古墳時代その2、ヤマト政権の誕生

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墳丘墓の時代

 古墳時代直前の墳丘墓は、かなり広範囲の地域ごとにまとまりを持ち、それぞれの地域ごとに特徴を持っている。例えば近畿の方では京都府赤坂今井墳丘墓のように方形盛土のタイプが作られ、墳頂部には複数の遺体が埋葬されている。もちろん北九州の墳丘墓も重要なまとまりを形成している。一方島根県など出雲地方のタイプは、方形の4隅が突き出た形(四隅突出型墳丘墓)をしていて、このような変わった形にもかかわらず、同時期のこの地域の墳丘墓はみな同じ形をしているのだ。墳丘墓から発見される土器も、同じ地域の異なる地方の土器が出土し、周辺の有力者たちが広い範囲から埋葬行事に訪れたことが分かる。

 岡山県から広島県東部に広がる吉備(きび)地方では墳丘墓の形は均一では無いが、代わりに出土する特別な形をした壺(特殊壺)と乗せる台(特殊器台・とくしゅきだい)が共通して出土し、ここにも広域の集団のまとまりを見いだすことが出来る。この特殊な祭儀品は後の円筒埴輪の原型になった。

 つまりこの時代の特徴は、地域ごとに広域に連合というか、ある種のまとまりが形成されているらしいことが分かるのだが、一方でそれらを越えた一つの集団にはなっていなかったことが見えてくるそうだ。

ヤマト政権の誕生か

古墳の登場

 奈良県櫻井市に巻向(まきむく)遺跡という有名な遺跡がある。何となく「ムクムク」した名前だから有名なわけではない、ここには最初期の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)群が発見され、ヤマト政権発祥の地ではないかとされるから有名なのだ。古墳時代と共に倭に登場する大王(おおきみ)を中心とする政治体制を、まだ国家としてのシステムには不十分であるとして、大和(やまと)に成立した政権、つまりヤマト政権(あるいは大和政権・ヤマト王権など)と命名するようだ。大和の地は三輪山(みわやま)の東の低地に広がる地域、今日の奈良県桜井市北部から天理市辺りの地域を指すが、大和=政権中枢という図式から、やがて我が国自体をも大和と呼ぶようになっていった。また、時代が下ると大王(おおきみ)の住む中枢地域を畿内(きない)と呼ぶようになっていくが、もちろん大和の地も畿内に含まれることになる。

 さてこの大和の地にあるホケノ山古墳(3世紀中頃or後半。最近の説では3世紀前半とも)を見てみよう。奈良県桜井市三輪山のふもとに位置し、正しくは古墳直前の墳丘墓であるが、後の前方後円墳に近いものになっている。すなわち後円部分に対して前方が低く不十分であるが、前方後円墳の形になっているのだ。この墳頂部(ふんちょうぶ)からは木棺が見つかっているが、その周囲には木槨(もっかく)で壁を作り、その外側を石で囲っている。続く前期古墳に見られる竪穴式石室のプロトタイプのようである。(したがってホケノ山墳丘墓と呼ぶべきだとする人もいる)

 続いてすぐ近くの箸墓古墳(はしはかこふん)(3世紀後半or4世紀中頃、最近の説では3世紀中ごろとも)を見てみよう。NHK高校講座世界史で小笠原亜里沙が「てるてる坊主」と言ったために、それ以後何度見てもてるてる坊主しか浮かばなくなった人が続出したという、例の前方後円墳の姿になっている。(なんやねんそれ。)

 全長275m(or280m)。本来は10mの幅の内堀があり、その外に包みが、そして更に大きな外堀を持っていた巨大な建造物で、後円部を掘れば何らかの発見がありそうな所だ。しかし残念ながら第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理され、宮内庁に発掘お断りを言い渡されてしまう。しかし外観を見て分かるように、この古墳では前方後円墳の形が完成している。実はちょうど箸墓が作られた頃から、日本で発掘される巨大墓に大きな転機が訪れるのである。

 それまで見られた墓の地域性が消え、代わりに均質的な特徴を持った巨大墓が全国各地で登場するのである。この均質的な特徴を持った墳丘墓のことを、古墳(こふん)とよぶのである。あるいは各地域、各時代の要素を融合させ新しいパターンを生みだし、以後の共通のタイプとして打ち出したのかもしれない。例えば石室を見てみよう。前期竪穴式石室の場合、まず古墳の上から縦穴を掘り割竹型(わりたけがた)木棺を安置すると、亡骸を埋葬し埋葬品をしまい、蓋を閉じた後から石を敷き詰めていく。さらに厳重に岩を乗せて粘土を置くとあら不思議、埋葬された後から見ると、石の石室に納められているではないか、という遣り方で造られていて、これがどの地方の古墳でも蹈襲(とうしゅう)されているのだそうだ。副葬品には舶載鏡(はくさいきょう・中国から船に乗せられてもたらされたもの)や三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう・学者達の殴り合いが続くという伝説の鏡)といった銅鏡、それから円筒埴輪や後には形象埴輪、鉄剣など鉄の武具と共に鉄の農具も出土。これは農耕儀礼を司る有力者という意味があるのだろうか。副葬品の性格は呪術的色彩が濃い。古墳は後に横穴式石室が朝鮮半島から伝わると、墳丘の横から遺体を納める玄室に向けて羨道(せんどう)を設けて埋葬する方法に代わり、これが6-7世紀を中心に造られるようになっていく。こうしておおよそ3世紀後半から7世紀中(あるいは6世紀末)までが古墳時代とされている。古墳の形は一番メジャーな前方後円墳以外にも、円墳、方墳(つまり四角形)、上円下方墳(四角の上に丸が乗っている)などバリエーションがあるが、石室の作り方や埋葬品、そしてバリエーションの定型化など、地域的特性よりも画一性が目に付くお墓に仕上がっている。そして規模の大きなものはことごとく前方後円墳で占められ、それが近畿を中心に分布しているのである。

古墳時代の時代区分

前期・・・3世紀後半から4世紀末
中期・・・4世紀末から5世紀末
後期・・・5世紀末から6世紀末
末期・・・7世紀

 7世紀を後期に含めてしまうか、終末期として分離するか、または続く飛鳥時代に入れるか、という意見がある。

中心としての大和の地

 この古墳の大きさと数の分布を見ると、規模も数量も近畿地方が圧倒的に多く、まさに大和を中心にして広まったことを窺(うかが)わせる。この古墳は3世紀後半から4世紀初頭にかけてさかんに造られ始める。(最近の一説ではもう少し早めかもしれない。)このような共通墓の指令を発するような中心的存在が、突然ひょっこり成立する訳ではないから、古墳が造られるより前に、広範囲の統一、あるいは諸国連合が成立していたに違いないと考えられている。そしてちょうど同じ頃、あれほど弥生時代を代表していた環濠集落の環濠が埋め立てられて、環濠を持った集落は姿を消してしまうのである。吉野ヶ里遺跡にあった後期の大規模環濠も、3世紀前半にはほとんど埋め立てられたらしい。生活の安定と関係するのか、新しい思想によるものか、埋め立てのおふれでも出されたものか、詳細は不明である。その後の集落は一般集落と有力者の館が切り離されると同時に、有力者の館には環濠や柵などによる守備と聖域の確保が見られるようだ。これは集落の中で完結していた支配者が、集落を支配すると共により大きなシステムに組み込まれた有力者に変化したためかもしれない。

諸説

・これが3世紀前半から半ばに遡るとすれば、例の邪馬台国の卑弥呼とヤマト政権が共立していた可能性もある。

・あるいはこの地が邪馬台国であり、箸墓古墳こそが卑弥呼の墓なのだという人もある。

・いやいや待ちなさい君、古事記を呼んだことがないのか、古事記を。あそこに東(ひんがし)の方に向かって神武天皇(じんむてんのう)が東征したのを知らんのか。「我こそは神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)なるぞ」と叫んでしまったのだ、叫んで大和に入ったのだ。だからこの時期に北九州の邪馬台国勢力が東に移ってヤマト政権なのだ。と叫んでいる人もある。

・そっだな馬鹿なこつあっか、大量に出土する中国鏡が古墳時代に劇的に近畿地方を中心に出土するようになるのだ。この後漢時代の画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)を見ろ、近畿で沢山出てくるじゃないか。そして何よりもだ、この時期各地での流通が激しかった土師器(はじき)の器などが、北部九州から近畿にはほとんど移動していないじゃないか。なにが北九州の王朝(邪馬台国)が東に遷都だ、まったく説明が付かないじゃないか。いい加減にしたまえ。と言い返す人もある。

・そんなこんなで現在もケリが付いていない。大和の初期の古墳年代自体が、確定していないからでもある。もし3世紀後半にヤマト政権が登場するなら、卑弥呼の後継であるイヨだかトヨだかと関係するんじゃないかしら、という声も聞こえてくる。

 いずれにせよ大和の地が当時重要地点だったことは間違いない。古墳の登場だけでなく、極めて異例なことに、南九州、出雲、吉備、南関東、北陸と各地の土器が出土するのは、この地の中央ぶりを物語っているのかもしれない。出土する約3割が外から持ち込まれた土器で、中には朝鮮半島のものも含まれるそうだ。日本書紀などの記述も大和を支援するだろうし、この大和の巻向(まきむく)に向けて幅6-8mにも達する大運河が建設された後が発見されている。「纒向大溝」と呼ばれ両岸は矢板と杭で整備され、農業用の灌漑用水か、はたまた物資運搬用の運河で、この巻向の地は運河を建設してから整備された建設都市だったのではないかという説もあるのだ。一方住居跡などがほとんど無く、この地には20以上の古墳があることから、この運河を使用して古墳群を建設する神聖な祭儀領域だったのではないかという説もある。いずれ古墳の存在を持ってヤマト政権が確認できるので、あとは古墳製作年代が捏造されることなく近似値を高めていくことが肝要(かんよう)かもしれない。

鉄を巡る争いの一環か

 弥生時代も早くから知られていた鉄器だが、前期や中期にはまだ石器も大量に使用されていた。それが後期にはいると列島各地で石器が消滅して、鉄の時代に入ったことが分かる。

 ところがどっこい、どこきてほい。(・・・壊れたか。)古墳時代前半に突入しても、日本で鉄を製産した遺跡がまったく見つかってこないのである。これはどうしたことか、今日石油の大量消費国なのに、石油の生産場所がほとんど見つからないようなものかしら。当時製鉄をしたとしても、ごく小規模のものだったらしい。とにかく製鉄遺品が見つからないのだ。

 それでは鉄はどうしていたのか。それは朝鮮半島南部から確保していたのである。魏志倭人伝の俗称で知られる三国志魏志東夷伝の弁辰(べんしん)(弁韓・べんかんのこと)(→ではなく辰韓の所を述べたのか?)の所には、「国は鉄を産し、韓(かん)、矮(わい)、倭(わ)は皆従いてこれを取る」と記されている。つまりヤマト政権が朝鮮半島政策を繰り広げた伽耶(かや)の地だ。朝鮮半島南部は高い製鉄技術を持つ鉄製産の地であり、倭はこれを輸入して利用していたのである。4世紀後半から5世紀にかけての古墳には、日本各地から鉄挺(てってい・鉄の延棒)が沢山出てくるが、これは朝鮮半島東南部からも出土し、どちらも伽耶の鉄である可能性が高い。つまり5世紀に入っても日本の鉄の相当部分が伽耶でまかなわれていたのである。

 ところで弥生後期の鉄製品は圧倒的に北部九州から出土する。これは近畿地方などの少量の鉄器と画然とした差がある。中国の鏡についても弥生時代には九州の甕棺からばかり沢山出土する。それが古墳時代になると劇的に近畿地方を中心に移り変わる。そんなわけで、ある説によると、鉄を握る先進的北部九州と、鉄の安定的な確保を目差す本州側の部族連合の間で争いが勃発し、この時の共同戦線のようなものが後のヤマト政権の原型をなしたのではないかという。

前方後円墳

 古墳は5世紀に入るとさらなる巨大化を見せ、全国への広がりから大王(おおきみ)の時代ともされる。日本最大の古墳、仁徳天皇の陵墓としてお馴染みの大阪府堺市にある大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)では、墳長がおよそ486mもあり、古墳の大きさが権力を象徴するかのような勢いだ。古墳は完成当時には葺石(ふきいし)が敷かれ、円筒埴輪が墓の周囲に並べられていた。この埴輪は弥生時代後期の特徴的な墳丘墓地域の一つであった、吉備地方から始まったともされている。特徴的な土器(特殊壺)とそれを乗せる台(特殊器台)が、円筒埴輪に成長したらしい。さらに後になると人物や家、動物などの形象埴輪や人物埴輪が登場する。人物埴輪には帽子を被ったものがあり、これは当時の正装時の服装だと考えられる。副葬品は時代によって変化するが、3,4世紀には銅鏡や勾玉などが多く、王は政治とともに強く祭祀の代表であったようだが、4,5世紀には軍事的なもの、甲冑や馬冑(ばちゅう)、やじりなどが出土するのは、軍事活動の増大と関連しているのだろうか。司祭としての王の後退であろうか。

 古墳時代も後期にはいると、地方の豪族の古墳は小さくなり、巨大なものはヤマト政権中枢の人間だけが造るようになっていく。そのような古墳は横穴式の石室を持ち、この場合石室に新たな遺体を追葬(ついそう)することも容易だ。しばしば内部や石棺に絵画や彫刻を豊かな色彩で描いた修飾古墳として造られる。また小さな墳が何百規模で集まった群集墳(ぐんしゅうふん)がつくられ、これは有力農民などが古墳の小型版を造ったのだとも考えられている。

 やがて7世紀終わりごろ仏教の影響で火葬の伸展と土葬の後退があり、支配者が薄葬(はくそう)という厚く奉りすぎない墓と埋葬、殉葬の禁止などを奨励し、おまけに権力の象徴が最新トレンドの寺院に移っていったので、すっかり廃れてしまうことになる。(あるいは、大陸を眺めて自らの時代遅れを察知して、急に古墳が「倭国的にいけてない」と思われただけかもしれない?)

三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)

 箸墓古墳など近畿地方を中心に発見された古墳時代前期の鏡であるが、これこそ邪馬台国が中国から授かった鏡に違いないと大騒ぎになって、今日でも最も有名な古墳時代の鏡となっている。記された年号だと239年または240年になるので、卑弥呼の頃だと騒がれたのだ。ところが卑弥呼が貰ったはずの100枚を優に超える枚数が発見され、現在400面以上発見されている。その裏には神獣(神像と霊獣)が掘られ、縁が三角に盛り上がっているのでこの名称がある。ただしもちろん一種類の鋳型によるものではなく、年号の異なるもの、年号のないもの、日本で模造して作ったであろうもの、など様々なタイプがあるのだ。10円玉だってギザギザのある奴と無い奴があるだろう。当時の鏡の由来を完全に把握するなど、途方もない話しではある。それが楽しくてしょうがない奴は学者になれ。苦しくてしょうがない奴は、読み流せ。(・・・誰に話してんだろう。)

 この鏡は中国では発見されていないので、倭のために特別に造ったのだとか、国内で技術者を呼び込んで製造したのだとか、そうじゃない、中国の天子さまが、倭のために特注したのだとか、諸説が競い合っているようだ。また神獣鏡のタイプが長江流域との関係を取りざたされ、呉(222-280)の技術者が来たのではないかという説もある。

もう一つの連合体?

 ちょうど前方後円墳の開始時期頃、東日本では前方後方墳が造られ始め、古墳時代前期もしばらくの間、東日本ではこの形の古墳ばかり造られていたことが分かっている。しかも弥生時代の終わり頃、前方後円墳のプロトタイプであるホケノ山古墳(ホケノ山墳丘墓)のように、前方後方墳に近い墳丘墓がやはり模索されていたらしい。この東西の形の違いが単なる地域的特性なのかどうか、現段階では不明瞭だそうだ。一説では東にも大きな連合体があって、大和と連携を取りながら、あるいは争いがあって、ヤマト政権が誕生したともされている。ひょっとすると、この時代は大きく記述を変える時が来るのかも知れない。魏志倭人伝の中に見られる邪馬台国と狗奴国(くなこく)の争いが、西と東の政権を指していたのだという説まで出ている。(もちろん魏志倭人伝を巡るお祭り騒ぎに巻き込まれないためにも、説は説として留めておくべきである。)

2007/07/20

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