8-1章 ルター派のコラール音楽

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マルティン・ルター(1483-1546)と宗教改革

 農夫から鉱山業に進出したとされるお父っあんの教育熱心により勉学に励んだルターは、1501年にはエルフルト大学に入学して、雷雨の中で雷がドカンガラシャンとどろく閃光に打ちのめされて、「修道士になるから許しておくんなさいまし」と叫んでしまったので、責任を取ってアウグスティヌス派の修道士となった。その間矮小な我々と偉大すぎる神との間の差に怯えてびくびくしていたので、とうとう人間理性の論理で神を捕らえることは不可能でおこがましい思い上がりだと悟りを開いて、ローマで教会詣でを済ませながらヴィッテンベルク大学で聖書注解の講義など行なっていた。
 ところが人間の正義と神の恩恵についてお悩みなさって、塔の上で光あれと叫び声を上げると、「善行じゃあない、信仰によって義(よし)とされるのだ」と天使の声が聞え、聖書の福音に基づく信仰こそが大事なのだといきり立ったが、丁度同じ頃勇み立っていた人物にマクデブルク大司教アルブレヒトというのがいた。彼はマインツ大司教の地位を獲得すべくサン・ピエトロ大聖堂建設のための資金を死後の罪を軽減する贖宥状(しょくゆうじょう)販売で荒稼ぎして教皇庁に献金致すと、「なんじゃそりゃあ」と叫んだルターが、1517年神学議論のためヴィッテンベルク大学の扉に「95カ条の論題」をラテン語で貼り付けたら、これがたちまちドイツ語訳されて反カトリックの導火線に火を点(つ)ける結果となった。1518,19年に掛け審議や論戦が行なわれ、ルターはカトリックとの対決を決意、1520年から宗教改革に重要な役割を果たす文章をじゃんじゃか世間に送り出し、1521年にジョスカンの死に乗っ取って(何のことだ?)カトリック教会から破門された。こうしてこのジョスカン没年の記念すべき年に、皇帝カール5世主催のヴォルムス帝国議会に召喚(しょうかん)されたルターは、自説の撤回を拒否し「それでも教皇は(精神が)廻っている」とは言わなかったが、そのまま立ち所に支持者のザクセン選帝候フリードリヒに匿(かくま)われ、ヴァルトブルク城で「ドイツ語約聖書」を書き上げ、近代ドイツ語のお父様と慕われる結果となった。
 ドイツ内ではすでに火薬に到達した火の粉が一斉に破裂してヴィッテンベルクで過激派がオルガンやら聖像などを破壊しまくるし、皇帝と教皇の結びつきと勢力に反発する諸侯と没落貴族達が新教を盾にカトリックに対する反対運動を開始。聖職者でありかつてはルターと肩を組んだこともあるトマス・ミュンツァーが、チューリンゲン地方のミュールハウゼンを拠点に諸侯貴族を排除した共同生活社会を目指す反乱を組織。農民や鉱山労働者に呼びかけ1525-26年に掛けて激しくドイツを揺さぶったが、これにはルター先生もとうとう「反乱農民殺戮はしかたなし」と叫んで、大いに民衆の反感を買った。その代わりルター先生、25年に奥さんをお貰いて、後の聖職者でも奥さんがおありるのは当たり前の伝統を築いていたというが、統制者のない改革は暴動に繋がると悟った彼は、諸侯による指導の元に教会を置く方針に傾いて、諸侯間を巡り、また1529年スイスの宗教改革者ツヴィングリとも会談を行なったが、これは決裂し、ツヴィングリは後に壮絶な最後を遂げることになった。そしてこの年の帝国議会の「ルター派(ルーテル教会)も認めなくもないが、カトリック教会も保全する」という布告に、ルター派諸侯が抗議文を送りつけたとき、ルター派はむろん新教全体を「プロテスタント(講義する者)」と呼ぶ伝統が生まれたという。1530年にはアウグスブルクの帝国議会が開催され、皇帝カール5世はプロテスタント諸侯との和解を模索、ルターのお仲間のメランヒトンが「アウグスブルク信仰告白」というルター派の信仰宣言を皇帝に提出すると、ルター派諸侯は翌年シュマルカルデン同盟を結んで、反皇帝の態度を表わす。この同盟軍は後46年から皇帝に宣戦布告してシュマルカルデン戦争が勃発したが、カール5世は何とかこれを打ち倒し、しかしカトリック教会の強制はさらなる反乱を招くと見て取って、仕方がないから1555年にアウグスブルクの和議を結んで、諸侯や都市の決定に基づくルター派の許容を認め、でもカルヴァン思想に基づく新教は駄目よと決定した。その頃には、とっくの昔にルター派勢力はデンマーク、スウェーデン、ノルウェーなど北方の国々にも伝播し、勢力を拡大していたが、張本人のルターの方は、翻訳と著作を続けに続けて1546年にお亡くなりた。この一連の騒動が、以前から燻っていたカトリック内の改革を目指す運動に引火して、トレント公会議とカトリック宗教刷新(さっしん)運動による巻き返しが図られることは、次の章で見ることにしよう。

ルター派の音楽

 ジョスカン・デ・プレを「彼だけが音符を支配することが出来た」と讃え、ルートヴィヒ・ゼンフルに「預言者は音楽以外の芸術は使わなかったのです」と手紙で書き送るほど音楽に敬意を持っていたルターは、音楽の持つ教育し精神を鍛える力を信じ、同時に決裂後でさえ、カトリック教会の仕来りやラテン語伝統の良いところは取り入れるべきだと考えているような、柔軟剤入りのふんわり仕上げだった。神学上の観点から典礼の言葉を換える以外は、礼拝にラテン語を残すことに否定的でない彼のおかげで、ルター派教会では、礼拝にラテン語をかなり使用し続けると同時に、カトリックの伝統的な典礼も多く残すことになった。そんなわけで、単旋聖歌も多声音楽も含めてカトリックの音楽が断絶せずに取り込まれ、これらは本来のラテン語歌詞のままで使用されるほか、歌詞をドイツ語に訳したり、ドイツ語の新しい詞を付け「(ラ)コントラファクトゥム」(要するに替え歌)として第2の生を享受する事も出来た。こうしてラテン語典礼と、西洋音楽史を支えてきた多声音楽は生き残ったが、一方でルターが1526年に出版した「ドイツ・ミサ」(ドイツ語によるミサ)という遣り口が現われ、またコラールという言葉がクローズアップされてきた。

ルター派のコラール

 ミサに際して会衆が歌う賛美歌が豊富にあれば信仰も高まると考えたルターは、ヴィッテンベルクで自ら賛美歌を作ったり、仲間に作曲させて、単旋律の賛美歌を歌わせていた。このルター派の賛美歌はやがてコラールと呼ばれるようになるが、これはキルヒェンリート(教会の歌)とも呼ばれ、後にはもっぱら多声化された姿でお馴染みになっていくことになる。
 ルターは、1524年自らを匿(かくま)ってくれたザクセン選帝候フリードリヒの宮廷カペッラの歌手だったヨハン・ヴァルター(1496-1570)の協力を得て、単旋律のヴィッテンベルク賛美歌を元に多声曲を作曲して貰い、ついでにラテン語のミサ曲も5つばかり作曲していただき、まとめて「賛美歌集」として出版。これを教会で歌い、若者の宗教的教育のための音楽としたが、これがヴァルター編纂による「コラール集」と呼ばれることになった。さらにヴィッテンベルクではその聖歌を聖歌隊が多声部分を歌うと、別の節を単旋律で会衆が歌う「アルテルナーティム」の習慣が登場し、ルター派教会に広まっていくことになった。さらにラテン語教養を大いに認めラテン語伝統のある地域ではラテン語による聖歌伝統を継続させ、一方ラテン語の分からない者達のためにドイツ語による礼拝を導く彼の思想は、既存のラテン語曲をドイツ語に練り直した宗教曲を生み出した。
 特にルターの協力者として数多くのルターの著作物やルター派理論書だけでなく、多くの曲集を出版したゲオルク・ラウ(1488-1548)が活動を開始する頃には、コラールの多声曲は音楽史の一つのジャンルとして登場するまでに成長していたのである。

ラテン語のドイツ語訳

 教科書には、カトリックの宗教曲である「人々の贖(あがな)い主よ、来てください(ラ)ヴェーニ・レデンプトル・ジェンツィウム」が「異邦人の救い主よ、来てください」変えられ、セクエンツィア「過ぎ越の生け贄に賛美を捧げよう(ラ)ヴィクティメ・パスカーリ・ラウデス」が「キリストは死の絆(きずな)につかれたが」となった事などが記入されているが、ラテン語歌詞をドイツ語に変更する方法は会衆理解を助け、会衆の合唱を容易にするために行なわれた。このような楽曲は聖歌隊が多声部分をラテン語で歌うと、会衆はドイツ語の単旋律で続けるなど、ドイツ語ラテン語が無頓着に混入したりしていた。さらに1600年以降会衆の歌にはオルガンが全声部を一緒に弾いてあげる伝統が生まれ、だんだんバッハの時代に近づいていくわけだ。

コントラファクトゥム

 さらに既存の旋律に宗教的な歌詞を付けた曲達が登場し、これはコントラファクトゥムと呼ばれ、教科書ではイーザークの「さよならインスブルック」が「この生ける世界よ、私は貴方にさようならの挨拶をしなければならないのです。」になったり、バッハがハスラーのリート「私の心は千々に乱れ」を「私の心は憧れに満ちて」に変え、さらに「ああ、傷つき血にまみれた貴方の頭よ」に仕立て上げた例が載っている。

ルターの作曲など

 もちろん新たに作曲されたコラールも有り、「神は我が砦」はルター自身が詩編46を元に作曲したものだとされているし、「主は死の縄目につかれたり」は作詞作曲共にマルティン・ルターで、武道館ライブも夢じゃないほどだ???。さらに「高い空から私は呼びかけました」は民謡「遠い国から私は来ました」に由来するそうで、コラールの作曲選定態度は実にカトリックなどのすぐれた音楽遺産を継承すると同時に、民衆を意識し名曲の旋律を大事にするというすぐれた方針が取られていた。

コラール多声曲(教科書より)

・すでにルターの協力者ヨハン・ヴァルター(1496-1570)が1524年に38曲のコラール編曲とラテン語モテートゥスを出版し、ルター派の音楽出版に大きく関わるゲオルク・ラウ(1488-1548)は1544年に多声コラールとモテートゥスの重要曲集を出版。ここにはルートヴィヒ・ゼンフル、トーマス・シュトルツァー(c1475-1526)、ベネディクトゥス・ドゥツィス(c1490-1548)、ジクストゥス・ディートリヒ(c1490-1548)、アルノルト・フォン・ブルック(c1470-1554)、フランドル人のループス・ヘリンク(c1495-1541)を含むすべての指導的作曲家の曲が収められていたそうだ。
・世紀後半にはカンツィオナール型、つまり最上声主旋律和弦的単純リズムが多くなり、ルーカス・オジアンダー(1534-1604)はカンツィオナール型の最初の曲集を1586年に出版、17世紀初頭にはこの様式の代表選手が登場。ハンス・レーオ・ハスラー(1564-1612)、ミヒャエル・プレトーリウス(1571-1621)の「シオンのムーサ達」、ヨハン・ヘルマン・シャイン(1586-1630)の「ライプツィヒのカンツィオニーレ」がある。

コラール・モテット(教科書より)

・世紀が下ると、コラール旋律を自由に扱うようになったため教科書ではコラール・モテットと定義している。これにはハスラー、ヨハネス・エカルト(1553-1611)、レーオンハルト・レヒナー(c1553-1606)、プレトーリウスらが活躍したそうだ。

2005/11/22

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