールの歌曲を宮廷生活の一部にまでさせていた。例えばイタリア俗語とフランス語が行ごとに交代するような歌曲も残されているし、ランディーニの有名なバッラータ「さようなら、さようなら、美しい人よ」はフランス語で歌われている。フィレンツェではすでに、金と時間を持つだけの市民達の間に世俗単声楽曲などアマチュアによる音楽演奏が流行をして、一方職業的に多声を作曲したりすることは中流の下に位置する聖職者達などによって行なわれていた。彼らは上流階級と繋がりを持ち、裕福市民の子供などに音楽の基礎を教えるために雇われたりして、多声音楽を今日に残すことになったが、マドリガーレを作曲したのはこうした修道院や教会と関係を持っていた宗教関係者で、特にセル・ゲラルデッロ(ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェ)、ロレンツォ・マシーニ(ロレンツォ・ダ・フィレンツェ)を越えて、続くフランチェスコ・ランディーニ、ニコロ・ダ・ペルージャ達の活躍が見られるが、サント・スピリト修道院の付属学校ストゥディウムが、フィレンツェ上流階級の子供達の重要な教育機関として存在するなど、修道院の教育施設が学問文芸の重要な役割を担っていたことが、宗教施設に所属する世俗多声音楽の作り手達という関係を生み出したのかも知れない。

カッチャ「狩り、追跡といった意味」

・フランスのシャスと平行する種目で、「生き生きとした絵画的で描写的な言葉に民衆的な性質の旋律が厳格なカノンで付けられていた。」とグラウトに載っていた。これは楽器用声部のテーノルの上で、ユニゾンでカノンする対等な2つの声部がある、カノンである。

バッラータballata(伊で踊りを意味するballareに由来)

・フランスで都市という都市で広場さえあれば楽器伴奏に合わせてカロールを輪になって踊り踊って、悪魔でさえも呆れ返る空前絶後のダンスブームが沸き起こっていたが、この踊る中世の伝統はアルプスを南下したイタリア半島においても変わらず、その器楽伴奏はまとめて「ソーニsoni」と呼ばれ、「イスタンピッタ」「サルタレッロ」「トロット」などの曲種で今日残されている。すでに異なる速度の舞曲をペアにする例も見られ、管楽器奏者が重要な役割を演じていたそうだ。こうした舞踏のための音楽の一つに単声のバッラータがあった。歌っても、器楽で踊っても良かったバッラータによるダンスも、カロール同様輪になって踊るもので、リーダーが先導して歌いながら、反復句(リプレーサ)の部分を皆で歌いながら、いっそう踊りまくるという方法だった。しかし多声マドリガーレが作曲されて大分立った頃、フランスバラード様式の影響を被ったか単声のバッラータが、様式化され、多声の楽曲として14世紀半ばすぎから、作曲家の新しい実験のフィールドとして、マドリガーレに取って代わっていった。楽曲はbbaという単純な形式の両側に、歌詞も音楽も異なる反復句(リプレーサ)が加わり、[反復句-b-b-a-反復句]という形になる。この多声のバッラータはすでに完全に様式化した俗語歌曲のジャンルであり、バロック組曲のように元の舞踏曲そのものからは離れた独立した歌曲となっているそうだ。
・こうした新しいバッラータは、フランチェスコ・ランディーニ(c1325-1397)によって発展を遂げたが、彼は従来のマドリガーレをほぼ放棄してしまった。彼のバッラータやパーオロ・テノリスタアンドレアス・デ・フロレンティアの音楽を見ると、フィレンツェの音楽様式がフランス化されていたことが見て取れる。特にサント・スピリト修道院は国際的に重要で、初期の人文主義もここから成長してきたのだそうだ。さらに各地旅行のイタリア人聖職者や商人は緊密な交流を行い、フィレンツェ商人にとってフランス語が第2言語のようになっていたから、14世紀終わりには多声音楽の様式までもがフランスなどの影響を被って国際化傾向を強めたが、これは1377年に(マショが亡くなったのを祝って)教皇庁がアヴィニョンからローマに帰るが、それがかえって2人の教皇両立の大シスマを生み出すと顕著になった。イタリアでは、フランス語の詩・フランスの形式で曲を書き、しばしばフランス式記譜法でそれを表わすのがステータスにさえなったのである。こうしてフランス語の歌詞による高度リズムを駆使したアルス・スブティリオールの作品を書いたアントネッルス・カゼルタ、フィリップス・デ・カゼルタ、マテウス・デ・ペルージオ(イタリア名マッテーオ・ダ・ペルージャ)らはイタリア人だったが、一方でフランドルからパドヴァに遣ってきてルネサンス時代の始まりを静かに告げるヨハンネス・チコニア(c1340-1411)や先ほどのマテウス・デ・ペルージオら作品を見れば、15世紀初期にもマドリガーレとバッラータという主要ジャンルの可能性が、国際語法に組み込まれながら継続しているのを見ることが出来る。しかしこれ以降関心はミサ楽章、バラード、ロンドーに移り始め、作曲家の中心はフランドルから押し寄せる外国人になっていくのである。

フランチェスコ・ランディーニFrancesco Landini(c1325-1397オケヘム)

・一時期オケヘムが彼を偲んで自害したと勘違いされていた事もある(・・・また病気が)ランディーニは、バッラータの指導的作曲家で、トレチェントの最重要音楽家だった。天然痘で少年時代から盲目になった彼は、やはり詳しい生涯は構築しかねるが、自由7科を修めた博識な知識人として人々に知られ、数多くの楽器をこなし、中でも手持ちオルガンであるオルガネットの腕前で知られていた。「アルベルティ家の楽園」にも登場人物の一人としてあげられているが、そこでは余りの名演に鳥たちがうっとり聞き惚れてしまう様子が、くつろいだ調子で記されている。マショと同様ほとんどの詩は自ら書いたと考えられるが、マショと異なり宗教音楽は無い。スクアルチャルピー写本が1/3をランディーニの作品で埋めるなど、フィレンツェの資料がランディーニ贔屓なのは仕方がないが、その名声と音楽の広がりは容易に明らかにならないそうだ。

「決して憐れみ心を持たないだろう(伊)ノン・アヴラ・マ・ピエタ」 →各行の終わりや、中間休止はランディーニお気に入りの、ランディーニ終止が見られる。上声が8度に入る前に、長6度から1音下がってから入るもので、実際は1350年頃の先輩のゲラルデッロなどの作品に見られるのだそうだ。この方法で両方が半音階進行を行なって2重導音を作ることもあった。
・彼の作品などを見ると、平行2度や平行7度は消え去り、平行5度や平行8度もごくまれになっている。代りに3度と5度の両方、あるいは3度と6度の両方を含んでいる和声的な響きが効果的に使用されているのを見ることが出来る。と教科書に書いてあるが、トレチェント音楽の特徴では、むしろ3度はフランス風記譜法と一緒にフランスからの影響で14世紀後半になってから、楽曲に顔を見せる特徴なんだそうだ。また全体的に、最上声部のメロディーラインが穏やかな動きを持つ下声部に支えられた2声、3声の作品が多いそうである。フランスで好まれた複雑なリズム体系は、言語や地域がらの違いにより、それほど追求されず、イソ・リズムなどを使用した凝ったモテートゥスタイプの曲もそれほど好まれず、2拍子型の分かり易いリズムに3連符を混ぜ、また細かい音符で旋律を修飾し、ちょうどバロック時代に歌を習いたければイタリアに行け、と言われたような歌謡的旋律美が、すでにこの時代からあったのではないかと思わせるような作品があるため、アルス・ノーヴァの作品群よりも、初心者に取っつきやすいかもしれない。

2005/08/24
2005/08/29改訂

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