8-4章 スペインとヴェネツィア

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スペイン、フェリペ2世(1527-在位56-98)

 スペイン国王カルロス1世にして神聖ローマ帝国カール5世。彼とポルトガル女王イサベルの息子としてサッコ・ディ・ローマの年に誕生したフェリペは、15歳の時に結婚したら妻がすぐにお亡くなりて、実質スペイン国政を担当しながら父の命令で1555年に年増のイングランド女王メアリーと結婚してイングランドで燻っていた。しかし翌年1556年に親父が引退すると言い出して、国王を飛び出してしまったので、フェリペはたちまちスペインに戻って国王フェリペ2世として就任することになった。彼はこれによってスペイン本土だけでなく、アメリカ植民地、ミラーノ・ナポリ・シチリア・ネーデルラントなどの領土を治めるヨーロッパ1の大王となった。しかし、この際オーストリアハプスブルク家と神聖ローマ帝国は、カール5世の弟であるフェルディナンド1世が継承し、東西ハプスブルク家は互いに2つの系譜に分割されつつ、申し合わせてフランスを挟んで脅かすことになる。ところが、このお父様ったら莫大な国庫借金も息子の肩に置いたので、スペイン王宮は翌年57年に国庫支払い停止宣言(バンカロータ)を出して、債権者を恐怖のどん底に叩き落とすと、この方法が癖になったか、フェリペ2世存命中に合計4回も支払い停止宣言が出されることになった。1561年に宮廷をマドリードに定め、郊外にエル・エスコリアル宮殿を建築させたが、1584年には宮殿が完成、ヴェルサイユ宮殿以前のヨーロッパ随一の宮殿として名声を欲しいままにした。このエル・エスコリアルは実際は宮殿と修道院が合わさったもので、トレドという建築士が開始して助手のフアン・デ・エレラ(c1530-1597)によって完成されたが、ここは歴代国王の霊廟もあり、また付属図書館はヨーロッパ有数の蔵書を誇っていた。芸術家としては例えばスペインに来たばかりのギリシア人、エル・グレコ(1541-1614)(本名ドメニコス・テオトコプーロス、「エル・グレコ」はスペイン語の「ギリシア人」)の大作祭壇画『聖マウリティウスの殉教』は1580年頃から製作されているし、グレコが余りの出来に国王に「俺の傑作を見たまえ」と気さくに声を掛けたとされる油彩画「イエスの御名の礼拝」などもここに収められている。
 国内政治に関しては各地に副王を置いて中央に帰属させ中央集権を強化させ、大量の書類による宮殿内からの統治を行なったため、フェリペ2世は「書類王」のあだ名が付いた。
 1559年にはカトー・カンブレジ条約でフランスのイタリア権益を放棄させ、ハプスブルク家のイタリア優位を確定さたが、カトリックに情熱を燃やす王家は同年1559年焚書目録を作成し、後にもフランスでユグノー戦争が起きるとカトリックを支持した。異端審問所にも見られるカトリックへの情熱は、例えばイエズス会の旗手であるスペイン名門貴族のイグナティウス・デ・ロヨラ(c1491-1556)の生涯にも見ることが出来る。彼は1521年にジョスカンに打たれ、病床生活中に聖人伝を読み始めたら宗教的に目ざめてしまった人物で、パリ大学在学中にフランシスコ・シャビエル(1506-52)らの同士と知り合い、後に教皇から「イエズス会」を発足承認してもらったので、それ以来カトリックの切り込み隊長として大いに活躍したのだった。
 1571年には異教の悪者としてヨーロッパ世界を脅かすオスマントルコ帝国の海軍を、自軍の無敵艦隊を中心にした連合軍によって、レパントの海戦で見事に叩きのめした。なおこの海戦にはスペインの没落下級貴族(イダルゴ)のなれの果てを描いた「才気溢れるイダルゴ、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(1604)でお馴染みの、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(1547-1616)も参加していて、左腕が不自由になってしまったが、その後も海軍と関わりイングランドに無敵艦隊が破れたアルマダの海戦で軍隊から失職への道を歩んだりしている。
 さらに1580年にはポルトガルを併合して、ポルトガル国王を兼任するなど版図が拡大するが、一方ネーデルラントでは1568年に反乱が勃発して以来独立戦争が続き、これはまあ1579年にネーデルラント南部(今日のベルギー付近)を再び引き戻して、以後もしばらく優位に戦闘を進めるが、この間にアラゴン地方などが反乱を起こすわ、1588年に無敵艦隊アルマダがイングランド海軍に敗北はするわ、最終的に北部ネーデルラントはオランダとしてスペインから独立することになった。
 また皇太子のドン=カルロスが67年に発狂しながら内乱を引き起こして翌年御亡くなったり、1584-5年に日本のキリシタン大名から派遣された伊東マンショ以下の少年天正遣欧使節がローマの教皇と共に、スペイン国王フェリペ2世に謁見したり、フィリピンが彼の名称からスペイン植民地フィリピンと命名されたり、他にも様々あるから、興味のある人は調べてみて下さい。

フェリペ2世時代の作曲家達

 さて、15世紀後期から16世紀前半は他の地域と同様フランス・フランドル学派の多声音楽の影響下にあり、ゴンベール、マンシクール、クレキヨンなどがこの地で仕事を行なう一方で、スペイン人のクリストバル・デ・モラーレス(c1500-1553)やアントーニオ・デ・カベソン(1510-1566)なども登場してくるのは前に見た。そして彼らの後を継いで丁度カトリック宗教改革の時期に、宗教曲ばかり大量に作曲した、カトリックの申し子こそが次に挙げるビクトリアなのだ。では、その生涯を略歴して置きましょう。

トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611)

 スペインのアビラという都市に生まれたヴィクトリアは、クリストバル・デ・モラーレス(c1500-1553)が活躍したこともある当地の大聖堂の少年聖歌隊として成長し、スペインを代表するオルガニストであるアントーニオ・デ・カベソン(1510-1566)が大聖堂のオルガンを演奏するのを聞いたこともあるそうで、当地のイエズス会教育機関から送り出されて、ローマのコレギウム・ジェルマニクムでさらなる研鑽を積んだ。そのうち1565、66年にここに就任したパレストリーナから指導を受けたのではないかと言われ、69年からローマにある教会に勤めつつ、71年からコレギウム・ジェルマニクムの教師として、さらに73年に楽長として、今度は教える立場に立ってみた。その間72年には最初の「モテートゥス集」も出版し、4声のモテートゥス「おお、大いなる神秘」が有名なのだと今谷先生説明しているが、驚愕の素朴派絵画で知る人ぞ知る4声モテートゥス「汝の足は何と美しいことか(クァム・プルクリ・スント)」も忘れられない。その後聖職者となると、ジェルマニクムの職を辞しフィリッポ・ネーリのオラトリオ会などと関わりながら、教会司祭の職を果たしつつ、出版も行なうという。83年の「ミサ曲集第2巻」はスペイン国王フェリペ2世に献呈され、傑作揃いの曲集には先ほどの足に基づく「ミサ曲汝の足はー」や、4声の「レクイエム」が収められた。さらに85年にはCDをよく見かける「聖週間聖務曲集」が出版され、その中にはレクツィオ「エレミアの哀歌」も作曲され、しかも他の作曲家とは異なりレクツィオと共にその日の聖務日課で使用されるレスポンソリウムにも曲を付けているところがユニークな例になっているそうだ。この聖務曲集には「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」も収められ、バッハの双璧をなす受難曲より先に際だってしまった。
 やがて祖国で聖職者として過ごしたい望みが叶い、マドリード王宮付近のフェリペ2世の妹マリアが生活するラス・デスカルサス・レアレス修道院という所で、死ぬまで聖職者と音楽家の活動を行なってお亡くなりたが、1605年にマリアの詩を悼(いた)んで作曲出版された「死者のための聖務曲集」だけ挙げておこう。6声の「レクイエム」とその他が収められている。
 また彼のほかに、教科書では同時代のスペイン人作曲家としてフランシスコ・ゲルレーロ(1528-99)と、ファン・プホール(c1573-1626)らが挙げられていた。

ヴェネツィア略歴

 ゲルマン人が暴れ回ったりするのでアドリア海に浮かぶ中途半端な湿地帯に逃れたラテン人が、そのまま住み着き、ビザンツ帝国支配下から697年に初代総督を選出して独自の共和制統治を開始した。しかし今度はフランク王国が兵を差し向けてきたので、とうとう今日のヴェネツィアの中心である島にまで非難して、次第に貿易都市へと発展していった。828年には、福音書記者マルコの遺骸をエジプトのアレキサンドリアから運び込んで、守護聖人とすると、以後共和国の宗教的中心地サン・マルコ大聖堂はヴェネツィアに取って最重要の施設となっていく。以後はイスラーム圏とも貿易を行ないつつ、ジェノヴァなどと覇権を争い、十字軍の時にはビザンツ帝国を攻略してラテン帝国を建国するのに重要な役割を担うなど、海上貿易の重要都市として発展した。

ルネサンス期のヴェネツィア

 1501年にオッタヴィアーノ・デ・ペトルッチが楽譜出版を開始した頃から、ヴェネツィアは音楽都市として急速に発展を開始した。音楽だけではない、ティチアーノやティントレットの絵画芸術など種々の文化活動が、貿易活動で蓄積した富のはけ口として、他のイタリア都市に遅れて隆盛を極めたのだ。楽譜印刷に付いても、後にピエール・アテニャンの1度刷り技法が逆輸入されたこともあり、およそバッハが活躍する頃まで、長らくヨーロッパ有数の印刷業の中心地で有り続け、ペトルッチに続きガルダーノやスコットなどの印刷業がルネサンスからバロックに掛けての時代を謳歌することになった。海によってヨーロッパ本土からわずか切り離され、東洋を含む多くの商人が出入りし、独自の様相を呈するヴェネツィアは、カトリックの典礼歴や宗教儀式をほどよく都市市民のヴェネツィア的祝祭に変え、共和国のトップに立つ総督と政府が典礼歴などに合わせて町中を練り歩く行列儀式が行なわれていた。特にレパントの海戦(1571年)以降、その勝利祝いを兼ねた聖ジュスティーナの祝日などは、宗教と世俗が間違ってご結婚をなさったかと疑うくらい大根チェルトを満喫した。
 一方で、市民達はスクオーラ(信徒会)という宗教と共同社会を共有するグループにそれぞれ参加するようになっていく。これはイタリア全土で行なわれていたものだが、特にヴェネツィアではそのようなスクオーラのトップに君臨する幾つかの「スクオーラ・グランデ」が壮大な規模と資金力を持つに至り、集会所の建設、室内修飾や絵画への需要で美術をサポートすると共に、音楽が重要な意味を持つようになり、歌手が雇われ、また楽器奏者が雇われるようになっていった。また16世紀以降は次第に都市市民達が楽器を一家に一台置くのがステータスの伝統が開始し、マドリガーレの歌声響く貴族館ならずとも、音楽史上の音楽に接する機会が増え、出版業が大いに繁栄していく。また15世紀半ば以来サン・マルコ大聖堂だけで許されることになった独自の典礼と共に、音楽上サン・マルコ大聖堂のカペッラにヴェネツィア楽派と呼びたくなるような、すぐれた音楽家の一群が登場してくるが、それはサッコ・ディ・ローマの年1527年に、アードリアーン・ウィラールトが楽長に就任して以来、開始したとされている。と云うわけで、彼の生涯を軽く眺めてみる流れだ。

アードリアーン・ウィラールト(c1490-1562)

 ブリュッヘかどこかのフランドラー(フランドル野郎)だったウィラールトは、法学を学ぶため出かけたパリで音楽家になるべく決心して、宮廷礼拝堂で活躍していた作曲家のジャン・ムートンに学んだのだと、お弟子のジョゼッフォ・ザルリーノ(ツァルリーノ、「ザ・ルーリーの」は間違い)が述べているから、もしかしたらまっとうな職を歩ませる父の意見に背いて音楽を目指す、ドラマでもあったかも知れない。
 1515年にローマに向かえば、そこでまたしても逸話が残されてしまった。自らの作曲したモテートゥスがジョスカンの曲として教皇庁礼拝堂聖歌隊で歌われていたので、「俺だよ、俺だよ、俺の曲だよ!」と調子に乗って訂正したら、2度と歌うものかと足蹴にされたが、ジョスカンと並ぶことが出来た満足に、大喜びで飲み屋をはしごしたとかしないとか。
 その年の内にフェラーラ公イッポリート・デステ1世に仕え、彼に随行して各地を廻りながら職を全うし、20年にフェラーラ公がアルフォンソ・デステに替わっても、引き続きフェラーラで活躍したが、25年にはミラーノに居るイッポリート・デステ2世に雇用されたようだ。そしてローマが暴徒化した神聖ローマ帝国軍によってサッコ・ディ・ローマ(ローマ略奪)に見舞われた1527年に、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂聖歌隊の楽長として迎えられ、以後亡くなる1562年までこの地位にあり、当地の音楽を栄光の時代へ離陸させると共に、数多くの弟子達を教え、ペトルッチの楽譜出版の熱気と共に、ルネサンス音楽の発信地としての栄光をヴェネツィアに与えることになった。
 その弟子の中には、先に出てきたジョゼッフォ・ザルリーノ(1517-90)や、チプリアーノ・デ・ローレ(1516-65)、ニコーラ・ヴィチェンティーノ(1511-c76)、アンドレーア・ガブリエーリ(c1510-1586)とその甥ジョヴァンニ・ガブリエーリ、フランチェスコ・ダッラ・ヴィオラ、コンタンツォ・ポルタ(c1528-1601)らが居るし、大量に残された作曲では、8曲のミサ曲や、150曲以上のモテット、そして世俗歌曲として60曲ぐらいのシャンソンに、70曲以上のイタリア語マドリガーレなどがあり、器楽曲リチェルカーレも残されている。

コーリ・スペツァーティ(分割合唱)

・かつて、サン・マルコ大聖堂の2つのオルガン桟敷に2つの聖歌隊を分割して歌いまくっている内に始まったとか、ウィラールトが実質上の生みの親で差し支えがないと讃えられていたが、実際は内陸でもっと早くから存在し、他の地域のために書かれた分割合唱曲などもあり、もっと広い範囲で認知され、15世紀中にはすでに知られていたのかも知れないそうだ。しかし、ヴェネツィアでは拡大された特別な典礼のためにこの技法がある種ブームとなって、16世紀後半の沢山の分割合唱の楽譜を残すことになった。これはつまり、4声や5声の聖歌隊のグループを2つ配置して、交互に歌い、応答し合い、また共に歌い、様々な効果を持ってドラマチックに宗教曲を全うするための、壮大な必殺技のようなものである。

教科書より彼の作曲法について

・彼は16世紀に盛んになる詞と音楽を結び付けようとする作曲法の先駆者であり、同時に半音階とリズムの実験を行なった大作曲家なのだそうだ。
・宗教曲では、詞が音楽形式のすべてを規定していて、ラテン語発音の強勢に細心の注意を払うことに固執した最初の作曲家の一人。歌詞に則(のっと)って一つの詞や思想を表わす部分には休符を挟まないし、まとまりが完結するまでは終止を置かない。さらに詞の重要な切れ目以外では完全終止を(長6が完全8に、対して低音が4度上行か5度下降)回避して、終止感の少ない場所では、上声が長2度上行、対して下声が半音下降するフリジア終止などを使用する。
・弟子のザルリーノが「諸声部が完全な終止に導かれるような印象を与えながら、異なる方向に転じる」と述べるように、繋留予備によって終止を回避して一昔前に良くあった一定間隔の完全休止点を不要にし、同時にゴンベールのようにとりとめもなくなることを防ぐ。
・ムジカ・フィクタによって土台を揺るがされつつあった旋法性をいかに保つかが作曲家達の問題だったが、その旋法性とは、キリスト教音楽の要であると同時に、古典が持っていた情感効果を再現する道だった。この意味でウィラールトほど、旋法の本質を捕らえる事に成功した者はほとんどいなかった。と教科書は褒めちぎって終わっている。

その後

 彼の後、1年ほど北方人のチプリアーノ・デ・ローレが楽長を引き継ぎ、ウィラールトの弟子ジョゼッフォ・ザルリーノ(ザ・ルーリーの)が就任、1613年に「いいさ本でも読みながら」と呟いたモンテヴェルディが就任するまでヴェネツィアルネサンス音楽の繁栄を極めることになる。オルガン奏者のクラウディオ・メールロから始まって、オルガン奏者兼作曲家による声楽器楽曲の生産もアンドレーア・ガブリエーリ、甥のジョヴァンニ・ガブリエーリというラッススの居るミュンヘンに滞在した2人が活躍し、モンテヴェルディが近づく頃には、次第にバロックな心持ちがしてくるのだった。目出度し目出度し。

2005/11/30

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