5-1章 15世紀イギリスとブルゴーニュ

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イギリス音楽の一般的特徴

 協和の響きの連続にいち早く生き甲斐を見いだしたとされるイングランドで、やがてミサ通常文による対位法的作品が多作され始めてしばらく後、大陸からその方法を学んだか、15世紀を迎えるとこれらの通常文の各楽章を結びつけて、ペアにしたり、5つまでの連作ミサを形成するようになった。さらに多声音楽の担い手が、ソロ同士の重唱から、数人ごとのパートによる合唱に変化したとき、楽曲の声部数を楽曲内で変化させ、重唱と合唱を交替させるような、音響の幅を織り込んだ技法まで登場し、百年戦争後期のイングランドの大陸側への張り出しに乗じて、1420-30年代を中心に大陸に広く流通した。ナイトに継ぐかなり高い地位を持っていたらしいリオネル・パウアLeonel Power(1375頃?-1445没)や、ジョン・ダンスタブル(c1390-1453)の多声音楽が、広く大陸側に流布することになるのである。フランドルの理論家であるヨハンネス・ティンクトーリスはこの状況を後に回想して、島国から新型(ニュータイプ)が到来して大陸で跳んだり跳ねたりしている内に、イングランド音楽の影響を受けて、フランス・フランドルの新しい音楽が芽生えたのだと著述しているのだ。また1440-42頃に大陸側で書かれたマルタン・ル・フラン(率直な人マルタン)のフランス語の詩「婦人達の戦士」に、ニュータイプであるデュファイとバンショワが協和音的な心地よいイギリス風な響きを会得して次の時代の愛戦士となったのだと歌い、その影響を与えたイギリス風の代表者としてダンスタブルの名前が登場している。こうしていち早くイングランドで和声的な響きの連続使用による美しさが発見されると、大陸の多声音楽が生み出したアイソリズムやら、カノン技法やら、動機的な旋律の扱いや、対位法やら、リズムの実験が、これに統合され、和声の響きの中の対位法であるルネサンス音楽が登場することになった。
 例えばダンスタブルの有名なモテートゥス「精霊よ来て下さいー創造主よ来て下さい」を見てみよう。ただ今日の和声法で云うところの根音に対して3度5度上の音が一緒にされるばかりではない、その使用が連続進行する3和音同士の関係を保ちながら、基本的に進行し、さらに後の昨日和声的な進行が意識され始めているのを見て取ることが出来る。つまり、この曲は上声2声がそれぞれ同じ精霊降臨の祝日のセクエンツィア「精霊よ来て下さい」から取られた歌詞を元に、それぞれ別の歌詞を歌うが、その開始部分は同じ言葉になっている。それに対しテーノル声部は、精霊降臨祝日の讃歌「創造主よ来て下さい」をアイソリズムの技法で6回繰り返すが、この際音程とリズムの扱いは非常に自由に変化されている。そしてこのテーノルに対してマショのミサ曲のようにコントラテーノルが置かれ、ここでは非常に長い音符を引き延ばしながら、響きの効果と、テーノルと入れ替わったときのバス交替を演出。ここではすでに譜面上最低声部にコントラテーノルが置かれ、テーノルが内声化し始めている。さらに冒頭が2声で開始して、やがて4声が行なわれるように、後のルネサンスポリフォニーと呼ばれるものの原型がそこかしこに見て取れる。そしてその開始2声の和声がおおよそ(Ⅰ→Ⅳ→Ⅰ→ドッペルⅤ(半音変化すれば)→Ⅴ→Ⅰ→Ⅶ(Ⅴ7)→Ⅰ)といった進行をして、これが4声になっても(Ⅰ→Ⅳ→Ⅰ→Ⅳ→Ⅰ→Ⅴ→Ⅵ)といったように、大枠の進行に機能和声進行を確認できるわけだ。
 ブリテン島から遣ってきた新しい技法はそれだけではなかった、例えば先に挙げた定旋律が4声曲の下から2番目の旋律であるコントラテーノルにおかれた例は、マショのミサにおけるコントラテーノルの位置とは、最低担当が入れ替わっていて、まったくもって後の大陸の先駆けだが、これはリオネル・パウアLeonel Power(1375頃?-1445没)のサンクトゥスの中にも見て取ることが出来るし、聖歌の旋律が最上声にあるものや、多声部を移り動くものも見られ、特定の定旋律を離れ通模倣様式を獲得する後のミサ曲の技法まで先取りしているからどうも驚く。それと同時に、イングランドでは、大陸で廃れた後々までアイソリズムモテートゥスや、定旋律を徹底させたミサ曲が作曲され続けるなど、お気に入りの指向性も大陸とは少しく異なるが、特に15世紀前半に百年戦争の経緯にも関係してイングランドの作曲家達、例えばダンスタブルやパウアらが大陸を訪れ、イングランド音楽は北方の聖堂や聖歌隊学校に広がっていったという。こうして1430年代頃には北フランスやブルゴーニュ公国の聖歌隊が大いにイングランドの宗教曲を歌い、例えば1431-49年のバーゼル公会議ではイングランドの宗教曲が集まってきた大陸聖職者達に紹介され、フランドル人の歌手達、例えばヨハンネス・チコニアらによってアルス・スブティリオールとは異なる方向性を見せ始めた新しい音楽の傾向と結びついて、それ以上の経緯は不明瞭だがルネサンス的音楽が登場してくるという事らしい。ここでもう一度、ダンスタブルとリオネル・パウアを軽く見ておこう。

ジョン・ダンスタブル(c1390-1453)

・生涯のほとんどは資料が乏しく不明瞭なものの、外交官、天文学者、数学者でもあったらしいダンスタブルは、1427年以前ベッドフォード公ジョンに使え百年戦争に絡んで大陸に出かけていた可能性がある。その証拠も一冊の天文学書に残された記述だけだというが、彼の作品の大部分が大陸にのみ残されていることもあり、どちみち大陸側で活動を行なっていた事があると考えられている。とは言ってもイングランドの大量の楽譜はヘンリー8世の修道院破壊と共に葬り去られたらしいので、イングランドでの写本は大部分損なわれているため、比率比較は出来ないらしいが。他にもヘンリー4世の妻であったジョアンや、グロスター公ハンフリーにも仕えていた時期があり、そうした要人との関係から、セント・オールバンズ修道院と関係を深めたそうだが、どの時期にどのような活動をいずこで行なっていたかまでは、不明瞭だ。さて、彼が使えていたとさるベドフォード公ジョンは1422-35年までイングランド派のフランス摂政を勤めながらジャンヌと戦った男で、もしかしたらダンスタブルはジャンヌ・ダルク(1412-31)の姿を見たことがあったのではないかとも思いたくなるが、そんな彼は後に修道院などとも深い関係を持ち数多くの宗教曲を作曲した。ただし、聖職者そのものでは無かったらしいとされている。全体で70曲あまりあるとされる彼に帰される作品の内、圧倒的に数の多いのは宗教曲で、彼の12曲のアイソリズム・モテットには賛歌「聖霊の創り主よ、来てください」とセクエンツィア「聖霊よ、来てください」を結びつけた最もよく知られた4声の曲があるし、他にも単独のミサや、グロリアとクレド、サンクトゥスとアニュス・デイの組合わされたペアミサ曲の幾つかの部分もアイソリズムを用いて作曲されている。また2曲の連作ミサ曲が彼の作品ではないかともされるが、他の人の可能性もかなりあるらしい。一方世俗歌曲は「ああ、美しいバラよ」「私の愛が」など数曲しかないが、最も重要な作品は3声の宗教曲であり、あるものは定旋律をテーノルに、またある場合には最上声に聖歌旋律が来たり、定旋律を使用せず歌詞に導かれるままに作曲を行なったコンドゥクトゥス風の多声アンティフォーナ「貴方はなんと美しいことか quam pulchra es(ラ)クアム・プルクラ・エス」があるが、当時登場した聖母マリアのための典礼や、聖務日課の晩課のための聖母マリアのアンティフォーナを多声で歌いまくる情熱が強まってきた頃だったので、当然ダンスタブルも聖母マリアに関する楽曲に手を染めることになった。
・彼は1453年にコンスタンティノープル陥落を記念して(ではないが)亡くなってしまったが、その後もウォルタ・フライ(活躍c1450-1475)や、ジョン・ホスビ(1487没)などが大陸で活躍し、ダンスタブル以後もイングランドの名声をとどろかせていたという。

リオネル・パウア(1375頃?-1445没)

・ダンスタブルよりも先輩で、なかなか高い地位を持つお方だったらしい彼は、1423年からカンタベリー大聖堂併設修道院に修道士でないのに入会して、39-44年には少年聖歌隊員の監督を行なっているそうだ。かれは音楽理論家でもあり、元の旋律に対位旋律を即興で歌う方法などを説明したものが残されているし、3声のミサ曲「ミサ・アルマ・レデンプトリス・マーテルAlma Redemptoris mater(贖[あがな]い主の聖母)」は、連作ミサで通常文を多楽章的にひとまとまりにして、それぞれを同一の定旋律で作曲した、現存する最古の循環ミサ、または定旋律ミサとして知られている。

世俗曲

・ダンスタブルがイタリア語やフランス語で世俗歌曲を作る一方で、中英語の多声歌曲は繁栄の形跡が残されず、しかしキャロルだけはフランスやイタリアのロンドやバッラータのような舞曲から生まれた世俗歌曲として、中英語を中心として、時にラテン語を奇妙に混合することもある民衆的な宗教的曲として定着していた。

ブルゴーニュ公国顛末記

 かつて、カペー朝の血筋がブルゴーニュ公として収めていたブルゴーニュ公領は、1361年にカペー家系ブルゴーニュが断絶したので、国王にお返しされていたが、百年戦争の最中ヴァロア家のジャン2世(在位1350-1364)が「捕われ人パート2」に見舞われて不在の間に、そのジャン2世の摂政シャルルの弟であるフィリップ(1342-1404)が改めてブルゴーニュ公領を与えられ、ヴァロア家系ブルゴーニュ公のフィリップ・ル・アルディ(フィリップ豪胆公)(在位1363-1404)として就任、翌年の1364年には兄のシャルルも正式に国王シャルル5世(在位1364-1380)として就任して。囚われ人の優れた子供達によるフランス全体の回復と百年戦争巻き返しが開始、同時に文化芸術活動も盛んになって、アルス・スブティリオールの写本なども残されるわけである。
 このフィリップ・ル・アルディはさらに1384年にフランドル伯の娘マルグリットと結婚することによってフランドル伯の領土も併せ持つようになったが、このフランドル伯領は、決してフランス北西部の広範な低地地帯ネーデルラントのフランス側一帯を指すような広い領土ではなく、この時代にはブリュージュ、ガン、イープルなどの都市を持つ数多くの低地地帯の伯領の一つだったが、ブルゴーニュ公は他の幾つかの領も引き継いだので、商業の重要な中心地であるフランドルの貿易維持を図るため、イングランドや神聖ローマ帝国との関係にも配慮しなければならない状況が生まれた。フランドルから現在のオランダ方面に広がる低地地帯ネーデルラントは、当時のヨーロッパの最も重要な商業地帯の一つで、最重要な毛織物だけでなく、麻布(あさぬの)やタピスリー(壁掛け用織物)に、港町ではニシン漁を中心とする漁業に、宝飾、貴金属など大いに栄え、都市ごとの特産を貿易し、早くもレンブラント時代のオランダを彷彿とさせる、アントウェルペンでは16世紀を待つまでもなく、様々な需要を満たす絵画もすでに市場を当て込んで販売されていたらしい形跡すらあるそうだ。そんな経済圏を握ったブルゴーニュ公は、その後ジャン・サン・プール(ジャン恐れ知らず公(在位1404-1419年)の時フランス王に反発し後の国王シャルル(7世)をパリから追放しイングランド側に近づくと、これが元でシャルルがジャンを殺し、続くフィリップ・ル・ボン(フィリップ善良公)(在位1419-1467年)が1420年にイングランドとブルゴーニュ公が組んでトロワの和約を終結する事になった。彼は金羊毛騎士団を創設し、中世の騎士道と宮廷の愛を復興させ、絢爛豪華な祭典を催しては一大文化公国を目指したので、ファン・エイク兄弟などフランドル地方での絵画芸術や、我々の見るルネサンスのフランドル楽派の音楽と呼ばれるものが、さらに一層華開いてしまった。特に崩れかけたはずの騎士道精神と宮廷の愛を練り直し、アーサー王伝説を現実化させようと目論んだかのような時代錯誤の騎士団、金羊毛騎士団の組織などは典型的だが、フランドルから流入する資金によって維持できた豪華絢爛たる宮廷での祝祭や文化活動は、はたから見て行き過ぎなほど華やぐことになる。
 このフィリップ・ル・ボンの時に、ネーデルラント継承戦争が起きてブルゴーニュ公は新たにエノー、ホラント(今のオランダの方)、セーラントを獲得し、彼の娘を政略結婚で嫁に貰っておいたイングランドのベドフォード公ジャンは飼い犬のダンスタブルをけっ飛ばしながら(いえ、音楽家じゃありません、そんな犬を飼っていたのじゃないかと押しはかってですね、いや、嘘です、失礼いたした)「それはおめでとう、こちらに手を貸して貰えそうだ」と呟いた。イングランド軍もノルマンディーとパリ周辺以上の進出がまるでままならないぎりぎりの状態だったので、ブルゴーニュ公の参戦と加勢を当て込んで進軍を開始。これが例のオルレアン攻防戦で、これがうまく行かなかった責任を、ジャンヌ・ダルクに着せてイングランド側が彼女を魔女として葬り去ったのはよく知られているが、実際はドンレミの乙女がフランスを解放したわけでもなんでもなかった。その後、1435年のアラスの条約でシャルル7世とブルゴーニュ公の和解が行なわれ、百年戦争の最終局面に向けてイングランド追い出し作戦が続けられていくのである。しかし、彼の時代すでにブルゴーニュ公領だけでなく、東の端は神聖ローマ皇帝側に所属するフランドルに、アルトワ、ブラバント、ブルグント伯領(これも神聖ローマ皇帝側)、さらに奪い取ったエノー、ホラント、セーラントまで領土としていたが、これらの領土のある所はフランス国王に、別の地域は神聖ローマ皇帝側に所属しながら、継承したブルゴーニュ公の下にある状況だったから、次のシャルル・ル・テメレール(シャルル突進公)(在位1467-1477年)がフランス国王と神聖ローマ皇帝の真ん中に成立するもう一つの国家樹立を夢見て、独立戦争的な意味あいを込めた領土拡大を目指すことになった。おまけに彼は妻だったブルボン家の娘さんイザベル・ド・ブルボンが亡くなると、ヴァロワ家との繋がりを絶つ意味もあってか、バラ戦争でキングメーカーとしてお馴染みのウォーリック伯と遣り取りしてイングランド国王エドワード4世と交渉、彼の妹マーガレット・オブ・ヨークと結婚したのだった。つまり彼女はシェイクスピアの戯曲でも知られたリチャード3世のお姉さんである。しかし残念ながらこの夢は果たされず、テメレールなシャルルが1477年にマショ没後100周年の鎮魂祭を開かずに(・・・そんな逸話はない)突き進んだ戦争で戦死すると、巨大なブルゴーニュ公国は男子家系が途絶え、その年のうちにフランス国王ルイ11世がブルゴーニュ公国に進軍しディジョンに入り国王直轄地とすることにしたが、一方フランドル方面で残されたテメレールの妻マーガレット・オブ・ヨークと娘マリー・ド・ブルゴーニュは、これに対してフランドル伯として立つことを宣言し、支持を受け、すでに結婚の約束のあった神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の息子であるハプスブルク家のマキシミリアンに娘との結婚を打診、慌てふためきフランドルに到着したかどうだか、マキシミリアンは目出度くマリー・ド・ブルゴーニュを妻として、これによってルイ11世のフランドル継承を逃れ、見事にフランドル一帯の領土をハプスブルク家に移行させることに成功した。こうして巨大な公国はあえなく瓦解したが、そのうち本来のブルゴーニュ公領はフランスに、フランドル方面と神聖ローマ帝国側に位置するすぐ東のブルグント領はハプスブルク家に継承されたのである。当然お宝地帯のフランドルを奪い返す怒りと情熱がルイ11世に沸き起こり、これは続くヴァロワ家とハプスブルク家の対立構造をうみだしたのだった。

ブルゴーニュ公国とフランドルの芸術

 こうしてマショ没後百周年まで独立的に活躍したブルゴーニュ公国は、名目上はディジョンが首都だが領土内を様々に移動しつつ宮廷生活を謳歌する稼働宮廷のスタイルを引き継ぎ、特に15世紀後半の代表選手の表れるフランドル地方付近、とりわけブリュッセルでは、何度もブルゴーニュ公入城のための華やかな祝祭プロセッションが行なわれたという。絵画におけるヴァン・エイク(ファン・アイク)兄弟も宮廷の保護を受けていたが、生涯不詳の兄ヒューベルトに対して弟のヤン・ファン・エイク(1390-1441)は油彩画法を改良してイタリアルネサンスにさえ先輩として手を差し伸べるその才能は、1422年にホラント伯ヨハン・フォン・バイエルンの宮廷画家、1425年にフィリップル・ボンの宮廷画家となり、ネーデルラント絵画でお馴染みの大工房の親方として活躍、毛織物商人ヨース・フェイトがシント・バーフ大聖堂に寄進するため兄の作製していたヘント(ガン、ゲント)の祭壇画を完成させ、イタリアのルッカから商人としてブリュージュに来てブルゴーニュ家の財務に関わったジョヴァンニ・アルノルフィニがイタリア人のジョヴァンナ・チェナーミと結婚した際に描かれた「アルノルフィニ夫妻」(ロンドン・ナショナルギャラリー蔵「ヤン・ファン・アイク、ここに参上!1434」と絵に書いてある・・・ちょっとニュアンスが違うか)などを残している。またこの時期の低地地方には他にもロベール・カンパン(1375-1444)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399/1400-64)、ヘントの画家組合長も勤めたが最後には自害しそこねたフーホ・ファン・デル・フース(1436-82)、ヤン・ファン・アイクの後に彼の工房を引き継いだペトルス・クリストゥス(1410-72/3)に、ロヒールの弟子だったハンス・メムリンク(1430/35-94)とすぐれた工房の親方達が北方発名画を凌ぎを削って送り出していたのだった。ついでに加えておくと、フーホ・ファン・デル・フースはローマ教皇庁の銀行も預かりヨーロッパにネットワークを築く企業としてのメディチ家のブリュージュ支店の支配人だったトマソ・ポルティナリから頼まれて、「ポルティナリの祭壇画」(c1475)を描き上げたが、ブルゴーニュ公国崩壊の数年後にブリュージュ支店閉鎖のため、ポルティナリはこの絵を共にフィレンツェに持ち帰ったため、今日ではウフィッツィ美術館にこの絵画が収められている。当時重要商業地であるフランドルには多数のイタリア人商人が商売と情報収集のため集まっていて、彼らの移動と情報の移動を通じて、イタリアとフランドルの関係は非常に密接だった。15世紀の沢山のフランドル絵画の流入が、油彩画による細緻な表現をイタリアにもたらし、すでに独自の油彩画を発展させていたイタリアにも新鮮な驚きを与えたという。

音楽

 もちろん音楽も負けてはいない。低地地帯の修道院や、教会での宗教音楽の聖歌隊の質はすでに教皇捕囚によるアヴィニョン教皇庁の聖歌隊員がフランドル地方から集められていた通りだし、続く大シスマの時代になると1380年頃からローマにも、フランドルの歌手達が南方への移住を開始していた。また、この地方はブルゴーニュ公の入城の際のプロシェッションの祝祭を見るに付けても華やかな世俗的音楽の重要な中心地であり、14世紀から15世紀前半に掛けてはヨーロッパの様々な場所から音楽情報と技術の交換や、若手の教育に、世界情勢の交換まで兼ねて、尚かつ祝祭のアトラクションを兼ねた「楽師達(ミームス)の学校」と云うものが定期的に開かれて、アラゴンの宮廷は宮廷所属楽師の出席を義務付けているほどだった。
 プロシェッションというのはもちろん行列の意味だが、支配者が都市や城に入城する際の行列入城式に合わせて行なわれる祝祭的行事として、中世以来重要な意味を持つようになってきた。特に14世紀も後半になるとイタリアで古代ローマの凱旋行事まがいのことが行なわれるようになり、その影響を受けて北方でも儀式のパレード性が高まり、それに合わせ各種ギルドが参加して出し物に参加する都市の大祝祭を担うようになっていったのだ。これは各地域を巡行し自らの支配を知らしめ歩くという、移動する宮廷の一般的だった当時の支配階級にとって非重要な意味を持つ行事だったが、イタリア同様商業活動により各都市経済が豊かで都市市民の発展著しいフランドル地方などでは、市民達の方から進んで行列式の凱旋パレード化に生き甲斐を見いだした側面もあり、ブルゴーニュ公の入城行列は豪華絢爛たるものになった。この種の凱旋行列は、後にマクシミリアン1世が自らの栄光を架空の凱旋行列としてシリーズに収めた「皇帝マクシミリアン1世の凱旋行進」の一連の木版画がよく知られているが、ここでは元来その場限りの行列儀式が、版画化されることによって永遠の記念碑として今日まで残されているのである。マクシミリアンの死後完成された図版には、アルブレヒト・デューラーの図案も含まれているという。
 さて話を戻すと、ブルゴーニュ公国側は、フランドルの音楽的祝祭においては、都市が楽師を動員して行なう華やかな演奏を利用するに止まったが、自らの宮廷の音楽家達の拡充が開始されていた。すでにルイ9世は1248年に宮廷礼拝堂付属聖歌隊サント・シャペルを創設していたが、これに習って私設シャペルが1384年に創設され、主に低地地方から集められた歌手達が誇りを持って私設礼拝堂聖歌隊員となった。ちなみにこの聖歌隊は礼拝堂(ラテン語カペルラ)の語がそのまま当てはめられ、一般的にラテン語ならカペルラ、イタリアならカペッラ、フランスならシャペルで、イングランドならチャペルになる。ブルゴーニュ公国では1400年頃にはすでに28人の礼拝堂楽団が抱えられて、その他にも、楽器奏者からなるミンストレル楽団が組織され、各国の重要人が呼ばれたり、楽器奏者や歌い手も待遇を求めて宮廷を渡り歩くなど、国際的雰囲気に溢れていたという。音楽は、ミサや聖務日課などの場合以外にも、祝典や婚姻などに合わせて重要な役割を担い、そのような場合にはファンファーレの他に、私設シャペルの祝典モテートゥスといった宗教曲的作品が、神の恩恵と神への感謝を取り持っていた。この宮廷シャペルはただの聖職者と司祭職を行える上級聖職者的なシャプランと呼ばれる者達がいて、他にシャペル用のオルガン奏者もいた。特に音楽に恩恵の深い最後のブルゴーニュ公は、自ら楽器を奏で作曲をこなし、シャペルの行なうミサの演奏に参加までするほどだったが、彼の時の宮廷シャペルと宮廷音楽家達の任務が
「シャペルは25人がいとよし。首席プリミエ・シャプランを含めて13人のシャプラン(司祭職持ち)に、6人のクレール(一般聖職者・司祭待ちの見習い?)に、5人のソムリエ、一人のフリエによって、毎日の礼拝を行ない、当然フリエ以外のすべての者は歌手である。さらに宮廷には5人の軍隊用トランペット奏者と、6人のミンストレル楽団のトランペット、さらに3人の「バ」の楽器奏者が必要だ。」
と云った記述がある。この文章に見られる、フリエとは宿泊所の世話や席やロウソクの用意などを行なう雑用係で、ソムリエ(sommelier)は歌の他に特定書簡朗読や、祭壇準備、財宝と葡萄酒の管理などがあったため、この当りからワインのソムリエの語源が派生しているのかも知れない。後に宮廷で食事とブドウ酒の管理を行なっていたソムリエや、料理人がフランス革命で路頭に放り出されてレストランが誕生したという話は、どこぞで耳にしたことがあるようだ。ちなみにブルゴーニュ公国の隆盛と合わせるように、シトー派修道院で作られていた当地のワインも有名になっていくそうだ。ワインもそうだが、こうした私設シャペルがあまり有名になったので、北イタリアでも、フランスでも、スペインでも、そしてイングランドでも、ブルゴーニュ公の宮廷に皆憧れ、私設礼拝堂聖歌隊員が宮廷音楽を華やかに彩るブームが、次の時代に広がって行く際の一つの要因となった。
 そんな中音楽はすでに15世紀初めから、ボート・コルディエ、タシピエ(ジャン・ド・ノワイエ)らが活躍していたが、やがてジル・バンショワが宮廷の愛にあったフランス語の世俗多声曲、定型(特にロンド)を使用したシャンソンを作曲すれば、当地のスタイルはブルゴーニュ風と呼ばれ、ブルゴーニュ公国とも関係を持ったデュファイなども、同種のジャンルに手を染めている。さらにシャルル・ル・テメレールの時代にもロバート・モートン、エーヌ・ヴァン・ギゼゲム(ハイネ・ファン・ヒゼヘム)(1445-1490)、さらにアントワーヌ・ビュノワ(c1430-1492)など多くの音楽家(本来は歌手)が雇われ、彼らの多くはブルゴーニュ公国が抱えたフランドル地方の質の高い聖歌隊養育機関から宮廷に採用されている。フランドルではポリフォニーによる宗教音楽の演奏とその教育が発展して、もっぱらミサ曲、モテートゥス、そしてマニフィカトなどが作曲され、特徴としてヘミオラリズムが上げられるそうだ。一方で都市自体の持つ音楽を享受する精神は今日には残されていないものの世俗的な数多くの歌や即興演奏を謳歌し、その地に止まったブルゴーニュ公もまたその伝統を借用した。やがて、百年戦争に絡みイングランドとの文化流通が盛んになると、ジョン・ダンスタブルなどの音楽が大陸ですばらしいと喝采され、フランドルの音楽伝統と結びついて、新しい様式を誕生させていった。その源はヨハンネス・ティンクトーリスによると、ダンスタブルなどのイギリス人と、同時代のデュファイとバンショワこそが新しい音楽の誕生に相応しいとされているので、その辺に置いておくことにして、それでは彼らの生涯をざっと眺めてみることにしよう。

2005/09/25

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