6-2章 オケヘムの生涯

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北方フランドル系の作曲家達とその音楽

ヨハンネス・オケヘム(オケゲム) Johannes Ockeghem (c1410-1497)

 実際はデュファイ、バンショワの同時代人と云っても差し支えのない1410年頃生まれの(と最近では比較的思われている)オケヘムは、コージモ・バルトリが1567年出版の「学問的論考」の中で、「ドナテッロ(没1466)が彫刻を再発見したように、死に絶えていた音楽を再発見した最初の人物であることを、私は知っている。」と書いているほど偉大な音楽家だった。彼はフランドル地方のどこかで生まれて、恐らくどこかの聖歌隊員として少年時代を過ごしたのだろう、すでに30代に入った1443年に始めてアントウェルペンのノートル・ダム大聖堂聖歌隊員として名前が登場する。その後フランス国王から公を貰っていた中部フランスでムランに宮廷を持つブルボン公の宮廷礼拝堂聖歌隊員となり、ブルボン公シャルル1世の元1446-48年をその血で過ごす。このシャルル1世が1425年にブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンの妹と結婚することによって、シャルル7世とブルゴーニュ公の和解が促進されることになっていくそうだが、優れた歌手紹介のルートは分からないがオケヘムもブルゴーニュ公とブルボン公とシャルル7世の宮廷との関係を持つチャンスがあった。この時までにバンショワ辺りと親しくなっていても不思議じゃないではないか。後にバンショワが亡くなった時には挽歌「死よ、貴方は矢を放って傷つけてしまいました」において、歌詞にバンショワの名前を挙げて嘆いているのである。結局コンスタンティノープルが陥落して、ダンスタブルが天上人になった上に、懸案の百年戦争に終止符が打たれた、フランス国王に取ってはビザンツ滅びてもなお嬉しいお騒がせな1453年を記念してか、オケヘムはついに、シャルル7世の王室礼拝堂聖歌隊員に名前を連ね、フランス王の元に仕えることとなった。よほど才能があったのか、司祭を行なうことの出来る正式な聖職者ではなかったが、国王に私(わたくし)めの曲集を献呈すると、程なく礼拝堂のシャプレン(歌手)の首席となり、1459年にはトゥールにあるサン・マルタン修道院の財務官に任命され、音楽家以上の役職を獲得した。

シャルル7世

・ここで百年戦争以後のシャルル7世について軽く見てみよう。ブルゴーニュ公と和解を果たしアラスの条約を結んだ王は、37年にはパリに入城。フォルミニーの戦い(50年)を経て、お騒がせな1453年にカスティヨンの戦いでギュイエンヌ方面からイングランドを追い出して、大陸側はカレーだけを除いて、フランス側の領土となった。この百年戦争中の1438年には「ブールジュの国事詔書」の勅令によってフランス教会の自由を認め教皇の介入に釘を刺し,フランス国の教会(ガリカニズム)すなわち国王の元の教会を打ち出したし、塩などを国家専売として税金を取る制度を整備、常備軍を創設して傭兵だよりの百年戦争に意識的な決別を果たし,百年戦争中にブールジュの亡命政府でも次第に整備しつつあった官僚制の整備を進め、ジャック=クールという商人を財務官に起用して財政回復と商業、手工業の振興を行なうなどしたが、クールは51年に財産を築きすぎたためか国王に逮捕されて財産没収と相成った。そんな中、始めて男性の装飾具であるダイヤモンドを付けた女性と云われる、シャルルの愛妾アニエス=ソレルが一時宮廷に影響力を振るる一幕もあったが、どうやら彼女は毒殺されてしまったので、晩年は自らが息子に毒殺されることを恐れて食事を拒み餓死したという伝説が残されている。もちろん真実のほどは不明瞭である。まあフランス中央集権化の生みの親とでも言っておきましょうか。

話を戻して

 1461年にバンショワを追い掛けるようにシャルル7世が天上に帰って行ったので、オケヘムは引き続いて息子のルイ11世(在位1461-1483)の元に仕えることになった。さらに何でも「オッケヘーム(「オッケーさ」の意味か?)」と気安く引き受けとんとん出世するオケヘムは、ルイ11世時代に王室顧問という役職を持って、外交官としてもスペインに出張しているほどだった。63年からは遙か昔にはペロティーヌスとレオニーヌスが活躍した、パリのノートル・ダム大聖堂の参事会員の地位も得て、あまり良いこと続きなので、2回ほどカンブレに出かけていって先輩のデュファイの元に遊びに出かけて、64年には2週間も彼の内に泊まり込んだそうだ。一説によるとこの時デュファイのレクイエムが消失したとも・・・。(そりゃでっち上げだ。)

ルイ11世(在位1461-83)

・父上のシャルル7世がパリを追い出されて亡命先のブールジュに宮廷を構えたときに生まれたルイは、何度も何度も父親を蹴落として王になろうと影でこっそり計画なさるほど大胆不埒な陰性の情熱を弁(わきま)えた人物(なんだそりゃ)で、36年にスコットランド王ジェームズ1世の娘、マーガレットと結婚するが、彼女が亡くなるとわずか8歳のシャルロット・ド・サヴォアと政略結婚を行い、この時サヴォア公の元に仕えていたデュファイが連作ミサ曲「ミサ・ス・ラ・ファス・エ・パル」を作曲て演奏したとも云われている。しかし、56年には国王へのクーデターが見つかって、ブルゴーニュ公シャルル豪胆公の元に「助けて、パパが虐めるの」と逃げていってしまったので、シャルル7世が「羊の群れに狼が突撃してしまった」と呟いたほどだったが、父が亡くなるとたちまちお帰りて、国王として即位するやいなや父の側近達を一層。以後軍事力ではなく、策を弄して反乱を起こさせたり、影でこそこそ動き回ったりしながら、中央集権のために、諸侯の勢力を削ぐのに力を尽くすが、特に巨大な勢力を持つブルゴーニュ公国を蹴落とすべく、和睦と見せかけリエージュで反乱を扇動したり、シャルル・ル・テメレールも呆れてルイ11世を引っ捕らえたこともあるぐらいだ。ブルゴーニュ公国がバラ戦争でヨーク家を支持すると、たちまちランカスター家出身の王ヘンリー6世を復帰させるべく策動するなど、対抗していたが、ブルゴーニュ公が中心となった公益同盟軍にたびたび敗戦しつつも、最後に勝利を収め、1467年のアラスの条約でブルゴーニュかなりの土地を獲得し、またアンジュー、メーヌ、プロヴァンスなども彼の時に併合された。そしてついに1477年にブルゴーニュ公戦死のニュースが入ると、直ちに軍隊を組織して、ディジョンに入り、「私が王だ」と叫んで見せたのだ。その様子は、元々ブルゴーニュ公に仕えていたものの、ルイ11世の腹黒い男っぷりに感銘を受けてルイ11世に鞍替えをした年代記作家のフィリップ・ド・コミーヌが克明に記している。(?)
 国内政治を見ると、1472年には教皇ピウス2世とアンボワーズの協約を締結し、フランス国王に国内の聖職禄授与の権利が認めさせ、ガッリカニズムへの方針を立てているし、戦争よりも外交政治を駆使して国内平和と中央集権を目指すその御心は、印刷術を保護し、道路治安の確保、駅伝制度の導入や、養蚕(ようさん)を南フランスに広め鉱山開発を行なうなど、国内インフラと産業育成も図る偉大な国王であった。1475年にロンドンで開催した「フランス物産展」は、今日のスーパーの沖縄フェアじゃないが、フランス名産品などが展示され、今日の近代的博覧会の原型とも云われている。
 しかし、一方で神への崇拝や、占星術にのめり込むなど錬金術師の時代たる独自の精神世界も持ち、初めての近代詩人と云われるフランソワ・ヴィヨン(1431?-1463以降)が「遺言詩集」の中で取り上げているほどだ。

何だか欲張りすぎて断片的な

 その後1483年には再び国王が替わり息子のシャルル8世(在位1483-1498)が就任しても、相変わらずオケヘムの役職が維持され、晩年にはトゥールで最後の一時を過ごしつつ1497年に、ピュタゴラスが亡くなった紀元前497年に掛けて、(また一説にはデュファイ生誕100周年に合わせて)亡くなった。数比技法に長けていたオケヘムがピュタゴラス的な数比を通じて神に至る思想に敬意を表したためである。ここから、オケヘム没年を記念する不可解な歴史現象が、毎年100年ごとに沸き起こるという、このサイトにおける怪奇現象が始まることになった。
 彼の死は多くの人を悲しませたらしいが、ブルゴーニュ公お抱えの宮廷詩人だったジャン・モリネ(1435-1507)がオケヘムへの挽歌を作詩して、これにワンポイント・ジョス缶でお馴染みの、ジョスカン・デ・プレが作曲した曲が今日まで残されているし、例のエラスムス(1469or68or65??-1536)まで、オケヘムを讃えて追悼の詩「音楽の長であるオケヘムへの挽歌」を書き上げたのだそうだ。特に、1497年にジョスカンの作曲した挽歌(lament)「ヨーハネス・オケヘムの死を悼む哀歌」では、テーノルにレクイエムのイントロイトゥスの旋律「レクイエム・エテルナム(永遠の平和を)」が使用され、聞く者の涙を誘う。一方エラスムスの詩にもヨハンネス・ルーピが曲を付けたものが残されている。

シャルル8世(在位1483-98)温厚王

・幼少で即位し、百年戦争時にはイングランド寄りで大いに手を焼いた、ブルターニュ伯の娘さんアンヌ・ド・ブルターニュと結婚することによって、ブルターニュを国王領土に取り込んだ。やがて親政を開始したシャルルはナポリ王国の継承権が自分にあることを主張しながら、イタリアに自らの軍隊を差し向け、これを持ってイタリア戦争(1494-)を開始し、1495年ナポリに入城し見事ナポリ王に戴冠した。ところがヴェネチアやローマ教皇、ミラノ公らの同盟軍がフランス帰れコールを叫びつつナポリを包囲すれば、多大の損害を出して泣き泣きフランスに逃げ帰ったという。このイタリア遠征の失敗によってフランスは莫大な負債を抱えたが、借金のことが頭から離れず、下を向いて歩いていたところ、1498年にうっかり鴨居に頭を打ちつけたのが原因で亡くなってしまったという。これは97年のオケヘムの葬儀に出席しなかった祟りではないかと、邪推する者もここに一人いるが、彼には後継者はいなかったため、シャルル5世の曾孫に当るオルレアン公がルイ12世として後継となった。

オケヘムの作曲

 作曲年代不詳のものばかりだが、デュファイと年の違った親友だった雰囲気のあるオケヘムだけに、連作ミサが10曲残され、そのうち8曲が4声の作品、5曲が定旋律ミサになっているそうだ。面白いことに定旋律ミサの「ミサ・カプト」はイングランド式のソールズベリー聖歌から定旋律が取られていて、当時のイングランド音楽家の影響力を彷彿(ほうふつ)とさせるし、当時の数比儀礼に手を染めた数へのこだわりが見られる「ミサ・エッチェ・アンチルラ・ドミニ」や、定旋律を使用せずに作曲され4つの正格旋法のどれでも歌うことの出来ちゃう「ミサ・クイユスヴィス・トーニ(任意の旋法によるミサ曲)」などがある。
 プロラツィオ記号によるカノンを駆使した離れ業「ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比によるミサ曲)」はオケヘムの作曲態度のすぐれた一例になっている。これは2つの声部しかない楽譜を、それぞれ2つのプロラツィオ記号で読み解いて、4声のカノンが行なわれるというものだ。しかも区切り毎にカノンの音程が始め同じ高さで行なわれるものが、2度、3度と順次音程を広げ、8度に到達する辺り、技巧的に非常に手の込んだ作品だ。
 一方「ミサ・プレスク・トランジ(ミサ・ミ・ミ)」では、自らのシャンソンの素材を定旋律ではなく、全声部に使用するという、後のパロディ・ミサ(正しくは模倣ミサ)の初期の例を見て取ることが出来るそうだ。
 さらにデュファイのレクイエムから影響を受けて完成させた4声のレクイエム、正しくは「死者のためのミサ曲」(Missa pro defunctis,Missa defunctorum)がある。これはトレント公会議以降定められたローマ式ではなく、フランス・フランドルで行なわれていたすこし異なる歌詞を持っている。オケヘムはグレゴリオ聖歌を多声部に渡って自由に変化させ使用して、多くの場合それは最上声部におかれている。これは、今日の旋律修飾的な定旋律の扱い方だが、デュファイの多声作品が失われた今では、オケヘムによって後の多声レクイエムの口火を切られたと書くしかない。ついでに加えておくと、レクイエムという名称は、式の開始を告げるイントロイトゥス(Introitus)の歌詞が「Requiem aeternam dona eis Domine」(主よ、永遠の安息を彼らに与え)と始まるところから来ているが、この開始の歌詞はローマ式でなくても同じなので、レクイエムと呼んで差し支えない。
 一方モテットはわずか9曲ぐらいしか残されていないそうだが、元になる定旋律などを使用せず、イソリズムも使用しない、歌詞に基づいた旋律同士の絡み合いによる作品が多く、定旋律を使用したものとしては聖歌のアンティフォナを使用した「アルマ・レデムプトリス・マーテルAlma Redemptoris Mater」などがある。
 一方では、22曲あまりのフランス語多声シャンソンも残されている。定型を守り3声で作曲する態度はブルゴーニュ公国で流行のシャンソンパターンを守り抜き、宗教曲よりも模倣的な旋律の使用が見られる。特に3声のヴィルレー「口元には微笑みをたたえ」や「不幸が私を打つ(Malheur me bat)」は最も知られた有名曲の一つになった。また、マントヴァ公ゴンザーガ家のイザベラ・デステ(1474-1539)の音楽部屋に飾られていた「我が規範に従いなさい(Prenez sur moi)」は、どの旋法でも演奏できるカノンであり、ミサで見せた技巧的な作曲態度が投入されている。
 教科書に上げられたオケヘムの特徴は、声域の拡大と、より充実した分厚い声部書法、暗い均質な響きを好み、旋律線はメリスマ聖歌のように柔軟なリズムを持って流れ休止も終止も少なく、ミサにおいてはまだ模倣技法に頼ることは比較的少ないと書いてあった。これは、デュファイにおいても云えることだが、ある声部あるフレーズを他の声部が遅れて繰り返し利用するような模倣技法を組織的に使用した対位法は、15世紀の後半になって確立していったもので、特に前半期には出来るだけ各部分が異なる進行を行なうバラエティーの豊かさへの指向が見られたのである。

曲の命名法
①旋法名
「第5旋法によるミサ曲(ミッサ・クインティ・トーニ)」
②出だしの改名
「ミサ曲ミミ」ー最低声部の最初の2つの音に由来
③構造上の特徴
「種種の比によるミサ曲」
「任意の旋法によるミサ曲」
④何も特徴を示したくない場合
「ミサ曲無名(ミッサ・シーネ・ノミネ)」

フーガの技法
 カーノンつまり「規則、法」は、1つの声部から付加声部を導き出す指示を示していた。そしてある声部の旋律進行などを他の声部が遅れて引き継ぐことを、模倣と呼ぶ。今日云うところのカノンは当時はフーガ(逃げること)と呼ばれていて、カーノンの規則が厳格に定められると、フーガが生成される訳だ。このようなカーノンと呼ばれる他の声部の模倣指示には、遅れて同一旋律を開始する指示だけでなく、例えば第2声部を反行形、逆行形(カニ((ラ)カンクリザンス)のカノン)、あるいは異なる速度で行う指示もあった、この場合は2つ以上の異なるメンスーラ記号を用いて、異なるプロラツィオを同時に表現して、歌い手がそれぞれの速度で曲を初めから歌い出すと、あら不思議、見事な多声作品が誕生するわけだ。この場合はプロポルツィオに寄って導き出されたから、プロポルツィオ・カーノンなどと呼んだりした。このようなカーノンの技法は、音楽を聴くときに明確に理解される必要はなく、いわば水面下で神に達する構成を提供していれば良いと考えられていたので、隠された工夫へのマニアックな喜びが、第2声部を引き出すために「クラーマ・ネ・チェッセス休み無しに叫べ」などと、休符を無視するという暗示を書き記すような、しょうもない悪戯まで生み出した。他にも、「三位一体(Trinitas in unitate)」と書いてあったら、3声で模倣が行なわれるとか、「ヘブライ式に歌う」と書いてあったら、ヘブライ語が右から左に書かれるように逆行で歌うだの、様々な指示(カーノン)が書き記されている。

ヤーコプ・オーブレヒト(1452?-1505)

 ゲント市のトランペット奏者を父に持ち、1476年頃からユトレヒト大聖堂の聖歌隊に居て、その後もフランドル周辺の教会を転々として仕事をしていたが、87年にはフェラーラ公エルコーレ1世の招待によってフェラーラに向かった。しばらく後北方に帰るが、1504年に再度南方に向かい、ジョスカンが消えた後のフェラーラ公の宮廷礼拝堂の楽長でも目指したか、フェラーラ入りを果たすが、肝心のエルコーレ1世が亡くなってしまっただけでなく、大流行したペストに打ちのめされて1505年に自分が亡くなってしまった。
 29のミサやモテートゥスの他に、シャンソンとオランダ語の歌と器楽曲がある。ミサ曲では定旋律を用いて作曲されるが、借用旋律の扱いは非常に多様で、その素材を断片化させ音価を変え、逆行さえいとわない、声部間を移動したり、複数声部に登場したりするその方法は、対位法の割り切れない複雑さのもたらすある種の高揚感と共に、彼の作品の特徴になっている。ただし、オケヘムよりは和声の和弦的効果への関心が高く、対位法の線は意外とすっきりしている。特にシャンソンになると上声の旋律を非常に和弦的な伴奏声部が支えるという、ホモフォニックな傾向が時代に抜きんでているそうだ。また多くの素材を動機的に大量投入していくその遣り口は、「種々の歌によるミサ曲(ミッサ・カルミヌム)」に至っては、20ものことなった世俗旋律が使用されているほどだ。教科書では、「ミッサ・カプト」を見ながら、ひとまとまりの音楽単位が完結しない前に休符を置き、1つの歌詞の途中に休符を入れるような自由奔放な、後年ルネサンスミサでは破棄されていく作曲スタイルを紹介している。

同時代のその他の作曲家達

・現在ベルギーにあるトゥルネーに生まれ、当地の大聖堂の聖歌隊員として成長した後、ブリュッセル、ヘントなどで活躍し、ハプスブルクに編入された北方ブルゴーニュ領でも仕事をこなしたピエール・ド・ラ・リュ(c1460-1518)は、30曲近いミサ曲が残され、特にカノンの技が際だっていたそうだが、もちろんモテートゥスや世俗曲も多数残している。一説では、ジョスカンのものとされた「我が子アブサロン」は、彼の作品ではないかともされている。
・また、ジョスカンの好敵手(とグラレアーヌスに言われた)ジャン・ムトン(1459-1522)は1502からルイ12世の元で活躍し、アードリアーン・ウィラールト(c1490-1562)の師匠でもあった。
・他にもルネサンス前期の最も重要な音楽理論家であるヨハンネス・ティンクトーリス(c1435-1511)は、最古の印刷音楽事典「音楽用語定義集」(c1494)など12もの理論書を表わすと共に、自ら多数の作品を残している。(この用語定義集は中世ルネサンス音楽史研究会の強者達によって翻訳されて、国内版が購入できる。)

→「フランドル楽派の音楽家たち」
………この定義集はさらに、こちらのサイトのティンクトーリスの項でも翻訳中。

2005/10/06

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