4-4章、14世紀までのイギリスの音楽

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12世紀までの流れ

 5世紀にアングロ=サクソン人(アングロ、サクソン、ジュートの3部族のゲルマン人達)がケルト人を周辺に追いやりながらインド=ヨーロッパ語族のゲルマン語を定住地にそれぞれの方言を持って使用開始したとき、古英語が誕生した。その誕生関係からラテン語影響を受けないその言語は、6世紀からキリスト教先導者が潜り込むとラテン語を少しく取り込んで、今日の英語の1/3の言葉はこの古英語に起源を持っているという。その頃から「ベーオウルフ」などの叙事詩や叙情詩などがハーブに乗せて演奏されていたというブリテン島では、いかなる音楽が華やいでいたのだろうか、英雄物語を語り歌うショープ達は尊敬を受ける役柄を持っていた一方、旅芸人であるグリーマンなどの芸人達が活躍したはずの古英語の世俗曲は、今日すっかり消えて無くなってしまった。さらにすでに存在していたらしい民族多声音楽伝統は、どのようなものだったのだろうか、ケルト人やゲルマン人から続く豊かな民族的音楽伝統の影響か、この地ではキリスト教音楽においても、すでに1000年教皇の頃多声オルガヌムを含むウィンチェスターのトロープス集が生み出されるなど、音楽的素養がすでに豊かに整っていたことを思わせる。
 1066年にハレー彗星が見守る中をヘイスティングスの戦いに勝利したノルマン人達が上陸すると、宮廷及び教会役職の大多数がノルマン人によって占有され、その状況は以後200年にわたって継続した。これはラテン語方言とゲルマン語の混ざり合ったノルマン人達の言語(アングロ=ノルマン語)による支配階級の言語と、一般人の言語の2重言語体勢を生み出すと同時に、やがて古英語自体がフランス系言語の影響を被って、中英語を生み出した。この頃の音楽はしたがって大陸の音楽が宮廷と教会に流入し、宮廷ではヘンリー1世がアリエノールの歌い手を引き連れてイングランド宮廷に居たときほど、宮廷が大陸風の歌曲に華やいだことは無かったと云うし、教会での多声音楽も12世紀中頃までは一般的には口伝の即興的技法の方が一般的だったが、次第にオルガヌムが発展し、ファルセットの声の使用や、ホケトゥスの使用、そして3声によるオルガヌムさえも歌われていたという。そして12世紀後半に登場するノートルダム楽派の音楽も流入し、そのお陰で「オルガヌム大全」はスコットランドで1240年頃書かれたW1写本(ヴォルフェンビュテル677写本)に最古の写本として今日残されているほどだ。ノートルダム楽派についてはさらに1275年頃(1285頃?)になってからの「第4の無名者」の記述にも残されているが、一方このW1写本には、「大全」の他にブリテン島の2声のディスカントゥススタイル(音符が1:1の和弦的進行を見せるオルガヌム)で作曲されたミサのための聖歌も残され、またイングランドの政治などを扱った多声のコンドゥクトゥスやプランクトゥス(哀歌)も収められ、ブリテン島と大陸との緊密性と、地域差に関わらない聖職者達のラテン語文化のヨーロッパ的流通を見て取ることが出来る。当然ラテン語の単旋律の歌曲も多く作曲され、すでに11世紀中頃筆写された「旧ケンブリッジ・ソングブック」の中には恐らく歌うために、恋の歌や哀歌や風刺など様々な詩が残されているそうだ。遅れて12世紀末から13世紀初頭には、「新ケンブリッジ・ソングブック」がラテン語歌詞に音楽が付けられ残されているが、22曲の単声曲の他に1曲の3声曲を含む13曲の多声曲の姿を見ることが出来る。多声曲では、もちろんノートルダム楽派の影響を持って登場したモテートゥスも早い内にイングランドで作曲されたが、傾向としては長く伸ばされた聖歌の上にメリスマ旋律が駆けめぐるオルガヌムよりも、和弦的リズムで進行する音数が上下隔たりのないタイプの多声曲が好まれていたようだ。

13世紀

 しかしやがて、負け犬ジョン王がフランス側領土を失い、貴族達の大陸との二重生活も幕を閉じ、大陸との確執が次第に顕著になり、13世紀になると、次第にブリテン島独自の音楽傾向が現れ始めた。まずジョン王の跡を継いだヘンリー3世から政治を先に眺めていくと、フランス王ルイ9世と戦いつつ、最後に臣下の礼を行なう形でアキテーヌ地方を領有したヘンリー3世(在1216-1271)はシモン・ド・モンフォールを追放しつつ、最終的に敗戦しマグナカルタを承認し直すような負け犬ジョン王の息子だったが、彼の死後イングランド国王は一枚岩では無かった直接血筋の繋がるエドワード3親子の時代を迎えつつ、14世紀の百年戦争に雪崩れ込んでいくことになる。すなわちエドワード1世(在1272-1307)が1295年に戦費調達のため模範議会を開きつつスコットランドとの度重なる戦に亡くなると、自らの妻とその愛人に敗北して廃位したエドワード2世(在位1307-1327)を経て、奇しくもマショと同じ年になくなったエドワード3世(在位1327-1377)が跡を継ぐことになった。エドワード2世、3世の宮廷は大陸文化の吸収に大いに沸き立ち、フランス文化が再び大ブームを巻き起こしたが、このエドワード3世の時に百年戦争(1337-1453)が開始して長い戦争に明け暮れると、次第に公用語としてのフランス語教育の廃止なども行なわれ、14世紀末には外交官としてイタリアに出かけたばかりにペトラルカに打ちのめされたチョーサーが、英語を使用してボッカッチョの「デカメロン」風に進行する「カンタベリ物語」を著述すしたり、ペトラルカのソネットを導入したりしつつ、英語文学運動を開始。15世紀後半には議会の法案も英語で起草されるようになって行くなどフランス語からの自国語の離陸が始まることになるのだが、実際は第2の国際語(ラテン語に継ぐ)であるフランス語の影響は甚大で、15世紀に入っても宮廷でのお気に入り言語はまだフランス語で有り続けた。しかし続くルネサンスの時代には、民族意識もあり印刷技術と印刷物増加などもあり、統一された近代英語が次第に整備され始めることになる。
 話を戻すと、フランスとの文化流通も一時的に陰り、次第に個別化の傾向を見せ始める13世紀に入ると、大陸でも見られる3度6度の連続的使用や、3声曲での和声的響きの模索が、特にブリテン島において際だってきた。3度と6度の幅広い使用は、例えば平行3度がすでに12世紀「聖マーニュスへの賛歌Humn to St.Magnus」にも見られ、13世紀になると3度6度の平行進行的な曲が幾つも残されている。これは一説によると、当初大陸側の手続き通り作曲していたオルガヌムのような多声曲が、13世紀頃には元々民衆音楽として存在した、北欧ゲルマン人やウェールズ人達に由来する、古くから存在した民族的な多声音楽の影響を受けて、和声的響きに生き甲斐を見いだす原動力になったのかも知れないという。12世紀に書かれた文章の中には、ウェールズや北イングランドでは、子供でさえ独自の多声音楽を歌う習慣を持っているという記述があるそうだ。またフランスお好みの短長リズムより、長短リズムを好むのも音楽の特徴になっていて、大陸では流行らなかった4声書法が大いに好まれているなど、海を隔てて少しばかり異なる傾向を保っていた。
 また元々キリスト教活動の中心であった修道院と別に、ノルマン人上陸以降に教区が定められて司教座教会が整備され、それらの教区ごとに方言的に聖歌や典礼の異なる状況が生まれていたが、この頃ソールズベリーが力を増しその典礼方式が広く使われるようになると、イングランドとウェールズ辺りではこのソールズベリー聖歌が国教会成立まで使用されていくことになったので、ローマ式典礼とはすこし異なった伝統を持って俺たちのキリスト教が育まれていった。
 13世紀の音楽ジャンルとしては、モテートゥスなども大陸から流入してきたが、大陸とは異なり多声曲はラテン語による宗教曲に中心が置かれ保存されている。支配階級、聖職者と中英語を使用する他の人々との距離がまだ大きくへだったっていたためか詳しいことは分からないが、パリでは古フランス語(8世紀カール大帝時代に俗語ラテン語を古典ラテン語に修正した途端に沸き起こった話し言葉と公用語の開離によるフランス語の成立)の方言によるトルヴェールの歌と共に、フランス語を歌詞とするモテートゥスなどが大いに作曲されていたが、世俗音楽の担い手聞き手であるトルヴェールに貴族達のフランス語と、パリのラテン語文化圏の中心を担う聖職者予備軍達や、カルチェラタンに群がる聖職者予備軍とは云えなくなった大学生達が、共にフランス語を使用したパリなどとは、大きく事情が異なっていたことは間違いない。そんなわけで13世紀を通じて中英語などによる多声曲はごくわずかしか残されていないのが、イングランドの音楽事情だった。実際には多数残された音楽の無い詩も歌われたはずだし、民衆間の物語詩の歌い継ぐ伝統もあり、放浪楽師達の音楽もあり、ようやく15世紀になってから書き残されるようになった短い物語詩であるバラッドの伝統も、中世の音楽だけが消えて無くなってしまった。そんなわけで残された音楽としては、単旋聖歌をディスカントゥス様式などで多声化したオルガヌムや、世俗的事件や出来事をラテン語で歌うこともあったコンドゥクトゥス、さらに新しく入ってきたモテートゥスなどが多く見られ、3声のコンドゥクトゥスはイングランドで最も命脈を保ったが、特に13世紀後半になるとロンデッルス(ラ)rondellusという技法で作曲されるようになっていった。これは例えばA声部のある歌詞部分に付けられたメロディーが、次の歌詞部分ではBパートに登場し、その一方始めに別の旋律を歌っていたBパートが、次の部分でA声部の旋律を引き継ぐことによって、旋律の声部交替([独]シュティムタウシュ)を行い、結果上声がabcと順に旋律を変えて歌っていくのに合わせ、第2声部はcabと歌い、テーノル声部はbcaと歌うような形が大いに流行した。この方法は直ちに各声部が異なる歌詞を歌いまくるモテートゥスに移されロンデルス・モテートゥスが登場したり、面倒になって単にロンデッルスと命名された曲が登場したりしてしばらく栄えていたが、次の世紀には自立した定旋律の上で2声や3声で声部交替が見られるモテートゥスとしてこの技法が語り継がれて行くことになった。また、声部が交替する特徴は連続的に3度を使用して曲を進行するジメルと呼ばれるジャンルにも見ることが出来る。こうしてすでにノートルダム楽派の音楽にも見られたし、その後のアルス・ノーヴァの曲にも見られた、旋律を動機的に扱い声部交替して使用していく方法や、声の追いかけっこであるカノン的な技法が次第に明確に西洋音楽史に登場してくることになった。中世多声曲で最もポピュラーな一曲である1280-1310年頃に作曲されたららしい「夏のカノン(夏は来たりぬ)Sumer is icumen in」は、中世イングランドの多声曲の中でも例外的な作品だが、ロタrotaと呼ばれるカノンによる追い駆けっこ楽曲で、下2声がペスと呼ばれる声部交換を繰り返すオスティナートバスの役割を果たす上で、なんと4声がカノンを行なっていくという6声部の楽曲になっている。しかも2つの歌詞が付けられ、一方では中英語で世俗的「夏が来たからクックと歌え」的な歌詞が付けられているのに対して、もう一方はラテン語の宗教的歌詞で「主はキリストを使わして囚人達を許しちゃってからに」見たような内容を歌っているという、非常にユニークな逸品だそうだ。

14世紀

 大陸の自国語歌詞による多声音楽のアルス・ノーヴァやらイタリアトレチェント音楽やらの輝かしい資料は、イングランドでは支配階級のアングロ=ノルマン語にも中英語にも残されなかった。憧れながら領土を取り戻すべく戦った百年戦争の最中でさえも(というか、百年間戦っていたのでは全然無いため、百年戦争という概念はかえって歴史を狂わせているのかも知れない)フランス文化に憧れ、文学や音楽に大いに交流が合ったはずのイングランド宮廷だが、残されていないからと云って、自国語の多声曲が流行らず、大陸の歌ばかりが賞賛されたとも考えられず、アルス・ノーヴァの影響があったのだろうと、まどろっこしがって居ると、14世紀から次第に単声多声のキャロルという歌曲が顔を覗かせ手居るのを発見する。13世紀頃流行していたフランスのカロールが流入して生まれたとも言われ、自国語だけでなく場合によってはラテン語も使用したこの歌曲は、aaabの有節形式や、独唱と合唱によるバードンと呼ばれる(この名称は16世紀以降登場するらしい)リフレインの交替や、3拍子の支配などによって共通の楽曲と見なすことが出来る上に、歌詞の多くが降誕祭と復活祭にちなむ宗教的世俗曲として登場し、完全な民衆の歌ではなく、典礼以外に宗教的心持ちで知識階級が歌ってみるような歌曲だったらしいが、一方庶民的な多声曲であるパート・ソングなどの姿もちょいとは見ることが出来る。
 一方宗教曲においては、13世紀後半にルイ9世を私設聖歌隊であるサント・シャペルを真似てエドワード1世が起こしたらしいチャペル・ロワイヤルのような私設合唱隊は次第に大貴族達のステータスシンボルになり、数多く模倣されていった。やがて大学にもカレッジの礼拝堂のための聖歌隊が整備されつつ、宗教曲のジャンルの中心は修道院合唱隊からこのような聖歌隊のためのものや、何より大聖堂のための聖歌隊に中心を移していくことになったが、14世紀音楽の重要な写本であるウスタ大聖堂のためのウスタ断簡を見ると、ミサ通常文のためのトロープスや、コンドゥクトゥス、そしてロンデッルスの技法を持ったモテートゥスなどが見られる。もちろん定旋律(最下声)に対して即興声部を付加するディスキャンティングの規則によって、典礼音楽は資料に残されるまでもなく多声化されていたが、特にイングランドでのイングリッシュ・ディスキャントスタイルでは、3度6度を奨励し即興ではなく書き記された作品もディスキャント(つまり下のディスカントゥス)と呼ばれた。即興でない写本に残された楽曲では、14世紀になると典礼用の多声音楽に幾つかのパターンを見ることが出来る。これが何時からどのように行なわれ始めたのかは私にはさっぱり分からないが、本のままに流されていく。

ファバーデンと呼ばれる単旋聖歌から3声を作成する技法
→聖歌の4度上と3度下を平行移動するものに、多少変化が付けられた即興多声技法で、連続3,6度を認めると共に連続5度や8度を禁止したその響きの連続が、少しずつ今日言うところの和声の響きに目ざめ始めたヨーロッパの和声への好奇心を加速させる原動力として、次に上げるディスカントゥスやモテートゥス、さらにミサ通常文の楽曲に取り込まれつつ、和声的な響きの美しさを基本に置く新しい作曲スタイルを生み出すきっかけとなったのかも知れない。ただし、やはり平行和声スタイルを示す大陸での同種の3声スタイルであるフォーブルドンとどちらが先にあったのか分かったものではないため、安易にファバーデンの影響がフォーブルドンとなってデュファイに影響を与えたなどとは到底云えないようだ。
ディスカントゥス
→3声を中心にして和弦的に進行し最下声に書かれた一つの歌詞を皆で歌う、いわばコンドゥクトゥスが取って代わられたような作曲された楽曲を呼んだ。しかし大陸の影響か、全声部同一進行的なものの他に、最上声が支配的な旋律を奏でるカンティレーナ様式の楽曲も登場して来た。
モテートゥス
→イングランドでは14世紀に入ってから隆盛を極めだし、間にリフレインを挟む曲や、声部交替を極めた後終結が付くものや、様々な形式を模索しているところに、14世紀中頃大陸からアイソリズム・モテートゥスが流入し、「これだこれだ、これを極めれば曲が生きますよ」と喜んで作曲を極めてしまった。特に重要なことは、イングランドに置いてモテートゥスは宗教曲として作曲され、典礼で使用された事で、このことが後にダンスタブルやパウアーなどのアイソリズム・モテートゥスやミサ通常文に付けられたすぐれた多声曲となって、大陸に影響を与えていく原動力になった。

 さらに驚くべき事にモテートゥスなどでは、低音の土台の役割の多かった大陸側の定旋律を大幅に拡張して、定旋律を声部間に動機的に使用したり、定旋律から最上声のメロディーを導き出して、カンティレーナ様式を生み出したり、いっそう楽曲全体の構想の中心に定旋律をはめ込もうという意識が強まり、アイソリズム技法などと組み合わさったりして、大陸側のリズムと旋律の実験とは異なる、楽曲構成の実験が行なわれていたのである。
 さらに14世紀後半から、これまでディスカントゥス様式などで多声化していたミサ通常文を、モテートゥスの技法で高度な楽曲として送り出す荒技が、聖職者聖歌隊員に拍手喝采を持って迎え入れられたか、このミサ通常文によるこだわりの一品が大いにもてはやされ、これが大陸音楽の新たな流行に火を付けたのだとも云われている。こうしたミサ曲のコレクションは、1420年代になって「オールド・ホール写本」という写本に残されることになった。

セイラム(ソールズベリー)式聖歌

・何でも、ノルマン人がハレー彗星と共に上陸して以来、修道院と別に教区制と司教座教会が整備されたが、教区同士が互いに独自の典礼と聖歌集を生み出すようになったが、13世紀に勢力を拡大するソールズベリーとヨークの教区のうちソールズベリー式がイングランドでの典礼として定着していったものが、ソールズベリー聖歌(ラテン語で略してセイラム聖歌)だそうだ。これは14,15世紀のイギリス作曲家だけでなく、一時大陸作曲家までもローマ式ではなくセイラム式を使用するほど一時隆盛を極め、オケヘムの「ミサ・カプト」もソールズベリー聖歌から定旋律を取っている。

2005/09/14

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