弥生時代その5、クニと魏志倭人伝

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クニ、すなわち小国家

 質素な一般人の墓と宝飾を納め特に重要に造られた墓の違い、環濠の中にさらに内環濠を設けて異なる居住地を区分けする集落の様子などから、集落内部で権力者が登場したことが分かる。すでに弥生人達が東に平野を求めて進出した時期、縄文人達と争いがあったらしいことが分かっている。また北部九州などでは戦争で亡くなったり、傷を負ったらしい、渡来系の骨格を持つ骨が多数見つかっているため、争い合う、奪い合うという大陸での文明発展により生まれた思想そのものが、日本列島に持ち込まれて、大陸で行っていたように、この地でも争いが行われるようになったらしい。

 時は下り弥生時代後期になると、大型墳丘墓の形が広い地域ごとに特徴を持つようになる。例えば近畿方面では方形周溝墓(方形低墳丘墓)が、出雲から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内海沿岸では巨大化した大型墳丘墓が見られるという違いがあり、これは当時の小国どうしが結びついた連合の範囲だとか、盟主としての王の統治範囲ではないかとも、考えられている。ただし単なる共通文化圏のようなものかもしれない。いずれ弥生時代も後期には、北部九州、出雲、吉備、畿内などに、広い勢力範囲を持つまとまりがそれぞれ誕生しつつあるようだ。

吉野ヶ里遺跡

 吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は1986年からの発掘調査によって発見された、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に広がる、弥生時代の大規模な環濠集落跡である。これを見ながら、弥生後期の姿を概観しようではないか。と狼煙を上げておいて、コンテンツは後で作るからお待ち下さいと、後ずさりしてすたこら逃げる。

倭国大乱

 瀬戸内海沿岸などで、低地平野ではない丘陵地での高地性集落も登場する。これは兵庫県会下山(えげのやま)遺跡などが有名だが、軍事的な意味あいから高地に築かれたとも考えられている。弥生後期には、誕生した小国同士の争いから、倭人大乱があったといわれる。その様子を眺めると同時に、紹介を兼ね、最後に「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」の抜粋紹介版をお贈りしよう。これは何も知らないよりは雰囲気だけでもというレヴェルのお優しい紹介文章であり、決して原文を読み解いたものではないから、心持ちこんなことが書いてあるぐらいに捉えて、読み流してしかるべきである。間違っても参考に使ってはならない。

魏志倭人伝

 倭人の記述は、中国の正史である「三国志」の中にある。「三国志」は魏書、呉書、蜀書の三書全65巻からなる正史で、3世紀後半に西晋の陳寿(ちんじゅ)によって記された。そのうち魏書30巻のうちの最後に周辺国の状況が記されていて、烏丸・鮮卑・東夷伝のうち、東夷伝の中の倭人の部分が、日本では一般に「魏志倭人伝」と俗称されているのだ。これは、夫餘(ふよ)、高句麗(こうくり)、東沃沮(とうよくそ)、邑婁(ゆうろう)、シ歳(わい)、韓(かん)の3種(馬韓、辰韓、弁韓)という順番で、朝鮮半島方面の国々が上げられた後に海を渡った倭人について書かれている。

 もちろん原文は、
「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」
というようにひたすら漢字が連なっている。例えばこの出だしは「倭人が帶方(帶方郡)の東南の大海の中に在る」
というようになるわけだ。

お優しい紹介的な読み物

 「倭人は帯方郡(朝鮮半島が大陸からにょきん出てすぐの西側の突き出し部分に3世紀初頭中国が直轄地として新たに設置した)の東南の大海にあり、山と島によって国や集落をなしている。かつて100以上の国があり、漢の時代には朝廷に謁見(えっけん)を願い出る者もあった。現在は30国である。まず朝鮮半島の北部まで海岸沿いを船で行き、海を渡り対馬國に至る。また海を渡り一大國(一支国の誤りで壱岐このこと)に至る。また海を渡り末盧國(佐賀県松浦半島)にいたる。4千戸があり山海に沿って居住する。魚やアワビを捉える事を好み、海の深い浅いに関わらず、皆沈没して(潜って)これを捉える。次に東南に500里陸を行くと伊都國(いとこく・福岡県糸島半島)に至る。(糸島には例えば三雲遺跡などがあり、各地の土器や修飾品、さらに大量の朝鮮半島の土器などが出土している。3世紀に日本最初期の漢字が刻まれた土器が出土したのもここだ。)ここに千余戸あり、代々王があるが、皆女王国に統属している。帯方郡の使者が往来する時に常に留まる所である。(戸数が少ないこともあり、これは対外貿易・外交用の施設かなにかを指すのか?)さらに東南に100里で奴國(なこく)に至る。2万余戸ある。さらに東に100里で不彌國(ふみこく・福岡県宇美町?)に至る。千余りの家がある。南に20日水行(海を渡らず、海岸線などを船で行くことらしい)すると投馬國(とまこく・つまこく)に至る。5万余戸ある。南に10日水行し1月陸行すると、女王の都である邪馬壹國(やまいちこく?・壹[壱・一]が使用されていたが、後の時代に臺[台]に直されたらしい)に至る。7万余戸がある。

 女王国より北は戸数や道里を簡単に記載できたが、他は遠絶して詳細は分からない。名称だけを列記する。(ここで21国が列記される。)その南に狗奴國(くなこく)があり、王は男である。女王に従わない。帯方郡から女王国まで1200余里である。(邪馬壹國までの8国と、列記された21国に狗奴國を足すと丁度30国になるから、これが女王を盟主と仰ぐ連合の国々を指すのだろうか。しかし狗奴國だけはそれに従わないと?)」

続いて習慣風俗などについて記述されている。

 「男子は大小無く顔と体に刺青をしている。刺青は始め呪術的意味あいがあり、水に潜り魚やハマグリを取る倭の漁人たちも刺青をして大漁を願い水難を避けていたが、後には飾り物とされた。刺青は国ごとに、また身分によっても異なる。その風俗は淫らではない。男子は髪を露出し鉢巻きし、縫われない横幅の布を結んで衣装としている。婦人は髪を束ね、折った布の中央を開けて、頭を通して衣となしている。(貫頭衣のこと。)

 稲、苧(ちょ・からむし・麻の一種で苧麻「ちょま」とも書かれる)、麻を植え、蚕に桑を与えて絹を紡ぎ、布を作っている。その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)が居ない。兵は矛(ほこ)、盾、木弓を用いる。木弓は下が短く上が長い。竹矢に鉄か骨をやじりとする。

 その地は温暖で、冬も夏も生菜を食べる。みな裸足だ。部屋があり父母兄弟は異なるところに眠る。体に朱丹(赤い染料)を塗っているのは、中国で粉を用いるがごとく。食事には高杯(たかつき)を用い、手で食す。」

 などと記述されていき、続けて死者の弔い、真珠やヒスイを産すること、樹木の植生が書かれ、ショウガ、サンショウ、ミョウガなどがあるのに味わう習慣がないこと、さらに骨を焼いて吉凶を占い、火によって割れた裂け目で判断することなどが書かれている。さらに酒が好きなこと、敬意を表するのには柏手(かしわで)を打つこと、長寿と一夫多妻制(一般の人も)が記され、法を犯した場合の対処が書かれる。続けて、

「税を納める倉があり、国ごとに市がある。女王国より北では特に「一大率」(いちだいそつ)を設け諸国を検察している。これは常に伊都国に置かれている。(伊都国は重要な国らしい。)

 その国はもともと男子を王としていたが、7,80年たった後に乱れ、長年争いが絶えなかった。そこで一女子を王とした。名を卑弥呼(姫皇子の意味か)という。鬼道を事としよく衆を惑わす。年齢は長大で夫がいない。弟が政治を助ける。女王となっていらい、見たものは少ない。千人の下女を置き、出入りするのは食事や言葉を運ぶ男子一人だけである。居住地には宮殿、楼閣、城柵があり、(このあたりの記述から佐賀県吉野ヶ里遺跡を指すと考えるひともいる)常に守衛が付いている。

 女王国から東に千余里海を渡ると、また国がある。皆倭の種族である。背丈の小さい人々の住む侏儒國がある。裸國がある。黒齒國(お歯黒の人々の国)がある。船で1年ほどである。倭の地は断絶した海中に浮かぶ島々であり、あるは離れ、あるは連なり、5千余里で周旋出来る。(これらの国々は、中国の伝説上の国々を記述しただけかもしれない。ほとんどおとぎ話的な記述になってしまっているようだ。地理や方角と合わせて、どこまで信憑性に足りるのか甚だ心許ない。)」

中国との関わりについて

 ここからは、私の記述で進めてしまうが、238年(正しくは239年らしい)に女王が帯方郡に死者を使わし、中国の魏(220-265)の天子への朝献を願い出た。これによって落陽(らくよう)にいたり、魏の皇帝の詔書(しょうしょ)を受けた。内容は、親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼に制詔(みことのり)する。すなわち、お前さんは離れたところにありながら、こないなもんを贈ってよこしたのは天晴れなり。汝の忠孝を慈しんで、汝を親魏倭王となし、金印紫綬(きんいんしじゅ・金印と紫の紐)をあずける。他にもこんな優れものをぞくぞく君に贈ってやるぜ。といって、品物が列挙されている。ひと頃、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を巡って大騒になった「銅鏡100枚」とは、この贈り物に含まれている。

 その後、240年に帯方郡からの使いによって、詔書と印綬が倭王(女王ではなく倭王と書かれている)のもとまで届けられ、243年に再び倭王により中国に使いを送ったことなどが書かれている。そして247年、倭の女王卑弥呼と狗奴國の男王卑弥弓呼の不和が高じていくさとなり、帯方郡に報告があったので、これに対し攻め合うことの無いよう文章を、帯方郡から倭に向けて送ったことが記されている。

 続いて卑弥呼は死んだことが書かれているが、上の争いによって死んだのかどうかは不明である。大きな塚を作って沢山の殉葬者が埋められた事、男王を立てたが再び争いが勃発し、13歳であった卑弥呼の一族の娘(?)である壹与(いよ・つまり壱与)[倭人伝以降の各資料では臺与、つまり台与(とよ)と書かれている]を王とした。これによって国内は治まった。倭の使いは帯方郡の使いを送り帰すと共に、洛陽にまで至り朝貢した。(終わり)

おまけ(自分の確認だす)

 行程は距離や方角を間違いとしなければ辻褄が合わなくなる。九州説では距離が遙か南方海上に突き抜けるため短里(たんり)で計算して、かつ順番に記したのではなく、ある拠点を基準にそこからの距離を記したと考える。ただし短里を当てはめるのはこじ付けだという説もあり、だとすると畿内も九州も距離としては手の施しようがないようだ。そんなところに目を付けて、ムー大陸だの、ハワイだのに邪馬台国を持ち込むSF的発想が生まれてくる。

 畿内説を取る場合、邪馬台国に向かう南にを東の間違いであるとする。この場合、本文では海を渡ることと海岸線を水で行くことは明確に区別されているのが気になる。つまり九州から本州に海を渡る記述はどこにもない。しかし幅せいぜい1kmあまり、狭いところでは700mで、目の前に本州が見える関門海峡が、朝鮮半島から日本列島にたどり着く行程のように海を隔てた異国のように捉えられるとは考えにくいし、例えば北急州沿岸から海岸線に沿って船を進めたとしても、関門海峡の通過は海岸線に沿って進行した過程に含まれるのではないかと思われる。したがってこれに関しては、九州説を支持することにはならないだろう。むしろ、この距離と方角に関しては、結果として数々の証拠から邪馬台国が有力視される場所が定まらない限り、永遠に答えのない問いのようなもので、詮索は檻の中の飼い犬のごとく、同じ所をぐるぐるさ迷うだけのような気がする。そんな時はチャールズ・アイヴズの「答えられない問いThe Unanswered Question」(1906)を聞いて寝てしまうことだ。

2007/07/11

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