世界の歴史16「ルネサンスと地中海」覚書

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始めに

 中央公論社出版の世界の歴史16「ルネサンスと地中海」(樺山紘一著)の内容粗筋をいい加減に覚え書きしたもので、該当本を読んだ上で無いと訳が分からない部分も多々あり。

1.新しい時代への眼

 ベンヴェヌート・チェリーニの胸像の前でソフトクリームを振り回しながらヴェッキオ橋を越えればもうヴァザーリの建てた職務美術館なのだから、列伝もろともパルミエーリまでが中世を超えて光あれと信じ込むわけだ。あそこからだとミシュレの限定語を一般化してしまったブルクハルトだってやっぱり同じ事さ。確かに君、東ローマはギリシア語にお里帰りをした揚句13Cのラテン帝国万々歳事件の屈辱中にビザンチンルネサンスに目覚めてしまったのだし、その前の9,10Cにはもうアラビアンルネサンスが花開いているのだから一筋縄ではいかないのさ。フェルナン・ブローデルの地中海にでも援助を求めて見ましょうか。

2.ルネサンスの春

 1301年のハレー彗星をジョヴァンニ・ヴィラーニが著述したばっかりに前300年モドゥヴェルド氏(モンテヴェルディの事)生まれのジョットーがパドヴァでマギの彗星を描いてしまった。1305年のスクロヴェーニ献堂式には大聖堂楽長マルケット・ダ・パードヴァまでも動員して祝典モテートゥスを奏でてしまった事は知っているだろう。そして私は天動説のままだったダンテの脳味噌に喝(かつ)を入れる為にハレー彗星の周期に合わせたルネサンス76年周期説という奴を考えてみました。

1376.イタリア、疫病からの脱出
1456.当方オスマンの脅威高まる(なぜか80年後)
1531.ローマ略奪の後遺症に悩む
1607.はっきりとバロックの空気

 彗星を無視した祟りによってダンテは翌年フィレンツェを追われ、その後アレッツォでは俗語の後継者ペトラルカが生まれた。それを聞いた年下のボッカチオは安心して1353年にデカメロンを完成させたのだけれど、言わんこっちゃない100周年後の祟りでコンスタンティーノポリスが転げ落ちてしまったんだ。悔やんだボッカチオはホメーロスを発見しながら、1348年のペストを堪能したそうだね。ラウラはペストの土産につまずいたけれど、すでに刷新の合い言葉レノヴァティオを止める事は出来なかったんだ。ではここでウオモ・ウニヴェルザーレの万能っ振りを見てみましょう。

万能っ子達ウオモ・ウニヴェルザーレ

レオナルド・ブルーニ(1370-1444)
・師匠のサルターティに後任マルスッピーニを合わせて書記三大官長。
レオン・バティスタ・アルベルティ(1404-72)
・家政論に絵画論に建築物。
レオナルド・極上だ!・ヴィンチ(1452-1519)
ミケランジェロ・ブオナロッティ(1475-1564)
・俺のポケットにはちょいっとばかり大きすぎた。
ビンベヌート・チェリーニ(1500-71)
・振り回すソフトクリームの守護聖人ではない。
ジェロラモ・カルダーノ(1501-76)
・医者なのに三次元公式カルダーノや物理のカルダーノの輪までも生みだし、おまけに偽悪の自伝までも持つカルダーラの守護聖人・・・な訳無いだろ。

3.イタリア、地中海の焦点

 1374年に書記官になったサルターティが自由の旗を振り回したまま新しい文化を推し進めている所を見つけたけれど、イタリア自体は既に十字軍の頃から東方に育まれ尽くしていたんじゃあないのか。12Cにはヴェネツィアとジェノヴァがライヴァル関係を結ぶ事によってラテン帝国を建てるまでに成長してしまったけれど、それにはガレー船から帆船への移行や羅針盤や航海図の成長など様々な要因が絡み合っているのだから、当然北ヨーロッパ貿易との関わりまでも考えなくっちゃあいけない。試しにミョウバンを見てみたらいいさ。オスマンのせいでパニックになったり鉱脈が発見されて大騒ぎしたり出来るのは、フランドル羊毛やらヴェネチアングラスやらと多様化しているおかげなんだ。どちみち14Cの農業逆転現象を超える事によって初めて葡萄やオリーブの生産が活性化されたのだから、サフランの栽培が麻の帆布だけでなくキャンバスにまでなってしまったからと言って浮かれている場合じゃあない。でも農地をコンタードとして支配するだけでなく銀行業にまで精を上げる活気の中で、初めて都市市民にとって農村は身近な風景以上のものになって行くんだ。一方では家だとか職業団体アルテや近隣団体スクォラなんていう団体がキーワードなんだから、都市あらば洗練されようキヴィリタスなんて言っては広場でおしゃべりを育んでいるうちに、都市意識が高じて都市同士で殴り合いを始めてしまったのさ。まあ115ページの地図でも見たらいい、サンマリノはやっぱり独立国家じゃあないかね。

・ここでは15世紀イタリアが不況から立ち直り掛けた時にビザンツ帝国陥落でミョウバン入手が困難な状況が、イタリアのトルファで鉱脈発見で媒染剤が見つかっただの、次第にフランドル毛織物のためのイングランド羊毛がイタリアに輸出され、ヴェネツィアではガラス・陶器業が離陸だの産業に目を向けたり、14世紀に沸き起こった農業恐慌からの脱却がブドウ栽培とイタリアワインを高めただの、いやいやオリーブだってこの時期急激に需要と栽培が伸びたのは魚のオリーブ・オイル漬けとも関係があると噂しつつ、ヨーロッパで自給可能な香辛料サフランと衣料品の他に紙にも帆布にも麻布(キャンパス)にもなる麻だけが、麻だけが特別なのだとまとめた後、都市を中心に周辺農村を結びつけたコンタードが13,14世紀に開始して、同時に市民の農村への眼差しと画家の自然描写への関心を生み出したと話を進め、イエ・アルテ・スクォラの説明に至り都市風すなわちラテン語でキヴィリタスと呟いたのは樺山先生。公共の建築物の都市景観と公共の場所でありニュースの発信受信場でもあった広場の整備と都市市民の集いが我が都市自慢に辿り着いたと締め括った後、傭兵隊長の時代をウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロで駆け抜けている。その頃東方より来たる火薬から大砲やら15世紀すえには鉄砲まで生み出して、戦術も新たな状況が起き始めると、話は続く。

 5大コロニーを中心に対オスマン同盟の名を借りてローディの和が結ばれる頃には教皇様のグェルフィやら皇帝さんのギベリーニなど今ではどうでもよくなって、市民内部の対立の挙句に同業者だけのチョンピーの乱まで起こる始末だから、ウルビーノのモンテフェルトロやらミラノのスフォルツァなんていう傭兵隊長が都市を乗っ取ることなんて朝飯前なのさ。15Cも末になると大砲だけでなく鉄砲まで使われだしてしまうのだから、技術も芸術も政治もみんな仲間って事だろう。
 でもやっぱり古典古代だろうというあなた、1391年に震えっ放しのビザンチンがマヌエル・クリュソロラスを派遣した途端に掛かってしまったギリシア語熱が古典熱の感染症を引き起こした上に、1438年に慌てふためき現れたゲミストス・プレトンとヨハンネス・ベッサリオンがフィレンツェ人をすっかり参らせてしまったんだ。いの一番に掛かったコジモ・デ・メディチがうっかりアカデミア・プラトニカを建ててしまったせいかビザンチンが転げ落ちてしまったんで、沢山の亡命者が写本を売り払ったあげくに亡命してきた。一方のイスラームはジェンティーレ・ベリーニがメフメトⅡに御呼ばれするなど渡来はあるのだけれど、もうこの頃には学問的影響は少ないのさ。
 それじゃあ人文主義者たちウマニズモでも見てみましょうか。

ウマニズモ(馬に相撲)

ヨハンネス・ベッサリオン(1403-72)
・帰国せずカトリックに改宗して教えを。
ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380-1459)
・文献探求に新しい書体たい。
ロレンツォ・ヴァラ(1406-57)
・彼のように攻撃的論争に生きがいを見出す男だけがコンスタンティヌス寄進の虚偽についてを発表出来るのだ。
マルシリオ・フィチーノ(1433-99)
・身も心もプラトン学院そのもの。
ピコ・デラ・ミランドラ(1463-94)
・人間の尊厳についてでお馴染みなの?
アンジェロ・ポリツィアーノ
・彼こそ春の花己惚れの詩人。

4.見えるもの、見えないもの

 古典とは言ってもスコラとは違う所に目が在ったから、ラテン語叙事詩の中から古代人の生活を読取ろうとしている内にホメーロスが大のお気に入りになってしまうんだ。ほら来た、アリストテレスのニコマコス倫理学やらプルタルコスの「道徳論」のほうが好まれ出版までされた事がよく分かるだろう。大したもんだ、文献学の専門化が進行したからと言ってまさか活版印刷本が最初からこんなにほっつき歩いているとは思わなかった。でも発掘のほうは行き当たりばたりで専門家も現れないまま、キリアコスの「古代への情熱」だけが際立っているんだ。
 さあ大変だ、3Cにプロティノスやロンギヌスやらがシリアに沸き起こした新プラトン主義が今ごろ再発見されてしまった。確かに中世だって知っている奴は居たけれど、こんどは古典熱の上にゲミストルブームまで乗っかってしまったのだから始末が悪い。1460年代にはヘルメス文書までが御出でなさったら天文学アストロノミーは占星術アストロロジーと手を取り合って、隠されたオカルトはゆとりを持って錬金術の中に科学を見出すという有様だ。だから炎の男ジョルダーノ・ブルーノが1600年を記念して火にくべられた揚句にガリレオ・ガリレイが偉大な父ヴィンセンチォに隠されてしまったからと言って悲しむ事はないさ。機会時計を合わせた四大発明だって印刷以外は12.13Cにはヨーロッパに輸入されて職人たちに育まれていたのだし、そんな中1406年に再発見されたプトレマイオス世界図が地理学をさらに昇らせていく一方で医学が取り残されているうちに、アグリコラの金属論とピリングッチオの火工術は金属技術を慈しんだって訳だ。芸術家だって模倣の言葉に酔いしれながらも、理想と秩序を追い求めるアルテからのはぐれ者に過ぎなかったじゃあないかね。
 その頃建築でヴィトルヴィウスの書いた建築書が再発見されたからさあ大変。アルベルティはオーダー、オーダーと叫びながらモジュールという幾何学図形による製作を蘇らせてしまったし、ドナテロはパドヴァに多くの彫刻を残してしまった。フラ・アンジェリコの受胎告知はお騒がせな線遠近法を取り込んでいるけれど、極上のレオナルドは見事なまでの一点透視を晩餐に演じた後で、空気遠近法と消失遠近法もお忘れなくと釘を刺した。みんな1435年にアルベルティが大聖堂献堂を記念すべく絵画論を書いたおかげであろうか、いやそんな事はないよ、かっこ反語と。ではそんな芸術家たちをどうぞ。

芸術家達

サンドロ・ボッティチェリ(c1444-1510)
・虚栄の焼却中に誤って自分の魂を火にくべてしまった。
ブラマンテ(1444-1514)
・ローマ、ローマ、ローマ
ルドヴィコ・アリオスト(1474-1533)
・フェラーラの狂えるオルランド、開放されたタッソもよろしく。
ラファエロ・サンっていい!(1483-1520)
・いいラファエロ、サンッていい!アテネの学堂!
ティツィアーノ・ヴェチェリオ(1488/90-1576)
・大王よりもうちっと大王。
アンドレア・パラディオ(1508-80)
  ・しまった。ヴェネト派が書き残した本がつい18Cに新古典主義、パラディオ様式を編み出してしまったではないか。

5.暮らしの中のルネサンス

 音楽と舞踏と演劇にヨハンネス・デ・サクロボスコも「オーン」て描いた「生命の泉」(c1470)にマキアヴェリの「マンドラゴラ」、ピクニックにまで生きがいを見出すその精神は遂に模擬戦闘でシモネッタ・ヴェスプッチとジュリアーノ・デ・メディチをポリツィアーノまで動員してからかうと言う暴挙に出た。見ちゃあいられない、やっぱり1478年にメディチ家暗殺事件が沸き起こってしまったか。一方ヴェネツィアはかろうじて壮麗なパレードが生き残っていたがカーニバルに落ちるのも時間の問題だ。服装にも男女の差が現れた為にモーナ・リーザはゴンネッラを着る羽目になったのだけれど、男用のブラゲッタは犬にさえもあざ笑われた。ティツィアーノの書いたカール5世の画に描かれたブラゲッタでは、自分で指さす不始末だ。さらにトマトもジャガイモも子^ひーも紅茶もチョコレートも知らない切ない食文化も、貧しく手掴みというお粗末さに恥じ入ってか、何かある度に拗ねてストゥディオ(書斎)に隠れて拗ねながらも戦術を練る遣り方はみんなも知っているだろ?ミソジニー(女嫌い)、三十路になったら女嫌いのポーズもサケッティの3百小話の中だけかもしれないね。だってローマもヴェネツィアも娼婦で鈴なりなのだし、女衒(ぜげん、江戸時代の女卸売り業者)の達が活躍するイタリア都市達にあっても、高等娼婦コルティジャーナは極上だったのだから。男色に突撃した疑惑のあるレオナルドやミケランジェロは置いておいて、パトッローンでも見ますか?

パトッローンという発音は誤りである

・メディチ家はゴッツォリの3賢者コンドゥクトゥスに尽きる。
・1471年、前トルコの脅威に公認されたエステ家はエルコーレ一世の娘イザベラ・デステをマントヴァ・ゴンツァガ家に、ベアトリーチェ・デステをルドヴィコ・スフォルツァの元に送り込んだ。息子アルフォンソは土産としてルクレツィア・ボルジアを貰った。
・17Cにまでお客さんがいらっしゃるゴンツァガ家はマンテーニャの絵を見るよろし。
・花忘我の教皇たち。
・ここだけの話、うちのアネキ、バルダッサーレ・カスティリオネーさん(1478-1529)こそ「宮廷人」を書き上げた髭の付いた生粋のおねえさんなんだ。でも男の子。
・ピエトロ・アレティーノ(1492-1556)はティツィアーノのお友達のくせに人々を「ぴえー、とろー」と泣かせた。

6.ルネサンス、実るの秋(寺田)

 1494年に転げ落ちてくるシャルル8世に巻き込まれて一緒に転げ落ちたメディチ家と、その4年後に火にくべられるサヴォナローラの姿を見たマキアヴェリは危機のうちに「君主論」を書いたけれど、人は石垣で人は城と言った武田信玄に瓜二つではないか。しかし君主は獅子と狐を兼ね揃えるべきだとの考えが勝手に歩き出してしまったのさ。脅えていやがるぜと言い合いながら笑顔の素適なフランソワ1世とカール5世の間でイタリア戦争が勃発してしまった。
 でも地中海には南ちゃんの選択があった筈だから、タッちゃんが1538年プレヴェザの海戦で見事に敗れてから、スペインの本腰によってようやく勝った途端にチュニジアを奪われてしまったレパントの海戦までを見渡してみよう。ほらね結局貿易が栄えっぱなしな上に1534年にはオスマンの船がマルセイユにまで来てるだろう。フランスはオスマンを模索したに決まっているのさ。そのころ商人たちはコンタード経営に金融業にますます栄えるのだけれど、スペイン弾圧の為に改宗したコンベルソ達までもが追い出されてしまったイベリアのユダヤ人セファルディ達を忘れてはいませんか。彼らは北ヨーロッパのアシュケナージと区別されながら新居住地でも精力的に活動を行なったのだ。でもヴェネツィアに入ったらゲットーという特別地区に送られてしまった。いずれ彼らがイタリア半島に来るに及んで医療や占星術が更にのぼせ上がっただけでなく、カバラの神秘思想までもが広まってしまっさ。(まま)
 1510年のハイライトといえば27歳のラファエロが仕事をしているローマに27歳のルターが遣って来たのが原因で枢機卿改革までも対抗して行う羽目になっていくという歴史的事実の中に隠匿されている。イエズス会はトリエント体制を編み出した。
 聖書研究のフランス人ルフェーブル・デタープルに独逸のロイヒリン、すべてを貶したエラスムスの痴愚神礼賛に極上のレオナルド、芸術も学問もが広がった勢いに任せてロッソ・フィオレンティーノやベンヴェヌート・チェリーニがフォンテンブローと叫んでしまったんだ。スペインでもフアン・デ・エレラが建物を作り出す頃には、ドイツではコペルニクスからデンマー君のティコ・ブラーエ、そしてケプラーまでもが現れて宙見た事かと叫んでいるだろう。イギリス人は新プラトン主義をこよなく愛しすぎてスペンサーがベスを称える詩を書いる間にマニエリスムに巻き込まれたイタリア的自由は宗教によって自己崩壊していった。はあ?こうしてついに著者自らが巡歴者となった。

巡歴者達

レオ・アフリカヌス(1483-C1544)
・グラナダ陥落と共にアフリカ中を転げ回った揚句レオ10世に拾われてアフリカ誌を表した為に16世紀の山内様と呼ばれる・・・って何の話だ。
アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
・彼の版画はイタリア旅行をへてドイツ風ルネサンスに昇っていった。
パラケルスス(1493-1541)
・パラケルスースー様は医学と錬金術の実践的口論の山嵐だ。
ミシェル・ド・モンテーニュ(1533-92)
・エセーを1580に出したモンテーニュの城主だから、イタリアに初の休養旅行を試みた後でボルドー市長を行なう事も出来るわけだ。
エル・グレコ(c1548-1614)がマニエリスムよりもうちっとばかりマニエリスムなのはクレタのイコンのなせる技か。

7.かなたへの旅

 大航海時代の旅に船出を遂げた著者本人に嵐が襲いかかる。1469年のアラゴンのフェルナンドとカスティーリャのイザベルの結婚は1479年にイスパニアの誕生を生んだが、エンリケはポルトが有るからと言いながらサグレスに初めての航海学校を作りに帰ってしまった。こうして大航海時代が始まったと言うと響きがいいのだけれど‥‥。1494年にフランス南転げ落ちを祝ってトルデシリャス条約を結んだのは良いとしても梅毒革命だの価格混迷だの突き進んでいくと場合によっては難破するから剣呑だ。バリャドリード討論は初めて未開と文明について考えさせてくれたが、それは長いたびの始まりであったのさ。なーんてね。探検しながら消えてみますか?

探索探索愉快愉快

クリストフォロ・コロンボ(c1446-1506)
・スペインならコロンだが、日本ならラテン語風のコロンブス。
アメリゴ・ヴェスブッチ(1454-1512)
・研究者として乗り組み、これのどこがアジアなものかと呟いてみた。
ヴァスコ・ダ・ガマ(c1469-1524)
・「バス、子だが馬」は間違い。カモンイスの書いた海の民ルシタニア人とはポルトガル人の事だす。
ラス・カサス(1474-1566)
1550年にバリャドリード・オン・メモリー。

8.空間と時間を越えようとして?

 日本でもセミナリオがだとか銅版印刷が入っては消えたとか西洋絵画が再現されてみたとか言っているうちについ見境が付かなくなって、アルプス以北の旅行者達がイタリアを育み始めたとかそれでも人間性が重要であるとか言ってしまったからさあ大変。花田清輝が怒って楕円形、楕円形と叫ぶと同時に、宮崎市定は最も遅れたと叫びながら階段から転げ落ちて、一方18世紀にはドイツ人のヴィンケルマンがローマ詣でを重ね、「古代美術史」(1764)を出版。イングランドのギボンはローマでリサーチを重ねて「ローマ帝国衰亡史」(1776-88)を完成、我らがゲーテも1786年にイタリア旅行で華開いた。ルネサンスの遺産の摂取でも始めるつもりかしらん。

残り者?

・フランシスコ・ザビエル(1506-52)は東方的なパウロ。
・ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)と言えば、ペルシーレスとシヒスムンダの苦難だけで有名なはずはない。
・カラヴァジオ(1573-1610)は慌てふためきながら俺も混ぜろと言ったらすかさず投獄されてしまった。
・ジャンバティスタ・ヴィーコ(1668-1744)はデカルトの敵と叫んでみたら拍手が鳴り止んでしまった。

製作2001/5月-6月
掲載2005/12/28

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