弥生時代その3、渡来人と水稲耕作

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渡来系の人々

 福岡空港建設時に今から2300年前頃(紀元前300年頃)の人骨が出土したが、これは縄文人と大きく顔つきが異なっていた。山口県豊北(ほうほく)町土井が浜(どいがはま)遺跡からも、2200年前の遺体が350体も発見されているが、これも空港で出土した顔と同様のタイプだった。しかも遺跡では埋葬された遺体が、すべて北西西の方角を向いていることから、朝鮮半島の先端や中国側から来た人々ではないかと考えられる。また彼らの顔つきを調べると、縄文人とは乖離(かいり)しているが、大陸の同時期の遺跡から見つかる骸骨の顔立ちとは類似点がある。

 あるいは、この時期はちょうど中国が春秋戦国時代だったので、国を逃れ渡来してきた人々が居るのかも知れない。ここが彼らの居住地だとすれば、この遺跡の遺体はすべてが大陸系の渡来人だけから成り立っているようだ。ここの墓地は、ただ土葬されただけの墓と、豊かに埋葬された石棺墓などがある。ここから階級の違いがあったらしいことが分かる。また北九州でよく出土する甕棺墓(かめかんぼ)が無いことから、北九州に渡来した大陸系の人々とは異なる人々であった可能性がある。

 かつてはこのような渡来人が一挙に押し寄せて、どわーっと人口爆発、どばーっと北上して、縄文を押しのけ弥生時代を切り開いたのさ、なんて言われたこともあったが、事実はそんなに簡単ではないらしい。

板付(いたつき)遺跡

 福岡市博多区板付にある板付(いたつき)遺跡から最初期の水田跡が見つかっている。縄文晩期とも弥生早期とも取れるもので、同時に最初期の環濠集落を持っているのだが、ここで出土した土器は弥生時代初期の弥生土器(板付I・II式土器)と共に、縄文時代晩期の縄文土器(夜臼式土器・ゆうすしき)が出土して、無頓着な共存関係にあることから、人と技術の渡来が侵略的なものでは無いように思われる。ここでは大陸から伝わった本来の形の銅鐸(小さい鐘)も出土しているが、内部に舌(ぜつ)があり、鐘として鳴らす楽器であることが分かる。この銅鐸は時代が進むと大陸のものとは大きく異なった祭事用の道具として、後に畿内の方で大量に出土することになるだろう。

 集落は、同時期の佐賀県菜畑遺跡と共に最も古い水田を持つことで知られる。大陸最新の技術は、文化の玄関口である福岡や佐賀などの北九州に腰を下ろしたようだ。水田耕作の道具や技術が大陸から取り込まれると同時に、縄文伝統を混合させるこの遺跡は何を意味しているのだろうか。はたして渡来人が縄文人と溶け込んだのか。それとも渡来系の人々の集住地もあり、渡来系が縄文人に溶け込んだ集住地もあるのだろうか。縄文人とは異なる顔の特徴を持った人々は、この後急速に日本で増加するが、それは大量の渡来人の上陸を裏付けるのだろうか。それとも遺伝子的に優位だったのでこの地で増加し、また混血後も特徴を残しただけで、元々の渡来人はそれほど多くなかったのだろうか。

 どちらの遺跡もかつては紀元前5世紀頃に成立したと考えられていた。しかし板付I・II式土器を調査した最近の研究では、炭素14年代法を暦年較正した値(その説明はといえば・・・・ぐはっ、毒をもられた、皆さんさようなら。)によると、紀元前800年前後にさかのぼるのではないかとの発表が出された。これによって渡来人の渡来の数やその性格がどのようなものであったのか、よくよく考えなければならないシーズンが訪れたのである。

 最近の急速なDNA研究の発達などによって、渡来系弥生人の特徴や稲に長江流域の影響が示唆されているし、ヒト白血球型抗原を示すHLA型(白血球の血液型みたいなものか)を調べると、大陸から日本への渡来が朝鮮半島や、中国中域、台湾のある南方など様々な地域から、何度も行われていることが分かるらしい。さらにミトコンドリアDNAやらY染色体多型やら、調べたら時間が「さようなら」と別れを告げるので、この話しは3日坊主には分からないこととして、目を伏せて、先に進むことにしよう。代わりにお優しい妄想でお茶を濁しておきます。

すっごくお優しい弥生の成立(信頼厳禁)

 すでに縄文時代から九州地方は、大陸との貿易が行われ、九州の縄文人達は、むしろ本州よりも海を通じて渡り合う大陸沿岸にシンパシーを感じていたかもしれない。また大陸側の人々にとっても、島向こうの国といえば、富士山ぽかんとそびえる本州ではなく、第1には九州こそが島向こうの貿易相手だった。(ついで出雲など日本海側の地域が知られていたのだろう。)したがって貿易活動のコロニーであれ、大陸を離れて九州に逃れたのであれ、当初彼らが九州北部に集住するようになったらしい。

 ある試算では縄文時代後期に8万人ほどに落ち込んだ人口が、弥生時代が進むと60万人に達して、それも西日本の人口が圧倒的に多くなる。これも大量の渡来人の到来という説もあったが、遺伝子を調べると弥生が縄文を駆逐するように一方的に増加したのではないことが分かるようだ。(???あやふや。)弥生時代の開始と水稲耕作の到来が紀元前9世紀近くまでさかのぼるのなら、初めの波であった水稲耕作の時期と、人口爆発を引き起こす新しいきっかけが別の時期に起こったのかも知れない。または徐々に進行したのかも知れない。

 やがて2300年前頃になると、九州北部では鈍器で殴られた頭蓋骨や、刃物が刺さったままの骨、首だけ切り離した遺体など、いくさで殺されたらしい骨の跡が急増する。しかも多くが渡来系の人骨であることから、すでに定住していた渡来系の人々の集落の間で、争いが急増した可能性がある。NHKの番組に従って(時にいかさまも辞さないこともあるので心配だが)記述すれば、大阪平野の遺跡からも、やはり2300年前頃、縄文遺跡の中に弥生を特徴付ける水田を持つ遺跡が突然登場する。しかも非常に短い期間で縄文遺跡を上回る弥生遺跡が登場し、急激な人口増加と新しい水田を求めての北上が始まり、平野で水田が出来るところを中心に、どんどん日本列島を駆け抜けていたのかもしれない。だとするならば、弥生の人口の膨張期もこの頃なのかもしれない。遺跡からは大型の石の鏃(やじり)も発見されているので、あるいは縄文人達をいくさで追い払いながら、水田地を確保していったのだろうか。ところが一方で最近縄文伝統を引き継ぐような弥生早期の土器が発見されていたり、非常に不明瞭だ。神戸の新方(しんぽう)遺跡からは3体の石鏃(せきぞく・石のやじり)が打ち込まれた縄文人の人骨が発見されている。

 この肥沃な大阪平野で、渡来系の遺跡の拡大するデータから、この地での急激な人口増加が見て取れる。あるいは後の畿内の下地はここで始まったのだろうか。しかしこれより東の地には水田に適さない森林に閉ざされ、もともと縄文人の80%以上が生活する東方の地。しばらく2つの文化圏に分かれたまま推移し、その間にある種の交易や交流が行われていたという。やがて縄文人達がその先進文化に触れ摂取し、弥生人達を迎え入れる時、水田の北上と共に、弥生の波が本州に行き渡ったのである。

 としばらくNHKの「日本人はるかな旅」にそってお送りしているが、どんなものかしら・・・。今は私、全部調べている時間ございませんから、お茶を濁して。

水稲(すいとう)耕作

 中国は長江中流から下流にかけて、稲作が開始したらしいことは前回に見た。これらの稲作は、あるいは6000年前から5000年前の頃、水田を使用した組織的な水稲(すいとう)耕作に発展した可能性がある。これに合わせて稲の方も、水田に適応した温帯ジャポニカが誕生したという考えもある。(この付近の歴史は断言できないことで満ちあふれているようだ。)この水稲耕作が収穫高を向上させたのか、それとも比較的収穫が安定して確保できたのか、とにかく大陸で急速に広まっていった。ついに3000年前頃には朝鮮半島の南端にまで到達したとされている。この水稲耕作は、かつて朝鮮半島から北九州に伝播したと考えられていたが、最近では稲のDNA調査などから長江下流から直接到来した可能性が高まっている。

水稲耕作

 初期には石器と木器を使用。つまり木鍬(くわ)や木鍬(すき)で耕作を行い、石包丁(いしぼうちょう)や石鎌で収穫した。これらの石器は水稲耕作技術と共に大陸から伝わってきたもので、大陸系磨製石器なんて呼ばれたりする。収穫した後は、木臼(きうす)・竪杵(たてぎね・つくための道具)で稲を脱穀する。収穫後は貯蔵穴(ちょぞうけつ)や高床式倉庫に保存し、土器を使用して炊いた。やがて大陸から金属器が伝わってくると、鉄を使用した農具が登場してくる。

 このような水稲耕作は、初めから多行程を持つ技術として伝来している。区画整理、田植え、草取り、石包丁での穂首狩り(ほくびがり)による収穫という流れにそって、水田生活を土台とした生活スケジュールが生まれた。種まきの時に収穫を願い祝う祭りを行ったり、収穫時に収穫祭を行うなど、農耕祭事が開始。耕作と祭りが人々の生活カレンダーを形作った。

 水田周辺にある集落で、人々はやはり縦穴住居に生活し、穀物の保存は貯蔵穴以外に、高床倉庫(高床式倉庫)が登場。これは湿気やネズミから穀物を守り、柱の途中にはネズミが登れないねずみ返しなども設置された。

佐賀県北部の菜畑(なばたけ)遺跡

 紀元前500年頃(最近の一説では紀元前9世紀頃とも)の遺跡で、福岡県の板付遺跡と共に、最初期の水田の遺跡が見つかっている。炭化米や水田の遺跡と共に、石包丁や鍬・鎌といった道具が出土し、水稲耕作が確認された。板付遺跡と同様、縄文土器や縄文時代を示す遺品が出土し、縄文人が水稲耕作と大陸の新しい文化を取り入れて作った、新型集落ではないかとも考えられている。

 発見された道具などから、水田での耕作は多行程の流れによって行われている。これは水稲技術を持った人々の渡来を思わせる。この遺跡の縄文との結びつきを見ると、渡来系の人が当地に定住したとしても、征服者というよりは、いくさを逃れての定住地探しとか、共通貿易圏での移住のようなものだったのかもしれない。他にも粟(あわ)や麦(むぎ)などの畑作が行われ、豚の骨も出土していることから、豚を飼っていたらしいことが分かっている。

水稲耕作の拡大

 こうして始まった水稲耕作は九州北部に広まっていったが、紀元前3世紀頃になると広く日本列島に広まっていった。とはいっても必ずしも陸を順次北上したのでは無さそうで、この時期東方の縄文系の人々と、西方の弥生系の人々の地域が共存して、そのあいだで交流も行われてらしい。水田を求めて離れた平地への入植や技術輸入があったのだろうか、平地を求めて飛び火のように水田耕作地が登場していったのかも知れない。水田生活による共同作業や人口増加によって、(あるいは支配者の支配力が高まったため?)集落規模が拡大していった。

神奈川県小田原市の中里(なかざと)遺跡

 多い時には人口200人に達したのではないかとされる大規模集落で、関東平野では初めての弥生時代の遺跡。紀元前100年頃の遺跡には、高床式倉庫もあり、弥生的な生活が営まれる一方、縄文式土器の比率が高く、森を切り開く縄文人の技術と弥生人の水田が混合した、協同入植のようなものがあったのかもしれないとされている。

青森県田舎館村(いなかだてむら)にある垂柳(たれやなぎ)遺跡

 ここは弥生土器の出土する弥生時代の遺跡であるが、どうも驚く、紀元前後にはこないな寒い土地にまで、水田の跡が見つかっているのである。これによって北緯41℃という最北の水田が登場したのだが、大陸では朝鮮半島の付け根あたりの前北緯39度線が限界だった。(北海道の遠別町に達したのは1901年だそうだ。)実は弥生時代の稲を調べると、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混ざって出土する。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを共に育てると、わずかに雑種の稲が育ち、その雑種は早稲(わせ)となる。秋と共に寒冷の押し寄せる北方では、これが早く収穫するための頼みの綱となって、北限を引き上げたのかもしれないそうだ。

 ただしこれらの地方で米が主食と言い切れるかどうか。縄文的生活に水稲耕作が加わったような生活だったのかもしれない。いずれ紀元前後に、水稲耕作が東北最北部にまで達した。しかし東北での水稲耕作は西方のようには広まらなかったらしい。縄文時代的な生活に、場合によって水稲耕作がプラスされたようなものかもしれない。

生活と道具など

弥生土器

・1884年、東京都文京区弥生のどこかの貝塚(現在では分からない)で発見されたニュータイプの土器が弥生式土器と命名され、いつしか時代名が弥生になってしまったのがことの発端である。しかしここで発見されたのもは、今日ではむしろ古墳時代に入ると考えられている。

・縄文時代よりも焼き方が進歩した。藁(わら)を被せた上に粘土を敷く事によって、簡単なかまど焼きを演出した。これを覆い焼き(おおいやき)という。焼成(しょうせい、焼いて器を作ること)温度は縄文より高く、色も赤褐色や淡褐色になり、薄手で硬質になった。遠心力を利用するろくろは使用しなかったが、回転板に乗せて形を整えることはあったかもしれない。恐らくこうした技術が渡来人らと共に伝来したようだ。このようなまだ素焼きに近い弥生土器を、後に土師器(はじき)と呼ぶようになった。これは古墳時代前期の埴輪など次の時代にも活躍することになった。

・弥生時代前期には縄文土器と共に使用された例もある。一般的傾向として余計な幾何学などのないシンプルイズベストの精神で、そのかわり縄文以上に機能ごとの種類が増加した。縄文になかったものが使用されると同時に、縄文からあった種類の器は、在来の縄文タイプと、外来の特徴を持つ弥生タイプが共用される例もある。ただし最初期を除けば、修飾の少ない土器文化は北九州などの伝統で、豊かな修飾の弥生土器も沢山登場する。発掘の量は、圧倒的に西日本で出土する。

・貯蔵用の壺型、煮炊き用の甕型(かめがた)、蒸すための甑や、盛り付け用の高坏(たかつき・食物を盛る足つきの器)などがあった。甑(こしき)とは、下に水蒸気を入れる穴があり、上に蓋をして米などを蒸す土器。後の時代には蒸籠(せいろ)が登場することになる。

金属器ー青銅器

・中国では4000年前から開始して、特に殷の中頃から祭儀用など手の込んだものが作られ、やがて2700年前頃には製造が朝鮮半島にまで伝播したようだ。かつてはこの流れを継いで、水稲耕作と共に朝鮮半島から伝来したと言っておけばよかったが、水稲耕作自体が開始の段階では中国の江南省付近から渡来した可能性があるとあっては、改めて考え直さなければいけないのかもしれない。

・青銅器は中国を中心として東アジア一帯で共通の大枠を持ち、その中で各地域の特徴がみられる。中国では武器や祭事用、さらに馬車のための道具などとして使用され、有力者の墓に入れる葬具でもあった。この伝統はやがて北部九州でも行われ、木製の棺に青銅器が一緒に入れられるのである。

・はじめは武器や、弥生時代前期の末頃に渡来した鏡として使用されていたが、鉄より低い温度で作る事ができ、型に入れて簡単に加工できるので、弥生人たちが自ら手がけるようになり、次第に大型化して、同時に現実的でない祭祀道具としての傾向を強めた。作成された当初は、やはり青銅で出来ている10円玉の新品のような輝きを誇っていたそうだ。

・おおよそに銅矛(どうほこ)や銅鉾(どうほこ)(柄の先に槍と刀の合いの子のような両面張り出し武器)・銅戈(どうか)(銅の部分だけ見ると銅鉾みたいだが、こちらは斧みたいに柄に対して直角に取り付けられた)といった武器に基づくものが北九州方面、銅剣が瀬戸内中部から多く、そして巨大化した銅鐸(どうたく)は機内を中心とする幅広い地域に分布している。これは地域ごとの祭事の違いなのか、特産なのか、文化圏が異なるのかは諸説ある。しかし島根県の荒神谷(こうじんだに)遺跡からは、300本以上の銅剣や、銅鉾(どうほこ)、銅戈(どうか)、さらに銅鐸(どうたく)、銅鏡(どうきょう)までも発見されている。近くの加茂岩倉(かもいわくら)遺跡からも大量の銅鐸39個が発見され、この一体が地域を越えた大きな祭儀場か、または流通の要にでもなっていたかのようである。これによって地域の違いを単純に分化できなくなってきたのだ。

金属器ー鉄

・弥生前期が終わる頃、戦国時代(BC403-BC221)と共に本格的に鉄器時代(農具と武器)に突入した中国。やがて周辺へ鉄器が流出していった。中国東北から朝鮮にかけて大量の鉄斧が出土しているが、これは交易品として、貢ぎ物としても使用されたらしい。

・弥生時代早期のうちに日本にももたらされ、主に北部九州で鉄斧や鉄のナイフなど道具の加工のために使われ始めた。やがて後期にはいると西日本全域に広まり、やじりとして、鍬(くわ)の刃先、鋤(すき)の刃先や、稲穂を狩る刃先、など武器や農具としても使用されるようになった。まるで種子島の鉄砲のような、それまでにない威力がカルチャーショックを与えたのかも知れない。

・この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入しており、列島での本格的な製鉄が見られるのは古墳時代後期以降だと考えられる。この鉄は特に朝鮮半島南部が重要な地域を担っており、後々まで倭国が朝鮮半島に干渉するのはそのためでもあった。とにかく中期からの鉄器の使用により、水田耕作などが大きく効率を良くした。

生活

 衣服について。布は、紡錘車(ぼうすいしゃ)という糸紡ぎの簡単な道具によって、麻糸などを紡いで糸を作る。これは煎餅の真ん中に穴が開いたような平たい石や土器の円盤で、これに芯棒を通すと紡錘(つむ)という糸紡ぎの道具になる。糸を縦に緊密に並べ両側に押さえをして、横糸を通していくための原始的な機織り道具が使用された。これも水田耕作などと共に大陸よりもたらされたようだ。衣服は縄文共々、男性は一枚布を袈裟のように巻く袈裟衣(けさい)、女性は半分に折った布の中心に穴を開けて、スッポリと被せ腰縄で縛った貫頭衣(かんとうい)だったらしい。特に九州では蚕を飼育して絹織物も織られてていた。お偉いさんの衣服にされたのだろうか。

 いのししや豚の牙の護符などがあり、木偶(もくぐう)という人の形をした人形は、男女一対で使用したようだ。縄文時代からの土偶については、この時期男女のものが登場している。男女のペアは一組の子孫の霊を表しているのかもしれない。祖先神の信仰が中国から流入した可能性がある。

 

埋葬方法

・体を伸ばす伸展葬(しんてんそう)が一般的になってきた。副葬品(ふくそうひん)を入れたりして手厚く葬る厚葬(こうそう)が行われ、甕棺、木棺、石棺などが使用された。小さな支石を地表近くに埋めてその上に大きな石を乗せた支石墓(しせきぼ)など、朝鮮半島と類似の墓形式は、やはり大陸の影響だろう。さらに墓穴の周りに溝を巡らせる方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)や、後期には西日本に墳丘墓が登場してくる。そのような特定の墓からは、銅剣・銅鉾・勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)などが見つかる。あと、舶載鏡(はくさいきょう)という中国製のものが出土し、集落の有力者が神懸かり的な権力者と見なされていたことが分かる。この墳丘墓は次の時代の古墳に繋がっていくことになった。

・前期には甕棺による屈葬などが多かった九州では、当初から副葬品のある甕棺と無い甕棺が存在し、階級の分化によるものではないかとも考えられている。この甕棺の上の地表上に支石を置いた支石墓(すでに上に記した)も登場している。面白いことに、この支石墓は当時の朝鮮半島でよく作られていたので、大陸からもたらされた遣り方なのだが、埋められた遺体は縄文系の人が多いらしい。土を盛り上げた墳丘墓の小規模のタイプも弥生時代前期から見られる。支石墓と共に大陸から流入したらしい石棺墓(せっかんぼ)は、九州では後に廃れ、中国の瀬戸内海沿岸の特徴となった。他にも近畿などでは木棺墓(もっかんぼ)の特徴があるそうだ。

2007/07/11

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