縄文時代その1、縄文時代の総括

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縄文時代(1万3千年前頃から2300年前)

 氷期の終焉と温暖化、海面上昇が進んだ。特に1万年前頃に向けて急激な上昇をとげた気温は、ついに現代の気温にまで到達した。この上昇はさらに継続し、もっとも温暖化が進んだ6000年前頃には、今日より1度近く(あるいは2度近く)高い平均気温だったことが分かっている。丁度この気温のピークに合わせるように、青森県の三内丸山遺跡に見られるような大型の縄文遺跡が東北地方を中心に幾つも登場し、縄文時代の最も栄えた一時代が築かれることになる。この前6000年頃には、今日より海水面が上昇し、関東平野は内側に海面が張り出して、大きく入り組んだ入り江のようだった。この海の進出を縄文海進(じょうもんかいしん)と呼ぶのだが、ピーク時には海岸線が栃木県の南端にまで達したというから驚きだ。この海岸線は満潮時の高潮線と干潮時の低潮線の間にある潮間帯(ちょうかんたい)の貝殻化石分布を調べることに確認され、およそ1万年前から7千年前にかけて急激に気温が上昇していったことが分かる。その後小幅な海岸線の戻しが見られ、またその海岸線に合わせるように、遺跡の跡が多数見つかっているわけだ。

時代区分について(ウィキペディアを参照して)

草創期・・・約13000年前~約10000年前、寒暖繰り返しの激し時期
早期・・・温暖化のピークに向かう6000年前まで
前期・・・6000年前から5000年前
中期・・・5000年前から4000年前
後期・・・再び寒冷化の進行する4000年前頃から3000年前
晩期・・・3000年前以降、弥生時代に変わるまで

 最近の研究では、弥生時代の九州での開始が紀元前9,10世紀までさかのぼる可能性もあり(あくまでも可能性)、弥生と縄文は完全に同時期的にしばらく進行するのかもしれない。

前期

 大ざっぱに前期に入るまでに土器・土偶や、貝塚や定住など縄文時代を象徴するものが登場し、前期にはそれが定着し土器の量が一気に増加する。日本人の人口はある試論では10万人を超えたとされている。

中期

 中期にはいると三内丸山のような大型集落が登場し、ここでは栗などの植物を栽培した可能性も示唆されている。大陸を含めた広域の貿易が行われた後も容易に見いだせ、また土偶の量が増え、抜歯の儀式が始まる。人口はピーク時には30万人ぐらいではないかとされている。

後期

 後期には寒冷化が始まり、人口はやがてピーク時の半分ぐらいに減少するが、文化的に廃れたわけでは無く、特産品として交易を行った可能性のある大型貝塚や、初めての塩の精製技術、漁業技術の発達などによって、交易活動が行われていた。しかし巨大な集落は見られなくなった。謎のストーンサークル群や、修飾品の増加など、祭事や呪術の高まりが、新しい文化を生み出していたのかもしれない。続く3000年前から2300年前にかけて寒冷化が急激に進行し、人口もさらに半分の8万人ぐらいになってしまったともされている。

縄文土器

 縄文時代の名前の由来となった縄文式土器については、非常に様々な種類があるものの、縄目の文様から縄文の名称で呼ばれ始め、いつしか時代名に成り上がった。恐らくまだ大陸と陸続きで、日本がユーラシア大陸の一部で、すなわち島国日本など存在しなかった頃、大陸の土器文化が流入して使用され始めたのかもしれない。土器は貯蔵のためでなく火にかけて調理する道具として利用される。強度補強のために動物の毛などを中に混ぜ込んで、土器の厚さを薄くして、さらに底を丸くするといった工夫が行われ、煮炊きの道具として使用可能になったのだ。このタイプの縄文土器は、したがって余計な修飾など施されていない非常にシンプルなものだ。我々の食事用の器がシンプルであり、観賞用のものは非常に手の込んだ美術品であるように、また形状も用途に合わせて異なるように、当時の土器もまた、縄文土器と括ってしまったのでは身も蓋もなくなるような多様性を持っている。

 器として使用された底の浅い物もあり、木の実や干した貝を長期保存するための深い壺のようなタイプもある。特に高度に修飾された縄文土器は、実用のためではなく、何か祭事のために作成された可能性が高い。例えば縄文中期の火焔土器(かえんどき)と呼ばれるタイプの土器などは、上に炎が沸き立つような装飾土器になっていて、現実的用途のものとは考え難い。祭祀に関連した呪術的な土器があったかも知れないし、例えば今日なら花瓶などのように、半分実用、半分鑑賞工芸的な土器があったのかも知れない。

 縄文土器とは撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけた模様がしばしば見られることから命名され、それが縄文時代という時代名にのし上がったわけだが、実際には縄目の代わりに貝殻文様のある縄文土器もあり、最も実用性の高いものは非修飾的であり、今日の流行のように時代や地域と共に流行を持って、出土する類似形状に変化が見られるそうだ。一応教科書的説明では、窯(かま)を使わない素焼きで低温(600-800℃)で焼かれたため黒褐(こくかつ)色。弥生のものに比べると厚手でもろいとある。

食生活

 すでに森の動物や漁撈(ぎょろう)のための石器は旧石器時代から開発され、石器ナイフのうちでも黒曜石で作られたものは、今日の包丁に匹敵するほどの切れ味を持っていた。縄文時代にはいると、革命的な道具である弓矢が登場し、中小動物の狩猟効率を大幅に高めた。矢先には矢じり(石鏃・せきぞく)が付けられ、旧石器時代の尖頭器(せんとうき)や細石器(さいせっき)などよりも遙かに手の込んだ、石器と木器による夢の共演(なんだそりゃ)を成し遂げている。

 また温暖化後の植生変化により、森にはドングリや栗、ブナ、トチの実など数多くの木の実が採取できた。栗は生でも美味しいらしいが、団栗などはアクが強くてかなわん。そのままでは食文化もあったものじゃない。しかしついに、石器と土器を組み合わせることによって、アクのある実さえも快適な食料に変化させたのである。以前の動物性食料を中心に取る生活が、植物性食料を中心に置く食生活、あるいは同じぐらいの割合での摂取する食生活に変化していった。(ただし北海道では大部分が動物性で占められるなど、大まかな一般論に過ぎない。)

 つまり木の実などはすり石と石皿ですり下ろし、水にさらし、煮炊きをするといった調理法が確立された。あるいは土器を使用した炎の料理人たちが、美食に凌ぎを削っていたのかもしれない。塩の精製は縄文末期からであるが、そんなものを待たなくても、海水を利用すれば、美味しい煮物が作れた気がする。まあこの辺はちょっと調べただけでは分からなかった。他にも野草や木の芽など、食を向上させる飽くなき探求心は、生存欲のなせる技なのか、美食生活に情熱が生まれてしまったのか分かったものではない。

 漁撈(ぎょろう)はもともと、旧石器時代のスンダランド系の人々が得意とする技術だったが、縄文時代に入ると食生活において決定的な一要素になっている。海でからは季節ごとの魚が陸揚げされ、また貝殻も縄文遺跡を代表する貝塚(かいづか)に見られるように、重要な食物になっている。骨から作る道具を「骨角器(こっかくき)」と言うが、骨格器の釣針も作られ始めた。こうして銛(もり)による漁撈だけでなく釣りも行われたのだが、さらに木をくり抜いた丸木船を使って海に乗り出しては、石錘(せきすい)や土錘(どすい)を縄に取り付け、縄網漁法さえ一般化していった。

 弓矢を使い動物を狩り、落とし穴を仕掛ける動物狩りも早期から開始している。銛(もり)や縄を使って海の、さらに川の魚を取り、貝殻を捕り、果実や木の実を採取し、土器に貯蔵し、場合によっては加工保存し、調理して食事をするという生活が、日本中に広まった。貝殻などは素潜りによる採取が行われていたようだ。

 そんなわけで、魚を捕らえ動物を狩り木の実を採取する縄文人は、初めは海岸近くの高台に多く、後になると海岸沿いの平野に多く、竪穴式住居による集落を形成し、海の幸と山の幸、動物と植物を総動員して、一年の食糧確保を成し遂げる、食のエキスパートとなった。この伝統は、季節ごとの旬の食生活に生き甲斐を見いだす、今日の日本人にまで変わることなく継承されている。これによって集落ごとに共同作業を行い暮らしを営む定住生活が開始した。定住といっても、一所にしばらく定住したら、やがて別の場所に移動して、しばらく後に戻るような行動がみられるようだ。

季節カレンダー

 季節ごとに見てみよう。
 にはワラビ(蕨)やゼンマイ(薇)といった若草や木の芽を採取し、海ではハマグリ(蛤)やアサリ(浅蜊・蛤仔)を取る。

 には黒潮に乗って北上するカツオ(鰹)やタイ(鯛)、スズキ(鱸)などの魚が捕らえられる。

 には果実やクリ(栗)、クルミ(胡桃)、ドングリ(団栗)といった木の実、キノコ(茸)といった森の幸、さらに川を上るサケ(鮭)やマス(鱒)まで掴まえて実りのシーズンを楽しんだ。とくに北海道や東北の鮭はこの時期から、すでに非常に重要な魚として大切にされ、これを干物や燻製にして保存することも行われている。その川にはエリと呼ばれる、鮭を捕るための遮(さえぎ)り施設跡すら残されているそうだ。

 はどうしていたのかといえば、シカ(鹿)やイノシシ(猪)を中心して狩猟していた。イノシシは縄文人にとって特別な動物だったらしい。他にもつぶらな瞳のウサギ(兎)や狐などの小動物まで捕らえて、その肉を石焼きや、石蒸しといった調理法で楽しみ、また薫製などにして長期保存した。狩りに活躍した犬っころは、南方系の家畜化された犬の系譜が見られるそうで、この時期人間様の僕として定着し、縄文の集落から時々お墓が見つかるほどだ。人間が犬を食する極悪非道(?)の行為は、弥生時代に犬の墓が見られなくなる頃、本格化するそうである。

 冬の食料とは限らないが、クリやドングリなどの木の実の粉などを焼いて作ったらしいクッキーやパンのような加工食品も残されている。これは保存食として作られたのだろうか。

 他にも季節ごとの海藻や、根っこ類なども食料になり、後にはひょうたん(瓢箪)とかりょくとう(緑豆)という豆、エゴマ(荏・荏胡麻)という油分の多い植物(中世まではここから取る油が植物性油の代表だった)などの栽培も見られ、後の三内丸山での栗栽培が有名だが、栗の木を組織的に増加させることも縄文早期から開始されている。

貝塚と集落

 食料にならなかった貝殻や、動物の骨や、木の実の皮などは、集落付近に設けられた貝塚にまとめて捨てられている。ここからは壊れた土器や、道具なども出土し、生活不要品を集積する場所だったようだが、貝殻の炭酸カルシウム(石灰)が水に溶け土壌を弱アルカリ性(pH8ぐらい、最近ではピーエッチと読む。pondus Hydrogenii、水の素の重さというラテン語を当てはめてドイツで使用された水素イオン濃度記号。)することによって、骨などの保存効率を高めて今日まで残してくれる、遺跡調査上恰好の場所なのだそうだ。日本の土壌は酸性であり有機物の分解速度が早いからである。しかも全国各地の遺跡に見られ、その数も2000にものぼるから、非常に重要な意味合いを持っている。(ただしその半数は関東平野で特に千葉県だそうだ。)民話などでは巨人の食事の跡などと謡われることもある貝塚だが、1877年にアメリカ人エドワード・S・モースが東京都大田区にある大森貝塚を発見して以来、貝塚研究が開始したそうだ。

 一方集落は、血縁の濃い同族同士が、せいぜい20人から30人ぐらいで、大ざっぱに言えば4,5人の家族ごとに、5、6軒の竪穴式住居を気付く小さなものである。住居の基礎となる柱は初めの頃は方形や台形に地面を形どっていたのもが、やがて円形に変わっていく。茅葺きの空気を含んだ材質により(かやぶき、茅とはチガヤ、アシ、ススキなど屋根を葺く(ふく)草の総称。)、冬の寒さを緩和した。もちろん中央に炉を置いて、寒さを凌ぐのである。(炉は初めのうちは存在しなかったらしいが。)ここからは煮炊き用土器が見つからないので、調理は別の場所で行ったという考えもある。夏の快適度についても土を掘り下げ比較的快適という話しもあるが、実際に1週間ぐらい生活してみないと分かったものではない?

石器や他の道具

 石器としては打製石器のほかに、砥石を使用した磨製石器(ませいせっき)の使用が本格化してきたので、磨製石斧(ませいせきふ)を使用して、木を切り倒し住居の柱とした。この石斧は枝と石の形状や幅、重さなどのバランスが驚くほど精巧に仕上げられ、幅が10cmぐらいの木ならばわずか5分で切り倒せるほど、本格的な道具だった。切り倒した木の骨組みも精巧で、茅を敷いて完成した住居は、20年ぐらいは使用できたという。衣服はクズ、アオソ、アカソ、イグサ、ヤマブドウの蔓、樹皮などが使用されたとドコゾに書いてあったが、骨格器からは釣針だけでなく、衣類を縫うための針や、装飾具も作成され、特に女性のおめかしさん状態が、当時から盛んだったらしいことが分かっている。ただし眉毛がへのへのもへじにヘンテコな落書きを加えたり、科学物質のおぞましき匂いを振りまいて、飲んだカップからは呪いのどぎつい口紅がべったりといった今日の妖怪じみた変な生き物は、当時は居なかったに違いない???

 そうとも言い切れない。顔や体に入れ墨をして飾っていたらしいからである。他にも中期以降になると人生の節目節目で歯を抜く抜歯(ばっし)の習慣もあり、また遺体は体を折り曲げる屈葬(くっそう)などで、土葬されている。後期になると体を伸ばして横たえる伸展層(しんてんそう)も登場するようだ。また腹から胸にかけて大きな石を乗せる抱石葬という例も多数見つかっていて、屈葬と合わせて、死者が悪霊として蘇らないようにしたとか、そんなことがあってたまるかとか、議論があるらしい。

 女性を形どった土偶(どぐう)はすでに早期に見られていた。当時の宗教観が自然の森羅万象を崇め恐れ(自然崇拝、ナチュリズム)、呪術的な祈りを持って解消しようとするようなアニミズムに基づくものであったから、何か祭儀的な意味あいがあったのだろう。お守りではないかと思われている土面(どめん)・土版(どばん)なども見つかっている。

2007/06/19

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